成吉思汗実録続編/2
太祖︀太宗は、克狄より出でゝ、沙漠の北に興りたるに、文武の名臣夥しくして、漢︀唐の創業の時にも愈れるは、驚くべき事なり。それらの名臣にて。元史に傳はりて。祕史に名も見えざる人を數へ擧ぐれば、實に十餘人あり。今その人々を蒙古色目漢︀人の三綱に分けて。その仕履の槪略を述べん。考證の必要ある時は、その詳傳を載することもあるべし。
蒙古色目漢︀人の別に付きては、すこし說明を要することあり。陶宗儀の輟耕錄に蒙古七十二種、色目三十一種、漢︀人八種を載せて、蒙古の內には、祕史に見えたるバタチカン巴塔赤罕の子孫皆屬するのみならず、フチン忽神︀卽元史のヒユウジン許兀愼、オンギラダイ瓮吉剌歹卽祕史のオンギラト翁吉喇惕、インギレス永吉列思(か、イキレダイ亦乞列歹か)卽イキレス亦乞咧思、ゴルラス郭兒剌思卽ゴルラス豁嚕剌思、ケレイダイ怯烈歹卽ケレイト客咧亦惕、トベダイ禿別歹卽元史のトベエン土別燕か祕史のトベゲン禿別干か、トリベダイ脫里別歹卽元史のトリブダイ禿立不帶またダリブタイ多禮伯台、タタル塔塔兒 卽元史のタタル達達兒、メリギダイ滅里吉歹卽祕史のメルキト篾兒乞惕、ウロダイ兀羅歹卽元史のウロダイ兀羅帶、バヤウダイ伯要歹〈[#「伯要歹」の「要」は底本では印刷が薄いが実録§120の訳者注に倣い修正]〉卽元史のバヤウ伯牙吾祕史のバヤウト巴牙兀惕、オイダダイ外剌歹卽元史のオイラ斡亦剌祕史のオイラト斡亦喇惕、タタダイ塔塔歹卽元史のタタダイ荅荅帶、タタルダイ塔塔兒歹卽元史のタタリダイ荅荅里帶(この二つは前のタタル塔塔兒に同じきか)、バルクダイ八魯忽歹卽祕史のバルクト巴兒忽惕元史のバラクダイ八剌忽䚟などあり。色目には、ハラル哈剌魯(またカルダイカラル合魯歹匣剌魯)卽カルルウト合兒魯兀惕、キムチヤ欽察卽キブチヤウト乞卜察兀惕、タング唐兀卽タングト唐兀惕、アス阿速卽アスト阿速惕、トバ禿八(またトバダイ禿伯歹)卽トバス禿巴思、カングリ康里(またハンリ夯力)、ウイウウ畏吾兀(ウ兀はル兒の誤)卽ウイウト委兀惕、フイフイ回回卽サルタウル撒兒塔兀兒、ナイマンダイ乃蠻歹卽ナイマン乃蠻、アルクン阿兒渾卽元史のアルクン阿魯渾、サリゲ撒里哥(またチエルゲ徹兒哥)卽祕史のセルケスト薛兒客速惕、オングダイ雍古歹卽オングト汪古惕、ハラギダダイ哈剌吉荅歹卽カラキタト合剌乞塔惕、チエルチヤダイ拙兒察歹卽ヂユルチエト主兒扯惕、カンムル甘木魯卽マルコポーロ馬兒科保羅のカムル喀木勒今のハミ哈密、キシミル乞失迷兒元史のカシユミル迦葉彌兒などあり。グイチ貴赤は善走者︀、トルハ禿魯花は質子にて、軍隊の名なり。姓としては知らず。クリル苦里魯・ラキダイ剌乞歹・チキダイ赤乞歹・ミチス密赤思・クルヂン苦魯丁・トルバダイ禿魯八歹は、考へ得ず。字の誤もあるべし。ホリラ火里剌二つあり。蒙古のゴルラス豁嚕剌思の混れ入りたるに似たり。漢︀人八種は、キダン契丹・カウライ高麗・ヂユチ女直・ヂインダイ竹因歹・チユリコダイ朮里闊歹・ヂウンダイ竹溫歹・ヂイダイ竹亦歹・ボツカイ渤海︀(原注ヂユチ女直同)とあり。キダン契丹はカラキタト合剌乞塔惕、高麗はシヨランガス莎郞合思、ヂユチ女直はヂユルチエト主兒扯惕なり。カラキタト合喇乞塔惕は、チユイ垂河の濱に徒れる西遼のみならず、支那の北方に居るものをも蒙古語にてはカラキタト合喇乞塔惕と云へり。蒙古語にてカラ合喇を附けずにキタト乞塔惕と云ふは、キダン契丹に非ずして、支那人の事なり。カラキタトヂユルチエト合喇乞塔惕主兒扯惕は、色目漢︀人の兩方に入りたるは、支那に化せざるものを色目とし、支那に化したるものを漢︀人としたるならん。ヂインダイ竹因歹・ヂウンダイ竹溫歹・ヂイダイ竹亦歹の三つは、いづれも秘此のヂユイン主因鎭海︀の傳なるヂウン只溫の訛にして、誤りて重複したるに似たり。朮里闊歹は、考へ得ず。祕史に金人卽キタト乞塔惕をヂヤクト札忽惕とも云へば、ヂユリコダイ朮里闊歹卽チユルコダイ朮兒闊歹は、ヂヤルクト札兒忽惕の訛れるには非ずや。蒙古人は、金卽中原の支那人をキタト乞塔惕又はヂヤクト札忽惕と云ふに對し、宋卽江南の支那人をマンツ蠻子と云ひたるに、こゝに見えざるは、脫ちたるならん。渤海︀は、粟末靺鞨の遺種にして、注に「ヂユチ女直同」とあるは、ヂユチ女直の如く支那に化したるものを云へるなるべし。
列傳卷七、チンハイ鎭海︀、ケレイタイ怯烈台氏。許有壬の撰れる神︀道碑に「系出ケレイ怯烈氏。或曰、本田姓、至朔方始氏ケレイ怯烈」。長春の西游記にも田チンハイ鎭海︀と云へり。「初以軍伍長從太祖︀、同飮バンヂユニ班朱尼河水」また「旣破燕、太祖︀命於城中環射四箭、凡四箭所至、園池邸舍之處、悉以賜之。尋拜中書右丞相。己丑、太宗卽位、扈從至西京、攻河中河南均州」とあれども、太宗紀に「三年辛卯秋八月、幸雲中、始立中書省、改侍從官名、云云」とあれば、右丞相の拜命は、「至西京」の下に書くべきなり。又「定宗卽位、以チンハイ鎭海︀爲先朝舊臣、仍拜中書右丞相。薨、年八十四」と事も無げに書きたれども、ラシツト喇失惕に據れば、太宗の皇后トラキナ禿喇奇納攝政して、丞相チンハイ鎭海︀を罷め、定宗卽位して、チンハイ鎭海︀カダク喀荅克を丞相とし、定宗疾ありて、政を二人に委ね、定宗の皇后オグルガイミシ斡古勒該米失攝政の時も、二人は用ひられしが、憲宗卽位の明年誅せられきとあり。
列傳卷七、シヤウナイタイ肖乃台、トベケレイ禿伯怯烈氏。ケレイト客咧亦惕の分部トベゲン禿別干か。太祖︀二十年乙酉の春、史天澤と共に武仙を破りて眞定を取回したる時「將士怒民之反覆、驅萬人出、將屠之。シヤウナイタイ肖乃台曰「金民慕國威信、後我來蘇。此民爲賊所軀脅、有何罪焉。若不勝一朝之忿、非惟自屈其力、且堅他城不降之心」。乃皆釋之」とありて、一萬の民は、シヤウナイタイ肖乃台の爲に助かりたるが如くなれども、史天澤の傳には「シヤウナイダイ笑乃䚟怒、忿民之從賊、驅萬餘人、將殺︀之。[451]天澤曰「彼皆吾民、但爲賊所脅耳。殺︀之何罪」。力爭得釋」とありて、殺︀さんとしたるはシヤウナイタイ肖乃台なり。シヤウナイタイ肖乃台は蒙古、史天澤は漢︀人なれば、寬仁の名は、恐らくは肖乃台のものにあらざるべし。
列傳卷九、アンヂヤル按札兒、トバ拓跋氏。氏族表に「疑卽トベ禿別之轉、借古名譯之」とあれば、シヤウナイタイ肖乃台の同姓なるべし。太祖︀十四年己卯、ムカリ木華黎の前鋒總帥。
列傳卷九、シユチトルカ槊直腯魯華、蒙古ケレイ克烈氏。太祖︀南征の時、ムカリ木華黎の前鋒。その子サギスブカ撒吉思卜華は、太宗二年庚寅眞定五路萬戶史天澤の監軍。サギスブカ撒吉思卜華の弟ミンガンダル明安荅兒は、蒙古漢︀軍萬戶。
列傳卷十一、スゲ速哥、蒙古ケレイ怯烈氏、世傳李唐外族。太宗七年乙未、山西の大ダルハチ達魯花赤。
列傳卷七、ウエル吾也而、サンヂ珊竹氏。太祖︀九年甲戌、北京總管都︀元帥。太宗十三年辛丑、北京東京廣寧蓋州平州泰州開元府七路の征行兵馬都︀元帥。その子ツアリ雪禮は、太宗の時、北京等路のダルハチ達魯花赤。
列傳卷十、シユンヂハイ純只海︀、サンチユタイ散朮台氏。太宗九年丁酉、京兆行省の都︀ダルハチ達魯花赤にて、懷孟に鎭しき。
列傳卷八、チヤウス抄思、ナイマン乃蠻部人、亦號曰ダル荅祿。氏族表に「其國族稱ダル荅祿氏」と云ひて、外にもダルナイマン達魯乃蠻氏の人を引けり。蓋ナイマン乃蠻のブイルクカン不亦嚕黑罕の族をグチユウトナイマン古出兀惕乃蠻と云ひしが如く、タヤンカン塔陽罕の子孫をダルナイマン荅祿乃蠻と云ひしなり。「其先タヤン太陽爲ナイマン乃蠻部主、祖︀クシユル曲書律(グチユルク古出魯克)、父チヤングン敞溫。太祖︀擧兵討不庭、クシユル曲書律失其部落、チヤングン敞溫奔キタン契丹卒。チヤウス抄思尙幼、與其母(カングリ康里氏)間行、來歸太祖︀、奉中宮旨侍宮掖」。その後チヤウス抄思は、屢征伐に從ひ、功を立て、太宗四年壬辰、萬戶となり、隨州を鎭し、後潁州に移り、定宗三年戊甲、四十四歲に卒しきとあり。チヤウス抄思の年に依り逆推するに、生れたるは、太祖︀卽位の前年、グチユルク古出魯克の西遼に奔る三年前なり。その時グチユルク古出魯克に壯年の子あるべしとも思はれざる上に、西遂に奔る前にてはカングリ康里の婦人をチヤングン敞溫の娶るべき由なければ、この傳には何か誤りあらん。
列傳卷十、ユリマス月里麻思、ナイマ乃馬氏。ナイマ乃馬も、ナイマン乃蠻なり。「歲丁丑(太宗九年丁酉)、太宗命與斷事官クドノ忽都︀那(クドク忽都︀忽)同署︀。歲戊戌(太宗十年)、又同アチユルバドル阿朮魯拔都︀兒、充ダルハチ達魯花赤、砂南宿州」。アチユルバドル阿朮魯拔都︀兒は、オロナル斡囉納兒のアチユル阿朮魯なるべけれども、アチユル阿朮魯の傳にはこの事を載せず。かくてユリマス月里麻思は、太宗十三年辛丑宋に使し、脅されたれども屈せず、長沙の飛虎寨に囚はれ、三十六年にして死せり。
列傳卷九、アンムハイ唵木海︀、蒙古バラクダイ八剌忽䚟氏。太祖︀九年甲戌、隨路砲手ダルハチ達魯花赤。憲宗二年壬子、都︀元帥。
列傳卷十、チヤウレイタイチヤウル召烈台抄兀兒。太祖︀の時ダラカン荅剌罕(ダルカン荅兒罕)。
列傳卷十、ココブハ闊闊不花、アンタントトリ按攤脫脫里氏。アルタンタタル阿兒壇塔塔兒にて、タタル塔塔兒の分部ならん。太祖︀十三年戊寅、タンマチ探馬赤五部の前鋒都︀元帥。
列傳卷十、バヤンバドル拜延八都︀魯、蒙古ヂヤラ札剌氏。バドル八都︀魯卽バアトル巴阿禿兒は、太祖︀より賜はれる號なり。世祖︀中統二年、蒙古アウル奧魯官。
列傳卷十一、モンゲサル忙哥撒兒、チヤハヂヤラル察哈札剌兒氏。チヤガンヂヤライル察罕札剌亦兒なり。「曾祖︀チラウンカイチ赤老溫愷赤、祖︀シユア搠阿、父ノハイ那海︀、竝事烈祖︀及太祖︀嗣位、年尙少、所部多叛亡、シユア搠阿獨不去」と云へるは、恐らくは誤あらん。チラウンカイチ赤剌溫愷赤は、實錄一三七頁に見えたるチラウンカイチ赤剌溫孩赤にして、太祖︀のヂユルキン主兒勤を滅せる時、兄グウングア古溫兀阿と共に諸︀子を率ゐて降附したるなれば、シユアノハイ搠阿那海︀の夙く烈祖︀に事へたる事はあるべからず。部衆の叛ける時シユア搠阿の獨留まれることも祕史に見えず。チラウンカイチ赤剌溫孩赤の降附する時率ゐたる子は、トンゲ統格・カシ合失二人にして、シユア搠阿の名見えざれば、シユア搠阿は幼子なるべし。モンゲサル忙哥撒兒は幼時より太宗に事へ、又トルイ拖雷に從ひて、鳳翔を攻め、奇功を立てたり。「定宗陞爲斷事官」とは、定宗の時トルイ拖雷の後王の斷事官と爲れるにて、皇朝の斷事官には非ず。この時諸︀王の分地に皆斷事官ありて、モンゲサル忙哥撒兒は、「剛明能擧職。憲宗在藩邸、深知其人、從征オロス斡羅思・アス阿速・キムチヤ欽察諸︀部、常身先諸︀將。及以所俘寶玉頒諸︀將則退然一無所取。憲宗由是益重之、使治藩邸之分民。間出游獵、則長其軍士、動如紀律。雖太后及諸︀嬪御、小有過失、知無不言。以故邸中人咸敬憚之。廼以爲斷事官之長、其位在三公之上、猶漢︀之大將軍也」。藩邸の斷事官を漢︀の大將軍に比したるは、不倫なり。「旣拜命、出帳殿外、欹槖坐熊席、其僚列坐左右者︀四十人。モンゲサル忙哥撒兒問曰「主上以我長此官。諸︀公其爲我言。當以何道守官」。衆皆默然。又問之。有夏人ホワ和斡居下坐、進曰「夫ヂヤルクチ札魯忽赤之道、猶宰之到羊也。解肩者︀、不使傷其脊。在持平而已」。モンゲサル忙哥撒兒聞之、卽起入帳內。衆不知所爲、皆各ホワ和斡失言。旣入、乃爲帝言ホワ和斡之言善。ホワ和斡由是知名」。この後憲宗を推戴したる始末は、前のエルヂギダイ額勒只吉歹の條に引けり。憲宗旣に立ち、モンゲサル忙哥撒兒は、帝國のヂヤルクチ札兒忽赤なり、叛者︀を捕へてその首謀を悉く誅し、「帝以其奉法不阿、委任益專。有當刑者︀、輒以法刑之、乃入奏、無不報可。癸丑(憲宗三年冬、病酒而卒」。第四子テムルブハ帖木兒不花の子バダシヤ伯荅沙は、成宗以下六朝に歷事し、延祐︀二年中書右丞相、至治中太宗正ヂヤルクチ札魯忽赤、泰定中太保、天曆元年太傅。[453]
列傳卷十、アチユル阿朮魯は蒙古氏とあれども、アチユル阿朮魯の孫ホワイド懷都︀の僂(勿傳卷十八)にオルナタイ斡魯納台氏とあるに據れば、蒙古氏は、蒙古オルナタイ斡魯納台氏と云ふべきを脫したるなり。「太祖︀時、命同飮バンヂユニ班朱尼河之水」。ホワイド懷都︀の傳には「祖︀父アチユル阿朮魯、與太祖︀同、飮黑河水」とあり。ホワイド懷都︀は、世祖︀の時南征して、屢戰功ありき。
列傳卷十、ケケリ怯怯里、オルナ斡耳那氏。太宗の時、千戶。
列傳卷十、チヤウグル紹古兒メリギタイ麥里吉台氏。「事太祖︀、命同飮バンヂユニ班朱尼河之水」。洛磁等路の都︀ダルハチ達魯花赤。
列傳卷十、チヤウル抄兒、ベス別速氏。子チヤウハイ抄海︀、孫ベテ別帖と、祖︀孫三代皆陳に歿し、ベテ別帖の子アビチヤ阿必察も、至元中疾にて軍中に卒しき。
列傳卷十、タブギル塔不己兒、シユルギウ束呂糺氏。太宗の時、招討使、征行萬戶。子トチヤラ脫察剌、孫チユンヒ重喜。チユンヒ重喜は、列傳卷二十に別に傳あり。
列傳卷十、チトル直脫兒、モング蒙古氏。父アチヤル阿察兒は、太祖︀のボルチ博兒赤(バウルチ寶兒赤)。チトル直脫兒は、孫クラチユ忽剌出の傳(列傳卷二十)にチトル赤脫兒とあり。太宗九年丁酉、涿州路のダルハチ達魯花赤。
列傳卷七、チヤガン察罕、タングウミ唐兀烏密氏。ウミ鳥密は、オミ於彌とも書き、李恆の傳に「其先、姓オミ於彌氏。唐末賜姓李、世爲西夏國主」とあり。李恆は、西夏國主の子ウナラ兀納剌城を守りて死したる人の孫なり。恆の子李世安の墓誌を吳澄の撰りたるに「公、西夏ハランオミ賀蘭於彌部人也」とあるに據れば、國亡びたる後住みたる部落の名を姓としたるにて、傳の如く李姓を賜はれる前に稱したるには非ず。故に錢大昕の考異に「西夏之先、本トバ拓跋氏。オミ於彌與トバ拓跋、音不相近。蓋元時國俗之語」と云へり。チヤガン察罕は、太祖︀の時、御帳前の首千戶。太宗十年戊戌、馬步軍[454]都︀元帥。憲宗の時、以都︀元帥兼領尙書省事。チヤガン察罕の兄弟クエケヅ曲也怯祖︀は、太祖︀の時、皇子チヤハタイ察哈台のヂヤルホチ札魯火赤(ヂヤルクチ札兒忽赤)。クエケヅ曲也怯祖︀の孫二人、イリカサ亦力撒合は、世祖︀の朝の直臣、リヂリオイ立智理威は、成宗の朝の能臣。
列傳卷十一、李楨、字榦臣、西夏國族子也。太宗十年戊戌、軍前行中書省の左右司郞中。庚戌(憲宗卽位の前年)襄陽軍馬萬戶。
列傳卷九、シリケンブ昔里鈐部、タング唐兀人、シリ昔里氏。ケンブ鈐部亦云ガンブ甘卜、音相近而互用也。太祖︀の末年西夏征伐に從ひ、太宗の時、定宗・憲宗諸︀王バド拔都︀に從ひ西域を征し、十三年還り、千戶を授かり、尋で斷事官に遷り、定宗元年大名路のダルハチ達魯花赤に進み、憲宗九年に卒し、子アイル愛魯その職を奬げり。王憚の撰れる大名路宣差李公神︀道碑に云く「公諱イリシヤン益里山。其先係シヤダ沙陀貴種、以世故徒酒泉郡之沙州、遂爲沙州人」。李公は、卽シリケンブ昔里鈐部にして、一名をイリシヤン益里山と云へるなり。シヤダ沙陀の種にして姓は李氏なれば、シヤダ沙陀の李國昌の一族にてやあらん。中堂事紀に中統二年大名路ダルハチ達魯花赤アイル愛魯を黜けたることを載せて、「アイル愛魯、河西人シヤウリケンブ小李鈐部之子也。シヤウリ小李譌爲シリ昔里」とあり。小李は、卽李氏にして、シヤダ沙陀の李氏又はタング唐兀の李氏に別たんが爲に小の字を加へたるならん。
列傳卷十、エブガンブ也蒲甘卜、タング唐兀氏。「歲辛巳(太祖︀十六年)、率眾歸太祖︀、隷蒙古軍籍、奉旨同所管河西人、從ムカリ木華黎〈[#「木華黎」は底本では「木華黍」。「黎」(lí)と「黍」(shǔ)は音が大きく異なるので誤植と判断]〉出征、以疾卒、子アンギル昻吉兒襲領其軍」。列傳卷十九アンギル昻吉兒の傳に「アンギル昻吉兒、張掖人、姓エヷ野蒲氏、世爲西夏將家。歲辛巳、父ガンブ甘卜率所部歸太祖︀。以其軍隷蒙古軍籍、仍以ガンブ甘卜爲千戶主之、云云」とありて、ガンブ甘卜の傳よりは却て稍委し。アンギル昻吉兒は、至元中、淮西の宣慰使、廬州の蒙古漢︀軍萬戶府のダルハチ達魯花赤、江浙行省の左丞。
列傳卷八、アンヂニ按竺邇、オング雍古氏。「其先居雲中寒外。父ダコン䵣公〈[#「䵣公」は底本では「𪐵公」。ルビ「ダコン」に倣い修正。以後すべて同じ]〉爲金羣牧使。歲辛未(太祖︀六年)、驅所牧馬來歸、太祖︀命仍其官。アンヂニ按竺邇幼鞠子外祖︀チユヤウカ朮要甲家。訛言爲チヤウカ趙家、因姓趙氏。年十四、隷皇子チヤガタイ察合台部。云云。」つぎに「甲戌、太祖︀西征セムスカン尋思干アリマリ阿里麻里等國、以功爲千戶」とある甲戌は、庚辰などの誤なり。「太祖︀卽位、尊チヤガタイ察合台爲皇兄、以アンヂニ按竺邇爲元帥、戊子鎭刪丹州」。戊子は、太祖︀卽位の前年なれば、こゝにも何か誤あらん。金亡びて後、金蘭定會四州を定め、鞏州を招ぎ降したる時、「皇兄嘉其材勇、賞賚甚厚、賜名バド拔都︀、拜征行大元帥。」子十人ありて、その中チエリ徹理コバウ國寶二人最名を知られ、憲宗の末年、アンヂニ按竺邇老を吿げ、チエリ徹理命ぜられて征行元帥の職を襲げり。チエリ徹理の子ブルカダ步魯合荅の傳(列傳卷十九)、に「ブルカダ步魯合荅、蒙古ホンギラ弘吉剌氏。祖︀アンジユヌ按主奴云云。父チエリ車里云云」とあり。考異に云く「ブルカダ步魯合荅、乃アンヂニ按竺邇之孫、系出オング雍古氏、非ホンギラ宏吉剌氏。オング雍古爲色目之一種、非蒙古史誤」。蓋オング雍古をオンギ雍吉〈[#「雍古」と「雍吉」は底本では逆。ルビに倣い修正]〉と誤り、遂にラ剌を添へ、蒙古を加へたるなり。アンヂユヌ按主奴は卽アンヂニ按竺通、チエリ車里は卽チエリ徹理なり。又コバウ國寶の子趙世延の傳(列傳卷六十七)「其先オング雍古族人、居雲中北邊。曾祖︀ダコン䵣公爲金羣牧使。太祖︀得其所牧馬、ダコン䵣公死之」とあるは、按竺通の傳に「太祖︀命仍其官」と云へると異なり。又國寶の名は、ブルカダ步魯合荅の傳にハツ黑子、世延の傳にハツ黑梓とあり。世延の子エシユンタイ野峻台は、忠義傳(列傳卷八十二)に載せられたり。
列傳卷十一、タブン塔本、イウル伊吾盧人、イウル伊吾盧は、カムル合木兒卽今のハミ哈密の古名にして、ウイウト委兀惕の地なり。「父スングシエトド宋五設託陀。トド訛陀者︀、其國主所賜號、猶華言國老也」とあり。その國主は、卽ウイウト委兀惕の君なり。タブン塔本は、太祖︀の時、興平行省の都︀元帥。太宗二年詔して中山平定平原を益して行省に隸せり。
列傳卷十一、ハライハチベル哈剌亦哈赤北魯、ウイウ畏兀人也。この傳にバルチユアルテイドク八兒出阿兒忒亦都︀護とあるは、卽列傳卷九のバルチユアルテチキンイドク巴而朮阿而忒的斤亦都︀護、西遼主グルカガン鞠兒可汗とあるは、秘吏のカラキタト合喇乞塔惕のグルカン古兒罕なり。バルチエアルテ八兒出阿兒忒の父の名ユセンテムル月仙帖木兒は、この傳にのみ見ゆ。ハライハチベル哈剌亦哈赤北魯の子ユドシエヌ月朶失野訥は、太祖︀の時、都︀督にて獨山城のダルハチ達魯花赤を兼ね、その子キチスンクル乞赤宋忽兒は、太宗の時、爵を襲ぎ、ダラカン荅剌罕の號を賜はれり。
列傳卷十一、タタトンガ塔塔統阿、ウイウ畏兀人也。ナイマン乃蠻のタヤンカガン大敭可汗(タヤンカン塔陽罕)に尊用せられ、國亡びて後太祖︀に事へたることは、序論の初に云へり。太宗の時內府の玉璽金帛を司り、その妻ウコリ吾和利氏は、皇子ハラチヤル哈剌察兒の乳母となれり。
列傳卷十一、ヨリンテムル岳璘帖穆爾、フイフ回鶻人、ウイウ畏兀國相トンヨクコク暾欲谷之裔也。其兄ビリガブカ仳理伽普華、年十六、襲國相ダラハン荅剌罕。歐陽玄の高昌セ偰氏家傳に曰く「セ偰氏、其先世曰トンヨクコク暾欲谷、本トツケツ突︀厥部。トツケツ突︀厥亡、其地入於フイフ回紇、トンヨクコク暾欲谷之子孫、世爲其國相。嘗從其主、居セレン偰輦河、因以セ偰爲氏。數世至ケチブル克直普爾、襲本國相ダラハン荅剌罕、錫號阿大都︀督。遼主授以太師大丞相、總管內外藏事。國人稱之曰ツアンチリ藏赤立。死、子ヨビ岳弼襲。ヨビ岳弼七子、曰ダリン達林、曰アスビ亞思弼、云云、曰ドコス多和思」。アスビ亞思弼の長子ビリガテムル仳埋伽帖穆爾は、卽傳のビリガブカ仳理伽普華なり。ウイウ畏兀のイドク亦都︀護、西遼の監使を殺︀して蒙古に降れるは、ビリガブカ仳理伽普華の計に從へるなり。ヨリンテムル岳璘帖穆爾は、太祖︀の時、河南等處軍民の都︀ダルハチ達魯花赤、太宗の時、大斷事官。その子カラブカ合剌普華の事は、忠義傳(列傳卷八十)にあり。
列傳卷二十一、サギス撒吉思、フイフ回鶻人、其國阿大都︀督ドコス多和思之次子也。卽アスビ阿思弼の孫にして、ヨリンテムル岳璘帖穆爾の從弟なり。太祖︀の弟オヂン斡眞(オチギン斡赤斤)のビジエチ必闍赤〈[#「必闍赤」は底本では「闍」の印刷が薄くて読めない。他ルビ「ビジエチ」に倣い修正]〉となり、オチギン斡赤斤薨じたるとき、ホルコスン火魯和孫(ゴルゴスン豁兒豁孫)と共に適孫タチヤル塔察兒を擁立したることは、前のゴルゴスン豁兒豁孫の條に引けり。世祖︀の時、山東行省の大都︀督にて益都︀のダルハチ達魯花赤を兼ねき。サギス撒吉思の孫ダリマ荅里麻は、別に(列傳卷三十一に)傳あり、「高昌人、大父サギス撒吉斯」と云へり。高昌は、ウイウ委兀の地の古名なり。
列傳卷十一、メンスス孟速思、ウイウ畏兀人、世居ベシバリ別失八里、古北庭都︀護之地。ベシバリ別失八里は、ウイウト委兀惕の都︀ビシバリク必失巴里克にして、唐の北庭都︀護府の地なり。メンスス孟速思年十五にして本國の書に通じたるを太祖︀聞きて、召し見てに大に悦び「此兒目中有火、他日可大用」と曰へりとあるは、蒙古の韻語なる「目に火あり、面に光あり」を半だけ譯したるなり。世祖︀の時、斷事官。
列傳卷十二、ブルハイヤ布魯海︀牙、ウイウ畏吾人也。太宗三年、燕南諸︀路の廉訪使兼斷事官、世祖︀の時、順德等路の宣慰使。廉使を命ぜられたる日に子希憲生れしかば、ブルハイヤ布魯海︀牙喜びて「吾聞、古以官爲姓。天其以廉爲吾宗之姓乎」と云ひ、子孫皆廉氏となれり。廉希憲は別に傳あり(列傳卷十三)。[456]
列傳卷九、テマイチ鐵邁赤、カル合魯氏。太祖︀の時、クラン忽蘭皇后の挏馬官。至元七年、蒙古諸︀萬戶府のアウル奧魯總管。
列傳卷七、カスメリ曷思麥里、西域グツエオルド谷則斡兒朶人、初爲西遼コルカン闊兒罕近侍。グツエオルド谷則斡兒朶は、遼史天祚紀に見えたるエリユタイシ耶律大石の都︀フスオルド虎思斡耳朶、西遼のコルカン闊兒罕は、カラキタト合喇乞塔惕のグルカン古兒罕なり。カスメリ曷思麥里のヂエベ者︀別に從ひ西域諸︀國に轉戰したることは、實錄卷十一の注に引けり。太祖︀の末年、ビジエチ必闍赤。太宗四年、懷孟州のダルハチ達魯花赤。十一年、長子ネヂビ捏只必、懷孟州のダルハチ達魯花赤を襲ぎ、次子ミリギ密里吉、ビジエチ必闍赤を襲ぎ、カスメリ曷思麥里はヂヤルホチ札魯火赤となり、十二年懷孟河南二十八處の都︀ダルハチ達魯花赤に進めり。
列傳卷七、ヂヤバルホヂヤ札八兒火者︀、サイイ賽夷人。サイイ賽夷、西域部之族長也、因以爲氏。ホヂヤ火者︀、其官稱也。ホヂヤ火者︀卽コヂヤ闊札は、モハメト抹哈篾惕敎の一派なるサイイト賽亦惕派の人の用ふる稱號なり。賽夷人は、卽サイイト賽亦惕派の人にして、地の名に非ず。サイイト賽亦惕は、族長に非ずして、宗派の長なり。その長は、サイイト賽亦惕何某と稱するが故に氏と誤れるなり。この傳には、疑はしきことのみ多し。ヂヤバル札八兒は、西域の人なれば、太祖︀に降れるは、太祖︀西征の後にあるべきを、ケレイ克烈のワンカン汪罕との戰にはバンヂユニ班朱尼河の誓に與れりとし、南征の役には居庸關の間道を前導せりとして、ヂエベ者︀別の南口より襲へる事實と撞着せり。金人汴に遷りて、乘輿北に歸る時、「留ヂヤバル札八兒、與諸︀將守中都︀」も、本紀諸︀傳に見えざるのみならず、「授黄河以北鐵門以南天下都︀ダルハチ達魯花赤」と云へるに至りては、恐らくは誇張の言なるべし。「有丘眞人者︀、有道之士也、隱居崑崙山中。太祖︀聞其名、命ヂヤバル札八兒往聘之。云云」と云へるも、西游記に「住萊州昊天觀。チンギス成吉思皇帝遣侍劉仲祿、縣虎頭金牌、傅旨敦請」とあるに合はず。この時は、大軍正に西に進める時なれば、ヂヤバル札八兒は未太祖︀にも降らず、丘眞人の名をも知らざりけん。卒したるは何年とも云はずして、年は一百一十八なり。長子アリカン阿里罕は、憲宗の時天下の質子兵馬都︀元帥。
列傳卷十、アラワルス阿剌瓦而思、フイフバワル回鶻八瓦耳人。仕其國爲千夫長。太祖︀征西域、駐蹕バワル八瓦耳之地。アラワルス阿剌瓦而思、率其部曲來降、從帝親征。云云、沒于軍。バワル八瓦耳は、コラツサン閣喇散のバウルド巴兀兒篤なるべし。バウルド巴兀兒篤に至れるは、太祖︀に非ず、他の將なるべし。「子アラワヂン阿剌瓦丁(アライウツヂン阿來兀丁)從世祖︀北征有功」。その子シエンスヂン贍思丁に子五人あり。長はウマル烏馬兒(オマル斡馬兒)、次はブベ不別、次はヒンド忻都︀、次はアハマ阿合馬(アハメト阿呵篾惕)、次はアサンブベ阿散不別。アサンブベ阿散不別の子オドマン斡都︀蠻(斡惕蠻)。
列傳卷十二、サイデンチシエンスヂン賽典赤贍思丁、一名ウマル烏馬兒、フイフイ回回人、ベアンベル別菴伯爾之裔。其國言サイデンチ賽典赤、猶華言貴族也。太祖︀西征シエンスヂン贍思丁率千騎、以文豹白鶻迎降。命入宿衞、從征伐、以サイデンチ賽典赤呼之而不名。ベアンベル別菴伯爾の事は、常德の西使記に「バウダ報達之西、馬行二十日、有天房、內有天使神︀胡之祖︀葬所也。師名ビヤンバル癖顏八兒〈[#ルビの「ビヤンバル」は底本では「ビヤバル」。他の「癖顏八兒」のルビに倣い修正]〉。房中懸鐵絚。以手捫之、心誠可及、不誠者︀竟不得捫。經文甚多、皆ビヤンバル癖顏八兒所作」とあり。ベアベル別菴伯爾も、ビヤンバル癖顏八兒〈[#「癖顏八兒」の「八」は底本では印刷が薄いが他のルビに倣い修正]〉も、珀兒沙語にて豫[457]言者︀の義なるベイゲムベル陛黔別兒を音譯したるにて、敎祖︀モハメト抹哈篾惕を指せるなり。サイデンチ賽典赤は、太宗の時、山西地方のダルハチ達魯花赤より入りて燕京の斷事官となり、憲宗の初年、燕京路の總管に遷り、採訪使に擢てられ、憲宗蜀を伐てる時、饋餉供億を主れり。世祖︀位に卽き、燕京路の宣撫使となり。中統二年中書平章政事となり、至元元年陝西五路西蜀四川の行中書省を置きたる時、出でてその平章政事となり、七年分れて四川を鎭し、八年興元にて省事を行ひ、十一年雲南行省の平章政事となり、十六年雲南に卒しき。子五人あり。長はナスラヂン納速剌丁(ナスルウツヂン納思兒兀丁卽ナスルツヂン納思嚕丁)、次はハサン哈散(ハスサン哈思散)、次はフツシン忽辛(フスセイン許思薛因)、次はシエンスヂンウメリ苫速丁兀默里、次はマスフ馬速忽(マスフト馬思許惕)にて、いづれも高官に陞れり。ナスラヂン納速剌丁は、雲南路の宣慰使都︀元帥として、至元十六年金齒・蒲驃・曲蠟・緬國を招撫し、父シエスヂン贍思丁歿したるに由り、明年雲南行省の左丞となり、尋で右丞に陞り、二十一年平章政事に進み、二十二年カラヂヤン合剌章〈[#ルビの「カラヂヤン」は底本では「カヂヤン」。他の「合剌章」のルビに倣い修正]〉豪古の軍干人を以て皇子トホン脫歡に從ひ、交趾を征して功あり、二十八年陝西行省の平章政事に進み、明年卒しき。子十二人の內、バヤン伯顏、ウマル烏馬兒(オマル斡馬兒)、ヂヤフアル箚法兒、フツセン忽先(フスセイン許思薛因)、シヤヂ沙的(サアヂ撒阿的)、アユン阿容、バヤンチヤル伯顏察兒の七人、皆高官に陞れり。ナスラヂン納速剌丁、バヤン伯顏は、皆サイデンチ賽典赤の號を襲ぎ、バヤンチヤル伯顏察兒は、泰定中中書平章政事となり、エンテムル燕鐵木兒に殺︀されき。フツシン忽辛は、至元中地方の諸︀官に歷任し、三十年兩潮の鹽運使、大德中雲南行省の右丞、至大元年江西行省の平章政事、二年職を辭し、三年卒しき。子二人あり、バハン伯杭・クレ曲列と云へり。
サイデンチ賽典赤は、ブクム不忽木の傳にサイデゼン塞咥旃とも書き、考異に「石刻濟瀆靈異碑作サイテンヂ賽天知、中堂事紀作サイデンヂル賽典只兒」とあり。これは、疑も無くラシツト喇失惕の史(ドーソン多遜二、四六七)にサイドエヂエル撒亦惕額者︀勒卽サイデヂエル撒亦迭者︀勒と云へる人にして、ブクム不忽木の傳の塞咥旃は、最音協へり。集史に據れば、サイデヂエル撒亦迭者︀勒は、ボカラ孛合喇の人にして、マング曼古の朝にクビライ庫必賚のカラヂヤン喀喇章(雲南)に入りし時、その地の太守となり、尋で宰相となり、クビライ庫必賚の朝の初に財政を掌れりと云へり。これは、至元十一年に雲南行省の平章となれること、中統二年に中書に入りたること、憲宗の朝に饋餉供億を主りたることを、時代を誤りてアトサキ後前に記したるなり。又「その子ナスルツヂン納思嚕丁は、カラヂヤン喀喇章の太守に任ぜられ、五六年前に死したるまでその職を保ちき」とラシツト喇失惕云へり。ラシツト喇失惕は、一三〇〇年(大德四年)ごろにその文を書きたれば、五六年前は、至元三十一年又は元貞元年にして、元史に至元二十九年卒とあるより二三年違へり。又陜西行省に遷りたることをラシツト喇失惕は未聞かざりしなり。ナスルツヂン納思嚕丁は、マルコポーロ馬兒科保羅も記して、ネスラヂン捏思克喇丁と呼べり。ナスルツヂン納思嚕丁の子アブベクル阿不別克兒一名バヤンフエンチヤン巴顏芥羼は、ラシツト喇失惕の書ける時にザイトン在屯(剌桐卽泉州)の太守なりき。この人も、サイデヂエル撒亦迭者︀勒なる祖︀父の號を用ひ、クビライ庫必賚の嗣君の朝に財務の卿となりき(ドーソン多遜二、四七六、五〇七)。このバヤンフエンチヤン巴顏芥羼は、ナスラヂン納速剌丁の長子なるサイデンチバヤン賽典赤伯顏にして、宰相表に據れば、至元三十年より大德七年まで中書平章政事の欄︀にあり。その間に福︀建行中書省に派遣せられたることもありしなるべし。
4。フイフイ回回卽モハメト抹哈篾惕敎徒の移住。
ヂヤバル札八兒・アラワルス阿剌瓦而思・サイデンチ賽典赤の外に、元史列傳には、定宗以後の朝に事へたるフイフイ回回人甚多し。ブレトシユナイデル卜咧惕施乃迭兒曰く「チンギス成吉思とその後嗣との征服は、亞細亞の東と西との間に交通の大道を開き、西方の民は、極東に往くことを、そこに住むことさへ始めき。蒙古の諸︀帝は、外國人の支那に移住することを保護し、モハメト抹哈篾惕敎徒につきては、マングカン曼古汗の弟フラグ旭剌古が西亞細亞を支配してより、ペルシヤ珀兒沙より支那に移住する者︀著︀しく殖えたりしと見ゆ。今支那本部の全土に散處し、殊に甘肅山西直隸の三省にて大なる社︀會をなせるモハメト抹哈篾惕敎徒の大半は、マルコポーロ馬兒科保羅の記したるそれらの諸︀省のサラセン撒喇先どもの子孫ならんとと然るべきことと思はる。ラシツトエツヂン喇失惕額丁は、支那の事を記述して(ユール裕勒の「カセイ喀勢」二六九)、當時カラヂヤン喀喇章(雲南)の住民は皆モハメト抹哈篾惕敎徒なりきと云へり。又ビルマ必兒馬にてバンタイ潘泰と名づくる雲南のモハメト抹哈篾惕敎徒、一八五七年(成豐七年)に大理府を陷し[458]て、一八七三年(同治十二年)までその地を領したりしものどもは、蒙古の諸︀帝の時まで溯りて跡附けられ得ることは、大抵慥ならんと信ぜらる」。
次に擧ぐるフイフイ回回人は、太祖︀太宗の功臣に非ざれども、支那の朝廷に遠西の異敎の民の聚れるは、前後に例なき珍しき事なれば、それらの著︀しき人の名氏と仕履の槪略とを列記せん。
列傳卷二十、ケレ怯烈、西域人。世居太原。由中書譯史、從平章政事サイデンチ賽典赤、經略川陜。經略川陜。西域はいづことも知れざれども、サイデンチ賽典赤に從へるを見れば、フイフイ回回の地より來にける人なるべし。世居太原は、ケレ怯烈の子孫の事を云へるなり。屢緬國を征し、至元の末、雲南諸︀路行中書省の左丞。
列傳卷二十一、アイセ愛薛、西域フリン弗林人。通西域諸︀部語、工星曆醫藥。初事定宗、直言敢諫。時世祖︀在藩邸器︀之、中統四年、命掌西域星曆醫藥二司事。後改廣惠司、仍命領之。至元中、翰林學士承旨。大德元年、平章政事。仁宗時、封秦國公、卒、追封フリン佛林忠獻王。フリン弗林即フリン拂林は、古の大秦國なるが故に、秦國公に封ぜられたり。然らばアイセ愛薛は、ヒガシローマ東囉馬の地に生れたる人なるべし。されども世祖︀紀至元十年正月の條に「改フイフイ回回アイセ愛薛所立京師醫藥院、名廣惠司」とあれば、アイセ愛薛は、クリスト克哩思惕敎徒に非ずして、モハメト抹哈篾惕敎徒なるべし。
列傳卷二十四、チヤガン察罕、西域、バルフ板勒紇城人也。父ベデナ伯德那、歲庚辰(太祖︀十五年)、國兵下西域、擧族來歸。バルフ板勒紇は、バルク巴勒黑なり。「チヤガン察罕、魁偉穎悟、博覽强記、通諸︀國字書」。至元中、アウルチ奧魯赤に從ひ、湖廣江西兩省に出入し、大德の末、河南行省の郞中。至大中、太子の家令。皇慶元年、平章政事、商議中書省事。トビチヤン脫必赤顏を譯して聖武開天記(今の親征錄)を作れるは、この人なり。
列傳卷二十四、クチユ曲樞、西土人。曾祖︀タブタイ達不台、祖︀アタタイ阿達台、父デリハタイ質理花台。クチユ曲樞は、本紀宰相表に皆クチユ曲出とあり。大德中より仁宗に事へ、至大元年、太子の詹事、平章軍國重事。四年、錄軍國重事、集賢大學士。長子ベデ伯德は、至大中、中書右丞。次子ベテムル伯帖木兒は、至大中、翰林學士承旨、大都︀の留守。
列傳卷二十四、イヘヂヤルヂン奕赫抵雅爾丁、字太初、フイフイ回回氏。父イスマイン亦速馬因(イスマエル亦思馬額勒)、仕至大都︀南北兩城兵馬都︀指揮使。イヘヂヤルヂン奕赫抵雅爾丁、幼穎悟嗜學、所讀書一過目、卽終身不忘、尤工其國字語。至元中、中書右司郞中。大德中、江東建康道の肅政廉訪使。至大中、參議中書省事。
列傳卷二十九、チエリテムル徹里帖木兒、オルエン阿魯溫氏。祖︀父累立戰功、爲西域大族。ブレトシユナイデル卜咧惕施乃迭兒曰く「オルエン阿魯溫は、蓋キルマンシヤ奇兒曼沙とバグダート巴固荅惕との間なるホルヷン訶勒飯︀ならん」。天曆二年、中書平章政事。至元元年、再中書平章政事となり、南安に貶せられき。
列傳卷七十七、儒學二、シヤンス贍思、字得之、其先タージ大食國人。國旣內附、大父ルクン魯坤、乃東遷豐州。太宗時、以材授眞定濟南等路監權課稅使、因家眞定。父オチ斡直、始從儒先生問學。シヤンス贍思は、順帝の時、臺憲の官に歷任せり。「邃於經、而易學尤深、至於天文地理鐘律算數水利、旁及外國之書、皆究極之」。その著︀書の內に、西國圖經、西域異人傳などありしが、今傳はらず。[459]
列傳卷八十一、忠義二、ナスラヂン納速剌丁(ナスルツヂン納思嚕丁)、字士瞻。其父マハム馬合木(マハムト馬呵木惕)、從征襄陽、以勞擢濟州ダルハチ達魯花赤、因家大名。ナスラヂン納速剌丁は、順帝の時、淮東宣慰使の掾となり、屢賊と戰ひ、その子寶童ハイルツヂン海︀嚕丁西山驢と皆節︀に死せり。傳に何國の人とも云はざれども、その名に依りて、モハメト抹哈篾惕敎徒なること知らる。
列傳卷八十三、忠義四、デリミシ迭里彌失、字子初、フイフイ回回人。至正中、漳州路のダルハチ達魯花赤。漳州明の兵に降れる時節︀に死せり。又フイフイ回回の人ホドブツヂン獲獨步丁は、福︀州の降れる時節︀に死し、その兄二人、ムルツヂン穆魯丁は、建康にて國難に死し、ハイルツヂン海︀魯丁は、列傳卷八十二に見たる淅東の都元帥バヤンブハチキン伯顏不花的斤と共に信州を守りて死を效しき。
列傳卷九十方伎の工藝に「アラワヂン阿老瓦丁(アライエツヂン阿來額丁)、フイフイ回回氏、西域ムフアリ木發里人也」とあるを、ブレトシユナイデル卜咧惕施乃迭兒曰く「ムフアリ木發里は、蓋デアルベキル的阿兒別奇兒の北東の寨にて一二六〇年(中統元年)蒙古に取られたるモアフエリン抹阿弗𡂰ならん」と云へり。ドーソン多遜三、三五五頁に見えたるマヤフアルキン馬牙發兒勤(モアフエリン抹阿弗𡂰)の寨の堪能なる軍匠の事を參考せよ。「至元八年、世祖︀遣使徵砲匠于宗王アブカ阿不哥」。アブカ阿不哥は、皇弟フラグ旭剌古の子イルカナバカ亦兒汗阿巴咯なり。「工以アラワヂン阿老瓦丁・イスマイン亦思馬因應詔。二人擧家馳驛至京師、給以官舍。首造大砲、竪于五門前。帝命試之、各賜衣段。十一年、國兵渡江平章アリハイヤ阿里海︀牙、遣使求砲手匠。命アラワヂン阿老瓦丁往、破潭州靜江等郡、悉賴其力。十五年、授宣武將軍管軍總管」。潭州の砲擊は、十二年の冬に在り、靜江の破れたるは、十三年十二月にあり、列傳卷十五アリハイヤ阿里海︀牙の傳に見ゆ。「十八年、命屯田於南京」は、世祖︀紀至元十八年七月の條に「括フイフイ回回砲手散居他郡者︀、悉令赴南京屯田」とあり。「二十二年、樞密院奏、改元帥府爲フイフイ回回砲手軍匠上萬戶府、以アラワヂン阿老瓦丁爲副萬戶。大德四年、吿老、子フミウヂ富謀只襲副萬戶。皇慶元年卒、子マハマシヤ馬哈馬沙襲」。
同じ卷に「イスマイン亦思馬因(イスマエル亦思馬額勒)、フイフイ回回氏、西域フレ旭烈人也」。フレ旭烈は、地の名に非ず。ブレウ旭烈兀の領地の人と云ふべきを誤れるなり。ラシツト喇失惕に據れば、この人は、ダマスクス荅馬思庫思より至れり。「善造砲、至元八年、與アラワヂン阿老瓦丁至京師。十年、從國兵攻襄陽、未下。イスマイン亦思馬因相地勢、置砲于城東南隅、重一百五十斤。機發、聲震天地、所擊無不摧陷、入地七尺。宋安撫呂文煥懼、以城降。旣而以功賜銀二百五十兩、命爲フイフイ回回砲手總管、佩虎符。十一年、以疾卒、子ブベ布伯襲職。時國兵渡江、宋兵陳于南岸、擁舟師迎戰。ブベ布伯於北岸堅砲以擊之、舟悉沉沒。後每戰用之、皆有功」。
國兵渡江とは、十一年十二月、丞相バヤン伯顏大軍を統べて漢︀口に至り、アリハイヤ阿里海︀牙張弘範等に陽羅堡を攻めさせアチユ阿朮をして靑山磯より江を渡らしめたる時の事を云へるなり。又十二年二月、池州を發して、賈似道の舟師を敗る時、バヤン伯顏の傳に「バヤン伯顏命左右翼萬戶、率騎兵夾江而進、砲聲震百里、宋軍陣動」、アチユ阿朮の傳に「遣騎兵夾岸而進、兩岸樹砲、擊其中堅、宋軍陣動」とあり。ブベ布伯は、「十八年、加鎭國上將軍フイフイ回回砲手都︀元帥、明年、改軍匠萬戶府萬戶、遷刑部尙書」。のち浙東道宣慰使。その子ハサン哈散(ハスサン哈思散)は、高郵府同知。ブベ布伯の弟イブラキム亦不剌金(イブラヒム亦卜喇希姆)は、兄の刑部に遷れる時、萬戶となれり。「致和元年八月、樞密院檄イブラキム亦不剌金所部軍匠至京師、與マハマシヤ馬哈馬沙造砲。天曆二年、以疾卒、子アグ亞古襲」。
襄陽攻圍の事は、ウリヤンカ兀良合のアチユ阿朮(スブタイ速不台の孫、ウリヤンカタイ兀良合台の子、列傳卷十五)、史天澤(史天倪の弟、列傳卷四十二)、張弘範(張柔の子、列傳卷四十三)、劉整(列傳卷四十八)の傳に、その砲擊の事は、ウイウル畏吾兒のアリハイヤ阿里海︀牙[460]の傳(列傳卷十五)に見えたり。劉整は、中統二年、宋より蒙古に降り、至元三年、南京路の宣撫使となり、「四年十一月入朝、進言「宋主弱臣悖、立國一隅。今天啓混一之機。臣願效犬馬勞、先攻襄陽、撤其扞蔽。」廷議沮之。又曰「自古帝王、非四海︀一家、不爲正統。聖朝有天下、十七八。何置一隅不問、而自棄正統邪」。世祖︀曰「朕意決矣」。五年七月、遷鎭國上將軍都︀元帥。九月、偕都︀元帥アチユ阿朮、督諸︀軍、圍襄陽、城鹿門堡及白河口、爲攻取計、率兵五萬、鈔略沿江諸︀郡。皆嬰城避其銳。俘人民八萬」。アチユ阿朮の傳「中統三年、拜征南都︀元帥。至元四年八月、觀兵襄陽、遂入南郡、云云。初アチユ阿朮過襄陽、駐馬虎頭山、指漢︀東白河口、日「若築壘於此、襄陽糧道可斷也」。五年、遂築鹿門新城等堡、六年七月、大霖雨、漢︀水溢。宋將夏貴・范文虎相繼率兵來援復分兵出入東岸林谷間。アチユ阿朮謂諸︀將曰「此張虛形、不可與戰。宜整舟師、備新堡」。諸︀將從之。明日、宋兵果趍新堡。大破之、殺︀溺生擒五千餘人、獲戰船百餘艘」。史天澤の傳「至元六年、帝以宋未附、議攻襄陽、詔(左丞相)天澤、與駙馬フラチユ忽剌出、往經晝之。至則相要害、立城堡、以絕其聲援、爲必取之計。七年、以疾還燕」。張弘範の傳「至元六年、括諸︀道兵、圍宋襄陽、授(弘範)益都︀淄萊等路行軍萬戶、佩金虎符。戍鹿門堡、以斷宋餉道、且絕郢之救兵。弘範建言曰「國家取襄陽、爲延久之計者︀、所以重人命、欲其自斃也。曩者︀夏貴乘江漲、送衣糧入城。我師坐視︀、無禦之者︀。而其境、南接江陵歸峽、商販行旅、士卒絡繹不絕。寧有自斃之時乎。宜城萬山、以斷其西、柵灌子灘、以絕其東。則庶幾速斃之道也」。帥府奏用其言、移弘範兵千人、戌萬山、旣城、與將士較射、出東門。宋師大至。將佐皆謂「衆寡不敵、宜入城自守」。弘範曰「吾與諸︀君在此事。敵至將不戰乎。敢言退者︀死」。卽擐甲上馬、立遣偏將李庭當其前、他將攻其後、親率二百騎爲長陣。令曰「聞吾鼓則進、未鼓勿動」。宋軍步騎相間突︀陣。弘範軍不動。再進再却。弘範曰「彼氣衰矣」〈[#「衰」は底本では異体字(u8870-ue0104)。元史(四庫全書本)卷156第19丁第8行に倣い修正]〉。鼓之、前後奮擊。宋師奔潰」。續綱目は、帥府を史天澤とし、城萬山を七年十一月の事とせり。劉整の傳「七年三月、築實心臺于漢︀水中流、上置弩砲、下爲石囤五、以扼敵船。且與アチユ阿朮計曰「我精︀兵突︀騎、所當者︀破。惟水戰不如宋耳。奪彼所長、造戰艦、習水軍、則事濟矣」。乘驛以聞。制可。旣還、造船五千艘、日練︀水軍、雖雨不能出、亦畫地爲船而習之、得練︀卒七萬。八月、復築外圍、以遏敵援」。末の句は、アチユ阿朮の傳に「築圜城、以逼襄陽」とあり。張弘範の傳「八年、築一字城、逼襄陽」。一字城は、續綱目に「築峴山虎頭山、爲一字城、聯亙諸︀堡」とあり。劉整の傳の外圍、アチユ阿朮の圜城も、蓋同じ物なり。アチユ阿朮の傳「范文虎復率舟師來救、來興國又以兵百艘侵百丈山。前後邀擊於湍灘、俱敗走之」。傳は、この事を六年七月夏貴范文虎來援の續きに叙べたれども、續綱目は、八年六月の事とせり。劉整の傳「九年、襄陽帥呂文換登城觀敵。整躍馬前曰「君味於天命、害及生靈、豈仁者︀之事。而又齷齪不能戰、取羞於勇者︀。請與君決勝負」。文煥不答、伏弩中整。三月、破樊城外郭、斬首二千級、擒裨將十六人」。アチユ阿朮の傳「九年三月、破樊城外郛、增築重圍以逼之。宋裨將張順張・貴裝軍衣百船、自上流入襄陽。アチユ阿朮攻之。順死、貴僅得入城。俄乘輪船、順流東走。アチユ阿朮與元帥劉整、分泊戰船以待、燃薪照江、兩岸如晝。アチユ阿朮追戰至櫃門關、擒貴、餘眾盡死」張順張貴は、宋の京湖制置大使李庭芝の遺せる勇將なり。この戰は、劉整の傳稍委し。「諜知文煥將遣張貴出城求援、乃分部戰艦、縛草如牛狀、傍漢︀水綿亙參錯、眾莫測所用。九月、貴果夜出、乘輪船、順流下走。軍士覘知之、傍岸熱草牛如晝。整與アチユ阿朮麾戰艦、轉戰五十里、擒貴于櫃門關、餘眾盡殺︀之」。アリハイヤ阿里海︀牙の傳「至元五年、命與元帥アチユ阿朮劉整取襄陽。始帝遣諸︀將、命勿攻城、但圍之、以俟其自降。乃築長圍、起萬山、包百丈楚山、盡鹿門、以絕之。宋兵入援者︀、皆敗去。然城中糧儲多、圍之五年終不下。九年三月、破樊城外郛、其將復閉內城守。アリハイヤ阿里海︀牙以爲「襄陽之有樊城、猶齒之有唇也。宜先攻樊城。樊城下則襄陽可不攻而得」。乃入奏、帝始報可。會有西域人イスマイン亦思馬因、獻新礮法。因以其人來軍中。十年正月、爲礮攻樊破之。先是宋兵爲浮橋、以通襄陽之援。アリハイヤ阿里海︀牙發水軍、焚其[461]橋。襄援不至、城乃拔。詳具アチユ阿朮傳」。アチユ阿朮の傳「先是襄樊兩城、漢︀水出其間、宋兵植木江中、聯以鐵鎖、中造浮梁、以通援兵。樊特此爲固。至是アチユ阿朮以機鋸斷木、以斧斷鎖、焚其橋。襄兵不能援。十二月、遂拔樊城襄守將呂文煥懼而出降」。十二月は、十年正月の誤なり。張弘範の傳は、「截江道、斷其援兵」を弘範の計とし、劉整の傳は、「斷木沉索、先攻樊城」を整の計とし、諸︀傳互に頭功を爭ふは奇觀なり。蓋此等の事は、諸︀將の誰も心附きたる事にして、一人をしてその功を專にせしむべきには非ず。されども本紀は、アリハイヤ阿里海︀牙の功とし、至元九年十一月の處に「參知行省政事アリハイヤ阿里海︀牙言「襄陽受圍久未下。宜先攻樊城、斷其聲援」。從之。フイフイ回回イスマイン亦思馬因、創作巨石砲來獻、用力省、而所擊甚遠。命送襄陽軍前用之」とあり。アリハイヤ阿里海︀牙の傳「アリハイヤ阿里海︀牙旣破樊、移其攻具、以向襄陽。一礮中其誰樓、聲如雷霆、震城中。城中洶洶、諸︀將多踰城降者︀。劉整欲立碎其城、執文煥、以快其意。アリハイヤ阿里海︀牙、獨不欲攻、乃身至城下、與文煥語曰「君以孤軍城守者︀數年、今飛鳥路絕。主上深嘉汝忠。若降、則尊官厚祿可心得、決不殺︀汝也」。文煥狐疑未決。又折矢與之誓、如是者︀數四。文煥感而出降。遂與入朝。帝以文煥爲昭勇大將軍侍衞親軍都︀指揮使襄漢︀大都︀督」。襄陽の降れるは、世祖︀紀に據るに、至元十年二月の事なり。
襄陽砲擊の事は、ラシツト喇失惕の史にも漏されざりき。ドーソン多遜の引けるに據るに、「支那にはクムガ庫姆嘎と云ふ砲器︀あらざりし故に、カガン合罕はダマスクス荅馬思庫思卽バルベク巴勒別克より砲匠を送らしめき。その砲匠の三子アブベクル阿不別克兒・イブラヒム亦卜喇希姆・マホメツト馬訶篾惕は、その工人と共に七つの巨砲を造れり。その巨砲は、國界の城にてマンツ蠻子の要害なるサヤンフ撒顏府の攻撃に用ひられき」。砲匠の名は漏れたれども、方伎傳のイスマイン亦思馬因なること疑ひなし。その子アブベクル阿不別克兒は、傳のブベ布伯、イブラヒム亦卜喇希姆は、傳の弟イブラキム亦不剌金なり。マホメツト馬訶篾惕は、イスマイン亦思馬因の傳に見えざれども、アラワヂン阿老瓦丁の孫マハマシヤ馬哈馬沙卽マホメツトヤ馬訶篾惕沙はそれと同じ人なるに似たり。サヤンフ撒顏府は、卽シヤンヤンフ襄陽府の訛なり。
マルコポーロ馬兒科保羅の談は、甚面白し。その紀行第十一章にサヤンフ撒顏府の雄大にして產物に富めることを叙べたる後に「マンツ蠻子の國は皆降りたる後に、その城は三年の間、大汗に抗して守禦せり。大汗の軍は、それを取らんと頻︀に力めたれども、それの周圍に廣き深き水ありて、北なる只一邊よりの外近づくこと能はざりし故に、成功せざりき。大汗の兵は、城の前に三年居て取る能はざりし時に、大にいらちけり。その時ニコロポーロ尼科羅波羅とマフエオ馬弗斡とマルコ馬兒科とは曰く「我等は、城を速に降すべき方法を示さん」と云へば、軍の人人は、それはいかなるかを知らんと欲することを答へき。この話は、大汗の前にて起りき。この時は、軍中より使至りて、味方の攻むる能はざるかは側より、敵は食物の供給を絕えず受くるが故に、封鎖にて城を取るべき樣なしと吿げ、大汗は答へて「必取れ、何とか方法を見出せ」と云ひ遣りたる時なりき。その時二人の兄弟と子マルコ馬兒科とは申さく「オホギミ大君。我等の從者︀の中に、城兵の抵抗する能はざるほどに大なる石を抛ぐべき砲器︀を作り得る人あり。この砲器︀を以て城を擊たば、城兵は直ちに降らん」。汗は、かかる砲器︀をなるたけ速に作らんことを熱心に望めり。今ニコロ尼科羅とその子とは、直ちにその作事に適する材木をイ要るだけ取寄せき。その從者︀の二人、獨逸︀人とネストル捏思脫兒派のクリスト克哩思惕敎徒とは、その工事の達人なりしかば、それらに命じて三百磅の石を抛げ得べき砲器︀二三臺を作らしめき。かくて立派なる砲器︀、三百磅以上の石を抛げ得る物、三臺成りき。その砲器︀用ひらるべく成りし時に、汗もその他の人も、見て大に喜び、その前にてあまたの石を抛げさせ、大に驚歎し、大に工事を賞めき。汗は命じて、その器︀械をサヤンフ撒顏府の行營に居る軍の處に運ばしめき。その器︀械行營に達し、据附けられたる時、タルタル塔兒塔兒人大に感賞せり。その器︀械据附けられ、働かせられたる時、各より石を城に抛げ、建物の中に效力を著︀し、大なる聲と震動とを以て何物にても破り碎きけり。城の民は、この奇異なる新客を見[462]て、驚き怖ぢて、何を爲すべきか言ふべきかを知らざりき。聚りて評議を凝したれども、この事は魔力にて爲さるゝが如く見えて、いかにしてその器︀械より遁れ得べきかの評議は思ひ附かれざりき。彼等は、降らずば我等は皆死なんと言ひて、許さるゝだけの條件にて降らんと決議せり。そこに彼等は、直ちに軍の大將に使を送り、他の諸︀城の爲したると同じ約束にて降りて、大汗の臣民とならんと欲すと云ひ遣り、大將はそれを許しき。かくて城の民は降り、約束を奉じけり。これは、皆尼科羅と馬弗斡と馬兒科との働きより出來たり。それは、小き事件に非ず。この城と州とは、大汗の領する最善き處の一にして、大なる財賦を汗に納むる故に」。
この談の初に、襄陽の攻圍を宋の滅びたる後とせるは、事實に違へるのみならず、マルコポーロ馬兒科保羅等の帝都︀に達したるは、早くとも、一二七四年、卽至元十一年の末にして、襄陽の降れる十年二月より一年半餘の後なれば、襄陽の砲擊をポーロ保羅三人の功に歸すべき由なし。マルコ馬兒科の紀行は、大體にては眞實の談多けれども、この一事だけは、西人の何も知らざるを恃みて、イスマイン亦思馬因等の功を竊みて己等のとしたるは、をかしかりき。ポーチエ保提額の一本とラムジヨ喇木梨の本とにマルコ馬兒科の名なく、製砲の業をニコロ尼科維兄弟二人の働きとしたるに由り、ポーチエ保提額は、二人の始めて支那に往きたる時、彼の助言助力を爲したるならんと云へり。然れどもマルコ馬兒科の名を除きても、不都︀合の度は少しも減ぜられず。二人の始めて支那に往きたるは、蓋至元の初頃にして、一二六九年卽至元六年にヹニス吠尼思に歸りたれば、支那を去りたるは、遲くとも至元五年襄陽攻圍の始れる年より後なることを得ず。二人は、いかで襄陽の圍まれて三年抗禦せるを見ることを得んや。
ユール裕勒曰く「紀行の一本に、この事の前に、蒙古人支那人は、砲器︀を更に知らざりきと云へり。これは、全く實ならず。力の大なる砲器︀の、遠東に知られざりし趣に聞ゆるこの談すらも、蒙古の史に記さるゝ他の事實に合ひ難く思はる。タアバツカトイナシリ塔巴咯惕亦納昔哩と名づくるペルシヤ珀兒沙の史は、チンギスカン成吉思汗のマンヂヤニキカス曼札尼奇合思卽工師長アイカハノヰン愛喀呵諾微音と一萬のマンヂヤニキ曼札尼奇卽砲手の軍とを記せり。又ガウビル誥必勒の用ひたる支那の史も、砲兵の事を記せり」とてスブタイ速不台の汴京攻擊などの事を引けり。
金史强伸の傳に、天興元年(太宗四年)中京(洛陽)を守れる時、三月「北兵圍之、東西北三面、多樹大砲。云云、伸又創遏砲、用不過數人、能發大石於百步外、所擊無不中」。チヂヤンカヒ赤盞合喜の傳、天興元年三月、スブダイ速不䚟に京城(開封)を攻められたる時、「龍德宮造砲石、取宋太湖靈壁假山爲之、小大各有斤重、其圓如燈毯之狀。有不如度者︀、杖其工人。大兵(蒙古兵)用砲則不然。破大磑或碌碡爲二三、皆用之。攢竹砲、有至十三稍者︀、餘砲稱是。每城一角、置砲百餘枚、更遞下上、晝夜不息。不數日、石幾與裏城平。而城上樓櫓、皆故宮及芳華玉谿所拆大木爲之。合抱之木、隨擊而碎。以馬糞麥秸布其上、網索旃褥固護之。其懸風板之外、皆以牛皮爲障、遂謂不可近。大兵以火砲擊之、隨卽延熱、不可撲救。故老所傳、周世宗築京城、取虎牢士爲之、堅密如鐵。受砲所擊、唯凹而已。云云。其攻城之具、有火砲名震天雷者︀。鐵確盛藥、以火點之。砲起火發、其聲如雷、聞百里外、所爇圍半畝之上。火點著︀、甲鐵皆透。大兵又爲牛皮洞、直至城下、掘城爲龕、間可容人。則城上不可柰何矣。人有獻策者︀、以鐵繩懸震天雷者︀、順城而下、至掘處火發、人與牛皮、皆碎迸無迹。又飛火槍、注藥、以火發之、輒前燒十餘步、人亦不敢近。大兵惟畏此二物云」。又續綱目、端平三年(太宗八年)十一月、蒙古の將チヤハン察罕眞州を攻めたる時、知州事丘岳は、「爲三伏、設砲石、待之于西城。敵至、伏起砲發、殺︀其驍將。敵眾大擾」。ラシツト喇失惕の史に據れば、一二五三年(憲宗三年)皇弟フラク呼剌古(フレウ旭烈兀)、ペルシヤ珀兒沙を征する時、大汗マンク莽庫は、支那に人を遣り、そこより砲手火砲手弩手千戶を招ぎき。その弩手の用ひたる弩には、二千五[463]百步の射程ある者︀ありきと云へり。マツチウバリス末收帕哩思の書(五七〇頁、一二四四年の條)に、ルシア嚕西亞より遁げ來つる大僧︀正の話せるタルタル塔兒塔兒の特徴の一つは、眞直に烈しく發する砲器︀を多く彼等の有てることなりとあり。
ユール裕勒は、汴京の砲戰、眞州の砲戰、フラグ呼剌古の砲兵、ルシア嚕西亞の大僧︀正の談を引きたる後、「かるが故に、蒙古人支那人は、攻擊の機器︀を持ちしには相違なけれども、西人のそれらに屬する或便利□〈[#底本では印刷が薄く判読不能]〉闕きたりけんこと明なり。支那にクムガ庫姆嘎砲器︀なかりきとラシドツヂン喇失都︀丁の云へるととは、解釋を闕けり。庫姆嘎は、恐らくは突︀兒克人.アラブ阿喇卜人の大なる砲器︀の一種に名づけたるカラブガ喀喇不嘎の誤ならん。これは、又エウロパ歐囉巴にてカラバガ喀喇巴噶・カラブラ喀剌卜喇など云へり。支那の古の砲器︀は、明に固有の物にして、その見本(第一第二第三圖)は前に示したるが(それらの圖を取れる書には六七の圖解あれども)、支那人の圖解には、分銅にて器︀械を働かする物一つも無く、皆人綱にて動かすものなり。されば蓋西方より取れる改良は、必分銅附の槓桿なりけん」と論斷せり。
天文志一に曰く「世祖︀至元四年、ヂヤマルツヂン札馬魯丁造西域儀象。咱禿哈剌吉、漢︀言混天儀也。咱禿朔八台、漢︀言測驗周天星曜之器︀也。魯哈麻亦渺凹只、漢︀言春秋分晷影堂。魯哈麻亦木思塔餘、漢︀言冬夏至晷影堂也。苦來亦撒麻、漢︀言渾天圖也。苦來亦阿兒子、漢︀言地理志也。兀速都︀兒剌不定、漢︀言晝夜時刻之器︀」。曆志一を按ずるに、元の初は、金の大明曆を用ひたりしが、エリユ耶律楚材は、大明曆の天に後れたるを見て、更に推測してその失を正し、新曆を作り、「題其名曰西征庚午元曆、表上之。然不果頒用。至元四年、西域、ヂヤマルツヂン札馬魯丁、撰進萬年曆。世祖︀稍頒行之」。その後許衡、王恂、郭守敬は、「與南北日官陳鼎臣、鄧元麟、毛鵬翼、劉巨源、王素、岳鉉、高敬等、參考累代曆法、復測候日月星辰消息運行之變、參別同異、酌取中數、以爲曆本。十七年冬至、曆成。詔賜名曰授時曆、十八年、頒行天下」。その推驗の精︀しきことは、今古に卓越したりき。萬年曆は、世に傳はらざれども、必郭守敬等の參考に供せられたるならん。百官志六に、「司天監、掌凡曆象之事」とある外に「フイフイ回回司天監、掌觀象衍曆」とありて、その沿革に「世祖︀在潜邸時、有旨微フイフイ回回爲星學者︀、ヂヤマラヂン札馬剌丁等以其藝進、未有官署︀。至元八年、始置司天臺、秩從五品。十七年、置行監。皇慶元年、改爲監、秩正四品。延祐︀元年、陞正三品、置司天監。二年、命祕書卿提調監事。四年、復正四品」とあり。一八七六年(光緖二年、明治九年)北京の蒙古測天器︀につきワイリー淮黎の述べたる面自き論文を見よ。
又氏族表に祕書志を引きて、「シエンスヂン贍思丁(一作シエンスヂン苫思丁)、亦フイフイ回回人」と云ひて、シエンスヂン贍思丁は集賢大學士、大司徒、大司徒、
行祕書監事、提調回國司天臺事、その子布八は元統二年代父爲祕書卿とあり。
蒙古の朝廷に西域の人あまた來て仕へたる中には、往往惡人もありき。太宗紀に「十一年十二月、商人アウドラハマン奧都︀剌合蠻買撲中原銀課二萬二千錠、以四萬四千錠爲額。從之。十二年正月、以アウドラハマン奧都︀剌合蠻充提領諸︀路課稅所官」。エリユ耶律楚材の傳に「自庚寅(太宗二年)定課稅格、至甲午(六年)平河南、歲有增美。至戊戌(十年)、課銀增至一百一十萬兩。譯史アンテンカ安天合者︀、語事チンハイ鎭海︀、首引アウドラハマン奧都︀剌合蠻、撲買課稅、又增至二百二十萬兩。楚材極力辨諫、至聲色俱厲、言與涕俱。帝曰「爾欲搏鬭耶」。又曰「爾欲爲百姓哭耶。姑令試行之」。楚材力不能止、乃歎息曰「民之困窮、將自此始矣」。云云。歲辛丑(十三年)、帝崩于行在所。皇后ナイマヂン乃馬眞氏稱制、崇信姦回、庶政多紊。アウドラハマン奧都︀剌合蠻、以貨得政柄、廷中悉畏附之。楚材面折廷爭、言人所難言、人皆危之。云云。后以御寳空紙、付アウドラハマン奧都︀剌合蠻、使自書塡行之。楚材曰「天下者︀、先帝之天下。朝廷自有憲章。今欲紊之、臣不敢奉詔」。事遂止。又有旨、凡アウドラハマン奧都︀剌合蠻所建白、令史不爲書者︀、斷其手。楚材曰「事之典故、先帝悉委老臣、令史何與焉。事若合理、自當奉行。如不可行、死且不避、況截手乎」。后不悅。楚材辨論不已、因大聲曰[464]「老臣事太祖︀太宗三十餘年、無負於國。皇后亦豈能無罪殺︀臣也」。后雖憾之、亦以先朝舊勳、深敬憚焉。甲辰夏五月、薨于位、年五十五。皇后哀悼、賻贈︀甚厚」。ドーソン多遜に據れば、皇后トラキナ禿喇奇納攝政し、丞相チンハイ鎭海︀を罷め、モハメト抹哈篾惕敎徒の商人アブドルラハマン阿卜都︀兒喇呵蠻を信任して、財賦の事を主らしめしが、グユク庫由克カン汗位に卽き、アブドルラハマン阿卜都︀兒喇呵蠻を誅し、チンハイ鎭海︀カダク喀荅克を丞相としけりとあり。このフイフイ回回の誅せられたることは、元史に漏れたり。
列傳第九十二姦臣傳、アハマ阿合馬(アハメト阿呵篾惕)、フイフ回紇人也。不知其所由進。世祖︀中統三年、始命領中書左右部、兼諸︀路都︀轉運使、專以財賦之任委之。委しき事跡は、本傳に讓りて、その仕履は、至元元年八月、中書平章政事となり、三年正月、制國用使の職を兼ね、七年正月、尙書省を立て、制國用使司を罷めたる時、アハマ阿合馬は平章尙書省事となれり。「アハマ阿合馬爲人多智巧言、以功利成効自負、眾咸稱其能。世祖︀急於富國、試以行□〈[#「□」は底本では空白。以後すべて同じ]〉、頗有成績。又見其與丞相センヂン線眞史天澤等爭辨、屢□以詘之。由是奇其才、授以政柄、言無不從。而不□□專愎益甚矣」。九年、尙書省を罷め、又中書平章政事となり、十二年、奏して諸︀路の轉運司を立て、イビレキム亦必烈金(イブラセム亦卜喇希姆)、ヂヤマラヂン札馬剌丁(□□□□)張暠、富珪、蔡德潤、紇石烈亨、アリホヂヤ阿里和者︀(アリコヂヤ阿里闊札)、ワンヤン完顏廸、姜毅、アラワヂン阿老瓦丁(アライエツヂン阿來額丁)ダウラシヤ倒剌沙□等を轉運使とし、十六年、その子フツシン忽辛(フスセイン許思薛因)は中書右丞となれり。宰相表には、至元十九年、中書左丞相の欄︀にアハマ阿合馬の名あり、高觿張九思の傳には丞相アハマ阿合馬とあれども、世祖︀紀と本傳とは丞相となれることを載せず。錢大昕の考異は、宰相表を誤れりとし、「アハマ阿合馬未爲丞相。此誤高一格、刋本之譌」と云へり。されども續通鑑綱目には、十八年十二月「以オンギラダイ甕吉剌帶爲右丞相」の下にアハマ阿合馬爲左丞相」と記せり。「時アハマ阿合馬在位日久、益肆貪橫、援引姧黨郝禎︀耿仁、驟升同列、陰謀交通、專事蒙蔽、連賦不蠲、眾庶流移。云云。內通貨賄、外示威刑、廷中相視︀、無敢論列。有宿衞士秦長卿者︀、慨︀然上書發其姦、竟爲アハマ阿合馬所害、斃于獄、事見長卿傳。十九年三月、世祖︀在上都︀、皇太子從。有益都︀千戶王著︀者︀、素志疾惡、因人心憤怨、密鑄大銅鎚、自誓願擊アハマ阿合馬首。會妖僧︀高和尙、以祕術行軍中、無驗而歸、詐稱死、殺︀其徒、以尸欺眾逃去、人亦莫知。著︀乃與合謀、以戊寅日、詐稱皇太子還都︀作佛事、結八十餘人、夜入京城、旦遣二僧︀詣中書省、令市齋物。省中疑而訊之、不伏。及午、著︀又遣崔總管、矯傳令旨、俾樞密副使張易、發兵若干、以是夜會東宮前。易莫察其僞、卽令指揮使顏義領兵俱往。著︀自馳見アハマ阿合馬、詭言太子將至、令省官悉候東宮前。アハマ阿合馬遣右司郞中トホンチヤル脫歡察兒等數騎出關、北行十餘里、遇其衆。僞太子者︀、貴以無禮、盡殺︀之、奪其馬、南入健德門。夜二鼓、莫敢何問。至東宮前、其徒皆下馬。獨僞太子者︀、立馬指揮、呼省官至前、責アハマ阿合馬數語。著︀卽牽去、以所袖銅鎚碎其腦、立斃。繼呼左丞郝禎︀至、殺︀之、囚右丞張惠。樞密院御史臺留守司官、皆遙望、莫測其故。尙書張九思、自宮中大呼、以爲詐。留守司ダルハチボドン達魯花赤博敦、遂持梃前擊立馬者︀墜地弓矢亂發。眾奔潰、多就禽。高和尙逃去、著︀挺身請囚。中丞エツセンテムル也先帖木兒馳奏。世祖︀時方駐蹕チヤガンナウル察罕腦兒、聞之震怒、卽日至上都︀、命樞密副使ボロ孛羅、司徒ホリホスン和禮霍孫、參政アリ阿里等、馳馹至大都︀、討爲亂者︀。庚辰、獲高和尙于高梁河。辛巳、ボロ孛羅等至都︀。壬午、誅王著︀・高和尙于市、皆醢之、幷殺︀張易。著︀臨刑大呼曰「王著︀爲天下除害。今死矣。異日必有爲我書其事者︀」。アハマ阿合馬死、世祖︀猶不深知其姦、令中書毋問其妻子。及詢ボロ孛羅、乃盡得其罪惡、始大怒曰「王著︀殺︀之、誠是也」。乃命發墓剖棺、戮尸于通玄門外、縱犬啗其肉。百官士庶聚觀稱快。子姪皆伏誅、沒入其家屬財產。云云」。この騒動の事は、猶 高觿 張九思の傳に詳かなり。本紀に依れば、アハマ阿合馬の長子フツシン忽辛、次子マスフ抹速忽(馬□□□)、三子アツサン阿散(ハスサン哈思散)、四子ヒンド忻都︀、姪ヅアイヌヂン宰奴丁等皆誅せられ、その黨與にて省部に官する者︀七百十四人皆黜けられき。又張九思の傳に「賊之入也、矯太子命、徵兵樞密副使張易。易不加審。遽以兵與之。易旣坐誅、而刑官復論以知情、將傳首四方。九思啓太子曰「張易應變不審、而授賊[465]以兵、死復何辭。若坐以與謀、則過矣、請免︀傳首」。皇太子言於帝、遂從之」とあれば、張易の謀に與らざることは明かなり。
ラシツト喇失惕の史(ドーソン多遜二、四六七)に依れば、アハメト阿呵篾惕は、ヤクサルテス牙克撒兒帖思河に近きフエナケト弗納客惕(後にシヤハルキア沙呵嚕乞亞)の人にして、ヂヤムイカトン札梅︀合屯の入內する前より知られ、入內の後その宮(オルド斡兒朶)に仕へ、遂にクブライ庫卜賚の信用を得たり。ヂヤムイカトン札梅︀合屯は、后妃表世祖︀の第二オルド斡兒朶なるチヤビ察必皇后、ホンギレ弘吉列氏、魯忠武王アンチノヤン按嗔那顏の女にして、中統の初に皇后となり、至元十八年に崩じ、昭睿順聖皇后と謚せられたる人なり。
マルコポーロ馬兒科保羅の第二十三章「バイロアクマト拜羅阿黑馬惕〈[#「拜羅阿黑馬惕」は底本では「拜阿羅黑馬惕」。同文の「阿黑馬惕」に倣い修正]〉の暴虐云云」と題する一章は、アハマ阿合馬の事を述べたるなり。その叙事のやゝ違へるは、マルコ馬兒科の覺え誤りもあるべく、書取りたる人の書き誤りもあるべし。アクマト阿黑馬惕〈[#ルビの「アクマト」は底本では「アクマク」。後文のルビに倣い修正]〉の貪淫なることを述べたる後に、「千戶チエンチユ潺出と云ふ支那人は、母と女と妻とをアクマト阿黑馬惕に汙されて深く怨み、萬戶ヷンチユ晩出と云ふ支那人と共に丞相を殺︀さんことを謀りき」。千戶チエンチユ潺出は、樞密副使張易の誤にして、萬戶ヷンチユ晩出は、卽千戶王著︀なり。「アクマト阿黑馬惕は、宮門に至れる時、京城の衞士一萬二千の長なるコガタイ科噶台と云ふタルタル塔兒塔兒に遇ひ」て、問答ありき。このコガタイ科噶台は、その夜宮中に宿衞せる工部侍部高觿〈[#「高觿」は底本では「高鑴」。元史(四庫全書本)卷169に倣い修正。以後すべて同じ]〉にて、蒙古人に非ず、渤海︀の人なり。アハマ阿合馬を擊ち殺︀したるは王著︀にして、太子と僞れるは他の人なるを、「アクマト阿黑馬惕は、ヷンチユ晩出をヂンキム眞金なりと思ひ、その前に拜りたる時、劍をもて待ち構へ居たるチエンチユ潺出は直ちにその頭を斬り落しき」と云へり。「入口に留まり居たるコガタイ科噶台は、この事を見ると直に「賊なり」と叫びて、急にヷンチユ晩出に箭を放ちて、その坐れる處を射殺︀し、同時にその衆を呼びて潺を捕へさせき」とあるは、高觿の傳に「燭影下、遙見アハマ阿合馬及左丞郝禎︀已被殺︀、觿乃與九思大呼曰「此賊也」、叱衞士急捕之。高和尙等皆潰去、惟王著︀就擒」と云へる事なり。王著︀をそこに殺︀されたりとせるは、誤れり。「コガタイ科噶台は、直ちに大汗に使者︀を發し、事の顚末を奏しき」は、高觿の傳なる黎明、中丞エセンテムル也先帖木兒與鑴等、馳驛往上都︀.以其事聞」なり。マルコ馬兒科は、この章の末に「今あらゆるこの事の起りし時に、マルコ馬兒科はそこに居りき」と附け加へたり。デメイラ迭邁剌は、通鑑綱目を譯して、アハマ阿合馬の罪惡を世祖︀に吿げたる樞密副使ボロ孛羅をマルコ馬兒科らしくポーロ保羅と譯したれば、ユール裕勒はそれにだまされて、「マルコ馬兒科君のそこに居たることとその折にその正直なる行とは、支那の歷史家に忘れられざりしは、愉快なる事なりき」と嬉しがりたれども、ボロ孛羅は、實はマルコ馬兒科にあらず。世祖︀紀に、至元七年十二月「以御史中丞ボロ孛羅兼大司農卿」、十二年四月「以大司農御史中丞ボロ孛羅爲御史大夫」、十四年二月「以大司農御史大夫ボロ孛羅爲樞密副使、兼宣徽使、領侍儀司事」とある人にして、マルコポーロ馬兒科保羅の支那に至れるよりも遙に前より蒙古の顯官となりたる人なりき。
氏族表に「ウバドラ烏巴都︀剌、亦フイフイ回回人」と云ひて、曾祖︀マシヤラフツヂン木沙剌福︀丁、祖︀ヂヤラルツヂン札剌魯丁北京路ムクリウチヤルビ木忽里兀察兒必、父イフデハルヂン亦福︀的哈魯丁翰林學士承旨、ウバドラ烏巴都︀剌中書參知政事を擧げ、又「ダウラシヤ倒剌沙、亦フイフイ回回人」と云ひて、兄マミウシヤ馬某沙湖南行省左丞、ダウラシヤ倒剌沙中書左丞相、その子ボビムバラシヤ潑皮木八剌沙を擧げたり。ウバドラ烏巴都︀剌は、本紀にはウバドラ兀伯都︀剌、宰相表にはウバドラ烏伯都︀剌と書き、大德十一年武宗卽位の初に中書參知政事(武宗紀に八月と九月と二所に書きたるは重複なり)、至大元年中書左丞、四年中書右丞、仁宗皇慶二年中書平章政事、英宗の時江浙行省に出され、泰定帝の時復中書に入り、ダウラシヤ倒剌沙の敗れたる時、エンテムル燕鐡木兒に殺︀されき。
ダウラシヤ倒剌沙は、泰定帝の重臣にして、帝の晉王として北邊に居りし時より王府の內史となりき。泰定帝は、世祖︀の曾孫、裕宗(皇太子眞金)の孫、成宗の姪、武宗・仁宗の從兄にして、顯宗(晉王ガマラ甘麻剌)の長子なり。本紀に「ダウラシヤ倒剌沙得幸於帝、常偵伺朝廷事機」とあれども、委しき事情は考ふるに由なし、天曆の朝臣の誣罔[466]に出でたる說なるかも知るべからず。至治三年八月英宗(仁宗の子)、上都︀より南に還りて南坡に蹕を駐めし時、御史大夫テシ鐵失等逆を謀り、右丞相バイヂユ拜住を殺︀し、英宗を幄殿に弑し、その黨諸︀王アンチブハ按梯不花知樞密院事エツセンテムル也先鐵木兒、皇帝の璽綬を奉じて帝の迎へに往きたれば、九月癸巳、帝はルンク龍居河にて卽位し、天下に大赦し、明日ダウラシヤ倒剌沙を中書平章政事となしき。この時の赦書は、蒙古文の俗文譯にて珍しければ、こゝに引かん。「セツエン薛禪クワウテイ皇帝
明宗紀に「泰定皇帝崩于上都︀。ダウラシヤ倒剌沙專權自用、踰月不立君、朝野疑懼。時僉樞密院事エンテムル燕鐵木兒、留守京師遂謀擧義」と云ひ、エンテムル燕鐵木兒の傳には「丞相ダウラシヤ倒剌沙專政、利於立幼」とあり。考異にそれを駁して「泰定踐祚之日、儲位早定、朝野本無異議也」とてダウラシヤ倒剌沙の「踰月不立君」を實錄の誣詞とせり。委しくは、下の〇〇〇頁に引けり。かくて八月甲午、エンテムル燕鐡木兒は、百官を興聖宮に集め、兵を以て脅して、武宗の子を立てんことを誓ひ、手づから平章ウバドラ烏伯都︀剌バヤンチヤル伯顏察兒を縛り、武宗の次子懷王トテムル圖帖睦爾(文宗)を江陵より迎へんが爲に使を遣しき。九月辛未、ウバドラ烏伯都︀剌を殺︀し、バヤンチヤル伯顏察兒を流して、その家を籍し、壬申、文宗位に卽き天曆と改元せり。この時天順帝已に上都︀に卽位し、大兵を遣して大都︀の叛者︀を征したるに、エンテムル燕鐵木兒自ら出でて禦ぎ戰ひ、劇戰數回の後、北軍遂に敗れ、十月辛丑、ダウラシヤ倒剌沙等、皇帝の寶を奉じて出で降り、天順帝はいかになれるか、元史に記せず。已酉、ウバドラ烏伯都︀剌の家貲を追理し、庚戌、ダウラシヤ倒剌沙を獄に下し、十一月庚申、ダウラシヤ倒剌沙・マミウシヤ馬某沙・ボビ潑皮・ムバラシヤ木八剌沙等の家貲を追理し、癸未、ダウラシヤ倒剌沙・マミウシヤ馬某沙等を殺︀しき。
氏族表は、諸︀書を引きて、これらの外にあまたのフイフイ回回人を載せたり。元統己酉進士錄に見えたるムグビリ穆古必立ラマダン剌馬丹は、皆フイフイ回回氏、トイン脫穎はムスルマン木速魯蠻氏にて、いづれもその父祖︀三代の名を列記せり。ムスルマン木速魯蠻は、卽ムスルマン木速兒蠻にて、モハメト抹哈篾惕敎徒と云ふに同じ。又進士錄に、アドラ阿都︀剌はフイフイ回回シマリ昔馬里の人とありと云へり。シマリ昔馬里は考へ得ず。祕書志には、至元六年の祕書卿フイフイ回回人ムバラギ木八剌吉、大德十一年祕書少監となれるムスマン木速蠻(ムスルマン木速兒蠻)のツエヘルヂ節︀歇兒的あり。歐陽玄の集にはタージ大食國の人エクデル也黑迭兒あり、チヤデル茶迭兒局諸︀色人匠總管府のダルハチ達魯花赤となり、その子マハマシヤ馬合馬沙その職を襲ぎ、マハマシヤ馬合馬沙の子四人ミルシヤ密兒沙・ムバラシヤ木八剌沙・フドルシヤ忽都︀魯沙・アルフンシヤ阿魯渾沙、ミルシヤ密兒沙の子ウマル烏馬兒、アルフンシヤ阿魯渾沙の子メリシヤ蔑里沙あり。同じ集に見えたる燕京の大斷事官ウテン于闐の人ヤラワシ雅老瓦實、朱德潤の集に見えたるウテン于闐の人[467]にてブハラ不花剌氏なるマハマ馬合馬、進士錄なるフイフイ回回ウテン于闐の人ハバシ哈八石、フイフイ回回アリマリ阿里馬里の人ウマル烏馬兒の如きは、いづれもモハメト抹哈篾惕敎徒なれども、蔥嶺以東の人なり。危素の集なるエルトフリン耶爾脫忽璘フイフグスル回紇古速魯氏は、いづこの人なるか確ならず。進士錄なるベロシヤ別羅沙は、西域ベシバリ別失八里の人にて、「其母フイフイ回回氏、妻ダシマン荅失蠻氏、當亦フイフイ回回也」。ベロシヤ別羅沙の曾祖︀ムバラ木八剌、祖︀ベルシヤ別魯沙、父シエンスヂン苫思丁、兄メリキシヤ默理契沙、皆フイフイ回回の名に似たり。
列傳卷十「アイマウバード艾貌拔都︀、カングリ康里氏。初從セブタイノエン雪不台那演、征キムチヤ欽察、攻河西城、收西關、破河南、繼從定宗、略地アヌ阿奴、皆有功、又從四太子南伐、命充ケレンク怯憐口アダチボコスン阿荅赤孛可孫」。雪不台那演は、卽速不台那顏なり。阿奴は、人の名にして、地の名に非ず、金の威平路の宣撫使蒲鮮萬奴にして、太祖︀十年遼東に據り天王と稱し、十一年蒙古に降りて復叛きたる人なり。親征錄辛未(太祖︀六年)南征の條に野狐嶺の敵將を招討九斤監軍爲奴と書けるを、續綱目には完顏九斤完顏萬奴とあり。李文田曰く「爲奴、當作萬奴、卽元史太祖︀紀蒲鮮萬奴也」。喇失惕の史に洼奴とあるは、卽萬奴にして、又こゝの阿奴とも音近し。又親征錄甲戌(太祖︀九年)金主南遷の條に「以招討也奴爲咸平路宣撫」とあるを、沈曾植は「當作也奴、卽萬奴也」と云へり。「從定宗、略地阿奴」は、太宗五年の秋、皇子貴由(定宗)、諸︀王按赤帶等の、萬奴を征したる時、艾貌も從へるなり。「從四太子南伐」は、太宗三年、皇弟拖雷(四太子)、陜西に入り、金房より漢︀江を渡り、四年正月禹山三峯山の戰ありし時、愛貌〈[#「愛貌」はママ]〉も從へるなり。然らば南伐は前にあり、東征は後にあるを、この傳は次序を顚倒せり。次に「又從兵、渡江攻鄂、以疾卒于軍」と云へるは、憲宗九年皇弟忽必烈南伐の時の事なり。その子也速台兒は、世祖︀に事へて、屢軍に從ひ、「以功升武略將軍千戶、賜金符。又招手號新軍二千五百餘人、升宣武將軍總管、賜虎符。有旨征日本、エスタイル也速台兒願效力、賜以弓矢、進懷遠大將軍萬戶、至元二十年、授泰州萬戶府ダルハチ達魯花赤。二十三年、遷昭勇大將軍キムチヤ欽察親軍都︀指揮使」。
このエスタイル也速台兒は、列傳卷二十に別に傳ありて、「エスダル也速䚟兒、カングリ康里人。父アイババヤウ愛伯伯牙兀、太祖︀時率衆來歸」と云へり。アイバ愛伯は、卽アイマウ艾貌、バヤウ伯牙兀は、アイバ愛伯の姓なり。アイマウ艾貌の傳にカングリ康里氏とあるは、正しくはカングリ康里のバヤウ伯牙兀氏と云ふべきなり。ブレトシユナイデル卜咧惕施乃迭兒曰く「バヤウ伯牙兀は、蓋バヤウト巴牙兀惕なり。バヤウト巴牙兀惕は、モハメト抹哈篾惕敎徒の記者︀に據れば(多遜一、一九七)、コラズム闊喇自姆のシヤーモハメト沙抹哈篾惕の母トルカンカトン突︀兒罕合屯の屬するカンクリ康克里の一部族の名なりき。モンゴル蒙果勒の始めてコラズム闊喇自姆を攻めし時、その國にカンクリ康克里人あまた居たりき」。このバヤウト巴牙兀惕は、實錄卷一、九頁に見えたる蒙古のバヤウダイ巴牙兀歹、輟耕錄蒙古七十二種の內なるバヤウダイ伯要歹とは全く異なり。次に「初以五十戶從軍、力戰而死」とあるは、アイマウ艾貌の傳なる「從兵、渡江攻鄂、以疾卒于軍」を云へるなり。
エスダイル也速䚟兒は、父の官を襲ぎ、丞相バヤン伯顏に從ひ南伐し、「世祖︀賜金符、加爲千戶、督五路招討、至元十六年、改金虎符管軍總管。江南平、錄功、進懷遠大將軍管軍萬戶、領江淮戰艦數百艘、東征日本、全軍而還。有旨、特賜養老一百戶、衣服弓矢鞍轡有加。二十二年、移鎭秦州。時籍民丁爲兵、得萬人、以エスダイル也速䚟兒爲キムチヤ欽察親軍指揮使統之」とあり。アイマウ艾貌の傳なるエスダイル也速台見といかに似たるかを見よ。
すべて元史には、叙事の重複夥しき上に、一人の傳を重複して二所に書きたるもの往往有り。顧炎武曰く「元史列傳八卷スブタイ速不台、九卷セブタイ雪不台、一人作兩傳。十八卷モンヂエイト完者︀都︀、十九卷オンヂエイバード完者︀拔都︀、亦是一人作兩傳。蓋其成書不出于一人之手」。錢大昕曰く「セブタイ雪不台、卽スブタイ速不台、譯音無定字也。朱錫鬯云「元史旣有スブタイ速不台矣、而又別出セブタイ雪不台。旣有オンヂエイト完者︀都︀矣、而又別出オンヂエイバード完者︀拔都︀。旣有シモエツセン石抹也先矣、而又別出シモアシン石抹阿辛。以及アタチユフラチユ阿塔出忽剌出兩人、[468]旣附書于ハンフスチトル杭忽思直脫兒之傳矣、而又爲立傳。至於作佛事、則本紀必書、游皇城、入之禮樂志、(原注。當云祭祀志、朱誤記。)皆乖謬之甚者︀」。予按、元史列傳之重複者︀、如第十卷エブガンブ也蒲甘卜傳、附見其子アンギル昂吉兒、而第十九卷、又有アンギル昂吉兒傳、第十卷タブギル塔不己兒傳、附見其孫チユンヒ重喜、而第二十卷、又有チユンヒ重喜傳、第十卷、已有アチユル阿朮魯傳而第十八卷ホワイド懷都︀傳、又附書アチユル阿朮魯事、第五十四卷譚資榮傳、附見其子澄、而第七十八卷良吏傳、又有譚澄、皆朱氏所未及糾也」。錢氏は、洵に善く取調べたれども、アイマウバード艾貌拔都︀の傳にその子エスタイル也速台兒の事を附記しながら、重ねてエスダイル也速䚟兒の傳を立てたる車に心附かざりしは、二傳互に詳略あり錯誤ありて、異なる人の如くも見ゆるが爲なるべし。
次に擧ぐるカングリ康里人は、國初の功臣に非ざれども、前のフイフイ回回人の如く、支那の朝廷に例なき遠人の集合を示
さんが爲に列記するなり。
列傳卷十七「ブクム不忽木、一名時用、字用臣、世爲カングリ康里部大人。カングリ康里、卽漢︀高車國也」。高車は、康居の誤なり。高車は、魏書に見え、漢︀の世には聞えず。又高車は、カレ鐵勒の同種にして、カングリ康里とは異なり。「祖︀ハイロンバ海︀藍伯、嘗事ケレイワンカガン克烈王可汗。ワンカガン王可汗滅、卽棄家、從數十騎、望西北馳去。太祖︀遣使招之。荅曰「昔與帝同事ワンカガン王可汗。今ワンカガン王可汗旣亡、不忍改所事」遂去、莫知所之。子十人、皆太祖︀所虜︀。エンヂン燕眞最幼、年方六歲、太祖︀以賜莊聖皇后(トルイ拖雷の妃)。后憐而育之、遣侍世祖︀於藩邸。長從征伐有功。云云、官止衞率」。その仲子ブクム不忽木は、「資廪英特、進止詳雅。世祖︀奇之、命給事裕宗東宮、師事太子贊書王恂。恂從北征、乃受學於國子祭酒許衡、日記數千言。衡毎稱之、以爲有公輔器︀」。その學成りて官に就くに及びて、純然たる儒生なりき。至元十四年、利用少監、十五年、燕南河北道の提刑按察副使、十九年、提刑按察使、二十一年、參議中書省事、二十三年、刑部尙書二十七年、翰林學士承旨、二十八年、中書平章政事。三十年「帝大漸、與御史大夫ユルノヤン月魯那顏(ハラハスン哈剌哈孫)、太傅伯顏並受遺詔、留禁中」。元貞二年、昭文館︀大學士平章軍國事、大德四年卒しき。長子フイフイ回回は、陝西行省の平章政事。その事蹟は、列傳卷三十弟巙巙の傳に附記せり。巙巙も、儒臣にして、至正四年江浙行省の平章政事、五年翰林學士承旨。又ハイロンバ海︀藍伯の裔に太子の司經バイヂユ拜住なる人あり、明の兵京師に入りたる時、井に入りて自殺︀せり。その事は、列傳卷八十三忠義四閔本の傳に附記せり。
列傳卷二十一「トブル禿忽魯、字親臣、カングリイナ康里亦納之孫、アリダシ亞禮達石第九子也」。イナ亦納は、何人なるか、知らず。キムチヤ欽察部主イナス亦納思に似たれども、部の名異なり。トブル禿忽魯は、ブクム不忽木と同じく許衡に學び、世祖︀嘗て康秀才と呼べり。至元の末、湖廣行省の右丞、成宗の時、江浙行省の右丞。
列傳卷二十一「オロス斡羅思、カングリ康里氏。曾祖︀ハシバヤウ哈失伯要、國初款附、爲莊聖太后宮牧官」。ハシバヤウ哈失伯要は、名はハシ哈失、姓はバヤウ巴牙兀にて、アイベバヤウ愛伯伯牙兀と同姓なり。「祖︀ハイド海︀都︀、從憲宗、征釣魚山、歿于陣。父ミンリテムル明里帖木兒、世祖︀時爲ビヂエチ必闍赤、後爲太府少監」。オロス斡羅思は、至元二十九年、八番順元等處の宣慰使都︀元帥、大德六年、ロロス羅羅思の宣慰使兼管軍萬戶、武宗の時、四川行省の平章政事。その子キントン慶童は、列傳卷二十九に傳あり、仁宗の時より朝に仕へ、至正十年、江浙行省の平章政事、二十五年、陝西行省の左丞相、二十八年中書左丞相、京城破れたる時殺︀されき。
列傳卷二十二「タリチ塔里赤、カングリ康里人。其父エリリベ也里里白、太祖︀時、以武功授帳前總校」。タリチ塔里赤は、世祖︀の時、蒙古[469]軍を率ゐ、南征して功あり、測東道の實慰使に終れり。
列傳卷二十二「ミンガン明安、カングリ康里氏。至元十三年、世祖︀詔、民之蕩析離居、及僧︀道漏籍、諸︀色人不當差徭者︀萬餘人、充グイチ貴赤、令ミンガン明安領之」。グイチ貴赤は、走る人なり。語解に、グイチ桂齊と改めて、「ヨクハシル善跑人也」と注せり。日本語にてアシガルグミ足輕組と云ふが如し。「二十年、授定遠大將軍中衞親軍都︀指揮使。明年、賜佩虎符、領グイチ貴赤軍北征。又明年立グイチ貴赤親軍都︀指揮使司、命爲本衞ダルハチ達魯花赤。尋奉旨領蒙古軍八千北征」。二十年の「又明年」は、二十二年なり。然るに元史八六百官志二樞密院の所管に「グイチ貴赤衞親軍都︀指揮使司。至元二十四年立、置都︀指揮使二員、副都︀指揮使二員。二十九年、置ダルハチ達魯花赤一員」とあれば、「又明年」は、二十四年の誤なるべし。その年は、未ダルハチ達魯花赤を置かれざれば、本衞ダルハチ達魯花赤は、何かの誤なるべし。ミンガン明安は、それよりハイド海︀都︀等諸︀叛王の軍と屢戰ひ、「二十九年、以功陛定遠大將軍グイチ貴赤親軍都︀指揮使司ダルハチ達魯花赤」とあるは、百官志の語と合へり。その後「大德二年、復將兵北征、與ハイド海︀都︀戰、七年歿于軍」。その子テゲタイ帖哥台、弟トドチユ脫迭出、テゲタイ帖哥台の子ブヤンフリ普顏忽里、皆グイチ貴赤親軍都︀指揮使司のダルハチ達魯花赤。テゲタイ帖哥台、(後に)、テゲタイ帖哥台の弟ボランヒボ李蘭奚字、ランヒ蘭奚の子サングスン桑兀孫・キダハイ乞荅海︀二人、皆中衞親軍都︀指揮使。
列傳卷二十三、アシヤブハ阿沙不花の傳に曰く「アシヤブハ阿沙不花者︀、カングリ康里國王族也。初太祖︀拔カングリ康里時、其祖︀母シエンメグマリ苫滅古麻里氏新寡、有二子曰クル曲律・ヤヤ牙牙、皆幼。而國亂家破、無所依。欲去而歸朝廷、念無以自達。一夕有數駝、皆重負、突︀入營中、驅之不去。且乃繫駝營外、置所負其旁、夜復納營中、候有求者︀歸之。如是十餘日、終無求者︀。乃發視︀其裝、皆西域重寶。驚曰「殆天欲資我而東耶。不然、此豈吾所宜有」。遂驅馳、載二子、越數國、至京師時太祖︀已崩、太宗立、盡獻其所有。帝深異之、命有司治邸舍、具廩餼、以居焉」。洪鈞のカングリ康里補傳に曰く「太祖︀十六年辛巳〈[#「巳」は底本では「已」]〉、以西域不日底定、命哲別・速不台、北征奇卜察克。旣殘其聚、復敗俄羅斯軍。十九年、東入カングリ康里、乘勝席捲、前無堅城、遂躪其部」と云ひて、自注に「西書記征カングリ康里、不詳。元史スブタイ速不台傳「メリキ蔑里乞部主ホド霍都︀奔キムチヤ欽察。スブタイ速不台追之、與キムチヤ欽察戰於玉峪敗之」。カングリ康里在東、キムチヤ欽察在西。如往キムチヤ欽察、必經カングリ康里。則當帝征西域之前、已臨其境。然アシヤブハ阿沙不花傳云「云云、至京師、時太祖︀已崩」。據此、則カングリ康里之拔、必在太祖︀季年。其爲ヂエス哲速二將北征之役、更無疑義。而速不台在太祖︀朝、僅一至欽察、傳乃誤爲兩役、亦可取以爲證」と云へり。かの寡婦は、「居二年、聞國中已定、謁︀帝欲歸。帝曰「汝昔何爲而來、今何爲而去」。且問其所欲。對曰「臣妾昔以國亂無主、遠歸陛下。今賴陛下威德、聞國已定、欲歸守墳墓耳。妾惟二子、雖愚無知、願留事陛下」。帝大喜、立召二子入宿衞、而禮遣之。後十三年復來、則二子已從憲宗伐蜀矣。逮至和寧、聞憲宗崩、諸︀將皆還、而二子獨後、心方以爲憂。過一古廟、因入禱焉。若聞神︀語、連稱好好、而不知其故。問其國人通漢︀語者︀、知爲古語、還至舍、則二子已至矣。遂留居焉。クル曲律無子。ヤヤ牙牙後[追]封カウコクワウ康國王、生六子、アシヤブハ阿沙不花最賢、年十四入侍世祖︀云云」。世祖︀の時、千戶を以てシバウチ昔寶赤を領し、成宗の時、大宗正ヂヤルホチ札魯火赤、武宗の時、中書平章政事錄軍國重事康國公知樞密院事。子バギヤヌ伯嘉訥は、翰林侍讀學士。氏族表に據れば、アシヤブハ阿沙不花の兄四人、ボベシエル孛別舍兒 ホヂエギ和者︀吉 ブベ不別 オトマン斡禿蠻。ホヂエギ和者︀吉の子四人、エンブレン燕不憐は、遼陽行省の平章政事太保興國公。エンバスチ燕八思提は、大司農ベブハ別不花は、嶺北行省の平章政事。バサリ伯撒里は、太師中書右丞相永平王。バギヤヌ伯嘉訥の兄ハイイル海︀亦兒は、順寧府のダルハチ達魯花赤。アシヤブハ阿沙不花の弟トト脫脫は、別に傳あり。
列傳卷二十五に曰く、「カングリトト康里脫脫、父曰ヤヤ牙牙、由康國王封雲中王。アシヤブハ阿沙不花之弟也。トト脫脫姿貌魁梧。少時從[470]其兄オトマン斡禿蠻、獵於燕南、オトマン斡禿蠻使歸獻所獲。世祖︀見其骨氣沈雄、步履莊重、歎曰「後日大用之才、已生於今」。卽命入宿衞」。丞相バヤン伯顏も見て驚き、「吾老矣。他日可大用者︀、未見汝比」と云ひしが、後果して賢相となれり。「大德三年、武宗以皇子撫軍北部、トト脫脫從行。五年、叛王ハイド海︀都︀犯邊、トト脫脫從武宗討之。進擊ハイド海︀都︀、大破其眾。云云。兵之始交也、武宗銳欲出戰。トト脫脫執輿力諫。武宗怒、揮鞭扶其手、不退、乃止。已而武宗與大將ドルダハ朶兒荅哈語及之。ドルダハ朶兒荅哈曰「太子在軍中、如身有首、如衣有領。脫有不虞、衆安所附。トト脫脫之諫可謂忠矣」。武宗深然之」。ドルダハ朶兒哈荅は、世祖︀紀にドルドハイ朶兒朶海︀、ヤフド牙忽都︀の傳にドルトハ朶兒朶哈、トトハユワシ土土哈玉哇失の傳にドルドハイ朶兒朶懷とあり。「身有首、衣有領」は、蒙古の俗語「ベエテリウト別耶帖哩兀禿、デエルイヂヤハト迭額勒札哈禿」の直譯なり。至大元年、中書左丞相、仁宗の時、江浙行省の左丞相、英宗の時、御史大夫、泰定四年薨じき。「子九人、其最顯者︀二人、曰テムルタシ鐵木兒塔識、曰タシテムル達識帖睦邇、各有傳」。(列傳卷二十七)。テムルタシ鐵木兒塔識は、至正元年、中書平章政事、七年左丞相。タシテムル達識帖睦邇は、至正十五年、中書平章政事、江浙行省の左丞相。
列傳卷九十二姦臣傳にも、カングリ康里の兄弟あり。「ハマ哈麻、字士廉、カングリ康里人。父トル禿魯。母爲寧宗乳母。トル禿魯以故封冀國公、加太尉、階金紫光祿大夫。ハマ哈麻與其弟セセ雪雪、早備宿衞、順帝深眷寵之。而ハマ哈麻有口才、尤爲帝所褻幸、累遷官爲殿中侍御史。セセ雪雪累官集賢學士」。至正十四年、ハマ哈麻は中書平章政事となり、丞相トト脫脫とトト脫脫の弟御史大夫エセンテムル也先帖木兒とを讒害し、「十五年四月、セセ雪雪由知樞密院事、拜御史大夫。五月、ハマ哈麻遂拜中書左丞相。國家大柄、盡歸其兄弟二人矣」。十六年、ハマ哈麻不軌を謀れるを、その妹壻トルテムル禿魯帖木兒に帝に吿げられ、「遂詔ハマ哈麻於惠州安置、セセ雪雪於肇州安置、比行俱杖死、仍籍其家財」。
氏族表に曰く「カングリ康里人見於史者︀、又有チンチユ定柱、至正中中書右丞相。見於祕書志者︀、有ギヤウハヂ敎化的、至順二年祕書少監、キダサリ乞荅撒里、元統元年祕書省丞」。
八。キムチヤ欽察卽キブチヤウト乞卜察兀惕。
列傳卷十「シエンチエバードル苫徹拔都︀兒、キムチヤ欽察〈[#ルビの「キムチヤ」は底本では「キマチヤ」。直前のルビに倣い修正]〉人。初事太宗、堂牧馬、從攻鳳翔、戰潼關皆有功」。その後汴京を攻め、蔡州を攻むるに皆從ひ、定宗憲宗の世を歷て、至元十四年まで、從軍殆ど虛歲なく、滁州路總管府のダルハチ達魯花赤となれり。子トホン脫歡は、滁州萬戶府のダルハチ達魯花赤。トホン脫歡の子マウ麻兀は、祖︀の職を襲ぎ、次子ソーヂユ鎖住は、父の職を襲げり。
キムチヤ欽察人にて太宗に事へ、元史に傳あるものは、シエンチエバードル苫徹拔都︀兒のみなれども、憲宗以後の朝に事へて名を顯せるもの多きことは、カングリ康里人に遜らず。
列傳卷十五、キムチヤ欽察のトトハ土土哈の傳は、虞集のコウヨウ句容郡王世績碑(元文類︀卷二十六)に依り、やや增損改修したるものなり。碑に曰く「キムチヤ欽察之先、武平北ヂエレン折連川アンダハン按答罕山部族也。後遷西北、卽ユリベリ玉黎北里之山居焉。土風剛悍、其人勇而善戰。自キユネン曲年者︀、乃號其國人曰キムチヤ欽察、爲之主面統之」。この文に怪むべき所あり。武平は、金志地理志北京路大定府の屬縣、元史地理志遼陽行省大寧路の屬縣にして、今の直隷承德府の境內に在り、文宗紀に至順元年、トトハ土土哈の親族なるブハテムル不花帖木兒を武平郡王に封じたることも見えて、支那の內地なること明かなり。ヂエレン折連川は、兵志三馬政の篇太僕寺の牧地十四處を列記したる第一に東路ヂエレンケエル折連怯呆兒等處と見え、碑に武平の北と云へば、武平より上都︀に赴く間に在るべし。ユリベリ玉黎北里の山は、兵志牧地の第二にユルベヤ玉你伯牙〈[#ルビの「ユルベヤ」は底本では「エルベヤ」。他の「玉」ルビに倣い修正]〉上都︀周圍と見え、ヂエレンケエル折連怯呆兒等處の管內にもユルベヤ玉你伯牙斷頭山と見えたれば、ユリベリ玉黎北里のリ里はヤ野の誤りにて、この山も上都︀[471](今のドロンノール多倫諾爾)の邊にて、ヂエレン折連川よりさほど遠からざる所にあるべし。タイブハ泰不花の傳に「世居ベヤ白野山」とあるベヤ白野は、ユル玉你を略きたるならん。然らばこの移住は、キムチヤ欽察の祖︀先の事に非ずして、トトハ土土哈の父祖︀の蒙古に歸してより、武平上都︀の閒にて移住したるを、かくは誤り書けるならん。元史列傳にも、これに似たる誤りあり。列傳卷十に「チヤウル抄兒、ベス別速氏、世居汴梁陽武縣、從太祖︀、收附諸︀國、有功、」卷二十に「オンヂエイバード完者︀拔都︀、キムチヤ欽察氏、其先彰德人」「ケレイ怯烈、西域人、世居太原、云云」と云へるが如き、その類︀なり。トトハ土土哈の傳は、キユネン曲年を蒙古人の如くクチユ曲出と誤り、「後遷」以下の十三字を「自クチユ曲出、徙居西北ユリベリ玉里伯里山、因以爲氏」と改めて、トトハ土土哈をユリベリ玉里伯里氏となせり。されどもトトハ土土哈は、キムチヤ欽察と云ふより外に、姓なきものと見えて、トトハ土土哈の孫エンテムル燕鐵木兒の傳にもエンテムル燕鐵木兒の女なる順帝のダナシリ荅納失里皇后の傳にもキムチヤ欽察氏とのみあり、元統二年立后の册文にも「咨爾皇后キムチヤ欽察氏」とあれば、ユリベリ玉里伯里氏の說、信ずべからず。
然れどもエンテムル燕鐵木兒の傳に「立エンテムル燕鐵木兒女バヤウ伯牙吾氏爲皇后」、メルキト篾兒乞惕のバヤン伯顏の傳にも皇后バヤウ伯牙吾氏、順帝紀立后の所にも幽廢の所にも、バヤウ伯牙吾氏とありて、后妃傳と異なり。先祖︀代代キムチヤ欽察氏にて、一女のみ他の姓を稱する理なければ、キムチヤ欽察氏は、蓋ユルベヤ玉你伯牙山卽ベヤ白野山に徙りてより、山の名のベヤ伯牙卽バヤ伯牙を取りてバヤウ伯牙吾氏となれるなり。傳の「因以爲氏」は、「因以バヤウ伯牙吾爲氏」と云はざれば、意通ぜず。元の時バヤウ伯牙吾氏三宗あり。第一は蒙古のバヤウト巴牙兀惕氏、實錄第九頁に見えたるマアリクバヤウダイ馬阿里黑伯牙兀歹の子孫、輟耕錄蒙古七十二種のバヤウダイ伯要歹にして后妃表成宗の后に「ブルハン卜魯罕皇后バヤウ伯岳吾氏、勳臣ブハ普化之孫駙馬トリフス脫里忽思(后妃傳にトリス脫里思)之女」とあるは、蒙古のバヤウト巴牙兀惕なり。ブハ普化は、卽ブカ不合にして、蒙古人に多くある名なり。功臣の第八十一なるブカ不合駙馬(實錄三二五)ヂユチ拙赤の北征に嚮導したるブカ不合(實錄三九八)を、前にムカリ木合黎の弟なるヂヤライル札剌亦兒のブカ不合なりと注したれども、この勳臣ブハ普化なるかも知れず。
第二のバヤウ伯牙吾氏は、ラシツト喇失惕の史に見えたるカングリ康里のバヤウト巴牙兀惕にて、エスダイル也速䚟兒〈[#ルビの「エスダイル」は底本では「スダイル」。他の「也速䚟兒」のルビに倣い修正]〉の傳のバヤウ伯牙兀、オロス斡羅思の傳のバヤウ伯要なり。第三のバヤウ伯牙吾氏は、卽キムチヤ欽察のトトハ土土哈の一族なり。列傳卷二十一に「ホシヤン和尙、ユルベリバヤウタイ玉耳別里伯牙吾台氏。祖︀ハラチヤル哈剌察兒、率所部歸太祖︀。父クドス忽都︀思、膂力過人。歲壬辰、從睿宗、破金大將カダ合達軍于鈞州三峯山、以功賜號バードル拔都︀魯」とあり。ユルベリ玉耳別里も、リ里はヤ野の誤りにて、卽碑のユリベリ玉黎北里、兵志のユルベヤ玉你伯牙なれば、そのユルベヤ玉你伯牙に住みて、山の名を取りて姓としたる故に、ユルベヤ玉你伯牙のバヤウタイ伯牙吾台と稱したるなり。列傳卷三十に「タイブハ泰不花、字兼善、バヤウタイ伯牙吾台氏、世居ベヤ白野山。父タブタイ塔不台、入直宿衞、云云」とあるも、ベヤ白野山卽バヤ巴牙に居たるが故にバヤウタイ巴牙吾台と稱したるなり。この二家は、トトハ土土哈の家と同族なるが如くも聞ゆれども、二傳ともにキムチヤ欽察人と云はず、又ハラチヤル哈剌察兒クドス忽都︀思タイブハ泰不花タブタイ塔不台など云ふ名は、いづれも蒙古語にして、又傳の事蹟にも色目らしき所見えざれば、蒙古なるかキムチヤ欽察なるか定め難し。然るに氏族表キムチヤ欽察の部に「徙居西北ユリベリ玉里伯里山」の下に「因所居バヤウ伯牙吾山爲氏、號其國曰キムチヤ欽察」と云ひて、ユリベリ玉里伯里山卽ユルベリ玉耳別里とバヤウ伯牙吾山卽ベヤ白野とを別の山とし、二つともにキムチヤ欽察の山とし、又ホシヤン和尙もタイブハ泰不花もキムチヤ欽察人と定め、成宗のブルハン卜魯罕皇后までもキムチヤ欽察人とし、蒙古にバヤウト巴牙兀惕氏あることを云はざるは、大に誤れり。
碑の「土風」以下十字の代りに、傳は「其國去中國三萬餘里。夏夜極短、日暫沒卽出」と書けり。碑の續きに「キユネン曲年生ソモナ唆末納、ソモナ唆末納生イヌス亦訥思。太祖︀皇帝征メキスホト蔑乞思火都︀、ホト火都︀奔イヌス亦訥思。遺使諭取之、不從」とあり「太祖︀」以下を傳は「太祖︀征メリキ蔑里乞、其主ホト火都︀奔キムチヤ欽察、イナス亦納思納之。太祖︀遣使諭之曰「汝奚匿吾負箭之糜。亟以相還。不然禍︀且及汝」。イナス亦納思答曰「逃鸇之雀、叢薄猶能生之。吾顧不如草木耶」。太祖︀乃命將討之」と改め補へり。メリキ蔑里乞のホト火都︀は、卽祕史のメルキト篾兒乞惕のクト忽禿なり。クト忽禿は、祕史に據れば、チユイ埀〈[#「埀」はママ。実録や底本の他箇所では異体字「垂」が使われている]〉河にてスベエタイ速別額台に追ひ窮められ、ラシツト喇失惕に據れば、キプチヤク乞魄察克に奔らんとして蒙古の軍に捕へ殺︀されたりと云へば、キムチヤ欽察に奔れり[472]と云へるは疑ふべし。殊に鸇と雀と叢との譬は、實錄六三頁なるソルガンシラ鎖兒罕失喇の二子の語と全く同じくして、卽蒙古の俚諺なれば、イナス亦納思の答と云へるものも、蒙古人の作れる談なるべし。次に「及我師西征、イヌス亦訥思老、不能理其國。歲丁酉(太宗九年)、イヌス亦訥思之子フルスマン忽魯速蠻、自歸於太宗。而憲宗受命帥師、已及其國。フルスマン忽魯速蠻之子バンドチヤ班都︀察、擧族來歸、從討メキス蔑乞思有功」。傳に前のメキス蔑乞思をメリキ蔑里乞と改め、こゝのメキス蔑乞思をメケス麥怯斯と改めたるは、甚當れり。メケス麥怯斯は、祕史のメケト蔑客惕〈[#「蔑客惕」はママ。「元朝秘史」§270(12:16:02)では「篾客惕」。実録では「篾客禿」]〉にして、メルキト蔑兒乞惕〈[#「蔑兒乞惕」はママ。「元朝秘史」では「篾兒乞惕」]〉とは全く異なるを、碑に同じ文字を用ひたるは非なり。
次に「世祖︀皇帝、西征大理、南取宋、其種人以强勇見信用、掌芻牧之事、奉バトウ馬湩ウマノチ、以供玉食。馬湩・尙黑者︀。國人謂黑爲ハラ哈剌、故別號其人曰ハラチ哈剌赤、日見親近、妻以ハナ哈納郡王之女弟ヌルン訥論」。黑き馬乳は、蒙古人の殊に重ずるものなりき。黑韃事略に曰く「馬之初乳、日則聽其駒之食、夜則聚之以シボル泲(原注、手捻其乳曰泲)。貯以革器︀、傾桐數宿、味微酸、始可飮、謂之バダイシ馬嬭子」。徐霆曰く「霆嘗見其日中泲馬嬭矣。亦嘗問之、初無拘於日與夜。泲之之法、先令駒子啜、敎乳路來、卽趕了駒子、人自用手泲下皮桶中、却又傾入皮袋撞之。尋常人、只數宿便飮。初到金帳、韃主飮以馬嬭。色淸而味甜、與尋常色白而濁、味酸而羶者︀、大不同、名曰コクバダイ黑馬嬭クロキウマノチ。蓋淸則似黑。問之則云「此實撞之七八日。撞多則愈淸、淸則氣不羶」。只此一次得飮、他處更不曾見。玉食之奉如此」と云へり。輿服志三儀衞の篇殿上執事の部、酒人凡六十人の內、「二十人主潼、國語曰ハラチ郃剌赤」。又兵志三馬政の篇に「車駕還京師、太僕卿先期遣使、徵馬五十ウンド醞都︀來京師。ウンド醞都︀者︀、承乳車之名也。旣至、俾ハチハラチ哈赤哈剌赤之在朝爲卿大夫者︀、親秣飼︀之、日釀黑馬乳、以奉玉食、謂之細乳。毎ウンド醞都︀牝馬四十。自諸︀王百官而下、亦有馬乳之供。ウンド醞都︀如前之數、而馬減四之一、謂之粗乳」とあり。
「中統初元、討アリブガ阿里卜哥之亂、バンドチヤ班都︀察與其子トトハ土土哈、皆有功。バンドチヤ班都︀察卒、トトハ土土哈領其父事、是爲句容郡武毅王。ハイド海︀都︀之叛、皇子北平王(ノムハン那木罕)、帥諸︀王之師、鎭祖︀宗興龍之故地。至元十四年、叛王トトム脫脫シレギ木失列吉入寇、諸︀部曲見掠、先朝大武帳亡焉。トトハ土土哈王憤之、誓請決戰。三月、敗其將ドルチエン朶兒赤延於ナランブラ納蘭不剌、以所掠諸︀部還」。アリブガ阿里卜哥は、世系表睿宗の第七子アリブガ阿里不哥大王、ハイド海︀都︀は、太宗の第五子カシ合失大王の子ハイド海︀都︀大王なり。トトム脫脫木は、列傳卷四ヤフド牙忽都︀の傳にトテムル脫帖木兒、忠義傳ババ伯八の傳にトテムル脫鐵木兒、ラシツト喇失惕はトグテムル脫克帖木兒と云へり。世系表寄宗の第十子セイドカ歲都︀哥大王の孫に荆王トトムル脫脫木兒あるに由り、考異に「疑卽其人也」と云へれども、世祖︀の幼弟の孫に叛を謀る程の壯年あるべしとも思はれざれば、テムゲオチギン鐵木哥斡赤斤の曾孫トテムル脫帖木兒大王にはあらずや。シレギ失列吉は、傳にシレギ失烈吉、憲宗紀にシレギ昔烈吉、世祖︀紀にシリギ昔里給またシリギ昔里吉、ババ伯八の傳にシレギ昔列吉、ラシツト喇失惕シレキ失列奇、世系表憲宗の第四子河平王シリギ昔里吉なり。
「四月、ヂルワダイ只兒瓦䚟構亂應昌、トトム脫脫木以兵應之、與我軍遇、將決戰。先得其斥候數十。トトム脫脫木懼而引去。遂滅ヂルワダイ只兒瓦䚟。六月、逐其兵於トラ禿剌河、(傳は「三宿而後返」と補へり)。八月、又敗之オホン斡歡(オルホン斡兒歡)河、得所亡大帳、還諸︀部之眾於北平」。北平に還すとは、北平王の所に還せるを云ふ。「我師北伐、詔率キムチヤ欽察驍騎千人以從。十五年正月、追シレギ失列吉、踰金山、擒ヂヤフタイ札忽台以獻。又敗カンチゲ寬赤哥等軍、俘獲甚衆」。末の十字を、傳は「敗コンヂエゲ寬折哥等、裏瘡力戰、獲羊馬輜重甚眾」と改め補へり。コンチゲ寬赤哥は、バダル伯荅兒の傳にコンチゲス寬赤哥思とあり。
「冬、入朝。召至榻前、親慰勞之、賜以白金百兩、海︀東白體一。國家侍內宴者︀、每宴必各有衣冠、其制如一謂之ヂスン只孫。悉以賜之。且有詔曰「祖︀宗武帳、非人臣所得御。卿能歸之、故以與卿。軍中宴諸︀帥、則設之」。キムチヤ欽察人爲民戶、及隷諸︀王者︀、別籍之、(傳は「以隷トトハ土土哈」と補へり)。戶給鈔二千貫、歲給粟帛、擇其材者︀、備禁衞。十九年、拜昭勇大將軍同知太僕院事。明年、改同知衞尉院事、領羣牧司事、給霸州文安縣田四百頃、命ハラチ哈剌赤屯田、益以亡宋新附軍八百。二十一年、賜金虎符、(傳は「幷賜金貂裘帽玉帶各一、海︀東靑鵑一、水磑[473]壹區、近郊田二千畝」を補へり)。以河南等路(傳は河東諸︀路)蒙古軍子弟四千六百隷之。二十二年、拜鎭國上將軍樞密副使。二十三年、置キムチヤ欽察衞、遂兼其親軍都︀指揮使、聽以族人將吏備官屬」。
「六月、ハイド海︀都︀兵入寇。奉詔與大將ドルドハイ朶兒朶懷禦之。二十四年、諸︀王ナヤン乃顏叛於東藩、陰遣使來結エブゲンシンラハ也不干勝剌哈。王(トトハ土土哈)獲諜者︀、得其情、密以聞諸︀朝、請召シンラハ勝剌哈以離之」。ナヤン乃顏は、ラシツト喇失惕に據れば、トガチヤル脫噶察兒の孫、エチユル額出兒の子なり。トガチヤル脫噶察兒は、世系表テムゲオチギン鐵木哥斡赤斤の孫タチヤル塔察兒國王なれば、ナヤン乃顏は、オチギン斡赤斤の玄孫なり。表はエチユル額出兒卽アチユル阿朮魯大王をタチヤル塔察兒の從兄として、その子ナヤン乃顏を載せず。エブゲン也不干は、ヤフド牙忽都︀の傳にエブゲン也不堅、世系表太祖︀の第六子コレゲン闊列堅太子の曾孫エブゲン也不干大王なり。シンラハ勝剌哈は、世祖︀紀にシンナカル勝納合兒、ボト孛禿の傳(曾孫フレン忽憐の條)にシンラハル聲剌哈兒、世系表ハチウン哈赤溫大王の子濟南王アンヂギダイ按只吉歹の曾孫濟南王シンナハル勝納哈兒なり。「他日、勝剌哈爲宴會、邀二大將。ドルドハイ朶兒朶懷將往。王曰「事不可測」。遂不往。シンラハ勝剌哈計不得行。未幾、有詔召シンラハ勝剌哈。王日此、東藩之人。由東道、是其欲也。將不可制」。言於北安王 卽北平王〈[#底本では直前に「終わり丸括弧」あり]〉、命之西行。或言エブゲン也不干將反者︀、軍 吏請 奏而圖之。王曰「不可緩也」。身爲先驅、引大兵前、窮晝夜之力、渡トウラ禿兀剌河、與エブゲン也不干戰、大敗之」。「或言」以下を傳は「旣而有言エブゲン也不干叛者︀、衆欲先聞於朝、然後發兵。トトハ土土哈曰「兵貴神︀速。若彼果叛、我軍出其不意、可卽圖之。否、則與約而還」。卽日啓行、疾驅七晝夜、渡トウラ禿兀剌河、戰ボケ孛怯嶺、大敗之、エブゲン也不干僅以身免︀」と改め補へり。「世祖︀方親征、聞之、詔王沿河東行、盡收其餘黨以還。道遇エテゲ也鐵哥、其眾萬騎、擊走之、大獲ナヤン乃顏畜牧、俘畔王ハルル哈兒魯等獻之。カングリ康里キムチヤ欽察之人、先隸諸︀叛王者︀、悉來歸。置ハラル哈剌魯萬戶府」。「沿河東行」を、傳は「沿河而下」と改めたり。トラ禿剌河は、西に流るゝ河なれば、下るは西に行くことにて、碑と異なり。エテゲ也鐵哥は、傳に叛王テゲ鐵哥とあり。世祖︀紀至元二十四年六月「諸︀王シドル失都︀兒所部テゲ鐵哥率其衆、取咸平府、渡遼」とあるテゲ鐵哥と同じきか異なるか。ハルル哈兒魯の名は、世系表にも諸︀王表にも見えず。窃に思ふに、これは、王の名に非ず、部落の名にして、カルルク合兒魯黑の君、卽アルスランカン阿兒思闌罕の後嗣にはあらずや。その君叛さて俘はれたるに由り、その降れる部眾を以てハラル哈剌魯萬戶府を置きたるならん。元史のハラル哈剌魯は、皆カルルク合兒魯黑なり。又傳は、萬戶府の下に「キムチヤ欽察之散處安西諸︀王部下者︀、悉令統之」の一句を補へり。安西諸︀王とは、皇子安西王モンガラ忙哥剌の子安西王アナンダ阿難︀荅等を云ふ。
「是歲、王子チヤングル創兀兒(傳にチヤングル牀兀兒)、奉詔從太師ユルル月兒律(ユシテムル玉昔帖木兒)、在軍、戰於バタ百搭山有功、拜昭勇大將軍左衞親軍都︀指揮使、佩金虎符。出則被堅執銳、以率虎羆之士、入則執刀七、以事割烹、執甖杓、以進湩飮。親幸委任、已見如此」。
「成宗方撫軍、詔以王從。十一月、征ナヤン乃顏餘黨於ハラ哈剌[ウン溫]、誅兀達海︀(傳に叛王兀塔海︀)、盡降其眾。二十五年、エヂリ也只里王爲叛王ホルハスン火魯哈孫所攻甚急。五月、王從成宗、移師援之、敗諸︀ウルフイ兀魯灰。還至ハラウン哈剌溫山、夜渡グイレ貴列河、敗叛王ハダン哈丹之軍、盡得遼左諸︀部、置東路萬戶府、以鎭之。エヂリ也只里有女弟タルン塔倫、遂以妻王」。エヂリ也只里王は、世祖︀紀に諸︀王エヂレ也只烈、世系表濟南王アンヂギダイ安只吉歹の孫、チヤフラ察忽剌大王の子、濟南王エヂリ也只里なり。ホルハスン火魯哈孫は、ラシツト喇失惕に據れば、ヂユチカツサル拙赤合撒兒の長子エグ也古の孫にホルガスン火兒合孫あり。世系表には無し。ハダン哈丹は、卽カダン合丹にして、ドーソン多遜はハチウン哈赤溫の玄孫にして、シンナハル勝納哈兒の父なりとせり。世系表にハチウン哈赤溫の孫、シンナハル勝納哈兒の祖︀父とせるは、誤りならん。
「二十六年、ハイド海︀都︀軍叛金山、抵ハンガイ杭海︀嶺、皇孫晉王(ガマラ甘麻剌)師兵禦之。敵先據險、我師不利。王獨以其軍陷陳入戰、翼晉王而出。明日、追騎大至、伏兵殿之」。「伏兵殿之」の四字を、傳は「乃選精︀銳、設伏以待之。冦不敢遇」と改め補へり。「七月、世祖︀親巡北邊、召見王、慰之曰「昔太祖︀與其臣之同患難︀者︀、飮バンチユ班朮河之水、以記功。今日之事、何愧昔人。卿其勉︀之」。ハイド海︀都︀等戰旣數敗、又知上親征、遂引兵去。車駕還都︀、大宴。上謂[474]王曰「朔方人來、聞ハイド海︀都︀言「戰者︀人人如トトハ土土哈、吾屬何所容身哉」」。論功行賞、先キムチヤ欽察之士」。末の五字を、傳は「帝欲先キムチヤ欽察之士。トトハ土土哈言「慶賞之典、蒙古將吏宜先之」。帝曰「爾勿飾讓。蒙古人誠居汝右、力戰豈在汝右耶」。召諸︀將、頒賞有差」と改め補へり。「以建康廬饒舊籍租戶千爲ハラチ哈剌赤戶、又以俘獲之戶千七百賜之、官一子以督賦。而チヤングル創兀兒在宿衞、亦帥其軍扈從、至ホリム和林ウビス兀卑思之山、拜昭武大將軍キムチヤ欽察親軍都︀指揮使左衞親軍都︀指揮使兼太僕少卿」。
「二十八年、王奏「ハラチ哈剌赤之軍、數已盈萬、足以備用」。詔賜珠帽珠衣玉帶金帶名鶻縑素萬匹」。末の四字は、傳に「復賜其部曲毳衣縑素萬匹」とあり。「帥其人(傳は於是率ハラチ哈剌赤萬人)、北獵ハンタハイ漢︀塔海︀。邊寇聞之、不敢動。二十九年、掠地金山、虜︀ハイド海︀都︀之戶三千。有詔、進取キリギス乞里吉思。明年春、次ケム欠河(今のケム客姆河)、冰行數日、盡取其眾(傳は其五部之衆)、留兵鎭之。奏功、拜龍虎衞上將軍、賜行樞密院印。ハイド海︀都︀聞之、領兵至ケム欠河。又敗之、擒其將ボロチヤ孛羅察」。
「成宗皇帝卽位、詔之曰「北邊事重、其免︀會朝」。賜白金五百兩」。末の六字は、傳に「遣使就賜銀五百兩、七寶金壺盤盂各一、鈔萬貫、白氈帳一、獨峯駝五」とあり。「冬、召入朝、有加賜、別賜其軍士鈔一千二百萬。元貞元年春、還守北邊。三年秋、諸︀王從ハイド海︀都︀者︀、皆來降、邊民驚動。王帥兵金山之ユルンガイ玉龍海︀備之、資饋畢給、民用不擾。親導ヨムフ岳木忽等王以朝。上解御衣以賜」。ヨムフ岳木忽は、世系表アリブカ阿里不哥大王の子威定王ユムフル玉木忽爾にしてドーソン多遜は、ユブクル余不庫兒と云へり。世系表には、威定王王木忽爾の外に、その姪定王藥木忽爾あれども、威定王と定王とは、その實同じ人なり、諸︀王表金鍍銀印龜紐定遠王の下に「藥木忽兒、大德二年封」、金印駝紐威定王の下に「藥木忽爾、大德九年、由定遠王徙封」、金印獸紐定王の下に「要木忽爾、至大元年、由定遠王進封」、とあり、末の要木忽爾は、卽前の藥木忽兒にして、又卽世系表の玉木忽爾なり、この王は、大德九年に定遠王より威定王に進みたれば、至大元年に定王に進みたるは、定遠王よりにはあらずして、威定王よりなり、表は、威定を定遠と誤れり、又世系表を作れる人は、威定王と定王と同じ人なることに心附かず、已に威定王玉木忽爾を阿里不哥の長子として記し、定王を記すべき所なき故に、威定王の弟乃剌忽不花大王の三子の次に書き加へたるならん。「大德元年、拜銀靑光祿大夫、上柱國、同知樞密院事、キムチヤ欽察親軍都︀指揮使如故。還邊。二月、至宣德府薨、年六十一」。
「是歲、有詔チヤングル創兀兒世其父官、領北征諸︀軍。後亦封句容郡王。王帥師踰金山、攻バリン八隣之地。バリン八隣之南、有大河曰ダルフ荅魯忽。其將テリヤンタイ帖良臺、阻水而軍、伐木柵岸以自庇。士皆下馬跪坐、持弓矢以待我軍。矢不能及、馬不能進。王卽命吹銅角、擧軍大呼、聲振林野。坐士不知所爲、爭起就馬。王麾師畢渡、湧水拍岸、木柵漂散。因奮師馳擊、五十里而後止、盡得其人馬廬帳。還次アルイ阿雷河、與ボベバード孛伯拔都︀之軍相遇。ボベバード孛伯拔都︀者︀、ハイド海︀都︀所遣援バリン八隣者︀也。アルイ阿雷之上、有山甚高、ボベ孛伯陣焉。山高峻、馬不利於下馳。急麾軍、渡河蹴之。ボベ孛伯馬下坂、多顚躓急擊敗之、追奔三十餘里。ボベ孛伯僅以身免︀。二年、北邊諸︀王ドワチエチエト都︀哇徹徹禿等、潛師急至、襲我ホルハト火兒哈禿之地。ホルハト火兒哈禿、亦有山甚高、其師來據之。王選勇而能步者︀、持挺刀四面上、奮擊、盡覆其軍。敵遁者︀無幾。ドワ都︀哇は、元史世祖︀紀にドワ朶瓦、武宗紀にドワ篤娃、フリンシ忽林失の傳にドワ都︀瓦とも書き、世系表には無し。ドーソン多遜に據れば、チヤガタイ察合台太子の玄孫、ボラク孛喇克(表のバラ八剌大王)の子にして、チヤガタイカンコク察合台汗國第十代の君なり。チエチエト徹徹禿は、世系表憲宗の第三子ユルンダシ玉龍荅失大王の孫郊王チエチエト徹徹禿なり。この王は、後に歸順し、諸︀王表に「泰定三年封武寧王、至順二年進封郷王」とあり、明宗文宗二紀天曆二年の條に武導王チエチエト徹徹禿の名屢見え、至順以後は郷王チエチエト徹徹禿の名も見えたり。メルキト篾兒乞惕のバヤン伯顏の傳に、順帝至元五年「構陷郯王チエチエド徹徹篤奏賜死」とあり。
「三年、入朝。上解衣賜、慰勞優渥、拜鎭國上將軍、僉樞密院事、キムチヤ欽察親軍都︀指揮使、左衞親軍都︀指揮使、[475]太僕少卿、還邊。是時武宗在潜邸、領軍朔方、軍事必諮於王。及戰、王常爲先、付託甚重。四年秋、畔王トメ禿麥オルス斡魯思等犯邊。王迎敵於コケ闊客之地。及其未陣、王以其軍直搏之。敵不能支。逐之踰金山乃還」。トメ禿麥は、武宗紀にトクメ禿曲滅、ユチチヤル月赤察兒の傳にトクメ禿苦滅、ドーソン多遜の書にテクメ帖克篾とあり、ハイド海︀都︀の子なり。オルス斡魯思は、武宗紀にウルス烏魯斯、フリンシ忽林失の傳にオロス斡羅思、ドーソン多遜ウルス禿魯思、これもハイド海︀都︀の子なり。二人ともに世系表には無し。「五年、ハイド海︀都︀之兵、又越金山而南、止於テゲング鐵堅古山、因高以自保。王以其軍馳當之。旣得平原、地便於戰。乃幷力攻之、敵又敗績。戰之三日、ドワ都︀哇之兵西至、與我大車、相持於ウルト兀兒禿之地。王又獨以其精︀銳、馳入其陣。戈甲憂擊塵血飛濺、轉旋三周、所殺︀不可勝計。而ドワ都︀哇之兵幾盡。武皇親見之、日「力戰未有如此者︀」。事聞、上使御史大夫トチ禿赤、知樞密院事タラハイ塔剌海︀、エケジヤルホチトフル也可扎魯火赤禿忽魯、卽チナス赤納思之地、聚諸︀王軍將、問戰勝功狀。於是親王以下、至於諸︀軍、咸以爲王功第一、無異辭。於是武皇命王尙ヤフト雅忽禿楚王公主チヤギル察吉兒、賞以尙衣貂裘」。ヤフト雅忽禿楚王は、太宗の第八子ボチヨ撥綽大王の孫楚王ヤフド牙忽都︀なり。「使者︀以功簿奏。上出御衣、遣使臨賜之、詔曰「邊圍事重、少留鎭之」。七年秋、入朝。上親諭之曰「自卿在邊、累建大功、事蹟昭著︀。周飾卿身以兼金、猶不足以盡朕意」。遂賜御衣一、黃金百兩、白金五百兩、鈔十萬貫、拜驃騎衞上將軍、樞密副使、キムチヤ欽察親軍都︀指使、左衞親軍都︀指揮使太僕少卿、賜其親軍萬人鈔四千萬貫」。
「九年、ドワ都︀哇、チヤバル察八兒、ミンリテムル明里帖木兒等諸︀王、相聚而謀曰「昔太祖︀、艱難以成帝業、奄有天下。我子孫、乃弗克靖︀[恭]、以安享其成、連年動兵相殘殺︀。是自傷祖︀宗之業也。今撫軍鎭邊者︀、吾世祖︀之嫡孫也。吾與誰家爭哉、且前與トトハ土土哈戰、旣累不勝。今與其子チヤングル創兀兒戰、又無一功。惟天惟祖︀宗意可見矣。不若遣使請命、罷兵通一家好、吾士民、老者︀得其養、少者︀得其長、傷殘疲憊者︀、得其休息焉。則亦無負太祖︀之所望於子孫者︀矣」。使至、上深然之。於是ミンリテムル明里帖木兒等、罷兵入朝。特爲置驛、以通往來」。チヤバル察八兒は、世系表ハイド海︀都︀大王の子汝寧王チヤバル察八兒なり。ハイド海︀都︀は、大德五年テゲング鐵堅古山の大戰より回りて後に死し、チヤバル察八兒その位を嗣ぎたりき。ミンリテムル明里帖木兒は、武宗紀にミンリテムル明里鐵木兒、アシヤブハ阿沙不花の傳にミリテムル迷里帖木兒、□□の傳にメリ滅里とあり。ドーソン多遜に據れば、アリブカ阿里不哥の子にメリグテムル篾里克帖木兒あり。それならん。世系表には無し。
「十年、拜榮祿大夫、同知樞密院事、尋拜光祿大夫、知樞密院事、キムチヤ欽察左衞指揮、太僕少卿、皆如故。從武皇於クンマチユ渾麻出之海︀上。成宗崩、訃至。入吿武皇曰「殿下、親世祖︀之嫡孫。以先帝之命、居祖︀宗之故地、以鎭撫朔方、且十餘年矣。ハイド海︀都︀、ヨムフル約木忽兒(卽前のヨムフ岳木忽)、ミンリテムル明里帖木兒、自世祖︀時、各爲叛亂、今皆來歸。前後叛亡俘虜︀、悉復其舊。皆殿下之威靈也。臣先父トトハ土土哈、受知世祖︀、恩深義重。臣之種人、强勇精︀銳。臣父子用之、無戰不克。殿下急宜歸定大業、以副天下之望。臣請率其眾、備驂乘之士」。武皇納其說、卽日南邁、五月、達上都︀。武宗皇帝卽位、賜王尙服七、黃金五百兩、白金五千兩、鈔二十五萬貫、先所御大武帝帳一。秋、拜平章政事、仍兼樞密キムチヤ欽察左衞太僕、還邊。冬、加封榮國公、授銀印、出制辭以命之。至大二年、入朝。封句容郡王、賜金印一、黃金二百五十兩、白金一千五百兩、鈔一萬貫。上日「世祖︀征大理時所御武帳、及所服珠寶之衣、今以賜卿其勿辭」。翌日又以世祖︀所乘安輿賜王。上曰「以卿有足疾、故賜此」。王叩頭泣涕、固辭而言、曰「世祖︀所御之帳、所服之衣、固非臣所敢當。乘輿而尤非所宜蒙也。貪寵過當、臣實不敢」。上顧左右、曰「他人不知辭此」。別命有司、置馬轎賜之、俾得乘至殿門下。仁宗在東宮、有衣帽金寶之賜。還邊」。
「仁宗皇帝卽位、入朝。特授光祿大夫、平章政事、知樞密院事、キムチヤ欽察親軍都︀指揮使、左衞親軍都︀指揮使、太僕少卿。延祐︀元年、エツセンブハ也先不花等諸︀王、復叛イテハイミシ亦忒海︀迷失之地。王方接戰、有敵將一人以戟入陣刺王者︀。王擗其戟、揮大斧、碎其首。血髓淋漓、殞於馬首。乘勢奮擊、大破之」。エツセンブハ也先不花は、ドワ都︀哇の長子、チヤガタイ察合台太子の五世の孫にして、チヤガタイ察合台汗國第十三代の君なり。「二年、與エツセンブハ也先不花之將エブゲン也不干フドテムル忽都︀帖木兒、戰メゲン麥干之地、轉殺︀[476]周匝、追出其境鐵門關。秋又敗其大軍ヂヤイル札亦兒之地。上聞之、遣使賜勞有加。四年、上念王之功、而憫其老也、召之、命商議中書省事、知樞密院事」。傳は、こゝに「大理國進象牙金飾轎、卽以賜之」を補へり。「每見必賜坐、上食必賜食、待之以宗室親王之禮。王常曰「老臣受朝廷之賜厚矣。吾子孫不以死報國、可乎」。至治二年薨、年六十三」。この下フルスマン忽魯速蠻以下三代の贈︀諡、夫妻の封爵、トトハ土土哈チヤングル創兀兒の諸︀子の仕履などあれども、煩はしければ載せず。
トトハ土土哈の子八人、皆朝に仕へて大官となれる中にて、第三子チヤングル牀兀兒最顯れ、チヤングル牀兀兒の子七人の內、第三子エンテムル燕帖木兒最顯れ、第四子サドン撒敦は中書左丞相となり、第六子ダリ荅里(文宗紀にダリンダリ荅隣荅里)は、父の封を襲ぎ句容郡王となれり。エンテムル燕帖木兒は、列傳卷二十五にエンテムル燕鐵木兒と書きて、別に傳あり。このエンテムル燕鐵木兒は、武宗・仁宗・英宗に歷仕し、致和元年僉書樞密院事に進み、泰定帝上都︀に崩じて、皇太子アスギバ阿速吉八(天順帝)位に卽きたる時、兵を以て大都︀の羣臣を脅し、武宗の二子明宗・文宗を迎へ、遂に文宗を擁立し、上都︀の官軍を擊ち破りて天順帝は行くへ知れずなれり。エンテムル燕鐵木兒は、その功に依り、中書右丞相錄軍國重事大都︀督太師ダラハン荅剌罕太平王となれり、天曆三年二月「文宗欲昭其勳、詔命禮部尙書馬祖︀常製文、立石於北郊」。石に刻みたる文は、太師太平王定策元勳之碑と題して、元文類︀卷二十六に見えたり。エンテムル燕鐵木兒の傳は、專らその碑文に本づきたるものなるが、その碑は、勅を奉じて權臣を諛頭したるものにて、事實を枉げたる所あれば、こゝに轉載せず。
すべてエンテムルバヤン燕鐡木兒伯顏(メルギダイ蔑兒吉䚟)等の傳、泰定帝明宗文宗本紀などには、往徃順逆を顚倒したる誣罔の詞あれば、讀者︀は、前後の事情を斟酌して取捨せざるべからず。例へば明宗紀に「歲戊辰七月庚午、泰定皇帝崩于上都︀、ダウラシヤ倒剌沙專權自用、踰月不立君、朝野疑懼。時僉樞密院事エンテムル燕鐵木兒、留守京師、遂謀擧義」とあるにつき、考異に「按、泰定以七月庚午崩、至八月甲午擧事、爲時尙未及三旬。元諸︀帝卽位、皆俟諸︀王大臣畢會議之、距前君之崩、或兩月、或三月、初無定期。蓋其家法如是。況泰定踐祚之日、儲位早定、朝野本無異議也。エンテムル燕帖木兒逆謀早萠于泰定未崩之先、豈因踰月不立君、人心疑懼、始謀擧事乎。此皆實錄之誣詞、史臣不能刋正也」と云へり。逆謀早く萌せることは、この年三月、泰定帝の上都︀に幸する前に、燕鐵木兒等は、もし不諱あらば大事を擧げんと謀りたる(文宗紀の卷首)を見て、知るべし。又御批通鑑輯覽は、エンテムル燕鐵木兒の「謀擧義」を「謀逆」と改めて、御批に「武宗旣傳子弟、其子卽無統業可承。而泰定帝己成其爲君、儲嗣現存神︀器︀自有專屬。乃エンテムル燕鐵木兒忽進異圖、謬託受武宗恩寵之言以自文、遠迎周(明宗)懷(文宗)二王入繼、于情理爲不順。其意不過欲假援立之功、以憑寵肆志、遂成トテムル圖帖睦爾(文宗)簒弑之謀、則エンテムル燕鐵木兒實爲罪首」とあり。
かくてエンテムル燕鐵木兒は、專橫を極めたる後、至順三年文宗崩じ、明宗の次子イリンヂバン懿璘質班(寧宗)も位を繼ぎてまもなく崩じ、明宗の長子トホンテムル妥懽貼睦爾(惠宗皇帝、明人の謂はゆる順帝)は、廣西より迎へられ、未立たざるに明年三月、エンテムル燕鐵木兒病死せり。順帝位に卽き、メルキト篾兒乞惕のバヤン伯顏右丞相となり、エンテムル燕鐵木兒の弟サドン撒敦左丞相となり、エンテムル燕鐵木兒の女は皇后となり、サドン撒敦死して、エンテムル燕鐵木兒の子タンキシ唐其勢左丞相となりしが、バヤン伯顏と權を爭ひ、至元元年、弟タラハイ塔剌海︀と共にバヤン伯顏を殺︀さんとして宮關を犯し、捕へられて誅に伏し、皇后もタラハイ塔剌海︀を庇したるが爲に執へられ、バヤン伯顏に殺︀されき。
3。オンヂエイト完者︀都︀卽オンヂエイバード完者︀拔都︀。
列傳卷十八のオンヂエイト完者︀都︀と列傳卷二十のオンヂエイバード完者︀拔都︀とは、同じ人にして、オンヂエイト完者︀都︀は、正しくはオルヂエイト斡勒者︀亦禿、オンヂエイバード完者︀拔都︀は、オルヂエイトバアトル斡勒者︀亦禿巴阿禿兒なり。甲傳は委しく、乙傳は簡なり。只初の句だけは、甲傳に「オンヂエイト完者︀都︀、キムチヤ欽察人」とあるを、乙傳には「オンヂエイバード完者︀拔都︀、キムチヤ欽察氏、其先彰德人」とあり。オンヂエイト完者︀都︀の父祖︀蒙古に屬して後に彰德に[477]住みたる人ありしならん。次に甲傳に「父ホアラボヂヤ哈剌火者︀、從憲宗征討有功。オンヂエイト完者︀都︀廣顙豐頷、髯長過腹。爲人驍勇、而樂善好施。歲丙辰(憲宗六年)、以材武從軍。己未(九年)、從攻鄂州先登、賞銀五十兩」。「從攻」の六字は、乙傳に「從世祖︀攻鄂州、登城斬馘」とあり。それよりして世祖︀一代は、屢戰功を立て、至元二十六年江西等處行樞密院の副使となり、廣東の宣慰使を兼ね、元貞元年、江浙行省の平章政事となり、大德二年卒し、林國公に追封せられき。オンヂエイト完者︀都︀の父祖︀嘗て彰德に居たるに由り、彰德路林州の名を取り封號としたるならん。元の林州は、今の直隸彰德府林縣なり。子十四人皆仕へ、孫二十四人も多くは仕へき。
列傳卷十八「ベテムル伯帖木兒、キムチヤ欽察人也。至元中、充ハラチ哈剌赤、入備宿衞。二十四年、御史大夫ユステムル玉速帖木兒(ユシテムル玉昔帖木兒)に從ひ、叛王ナヤン乃顏を征し、二十五年、諸︀王ナマダイ乃麻歹(ナイマンタイ乃蠻台)に從ひ、叛王ハダン哈丹を征し、又ユステムル玉速帖木兒に從ひ、ハダン哈丹の黨を敗り、二十六年、バヤウ拜要(□□□)の黨バヤン伯顏を擒にし、「是年冬、立東路蒙古軍上萬戶府、統キムチヤ欽察・ナイマン乃蠻・ネグス捏古思・ノイル那亦勒等四千餘戶、陞懷遠大將軍上萬戶、佩三珠虎符」。ノイル那亦勒のル勒は、恐らくはキン勤の誤りにて、卽ノヤキン那牙勤ならん。二十七年ハダン哈丹を逐ひ、二十八年アリユ鴨綠江に至り、二十九年叛王ネケレ捏怯烈を逐ひ、ヂユチ女直の地を定めき。
列傳卷二十「シドル昔都︀兒、キムチヤ欽察氏。父トスン禿孫、隷蒙古軍籍。中統二年、從丞相バヤン伯顏、討李壇叛、以功授百戶。至元十年吿老、以シドル昔都︀兒代之」。十一年、シドル昔都︀兒は、大軍に從ひ南征し、「十四年、從諸︀王ベムル伯木兒、追擊ヂエルアタイ折兒凹台ヨブスル岳不思兒等於黑城ハラホリム哈剌火林之地平之。」ベムル伯木兒は、ベテムル伯帖木兒のテ帖を脫したるか。但世系表太宗の第二子コドン闊端太子の孫にも汾陽王ベテムル伯帖木兒あり、睿宗の第九子モゲ末哥大王の孫にもベテムル伯帖木兒大王あり。いづれなるか知らず。ヂエルアタイ折兒凹台は、トトハ土土哈の傳のヂルワタイ只兒瓦台、句容郡王世績碑のヂルワダイ只兒瓦䚟なり。ユブスル岳不思兒のス思は、フ忽の誤にて、ドーソン多遜のユブクル余不庫兒、世系表の定王ヤムフル藥木忽兒なり。世系表は、ヤムフル藥木忽兒をアリブカ阿里不哥の孫としたれども、孫に非ずして子なるべきことは、已にトトハ土土哈の傳に云へり。黑城は、カラバルガスン合喇巴勒合孫の譯にして、舊城の義、ハラホリム哈剌火林はカラコルム合喇闊嚕姆なり。〈[#底本では「り」と句点「。」の順番が逆。意味が通らないので修正]〉カラコルム合喇闊嚕姆二所あり、オルホン斡兒歡河の西なるはフイフ回紇の舊城、東なるは蒙古の新城なることは、實錄六一四頁以下に云へり。黑城ハラホリム哈剌火林は、卽フイフ回紇の舊きカラコルム合喇闊嚕姆、今のカラバルガスン合喇巴勒嘎孫なり。この戰は、句容郡王世績碑に、至元十四年「遂滅ヂルワダイ只兒瓦䚟、六月、逐其兵於トラ禿剌河、八月、又敗之オホン斡歡(オルホン斡兒歡)河」とある時なり。二十四年、シドル昔都︀兒は、漢︀洞左江萬戶府のダルハチ達魯花赤となり、洞軍を領ゐて、鎭南王(世祖︀の第九子トホン脫歡)に從ひ交趾を征し、明年その都︀城に入り、師を全うして還り「二十六年、賜虎符、授廣威將軍砲手軍匠萬戶府ダルハチ達魯花赤。大德二年卒、子エセンテムル也先帖木兒襲」。
列傳卷二十二「キタイ乞台、チヤタイ察台氏」とあるチヤ察の上キム欽の字脫ちたるならん。キムチヤ欽察衞の兵を率ゐ、キムチヤ欽察のトトハ土土哈チヤングル創兀兒父子に從ひて働けるを見れば、必キムチヤ欽察人なるべし。「至元二十四年、爲キムチヤ欽察衞百戶、從トトハ土土哈、征叛王シレギ失烈吉及ナヤン乃顏有功、賜金符、陞千戶。從征クラチユ忽剌出、戰于アリタイ阿里台之地」。クラチユ忽剌出は、カチウン合赤溫〈[#ルビの「カチウン」は底本では「カチムン」。同じ読みが他にないので誤植と判断し修正]〉の曾孫、アンヂダイ按只歹の孫、隴王クラチユ忽剌出なり。アリタイ阿里台は、アルタイ阿勒台卽金山なり。この金山の戰は、トトハ土土哈の傳に「二十九年秋、略地金山、獲ハイド海︀都︀之戶三千餘」とある時ならん。「元貞二年、以疾卒、子ハヅアンチ哈贊赤襲職。從チヤングル創兀兒於クイレル魁烈兒之地、與ハダアン哈荅安戰有功」。チヤングル創兀兒は、トトハ土土哈の傳のチヤングル牀兀兒、クイレル魁烈兒は、グイレ貴烈河、ハダアン哈荅安は、叛王ハダン哈丹なり。この戰は、ハヅアンチ哈贊赤の職を襲ぐ前、金山の戰の前、至元二十五年の事なり。「大德五年、從戰ハンガイ杭海︀、從武宗親征ハラアダ哈剌阿荅、復從チヤングル創兀兒、征ブベバレン不別八憐、爲先鋒、以功受賞賚」。「親征ハラアダ哈剌阿荅」は、武宗紀に「ハイド海︀都︀悉合其眾以來、大戰于[478]カラカタ合剌合塔之地」とあり。ブベバレン不別八憐は、句容郡王世績碑に「ボベバード孛伯拔都︀者︀、ハイド海︀都︀所遣援バリン八隣者︀也」とあり。この戰は、碑に據れば、大德元年の事にして、武宗の親征より前にあり。「皇慶二年、授金符、爲千戶。明宗居潛邸延祐︀四年、命從西征、與トマンテムル禿滿帖木兒、戰于シラタルマシ失剌塔兒馬失之地、以功復受厚賞、居其地十五年」。トマンテムル禿滿帖木兒は諸︀王表に延祐︀五年封武平王とあり、世系表に見えず。仁宗紀延祐︀四年十二月と五年正月とに諸︀王トマンテムル禿滿鐵木兒の所部に金銀鈔帛を賜へることを載せ、その二月「封トマンテムル禿滿鐵木兒爲武平王」とあり。仁宗紀にも明宗紀にもこの戰の事を載せずして、トマンテムル禿滿帖木兒は叛きたる樣子も無ければ、これは全く諸︀王の私鬭なるべし。「天曆二年、賜金符、授昭勇大將軍同知大都︀督府事、卒」。
列傳卷二十二「トインナ脫因納、ダダチヤ荅荅叉氏」。ダダチヤ荅荅叉と云ふ姓は、蒙古七十二種の中にも見えず。キムチヤ欽察衞を率ゐるを見れば、キムチヤ欽察人ならんと思はる。「世祖︀時、從征ナヤン乃顏、以功受上賞。大德七年、授キムチヤ欽察衞親軍千戶所ダルハチ達魯花赤武德將軍、賜金符。十年遷アルル阿兒魯軍萬戶府ダルハチ達魯花赤、易金虎符、進階懷遠大將軍」。阿兒魯は、恐らくはカルル柯兒魯の誤にて、至元二十四年に設けられたるハラル哈剌魯萬戶府ならん。ハラル哈剌魯卽カルルウト合兒魯兀惕を地理志にはカルル柯耳魯と書けり。「至大二年、拜甘肅行尙書省參知政事、四年、入爲太僕卿、皇慶元年、授アルル阿兒魯萬戶府襄陽漢︀軍ダルハチ達魯花赤、延祐︀三年、拜甘肅行中書省右丞、至治二年、改通政使、致和元年、分院上都︀、秋八月、爲ダウラシヤ倒剌沙所殺︀。有子曰チントン定童ヂチンハラン只沈哈朗︀」。ヂチンハラン只沈哈朗︀のチン沈はル兒の誤なるべし。チントン定童は、父の職を襲ぎ、アルル阿兒魯萬戶府襄陽萬戶府漢︀軍のダルハチ達魯花赤にて金虎符を佩び、ヂルハラン只兒哈朗︀は、初キムチヤ欽察親軍千戶所のダルハチ達魯花赤、後に通政院使。
氏族表に祕書志を引きて、「有マイマイ買買字子昭、至正十七年、由中政院同知、遷祕書卿、稱バヤウ伯要氏、當卽バヤウ伯牙吾氏也」とて、キムチヤ欽察人の後に附記したれども、キムチヤ欽察人のバヤウ伯牙吾氏なりや、カングリ康里のなりや、蒙古のなりや、知るべからず。
これより以下の色目の諸︀臣は、國初の功臣に非ざれども、皆異種異敎に屬する遠西の人なるが故に載するなり。
列傳卷十「ネグラ捏古剌、在憲宗朝、與エリヤアス也里牙阿速三十人來歸」。ネグラ捏古剌は、ニコライ尼闊來なり。エリヤアス也里牙阿速三十人は、エリヤ也里牙卽エリアス額里阿思と云へるアス阿速人を首とせる三十人なり。「後從征釣魚山、討李壇、皆有功。子アタチ阿塔赤、世祖︀時、圍襄陽、下江南、敗シレキ失列及(世系表のシリギ昔里吉)、征ナヤン乃顏、皆以功受賞。後事成宗武宗、爲ヂヤサウスン札撒兀孫。仁宗時、歷官至左アス阿速衞千戶卒」。ヂヤサウスン札撒兀孫は、元史語解にヂヤサグスン札薩古遜と改めて「掌班序官也」と注せり。アタチ阿塔赤の子ギヤウハ敎化は、父の職を襲ぎ、天曆中章佩卿。ギヤウハ敎化の子ヂエエンブハ者︀燕不花は、天曆元年ウンドチ溫都︀赤(ウルドチ兀勒都︀赤、佩腰刀人)となり、「授兵部郞中、招集アス阿速軍四百餘人、十月進兵部尙書、授雙珠虎符、領軍六百人」。丞相エンテムル燕帖木兒に從ひ上都︀の軍と戰ひ、後大司農の丞に遷りき。
列傳卷十「アルスラン阿兒思蘭、アス阿速氏。初憲宗以兵圍アルスラン阿兒思蘭之城。アルスラン阿兒思蘭、偕其子アサンヂン阿散眞、迎謁︀軍門。帝賜手詔、命專領アス阿速人、且留其軍之半、餘悉還之、俾鎭其境內、以アサンヂン阿散眞置左右。道遇シエルゲ闍兒哥叛軍、アサンヂン阿散眞力戰死之」。シエルゲ闍兒哥は、卽チエルケス徹兒客思なり。「帝遣使裏屍還葬之。アルスラン阿兒思蘭言于帝曰「臣長子死、不能爲國効力。今以次子ネグライ捏古來(ニコライ尼闊來)獻之陛下、願用之」。ネグライ捏古來至、帝命從ウリヤンガタイ兀良哈台、征ハラヂヤン哈剌章、有功。ウリヤンガタイ兀良哈台賞以白[479]金名馬。從伐宋、中流矢而死。子フルドダ忽兒都︀荅、充管軍百戶。世祖︀命從ブロノヤン不羅那顏、使ハルマミウ哈兒馬某之地、以病卒」。ブレトシユナイデル卜咧惕施乃迭兒曰く「ミウ某は、ス思の誤ならん。然らばハルマス哈兒馬思は、恐らくはホルムス訶兒木思をあらはしたるなり」と云へり。「子フドテムル忽都︀帖木兒、武宗潛邸時、從征ハイド海︀都︀、以功賞白金。至大元年、授宣武將軍左衞アス阿速親軍副都︀指揮使、四年卒」。
列傳卷十九「ハングス杭忽思、アス阿速氏、主アス阿速國。太宗兵至其境、ハングス杭忽思率眾來降。賜名バードル拔都︀兒、錫以金符、命領其土民。尋奉旨選アス阿速軍千人、及其長子アタチ阿塔赤、扈駕親征」。末の句誤れり。太宗の親征に非ず、バト巴禿等の征略なりき。「旣還、アタチ阿塔赤入直宿衞。ハングス杭忽思還國、道遇敵人戰歿。勅其妻オイマス外麻思、領兵守其國。オイマス外麻思躬擐甲冑、平叛亂、後以次子アンフアブ按法普代之。アタチ阿塔赤從憲宗、征西川、軍于釣魚山、與宋兵戰、有功。帝親飮以酒、賞以白金」。このアタチ阿塔赤は、列傳卷二十二にも別に傳ありて、この傳よりは却て簡略なり。ハングス杭忽思は、アンゴス昻和思と書き、アタチ阿塔赤はアタチ阿荅赤と書き、「アタチ阿荅赤、アス阿速氏。父アンゴス昻和思、憲宗時、佩虎符、爲萬戶。アタチ阿荅赤扈從憲宗南征、與敵兵戰于劍州、以功賞白銀」とあり。猶ハングス杭忽思の傳を引かん。「アリブカ阿里不哥叛、[アタチ阿塔赤]從エリケ也里可征之」。エリケ也里可は、アダチ阿荅赤の傳にエルケ也兒怯とあり。世祖︀紀の□□□□なり。「至寧夏、與アランダルクンドハイ阿藍荅兒渾都︀海︀戰、率先赴敵、矢中其腹不懼。世祖︀聞而嘉之、賞以白金、召入宿衞。中統二年、扈駕親征アリブカ阿里不哥、追至シムリト失木里禿(シムルト失木兒禿)之地、以功復賞白金。三年、從征李壇平之」。末の六字は、アタチ阿荅赤の傳に「從征李壇、身二十餘戰、累功授金符千戶」とあり。「至元五年、奉旨同ブダタイ不荅台、領兵南征、攻破金剛臺」。ブダタイ不荅台は、世祖︀紀の□□□□なり。「六年、從攻安慶府、戰有功。七年、從下五河口。十一年、從下沿江諸︀郡、戍鎭巢。民不堪命、宋將降洪福︀、以計乘醉而殺︀之」。將降は、降將の倒置なるべし。「世祖︀憫其死、賜其家白金五百兩、鈔三千五百貫、併鎭巢降民一千五百三十九戶、且命其子バダル伯荅兒、襲千戶、佩金符。時シレギ失烈吉叛、詔バダル伯荅兒、領アス阿速軍一千往征之」。末の十八字は、アタチ阿荅赤の傳に「バダル伯荅兒從ベギレミシ別急列迷失北征」とあり。ベギレミシ別急列迷失は、この傳の下文にあるベリギミシ別里吉迷失、世祖︀紀の□□□□□□にして、ギレ急列は、レギ列急の倒置なり。「與オンギラヂルワタイ甕吉剌只兒瓦台軍戰于アリ押里」。オンギラヂルワタイ甕吉剌只兒瓦台は、オンギラト翁吉喇惕のヂルワタイ只兒瓦台にして、トトハ土土哈の傳には應昌の部族ヂルワタイ只兒瓦台とあり。アリ押里は、アタチ阿荅赤の傳にヤリバンド牙里伴朶之地とあり。「復與ヤムフル藥木忽兒軍、戰于トラ禿剌及オルホン斡魯歡之地。十五年春、至バヤ伯牙之地、與チリン赤怜軍合戰」。バヤ伯牙は□□□□□□、チリン赤怜は、□□□□□□□「五月、駐兵ハラヤ呵剌牙、與オイラタイ外剌台・コンヂゲス寬赤哥思等軍合戰」。ハラヤ呵剌牙は、祕史のアライ阿喇亦嶺なるべし。トトハ土土哈の傳に「追シレギ失烈吉、踰金山」とあれば、ナイマン乃蠻の故地の西端なること知るべし。オイラタイ外剌台コンチゲス寬赤哥思は、トトハ土土哈の傳にコンヂエゲ寬折哥とあり、オイラト斡亦喇惕のコンチゲス寬赤哥思なり。「其大將タスブハ塔思不花、樹木爲柵、積石爲城、以拒大軍。バダル伯荅兒督勇士、先登拔之。バダル伯荅兒矢中右股。ベリギミシ別里吉迷失、以其功聞、賞白金。二十年、授虎符、定遠大將軍、後衞親軍都︀指揮使、兼領アス阿速軍、充アスバード阿速拔都︀ダルハチ達魯花赤。二十二年、征ベシバリ別失八里、軍于イリクンチヤハンル亦里渾察罕兒之地、與トハブツアウマ禿呵不早麻軍戰、有功」。トハブツアウマ禿呵不早麻は、
「二十六年、征ハンガイ抗海︀、敵勢甚盛、大軍乏食。其母ナイガウヂン乃咬眞、輸己帑及畜牧等、給軍食。世祖︀聞而嘉之、賜予甚厚」。末の十字は、アタチ阿荅赤の傳に「樞密臣以其功聞。賞白金貂裘弓矢鞍轡等、尋復以銀坐椅賜之」とあり。「大德四年、バダル伯荅兒卒。長子オロス斡羅思、由宿衞仕至隆︀鎭衞都︀指揮使」。アタチ阿荅赤の傳には「子オロス斡羅思、由宿衞陞僉隆︀鎭衞都︀指揮使司事、賜一珠虎符。天曆元年、諭降上都︀軍凡若干數。特賜三珠虎符、陞本衞都︀指揮使」とあり。「次子フチン福︀定襲職、官懷遠大將軍、尋改右アス阿速衞ダルハチ達魯花赤、兼管後衞軍。至大四年、兄ドダン都︀丹充右アス阿速衞都︀指揮使。フチン福︀定復職後衞、陞樞密同僉、云云」。前に長子オロス斡羅思、次子フチン福︀定とあるに、フチン福︀定の兄ドダン都︀丹あるは、怪むべし。氏族表は、フチン福︀定をオロス斡羅思の次子として、ドダン都︀丹をオロス斡羅思の長子としたれども、バダル伯荅兒の子は、只オロス斡羅思[480]のみを擧げたるならば、只子と云ふべく、長子とは云ふべからず。こゝの文には、何か誤脫あらん。フチン福︀定は後の至元に至り、知樞密院事に進みき。
列傳卷十九「ユワシ玉哇失、アス阿速人。父エレバードル也烈拔都︀兒、從其國主來歸。太宗命充宿衞」。エレバードル也烈拔都︀兒卽エリアスバアトル額里阿思巴阿禿兒は、ネグラ捏古剌の傳のエリヤ也里牙にて、其國主は、ハングス杭忽思なるべし。然らばネグラ捏古剌の傳に「在憲宗朝」とあるは誤にて、ネグラ捏古剌もエレバードル也烈拔都︀兒も、太宗の朝憲宗の西征せる時、アス阿速國主ハングス杭忽思に從ひて歸降せるなり。「歲戌午(憲宗八年)、後憲宗征蜀、爲游兵前行、至重慶、戰數有功。嘗出獵、遇虎於隘。下馬搏虎。虎張吻、欲噬之。以手探虎口、抉其舌、拔所佩刀、剌而殺︀之。帝壯其勇、賞黃金五十兩。別立アス阿速一軍、使領其衆。從世祖︀、征アリブカ阿里不哥、又從親王ハビシ哈必失、征李壇、俱有功、賜金符、授本軍千戶」。ハビシ哈必失は、親王には見えず。諸︀王なるべけれども、それも世系表には無し。諸︀王表銀印龜紐にして「無國邑名者︀」の中に、カビチ合必赤大王あり誰の子とも知れず。「從下襄陽、又從下沿江諸︀城。宋洪安撫、旣降復叛、誘其入城宴、乘醉殺︀之」。洪安撫は、ハングス杭忽思の傳の降將洪福︀なり。エレバードル也烈拔都︀兒は、アタチ阿荅赤と同時に殺︀されたるならん。「長子エスダイル也速歹兒、代領其軍、從攻揚州、中流矢卒。玉哇失襲父職、爲阿速軍千戶、從丞相伯顏平宋、賜巢縣二千五十二戶。只兒瓦歹叛。率所部兵擊之、至ハイルハド懷魯哈都︀、擒其將シラチヤル失剌察兒、斬于軍、其衆悉平。諸︀王ホリム和林及シラ失剌等叛」。ホリム和林は、諸︀王の名に非ず。シラ失剌は、トトハ土土哈ハングス杭忽思の傳のシレギ失烈吉なり。この句誤あり。「ホリム和林諸︀王シラキ失剌及等叛」又は「諸︀王シラキ失剌及等叛ホリム和林」を顚倒せるならん。「從皇子北安王討之」。北安王は、北平王ノムハン那木罕なり。後に北安王に改め封ぜられき。「至オルハン斡耳罕河、無舟。躍馬涉流而渡、俘獲甚眾。時北安王方戰失、利陷敵陣中。ユワシ玉哇失從諸︀王ヤムフル藥木忽兒、追至金山。王乃得脫歸。賞白金五十兩鈔二千五百貫、改賜金虎符、進定遠大將軍、前衞親軍都︀指揮使、ヤムフル藥木忽兒は、ハングス杭忽思の傳に據るに、叛王の黨なり。この傳にユワシ玉哇失の王帥としたるは誤れり。トトハ土土哈の傳にヨムフ岳木忽と書き、元貞二年歸順せり。「諸︀王ナヤン乃顏叛、世祖︀親征、ユワシ玉哇失爲前鋒。ナヤン乃顏遣ハダン哈丹、領兵萬人來拒。擊敗之、追至ブリグドバダハ不里古都︀伯塔哈之地、ナヤン乃顏兵號十萬。ユワシ玉哇失陷陣力戰、又敗之、追至シレムン失列門林、遂擒ナヤン乃顏。帝嘉其功、賜金帶ヂスン只孫錢幣甚厚。ナヤン乃顏餘黨タブダイキンカヌ塔不歹金家奴聚兵メネゲイ滅捏該。從大軍、討平之。旣而ハダン哈丹復叛於キユレン曲連江。追擊其軍。渡河而遁」。キユレン曲連江は、トトハ土土哈の傳のグイレ貴烈河、キタイ乞台の傳のクイレル魁烈兒河なり。「又與ハイド海︀都︀將バレンテリゲダイ八憐帖里哥歹・ビリチヤ必里察等、戰於イビルシビル亦必兒失必兒之地、戰屢勝」。バレンテリゲダイ八憐帖里哥歹は、トトハ土土哈の傳(チヤングル牀兀兒の條)にバリン八憐の將テリヤンタイ帖良臺とあり。ビリチヤ必里察は、トトハ土土哈の傳にボロチヤ孛羅察とあり。イビルシビル亦必兒失必兒之地は、實錄四〇〇頁に見えたるシビル失必兒にて、ラシツト喇失惕は「キルギス乞兒吉思の國は、アベルシビル阿別兒昔必兒の境に流るゝアンガラ安噶喇の大河まで廣がれり」と云へり。トトハ土土哈の傳にこの戰を述べて、軍はケム欠河(ケム客姆河)の冰を數日渉りてキリギス乞里吉思の境に至れりと云へれば、シビル失必兒の地は、ケム客姆河の下流、キルギス乞兒吉思の南境にありしなるべし。「成宗時在潛邸。帝以ハイド海︀都︀連年犯邊、命出鎭金山。ユワシ玉哇失率所部在行。從皇子ココチユ闊闊出丞相ドルドハイ朶兒朶懷、擊ハイド海︀都︀軍、突︀陣而入、大破之」。ココチユ闊闊出は、世祖︀の第八子なり。丞相ドルドハイ朶兒朶懷は、トトハ土土哈の傳に大將とあり。ホリム和林に行中書省を立てたるは、大德十一年の事にして、この時は未丞相の官あらざれば、この丞相は誤れり。「復從諸︀王ヤムフル藥木忽兒丞相ドルドハイ朶兒朶懷、擊ハイド海︀都︀將バレン八憐。バレン八憐敗。バレン八憐は、トトハ土土哈の傳(チヤングル牀兀兒の條)にバリン八隣之地とあり。こゝに將の名とせるは誤れり。「ハイド海︀都︀復以トクマ禿苦馬、領精︀兵三萬人、直趨サラス撒剌思河、欲據險以襲我師。ユワシ玉哇失率善射者︀三百人、守其隘、注矢以射、竟全軍而歸。帝嘉之、賜鈔萬五千緡、金織段三十匹」。トクマ禿苦馬は、武宗紀のトクメ禿曲滅、トトハ土土哈の傳(チヤングル牀兀兒の條)のトメ禿麥□□□□の傳(月赤察兒の條)のトクメ禿苦滅、ドーソン多遜のテクメ帖克篾、ハイド海︀都︀の子なり。「ハイド海︀都︀ドワ朶哇、以兵來襲。擊走之。武宗鎭北邊。ハイド海︀都︀復入寇、至ウルト兀兒禿。ユワシ玉哇失敗之、獲其駝馬器︀仗以獻。時ヂヤルハチ札魯花赤ボロテムル孛羅帖木兒所將兵、爲ハイド海︀都︀[481]困於小谷。帝命ユワシ玉哇失援出之。帝喜、謂諸︀將曰「今日大丈夫之事、舍ユワシ玉哇失、其誰能之。縱以黃金包其身、猶未足以厭朕志」」。この帝は、武宗にして、この戰は、成宗の大德五年、武宗のまだ宗王なりし時なれば、その語を記するに朕の字を用ふべからず。大德七年、成宗のチヤングル牀兀兒を諭せるにも、全くこれに同じき語あり。「武宗南還、命ユワシ玉哇失後從。敵懼莫敢近。因留之成後、賜以金チヤラ察剌二、玉束帶渾金段各一、仍賜秫米七十石、使爲酒以犒其軍」。チヤラ察剌は、語解にチヤラ察喇と書き「注酒器︀也」とあり。「後ハイド海︀都︀子チヤバル察八兒等、遣人詣闕請和。朝廷許之、遂撒邊備。ユワシ玉哇失乃還。帝錄其功、賜鈔五萬貫、進鎭國上將軍、仍舊職」。こゝの帝は、成宗なり。「大德十年五月、晝寢于衞舍、不疾而卒。子イキリダイ亦乞里歹襲。イキリダイ亦乞里歹卒、子バイヂユ拜住襲」。
列傳卷十九「バードル拔都︀兒、アス阿速氏、世居上都︀宜興」。勿論歸化して後の事なり。「憲宗在潛邸、與兄ウヅオルブハン兀作不罕及マタルシヤ馬塔兒沙、帥眾來歸。マタルシヤ馬塔兒沙從憲宗、征メゴス麥各思(祕史のメケト篾客禿)城、爲先鋒將。身中二矢、奮戰拔其城。又從征蜀、至釣魚山、歿于軍。バードル拔都︀兒從征李壇、圍濟南、身二十餘戰。世祖︀嘉其能、賞ナシス納失思段九、命領アス阿速軍一千、常居左右。尋於アタチ阿塔赤內、充ケセ怯薛百戶」。アタチ阿塔赤は、アクタチ阿黑塔赤にて、騸馬を掌る人なり。ケセ怯薛は、ケシク客失克にて番直なり。「後從タブタイ塔不台南征、與敵軍戰於金剛臺、又以功受賞。師還、言於帝曰「臣願從軍、爲國效死」。世祖︀留之、仍命充ホコスン孛可孫、兼領アス阿速軍、御馬必令鞚引。至元二十三年、授廣威將軍、後衞親軍副都︀指揮使、賜虎符。明年夏、從征ナヤン乃顏于イミ亦迷河、擒ツエンカヌタブタイ僉家奴塔不台以歸。賞鈔及衣段、加定遠大將軍。大德元年卒、子ベイレン別吉連襲」。ツエンカヌタブタイ僉家奴塔不台は、ユワシ玉哇失の傳のタブダイキンカヌ塔不歹金家奴なり。ベイレン別吉連は、致和元年、エンテムル燕鐵木兒に黨し、功を以て文宗より三珠虎符を賜はり、尋で疾に由りて辭し、子エレンヂ也連的襲げり。
列傳卷二十二「ケウルギ口兒吉(ケオルギ叫兒吉)、アス阿速氏。憲宗時、與父フデ福︀得來賜(賜は、歸の誤りか)、俱直宿衞、領アス阿速軍二十戶。世祖︀時、ケウルギ口兒吉以百戶、從元帥アチユ阿朮伐宋、有功、賜以白金等物。宋平、命充大宗正府エケヂヤルハチ也可札魯花赤、領アス阿速軍。從征ハイド海︀都︀、以功受上賞。師還、成宗命宣撫湖廣等處、訪求民瘼、還仍舊職。至大元年、武宗命充左衞アス阿速親軍都︀指揮使、進階廣威將軍。四年、卒。子ヂミヂル的迷的兒(ヂミトル的迷惕兒)、由ユデンチ玉典赤、改百戶、領アス阿速軍」。ユデンチ玉典赤は、正しくはエウデチ額兀迭赤なり。語解はイユデチ諤德齊と改め、「司門人也」と注せり。「從指揮ユグワシ玉瓜失、征叛王ナヤン乃顏、却キンガンヌ金剛奴軍于ソバチ鏁寶直之地、降ハダントルゲン哈丹禿魯干、累以功受賞」。指揮ユグワシ玉瓜失は、前衞親軍都︀指揮使ユワシ玉哇失なり。キンガンヌ金剛奴は、ユワシ玉哇失の傳のキンカヌ金家奴なり。ソバチ鏁寶直は、□□□□□□□□ハダントルゲン哈丹禿魯干は、□□□□□□□□「至大四年、襲父職、授明威將軍アス阿速親軍都︀指揮使。子ヒヤンシヤン香山〈[#「香山」の「香」は底本では異体字「昋」]〉事武宗仁宗、直宿衞。天曆元年九月、兵興、從戰宜興、擊殺︀敵兵七人。自旦至暮、却敵兵凡一十三處。以功賜金帶一、授左アス阿速衞都︀指揮使」。
列傳卷二十二「シラバードル失剌拔都︀兒、アス阿速氏。父ユルタミウ月魯達某、憲宗時、領アス阿速十人入覲、充アタチ阿塔赤(アクタチ阿黑塔赤)。從世祖︀至ハラ哈剌[ヂヤン章]之地、戰數勝。ウリヤンガタイ兀里羊哈台(ウリヤンカタイ兀限合台)以其功聞、賜所俘人一口以賞之。後以金瘡發卒。シラバードル失剌拔都︀兒、至自トベ脫別(トベト禿別惕)之地、帝特賜白金楮幣牛馬等物。至元二十一年、從丞相バヤン伯顏南征、有功、仍充アタチ阿塔赤。帝嘗命放海︀靑、日「能獲新者︀賞之」。シラバードル失剌拔都︀兒、卽援弓、射一免︀二禽以獻。賞沙魚皮雜帶及貂裘、且命於尙乘寺爲少卿、於アス阿速爲千戶。二十四年、授武略將軍、管アス阿速軍千戶、賜金符。ナヤン乃顏叛、從諸︀王和元魯往征之、力戰有功」。和元魯は、□□□□□□□□「ナヤン乃顏平、帝賞以金腰帶及銀交牀等。二十五年、進武德將軍尙乘寺少卿、兼アス阿速千戶。征ハダアン哈荅安(ハダン哈丹)等敗之、獲其駝馬等物。成宗嘉其功、以軍二千益之。討叛王トト脫脫[482]擒之、以功受賞」。トト脫脫は、トトハ土土哈の傳のトトム脫脫木か、又は太宗の第四子ハラチヤル哈剌察兒王の子トト脫脫大王なるべし。大德六年卒、子ノハイシヤン那海︀產襲其職。至大二年、進宣武將軍、右衞アス阿速親軍都︀指揮使、賜三珠虎符。泰定二年、單加明威將軍」。
列傳卷二十二「チエリ徹里、アス阿速氏。父ベギバ別吉八、在憲宗時、從攻釣魚山、以功受賞。チエリ徹里事世祖︀、充ホルチ火兒赤。從征ハイド海︀都︀、奮戈擊其前鋒。官軍二人陷陣、抜而出之。以功受賞。後從征ハンガイ杭海︀、獲其牛馬畜牧、悉以給軍食。帝嘉之、賞鈔三千五百錠、仍以分資士卒。成宗時、盜據ボロトル博落脫兒之地。命將兵討之、獲三千餘人、誅其曾長。還奉命、同客省使バードル拔都︀兒等、往バルフ八兒胡之地、以前所獲人口畜牧、悉給其主。軍還、帝特賜鈔一百錠。武宗在潛邸、亦以銀酒器︀賞之」。ボロトル博落脫兒は、成宗紀に□□□□□□□□バードル拔都︀兒は、アス阿速のバードル拔都︀兒に非ず、□□□□□□□□「至大二年、立左アス阿速衞、授本衞僉事、賜金符。皇慶二年、從湘寧王(顯宗ガマラ甘麻剌の第三子デリゲルブハ送里哥兒不花)北征、以功賜一珠虎符。子シレムン失列門直宿衞」。天曆元年、屢上都︀の兵と戰ひ、「以功授左衞アス阿速親軍都︀指揮使司僉事。」
アス阿速は、古くよりカウカス高喀速山の北の麓に住みたる部族にして、史記漢︀書の奄蔡、漢︀書陳湯の傳なる闔蘇、三國志の注に引ける魏略の西戎傳に「奄蔡國、一名阿蘭」とあるは、卽このアス阿速なり。(實錄五二四アスト阿速惕の注を見よ。)西紀の初頃よりギリシヤ吉哩沙ローマ囉馬の書に、その後のヒガシローマ東囉馬アラビア阿喇必亞の書に見えたるアラン阿蘭の名は、魏略のアラン阿蘭に同じく、ルシア嚕西亞の舊史に見えたるヤシ牙矢は、エンツアイ奄蔡に近し。經世大典の圖にアランアス阿蘭阿思とあるは、アラン阿蘭卽アス阿思と云へる意にて、阿思は卽阿速、亦卽漢︀書の圏蘇なり。祕史に阿速惕とあるは、蒙語の複稱なり。
マスヂ馬速的は、第十世紀の初に、アラン阿闌の事を委しく述べ、その都︀をマアス馬阿思と呼び、「アラン阿闌の國とカウカス高喀速山との間に、寨と大河に架する橋とあり。寨は、アラン阿闌の寨の名にて知らる。それは、古の時、アラン阿闌人の侵伐を禦がんが爲にペルシヤ珀兒沙の王イスフエンヂアル亦思分的阿兒の築きし物なり」と云ひ、又「アラン阿闌人は、クリスト克哩思惕敎徒なりき。されども後にイスラム亦思藍敎を奉じき」と云へり。プラノカルピニ普剌諾喀兒闢尼は、アラニ阿剌尼卽アシ阿昔と呼びて、その住處をコマニア科馬尼亞(コマン科曼卽キムチヤ欽察の國)の南に記せり。ルブルク嚕卜嚕克は(二四六に)、南ルシア嚕西亞の曠原を西方より通りたることを記して、こにカブチヤト喀魄察惕と呼ばるゝコンマニ寬馬尼遊牧せり。獨逸︀人には、そはヷラニ縛剌尼と、その領地はヷラニア縛剌尼亞と呼ばる。イシドルス亦昔朶嚕思は、タナイ塔主〈[#「塔主」はママ。「主」は「乃」の誤植と思われる]〉(ドン端)より篾斡提思河荅紐卜河の沼多き野までをアラニア阿剌尼亞と呼べり」と云ひ、二五二頁には「彼等(コマン科曼人)は、南に高き山をもつ。その山の麓に、荒野を亙りて橫さまにチエルキス徹兒奇思とアラニ阿剌尼卽アアス阿阿思と住めり。それらは、クリスト克哩思惕敎徒にて、今(一二五四年、憲宗四年)までタルタル塔兒塔兒人に抗ひて戰へり」と云ひ、又二四三頁には「五十日祭の朝に(一二五三年、憲宗三年。その時この人は、ドン端河に近き或る處に在りき)。或るアラニ阿剌尼人、又アアス阿阿思人とも呼ばるゝもの、我等を問ひき。それらは、ギリシヤ吉哩沙の禮式に從ふクリスト克哩思惕敎徒にて、ギリシヤ吉哩沙の文字とギリシヤ吉哩沙の僧︀侶とを持てり」とあり。アブルフエダ阿不勒弗荅(二、二八七)の引けるイブンサイド亦本賽篤(第十三世紀)は、アラン阿闌とアス阿思とを二種に分けたれども、アス阿思は、アラン阿闌の近所に住み、同じくトルク突︀兒克種に屬し、同じくクリスト克哩思惕敎を奉じたりと云へり。ヂヨザフオバルバロ勺撒佛巴兒巴囉(一四三六年、明の正統元年)は、その紀行に「アラニア阿剌尼亞なる名は、アラニ阿剌尼なる俗名より出でたり。アラニ阿剌尼は、その國語にてアス阿思を稱するなり」と記せり。
マルコポーロ馬兒科保囉の紀行にある、クリスト克哩思惕敎徒なるアラン阿闌の兵士の、常州府にて殺︀されたる談は、前のバヤン伯顏の條に引けり。マリグノリ馬哩固諾里(ユール裕勒の「カセイ喀勢」三七三)は、第十四世紀の中頃にアラン阿闌の事を記して「彼等は、今日にては世界の最大なる最貴き國民にして、人の最美しく最强きものとなれり。タルタル塔兒塔兒は、彼等の助に依り東の[483]帝國を得たり。彼等なくば、一度も重要なる勝利を得ざりけん。タルタル塔兒塔兒の始の王チンギスカン成吉思汗は、天の命を受けて世界を鞭韃せんが爲に進みし時に、彼等の君長七十二人を手下に用ひたりき」といへり。卜咧惕旋乃迭兒曰く「チンギスカン成吉思汗の下にアラン阿闌の働きたるを云へるは、誤なり。阿闌の國は、斡歌台の世に始めて征服せられき」。又曰く「元史に記せるアラン阿闌人の名の或るもの(クリスト克哩思惕敎徒に限れる名)に由りて、彼等のクリスト克哩思惕敎徒なることは推し料らる。この推定は、マスヂ馬速的・アブルフエダル阿不勒弗荅嚕・ブルク卜嚕克・マルコポーロ馬兒科保囉の證明にて確めらる。
10。エリケウン也里可溫卽クリスト克哩思惕敎徒。
列傳卷八十四孝友一郭全の傳に附して、「マヤフ馬押忽、エリケウン也里可溫氏、素貧。事繼母張氏、庶母呂氏、克盡子職とあり。その外諸︀傳にエリケウン也里可溫の人見えず。氏族表に曰く「エリケウン也里可溫氏、不知所自出。案祕書志、有失レムン列門、大德十一年祕書監。ヤグ雅古、字正卿、泰定元年著︀作佐郞。ノンガタイ囊加台、字元道、後至元三年祕書省奏差。皆不得其世系。又有馬世德、字元臣、官淮南廉訪僉事、見靑陽集」と云へり。
エリケウン也里可溫は、クリスト克哩思惕敎徒を蒙古人の呼びたる名にして、西亞細亞の書史には、アルカウン阿兒喀溫ともアルカイウン阿兒開溫ともあり。大佐ユール裕勒(マルコポーロ馬兒科保羅一、二八〇注に)曰く「モンゴル蒙果勒時代の史に、東方のクリスト克哩思惕敎徒又はその僧︀侶を指して、アルカイウン阿兒開溫なる詞屢見ゆ。聖マルチン馬兒庭の引けるステフエンオルペリアン思帖返斡兒珀里安のアルメニア阿兒篾尼亞史に、アルカイウン阿兒開溫又アルカウン阿兒喀溫なる詞は、この意味にて用ひらる。ドーソン多遜の據れるタリクヂハンクシヤイ塔哩黑只杭庫沙亦(世界征服史)の著︀者︀(チユヹニ主吠尼)は、クリスト克哩思惕敎徒をモンゴル蒙果勒人はアルカウン阿兒喀溫と呼びたりと云へり。フラク呼剌庫のバグダト巴固荅惕を攻むる時に、法官長老醫師アルカウン阿兒喀溫どもに書に贈︀りて、平和に働くものを免︀さんことを約束せりとあり。又その侵掠の時には、僅の阿兒喀溫と外國人との外は、免︀れたる家一つもあらざりきとあり。ラシドツヂン喇失都︀丁は、ペキン北京(大都︀)の執政大臣の事を記して、平章卽次位の相四人は、タヂク塔只克(ペルシヤ珀兒沙人)、漢︀人、ウイグル委古兒、アルカウン阿兒喀溫の四種より取られきと云へり。サバヂンアルカウン撒巴丁阿兒喀溫は、一二八八年(至元二十五年)にペルシヤ珀兒沙のアルグンカン阿兒昆汗よりローマ囉馬敎主に遣したる公使の一人の名なりき。ヸスデルー微思迭婁は、支那の文書より奇異なる文を引きて、「世祖︀の至元二十六年、大吏十九員の一局を設けて、十字架、マルハ馬兒哈、シリクバン昔里克判、エリカエン也里可溫の宗敎の事務を監督せしめき。この局は、仁宗の延祐︀二年に位置を高められ、その時にる監督の下にエリカエン也里可溫の宗敎を管する小さき役所十二ありき」と云へり。エリカエン也里可溫は、漢︀字に寫せるアルカイウン阿兒開溫なること明かなり。而してマルハ馬兒哈はアルメニア阿兒篾尼亞派を、シリクバン昔里克判はシリア失哩亞卽ヂヤコブ札科卜派を、エリカエン也里可溫はネストル捏思脫兒派を、指せるならんと試に推定せん」と云へり。ヸスデルー微思迭婁の引けるは、何書なるか、考へ得ず。エリカエン也里可溫は、初はネストル捏思脫兒派を指せる名なれども、元史に據れば、一般にクリスト克哩思惕敎徒を指せるにて、ネストル捏思脫兒派のみに限られざるが如し。
世祖︀紀中統三年三月「括ムスマン木速蠻ウイウル畏吾兒エリケウン也里可溫タシマン荅失蠻等戶丁爲兵」。ムスマン木速蠻は、ムスルマン木速兒蠻、卽モハメト抹哈篾惕敎徒なり。ダシマン荅失蠻も、モハメト抹哈篾惕敎徒にして、ベクタシユ別克塔施派とも云ひ、ペルシヤ珀兒沙の人ベクタシユ別克塔施の唱へたる一派なり。四年十二月「敕、エリケウン也里可溫ダシマン荅失蠻僧︀道、種田入租、貿易輸稅」。至元元年正月「命儒釋道エリケウン也里可溫タシマン達失蠻等戶、舊免︀租稅、今竝徵之」。十三年六月「勅、西京僧︀道エリケウン也里可溫ダシマン荅失蠻等、有室家者︀、與民一體輸賦」。十九年四月「勅、エリケウン也里可溫、依僧︀例給糧」。九月「招討使楊庭堅、招撫海︀外南番、皆遣使來貢。寓ダーラン俱藍國エリケウン也里可溫主ウヅアルべリマ兀咱兒撇里馬、亦遺使奉表、進七寶項牌一、藥物二瓶。又管領ムスマンマハマ木速蠻馬合馬、亦遺使奉表、同日赴闕」。列傳卷九十七(元史末卷)マーバル馬八兒等國の傳には、廣東招討司のダルハチ達魯花赤楊庭壁、ダーラン俱藍國に至れる時「エリケウン也里可溫ウツアルサリマ兀咱兒撒里馬〈[#「撒」は底本では「撇」。「撇」ではルビと直後の文脈に合わない。元史卷210に倣い修正]〉、及ムスマン木速蠻主マハマ馬合麻等、亦在其國、聞詔使至、皆相率來吿、願納歲幣、遣使入覲」とあり。紀の楊庭堅は、壁を堅と誤れり。ベリマ撇里馬セリマ撒里馬は、孰か是なるを知らず。又紀その年十月「勅、河西僧︀道也里可溫、有妻室者︀、同民納稅」。二十九年七月「エリウイリシヤシヤ也里嵬里沙沙、嘗簽僧︀道儒エリケウンダチマン也里可溫荅赤蠻爲軍、詔令止隷軍籍」。チ赤は、シ失[484]の誤なり。武宗紀大德十一年十二月改元の詔に「僧︀道エリケウン也里可溫ダシマン荅失蠻、竝依舊制納稅」。至大二年六月「中書省臣言「河南江浙省言「宣政院奏免︀僧︀道エリケウン也里可溫ダシマン荅失蠻租稅」。臣等議、田有租商有稅、乃祖︀宗成法。今宣政院一體奏免︀、非制」。有旨、依舊制徵之」。仁宗紀至大四年四月「能僧︀道エリケウン也里可溫ダシマン荅失蠻、頭陀白雲宗諸︀司」。泰定帝紀泰定元年二月「宣諭エリケウン也里可溫、各如敎具戒」。十一月「詔免︀エリケウン也里可溫ダシマン荅失蠻差役」。文宗紀 天曆 元年九月「命高昌僧︀、作佛事於延春閣、又命エリケウン也里可溫、於顯懿莊聖皇后(睿宗トルイ拖雷里〈[#「里」はママ]〉の妃)神︀御殿作佛事」などあり。外にも猶あるべし。
洪鈞の元世各敎名考に經世大典の馬政篇を引きて、「中統四年、諭中書省、於東平大名河南路宣慰司、不以フイフイ回回通事オト斡脫幷僧︀道ダシマン荅失蠻エリケウン也里可溫ウイウル畏兀兒諸︀色人戶、每鈔一百兩、通滾和買堪中肥壯馬七匹。(不以猶言不論と洪鈞注せり)。至元二十六年七月十日、兵部承奉尙書省奏。諸︀衙門官吏僧︀道ダシマン荅失蠻エリケウン也里可溫オト斡脫、不以是何軍民諸︀色人戶、所有堪中馬匹、盡數和買。十四日、兵部承奉尙書省箭付、ホシヤン和尙先生エリケウン也里可溫ダシマン荅失蠻オト斡脫等戶但有四歲以上騸馬イラ曳剌馬小馬、盡數赴官中納、當面給付價鈔」。また「至元十二年、樞密院奏、僧︀道エリケウン也里可溫ダシマン荅失蠻、欲馬何用。二十四年、楊總統奏、漢︀地ホシヤウ和尙也里可溫先生荅失蠻有馬者︀、己行拘刷、江南者︀未刷。江淮省言、江南ホシヤウ和尙エリケウン也里可溫先生、出皆乘轎、養馬者︀少」とあり。洪鈞曰く「經世大典之オト斡脫、也ユダイ猶太敎。審定字音、當云ユト攸特。首字、今譯爲勝。次字大典譯音爲勝。或稱ヂユデア如德亞、則言其他。ヂユデ如德、亦ユト攸特也」。先生は、錢大昕の考異に「元人稱道士爲先生」と云へり。
又考異に、武宗紀至大二年六月の條に、元典章の一條を引きて、「ダシマン荅失蠻デリヰシ迭里威失戶、若在フイフイ回回寺內住坐、並無事產、合行開除外、據有營連事產戶數、依フイフイ回回戶體例收差」とあり。デリヰシ迭里威失は、正しくはデルヰシユ迭兒微施にて、ペルシヤ珀兒沙語乞食卽苦行の僧︀なり。故にデルヰシユ迭兒微施は、一派の名にあらず、數派の總名にして、その中にカヂル喀的兒派、リフアイ哩發亦派、ルミ嚕米派、シヤヂリ沙的里派、バダヰ巴荅威派、ナクシユバンド納克施邊篤派、サド撒篤派、ベクタシユ別克塔施派、カルワト合勒哇惕派などありき。ダシマン荅失蠻デリヰシ迭里威失戶は、ベクタシユ別克塔施派のデルヰシユ迭兒微施の家なり。
又至元辨僞錄に曰く「釋道兩路、各不相妨。今先生言道門最高、秀才人言儒門第一、テセ迭屑人奉ミシハ彌失訶、言得生天、タシマン達失蠻叫空、謝天賜與。細思根本、皆難與佛齊」と云へり。テセ迭屑は、長春の西游記にも、辛巳の九月四日、フイフ回紇(ウイグル委古兒)の都︀の西なる輪臺の東に宿れる時「テセ迭屑頭目來迎」とありブレトシユナイデル卜咧惕施乃迭兒曰く「パラヂウス帕剌的兀思(「支那のクリスト克哩思惕敎の古き跡形」ルシア嚕西亞の東洋の記錄一二五-一六三)に據れば、テセ迭屑は、サツサン薩散朝の時よりクリスト克哩思惕敎徒を、時ありては又事火敎徒とマヂ馬只とを呼ぶにペルシヤ珀兒沙人用ひたる帖兒撒なる詞の支那音譯なり。アルメニア阿兒篾尼亞のハイトン海︀屯は、亞細亞の諸︀國(第十四世紀の初)の談に、タルセ塔兒薛の名をヨグル約古兒(ウイグル委古兒)の國に明かに加へたり。モンテコルヸノ蒙帖科兒微諾は、同じ時ごろに北京にて書きたる手紙の中にタルセ培兒薛文字と云へる事あるは、明かにウイグル委古兒文字を指せり。この詞をウイグル委古兒に當てたることは、彼等の中にネストル捏思脫兒派のクリスト克哩思惕敎の廣く流行せることを示すと、ユール裕勒(「カセイ喀勢」二〇五)は考へたり」。ミシハ彌失訶は、景敎の碑にミシハ彌施訶と書けり。卽メシア篾昔亞にして、救世主エス耶蘇を云へるなり。また顧炎武の山東考古錄に載せたる元の泰定帝の嶽廟の碑に「ホシヤン和尙エリケウン也里可溫先生タシマン達識蠻每、不拘揀甚麼、差發休當者︀」とあり。佛もエス耶蘇も道士もフイフイ回回も、何にても徭役するなと云へるなり。
クリスト克哩思惕敎の支那に入りたるは、唐の世にして、太宗の貞觀九年、ネストル捏思脫兒派の高僧︀アラボン阿羅本、ペルシヤ珀兒沙より長安に詣り、太宗の崇敬を得てより、その敎稍行はれき。シリア失哩亞の古記に據れば、ネストリウス捏思惕哩兀思の放逐せられて後、その說は、却てペルシヤ珀兒沙その外東方の諸︀國に廣まり、西紀四百十餘年にはヘラト赫喇惕に、第六世紀の初に[485]はサマルカンド撒馬兒干篤に敎正の管區を設けたり。支那も、初は敎正の管區なりしが、第八世紀の初(玄宗の開元中)に、ヘラト赫喇惕・サマルカンド撒馬兒干篤と共に大敎正の管區に陛せられき。敎主チモシー提抹世の時(七七八-八二〇)、ダヸト荅微篤と云へる支那の大敎正に任じたること見え、又第九世紀の中頃に、支那の大敎正は、他の東方諸︀國のそれらと共にその地の遠きに由り、敎會の毎四年の集會に參列せざることを許され、その事業の有樣の報吿を六年毎に送るべきことを命ぜられたること見えたり。アラビア阿喇必亞人アブサイド阿不賽篤の談に據れば、八七八年(僖宗の乾符五年)に、澉浦(卽杭州)の夥しき外國居留民の一部は、クリスト克哩思惕敎徒なりと云へり。
ネストル捏思脫兒派のクリスト克哩思惕敎の支那に行はれたる景況は、景敎の碑に詳かなり。景敎の碑は、委しく云へば「大秦景敎流行中國碑」にして「久しく地に埋もれ居たるを、明の天啓五年(我が寬永二年)にふと掘り出したる物なり。その碑文を飜譯し注釋したる人數多き中に、ヤンマノ陽瑪諾(エンマヌエル奄馬努額勒)の景敎碑頭正詮などあり。その碑文にはアラボン阿羅本を大秦國(ローマ囉馬卽東ローマ囉馬)の大德と云ひ、貞觀九年に長安に至り、十二年に詔ありて京の義寧坊に大秦寺を造るとあれども、實はアラボン阿羅本はペルシヤ珀兒沙より詣り、寺の名も波斯寺と云ひしを、後に改めたる名を以て追稱したるなり。册府元龜に曰く「天寶四載九月、勅波斯經敎、出自大秦。傳習而來、久行中國。爰初建寺、因以爲名。將以示人、必循其本。其兩京波斯寺、宜改爲大秦寺。天下諸︀州郡有者︀、亦宜準此」とあり。杜佑の通典に(姚寬の西溪叢語、馬端臨の文獻通考も同じく)、この勅を引き、九月を七月とし、循を脩と誤れり。波斯寺を大秦寺と改められたる理由は、蓋當時ペルシヤ珀兒沙はサラセン撒喇先國の領地となり、モハメト抹哈篾惕敎の中心となりたる故に、クリスト克哩思惕敎をペルシヤ珀兒沙の宗敎の一派と見られんことを嫌ひ、かつクリスト克哩思惕敎の起りたるシリア失哩亞の地は、もとローマ囉馬帝國卽大秦國の領地なりし故に、「波斯經敎、出自大秦」と云へるなり。諸︀州郡に波斯寺の立てられたる事は、景敎の碑に「高宗大帝、克恭纉祖︀、潤色眞宗。而于諸︀州、各置景寺、仍崇アラボン阿羅本爲鎭國大法主。法流十道、寺滿百城」とあり。寺の名を改めたることは、固より碑には載せざれども、「天寶三載、大秦國有僧︀佶和、瞻星向化、望日朝尊。詔僧︀羅含僧︀普論等一七人、興大德佶和、於興慶宮修功德。於是天題寺牓、額戴龍書。寶裝璀翠、灼燦丹霞。睿札宏空、騰凌激日。寵賓︀比南山峻極、沛澤與東海︀齊深」とあり。この寺牓龍書は、佶和の至れる翌年、寺の名を改めたるに由り勅額を賜はれるならん。シリア失哩亞の古記に第八世紀の初に支那を大敎正の管區に陞せきとあれば、この大德信和は、蓋初めての大敎正なるべし。天寶三年は、西紀七四四年なり。
又通典に「貞觀二年、置波斯寺」とあるは、二の上に十の字を脫したるなり。西溪叢語には「貞觀五年、有傳法モグハロク穆護何祿、將祆敎詣闕聞奏。勅令長安崇化坊立祆寺、號大秦寺、又名波斯寺」とあり。五年は、九年の誤なり。モグ穆護は、ペルシヤ珀兒沙語のモグ抹古卽マヂ馬只にて、祆敎の僧︀なり。唐の人は、景敎を祆敎と混じ居る故に、景敎の僧︀をもモグ穆護と云へり。ハロク何祿はアラボン阿羅本の訛にて、ア阿をハ何と誤り、ボン本の字を脫したるなり。アラボン阿羅本の來朝は、貞觀九年にして、寺の建立は十二年なるを、建立の年を揭げざるは疎なり。佛祖︀統紀に「貞觀五年、勅於京師建大秦寺」とあるは、全く西溪叢語に依りて誤れるなり。
景敎の碑は、始めに「大秦寺僧︀景淨述」、末に「大唐建中二年、歲在作噩、太簇月七日、大耀森文日建立。時僧︀寧恕知東方之景眾也」とありて、卽西紀七八一年、チモシー提抹世の敎主たる間にして、寧恕と云へる大敎正の時に立てられたり。この寧恕は、チモシー提抹世の任じたる大敎正ダヸト荅微篤の漢︀名なるか、その前の大敎正なるか、知るべからず。この碑の地に埋められたるは、武宗の佛寺を毀ち、僧︀尼を還俗せしめたる時の事なるべし。
舊唐書武宗紀會昌五年(西紀八四五年)「四月、勅祠部檢括天下寺及僧︀尼人數。大凡寺四千六百、蘭若四萬、僧︀尼二十六萬五百。七月、勅併省天下佛寺。中書門下條疏聞奏「據令式、諸︀上州、國忌日、官吏行香於寺。[486]其上州、望各留寺一所。其下州、竝廢。其上都︀(長安)(洛陽)東都︀兩街、請留十寺、寺僧︀十人」。勅曰「上州合留寺、工作精︀妙者︀留之、如破落、亦宜廢毀。其合行香日、官吏宜於道觀。其上都︀下都︀、每街留寺兩所、寺留僧︀三十人」。四街にて寺八所、僧︀二百八十人なり。佛祖︀統紀には「天下州郡、各留一寺、上寺二十人、中寺十人、下寺五人」とあり。本紀と稍異なり。その續きに「中書又奏「天下廢寺銅像鐘磬、委鹽鐵使鑄錢。其鐵像、委本州鑄爲農器︀。金銀鍮石等像、銷付度支。衣冠士庶之家所有金銀銅鐵之像、敕出後、限一月納官如違、委鹽鐵使、依禁銅法處分。其土木石等像、合留寺內依舊」。又奏「僧︀尼不合隷祠部、請隷鴻臚寺。其大秦モグ穆護等祠、釋敎旣巳釐革、邪法不可獨存。其人竝勒還俗、遞歸本貫、充稅戶。如外國人、送還本處收管」」。大秦モグ穆護等祠は、大秦景敎の寺とモグ穆護の祭れる祇神︀の祠とを云へるなり。外にマニ摩尼敎などある故に、等の字を加へたるなり。かくてその八月には、廢佛勵行の詔を下し、「其天下所拆寺、四千六百餘所。還俗僧︀尼二十六萬五百人、收充兩稅戶。拆招提蘭若、四萬餘所。收膏腴上田、數千萬頃。收奴婢爲兩稅戶、十五萬人。隷僧︀尼屬主客、顯明外國之敎。勒大秦モグ穆護祓三千餘人還俗、不襍中華之風」と本紀に云へり。主客は、外客を取扱ふ官司の名なり。モグ穆護の下に祓の字あり。通典卷四十に祆祠の官を載せて、視︀正五品薩寶、視︀從七品薩寶府祆正、視︀流外薩實府祓祝︀とあれば、この祓は、卽祓祝︀ならんか。又西溪叢語には勅大秦モグ穆護大祆等六十餘人、竝放還俗、」佛祖︀統記には「穆護火祆、竝勒還俗、凡二千餘人」とあり。叢語の大祆は、火祆の誤なり。然らば本紀の祓は、祆の字の誤にして、その上に火の字脫ちたるならんか。いづれにしても祆敎の徒にして、モグ穆護の同僚又は下僚なり。叢語の六十は、六千の誤ならん。六千は本紀より多く、統紀の二千は本紀より少し。
又佛祖︀統紀に佛寺を廢する前に「會昌三年、勅天下マニ末尼寺、竝令廢能、京城女マニ末尼七十人皆死、在フイフ回紇者︀流之諸︀道、死者︀大半」とあり。これは、武宗フイフ廻鶻を征してウカイカガン烏介可汗を擊破りたる時の處分にして、武宗紀に百官賀を稱へし時の詔を載せたり。その末段に「應在京外宅及東都︀修功德フイフ廻紇、竝勒冠帶、各配諸︀道收管。其フイフ廻紇及マニ摩尼寺莊宅錢物等、竝委功德使、與御史臺及京兆府、各差官點檢收抽、不得容諸︀色人影占。如犯者︀竝處極法、錢物納官。マニ摩尼寺僧︀、委中書門下、條疏聞奏」とあり。中書門下は、マニ摩尼寺の僧︀の處分をいかに條奏したるかは、本紀に漏れたれども、武宗は旣に道士趙歸眞等に迷ひ込みて、他の宗敎を排除せんと考へ居たる時なれば。フイフ廻鶻を破れる勢に乘じて、必ず嚴酷の處分をなしたるならん。
かくて武宗の道敎に凝り固まりたる氣燄は、佛敎のみならず、景敎祆敎マニ摩尼敎までも掃蕩したるなり。武宗は、その翌年に崩じ、叔父宣宗立ち、翌年(大中元年)佛敎の禁を弛めたれば、景敎も同時に蘇息したらんと思はる。されどもこれより衰微して前時の隆︀盛に復せざるらしく、史書にその景況を記せるもの無し。
アラビア阿喇必亞人イサーク亦撒克の子にてアブルフアラヂ阿不勒發喇只と號するマホメト馬訶篾惕(レイナウド咧腦篤のアブルフエダ阿不勒弗荅一四〇二に)曰く「三七七年(西紀九八七年、宋の太宗雍熙四年)に、(バグダート巴固荅惕の)クリスト克哩思惕敎徒の坊區にある寺の後にて、ナヂラン納只㘓の一僧︀に我遇へり。その僧︀は、七年前に、アルメニア阿兒篾尼亞の敎長の命にて、五人の僧︀と共に、支那のクリスト克哩思惕敎の事務を整理せんが爲に彼の國に遣されたりき。我その旅行の事を問ひたれば、その人曰く「クリスト克哩思惕敎は支那にて全く滅びたりき。クリスト克哩思惕敎徒は、種種なる道(死方)にて死にたりき。彼等の寺は、毀たれて、クリスト克哩思惕敎徒只一人その地に殘れり。我が世話して助くべき人を一人も見出さざる故に、往きしより速に歸りたりき」と云へり」。この僧︀は、支那の都︀をタイウナ太兀納又はタユエ塔余也と呼びたるに由り、バウシー保世は、チヤウ兆卽チヤウフ兆府の訛ならんと云ひたれども、キンチヤウフ京兆府のキン京を略きて、只チヤウ兆又はチヤウフ兆府と呼びたること無し。ユール裕勒は、タイユエンフ太原府ならんと云ひたれども、太原は宋の都︀にあらず。それらよりは宋の都︀開封府の古名タイリヤン大梁に稍近き樣なれども、これも確な[487]らず。
クリスト克哩思惕敎は、支那にては甚衰へ或は滅びたれども、中アジア亞細亞の諸︀國にては衰へざりき。旣に敎主チモシー提抹世(七七八-八二〇)の時に、裏海︀に臨める諸︀國にて布敎盛になり、それに續きてトルク突︀兒克の一カガン可汗と小き君長數人との改宗せし事あり。ユール裕勒の「カセイ喀勢」(一七九)に曰く「クリスト克哩思惕敎徒の史家グレゴリ固咧果哩アブルフアラギウス阿不勒發喇糾思の談に依れば、一〇〇一年(宋の眞宗咸平四年)と一〇一二年(大中祥︀符五年)との間に、バグダート巴固荅惕の(ネストル捏思脫兒派の)敎主は、コラサン闊喇散のメルウ篾兒兀の大敎正より書簡を受取れり。その書簡は、トルク突︀兒克の國の奧にて遙に北東にあるケリト客哩惕の王の不思議なる改宗を述べて、その王は、メルウ篾兒兀に使を遣〈[#「遣」は底本では「造」]〉してクリスト克哩思惕敎の僧︀を求め、かつその臣民二十萬人は王に傚ひて洗禮を受けんとして居ることを吿げこしたり。敎主は、命を下して、僧︀侶敎師を派遣せしめき。一部落としてケライト客喇亦惕人のクリスト克哩思惕敎徒なりし事は、モハメト抹哈篾惕敎徒の史家なるラシツトエツヂン喇失惕額丁も證明せり」。ケリト客哩惕の王は、卽ケレイト客咧亦惕の罕なり。アブルフアラギウス阿不勒發喇糾思の談に殊にその年紀に誤り無くば、そのカン罕の改宗は、エスゲイ也速該の死したる一一七〇年(宋の孝宗乾道六年)より百六七十年前なれば。そのカン罕は、エスゲイ也速該のアンダ安荅なるケレイト客咧亦惕のワンカン王罕の五世又は六世の祖︀なるべし。
元の定宗元年に蒙吉の行宮に到かなるフランシス佛㘓昔思派のプラノカルピニ普剌諾喀兒闢尼はチンギスカン成吉思汗のキタイ奇台征伐を述べたる後に、キタイ奇台の民の風俗を記して、「キタイ奇台人は、異敎の徒にして、已らの文字を用ふ。されども舊約新約聖書と聖父の列傳と隱居せる法師と會堂として用ひらるゝ建物とあり、その建物にて彼等は、彼等の都︀合善き時に祈︀禱す。然して彼等の中にも聖僧︀ありと彼等は云ふ。彼等は、唯一の神︀を拜み、主エスクリスト耶蘇克哩思惕を尊び、永久の生活を信ずれども、洗禮は全く無し。彼等は、我等の經典を崇び敬ひ、クリスト克哩思惕敎徒を善く待遇し、惠施の業を多く爲す。實に彼等は、全く親切にして禮儀ある民なりと見ゆ」と云へり(「カセイ喀勢」序論一二四)。プラノカルピニ普剌諾喀兒闢尼は、只傳聞に依りて書きたれば、誤りあらん。その一神︀を拜むと云へるは、儒家の上帝を敬ひ、又は道家の玉皇を崇むるを聞きて誤解したるに似たり。〈[#以後、最後までルビがほぼないので入力者が補う]〉
プラノカルピニ普剌諾喀兒闢尼と同じ時に、小アルメニア阿兒篾尼亞の王ハイトン海︀屯の命を受けて、ハイトン海︀屯の弟アルメニア阿兒篾尼亞の騎將セムパト撏帕惕は、定宗卽位の大會に參列せんが爲に蒙古に到れり。蒙古より還る途中サウレコアント撒兀咧庫安惕にて、セムパト撏帕惕は、キプロス奇魄囉思の王と后とその朝廷の人だちとに宛てたる書簡を送れり。サウレコアント撒兀咧庫安惕は、ユール裕勒の考へに、ウ兀は蓋ム姆の誤りにて、サマルカンド撒馬兒干篤ならんと云へり。その書簡の大意に曰く「今の汗の父(オコダイ斡闊歹)の死してより五年過ぎたることは、事實なり。されどもタルタル塔兒塔兒の列侯諸︀將は、大地の面に分散したりし故に、その汗を戴かんが爲に一所に聚ることは、五年の內には殆どむづかしかりき。或る者︀はインヂア印的亞に、他の者︀はカタ合塔(支那)の國に、又はカスガルタンガト喀思合兒唐合惕(タングト唐兀惕)の國に居りき。タンガト唐合惕の國は、主エス耶蘇の生れたるを拜まんとベスレム別思列姆に至りし三王の出でたる所なり。クリスト克哩思惕の勢力は大なるものにて、その地の民は、クリスト克哩思惕敎徒なり。又カタ合塔の全土は、その三王を信ず。我嘗て自ら彼等の會堂に入りて、エスクリスト耶蘇克哩思惕の畫と黄金乳香沒藥を供する三王の畫とを見たり。彼等のクリスト克哩思惕を信じ、汗もその民も今クリスト克哩思惕敎徒となりたるは、その三王に由りてなり。彼等は、汗の諸︀門の前に會堂をもち、そこに鐘を鳴らし、木の片を敲く。‥‥我等は、東方にいづこにも散在するあまたのクリスト克哩思惕敎徒を見、又高き、古き、善き建築の、美麗なる會堂あまた、トルク突︀兒克人に壞られたるを見たり。それ故にその他のクリスト克哩思惕敎徒は、今の汗の祖︀父の前に來ぬ。彼は、彼等を最も敬ひて、崇拜の自由を與へ、又辭又は行ひを以て迫害し、彼等に陳情の正しき理由を與ふることを禁ずるの命令を出せり。かくて彼等を慢侮︀して取扱ひたるサラセン撒喇先どもも、今は同樣なる取扱をなすに至れり。‥‥又使徒聖トマス脫馬思の敎化したるインヂア印的亞の國に、クリスト克哩思惕〈[#「克哩思惕」は底本では「克哩惕」。脱字と判断し修正]〉敎を信ずる一王ありて、サラセン撒喇先なる諸︀王の中に孤立して苦みき。諸︀王は常に[488]方方より彼を攻めたる末に、タルタル塔兒塔兒は、その國に至りたれば、彼はその藩臣となりき。その時彼は、己の軍とタルタル塔兒塔兒の軍とを以てサラセン撒喇先どもを擊破り、インヂア印的亞にて夥しき捕虜︀を得たれば、インヂア印的亞の奴隷は、東方全體に滿ちたり。我この王の捕りて賣りに送りたる奴隷五萬人以上を見たり」とあり(「カセイ喀勢」序論一二七)。この書簡に述べたる事蹟は、殆ど皆根無し言なり。ユール裕勒曰く「この書簡の動機は、蓋その兄ハイトン海︀屯が、その怪しきインド印度の王の如く、タルタル塔兒塔兒の藩臣となりたることを言譯せんが爲ならん。セムパト撏帕惕は、一二七二年(至元九年)トルク突︀兒克人との戰にて死にき」。
フランス佛㘓西王ルイ路易第九は、バド拔都︀の子サルタク撒兒塔黑のクリスト克哩思惕敎徒なるを聞き、タルタル塔兒塔兒の國情を探りかつ敎化せんが爲に、フランシス佛㘓昔思派の僧︀ルブルク嚕卜嚕克を東方に派遣せり。ルブルク嚕卜嚕克は、一二五三年(憲宗三年)五月、公士但丁堡より黑海︀を渡り、クリミア克哩米亞を過ぎ、ブルガ佛勒噶河の畔に至り、サルタク撒兒塔黑に見えしが、サルタク撒兒塔黑は聞きしに違ひ、頑なる不信者︀なりき。コヂヤト科札惕と云へるネストル捏思脫兒敎徒、異敎徒にも劣れりとルブルク嚕卜嚕克の誹れる大臣ありて、サルタク撒兒塔黑に紹介し、謁︀見の事を取計ひ、ルブルク嚕卜嚕克を欺きてその衣服を奪へり。それよりブルガ佛勒噶河に傍ひて泝り、バト巴禿汗の營に至り、それより又四箇月の長旅にて、その年の冬、憲宗の行宮に達しき。
憲宗は、ネストル捏思脫兒派の僧︀侶にルブルク嚕卜嚕克の使命を問はしめたる上にて、謁︀見を許し、蒙古に住みて布敎せんとするルブルク嚕卜嚕克の願をば却けたれども、家を與へて、寒さの緩むまで二月ほど留まること、望むならばカラコルム喀喇科嚕姆に往くことを許せり。ルブルク嚕卜嚕克の觀たるには、マング曼古とその家族とは、クリスト克哩思惕敎ムハメト木哈篾惕敎佛敎の法事に區別なく加はり、各の宗敎の與へんと云ふ福︀を慥にせんとせり。クリスト克哩思惕敎は、ネストル捏思脫兒派のそれにして、その宗派のいかに墮落したるかは、ルブルク嚕卜嚕克の述べたる畫の如き珍談に由りて察せらる。或る祭の日にマング曼古の正妻は、その子どもを伴れて、ネストル捏思脫兒派の寺に入り、その派の風習に從ひ、聖像の右手に接吻し、己の右手を與へて接吻せしめき。マング曼古も居て、その妻と神︀案の前なる金着せの椅子に坐り、ルブルク嚕卜嚕克とその隨行者︀とに歌はしめたれば、二人はヹニサンクテスピリトス吠尼散克帖思闢哩禿思(聖靈來)を唱へき。帝はその後直に去りたれども、皇后は後に留りて、クリスト克哩思惕敎徒に賜物を與へ、米酒葡萄酒馬乳酒を取寄せ、自ら盞を取り、跪きて福︀を求め、后の飮む間僧︀徒は歌ひ、然る後僧︀徒は醉ふまで飮みけり。かくてその日を過し、夕に向ひ皇后も同じく醉ひ、輿に乘りて歸るを、僧︀徒は歌ひつゝ吠えつゝ護送せり。
他の折にルブルク嚕卜嚕克は、ネストル捏思脫兒派の僧︀衆アルメニア阿兒篾尼亞の一僧︀と列を成して、マング曼古の宮殿に往きけり。內に入る時、一人の僕、シヤマン沙曼のウラナ卜ひに用ひたる羊の肩骨の燻したるを持ち出づるを見たり。僧︀徒は、香爐を持ち往きて、帝の身に香氣を與へ、その蓋を祝︀して然る後に眾皆飮みき。皇族の人人にも、次次に見えき。ネストル捏思脫兒派の考へたるクリスト克哩思惕敎の禮拜は、高き所に十字架を新しき絹の一片の上に置きて、その前にひれふすなりき。
前に記せる三の宗派は、常に改宗を勸め居りて、彼等の大なる望みは、合罕を引入るゝことなれども、マング曼古は中立して、いづれをも寬大に扱へり。一日ルブルク嚕卜嚕克に語りて曰く「我が朝廷の人人は、唯一にして長生なる同じ神︀を拜むものなれば。各の方式にてそれを崇むることを許されざるべからず。あらゆる宗派の人に我が恩寵を分け與ふるは、いづれも我が意に適ふことを著︀さんが爲なり」と云ひき。歷史家ヂユヹニ主吠尼は、マング曼古はおもにムハメト木哈篾惕敎徒をひいきせしことを云へるに、ハイトン海︀屯とステフエンオルフエリアン思帖返斡兒弗里安とは、クリスト克哩思惕敎徒最ひいきせられしことを主張せり(ホヲルス訶倭兒思〈[#「訶倭兒思」は底本では「訶兒倭思」]〉一、一九〇)。
されどもクリスト克哩思惕・ムハメト木哈篾惕・佛陀の三敎は、皆朝廷の贅澤〈[#「贅澤」は底本では「聱澤」]〉に過ぎず。蒙古の國民の實行するは、シヤマン沙曼敎にして、舊の如く國敎となり居たり。ルブルク嚕卜嚕克の記載に據れば、シヤマン沙曼僧︀徒の長は、皇宮より石の投げらる距離に[489]住みて、偶像を運ぶ輿を預れり。
シヤマン沙曼どもは、星占を行ひ、(日月の)蝕を豫言し、吉日凶日を指定し、朝廷の用に供せらるゝ物、合罕に獻れる物を火を以て淨め、誕生の時に星命を說き、病牀にオ招がれて醫療を行へり。彼等もし人を害せんとすれば、その人未來の禍︀を起さんことを訴ふるのみにて足れり。彼等は、惡鬼を呼ぶ時、大鼓を擊ちて、感覺を失ふまで己が心を剌激し、その惡鬼より答を得たりと云ひて、その答を神︀託と宣言せり。
復活祭の日(憲宗四年)に、ルブルク嚕卜嚕克は、カガン合罕に從ひて、カラコルム喀喇科嚕姆に至れり。この都︀の狀をルブルク嚕卜嚕克の述べたる談は、實錄六一三頁の注に引けり。又皇宮の中堂の高御座の前に當り、銀の樹ありて、四の銀の獅子の上に立ち、その獅子の口より四の銀の罍に葡萄酒馬乳酒糖蜜酒米酒流れ出づ。樹の頂に銀の天使ありて四の噴泉を供する酒池涸れて注入を要する時に喇叭を吹く。この珍奇なる銀細工は、ハンガリア洪噶哩亞のベルグラド別勒果囉篤(白城)にて捕はたれるパリ帕哩の銀工ギヤウム吉要姆ボーシエー孛舍の作にして、それを作るに銀三千マルク馬兒克を費しき。この銀工の外に、ルブルク嚕卜嚕克は、カラコルム喀喇科嚕姆にてあまたのクリスト克哩思惕敎徒・ハンガリ洪噶哩人・アラン阿闌人・ルス嚕思人・グルヂ古兒只(ヂヨルヂア勺兒只亜)人・アルメニア阿兒篾尼亞人に遇ひき。蒙古に五箇月留まりたる後、ルブルク嚕卜嚕克は、歸國の途に上り、ルイ路易第九の書簡に答ふるカガン合罕の返書を與へられき。その書は、穩なる辭にて述べたれども、通例の如く、その國の遠きことゝ强きこととを恃まずに服從すべきを命じて結べり(ホヲルス訶倭兒思一、一九一)。
又ルブルク嚕卜嚕克は、支那をカタイ喀台と、西遼卽カラキタイ合喇乞台をカラカタイ喀喇喀台と呼びて、その紀行に「此等の(カラ喀喇)カタイ喀台人は、我が通りたる或る山中の草地(アルプス阿勒魄思)に住みき、其等の山中の或る野に、威力ある羊飼︀にして、ナイマン乃蠻と云ふ人民の主君なるネストル捏思脫兒敎徒居りき。その人民は、ネストル捏思脫兒派のクリスト克哩思惕敎徒なりき、コイル科亦兒汗死にし時に、そのネストル捏思脫兒敎徒は、(彼に代り)自ら王となり、ネストル捏思脫兒敎徒どもは、その人を王ヂヨハン約翰と呼びてその事蹟を眞實より十倍多く語りき。それは、世界のその方より來ぬるネストル捏思脫兒敎徒どもの常にして、最驚くべき物語を烏有の中より引き出すことを好み、サルタク撒兒塔黑はクリスト克哩思惕敎徒なることを言ひふらしたるも、彼等にて、マング曼古汗と肯汗とにつきても、同じ事を語れり、事實は、たゞその汗だちは、クリスト克哩思惕敎徒を他の民より重く取扱ふのみにて、嘗て少しも嘗克哩思惕敎徒に非ず、かゝる成行にて王ヂヨハン約翰につき大なる物語行はれけれども、その遊牧地なりし所を我が過ぎたる時すら、わづかなるネストル捏思脫兒敎徒の外は、誰もヂヨハン約翰につきて何事をも知らざりき。その遊牧地を今占領したる肯汗の朝廷には、フラテル富喇帖兒(敎會の兄弟)アンドレ安篤咧立寄り、我は歸り路にそこを過ぎけり。このヂヨハン約翰に、一人の兄弟ありて、それも遊牧民の大首領にて、その名はオンク翁克と云ひ、カラカタイ喀喇喀台のアルプス阿勒魄思の他(東)の方にて、その兄弟より二十日路ばかり隔たれる所に住み、カラコルム喀喇科嚕姆と云ふ小き町の主君にして、クリトメルキト克哩惕篾兒奇惕と云ふ人民を管きたりき、此等の人民も、ネストル捏思脫兒派のクリスト克哩思惕敎徒なりき。されどもその主君は、クリスト克哩思惕敎を棄てて、偶像敎に歸依し、己の傍に居らしめたる偶像の僧︀どもは、皆惡鬼の呪ひ託宣を事とするものなり、又その遊牧地より十日又は十五日行きたる所にモアル抹阿勒と云ふ甚貧しき部落の遊牧地ありき。その部落には、會長も無く、其邊のあらゆる人民の信ずるが如き占ひ呪ひの外に宗敎も無し。モアル抹阿勒の次に、又タルタル塔兒塔兒と云ふ他の貧しき部落ありき。時に王ヂヨハン約翰は、嗣子を遺さずに死にたれば、オンク翁克入りて自ら汗と稱し、その羊馬の群は、モアル抹阿勒の界までも廣がりき。その時モアル抹阿勒の部落の內にチンギス成吉思と云へる鍛冶ありて、機會あるごとにオンク翁克汗の家畜を掠むることを常としたれば、オンク翁克汗の牧人は、大なる苦情をその主に陳べたり。かくてオンク翁克は、軍を聚めて、チンギス成吉思の罪を責めてモアル抹阿勒の地に攻め入りたれば、チンギス成吉思は、タタル塔塔兒の地に遁げてそこに身を匿せり云云」と云へり(ユール裕勒の「カセイ喀勢」一七七)。
この紀行のコイル科亦兒汗は、カラキタイ合喇乞台のグルカンチルグ古兒罕直魯古を、王ヂヨハン約翰は、ナイマン乃蠻のグチユルクカン古出魯克罕を云へるなり。[490]クチユルク克出魯克をヂヨハン約翰と云へるは、その頃エウロパ歐囉巴にて、アジア亞細亞の奧に、プレスビテル普咧思必帖兒、ヂヨハン約翰と呼ばるゝクリスト克哩思惕敎を信ずる國君ありて、モハメト抹哈篾惕敎徒を擊破れりと云へる傳奇の說行はれ居たるに由り、クリスト克哩思惕敎徒なりと聞けるナイマン乃蠻のカン罕をそのヂヨハン約翰に古事附けたるなり。
成吉思汗實錄續編 終
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