[450]

參。祕史に見えざる名臣。


 太祖︀太宗は、克狄より出でゝ、沙漠の北に興りたるに、文武の名臣夥しくして、漢︀唐の創業の時にも愈れるは、驚くべき事なり。それらの名臣にて。元史に傳はりて。祕史に名も見えざる人を數へ擧ぐれば、實に十餘人あり。今その人々を蒙古色目漢︀人の三綱に分けて。その仕履の槪略を述べん。考證の必要ある時は、その詳傳を載することもあるべし。

 蒙古色目漢︀人の別に付きては、すこし說明を要することあり。陶宗儀の輟耕錄に蒙古七十二種、色目三十一種、漢︀人八種を載せて、蒙古の內には、祕史に見えたる​バタチカン​​巴塔赤罕​の子孫皆屬するのみならず、​フチン​​忽神︀​卽元史の​ヒユウジン​​許兀愼​​オンギラダイ​​瓮吉剌歹​卽祕史の​オンギラト​​翁吉喇惕​​インギレス​​永吉列思​(か、​イキレダイ​​亦乞列歹​か)卽​イキレス​​亦乞咧思​​ゴルラス​​郭兒剌思​​ゴルラス​​豁嚕剌思​​ケレイダイ​​怯烈歹​​ケレイト​​客咧亦惕​​トベダイ​​禿別歹​卽元史の​トベエン​​土別燕​か祕史の​トベゲン​​禿別干​か、​トリベダイ​​脫里別歹​卽元史の​トリブダイ​​禿立不帶​また​ダリブタイ​​多禮伯台​​タタル​​塔塔兒​ 卽元史の​タタル​​達達兒​​メリギダイ​​滅里吉歹​卽祕史の​メルキト​​篾兒乞惕​​ウロダイ​​兀羅歹​卽元史の​ウロダイ​​兀羅帶​​バヤウダイ​​伯要歹​〈[#「伯要歹」の「要」は底本では印刷が薄いが実録§120の訳者注に倣い修正]〉卽元史の​バヤウ​​伯牙吾​祕史の​バヤウト​​巴牙兀惕​​オイダダイ​​外剌歹​卽元史の​オイラ​​斡亦剌​祕史の​オイラト​​斡亦喇惕​​タタダイ​​塔塔歹​卽元史の​タタダイ​​荅荅帶​​タタルダイ​​塔塔兒歹​卽元史の​タタリダイ​​荅荅里帶​(この二つは前の​タタル​​塔塔兒​に同じきか)、​バルクダイ​​八魯忽歹​卽祕史の​バルクト​​巴兒忽惕​元史の​バラクダイ​​八剌忽䚟​などあり。色目には、​ハラル​​哈剌魯​(また​カルダイカラル​​合魯歹匣剌魯​)卽​カルルウト​​合兒魯兀惕​​キムチヤ​​欽察​​キブチヤウト​​乞卜察兀惕​​タング​​唐兀​​タングト​​唐兀惕​​アス​​阿速​​アスト​​阿速惕​​トバ​​禿八​(また​トバダイ​​禿伯歹​)卽​トバス​​禿巴思​​カングリ​​康里​(また​ハンリ​​夯力​)、​ウイウウ​​畏吾兀​​ウ​​兀​​ル​​兒​の誤)卽​ウイウト​​委兀惕​​フイフイ​​回回​​サルタウル​​撒兒塔兀兒​​ナイマンダイ​​乃蠻歹​​ナイマン​​乃蠻​​アルクン​​阿兒渾​卽元史の​アルクン​​阿魯渾​​サリゲ​​撒里哥​(また​チエルゲ​​徹兒哥​)卽祕史の​セルケスト​​薛兒客速惕​​オングダイ​​雍古歹​​オングト​​汪古惕​​ハラギダダイ​​哈剌吉荅歹​​カラキタト​​合剌乞塔惕​​チエルチヤダイ​​拙兒察歹​​ヂユルチエト​​主兒扯惕​​カンムル​​甘木魯​​マルコポーロ​​馬兒科保羅​​カムル​​喀木勒​今の​ハミ​​哈密​​キシミル​​乞失迷兒​元史の​カシユミル​​迦葉彌兒​などあり。​グイチ​​貴赤​は善走者︀、​トルハ​​禿魯花​は質子にて、軍隊の名なり。姓としては知らず。​クリル​​苦里魯​​ラキダイ​​剌乞歹​​チキダイ​​赤乞歹​​ミチス​​密赤思​​クルヂン​​苦魯丁​​トルバダイ​​禿魯八歹​は、考へ得ず。字の誤もあるべし。​ホリラ​​火里剌​二つあり。蒙古の​ゴルラス​​豁嚕剌思​の混れ入りたるに似たり。漢︀人八種は、​キダン​​契丹​​カウライ​​高麗​​ヂユチ​​女直​​ヂインダイ​​竹因歹​​チユリコダイ​​朮里闊歹​​ヂウンダイ​​竹溫歹​​ヂイダイ​​竹亦歹​​ボツカイ​​渤海︀​(原注​ヂユチ​​女直​同)とあり。​キダン​​契丹​​カラキタト​​合剌乞塔惕​、高麗は​シヨランガス​​莎郞合思​​ヂユチ​​女直​​ヂユルチエト​​主兒扯惕​なり。​カラキタト​​合喇乞塔惕​は、​チユイ​​垂​河の濱に徒れる西遼のみならず、支那の北方に居るものをも蒙古語にては​カラキタト​​合喇乞塔惕​と云へり。蒙古語にて​カラ​​合喇​を附けずに​キタト​​乞塔惕​と云ふは、​キダン​​契丹​に非ずして、支那人の事なり。​カラキタトヂユルチエト​​合喇乞塔惕主兒扯惕​は、色目漢︀人の兩方に入りたるは、支那に化せざるものを色目とし、支那に化したるものを漢︀人としたるならん。​ヂインダイ​​竹因歹​​ヂウンダイ​​竹溫歹​​ヂイダイ​​竹亦歹​の三つは、いづれも秘此の​ヂユイン​​主因​鎭海︀の傳なる​ヂウン​​只溫​の訛にして、誤りて重複したるに似たり。朮里闊歹は、考へ得ず。祕史に金人卽​キタト​​乞塔惕​​ヂヤクト​​札忽惕​とも云へば、​ヂユリコダイ​​朮里闊歹​​チユルコダイ​​朮兒闊歹​は、​ヂヤルクト​​札兒忽惕​の訛れるには非ずや。蒙古人は、金卽中原の支那人を​キタト​​乞塔惕​又は​ヂヤクト​​札忽惕​と云ふに對し、宋卽江南の支那人を​マンツ​​蠻子​と云ひたるに、こゝに見えざるは、脫ちたるならん。渤海︀は、粟末靺鞨の遺種にして、注に「​ヂユチ​​女直​同」とあるは、​ヂユチ​​女直​の如く支那に化したるものを云へるなるべし。



弌。蒙古。



一。​ケレイト​​客咧亦惕​


1。​チンハイ​​鎭海︀​

 列傳卷七、​チンハイ​​鎭海︀​​ケレイタイ​​怯烈台​氏。許有壬の撰れる神︀道碑に「系出​ケレイ​​怯烈​氏。或曰、本田姓、至朔方始氏​ケレイ​​怯烈​」。長春の西游記にも田​チンハイ​​鎭海︀​と云へり。「初以軍伍長從太祖︀、同飮​バンヂユニ​​班朱尼​河水」また「旣破燕、太祖︀命於城中環射四箭、凡四箭所至、園池邸舍之處、悉以賜之。尋拜中書右丞相。己丑、太宗卽位、扈從至西京、攻河中河南均州」とあれども、太宗紀に「三年辛卯秋八月、幸雲中、始立中書省、改侍從官名、云云」とあれば、右丞相の拜命は、「至西京」の下に書くべきなり。又「定宗卽位、以​チンハイ​​鎭海︀​爲先朝舊臣、仍拜中書右丞相。薨、年八十四」と事も無げに書きたれども、​ラシツト​​喇失惕​に據れば、太宗の皇后​トラキナ​​禿喇奇納​攝政して、丞相​チンハイ​​鎭海︀​を罷め、定宗卽位して、​チンハイ​​鎭海︀​​カダク​​喀荅克​を丞相とし、定宗疾ありて、政を二人に委ね、定宗の皇后​オグルガイミシ​​斡古勒該米失​攝政の時も、二人は用ひられしが、憲宗卽位の明年誅せられきとあり。


2。​シヤウナイタイ​​肖乃台​

 列傳卷七、​シヤウナイタイ​​肖乃台​​トベケレイ​​禿伯怯烈​氏。​ケレイト​​客咧亦惕​の分部​トベゲン​​禿別干​か。太祖︀二十年乙酉の春、史天澤と共に武仙を破りて眞定を取回したる時「將士怒民之反覆、驅萬人出、將屠之。​シヤウナイタイ​​肖乃台​曰「金民慕國威信、後我來蘇。此民爲賊所軀脅、有何罪焉。若不勝一朝之忿、非惟自屈其力、且堅他城不降之心」。乃皆釋之」とありて、一萬の民は、​シヤウナイタイ​​肖乃台​の爲に助かりたるが如くなれども、史天澤の傳には「​シヤウナイダイ​​笑乃䚟​怒、忿民之從賊、驅萬餘人、將殺︀之。[451]天澤曰「彼皆吾民、但爲賊所脅耳。殺︀之何罪」。力爭得釋」とありて、殺︀さんとしたるは​シヤウナイタイ​​肖乃台​なり。​シヤウナイタイ​​肖乃台​は蒙古、史天澤は漢︀人なれば、寬仁の名は、恐らくは肖乃台のものにあらざるべし。


3。​アンヂヤル​​按札兒​

 列傳卷九、​アンヂヤル​​按札兒​​トバ​​拓跋​氏。氏族表に「疑卽​トベ​​禿別​之轉、借古名譯之」とあれば、​シヤウナイタイ​​肖乃台​の同姓なるべし。太祖︀十四年己卯、​ムカリ​​木華黎​の前鋒總帥。


4。​シユチトルカ​​槊直腯魯華​

 列傳卷九、​シユチトルカ​​槊直腯魯華​、蒙古​ケレイ​​克烈​氏。太祖︀南征の時、​ムカリ​​木華黎​の前鋒。その子​サギスブカ​​撒吉思卜華​は、太宗二年庚寅眞定五路萬戶史天澤の監軍。​サギスブカ​​撒吉思卜華​の弟​ミンガンダル​​明安荅兒​は、蒙古漢︀軍萬戶。


5。​スゲ​​速哥​

 列傳卷十一、​スゲ​​速哥​、蒙古​ケレイ​​怯烈​氏、世傳李唐外族。太宗七年乙未、山西の大​ダルハチ​​達魯花赤​


二。​サルヂウト​​撒兒只兀惕​


1。​ウエル​​吾也而​

 列傳卷七、​ウエル​​吾也而​​サンヂ​​珊竹​氏。太祖︀九年甲戌、北京總管都︀元帥。太宗十三年辛丑、北京東京廣寧蓋州平州泰州開元府七路の征行兵馬都︀元帥。その子​ツアリ​​雪禮​は、太宗の時、北京等路の​ダルハチ​​達魯花赤​


2。​シユンヂハイ​​純只海︀​

 列傳卷十、​シユンヂハイ​​純只海︀​​サンチユタイ​​散朮台​氏。太宗九年丁酉、京兆行省の都︀​ダルハチ​​達魯花赤​にて、懷孟に鎭しき。


三。​ナイマン​​乃蠻​


1。​チヤウス​​抄思​

 列傳卷八、​チヤウス​​抄思​​ナイマン​​乃蠻​部人、亦號曰​ダル​​荅祿​。氏族表に「其國族稱​ダル​​荅祿​氏」と云ひて、外にも​ダルナイマン​​達魯乃蠻​氏の人を引けり。蓋​ナイマン​​乃蠻​​ブイルクカン​​不亦嚕黑罕​の族を​グチユウトナイマン​​古出兀惕乃蠻​と云ひしが如く、​タヤンカン​​塔陽罕​の子孫を​ダルナイマン​​荅祿乃蠻​と云ひしなり。「其先​タヤン​​太陽​​ナイマン​​乃蠻​部主、祖︀​クシユル​​曲書律​​グチユルク​​古出魯克​)、父​チヤングン​​敞溫​。太祖︀擧兵討不庭、​クシユル​​曲書律​失其部落、​チヤングン​​敞溫​​キタン​​契丹​卒。​チヤウス​​抄思​尙幼、與其母(​カングリ​​康里​氏)間行、來歸太祖︀、奉中宮旨侍宮掖」。その後​チヤウス​​抄思​は、屢征伐に從ひ、功を立て、太宗四年壬辰、萬戶となり、隨州を鎭し、後潁州に移り、定宗三年戊甲、四十四歲に卒しきとあり。​チヤウス​​抄思​の年に依り逆推するに、生れたるは、太祖︀卽位の前年、​グチユルク​​古出魯克​の西遼に奔る三年前なり。その時​グチユルク​​古出魯克​に壯年の子あるべしとも思はれざる上に、西遂に奔る前にては​カングリ​​康里​の婦人を​チヤングン​​敞溫​の娶るべき由なければ、この傳には何か誤りあらん。


2。​ユリマス​​月里麻思​

 列傳卷十、​ユリマス​​月里麻思​​ナイマ​​乃馬​氏。​ナイマ​​乃馬​も、​ナイマン​​乃蠻​なり。「歲丁丑(太宗九年丁酉)、太宗命與斷事官​クドノ​​忽都︀那​​クドク​​忽都︀忽​)同署︀。歲戊戌(太宗十年)、又同​アチユルバドル​​阿朮魯拔都︀兒​、充​ダルハチ​​達魯花赤​、砂南宿州」。​アチユルバドル​​阿朮魯拔都︀兒​は、​オロナル​​斡囉納兒​​アチユル​​阿朮魯​なるべけれども、​アチユル​​阿朮魯​の傳にはこの事を載せず。かくて​ユリマス​​月里麻思​は、太宗十三年辛丑宋に使し、脅されたれども屈せず、長沙の飛虎寨に囚はれ、三十六年にして死せり。


四。​バルクト​​巴兒忽惕​

[452]


​アンムハイ​​唵木海︀​

 列傳卷九、​アンムハイ​​唵木海︀​、蒙古​バラクダイ​​八剌忽䚟​氏。太祖︀九年甲戌、隨路砲手​ダルハチ​​達魯花赤​。憲宗二年壬子、都︀元帥。


五。​ヂヤウレイト​​札兀咧亦惕​


​チヤウル​​抄兀兒​

 列傳卷十、​チヤウレイタイチヤウル​​召烈台抄兀兒​。太祖︀の時​ダラカン​​荅剌罕​​ダルカン​​荅兒罕​)。


六。​タタル​​塔塔兒​


​ココブハ​​闊闊不花​

 列傳卷十、​ココブハ​​闊闊不花​​アンタントトリ​​按攤脫脫里​氏。​アルタンタタル​​阿兒壇塔塔兒​にて、​タタル​​塔塔兒​の分部ならん。太祖︀十三年戊寅、​タンマチ​​探馬赤​五部の前鋒都︀元帥。


七。​ヂヤライル​​札剌亦兒​


1。​バヤンバドル​​拜延八都︀魯​

 列傳卷十、​バヤンバドル​​拜延八都︀魯​、蒙古​ヂヤラ​​札剌​氏。​バドル​​八都︀魯​​バアトル​​巴阿禿兒​は、太祖︀より賜はれる號なり。世祖︀中統二年、蒙古​アウル​​奧魯​官。


2。​モンゲサル​​忙哥撒兒​

 列傳卷十一、​モンゲサル​​忙哥撒兒​​チヤハヂヤラル​​察哈札剌兒​氏。​チヤガンヂヤライル​​察罕札剌亦兒​なり。「曾祖︀​チラウンカイチ​​赤老溫愷赤​、祖︀​シユア​​搠阿​、父​ノハイ​​那海︀​、竝事烈祖︀及太祖︀嗣位、年尙少、所部多叛亡、​シユア​​搠阿​獨不去」と云へるは、恐らくは誤あらん。​チラウンカイチ​​赤剌溫愷赤​は、實錄一三七頁に見えたる​チラウンカイチ​​赤剌溫孩赤​にして、太祖︀の​ヂユルキン​​主兒勤​を滅せる時、兄​グウングア​​古溫兀阿​と共に諸︀子を率ゐて降附したるなれば、​シユアノハイ​​搠阿那海︀​の夙く烈祖︀に事へたる事はあるべからず。部衆の叛ける時​シユア​​搠阿​の獨留まれることも祕史に見えず。​チラウンカイチ​​赤剌溫孩赤​の降附する時率ゐたる子は、​トンゲ​​統格​​カシ​​合失​二人にして、​シユア​​搠阿​の名見えざれば、​シユア​​搠阿​は幼子なるべし。​モンゲサル​​忙哥撒兒​は幼時より太宗に事へ、又​トルイ​​拖雷​に從ひて、鳳翔を攻め、奇功を立てたり。「定宗陞爲斷事官」とは、定宗の時​トルイ​​拖雷​の後王の斷事官と爲れるにて、皇朝の斷事官には非ず。この時諸︀王の分地に皆斷事官ありて、​モンゲサル​​忙哥撒兒​は、「剛明能擧職。憲宗在藩邸、深知其人、從征​オロス​​斡羅思​​アス​​阿速​​キムチヤ​​欽察​諸︀部、常身先諸︀將。及以所俘寶玉頒諸︀將則退然一無所取。憲宗由是益重之、使治藩邸之分民。間出游獵、則長其軍士、動如紀律。雖太后及諸︀嬪御、小有過失、知無不言。以故邸中人咸敬憚之。廼以爲斷事官之長、其位在三公之上、猶漢︀之大將軍也」。藩邸の斷事官を漢︀の大將軍に比したるは、不倫なり。「旣拜命、出帳殿外、欹槖坐熊席、其僚列坐左右者︀四十人。​モンゲサル​​忙哥撒兒​問曰「主上以我長此官。諸︀公其爲我言。當以何道守官」。衆皆默然。又問之。有夏人​ホワ​​和斡​居下坐、進曰「夫​ヂヤルクチ​​札魯忽赤​之道、猶宰之到羊也。解肩者︀、不使傷其脊。在持平而已」。​モンゲサル​​忙哥撒兒​聞之、卽起入帳內。衆不知所爲、皆各​ホワ​​和斡​失言。旣入、乃爲帝言​ホワ​​和斡​之言善。​ホワ​​和斡​由是知名」。この後憲宗を推戴したる始末は、前の​エルヂギダイ​​額勒只吉歹​の條に引けり。憲宗旣に立ち、​モンゲサル​​忙哥撒兒​は、帝國の​ヂヤルクチ​​札兒忽赤​なり、叛者︀を捕へてその首謀を悉く誅し、「帝以其奉法不阿、委任益專。有當刑者︀、輒以法刑之、乃入奏、無不報可。癸丑(憲宗三年冬、病酒而卒」。第四子​テムルブハ​​帖木兒不花​の子​バダシヤ​​伯荅沙​は、成宗以下六朝に歷事し、延祐︀二年中書右丞相、至治中太宗正​ヂヤルクチ​​札魯忽赤​、泰定中太保、天曆元年太傅。[453]


八。​オロナル​​斡囉納兒​


1。​アチユル​​阿朮魯​

 列傳卷十、​アチユル​​阿朮魯​は蒙古氏とあれども、​アチユル​​阿朮魯​の孫​ホワイド​​懷都︀​の僂(勿傳卷十八)に​オルナタイ​​斡魯納台​氏とあるに據れば、蒙古氏は、蒙古​オルナタイ​​斡魯納台​氏と云ふべきを脫したるなり。「太祖︀時、命同飮​バンヂユニ​​班朱尼​河之水」。​ホワイド​​懷都︀​の傳には「祖︀父​アチユル​​阿朮魯​、與太祖︀同、飮黑河水」とあり。​ホワイド​​懷都︀​は、世祖︀の時南征して、屢戰功ありき。


2。​ケケリ​​怯怯里​

 列傳卷十、​ケケリ​​怯怯里​​オルナ​​斡耳那​氏。太宗の時、千戶。


九。​メルキト​​篾兒乞惕​


​チヤウグル​​紹古兒​

 列傳卷十、​チヤウグル​​紹古兒​​メリギタイ​​麥里吉台​氏。「事太祖︀、命同飮​バンヂユニ​​班朱尼​河之水」。洛磁等路の都︀​ダルハチ​​達魯花赤​


十。​ベスツト​​別速惕​


​チヤウル​​抄兒​

 列傳卷十、​チヤウル​​抄兒​​ベス​​別速​氏。子​チヤウハイ​​抄海︀​、孫​ベテ​​別帖​と、祖︀孫三代皆陳に歿し、​ベテ​​別帖​の子​アビチヤ​​阿必察​も、至元中疾にて軍中に卒しき。


十一。​シユルギウ​​束呂糺​


​タブギル​​塔不己兒​

 列傳卷十、​タブギル​​塔不己兒​​シユルギウ​​束呂糺​氏。太宗の時、招討使、征行萬戶。子​トチヤラ​​脫察剌​、孫​チユンヒ​​重喜​​チユンヒ​​重喜​は、列傳卷二十に別に傳あり。


十二。​モングト​​忙兀惕​


​チトル​​直脫兒​

 列傳卷十、​チトル​​直脫兒​​モング​​蒙古​氏。父​アチヤル​​阿察兒​は、太祖︀の​ボルチ​​博兒赤​​バウルチ​​寶兒赤​)。​チトル​​直脫兒​は、孫​クラチユ​​忽剌出​の傳(列傳卷二十)に​チトル​​赤脫兒​とあり。太宗九年丁酉、涿州路の​ダルハチ​​達魯花赤​


弐。色目。



一。​タングト​​唐兀惕​


1。​チヤガン​​察罕​

 列傳卷七、​チヤガン​​察罕​​タングウミ​​唐兀烏密​氏。​ウミ​​鳥密​は、​オミ​​於彌​とも書き、李恆の傳に「其先、姓​オミ​​於彌​氏。唐末賜姓李、世爲西夏國主」とあり。李恆は、西夏國主の子​ウナラ​​兀納剌​城を守りて死したる人の孫なり。恆の子李世安の墓誌を吳澄の撰りたるに「公、西夏​ハランオミ​​賀蘭於彌​部人也」とあるに據れば、國亡びたる後住みたる部落の名を姓としたるにて、傳の如く李姓を賜はれる前に稱したるには非ず。故に錢大昕の考異に「西夏之先、本​トバ​​拓跋​氏。​オミ​​於彌​​トバ​​拓跋​、音不相近。蓋元時國俗之語」と云へり。​チヤガン​​察罕​は、太祖︀の時、御帳前の首千戶。太宗十年戊戌、馬步軍[454]都︀元帥。憲宗の時、以都︀元帥兼領尙書省事。​チヤガン​​察罕​の兄弟​クエケヅ​​曲也怯祖︀​は、太祖︀の時、皇子​チヤハタイ​​察哈台​​ヂヤルホチ​​札魯火赤​​ヂヤルクチ​​札兒忽赤​)。​クエケヅ​​曲也怯祖︀​の孫二人、​イリカサ​​亦力撒合​は、世祖︀の朝の直臣、​リヂリオイ​​立智理威​は、成宗の朝の能臣。


2。李楨。

 列傳卷十一、李楨、字榦臣、西夏國族子也。太宗十年戊戌、軍前行中書省の左右司郞中。庚戌(憲宗卽位の前年)襄陽軍馬萬戶。


3。​シリケンブ​​昔里鈐部​

 列傳卷九、​シリケンブ​​昔里鈐部​​タング​​唐兀​人、​シリ​​昔里​氏。​ケンブ​​鈐部​亦云​ガンブ​​甘卜​、音相近而互用也。太祖︀の末年西夏征伐に從ひ、太宗の時、定宗・憲宗諸︀王​バド​​拔都︀​に從ひ西域を征し、十三年還り、千戶を授かり、尋で斷事官に遷り、定宗元年大名路の​ダルハチ​​達魯花赤​に進み、憲宗九年に卒し、子​アイル​​愛魯​その職を奬げり。王憚の撰れる大名路宣差李公神︀道碑に云く「公諱​イリシヤン​​益里山​。其先係​シヤダ​​沙陀​貴種、以世故徒酒泉郡之沙州、遂爲沙州人」。李公は、卽​シリケンブ​​昔里鈐部​にして、一名を​イリシヤン​​益里山​と云へるなり。​シヤダ​​沙陀​の種にして姓は李氏なれば、​シヤダ​​沙陀​の李國昌の一族にてやあらん。中堂事紀に中統二年大名路​ダルハチ​​達魯花赤​​アイル​​愛魯​を黜けたることを載せて、「​アイル​​愛魯​、河西人​シヤウリケンブ​​小李鈐部​之子也。​シヤウリ​​小李​譌爲​シリ​​昔里​」とあり。小李は、卽李氏にして、​シヤダ​​沙陀​の李氏又は​タング​​唐兀​の李氏に別たんが爲に小の字を加へたるならん。


4。​エブガンブ​​也蒲甘卜​

 列傳卷十、​エブガンブ​​也蒲甘卜​​タング​​唐兀​氏。「歲辛巳(太祖︀十六年)、率眾歸太祖︀、隷蒙古軍籍、奉旨同所管河西人、從​ムカリ​​木華黎​〈[#「木華黎」は底本では「木華黍」。「黎」(lí)と「黍」(shǔ)は音が大きく異なるので誤植と判断]〉出征、以疾卒、子​アンギル​​昻吉兒​襲領其軍」。列傳卷十九​アンギル​​昻吉兒​の傳に「​アンギル​​昻吉兒​、張掖人、姓​エヷ​​野蒲​氏、世爲西夏將家。歲辛巳、父​ガンブ​​甘卜​率所部歸太祖︀。以其軍隷蒙古軍籍、仍以​ガンブ​​甘卜​爲千戶主之、云云」とありて、​ガンブ​​甘卜​の傳よりは却て稍委し。​アンギル​​昻吉兒​は、至元中、淮西の宣慰使、廬州の蒙古漢︀軍萬戶府の​ダルハチ​​達魯花赤​、江浙行省の左丞。


二。​オングト​​汪古惕​


​アンヂニ​​按竺邇​

 列傳卷八、​アンヂニ​​按竺邇​​オング​​雍古​氏。「其先居雲中寒外。父​ダコン​​䵣公​〈[#「䵣公」は底本では「𪐵公」。ルビ「ダコン」に倣い修正。以後すべて同じ]〉爲金羣牧使。歲辛未(太祖︀六年)、驅所牧馬來歸、太祖︀命仍其官。​アンヂニ​​按竺邇​幼鞠子外祖︀​チユヤウカ​​朮要甲​家。訛言爲​チヤウカ​​趙家​、因姓趙氏。年十四、隷皇子​チヤガタイ​​察合台​部。云云。」つぎに「甲戌、太祖︀西征​セムスカン​​尋思干​​アリマリ​​阿里麻里​等國、以功爲千戶」とある甲戌は、庚辰などの誤なり。「太祖︀卽位、尊​チヤガタイ​​察合台​爲皇兄、以​アンヂニ​​按竺邇​爲元帥、戊子鎭刪丹州」。戊子は、太祖︀卽位の前年なれば、こゝにも何か誤あらん。金亡びて後、金蘭定會四州を定め、鞏州を招ぎ降したる時、「皇兄嘉其材勇、賞賚甚厚、賜名​バド​​拔都︀​、拜征行大元帥。」子十人ありて、その中​チエリ​​徹理​​コバウ​​國寶​二人最名を知られ、憲宗の末年、​アンヂニ​​按竺邇​老を吿げ、​チエリ​​徹理​命ぜられて征行元帥の職を襲げり。​チエリ​​徹理​の子​ブルカダ​​步魯合荅​の傳(列傳卷十九)、に「​ブルカダ​​步魯合荅​、蒙古​ホンギラ​​弘吉剌​氏。祖︀​アンジユヌ​​按主奴​云云。父​チエリ​​車里​云云」とあり。考異に云く「​ブルカダ​​步魯合荅​、乃​アンヂニ​​按竺邇​之孫、系出​オング​​雍古​氏、非​ホンギラ​​宏吉剌​氏。​オング​​雍古​爲色目之一種、非蒙古史誤」。蓋​オング​​雍古​​オンギ​​雍吉​〈[#「雍古」と「雍吉」は底本では逆。ルビに倣い修正]〉と誤り、遂に​ラ​​剌​を添へ、蒙古を加へたるなり。​アンヂユヌ​​按主奴​は卽​アンヂニ​​按竺通​​チエリ​​車里​は卽​チエリ​​徹理​なり。又​コバウ​​國寶​の子趙世延の傳(列傳卷六十七)「其先​オング​​雍古​族人、居雲中北邊。曾祖︀​ダコン​​䵣公​爲金羣牧使。太祖︀得其所牧馬、​ダコン​​䵣公​死之」とあるは、按竺通の傳に「太祖︀命仍其官」と云へると異なり。又國寶の名は、​ブルカダ​​步魯合荅​の傳に​ハツ​​黑子​、世延の傳に​ハツ​​黑梓​とあり。世延の子​エシユンタイ​​野峻台​は、忠義傳(列傳卷八十二)に載せられたり。


三。​ウイウト​​委兀惕​


1。​タブン​​塔本​

[455]

 列傳卷十一、​タブン​​塔本​​イウル​​伊吾盧​人、​イウル​​伊吾盧​は、​カムル​​合木兒​卽今の​ハミ​​哈密​の古名にして、​ウイウト​​委兀惕​の地なり。「父​スングシエトド​​宋五設託陀​​トド​​訛陀​者︀、其國主所賜號、猶華言國老也」とあり。その國主は、卽​ウイウト​​委兀惕​の君なり。​タブン​​塔本​は、太祖︀の時、興平行省の都︀元帥。太宗二年詔して中山平定平原を益して行省に隸せり。


2。​ハライハチベル​​哈剌亦哈赤北魯​

 列傳卷十一、​ハライハチベル​​哈剌亦哈赤北魯​​ウイウ​​畏兀​人也。この傳に​バルチユアルテイドク​​八兒出阿兒忒亦都︀護​とあるは、卽列傳卷九の​バルチユアルテチキンイドク​​巴而朮阿而忒的斤亦都︀護​、西遼主​グルカガン​​鞠兒可汗​とあるは、秘吏の​カラキタト​​合喇乞塔惕​​グルカン​​古兒罕​なり。​バルチエアルテ​​八兒出阿兒忒​の父の名​ユセンテムル​​月仙帖木兒​は、この傳にのみ見ゆ。​ハライハチベル​​哈剌亦哈赤北魯​の子​ユドシエヌ​​月朶失野訥​は、太祖︀の時、都︀督にて獨山城の​ダルハチ​​達魯花赤​を兼ね、その子​キチスンクル​​乞赤宋忽兒​は、太宗の時、爵を襲ぎ、​ダラカン​​荅剌罕​の號を賜はれり。


3。​タタトンガ​​塔塔統阿​

 列傳卷十一、​タタトンガ​​塔塔統阿​​ウイウ​​畏兀​人也。​ナイマン​​乃蠻​​タヤンカガン​​大敭可汗​​タヤンカン​​塔陽罕​)に尊用せられ、國亡びて後太祖︀に事へたることは、序論の初に云へり。太宗の時內府の玉璽金帛を司り、その妻​ウコリ​​吾和利​氏は、皇子​ハラチヤル​​哈剌察兒​の乳母となれり。


4。​ヨリンテムル​​岳璘帖穆爾​

 列傳卷十一、​ヨリンテムル​​岳璘帖穆爾​​フイフ​​回鶻​人、​ウイウ​​畏兀​國相​トンヨクコク​​暾欲谷​之裔也。其兄​ビリガブカ​​仳理伽普華​、年十六、襲國相​ダラハン​​荅剌罕​。歐陽玄の高昌​セ​​偰​氏家傳に曰く「​セ​​偰​氏、其先世曰​トンヨクコク​​暾欲谷​、本​トツケツ​​突︀厥​部。​トツケツ​​突︀厥​亡、其地入於​フイフ​​回紇​​トンヨクコク​​暾欲谷​之子孫、世爲其國相。嘗從其主、居​セレン​​偰輦​河、因以​セ​​偰​爲氏。數世至​ケチブル​​克直普爾​、襲本國相​ダラハン​​荅剌罕​、錫號阿大都︀督。遼主授以太師大丞相、總管內外藏事。國人稱之曰​ツアンチリ​​藏赤立​。死、子​ヨビ​​岳弼​襲。​ヨビ​​岳弼​七子、曰​ダリン​​達林​、曰​アスビ​​亞思弼​、云云、曰​ドコス​​多和思​」。​アスビ​​亞思弼​の長子​ビリガテムル​​仳埋伽帖穆爾​は、卽傳の​ビリガブカ​​仳理伽普華​なり。​ウイウ​​畏兀​​イドク​​亦都︀護​、西遼の監使を殺︀して蒙古に降れるは、​ビリガブカ​​仳理伽普華​の計に從へるなり。​ヨリンテムル​​岳璘帖穆爾​は、太祖︀の時、河南等處軍民の都︀​ダルハチ​​達魯花赤​、太宗の時、大斷事官。その子​カラブカ​​合剌普華​の事は、忠義傳(列傳卷八十)にあり。


5。​サギス​​撒吉思​

 列傳卷二十一、​サギス​​撒吉思​​フイフ​​回鶻​人、其國阿大都︀督​ドコス​​多和思​之次子也。卽​アスビ​​阿思弼​の孫にして、​ヨリンテムル​​岳璘帖穆爾​の從弟なり。太祖︀の弟​オヂン​​斡眞​​オチギン​​斡赤斤​)の​ビジエチ​​必闍赤​〈[#「必闍赤」は底本では「闍」の印刷が薄くて読めない。他ルビ「ビジエチ」に倣い修正]〉となり、​オチギン​​斡赤斤​薨じたるとき、​ホルコスン​​火魯和孫​​ゴルゴスン​​豁兒豁孫​)と共に適孫​タチヤル​​塔察兒​を擁立したることは、前の​ゴルゴスン​​豁兒豁孫​の條に引けり。世祖︀の時、山東行省の大都︀督にて益都︀の​ダルハチ​​達魯花赤​を兼ねき。​サギス​​撒吉思​の孫​ダリマ​​荅里麻​は、別に(列傳卷三十一に)傳あり、「高昌人、大父​サギス​​撒吉斯​」と云へり。高昌は、​ウイウ​​委兀​の地の古名なり。


6。​メンスス​​孟速思​

 列傳卷十一、​メンスス​​孟速思​​ウイウ​​畏兀​人、世居​ベシバリ​​別失八里​、古北庭都︀護之地。​ベシバリ​​別失八里​は、​ウイウト​​委兀惕​の都︀​ビシバリク​​必失巴里克​にして、唐の北庭都︀護府の地なり。​メンスス​​孟速思​年十五にして本國の書に通じたるを太祖︀聞きて、召し見てに大に悦び「此兒目中有火、他日可大用」と曰へりとあるは、蒙古の韻語なる「目に火あり、面に光あり」を半だけ譯したるなり。世祖︀の時、斷事官。


7。​ブルハイヤ​​布魯海︀牙​

 列傳卷十二、​ブルハイヤ​​布魯海︀牙​​ウイウ​​畏吾​人也。太宗三年、燕南諸︀路の廉訪使兼斷事官、世祖︀の時、順德等路の宣慰使。廉使を命ぜられたる日に子希憲生れしかば、​ブルハイヤ​​布魯海︀牙​喜びて「吾聞、古以官爲姓。天其以廉爲吾宗之姓乎」と云ひ、子孫皆廉氏となれり。廉希憲は別に傳あり(列傳卷十三)。[456]


四。​カルルウト​​合兒魯兀惕​


​テマイチ​​鐵邁赤​

 列傳卷九、​テマイチ​​鐵邁赤​​カル​​合魯​氏。太祖︀の時、​クラン​​忽蘭​皇后の挏馬官。至元七年、蒙古諸︀萬戶府の​アウル​​奧魯​總管。


五。​カラキタト​​合喇乞塔惕​


​カスメリ​​曷思麥里​

 列傳卷七、​カスメリ​​曷思麥里​、西域​グツエオルド​​谷則斡兒朶​人、初爲西遼​コルカン​​闊兒罕​近侍。​グツエオルド​​谷則斡兒朶​は、遼史天祚紀に見えたる​エリユタイシ​​耶律大石​の都︀​フスオルド​​虎思斡耳朶​、西遼の​コルカン​​闊兒罕​は、​カラキタト​​合喇乞塔惕​​グルカン​​古兒罕​なり。​カスメリ​​曷思麥里​​ヂエベ​​者︀別​に從ひ西域諸︀國に轉戰したることは、實錄卷十一の注に引けり。太祖︀の末年、​ビジエチ​​必闍赤​。太宗四年、懷孟州の​ダルハチ​​達魯花赤​。十一年、長子​ネヂビ​​捏只必​、懷孟州の​ダルハチ​​達魯花赤​を襲ぎ、次子​ミリギ​​密里吉​​ビジエチ​​必闍赤​を襲ぎ、​カスメリ​​曷思麥里​​ヂヤルホチ​​札魯火赤​となり、十二年懷孟河南二十八處の都︀​ダルハチ​​達魯花赤​に進めり。


六。​サルト​​撒兒惕​​フイフイ​​回回​


1。​ヂヤバルホヂヤ​​札八兒火者︀​

 列傳卷七、​ヂヤバルホヂヤ​​札八兒火者︀​​サイイ​​賽夷​人。​サイイ​​賽夷​、西域部之族長也、因以爲氏。​ホヂヤ​​火者︀​、其官稱也。​ホヂヤ​​火者︀​​コヂヤ​​闊札​は、​モハメト​​抹哈篾惕​敎の一派なる​サイイト​​賽亦惕​派の人の用ふる稱號なり。賽夷人は、卽​サイイト​​賽亦惕​派の人にして、地の名に非ず。​サイイト​​賽亦惕​は、族長に非ずして、宗派の長なり。その長は、​サイイト​​賽亦惕​何某と稱するが故に氏と誤れるなり。この傳には、疑はしきことのみ多し。​ヂヤバル​​札八兒​は、西域の人なれば、太祖︀に降れるは、太祖︀西征の後にあるべきを、​ケレイ​​克烈​​ワンカン​​汪罕​との戰には​バンヂユニ​​班朱尼​河の誓に與れりとし、南征の役には居庸關の間道を前導せりとして、​ヂエベ​​者︀別​の南口より襲へる事實と撞着せり。金人汴に遷りて、乘輿北に歸る時、「留​ヂヤバル​​札八兒​、與諸︀將守中都︀」も、本紀諸︀傳に見えざるのみならず、「授黄河以北鐵門以南天下都︀​ダルハチ​​達魯花赤​」と云へるに至りては、恐らくは誇張の言なるべし。「有丘眞人者︀、有道之士也、隱居崑崙山中。太祖︀聞其名、命​ヂヤバル​​札八兒​往聘之。云云」と云へるも、西游記に「住萊州昊天觀。​チンギス​​成吉思​皇帝遣侍劉仲祿、縣虎頭金牌、傅旨敦請」とあるに合はず。この時は、大軍正に西に進める時なれば、​ヂヤバル​​札八兒​は未太祖︀にも降らず、丘眞人の名をも知らざりけん。卒したるは何年とも云はずして、年は一百一十八なり。長子​アリカン​​阿里罕​は、憲宗の時天下の質子兵馬都︀元帥。


2。​アラワルス​​阿剌瓦而思​

 列傳卷十、​アラワルス​​阿剌瓦而思​​フイフバワル​​回鶻八瓦耳​人。仕其國爲千夫長。太祖︀征西域、駐蹕​バワル​​八瓦耳​之地。​アラワルス​​阿剌瓦而思​、率其部曲來降、從帝親征。云云、沒于軍。​バワル​​八瓦耳​は、​コラツサン​​閣喇散​​バウルド​​巴兀兒篤​なるべし。​バウルド​​巴兀兒篤​に至れるは、太祖︀に非ず、他の將なるべし。「子​アラワヂン​​阿剌瓦丁​​アライウツヂン​​阿來兀丁​)從世祖︀北征有功」。その子​シエンスヂン​​贍思丁​に子五人あり。長は​ウマル​​烏馬兒​​オマル​​斡馬兒​)、次は​ブベ​​不別​、次は​ヒンド​​忻都︀​、次は​アハマ​​阿合馬​​アハメト​​阿呵篾惕​)、次は​アサンブベ​​阿散不別​​アサンブベ​​阿散不別​の子​オドマン​​斡都︀蠻​(斡惕蠻)。


3。​サイデンチシエンスヂン​​賽典赤贍思丁​

 列傳卷十二、​サイデンチシエンスヂン​​賽典赤贍思丁​、一名​ウマル​​烏馬兒​​フイフイ​​回回​人、​ベアンベル​​別菴伯爾​之裔。其國言​サイデンチ​​賽典赤​、猶華言貴族也。太祖︀西征​シエンスヂン​​贍思丁​率千騎、以文豹白鶻迎降。命入宿衞、從征伐、以​サイデンチ​​賽典赤​呼之而不名。​ベアンベル​​別菴伯爾​の事は、常德の西使記に「​バウダ​​報達​之西、馬行二十日、有天房、內有天使神︀胡之祖︀葬所也。師名​ビヤンバル​​癖顏八兒​〈[#ルビの「ビヤンバル」は底本では「ビヤバル」。他の「癖顏八兒」のルビに倣い修正]〉。房中懸鐵絚。以手捫之、心誠可及、不誠者︀竟不得捫。經文甚多、皆​ビヤンバル​​癖顏八兒​所作」とあり。​ベアベル​​別菴伯爾​も、​ビヤンバル​​癖顏八兒​〈[#「癖顏八兒」の「八」は底本では印刷が薄いが他のルビに倣い修正]〉も、珀兒沙語にて豫[457]言者︀の義なる​ベイゲムベル​​陛黔別兒​を音譯したるにて、敎祖︀​モハメト​​抹哈篾惕​を指せるなり。​サイデンチ​​賽典赤​は、太宗の時、山西地方の​ダルハチ​​達魯花赤​より入りて燕京の斷事官となり、憲宗の初年、燕京路の總管に遷り、採訪使に擢てられ、憲宗蜀を伐てる時、饋餉供億を主れり。世祖︀位に卽き、燕京路の宣撫使となり。中統二年中書平章政事となり、至元元年陝西五路西蜀四川の行中書省を置きたる時、出でてその平章政事となり、七年分れて四川を鎭し、八年興元にて省事を行ひ、十一年雲南行省の平章政事となり、十六年雲南に卒しき。子五人あり。長は​ナスラヂン​​納速剌丁​​ナスルウツヂン​​納思兒兀丁​​ナスルツヂン​​納思嚕丁​)、次は​ハサン​​哈散​​ハスサン​​哈思散​)、次は​フツシン​​忽辛​​フスセイン​​許思薛因​)、次は​シエンスヂンウメリ​​苫速丁兀默里​、次は​マスフ​​馬速忽​​マスフト​​馬思許惕​)にて、いづれも高官に陞れり。​ナスラヂン​​納速剌丁​は、雲南路の宣慰使都︀元帥として、至元十六年金齒・蒲驃・曲蠟・緬國を招撫し、父​シエスヂン​​贍思丁​歿したるに由り、明年雲南行省の左丞となり、尋で右丞に陞り、二十一年平章政事に進み、二十二年​カラヂヤン​​合剌章​〈[#ルビの「カラヂヤン」は底本では「カヂヤン」。他の「合剌章」のルビに倣い修正]〉豪古の軍干人を以て皇子​トホン​​脫歡​に從ひ、交趾を征して功あり、二十八年陝西行省の平章政事に進み、明年卒しき。子十二人の內、​バヤン​​伯顏​​ウマル​​烏馬兒​​オマル​​斡馬兒​)、​ヂヤフアル​​箚法兒​​フツセン​​忽先​​フスセイン​​許思薛因​)、​シヤヂ​​沙的​​サアヂ​​撒阿的​)、​アユン​​阿容​​バヤンチヤル​​伯顏察兒​の七人、皆高官に陞れり。​ナスラヂン​​納速剌丁​​バヤン​​伯顏​は、皆​サイデンチ​​賽典赤​の號を襲ぎ、​バヤンチヤル​​伯顏察兒​は、泰定中中書平章政事となり、​エンテムル​​燕鐵木兒​に殺︀されき。​フツシン​​忽辛​は、至元中地方の諸︀官に歷任し、三十年兩潮の鹽運使、大德中雲南行省の右丞、至大元年江西行省の平章政事、二年職を辭し、三年卒しき。子二人あり、​バハン​​伯杭​​クレ​​曲列​と云へり。

 ​サイデンチ​​賽典赤​は、​ブクム​​不忽木​の傳に​サイデゼン​​塞咥旃​とも書き、考異に「石刻濟瀆靈異碑作​サイテンヂ​​賽天知​、中堂事紀作​サイデンヂル​​賽典只兒​」とあり。これは、疑も無く​ラシツト​​喇失惕​の史(​ドーソン​​多遜​二、四六七)に​サイドエヂエル​​撒亦惕額者︀勒​​サイデヂエル​​撒亦迭者︀勒​と云へる人にして、​ブクム​​不忽木​の傳の塞咥旃は、最音協へり。集史に據れば、​サイデヂエル​​撒亦迭者︀勒​は、​ボカラ​​孛合喇​の人にして、​マング​​曼古​の朝に​クビライ​​庫必賚​​カラヂヤン​​喀喇章​(雲南)に入りし時、その地の太守となり、尋で宰相となり、​クビライ​​庫必賚​の朝の初に財政を掌れりと云へり。これは、至元十一年に雲南行省の平章となれること、中統二年に中書に入りたること、憲宗の朝に饋餉供億を主りたることを、時代を誤りて​アトサキ​​後前​に記したるなり。又「その子​ナスルツヂン​​納思嚕丁​は、​カラヂヤン​​喀喇章​の太守に任ぜられ、五六年前に死したるまでその職を保ちき」と​ラシツト​​喇失惕​云へり。​ラシツト​​喇失惕​は、一三〇〇年(大德四年)ごろにその文を書きたれば、五六年前は、至元三十一年又は元貞元年にして、元史に至元二十九年卒とあるより二三年違へり。又陜西行省に遷りたることを​ラシツト​​喇失惕​は未聞かざりしなり。​ナスルツヂン​​納思嚕丁​は、​マルコポーロ​​馬兒科保羅​も記して、​ネスラヂン​​捏思克喇丁​と呼べり。​ナスルツヂン​​納思嚕丁​の子​アブベクル​​阿不別克兒​一名​バヤンフエンチヤン​​巴顏芥羼​は、​ラシツト​​喇失惕​の書ける時に​ザイトン​​在屯​(剌桐卽泉州)の太守なりき。この人も、​サイデヂエル​​撒亦迭者︀勒​なる祖︀父の號を用ひ、​クビライ​​庫必賚​の嗣君の朝に財務の卿となりき(​ドーソン​​多遜​二、四七六、五〇七)。この​バヤンフエンチヤン​​巴顏芥羼​は、​ナスラヂン​​納速剌丁​の長子なる​サイデンチバヤン​​賽典赤伯顏​にして、宰相表に據れば、至元三十年より大德七年まで中書平章政事の欄︀にあり。その間に福︀建行中書省に派遣せられたることもありしなるべし。


4。​フイフイ​​回回​​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒の移住。

 ​ヂヤバル​​札八兒​​アラワルス​​阿剌瓦而思​​サイデンチ​​賽典赤​の外に、元史列傳には、定宗以後の朝に事へたる​フイフイ​​回回​人甚多し。​ブレトシユナイデル​​卜咧惕施乃迭兒​曰く「​チンギス​​成吉思​とその後嗣との征服は、亞細亞の東と西との間に交通の大道を開き、西方の民は、極東に往くことを、そこに住むことさへ始めき。蒙古の諸︀帝は、外國人の支那に移住することを保護し、​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒につきては、​マングカン​​曼古汗​の弟​フラグ​​旭剌古​が西亞細亞を支配してより、​ペルシヤ​​珀兒沙​より支那に移住する者︀著︀しく殖えたりしと見ゆ。今支那本部の全土に散處し、殊に甘肅山西直隸の三省にて大なる社︀會をなせる​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒の大半は、​マルコポーロ​​馬兒科保羅​の記したるそれらの諸︀省の​サラセン​​撒喇先​どもの子孫ならんとと然るべきことと思はる。​ラシツトエツヂン​​喇失惕額丁​は、支那の事を記述して(​ユール​​裕勒​の「​カセイ​​喀勢​」二六九)、當時​カラヂヤン​​喀喇章​(雲南)の住民は皆​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒なりきと云へり。又​ビルマ​​必兒馬​にて​バンタイ​​潘泰​と名づくる雲南の​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒、一八五七年(成豐七年)に大理府を陷し[458]て、一八七三年(同治十二年)までその地を領したりしものどもは、蒙古の諸︀帝の時まで溯りて跡附けられ得ることは、大抵慥ならんと信ぜらる」。

 次に擧ぐる​フイフイ​​回回​人は、太祖︀太宗の功臣に非ざれども、支那の朝廷に遠西の異敎の民の聚れるは、前後に例なき珍しき事なれば、それらの著︀しき人の名氏と仕履の槪略とを列記せん。


5。​ケレ​​怯烈​

 列傳卷二十、​ケレ​​怯烈​、西域人。世居太原。由中書譯史、從平章政事​サイデンチ​​賽典赤​、經略川陜。經略川陜。西域はいづことも知れざれども、​サイデンチ​​賽典赤​に從へるを見れば、​フイフイ​​回回​の地より來にける人なるべし。世居太原は、​ケレ​​怯烈​の子孫の事を云へるなり。屢緬國を征し、至元の末、雲南諸︀路行中書省の左丞。


6。​アイセ​​愛薛​

 列傳卷二十一、​アイセ​​愛薛​、西域​フリン​​弗林​人。通西域諸︀部語、工星曆醫藥。初事定宗、直言敢諫。時世祖︀在藩邸器︀之、中統四年、命掌西域星曆醫藥二司事。後改廣惠司、仍命領之。至元中、翰林學士承旨。大德元年、平章政事。仁宗時、封秦國公、卒、追封​フリン​​佛林​忠獻王。​フリン​​弗林​​フリン​​拂林​は、古の大秦國なるが故に、秦國公に封ぜられたり。然らば​アイセ​​愛薛​は、​ヒガシローマ​​東囉馬​の地に生れたる人なるべし。されども世祖︀紀至元十年正月の條に「改​フイフイ​​回回​​アイセ​​愛薛​所立京師醫藥院、名廣惠司」とあれば、​アイセ​​愛薛​は、​クリスト​​克哩思惕​敎徒に非ずして、​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒なるべし。


7。​チヤガン​​察罕​

 列傳卷二十四、​チヤガン​​察罕​、西域、​バルフ​​板勒紇​城人也。父​ベデナ​​伯德那​、歲庚辰(太祖︀十五年)、國兵下西域、擧族來歸。​バルフ​​板勒紇​は、​バルク​​巴勒黑​なり。「​チヤガン​​察罕​、魁偉穎悟、博覽强記、通諸︀國字書」。至元中、​アウルチ​​奧魯赤​に從ひ、湖廣江西兩省に出入し、大德の末、河南行省の郞中。至大中、太子の家令。皇慶元年、平章政事、商議中書省事。​トビチヤン​​脫必赤顏​を譯して聖武開天記(今の親征錄)を作れるは、この人なり。


8。​クチユ​​曲樞​

 列傳卷二十四、​クチユ​​曲樞​、西土人。曾祖︀​タブタイ​​達不台​、祖︀​アタタイ​​阿達台​、父​デリハタイ​​質理花台​​クチユ​​曲樞​は、本紀宰相表に皆​クチユ​​曲出​とあり。大德中より仁宗に事へ、至大元年、太子の詹事、平章軍國重事。四年、錄軍國重事、集賢大學士。長子​ベデ​​伯德​は、至大中、中書右丞。次子​ベテムル​​伯帖木兒​は、至大中、翰林學士承旨、大都︀の留守。


9。​イヘヂヤルヂン​​奕赫抵雅爾丁​

 列傳卷二十四、​イヘヂヤルヂン​​奕赫抵雅爾丁​、字太初、​フイフイ​​回回​氏。父​イスマイン​​亦速馬因​​イスマエル​​亦思馬額勒​)、仕至大都︀南北兩城兵馬都︀指揮使。​イヘヂヤルヂン​​奕赫抵雅爾丁​、幼穎悟嗜學、所讀書一過目、卽終身不忘、尤工其國字語。至元中、中書右司郞中。大德中、江東建康道の肅政廉訪使。至大中、參議中書省事。


10。​チエリテムル​​徹里帖木兒​

 列傳卷二十九、​チエリテムル​​徹里帖木兒​​オルエン​​阿魯溫​氏。祖︀父累立戰功、爲西域大族。​ブレトシユナイデル​​卜咧惕施乃迭兒​曰く「​オルエン​​阿魯溫​は、蓋​キルマンシヤ​​奇兒曼沙​​バグダート​​巴固荅惕​との間なる​ホルヷン​​訶勒飯︀​ならん」。天曆二年、中書平章政事。至元元年、再中書平章政事となり、南安に貶せられき。


11。​シヤンス​​贍思​

 列傳卷七十七、儒學二、​シヤンス​​贍思​、字得之、其先​タージ​​大食​國人。國旣內附、大父​ルクン​​魯坤​、乃東遷豐州。太宗時、以材授眞定濟南等路監權課稅使、因家眞定。父​オチ​​斡直​、始從儒先生問學。​シヤンス​​贍思​は、順帝の時、臺憲の官に歷任せり。「邃於經、而易學尤深、至於天文地理鐘律算數水利、旁及外國之書、皆究極之」。その著︀書の內に、西國圖經、西域異人傳などありしが、今傳はらず。[459]


12。​ナスラヂン​​納速剌丁​

 列傳卷八十一、忠義二、​ナスラヂン​​納速剌丁​​ナスルツヂン​​納思嚕丁​)、字士瞻。其父​マハム​​馬合木​​マハムト​​馬呵木惕​)、從征襄陽、以勞擢濟州​ダルハチ​​達魯花赤​、因家大名。​ナスラヂン​​納速剌丁​は、順帝の時、淮東宣慰使の掾となり、屢賊と戰ひ、その子寶童​ハイルツヂン​​海︀嚕丁​西山驢と皆節︀に死せり。傳に何國の人とも云はざれども、その名に依りて、​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒なること知らる。


13。​デリミシ​​迭里彌失​

 列傳卷八十三、忠義四、​デリミシ​​迭里彌失​、字子初、​フイフイ​​回回​人。至正中、漳州路の​ダルハチ​​達魯花赤​。漳州明の兵に降れる時節︀に死せり。又​フイフイ​​回回​の人​ホドブツヂン​​獲獨步丁​は、福︀州の降れる時節︀に死し、その兄二人、​ムルツヂン​​穆魯丁​は、建康にて國難に死し、​ハイルツヂン​​海︀魯丁​は、列傳卷八十二に見たる淅東の都元帥​バヤンブハチキン​​伯顏不花的斤​と共に信州を守りて死を效しき。


14。​アラワヂン​​阿老瓦丁​

 列傳卷九十方伎の工藝に「​アラワヂン​​阿老瓦丁​​アライエツヂン​​阿來額丁​)、​フイフイ​​回回​氏、西域​ムフアリ​​木發里​人也」とあるを、​ブレトシユナイデル​​卜咧惕施乃迭兒​曰く「​ムフアリ​​木發里​は、蓋​デアルベキル​​的阿兒別奇兒​の北東の寨にて一二六〇年(中統元年)蒙古に取られたる​モアフエリン​​抹阿弗𡂰​ならん」と云へり。​ドーソン​​多遜​三、三五五頁に見えたる​マヤフアルキン​​馬牙發兒勤​​モアフエリン​​抹阿弗𡂰​)の寨の堪能なる軍匠の事を參考せよ。「至元八年、世祖︀遣使徵砲匠于宗王​アブカ​​阿不哥​」。​アブカ​​阿不哥​は、皇弟​フラグ​​旭剌古​の子​イルカナバカ​​亦兒汗阿巴咯​なり。「工以​アラワヂン​​阿老瓦丁​​イスマイン​​亦思馬因​應詔。二人擧家馳驛至京師、給以官舍。首造大砲、竪于五門前。帝命試之、各賜衣段。十一年、國兵渡江平章​アリハイヤ​​阿里海︀牙​、遣使求砲手匠。命​アラワヂン​​阿老瓦丁​往、破潭州靜江等郡、悉賴其力。十五年、授宣武將軍管軍總管」。潭州の砲擊は、十二年の冬に在り、靜江の破れたるは、十三年十二月にあり、列傳卷十五​アリハイヤ​​阿里海︀牙​の傳に見ゆ。「十八年、命屯田於南京」は、世祖︀紀至元十八年七月の條に「括​フイフイ​​回回​砲手散居他郡者︀、悉令赴南京屯田」とあり。「二十二年、樞密院奏、改元帥府爲​フイフイ​​回回​砲手軍匠上萬戶府、以​アラワヂン​​阿老瓦丁​爲副萬戶。大德四年、吿老、子​フミウヂ​​富謀只​襲副萬戶。皇慶元年卒、子​マハマシヤ​​馬哈馬沙​襲」。


15。​イスマイン​​亦思馬因​

 同じ卷に「​イスマイン​​亦思馬因​​イスマエル​​亦思馬額勒​)、​フイフイ​​回回​氏、西域​フレ​​旭烈​人也」。​フレ​​旭烈​は、地の名に非ず。​ブレウ​​旭烈兀​の領地の人と云ふべきを誤れるなり。​ラシツト​​喇失惕​に據れば、この人は、​ダマスクス​​荅馬思庫思​より至れり。「善造砲、至元八年、與​アラワヂン​​阿老瓦丁​至京師。十年、從國兵攻襄陽、未下。​イスマイン​​亦思馬因​相地勢、置砲于城東南隅、重一百五十斤。機發、聲震天地、所擊無不摧陷、入地七尺。宋安撫呂文煥懼、以城降。旣而以功賜銀二百五十兩、命爲​フイフイ​​回回​砲手總管、佩虎符。十一年、以疾卒、子​ブベ​​布伯​襲職。時國兵渡江、宋兵陳于南岸、擁舟師迎戰。​ブベ​​布伯​於北岸堅砲以擊之、舟悉沉沒。後每戰用之、皆有功」。

 國兵渡江とは、十一年十二月、丞相​バヤン​​伯顏​大軍を統べて漢︀口に至り、​アリハイヤ​​阿里海︀牙​張弘範等に陽羅堡を攻めさせ​アチユ​​阿朮​をして靑山磯より江を渡らしめたる時の事を云へるなり。又十二年二月、池州を發して、賈似道の舟師を敗る時、​バヤン​​伯顏​の傳に「​バヤン​​伯顏​命左右翼萬戶、率騎兵夾江而進、砲聲震百里、宋軍陣動」、​アチユ​​阿朮​の傳に「遣騎兵夾岸而進、兩岸樹砲、擊其中堅、宋軍陣動」とあり。​ブベ​​布伯​は、「十八年、加鎭國上將軍​フイフイ​​回回​砲手都︀元帥、明年、改軍匠萬戶府萬戶、遷刑部尙書」。のち浙東道宣慰使。その子​ハサン​​哈散​​ハスサン​​哈思散​)は、高郵府同知。​ブベ​​布伯​の弟​イブラキム​​亦不剌金​​イブラヒム​​亦卜喇希姆​)は、兄の刑部に遷れる時、萬戶となれり。「致和元年八月、樞密院檄​イブラキム​​亦不剌金​所部軍匠至京師、與​マハマシヤ​​馬哈馬沙​造砲。天曆二年、以疾卒、子​アグ​​亞古​襲」。


16。襄陽府の攻圍。

 襄陽攻圍の事は、​ウリヤンカ​​兀良合​​アチユ​​阿朮​​スブタイ​​速不台​の孫、​ウリヤンカタイ​​兀良合台​の子、列傳卷十五)、史天澤(史天倪の弟、列傳卷四十二)、張弘範(張柔の子、列傳卷四十三)、劉整(列傳卷四十八)の傳に、その砲擊の事は、​ウイウル​​畏吾兒​​アリハイヤ​​阿里海︀牙​[460]の傳(列傳卷十五)に見えたり。劉整は、中統二年、宋より蒙古に降り、至元三年、南京路の宣撫使となり、「四年十一月入朝、進言「宋主弱臣悖、立國一隅。今天啓混一之機。臣願效犬馬勞、先攻襄陽、撤其扞蔽。」廷議沮之。又曰「自古帝王、非四海︀一家、不爲正統。聖朝有天下、十七八。何置一隅不問、而自棄正統邪」。世祖︀曰「朕意決矣」。五年七月、遷鎭國上將軍都︀元帥。九月、偕都︀元帥​アチユ​​阿朮​、督諸︀軍、圍襄陽、城鹿門堡及白河口、爲攻取計、率兵五萬、鈔略沿江諸︀郡。皆嬰城避其銳。俘人民八萬」。​アチユ​​阿朮​の傳「中統三年、拜征南都︀元帥。至元四年八月、觀兵襄陽、遂入南郡、云云。初​アチユ​​阿朮​過襄陽、駐馬虎頭山、指漢︀東白河口、日「若築壘於此、襄陽糧道可斷也」。五年、遂築鹿門新城等堡、六年七月、大霖雨、漢︀水溢。宋將夏貴・范文虎相繼率兵來援復分兵出入東岸林谷間。​アチユ​​阿朮​謂諸︀將曰「此張虛形、不可與戰。宜整舟師、備新堡」。諸︀將從之。明日、宋兵果趍新堡。大破之、殺︀溺生擒五千餘人、獲戰船百餘艘」。史天澤の傳「至元六年、帝以宋未附、議攻襄陽、詔(左丞相)天澤、與駙馬​フラチユ​​忽剌出​、往經晝之。至則相要害、立城堡、以絕其聲援、爲必取之計。七年、以疾還燕」。張弘範の傳「至元六年、括諸︀道兵、圍宋襄陽、授(弘範)益都︀淄萊等路行軍萬戶、佩金虎符。戍鹿門堡、以斷宋餉道、且絕郢之救兵。弘範建言曰「國家取襄陽、爲延久之計者︀、所以重人命、欲其自斃也。曩者︀夏貴乘江漲、送衣糧入城。我師坐視︀、無禦之者︀。而其境、南接江陵歸峽、商販行旅、士卒絡繹不絕。寧有自斃之時乎。宜城萬山、以斷其西、柵灌子灘、以絕其東。則庶幾速斃之道也」。帥府奏用其言、移弘範兵千人、戌萬山、旣城、與將士較射、出東門。宋師大至。將佐皆謂「衆寡不敵、宜入城自守」。弘範曰「吾與諸︀君在此事。敵至將不戰乎。敢言退者︀死」。卽擐甲上馬、立遣偏將李庭當其前、他將攻其後、親率二百騎爲長陣。令曰「聞吾鼓則進、未鼓勿動」。宋軍步騎相間突︀陣。弘範軍不動。再進再却。弘範曰「彼氣衰矣」〈[#「衰」は底本では異体字(u8870-ue0104)。元史(四庫全書本)卷156第19丁第8行に倣い修正]〉。鼓之、前後奮擊。宋師奔潰」。續綱目は、帥府を史天澤とし、城萬山を七年十一月の事とせり。劉整の傳「七年三月、築實心臺于漢︀水中流、上置弩砲、下爲石囤五、以扼敵船。且與​アチユ​​阿朮​計曰「我精︀兵突︀騎、所當者︀破。惟水戰不如宋耳。奪彼所長、造戰艦、習水軍、則事濟矣」。乘驛以聞。制可。旣還、造船五千艘、日練︀水軍、雖雨不能出、亦畫地爲船而習之、得練︀卒七萬。八月、復築外圍、以遏敵援」。末の句は、​アチユ​​阿朮​の傳に「築圜城、以逼襄陽」とあり。張弘範の傳「八年、築一字城、逼襄陽」。一字城は、續綱目に「築峴山虎頭山、爲一字城、聯亙諸︀堡」とあり。劉整の傳の外圍、​アチユ​​阿朮​の圜城も、蓋同じ物なり。​アチユ​​阿朮​の傳「范文虎復率舟師來救、來興國又以兵百艘侵百丈山。前後邀擊於湍灘、俱敗走之」。傳は、この事を六年七月夏貴范文虎來援の續きに叙べたれども、續綱目は、八年六月の事とせり。劉整の傳「九年、襄陽帥呂文換登城觀敵。整躍馬前曰「君味於天命、害及生靈、豈仁者︀之事。而又齷齪不能戰、取羞於勇者︀。請與君決勝負」。文煥不答、伏弩中整。三月、破樊城外郭、斬首二千級、擒裨將十六人」。​アチユ​​阿朮​の傳「九年三月、破樊城外郛、增築重圍以逼之。宋裨將張順張・貴裝軍衣百船、自上流入襄陽。​アチユ​​阿朮​攻之。順死、貴僅得入城。俄乘輪船、順流東走。​アチユ​​阿朮​與元帥劉整、分泊戰船以待、燃薪照江、兩岸如晝。​アチユ​​阿朮​追戰至櫃門關、擒貴、餘眾盡死」張順張貴は、宋の京湖制置大使李庭芝の遺せる勇將なり。この戰は、劉整の傳稍委し。「諜知文煥將遣張貴出城求援、乃分部戰艦、縛草如牛狀、傍漢︀水綿亙參錯、眾莫測所用。九月、貴果夜出、乘輪船、順流下走。軍士覘知之、傍岸熱草牛如晝。整與​アチユ​​阿朮​麾戰艦、轉戰五十里、擒貴于櫃門關、餘眾盡殺︀之」。​アリハイヤ​​阿里海︀牙​の傳「至元五年、命與元帥​アチユ​​阿朮​劉整取襄陽。始帝遣諸︀將、命勿攻城、但圍之、以俟其自降。乃築長圍、起萬山、包百丈楚山、盡鹿門、以絕之。宋兵入援者︀、皆敗去。然城中糧儲多、圍之五年終不下。九年三月、破樊城外郛、其將復閉內城守。​アリハイヤ​​阿里海︀牙​以爲「襄陽之有樊城、猶齒之有唇也。宜先攻樊城。樊城下則襄陽可不攻而得」。乃入奏、帝始報可。會有西域人​イスマイン​​亦思馬因​、獻新礮法。因以其人來軍中。十年正月、爲礮攻樊破之。先是宋兵爲浮橋、以通襄陽之援。​アリハイヤ​​阿里海︀牙​發水軍、焚其[461]橋。襄援不至、城乃拔。詳具​アチユ​​阿朮​傳」。​アチユ​​阿朮​の傳「先是襄樊兩城、漢︀水出其間、宋兵植木江中、聯以鐵鎖、中造浮梁、以通援兵。樊特此爲固。至是​アチユ​​阿朮​以機鋸斷木、以斧斷鎖、焚其橋。襄兵不能援。十二月、遂拔樊城襄守將呂文煥懼而出降」。十二月は、十年正月の誤なり。張弘範の傳は、「截江道、斷其援兵」を弘範の計とし、劉整の傳は、「斷木沉索、先攻樊城」を整の計とし、諸︀傳互に頭功を爭ふは奇觀なり。蓋此等の事は、諸︀將の誰も心附きたる事にして、一人をしてその功を專にせしむべきには非ず。されども本紀は、​アリハイヤ​​阿里海︀牙​の功とし、至元九年十一月の處に「參知行省政事​アリハイヤ​​阿里海︀牙​言「襄陽受圍久未下。宜先攻樊城、斷其聲援」。從之。​フイフイ​​回回​​イスマイン​​亦思馬因​、創作巨石砲來獻、用力省、而所擊甚遠。命送襄陽軍前用之」とあり。​アリハイヤ​​阿里海︀牙​の傳「​アリハイヤ​​阿里海︀牙​旣破樊、移其攻具、以向襄陽。一礮中其誰樓、聲如雷霆、震城中。城中洶洶、諸︀將多踰城降者︀。劉整欲立碎其城、執文煥、以快其意。​アリハイヤ​​阿里海︀牙​、獨不欲攻、乃身至城下、與文煥語曰「君以孤軍城守者︀數年、今飛鳥路絕。主上深嘉汝忠。若降、則尊官厚祿可心得、決不殺︀汝也」。文煥狐疑未決。又折矢與之誓、如是者︀數四。文煥感而出降。遂與入朝。帝以文煥爲昭勇大將軍侍衞親軍都︀指揮使襄漢︀大都︀督」。襄陽の降れるは、世祖︀紀に據るに、至元十年二月の事なり。

 襄陽砲擊の事は、​ラシツト​​喇失惕​の史にも漏されざりき。​ドーソン​​多遜​の引けるに據るに、「支那には​クムガ​​庫姆嘎​と云ふ砲器︀あらざりし故に、​カガン​​合罕​​ダマスクス​​荅馬思庫思​​バルベク​​巴勒別克​より砲匠を送らしめき。その砲匠の三子​アブベクル​​阿不別克兒​​イブラヒム​​亦卜喇希姆​​マホメツト​​馬訶篾惕​は、その工人と共に七つの巨砲を造れり。その巨砲は、國界の城にて​マンツ​​蠻子​の要害なる​サヤンフ​​撒顏府​の攻撃に用ひられき」。砲匠の名は漏れたれども、方伎傳の​イスマイン​​亦思馬因​なること疑ひなし。その子​アブベクル​​阿不別克兒​は、傳の​ブベ​​布伯​​イブラヒム​​亦卜喇希姆​は、傳の弟​イブラキム​​亦不剌金​なり。​マホメツト​​馬訶篾惕​は、​イスマイン​​亦思馬因​の傳に見えざれども、​アラワヂン​​阿老瓦丁​の孫​マハマシヤ​​馬哈馬沙​​マホメツトヤ​​馬訶篾惕沙​はそれと同じ人なるに似たり。​サヤンフ​​撒顏府​は、卽​シヤンヤンフ​​襄陽府​の訛なり。


17。​マルコポーロ​​馬兒科保羅​の砲術。

 ​マルコポーロ​​馬兒科保羅​の談は、甚面白し。その紀行第十一章に​サヤンフ​​撒顏府​の雄大にして產物に富めることを叙べたる後に「​マンツ​​蠻子​の國は皆降りたる後に、その城は三年の間、大汗に抗して守禦せり。大汗の軍は、それを取らんと頻︀に力めたれども、それの周圍に廣き深き水ありて、北なる只一邊よりの外近づくこと能はざりし故に、成功せざりき。大汗の兵は、城の前に三年居て取る能はざりし時に、大にいらちけり。その時​ニコロポーロ​​尼科羅波羅​​マフエオ​​馬弗斡​​マルコ​​馬兒科​とは曰く「我等は、城を速に降すべき方法を示さん」と云へば、軍の人人は、それはいかなるかを知らんと欲することを答へき。この話は、大汗の前にて起りき。この時は、軍中より使至りて、味方の攻むる能はざる​かは​​側​より、敵は食物の供給を絕えず受くるが故に、封鎖にて城を取るべき樣なしと吿げ、大汗は答へて「必取れ、何とか方法を見出せ」と云ひ遣りたる時なりき。その時二人の兄弟と子​マルコ​​馬兒科​とは申さく「​オホギミ​​大君​。我等の從者︀の中に、城兵の抵抗する能はざるほどに大なる石を抛ぐべき砲器︀を作り得る人あり。この砲器︀を以て城を擊たば、城兵は直ちに降らん」。汗は、かかる砲器︀をなるたけ速に作らんことを熱心に望めり。今​ニコロ​​尼科羅​とその子とは、直ちにその作事に適する材木を​イ​​要​るだけ取寄せき。その從者︀の二人、獨逸︀人と​ネストル​​捏思脫兒​派の​クリスト​​克哩思惕​敎徒とは、その工事の達人なりしかば、それらに命じて三百磅の石を抛げ得べき砲器︀二三臺を作らしめき。かくて立派なる砲器︀、三百磅以上の石を抛げ得る物、三臺成りき。その砲器︀用ひらるべく成りし時に、汗もその他の人も、見て大に喜び、その前にてあまたの石を抛げさせ、大に驚歎し、大に工事を賞めき。汗は命じて、その器︀械を​サヤンフ​​撒顏府​の行營に居る軍の處に運ばしめき。その器︀械行營に達し、据附けられたる時、​タルタル​​塔兒塔兒​人大に感賞せり。その器︀械据附けられ、働かせられたる時、各より石を城に抛げ、建物の中に效力を著︀し、大なる聲と震動とを以て何物にても破り碎きけり。城の民は、この奇異なる新客を見[462]て、驚き怖ぢて、何を爲すべきか言ふべきかを知らざりき。聚りて評議を凝したれども、この事は魔力にて爲さるゝが如く見えて、いかにしてその器︀械より遁れ得べきかの評議は思ひ附かれざりき。彼等は、降らずば我等は皆死なんと言ひて、許さるゝだけの條件にて降らんと決議せり。そこに彼等は、直ちに軍の大將に使を送り、他の諸︀城の爲したると同じ約束にて降りて、大汗の臣民とならんと欲すと云ひ遣り、大將はそれを許しき。かくて城の民は降り、約束を奉じけり。これは、皆尼科羅と馬弗斡と馬兒科との働きより出來たり。それは、小き事件に非ず。この城と州とは、大汗の領する最善き處の一にして、大なる財賦を汗に納むる故に」。

 この談の初に、襄陽の攻圍を宋の滅びたる後とせるは、事實に違へるのみならず、​マルコポーロ​​馬兒科保羅​等の帝都︀に達したるは、早くとも、一二七四年、卽至元十一年の末にして、襄陽の降れる十年二月より一年半餘の後なれば、襄陽の砲擊を​ポーロ​​保羅​三人の功に歸すべき由なし。​マルコ​​馬兒科​の紀行は、大體にては眞實の談多けれども、この一事だけは、西人の何も知らざるを恃みて、​イスマイン​​亦思馬因​等の功を竊みて己等のとしたるは、をかしかりき。​ポーチエ​​保提額​の一本と​ラムジヨ​​喇木梨​の本とに​マルコ​​馬兒科​の名なく、製砲の業を​ニコロ​​尼科維​兄弟二人の働きとしたるに由り、​ポーチエ​​保提額​は、二人の始めて支那に往きたる時、彼の助言助力を爲したるならんと云へり。然れども​マルコ​​馬兒科​の名を除きても、不都︀合の度は少しも減ぜられず。二人の始めて支那に往きたるは、蓋至元の初頃にして、一二六九年卽至元六年に​ヹニス​​吠尼思​に歸りたれば、支那を去りたるは、遲くとも至元五年襄陽攻圍の始れる年より後なることを得ず。二人は、いかで襄陽の圍まれて三年抗禦せるを見ることを得んや。


18。支那の砲術。

 ​ユール​​裕勒​曰く「紀行の一本に、この事の前に、蒙古人支那人は、砲器︀を更に知らざりきと云へり。これは、全く實ならず。力の大なる砲器︀の、遠東に知られざりし趣に聞ゆるこの談すらも、蒙古の史に記さるゝ他の事實に合ひ難く思はる。​タアバツカトイナシリ​​塔巴咯惕亦納昔哩​と名づくる​ペルシヤ​​珀兒沙​の史は、​チンギスカン​​成吉思汗​​マンヂヤニキカス​​曼札尼奇合思​卽工師長​アイカハノヰン​​愛喀呵諾微音​と一萬の​マンヂヤニキ​​曼札尼奇​卽砲手の軍とを記せり。又​ガウビル​​誥必勒​の用ひたる支那の史も、砲兵の事を記せり」とて​スブタイ​​速不台​の汴京攻擊などの事を引けり。

 金史强伸の傳に、天興元年(太宗四年)中京(洛陽)を守れる時、三月「北兵圍之、東西北三面、多樹大砲。云云、伸又創遏砲、用不過數人、能發大石於百步外、所擊無不中」。​チヂヤンカヒ​​赤盞合喜​の傳、天興元年三月、​スブダイ​​速不䚟​に京城(開封)を攻められたる時、「龍德宮造砲石、取宋太湖靈壁假山爲之、小大各有斤重、其圓如燈毯之狀。有不如度者︀、杖其工人。大兵(蒙古兵)用砲則不然。破大磑或碌碡爲二三、皆用之。攢竹砲、有至十三稍者︀、餘砲稱是。每城一角、置砲百餘枚、更遞下上、晝夜不息。不數日、石幾與裏城平。而城上樓櫓、皆故宮及芳華玉谿所拆大木爲之。合抱之木、隨擊而碎。以馬糞麥秸布其上、網索旃褥固護之。其懸風板之外、皆以牛皮爲障、遂謂不可近。大兵以火砲擊之、隨卽延熱、不可撲救。故老所傳、周世宗築京城、取虎牢士爲之、堅密如鐵。受砲所擊、唯凹而已。云云。其攻城之具、有火砲名震天雷者︀。鐵確盛藥、以火點之。砲起火發、其聲如雷、聞百里外、所爇圍半畝之上。火點著︀、甲鐵皆透。大兵又爲牛皮洞、直至城下、掘城爲龕、間可容人。則城上不可柰何矣。人有獻策者︀、以鐵繩懸震天雷者︀、順城而下、至掘處火發、人與牛皮、皆碎迸無迹。又飛火槍、注藥、以火發之、輒前燒十餘步、人亦不敢近。大兵惟畏此二物云」。又續綱目、端平三年(太宗八年)十一月、蒙古の將​チヤハン​​察罕​眞州を攻めたる時、知州事丘岳は、「爲三伏、設砲石、待之于西城。敵至、伏起砲發、殺︀其驍將。敵眾大擾」。​ラシツト​​喇失惕​の史に據れば、一二五三年(憲宗三年)皇弟​フラク​​呼剌古​​フレウ​​旭烈兀​)、​ペルシヤ​​珀兒沙​を征する時、大汗​マンク​​莽庫​は、支那に人を遣り、そこより砲手火砲手弩手千戶を招ぎき。その弩手の用ひたる弩には、二千五[463]百步の射程ある者︀ありきと云へり。​マツチウバリス​​末收帕哩思​の書(五七〇頁、一二四四年の條)に、​ルシア​​嚕西亞​より遁げ來つる大僧︀正の話せる​タルタル​​塔兒塔兒​の特徴の一つは、眞直に烈しく發する砲器︀を多く彼等の有てることなりとあり。

 ​ユール​​裕勒​は、汴京の砲戰、眞州の砲戰、​フラグ​​呼剌古​の砲兵、​ルシア​​嚕西亞​の大僧︀正の談を引きたる後、「かるが故に、蒙古人支那人は、攻擊の機器︀を持ちしには相違なけれども、西人のそれらに屬する或便利□〈[#底本では印刷が薄く判読不能]〉闕きたりけんこと明なり。支那に​クムガ​​庫姆嘎​砲器︀なかりきと​ラシドツヂン​​喇失都︀丁​の云へるととは、解釋を闕けり。庫姆嘎は、恐らくは突︀兒克人.​アラブ​​阿喇卜​人の大なる砲器︀の一種に名づけたる​カラブガ​​喀喇不嘎​の誤ならん。これは、又​エウロパ​​歐囉巴​にて​カラバガ​​喀喇巴噶​​カラブラ​​喀剌卜喇​など云へり。支那の古の砲器︀は、明に固有の物にして、その見本(第一第二第三圖)は前に示したるが(それらの圖を取れる書には六七の圖解あれども)、支那人の圖解には、分銅にて器︀械を働かする物一つも無く、皆人綱にて動かすものなり。されば蓋西方より取れる改良は、必分銅附の槓桿なりけん」と論斷せり。


19。​ヂヤマルツヂン​​札馬魯丁​

 天文志一に曰く「世祖︀至元四年、​ヂヤマルツヂン​​札馬魯丁​造西域儀象。咱禿哈剌吉、漢︀言混天儀也。咱禿朔八台、漢︀言測驗周天星曜之器︀也。魯哈麻亦渺凹只、漢︀言春秋分晷影堂。魯哈麻亦木思塔餘、漢︀言冬夏至晷影堂也。苦來亦撒麻、漢︀言渾天圖也。苦來亦阿兒子、漢︀言地理志也。兀速都︀兒剌不定、漢︀言晝夜時刻之器︀」。曆志一を按ずるに、元の初は、金の大明曆を用ひたりしが、​エリユ​​耶律​楚材は、大明曆の天に後れたるを見て、更に推測してその失を正し、新曆を作り、「題其名曰西征庚午元曆、表上之。然不果頒用。至元四年、西域、​ヂヤマルツヂン​​札馬魯丁​、撰進萬年曆。世祖︀稍頒行之」。その後許衡、王恂、郭守敬は、「與南北日官陳鼎臣、鄧元麟、毛鵬翼、劉巨源、王素、岳鉉、高敬等、參考累代曆法、復測候日月星辰消息運行之變、參別同異、酌取中數、以爲曆本。十七年冬至、曆成。詔賜名曰授時曆、十八年、頒行天下」。その推驗の精︀しきことは、今古に卓越したりき。萬年曆は、世に傳はらざれども、必郭守敬等の參考に供せられたるならん。百官志六に、「司天監、掌凡曆象之事」とある外に「​フイフイ​​回回​司天監、掌觀象衍曆」とありて、その沿革に「世祖︀在潜邸時、有旨微​フイフイ​​回回​爲星學者︀、​ヂヤマラヂン​​札馬剌丁​等以其藝進、未有官署︀。至元八年、始置司天臺、秩從五品。十七年、置行監。皇慶元年、改爲監、秩正四品。延祐︀元年、陞正三品、置司天監。二年、命祕書卿提調監事。四年、復正四品」とあり。一八七六年(光緖二年、明治九年)北京の蒙古測天器︀につき​ワイリー​​淮黎​の述べたる面自き論文を見よ。

 又氏族表に祕書志を引きて、「​シエンスヂン​​贍思丁​(一作​シエンスヂン​​苫思丁​)、亦​フイフイ​​回回​人」と云ひて、​シエンスヂン​​贍思丁​は集賢大學士、大司徒、大司徒、


行祕書監事、提調回國司天臺事、その子布八は元統二年代父爲祕書卿とあり。


20。​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​

 蒙古の朝廷に西域の人あまた來て仕へたる中には、往往惡人もありき。太宗紀に「十一年十二月、商人​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​買撲中原銀課二萬二千錠、以四萬四千錠爲額。從之。十二年正月、以​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​充提領諸︀路課稅所官」。​エリユ​​耶律​楚材の傳に「自庚寅(太宗二年)定課稅格、至甲午(六年)平河南、歲有增美。至戊戌(十年)、課銀增至一百一十萬兩。譯史​アンテンカ​​安天合​者︀、語事​チンハイ​​鎭海︀​、首引​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​、撲買課稅、又增至二百二十萬兩。楚材極力辨諫、至聲色俱厲、言與涕俱。帝曰「爾欲搏鬭耶」。又曰「爾欲爲百姓哭耶。姑令試行之」。楚材力不能止、乃歎息曰「民之困窮、將自此始矣」。云云。歲辛丑(十三年)、帝崩于行在所。皇后​ナイマヂン​​乃馬眞​氏稱制、崇信姦回、庶政多紊。​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​、以貨得政柄、廷中悉畏附之。楚材面折廷爭、言人所難言、人皆危之。云云。后以御寳空紙、付​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​、使自書塡行之。楚材曰「天下者︀、先帝之天下。朝廷自有憲章。今欲紊之、臣不敢奉詔」。事遂止。又有旨、凡​アウドラハマン​​奧都︀剌合蠻​所建白、令史不爲書者︀、斷其手。楚材曰「事之典故、先帝悉委老臣、令史何與焉。事若合理、自當奉行。如不可行、死且不避、況截手乎」。后不悅。楚材辨論不已、因大聲曰[464]「老臣事太祖︀太宗三十餘年、無負於國。皇后亦豈能無罪殺︀臣也」。后雖憾之、亦以先朝舊勳、深敬憚焉。甲辰夏五月、薨于位、年五十五。皇后哀悼、賻贈︀甚厚」。​ドーソン​​多遜​に據れば、皇后​トラキナ​​禿喇奇納​攝政し、丞相​チンハイ​​鎭海︀​を罷め、​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒の商人​アブドルラハマン​​阿卜都︀兒喇呵蠻​を信任して、財賦の事を主らしめしが、​グユク​​庫由克​​カン​​汗​位に卽き、​アブドルラハマン​​阿卜都︀兒喇呵蠻​を誅し、​チンハイ​​鎭海︀​​カダク​​喀荅克​を丞相としけりとあり。この​フイフイ​​回回​の誅せられたることは、元史に漏れたり。


21。​アハマ​​阿合馬​

 列傳第九十二姦臣傳、​アハマ​​阿合馬​​アハメト​​阿呵篾惕​)、​フイフ​​回紇​人也。不知其所由進。世祖︀中統三年、始命領中書左右部、兼諸︀路都︀轉運使、專以財賦之任委之。委しき事跡は、本傳に讓りて、その仕履は、至元元年八月、中書平章政事となり、三年正月、制國用使の職を兼ね、七年正月、尙書省を立て、制國用使司を罷めたる時、​アハマ​​阿合馬​は平章尙書省事となれり。「​アハマ​​阿合馬​爲人多智巧言、以功利成効自負、眾咸稱其能。世祖︀急於富國、試以行□〈[#「□」は底本では空白。以後すべて同じ]〉、頗有成績。又見其與丞相​センヂン​​線眞​史天澤等爭辨、屢□以詘之。由是奇其才、授以政柄、言無不從。而不□□專愎益甚矣」。九年、尙書省を罷め、又中書平章政事となり、十二年、奏して諸︀路の轉運司を立て、​イビレキム​​亦必烈金​​イブラセム​​亦卜喇希姆​)、​ヂヤマラヂン​​札馬剌丁​(□□□□)張暠、富珪、蔡德潤、紇石烈亨、​アリホヂヤ​​阿里和者︀​​アリコヂヤ​​阿里闊札​)、​ワンヤン​​完顏​廸、姜毅、​アラワヂン​​阿老瓦丁​​アライエツヂン​​阿來額丁​​ダウラシヤ​​倒剌沙​□等を轉運使とし、十六年、その子​フツシン​​忽辛​​フスセイン​​許思薛因​)は中書右丞となれり。宰相表には、至元十九年、中書左丞相の欄︀に​アハマ​​阿合馬​の名あり、高觿張九思の傳には丞相​アハマ​​阿合馬​とあれども、世祖︀紀と本傳とは丞相となれることを載せず。錢大昕の考異は、宰相表を誤れりとし、「​アハマ​​阿合馬​未爲丞相。此誤高一格、刋本之譌」と云へり。されども續通鑑綱目には、十八年十二月「以​オンギラダイ​​甕吉剌帶​爲右丞相」の下に​アハマ​​阿合馬​爲左丞相」と記せり。「時​アハマ​​阿合馬​在位日久、益肆貪橫、援引姧黨郝禎︀耿仁、驟升同列、陰謀交通、專事蒙蔽、連賦不蠲、眾庶流移。云云。內通貨賄、外示威刑、廷中相視︀、無敢論列。有宿衞士秦長卿者︀、慨︀然上書發其姦、竟爲​アハマ​​阿合馬​所害、斃于獄、事見長卿傳。十九年三月、世祖︀在上都︀、皇太子從。有益都︀千戶王著︀者︀、素志疾惡、因人心憤怨、密鑄大銅鎚、自誓願擊​アハマ​​阿合馬​首。會妖僧︀高和尙、以祕術行軍中、無驗而歸、詐稱死、殺︀其徒、以尸欺眾逃去、人亦莫知。著︀乃與合謀、以戊寅日、詐稱皇太子還都︀作佛事、結八十餘人、夜入京城、旦遣二僧︀詣中書省、令市齋物。省中疑而訊之、不伏。及午、著︀又遣崔總管、矯傳令旨、俾樞密副使張易、發兵若干、以是夜會東宮前。易莫察其僞、卽令指揮使顏義領兵俱往。著︀自馳見​アハマ​​阿合馬​、詭言太子將至、令省官悉候東宮前。​アハマ​​阿合馬​遣右司郞中​トホンチヤル​​脫歡察兒​等數騎出關、北行十餘里、遇其衆。僞太子者︀、貴以無禮、盡殺︀之、奪其馬、南入健德門。夜二鼓、莫敢何問。至東宮前、其徒皆下馬。獨僞太子者︀、立馬指揮、呼省官至前、責​アハマ​​阿合馬​數語。著︀卽牽去、以所袖銅鎚碎其腦、立斃。繼呼左丞郝禎︀至、殺︀之、囚右丞張惠。樞密院御史臺留守司官、皆遙望、莫測其故。尙書張九思、自宮中大呼、以爲詐。留守司​ダルハチボドン​​達魯花赤博敦​、遂持梃前擊立馬者︀墜地弓矢亂發。眾奔潰、多就禽。高和尙逃去、著︀挺身請囚。中丞​エツセンテムル​​也先帖木兒​馳奏。世祖︀時方駐蹕​チヤガンナウル​​察罕腦兒​、聞之震怒、卽日至上都︀、命樞密副使​ボロ​​孛羅​、司徒​ホリホスン​​和禮霍孫​、參政​アリ​​阿里​等、馳馹至大都︀、討爲亂者︀。庚辰、獲高和尙于高梁河。辛巳、​ボロ​​孛羅​等至都︀。壬午、誅王著︀・高和尙于市、皆醢之、幷殺︀張易。著︀臨刑大呼曰「王著︀爲天下除害。今死矣。異日必有爲我書其事者︀」。​アハマ​​阿合馬​死、世祖︀猶不深知其姦、令中書毋問其妻子。及詢​ボロ​​孛羅​、乃盡得其罪惡、始大怒曰「王著︀殺︀之、誠是也」。乃命發墓剖棺、戮尸于通玄門外、縱犬啗其肉。百官士庶聚觀稱快。子姪皆伏誅、沒入其家屬財產。云云」。この騒動の事は、猶 高觿 張九思の傳に詳かなり。本紀に依れば、​アハマ​​阿合馬​の長子​フツシン​​忽辛​、次子​マスフ​​抹速忽​(馬□□□)、三子​アツサン​​阿散​​ハスサン​​哈思散​)、四子​ヒンド​​忻都︀​、姪​ヅアイヌヂン​​宰奴丁​等皆誅せられ、その黨與にて省部に官する者︀七百十四人皆黜けられき。又張九思の傳に「賊之入也、矯太子命、徵兵樞密副使張易。易不加審。遽以兵與之。易旣坐誅、而刑官復論以知情、將傳首四方。九思啓太子曰「張易應變不審、而授賊[465]以兵、死復何辭。若坐以與謀、則過矣、請免︀傳首」。皇太子言於帝、遂從之」とあれば、張易の謀に與らざることは明かなり。

 ​ラシツト​​喇失惕​の史(​ドーソン​​多遜​二、四六七)に依れば、​アハメト​​阿呵篾惕​は、​ヤクサルテス​​牙克撒兒帖思​河に近き​フエナケト​​弗納客惕​(後に​シヤハルキア​​沙呵嚕乞亞​)の人にして、​ヂヤムイカトン​​札梅︀合屯​の入內する前より知られ、入內の後その宮(​オルド​​斡兒朶​)に仕へ、遂に​クブライ​​庫卜賚​の信用を得たり。​ヂヤムイカトン​​札梅︀合屯​は、后妃表世祖︀の第二​オルド​​斡兒朶​なる​チヤビ​​察必​皇后、​ホンギレ​​弘吉列​氏、魯忠武王​アンチノヤン​​按嗔那顏​の女にして、中統の初に皇后となり、至元十八年に崩じ、昭睿順聖皇后と謚せられたる人なり。

 ​マルコポーロ​​馬兒科保羅​の第二十三章「​バイロアクマト​​拜羅阿黑馬惕​〈[#「拜羅阿黑馬惕」は底本では「拜阿羅黑馬惕」。同文の「阿黑馬惕」に倣い修正]〉の暴虐云云」と題する一章は、​アハマ​​阿合馬​の事を述べたるなり。その叙事のやゝ違へるは、​マルコ​​馬兒科​の覺え誤りもあるべく、書取りたる人の書き誤りもあるべし。​アクマト​​阿黑馬惕​〈[#ルビの「アクマト」は底本では「アクマク」。後文のルビに倣い修正]〉の貪淫なることを述べたる後に、「千戶​チエンチユ​​潺出​と云ふ支那人は、母と女と妻とを​アクマト​​阿黑馬惕​に汙されて深く怨み、萬戶​ヷンチユ​​晩出​と云ふ支那人と共に丞相を殺︀さんことを謀りき」。千戶​チエンチユ​​潺出​は、樞密副使張易の誤にして、萬戶​ヷンチユ​​晩出​は、卽千戶王著︀なり。「​アクマト​​阿黑馬惕​は、宮門に至れる時、京城の衞士一萬二千の長なる​コガタイ​​科噶台​と云ふ​タルタル​​塔兒塔兒​に遇ひ」て、問答ありき。この​コガタイ​​科噶台​は、その夜宮中に宿衞せる工部侍部高觿〈[#「高觿」は底本では「高鑴」。元史(四庫全書本)卷169に倣い修正。以後すべて同じ]〉にて、蒙古人に非ず、渤海︀の人なり。​アハマ​​阿合馬​を擊ち殺︀したるは王著︀にして、太子と僞れるは他の人なるを、「​アクマト​​阿黑馬惕​は、​ヷンチユ​​晩出​​ヂンキム​​眞金​なりと思ひ、その前に拜りたる時、劍をもて待ち構へ居たる​チエンチユ​​潺出​は直ちにその頭を斬り落しき」と云へり。「入口に留まり居たる​コガタイ​​科噶台​は、この事を見ると直に「賊なり」と叫びて、急に​ヷンチユ​​晩出​に箭を放ちて、その坐れる處を射殺︀し、同時にその衆を呼びて潺を捕へさせき」とあるは、高觿の傳に「燭影下、遙見​アハマ​​阿合馬​及左丞郝禎︀已被殺︀、觿乃與九思大呼曰「此賊也」、叱衞士急捕之。高和尙等皆潰去、惟王著︀就擒」と云へる事なり。王著︀をそこに殺︀されたりとせるは、誤れり。「​コガタイ​​科噶台​は、直ちに大汗に使者︀を發し、事の顚末を奏しき」は、高觿の傳なる黎明、中丞​エセンテムル​​也先帖木兒​與鑴等、馳驛往上都︀.以其事聞」なり。​マルコ​​馬兒科​は、この章の末に「今あらゆるこの事の起りし時に、​マルコ​​馬兒科​はそこに居りき」と附け加へたり。​デメイラ​​迭邁剌​は、通鑑綱目を譯して、​アハマ​​阿合馬​の罪惡を世祖︀に吿げたる樞密副使​ボロ​​孛羅​​マルコ​​馬兒科​らしく​ポーロ​​保羅​と譯したれば、​ユール​​裕勒​はそれにだまされて、「​マルコ​​馬兒科​君のそこに居たることとその折にその正直なる行とは、支那の歷史家に忘れられざりしは、愉快なる事なりき」と嬉しがりたれども、​ボロ​​孛羅​は、實は​マルコ​​馬兒科​にあらず。世祖︀紀に、至元七年十二月「以御史中丞​ボロ​​孛羅​兼大司農卿」、十二年四月「以大司農御史中丞​ボロ​​孛羅​爲御史大夫」、十四年二月「以大司農御史大夫​ボロ​​孛羅​爲樞密副使、兼宣徽使、領侍儀司事」とある人にして、​マルコポーロ​​馬兒科保羅​の支那に至れるよりも遙に前より蒙古の顯官となりたる人なりき。


22。​ウバドラ​​烏巴都︀剌​

 氏族表に「​ウバドラ​​烏巴都︀剌​、亦​フイフイ​​回回​人」と云ひて、曾祖︀​マシヤラフツヂン​​木沙剌福︀丁​、祖︀​ヂヤラルツヂン​​札剌魯丁​北京路​ムクリウチヤルビ​​木忽里兀察兒必​、父​イフデハルヂン​​亦福︀的哈魯丁​翰林學士承旨、​ウバドラ​​烏巴都︀剌​中書參知政事を擧げ、又「​ダウラシヤ​​倒剌沙​、亦​フイフイ​​回回​人」と云ひて、兄​マミウシヤ​​馬某沙​湖南行省左丞、​ダウラシヤ​​倒剌沙​中書左丞相、その子​ボビムバラシヤ​​潑皮木八剌沙​を擧げたり。​ウバドラ​​烏巴都︀剌​は、本紀には​ウバドラ​​兀伯都︀剌​、宰相表には​ウバドラ​​烏伯都︀剌​と書き、大德十一年武宗卽位の初に中書參知政事(武宗紀に八月と九月と二所に書きたるは重複なり)、至大元年中書左丞、四年中書右丞、仁宗皇慶二年中書平章政事、英宗の時江浙行省に出され、泰定帝の時復中書に入り、​ダウラシヤ​​倒剌沙​の敗れたる時、​エンテムル​​燕鐡木兒​に殺︀されき。


23。​ダウラシヤ​​倒剌沙​

 ​ダウラシヤ​​倒剌沙​は、泰定帝の重臣にして、帝の晉王として北邊に居りし時より王府の內史となりき。泰定帝は、世祖︀の曾孫、裕宗(皇太子眞金)の孫、成宗の姪、武宗・仁宗の從兄にして、顯宗(晉王​ガマラ​​甘麻剌​)の長子なり。本紀に「​ダウラシヤ​​倒剌沙​得幸於帝、常偵伺朝廷事機」とあれども、委しき事情は考ふるに由なし、天曆の朝臣の誣罔[466]に出でたる說なるかも知るべからず。至治三年八月英宗(仁宗の子)、上都︀より南に還りて南坡に蹕を駐めし時、御史大夫​テシ​​鐵失​等逆を謀り、右丞相​バイヂユ​​拜住​を殺︀し、英宗を幄殿に弑し、その黨諸︀王​アンチブハ​​按梯不花​知樞密院事​エツセンテムル​​也先鐵木兒​、皇帝の璽綬を奉じて帝の迎へに往きたれば、九月癸巳、帝は​ルンク​​龍居​河にて卽位し、天下に大赦し、明日​ダウラシヤ​​倒剌沙​を中書平章政事となしき。この時の赦書は、蒙古文の俗文譯にて珍しければ、こゝに引かん。「​セツエン​​薛禪​​クワウテイ​​皇帝​​ハレンゲン​​可憐見​​チヤクソン​​孫​ニテ​ユウソウ​​裕宗​​クワウテイ​​皇帝​​チヤウシ​​長子​ナル​ワガジン​​我仁慈​ナル​ガマラ​​甘麻剌​​ヤヤ​​爺爺​​モトニ​​根底​​ホウジユ​​封授​​シンワウ​​晉王​​トウリヤウ​​統領​​チンギス​​成吉思​​クワウテイ​​皇帝​​ヨツノ​​四个​​ダイオルド​​大斡耳朶​​ト​​及​​グンバ​​軍馬​​タタ​​達達​​コクド​​國土​トヲ​スベテ​​都︀​​アヅケキテ​​付來​​ヨリテ​​依著︀​​セツエン​​薛禪​​クワウテイ​​皇帝​​セイシ​​聖旨​​セウシン​​小心​​キンシン​​謹︀愼​​タヾスベテノ​​但凡​​グンバ​​軍馬​​ジンミン​​人民​​ノ​​的​​ザル​​不​​エラバナ​​揀甚​ニヲ​コウタウ​​句當​​ウチ​​裏​​ジユンシユ​​遵守​​セイダウ​​正道​​オコナヒシ​​行來​​ガ​​的​​ユヱニ​​上頭​​スネン​​數年​​ノ​​之​​アヒダ​​間​​ヒヤクセイ​​百姓​​エタリ​​得​​ヤスンズルヲ​​安​​ゲウ​​業​​ニ​​在​​ノチ​​後​​オルヂエイト​​完澤​​クワウテイ​​篤皇帝​​シメ​​敎​​ワレ​​我​​ケイシヨウ​​繼承​​セキジ​​位次​​ダイオルド​​大斡耳朶​​ウチ​​裏​​ヰフシタリキ​​委付了來​​ヰフシタルノ​​委付了的​​ダイエイバン​​大營盤​​カンシユ​​看守​​シテ​​著︀​​タスケタテテリ​​扶立了​​フタリノアニ​​兩箇哥哥​​クルク​​曲律​​クワウテイ​​皇帝​​ブヤント​​普顏篤​​クワウテイ​​皇帝​​ヲヒ​​姪​​シユテ​​碩德​​バラ​​八剌​​クワウテイ​​皇帝​​ワレ​​我​​ルヰテウ​​累朝​​クワウテイ​​皇帝​​モトニ​​根底​​ズ​​不​​ハカラ​​謀​​ヰシ​​異心​​ズ​​不​​ハカラ​​圖​​ヰジ​​位次​​ヨリ​​依​​ホンブン​​本分​​タメ​​與​​コクカ​​國家​​イ​​出​ダシ​キリヨク​​氣力​​オコナヒキ​​行來​​シヨワウ​​諸︀王​​アニ​​哥哥​​キヨウダイラ​​兄弟每​​モロ​聚​​ヒヤクセイラ​​百姓每​​スベテ​​都︀​​リクワイ​​理會​​セルコト​​的​​ナルベシ​​也者︀​​イマ​​今​​ワガ​​我的​​ヲヒ​​姪​​クワウテイ​​皇帝​​ウ​​生​マレ​テン​​天​​タリ​​了​​トテ​​麼道​​イナン​​迤南​​シヨワウ​​諸︀王​​タイシン​​大臣​​イクサノウヘノ​​軍上的​​シヨワウ​​諸︀王​​フバ​​駙馬​​シンレウ​​臣僚​​タタ​​達達​​ヒヤクセイラ​​百姓每​​シウジン​​眾人​​シヤウリヤウ​​商量​​シテ​​著︀​,「​タイヰジ​​大位次​​スベカ​​不​​ヒサシク​​久​​ムナシクス​​虛​​タヾ​​惟​​ワレ​​我​​ナレバ​​是​​セツエン​​薛禪​​クワウテイ​​皇帝​​チヤクハ​​嫡派​​ユウソウ​​裕宗​​クワウテイ​​皇帝​​チヤウソン​​長孫​​タイヰジ​​大位次​​ウチ​​裏​ベキ​スワル​​坐地​​ノ​​的​​タイレイ​​體例​​アリ​​有​​ソノホカ​​其餘​​アラソ​​爭​​タツヲ​​立​​ベキ​​的​​アニ​​哥哥​​キヤウダイ​​兄弟​​ナシアルコト​​無有​​コノタビ​​這般​​アンカ​​晏駕​セル​ソノホド​​其間​​オヨビテ​​比及​​セイジ​​整治​​ヨリ​​以​​コノカタ​​來​​ジンシン​​人心​​ガタケレバ​​難​​ハカリ​​測​​ベシト​​宜​​アンブ​​安撫​​ヒヤクセイ​​百姓​​シメ​​使​​テンカ​​天下​​ジンシン​​人心​​エヤスキヲ​​得寧​​ハヤクツキテ​​早就​​コヽニ​​這裏​​ツ​​卽​​クラヰ​​位​​テイセツ​​提說​セル​ユエニ​​上頭​​シタガ​​從​ヒテ著︀​シウジン​​衆人​​ノ​​的​​ココロ​​心​​クグワツ​​九月​​ヨカ​​四日​​ニテ​​於​​チンギス​​成吉思​​クワウテイ​​皇帝​​ノ​​的​​ダイオルド​​大斡耳朶​​ウチ​​裏​​タイヰジ​​大位次​​ウチ​​裏​​スワリヌ​​坐了​也。​コモ​交​​シウ​​衆​​ヒヤクセイラ​​百姓每​​コヽロ​​心​​ヤスンゼン​​安​​ガ​​的​​タメニ​​上頭​​シヤシヨ​​赦書​​オコナヘリ​​行有​」。かくてその月辛丑、​ダウラシヤ​​倒剌沙​の兄​マミウシヤ​​馬某沙​を知樞憲院事とし、十月逆賊​エツセンテムル​​也先鐵木兒​等を行在所に誅し、右丞相​フマイケ​​旭邁傑​御史大夫​ニウヂエ​​紐澤​を遺して逆賊​テシ​​鐵失​を大都︀に誅し、江淛行省の平章政事​ウバドラ​​兀伯都︀剌​を中書平章政事とし、十一月、車駕大都︀に至り、十二月、諸︀王​アンチブハ​​按梯不花​を海︀南に流し、​ダウラシヤ​​倒剌沙​を中書左丞相とせり。泰定元年四月、嶺北行省の左丞​ボビ​​潑皮​を中書左丞とし、二年二月、右丞とし、十一月​ダウラシヤ​​倒剌沙​を錄軍國重事とせり。致和元年七月庚午、帝上都︀に崩じ、九月、​ダウラシヤ​​倒剌沙​、皇太子​アスギバ​​阿速吉八​を立てて、天順と改元せり。

 明宗紀に「泰定皇帝崩于上都︀。​ダウラシヤ​​倒剌沙​專權自用、踰月不立君、朝野疑懼。時僉樞密院事​エンテムル​​燕鐵木兒​、留守京師遂謀擧義」と云ひ、​エンテムル​​燕鐵木兒​の傳には「丞相​ダウラシヤ​​倒剌沙​專政、利於立幼」とあり。考異にそれを駁して「泰定踐祚之日、儲位早定、朝野本無異議也」とて​ダウラシヤ​​倒剌沙​の「踰月不立君」を實錄の誣詞とせり。委しくは、下の〇〇〇頁に引けり。かくて八月甲午、​エンテムル​​燕鐡木兒​は、百官を興聖宮に集め、兵を以て脅して、武宗の子を立てんことを誓ひ、手づから平章​ウバドラ​​烏伯都︀剌​​バヤンチヤル​​伯顏察兒​を縛り、武宗の次子懷王​トテムル​​圖帖睦爾​(文宗)を江陵より迎へんが爲に使を遣しき。九月辛未、​ウバドラ​​烏伯都︀剌​を殺︀し、​バヤンチヤル​​伯顏察兒​を流して、その家を籍し、壬申、文宗位に卽き天曆と改元せり。この時天順帝已に上都︀に卽位し、大兵を遣して大都︀の叛者︀を征したるに、​エンテムル​​燕鐵木兒​自ら出でて禦ぎ戰ひ、劇戰數回の後、北軍遂に敗れ、十月辛丑、​ダウラシヤ​​倒剌沙​等、皇帝の寶を奉じて出で降り、天順帝はいかになれるか、元史に記せず。已酉、​ウバドラ​​烏伯都︀剌​の家貲を追理し、庚戌、​ダウラシヤ​​倒剌沙​を獄に下し、十一月庚申、​ダウラシヤ​​倒剌沙​​マミウシヤ​​馬某沙​​ボビ​​潑皮​​ムバラシヤ​​木八剌沙​等の家貲を追理し、癸未、​ダウラシヤ​​倒剌沙​​マミウシヤ​​馬某沙​等を殺︀しき。


24。氏族表に引ける​フイフイ​​回回​人。

 氏族表は、諸︀書を引きて、これらの外にあまたの​フイフイ​​回回​人を載せたり。元統己酉進士錄に見えたる​ムグビリ​​穆古必立​​ラマダン​​剌馬丹​は、皆​フイフイ​​回回​氏、​トイン​​脫穎​​ムスルマン​​木速魯蠻​氏にて、いづれもその父祖︀三代の名を列記せり。​ムスルマン​​木速魯蠻​は、卽​ムスルマン​​木速兒蠻​にて、​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒と云ふに同じ。又進士錄に、​アドラ​​阿都︀剌​​フイフイ​​回回​​シマリ​​昔馬里​の人とありと云へり。​シマリ​​昔馬里​は考へ得ず。祕書志には、至元六年の祕書卿​フイフイ​​回回​​ムバラギ​​木八剌吉​、大德十一年祕書少監となれる​ムスマン​​木速蠻​​ムスルマン​​木速兒蠻​)の​ツエヘルヂ​​節︀歇兒的​あり。歐陽玄の集には​タージ​​大食​國の人​エクデル​​也黑迭兒​あり、​チヤデル​​茶迭兒​局諸︀色人匠總管府の​ダルハチ​​達魯花赤​となり、その子​マハマシヤ​​馬合馬沙​その職を襲ぎ、​マハマシヤ​​馬合馬沙​の子四人​ミルシヤ​​密兒沙​​ムバラシヤ​​木八剌沙​​フドルシヤ​​忽都︀魯沙​​アルフンシヤ​​阿魯渾沙​​ミルシヤ​​密兒沙​の子​ウマル​​烏馬兒​​アルフンシヤ​​阿魯渾沙​の子​メリシヤ​​蔑里沙​あり。同じ集に見えたる燕京の大斷事官​ウテン​​于闐​の人​ヤラワシ​​雅老瓦實​、朱德潤の集に見えたる​ウテン​​于闐​の人[467]にて​ブハラ​​不花剌​氏なる​マハマ​​馬合馬​、進士錄なる​フイフイ​​回回​​ウテン​​于闐​の人​ハバシ​​哈八石​​フイフイ​​回回​​アリマリ​​阿里馬里​の人​ウマル​​烏馬兒​の如きは、いづれも​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒なれども、蔥嶺以東の人なり。危素の集なる​エルトフリン​​耶爾脫忽璘​​フイフグスル​​回紇古速魯​氏は、いづこの人なるか確ならず。進士錄なる​ベロシヤ​​別羅沙​は、西域​ベシバリ​​別失八里​の人にて、「其母​フイフイ​​回回​氏、妻​ダシマン​​荅失蠻​氏、當亦​フイフイ​​回回​也」。​ベロシヤ​​別羅沙​の曾祖︀​ムバラ​​木八剌​、祖︀​ベルシヤ​​別魯沙​、父​シエンスヂン​​苫思丁​、兄​メリキシヤ​​默理契沙​、皆​フイフイ​​回回​の名に似たり。


七。​カングリ​​康里​


1。​アイマウバード​​艾貌拔都︀​

 列傳卷十「​アイマウバード​​艾貌拔都︀​​カングリ​​康里​氏。初從​セブタイノエン​​雪不台那演​、征​キムチヤ​​欽察​、攻河西城、收西關、破河南、繼從定宗、略地​アヌ​​阿奴​、皆有功、又從四太子南伐、命充​ケレンク​​怯憐口​​アダチボコスン​​阿荅赤孛可孫​」。雪不台那演は、卽速不台那顏なり。阿奴は、人の名にして、地の名に非ず、金の威平路の宣撫使蒲鮮萬奴にして、太祖︀十年遼東に據り天王と稱し、十一年蒙古に降りて復叛きたる人なり。親征錄辛未(太祖︀六年)南征の條に野狐嶺の敵將を招討九斤監軍爲奴と書けるを、續綱目には完顏九斤完顏萬奴とあり。李文田曰く「爲奴、當作萬奴、卽元史太祖︀紀蒲鮮萬奴也」。喇失惕の史に洼奴とあるは、卽萬奴にして、又こゝの阿奴とも音近し。又親征錄甲戌(太祖︀九年)金主南遷の條に「以招討也奴爲咸平路宣撫」とあるを、沈曾植は「當作也奴、卽萬奴也」と云へり。「從定宗、略地阿奴」は、太宗五年の秋、皇子貴由(定宗)、諸︀王按赤帶等の、萬奴を征したる時、艾貌も從へるなり。「從四太子南伐」は、太宗三年、皇弟拖雷(四太子)、陜西に入り、金房より漢︀江を渡り、四年正月禹山三峯山の戰ありし時、愛貌〈[#「愛貌」はママ]〉も從へるなり。然らば南伐は前にあり、東征は後にあるを、この傳は次序を顚倒せり。次に「又從兵、渡江攻鄂、以疾卒于軍」と云へるは、憲宗九年皇弟忽必烈南伐の時の事なり。その子也速台兒は、世祖︀に事へて、屢軍に從ひ、「以功升武略將軍千戶、賜金符。又招手號新軍二千五百餘人、升宣武將軍總管、賜虎符。有旨征日本、​エスタイル​​也速台兒​願效力、賜以弓矢、進懷遠大將軍萬戶、至元二十年、授泰州萬戶府​ダルハチ​​達魯花赤​。二十三年、遷昭勇大將軍​キムチヤ​​欽察​親軍都︀指揮使」。

 この​エスタイル​​也速台兒​は、列傳卷二十に別に傳ありて、「​エスダル​​也速䚟兒​​カングリ​​康里​人。父​アイババヤウ​​愛伯伯牙兀​、太祖︀時率衆來歸」と云へり。​アイバ​​愛伯​は、卽​アイマウ​​艾貌​​バヤウ​​伯牙兀​は、​アイバ​​愛伯​の姓なり。​アイマウ​​艾貌​の傳に​カングリ​​康里​氏とあるは、正しくは​カングリ​​康里​​バヤウ​​伯牙兀​氏と云ふべきなり。​ブレトシユナイデル​​卜咧惕施乃迭兒​曰く「​バヤウ​​伯牙兀​は、蓋​バヤウト​​巴牙兀惕​なり。​バヤウト​​巴牙兀惕​は、​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒の記者︀に據れば(多遜一、一九七)、​コラズム​​闊喇自姆​​シヤーモハメト​​沙抹哈篾惕​の母​トルカンカトン​​突︀兒罕合屯​の屬する​カンクリ​​康克里​の一部族の名なりき。​モンゴル​​蒙果勒​の始めて​コラズム​​闊喇自姆​を攻めし時、その國に​カンクリ​​康克里​人あまた居たりき」。この​バヤウト​​巴牙兀惕​は、實錄卷一、九頁に見えたる蒙古の​バヤウダイ​​巴牙兀歹​、輟耕錄蒙古七十二種の內なる​バヤウダイ​​伯要歹​とは全く異なり。次に「初以五十戶從軍、力戰而死」とあるは、​アイマウ​​艾貌​の傳なる「從兵、渡江攻鄂、以疾卒于軍」を云へるなり。

 ​エスダイル​​也速䚟兒​は、父の官を襲ぎ、丞相​バヤン​​伯顏​に從ひ南伐し、「世祖︀賜金符、加爲千戶、督五路招討、至元十六年、改金虎符管軍總管。江南平、錄功、進懷遠大將軍管軍萬戶、領江淮戰艦數百艘、東征日本、全軍而還。有旨、特賜養老一百戶、衣服弓矢鞍轡有加。二十二年、移鎭秦州。時籍民丁爲兵、得萬人、以​エスダイル​​也速䚟兒​​キムチヤ​​欽察​親軍指揮使統之」とあり。​アイマウ​​艾貌​の傳なる​エスダイル​​也速台見​といかに似たるかを見よ。

 すべて元史には、叙事の重複夥しき上に、一人の傳を重複して二所に書きたるもの往往有り。顧炎武曰く「元史列傳八卷​スブタイ​​速不台​、九卷​セブタイ​​雪不台​、一人作兩傳。十八卷​モンヂエイト​​完者︀都︀​、十九卷​オンヂエイバード​​完者︀拔都︀​、亦是一人作兩傳。蓋其成書不出于一人之手」。錢大昕曰く「​セブタイ​​雪不台​、卽​スブタイ​​速不台​、譯音無定字也。朱錫鬯云「元史旣有​スブタイ​​速不台​矣、而又別出​セブタイ​​雪不台​。旣有​オンヂエイト​​完者︀都︀​矣、而又別出​オンヂエイバード​​完者︀拔都︀​。旣有​シモエツセン​​石抹也先​矣、而又別出​シモアシン​​石抹阿辛​。以及​アタチユフラチユ​​阿塔出忽剌出​兩人、[468]旣附書于​ハンフスチトル​​杭忽思直脫兒​之傳矣、而又爲立傳。至於作佛事、則本紀必書、游皇城、入之禮樂志、(原注。當云祭祀志、朱誤記。)皆乖謬之甚者︀」。予按、元史列傳之重複者︀、如第十卷​エブガンブ​​也蒲甘卜​傳、附見其子​アンギル​​昂吉兒​、而第十九卷、又有​アンギル​​昂吉兒​傳、第十卷​タブギル​​塔不己兒​傳、附見其孫​チユンヒ​​重喜​、而第二十卷、又有​チユンヒ​​重喜​傳、第十卷、已有​アチユル​​阿朮魯​傳而第十八卷​ホワイド​​懷都︀​傳、又附書​アチユル​​阿朮魯​事、第五十四卷譚資榮傳、附見其子澄、而第七十八卷良吏傳、又有譚澄、皆朱氏所未及糾也」。錢氏は、洵に善く取調べたれども、​アイマウバード​​艾貌拔都︀​の傳にその子​エスタイル​​也速台兒​の事を附記しながら、重ねて​エスダイル​​也速䚟兒​の傳を立てたる車に心附かざりしは、二傳互に詳略あり錯誤ありて、異なる人の如くも見ゆるが爲なるべし。

 次に擧ぐる​カングリ​​康里​人は、國初の功臣に非ざれども、前の​フイフイ​​回回​人の如く、支那の朝廷に例なき遠人の集合を示

さんが爲に列記するなり。


2。​ブフム​​不忽木​

 列傳卷十七「​ブクム​​不忽木​、一名時用、字用臣、世爲​カングリ​​康里​部大人。​カングリ​​康里​、卽漢︀高車國也」。高車は、康居の誤なり。高車は、魏書に見え、漢︀の世には聞えず。又高車は、​カレ​​鐵勒​の同種にして、​カングリ​​康里​とは異なり。「祖︀​ハイロンバ​​海︀藍伯​、嘗事​ケレイワンカガン​​克烈王可汗​​ワンカガン​​王可汗​滅、卽棄家、從數十騎、望西北馳去。太祖︀遣使招之。荅曰「昔與帝同事​ワンカガン​​王可汗​。今​ワンカガン​​王可汗​旣亡、不忍改所事」遂去、莫知所之。子十人、皆太祖︀所虜︀。​エンヂン​​燕眞​最幼、年方六歲、太祖︀以賜莊聖皇后(​トルイ​​拖雷​の妃)。后憐而育之、遣侍世祖︀於藩邸。長從征伐有功。云云、官止衞率」。その仲子​ブクム​​不忽木​は、「資廪英特、進止詳雅。世祖︀奇之、命給事裕宗東宮、師事太子贊書王恂。恂從北征、乃受學於國子祭酒許衡、日記數千言。衡毎稱之、以爲有公輔器︀」。その學成りて官に就くに及びて、純然たる儒生なりき。至元十四年、利用少監、十五年、燕南河北道の提刑按察副使、十九年、提刑按察使、二十一年、參議中書省事、二十三年、刑部尙書二十七年、翰林學士承旨、二十八年、中書平章政事。三十年「帝大漸、與御史大夫​ユルノヤン​​月魯那顏​​ハラハスン​​哈剌哈孫​)、太傅伯顏並受遺詔、留禁中」。元貞二年、昭文館︀大學士平章軍國事、大德四年卒しき。長子​フイフイ​​回回​は、陝西行省の平章政事。その事蹟は、列傳卷三十弟巙巙の傳に附記せり。巙巙も、儒臣にして、至正四年江浙行省の平章政事、五年翰林學士承旨。又​ハイロンバ​​海︀藍伯​の裔に太子の司經​バイヂユ​​拜住​なる人あり、明の兵京師に入りたる時、井に入りて自殺︀せり。その事は、列傳卷八十三忠義四閔本の傳に附記せり。


3。​トブル​​禿忽魯​

 列傳卷二十一「​トブル​​禿忽魯​、字親臣、​カングリイナ​​康里亦納​之孫、​アリダシ​​亞禮達石​第九子也」。​イナ​​亦納​は、何人なるか、知らず。​キムチヤ​​欽察​部主​イナス​​亦納思​に似たれども、部の名異なり。​トブル​​禿忽魯​は、​ブクム​​不忽木​と同じく許衡に學び、世祖︀嘗て康秀才と呼べり。至元の末、湖廣行省の右丞、成宗の時、江浙行省の右丞。


4。​オロス​​斡羅思​

 列傳卷二十一「​オロス​​斡羅思​​カングリ​​康里​氏。曾祖︀​ハシバヤウ​​哈失伯要​、國初款附、爲莊聖太后宮牧官」。​ハシバヤウ​​哈失伯要​は、名は​ハシ​​哈失​、姓は​バヤウ​​巴牙兀​にて、​アイベバヤウ​​愛伯伯牙兀​と同姓なり。「祖︀​ハイド​​海︀都︀​、從憲宗、征釣魚山、歿于陣。父​ミンリテムル​​明里帖木兒​、世祖︀時爲​ビヂエチ​​必闍赤​、後爲太府少監」。​オロス​​斡羅思​は、至元二十九年、八番順元等處の宣慰使都︀元帥、大德六年、​ロロス​​羅羅思​の宣慰使兼管軍萬戶、武宗の時、四川行省の平章政事。その子​キントン​​慶童​は、列傳卷二十九に傳あり、仁宗の時より朝に仕へ、至正十年、江浙行省の平章政事、二十五年、陝西行省の左丞相、二十八年中書左丞相、京城破れたる時殺︀されき。


5。​タリチ​​塔里赤​

 列傳卷二十二「​タリチ​​塔里赤​​カングリ​​康里​人。其父​エリリベ​​也里里白​、太祖︀時、以武功授帳前總校」。​タリチ​​塔里赤​は、世祖︀の時、蒙古[469]軍を率ゐ、南征して功あり、測東道の實慰使に終れり。


6。​ミンガン​​明安​

 列傳卷二十二「​ミンガン​​明安​​カングリ​​康里​氏。至元十三年、世祖︀詔、民之蕩析離居、及僧︀道漏籍、諸︀色人不當差徭者︀萬餘人、充​グイチ​​貴赤​、令​ミンガン​​明安​領之」。​グイチ​​貴赤​は、走る人なり。語解に、​グイチ​​桂齊​と改めて、「​ヨクハシル​​善跑​人也」と注せり。日本語にて​アシガルグミ​​足輕組​と云ふが如し。「二十年、授定遠大將軍中衞親軍都︀指揮使。明年、賜佩虎符、領​グイチ​​貴赤​軍北征。又明年立​グイチ​​貴赤​親軍都︀指揮使司、命爲本衞​ダルハチ​​達魯花赤​。尋奉旨領蒙古軍八千北征」。二十年の「又明年」は、二十二年なり。然るに元史八六百官志二樞密院の所管に「​グイチ​​貴赤​衞親軍都︀指揮使司。至元二十四年立、置都︀指揮使二員、副都︀指揮使二員。二十九年、置​ダルハチ​​達魯花赤​一員」とあれば、「又明年」は、二十四年の誤なるべし。その年は、未​ダルハチ​​達魯花赤​を置かれざれば、本衞​ダルハチ​​達魯花赤​は、何かの誤なるべし。​ミンガン​​明安​は、それより​ハイド​​海︀都︀​等諸︀叛王の軍と屢戰ひ、「二十九年、以功陛定遠大將軍​グイチ​​貴赤​親軍都︀指揮使司​ダルハチ​​達魯花赤​」とあるは、百官志の語と合へり。その後「大德二年、復將兵北征、與​ハイド​​海︀都︀​戰、七年歿于軍」。その子​テゲタイ​​帖哥台​、弟​トドチユ​​脫迭出​​テゲタイ​​帖哥台​の子​ブヤンフリ​​普顏忽里​、皆​グイチ​​貴赤​親軍都︀指揮使司の​ダルハチ​​達魯花赤​​テゲタイ​​帖哥台​、(後に)、​テゲタイ​​帖哥台​の弟​ボランヒボ​​李蘭奚字​​ランヒ​​蘭奚​の子​サングスン​​桑兀孫​​キダハイ​​乞荅海︀​二人、皆中衞親軍都︀指揮使。


7。​アシヤブハ​​阿沙不花​

 列傳卷二十三、​アシヤブハ​​阿沙不花​の傳に曰く「​アシヤブハ​​阿沙不花​者︀、​カングリ​​康里​國王族也。初太祖︀拔​カングリ​​康里​時、其祖︀母​シエンメグマリ​​苫滅古麻里​氏新寡、有二子曰​クル​​曲律​​ヤヤ​​牙牙​、皆幼。而國亂家破、無所依。欲去而歸朝廷、念無以自達。一夕有數駝、皆重負、突︀入營中、驅之不去。且乃繫駝營外、置所負其旁、夜復納營中、候有求者︀歸之。如是十餘日、終無求者︀。乃發視︀其裝、皆西域重寶。驚曰「殆天欲資我而東耶。不然、此豈吾所宜有」。遂驅馳、載二子、越數國、至京師時太祖︀已崩、太宗立、盡獻其所有。帝深異之、命有司治邸舍、具廩餼、以居焉」。洪鈞の​カングリ​​康里​補傳に曰く「太祖︀十六年辛巳〈[#「巳」は底本では「已」]〉、以西域不日底定、命哲別・速不台、北征奇卜察克。旣殘其聚、復敗俄羅斯軍。十九年、東入​カングリ​​康里​、乘勝席捲、前無堅城、遂躪其部」と云ひて、自注に「西書記征​カングリ​​康里​、不詳。元史​スブタイ​​速不台​傳「​メリキ​​蔑里乞​部主​ホド​​霍都︀​​キムチヤ​​欽察​​スブタイ​​速不台​追之、與​キムチヤ​​欽察​戰於玉峪敗之」。​カングリ​​康里​在東、​キムチヤ​​欽察​在西。如往​キムチヤ​​欽察​、必經​カングリ​​康里​。則當帝征西域之前、已臨其境。然​アシヤブハ​​阿沙不花​傳云「云云、至京師、時太祖︀已崩」。據此、則​カングリ​​康里​之拔、必在太祖︀季年。其爲​ヂエス​​哲速​二將北征之役、更無疑義。而速不台在太祖︀朝、僅一至欽察、傳乃誤爲兩役、亦可取以爲證」と云へり。かの寡婦は、「居二年、聞國中已定、謁︀帝欲歸。帝曰「汝昔何爲而來、今何爲而去」。且問其所欲。對曰「臣妾昔以國亂無主、遠歸陛下。今賴陛下威德、聞國已定、欲歸守墳墓耳。妾惟二子、雖愚無知、願留事陛下」。帝大喜、立召二子入宿衞、而禮遣之。後十三年復來、則二子已從憲宗伐蜀矣。逮至和寧、聞憲宗崩、諸︀將皆還、而二子獨後、心方以爲憂。過一古廟、因入禱焉。若聞神︀語、連稱好好、而不知其故。問其國人通漢︀語者︀、知爲古語、還至舍、則二子已至矣。遂留居焉。​クル​​曲律​無子。​ヤヤ​​牙牙​後[追]封​カウコクワウ​​康國王​、生六子、​アシヤブハ​​阿沙不花​最賢、年十四入侍世祖︀云云」。世祖︀の時、千戶を以て​シバウチ​​昔寶赤​を領し、成宗の時、大宗正​ヂヤルホチ​​札魯火赤​、武宗の時、中書平章政事錄軍國重事康國公知樞密院事。子​バギヤヌ​​伯嘉訥​は、翰林侍讀學士。氏族表に據れば、​アシヤブハ​​阿沙不花​の兄四人、​ボベシエル​​孛別舍兒​ ​ホヂエギ​​和者︀吉​ ​ブベ​​不別​ ​オトマン​​斡禿蠻​​ホヂエギ​​和者︀吉​の子四人、​エンブレン​​燕不憐​は、遼陽行省の平章政事太保興國公。​エンバスチ​​燕八思提​は、大司農​ベブハ​​別不花​は、嶺北行省の平章政事。​バサリ​​伯撒里​は、太師中書右丞相永平王。​バギヤヌ​​伯嘉訥​の兄​ハイイル​​海︀亦兒​は、順寧府の​ダルハチ​​達魯花赤​​アシヤブハ​​阿沙不花​の弟​トト​​脫脫​は、別に傳あり。


8。​トト​​脫脫​

 列傳卷二十五に曰く、「​カングリトト​​康里脫脫​、父曰​ヤヤ​​牙牙​、由康國王封雲中王。​アシヤブハ​​阿沙不花​之弟也。​トト​​脫脫​姿貌魁梧。少時從[470]其兄​オトマン​​斡禿蠻​、獵於燕南、​オトマン​​斡禿蠻​使歸獻所獲。世祖︀見其骨氣沈雄、步履莊重、歎曰「後日大用之才、已生於今」。卽命入宿衞」。丞相​バヤン​​伯顏​も見て驚き、「吾老矣。他日可大用者︀、未見汝比」と云ひしが、後果して賢相となれり。「大德三年、武宗以皇子撫軍北部、​トト​​脫脫​從行。五年、叛王​ハイド​​海︀都︀​犯邊、​トト​​脫脫​從武宗討之。進擊​ハイド​​海︀都︀​、大破其眾。云云。兵之始交也、武宗銳欲出戰。​トト​​脫脫​執輿力諫。武宗怒、揮鞭扶其手、不退、乃止。已而武宗與大將​ドルダハ​​朶兒荅哈​語及之。​ドルダハ​​朶兒荅哈​曰「太子在軍中、如身有首、如衣有領。脫有不虞、衆安所附。​トト​​脫脫​之諫可謂忠矣」。武宗深然之」。​ドルダハ​​朶兒哈荅​は、世祖︀紀に​ドルドハイ​​朶兒朶海︀​​ヤフド​​牙忽都︀​の傳に​ドルトハ​​朶兒朶哈​​トトハユワシ​​土土哈玉哇失​の傳に​ドルドハイ​​朶兒朶懷​とあり。「身有首、衣有領」は、蒙古の俗語「​ベエテリウト​​別耶帖哩兀禿​​デエルイヂヤハト​​迭額勒札哈禿​」の直譯なり。至大元年、中書左丞相、仁宗の時、江浙行省の左丞相、英宗の時、御史大夫、泰定四年薨じき。「子九人、其最顯者︀二人、曰​テムルタシ​​鐵木兒塔識​、曰​タシテムル​​達識帖睦邇​、各有傳」。(列傳卷二十七)。​テムルタシ​​鐵木兒塔識​は、至正元年、中書平章政事、七年左丞相。​タシテムル​​達識帖睦邇​は、至正十五年、中書平章政事、江浙行省の左丞相。


9。​ハマ​​哈麻​​セセ​​雪雪​等。

 列傳卷九十二姦臣傳にも、​カングリ​​康里​の兄弟あり。「​ハマ​​哈麻​、字士廉、​カングリ​​康里​人。父​トル​​禿魯​。母爲寧宗乳母。​トル​​禿魯​以故封冀國公、加太尉、階金紫光祿大夫。​ハマ​​哈麻​與其弟​セセ​​雪雪​、早備宿衞、順帝深眷寵之。而​ハマ​​哈麻​有口才、尤爲帝所褻幸、累遷官爲殿中侍御史。​セセ​​雪雪​累官集賢學士」。至正十四年、​ハマ​​哈麻​は中書平章政事となり、丞相​トト​​脫脫​​トト​​脫脫​の弟御史大夫​エセンテムル​​也先帖木兒​とを讒害し、「十五年四月、​セセ​​雪雪​由知樞密院事、拜御史大夫。五月、​ハマ​​哈麻​遂拜中書左丞相。國家大柄、盡歸其兄弟二人矣」。十六年、​ハマ​​哈麻​不軌を謀れるを、その妹壻​トルテムル​​禿魯帖木兒​に帝に吿げられ、「遂詔​ハマ​​哈麻​於惠州安置、​セセ​​雪雪​於肇州安置、比行俱杖死、仍籍其家財」。

 氏族表に曰く「​カングリ​​康里​人見於史者︀、又有​チンチユ​​定柱​、至正中中書右丞相。見於祕書志者︀、有​ギヤウハヂ​​敎化的​、至順二年祕書少監、​キダサリ​​乞荅撒里​、元統元年祕書省丞」。


八。​キムチヤ​​欽察​​キブチヤウト​​乞卜察兀惕​


1。​シエンチエバードル​​苫徹拔都︀兒​

 列傳卷十「​シエンチエバードル​​苫徹拔都︀兒​​キムチヤ​​欽察​〈[#ルビの「キムチヤ」は底本では「キマチヤ」。直前のルビに倣い修正]〉人。初事太宗、堂牧馬、從攻鳳翔、戰潼關皆有功」。その後汴京を攻め、蔡州を攻むるに皆從ひ、定宗憲宗の世を歷て、至元十四年まで、從軍殆ど虛歲なく、滁州路總管府の​ダルハチ​​達魯花赤​となれり。子​トホン​​脫歡​は、滁州萬戶府の​ダルハチ​​達魯花赤​​トホン​​脫歡​の子​マウ​​麻兀​は、祖︀の職を襲ぎ、次子​ソーヂユ​​鎖住​は、父の職を襲げり。

 ​キムチヤ​​欽察​人にて太宗に事へ、元史に傳あるものは、​シエンチエバードル​​苫徹拔都︀兒​のみなれども、憲宗以後の朝に事へて名を顯せるもの多きことは、​カングリ​​康里​人に遜らず。


2。​トトハ​​土土哈​

 列傳卷十五、​キムチヤ​​欽察​​トトハ​​土土哈​の傳は、虞集の​コウヨウ​​句容​郡王世績碑(元文類︀卷二十六)に依り、やや增損改修したるものなり。碑に曰く「​キムチヤ​​欽察​之先、武平北​ヂエレン​​折連​​アンダハン​​按答罕​山部族也。後遷西北、卽​ユリベリ​​玉黎北里​之山居焉。土風剛悍、其人勇而善戰。自​キユネン​​曲年​者︀、乃號其國人曰​キムチヤ​​欽察​、爲之主面統之」。この文に怪むべき所あり。武平は、金志地理志北京路大定府の屬縣、元史地理志遼陽行省大寧路の屬縣にして、今の直隷承德府の境內に在り、文宗紀に至順元年、​トトハ​​土土哈​の親族なる​ブハテムル​​不花帖木兒​を武平郡王に封じたることも見えて、支那の內地なること明かなり。​ヂエレン​​折連​川は、兵志三馬政の篇太僕寺の牧地十四處を列記したる第一に東路​ヂエレンケエル​​折連怯呆兒​等處と見え、碑に武平の北と云へば、武平より上都︀に赴く間に在るべし。​ユリベリ​​玉黎北里​の山は、兵志牧地の第二に​ユルベヤ​​玉你伯牙​〈[#ルビの「ユルベヤ」は底本では「エルベヤ」。他の「玉」ルビに倣い修正]〉上都︀周圍と見え、​ヂエレンケエル​​折連怯呆兒​等處の管內にも​ユルベヤ​​玉你伯牙​斷頭山と見えたれば、​ユリベリ​​玉黎北里​​リ​​里​​ヤ​​野​の誤りにて、この山も上都︀[471](今の​ドロンノール​​多倫諾爾​)の邊にて、​ヂエレン​​折連​川よりさほど遠からざる所にあるべし。​タイブハ​​泰不花​の傳に「世居​ベヤ​​白野​山」とある​ベヤ​​白野​は、​ユル​​玉你​を略きたるならん。然らばこの移住は、​キムチヤ​​欽察​の祖︀先の事に非ずして、​トトハ​​土土哈​の父祖︀の蒙古に歸してより、武平上都︀の閒にて移住したるを、かくは誤り書けるならん。元史列傳にも、これに似たる誤りあり。列傳卷十に「​チヤウル​​抄兒​​ベス​​別速​氏、世居汴梁陽武縣、從太祖︀、收附諸︀國、有功、」卷二十に「​オンヂエイバード​​完者︀拔都︀​​キムチヤ​​欽察​氏、其先彰德人」「​ケレイ​​怯烈​、西域人、世居太原、云云」と云へるが如き、その類︀なり。​トトハ​​土土哈​の傳は、​キユネン​​曲年​を蒙古人の如く​クチユ​​曲出​と誤り、「後遷」以下の十三字を「自​クチユ​​曲出​、徙居西北​ユリベリ​​玉里伯里​山、因以爲氏」と改めて、​トトハ​​土土哈​​ユリベリ​​玉里伯里​氏となせり。されども​トトハ​​土土哈​は、​キムチヤ​​欽察​と云ふより外に、姓なきものと見えて、​トトハ​​土土哈​の孫​エンテムル​​燕鐵木兒​の傳にも​エンテムル​​燕鐵木兒​の女なる順帝の​ダナシリ​​荅納失里​皇后の傳にも​キムチヤ​​欽察​氏とのみあり、元統二年立后の册文にも「咨爾皇后​キムチヤ​​欽察​氏」とあれば、​ユリベリ​​玉里伯里​氏の說、信ずべからず。

 然れども​エンテムル​​燕鐵木兒​の傳に「立​エンテムル​​燕鐵木兒​​バヤウ​​伯牙吾​氏爲皇后」、​メルキト​​篾兒乞惕​​バヤン​​伯顏​の傳にも皇后​バヤウ​​伯牙吾​氏、順帝紀立后の所にも幽廢の所にも、​バヤウ​​伯牙吾​氏とありて、后妃傳と異なり。先祖︀代代​キムチヤ​​欽察​氏にて、一女のみ他の姓を稱する理なければ、​キムチヤ​​欽察​氏は、蓋​ユルベヤ​​玉你伯牙​山卽​ベヤ​​白野​山に徙りてより、山の名の​ベヤ​​伯牙​​バヤ​​伯牙​を取りて​バヤウ​​伯牙吾​氏となれるなり。傳の「因以爲氏」は、「因以​バヤウ​​伯牙吾​爲氏」と云はざれば、意通ぜず。元の時​バヤウ​​伯牙吾​氏三宗あり。第一は蒙古の​バヤウト​​巴牙兀惕​氏、實錄第九頁に見えたる​マアリクバヤウダイ​​馬阿里黑伯牙兀歹​の子孫、輟耕錄蒙古七十二種の​バヤウダイ​​伯要歹​にして后妃表成宗の后に「​ブルハン​​卜魯罕​皇后​バヤウ​​伯岳吾​氏、勳臣​ブハ​​普化​之孫駙馬​トリフス​​脫里忽思​(后妃傳に​トリス​​脫里思​)之女」とあるは、蒙古の​バヤウト​​巴牙兀惕​なり。​ブハ​​普化​は、卽​ブカ​​不合​にして、蒙古人に多くある名なり。功臣の第八十一なる​ブカ​​不合​駙馬(實錄三二五)​ヂユチ​​拙赤​の北征に嚮導したる​ブカ​​不合​(實錄三九八)を、前に​ムカリ​​木合黎​の弟なる​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ブカ​​不合​なりと注したれども、この勳臣​ブハ​​普化​なるかも知れず。

 第二の​バヤウ​​伯牙吾​氏は、​ラシツト​​喇失惕​の史に見えたる​カングリ​​康里​​バヤウト​​巴牙兀惕​にて、​エスダイル​​也速䚟兒​〈[#ルビの「エスダイル」は底本では「スダイル」。他の「也速䚟兒」のルビに倣い修正]〉の傳の​バヤウ​​伯牙兀​​オロス​​斡羅思​の傳の​バヤウ​​伯要​なり。第三の​バヤウ​​伯牙吾​氏は、卽​キムチヤ​​欽察​​トトハ​​土土哈​の一族なり。列傳卷二十一に「​ホシヤン​​和尙​​ユルベリバヤウタイ​​玉耳別里伯牙吾台​氏。祖︀​ハラチヤル​​哈剌察兒​、率所部歸太祖︀。父​クドス​​忽都︀思​、膂力過人。歲壬辰、從睿宗、破金大將​カダ​​合達​軍于鈞州三峯山、以功賜號​バードル​​拔都︀魯​」とあり。​ユルベリ​​玉耳別里​も、​リ​​里​​ヤ​​野​の誤りにて、卽碑の​ユリベリ​​玉黎北里​、兵志の​ユルベヤ​​玉你伯牙​なれば、その​ユルベヤ​​玉你伯牙​に住みて、山の名を取りて姓としたる故に、​ユルベヤ​​玉你伯牙​​バヤウタイ​​伯牙吾台​と稱したるなり。列傳卷三十に「​タイブハ​​泰不花​、字兼善、​バヤウタイ​​伯牙吾台​氏、世居​ベヤ​​白野​山。父​タブタイ​​塔不台​、入直宿衞、云云」とあるも、​ベヤ​​白野​山卽​バヤ​​巴牙​に居たるが故に​バヤウタイ​​巴牙吾台​と稱したるなり。この二家は、​トトハ​​土土哈​の家と同族なるが如くも聞ゆれども、二傳ともに​キムチヤ​​欽察​人と云はず、又​ハラチヤル​​哈剌察兒​​クドス​​忽都︀思​​タイブハ​​泰不花​​タブタイ​​塔不台​など云ふ名は、いづれも蒙古語にして、又傳の事蹟にも色目らしき所見えざれば、蒙古なるか​キムチヤ​​欽察​なるか定め難し。然るに氏族表​キムチヤ​​欽察​の部に「徙居西北​ユリベリ​​玉里伯里​山」の下に「因所居​バヤウ​​伯牙吾​山爲氏、號其國曰​キムチヤ​​欽察​」と云ひて、​ユリベリ​​玉里伯里​山卽​ユルベリ​​玉耳別里​​バヤウ​​伯牙吾​山卽​ベヤ​​白野​とを別の山とし、二つともに​キムチヤ​​欽察​の山とし、又​ホシヤン​​和尙​​タイブハ​​泰不花​​キムチヤ​​欽察​人と定め、成宗の​ブルハン​​卜魯罕​皇后までも​キムチヤ​​欽察​人とし、蒙古に​バヤウト​​巴牙兀惕​氏あることを云はざるは、大に誤れり。

 碑の「土風」以下十字の代りに、傳は「其國去中國三萬餘里。夏夜極短、日暫沒卽出」と書けり。碑の續きに「​キユネン​​曲年​​ソモナ​​唆末納​​ソモナ​​唆末納​​イヌス​​亦訥思​。太祖︀皇帝征​メキスホト​​蔑乞思火都︀​​ホト​​火都︀​​イヌス​​亦訥思​。遺使諭取之、不從」とあり「太祖︀」以下を傳は「太祖︀征​メリキ​​蔑里乞​、其主​ホト​​火都︀​​キムチヤ​​欽察​​イナス​​亦納思​納之。太祖︀遣使諭之曰「汝奚匿吾負箭之糜。亟以相還。不然禍︀且及汝」。​イナス​​亦納思​答曰「逃鸇之雀、叢薄猶能生之。吾顧不如草木耶」。太祖︀乃命將討之」と改め補へり。​メリキ​​蔑里乞​​ホト​​火都︀​は、卽祕史の​メルキト​​篾兒乞惕​​クト​​忽禿​なり。​クト​​忽禿​は、祕史に據れば、​チユイ​​埀​〈[#「埀」はママ。実録や底本の他箇所では異体字「垂」が使われている]〉河にて​スベエタイ​​速別額台​に追ひ窮められ、​ラシツト​​喇失惕​に據れば、​キプチヤク​​乞魄察克​に奔らんとして蒙古の軍に捕へ殺︀されたりと云へば、​キムチヤ​​欽察​に奔れり[472]と云へるは疑ふべし。殊に鸇と雀と叢との譬は、實錄六三頁なる​ソルガンシラ​​鎖兒罕失喇​の二子の語と全く同じくして、卽蒙古の俚諺なれば、​イナス​​亦納思​の答と云へるものも、蒙古人の作れる談なるべし。次に「及我師西征、​イヌス​​亦訥思​老、不能理其國。歲丁酉(太宗九年)、​イヌス​​亦訥思​之子​フルスマン​​忽魯速蠻​、自歸於太宗。而憲宗受命帥師、已及其國。​フルスマン​​忽魯速蠻​之子​バンドチヤ​​班都︀察​、擧族來歸、從討​メキス​​蔑乞思​有功」。傳に前の​メキス​​蔑乞思​​メリキ​​蔑里乞​と改め、こゝの​メキス​​蔑乞思​​メケス​​麥怯斯​と改めたるは、甚當れり。​メケス​​麥怯斯​は、祕史の​メケト​​蔑客惕​〈[#「蔑客惕」はママ。「元朝秘史」§270(12:16:02)では「篾客惕」。実録では「篾客禿」]〉にして、​メルキト​​蔑兒乞惕​〈[#「蔑兒乞惕」はママ。「元朝秘史」では「篾兒乞惕」]〉とは全く異なるを、碑に同じ文字を用ひたるは非なり。

 次に「世祖︀皇帝、西征大理、南取宋、其種人以强勇見信用、掌芻牧之事、奉​バトウ​​馬湩​​ウマノチ​、以供玉食。馬湩・尙黑者︀。國人謂黑爲​ハラ​​哈剌​、故別號其人曰​ハラチ​​哈剌赤​、日見親近、妻以​ハナ​​哈納​郡王之女弟​ヌルン​​訥論​」。黑き馬乳は、蒙古人の殊に重ずるものなりき。黑韃事略に曰く「馬之初乳、日則聽其駒之食、夜則聚之以​シボル​​泲​(原注、手捻其乳曰泲)。貯以革器︀、傾桐數宿、味微酸、始可飮、謂之​バダイシ​​馬嬭子​」。徐霆曰く「霆嘗見其日中泲馬嬭矣。亦嘗問之、初無拘於日與夜。泲之之法、先令駒子啜、敎乳路來、卽趕了駒子、人自用手泲下皮桶中、却又傾入皮袋撞之。尋常人、只數宿便飮。初到金帳、韃主飮以馬嬭。色淸而味甜、與尋常色白而濁、味酸而羶者︀、大不同、名曰​コクバダイ​​黑馬嬭​​クロキウマノチ​。蓋淸則似黑。問之則云「此實撞之七八日。撞多則愈淸、淸則氣不羶」。只此一次得飮、他處更不曾見。玉食之奉如此」と云へり。輿服志三儀衞の篇殿上執事の部、酒人凡六十人の內、「二十人主潼、國語曰​ハラチ​​郃剌赤​」。又兵志三馬政の篇に「車駕還京師、太僕卿先期遣使、徵馬五十​ウンド​​醞都︀​來京師。​ウンド​​醞都︀​者︀、承乳車之名也。旣至、俾​ハチハラチ​​哈赤哈剌赤​之在朝爲卿大夫者︀、親秣飼︀之、日釀黑馬乳、以奉玉食、謂之細乳。毎​ウンド​​醞都︀​牝馬四十。自諸︀王百官而下、亦有馬乳之供。​ウンド​​醞都︀​如前之數、而馬減四之一、謂之粗乳」とあり。

 「中統初元、討​アリブガ​​阿里卜哥​之亂、​バンドチヤ​​班都︀察​與其子​トトハ​​土土哈​、皆有功。​バンドチヤ​​班都︀察​卒、​トトハ​​土土哈​領其父事、是爲句容郡武毅王。​ハイド​​海︀都︀​之叛、皇子北平王(​ノムハン​​那木罕​)、帥諸︀王之師、鎭祖︀宗興龍之故地。至元十四年、叛王​トトム​​脫脫​​シレギ​​木失列吉​入寇、諸︀部曲見掠、先朝大武帳亡焉。​トトハ​​土土哈​王憤之、誓請決戰。三月、敗其將​ドルチエン​​朶兒赤延​​ナランブラ​​納蘭不剌​、以所掠諸︀部還」。​アリブガ​​阿里卜哥​は、世系表睿宗の第七子​アリブガ​​阿里不哥​大王、​ハイド​​海︀都︀​は、太宗の第五子​カシ​​合失​大王の子​ハイド​​海︀都︀​大王なり。​トトム​​脫脫木​は、列傳卷四​ヤフド​​牙忽都︀​の傳に​トテムル​​脫帖木兒​、忠義傳​ババ​​伯八​の傳に​トテムル​​脫鐵木兒​​ラシツト​​喇失惕​​トグテムル​​脫克帖木兒​と云へり。世系表寄宗の第十子​セイドカ​​歲都︀哥​大王の孫に荆王​トトムル​​脫脫木兒​あるに由り、考異に「疑卽其人也」と云へれども、世祖︀の幼弟の孫に叛を謀る程の壯年あるべしとも思はれざれば、​テムゲオチギン​​鐵木哥斡赤斤​の曾孫​トテムル​​脫帖木兒​大王にはあらずや。​シレギ​​失列吉​は、傳に​シレギ​​失烈吉​、憲宗紀に​シレギ​​昔烈吉​、世祖︀紀に​シリギ​​昔里給​また​シリギ​​昔里吉​​ババ​​伯八​の傳に​シレギ​​昔列吉​​ラシツト​​喇失惕​​シレキ​​失列奇​、世系表憲宗の第四子河平王​シリギ​​昔里吉​なり。

 「四月、​ヂルワダイ​​只兒瓦䚟​構亂應昌、​トトム​​脫脫木​以兵應之、與我軍遇、將決戰。先得其斥候數十。​トトム​​脫脫木​懼而引去。遂滅​ヂルワダイ​​只兒瓦䚟​。六月、逐其兵於​トラ​​禿剌​河、(傳は「三宿而後返」と補へり)。八月、又敗之​オホン​​斡歡​​オルホン​​斡兒歡​)河、得所亡大帳、還諸︀部之眾於北平」。北平に還すとは、北平王の所に還せるを云ふ。「我師北伐、詔率​キムチヤ​​欽察​驍騎千人以從。十五年正月、追​シレギ​​失列吉​、踰金山、擒​ヂヤフタイ​​札忽台​以獻。又敗​カンチゲ​​寬赤哥​等軍、俘獲甚衆」。末の十字を、傳は「敗​コンヂエゲ​​寬折哥​等、裏瘡力戰、獲羊馬輜重甚眾」と改め補へり。​コンチゲ​​寬赤哥​は、​バダル​​伯荅兒​の傳に​コンチゲス​​寬赤哥思​とあり。

 「冬、入朝。召至榻前、親慰勞之、賜以白金百兩、海︀東白體一。國家侍內宴者︀、每宴必各有衣冠、其制如一謂之​ヂスン​​只孫​。悉以賜之。且有詔曰「祖︀宗武帳、非人臣所得御。卿能歸之、故以與卿。軍中宴諸︀帥、則設之」。​キムチヤ​​欽察​人爲民戶、及隷諸︀王者︀、別籍之、(傳は「以隷​トトハ​​土土哈​」と補へり)。戶給鈔二千貫、歲給粟帛、擇其材者︀、備禁衞。十九年、拜昭勇大將軍同知太僕院事。明年、改同知衞尉院事、領羣牧司事、給霸州文安縣田四百頃、命​ハラチ​​哈剌赤​屯田、益以亡宋新附軍八百。二十一年、賜金虎符、(傳は「幷賜金貂裘帽玉帶各一、海︀東靑鵑一、水磑[473]壹區、近郊田二千畝」を補へり)。以河南等路(傳は河東諸︀路)蒙古軍子弟四千六百隷之。二十二年、拜鎭國上將軍樞密副使。二十三年、置​キムチヤ​​欽察​衞、遂兼其親軍都︀指揮使、聽以族人將吏備官屬」。

 「六月、​ハイド​​海︀都︀​兵入寇。奉詔與大將​ドルドハイ​​朶兒朶懷​禦之。二十四年、諸︀王​ナヤン​​乃顏​叛於東藩、陰遣使來結​エブゲンシンラハ​​也不干勝剌哈​。王(​トトハ​​土土哈​)獲諜者︀、得其情、密以聞諸︀朝、請召​シンラハ​​勝剌哈​以離之」。​ナヤン​​乃顏​は、​ラシツト​​喇失惕​に據れば、​トガチヤル​​脫噶察兒​の孫、​エチユル​​額出兒​の子なり。​トガチヤル​​脫噶察兒​は、世系表​テムゲオチギン​​鐵木哥斡赤斤​の孫​タチヤル​​塔察兒​國王なれば、​ナヤン​​乃顏​は、​オチギン​​斡赤斤​の玄孫なり。表は​エチユル​​額出兒​​アチユル​​阿朮魯​大王を​タチヤル​​塔察兒​の從兄として、その子​ナヤン​​乃顏​を載せず。​エブゲン​​也不干​は、​ヤフド​​牙忽都︀​の傳に​エブゲン​​也不堅​、世系表太祖︀の第六子​コレゲン​​闊列堅​太子の曾孫​エブゲン​​也不干​大王なり。​シンラハ​​勝剌哈​は、世祖︀紀に​シンナカル​​勝納合兒​​ボト​​孛禿​の傳(曾孫​フレン​​忽憐​の條)に​シンラハル​​聲剌哈兒​、世系表​ハチウン​​哈赤溫​大王の子濟南王​アンヂギダイ​​按只吉歹​の曾孫濟南王​シンナハル​​勝納哈兒​なり。「他日、勝剌哈爲宴會、邀二大將。​ドルドハイ​​朶兒朶懷​將往。王曰「事不可測」。遂不往。​シンラハ​​勝剌哈​計不得行。未幾、有詔召​シンラハ​​勝剌哈​。王日此、東藩之人。由東道、是其欲也。將不可制」。言於北安王 卽北平王〈[#底本では直前に「終わり丸括弧」あり]〉、命之西行。或言​エブゲン​​也不干​將反者︀、軍 吏請 奏而圖之。王曰「不可緩也」。身爲先驅、引大兵前、窮晝夜之力、渡​トウラ​​禿兀剌​河、與​エブゲン​​也不干​戰、大敗之」。「或言」以下を傳は「旣而有言​エブゲン​​也不干​叛者︀、衆欲先聞於朝、然後發兵。​トトハ​​土土哈​曰「兵貴神︀速。若彼果叛、我軍出其不意、可卽圖之。否、則與約而還」。卽日啓行、疾驅七晝夜、渡​トウラ​​禿兀剌​河、戰​ボケ​​孛怯​嶺、大敗之、​エブゲン​​也不干​僅以身免︀」と改め補へり。「世祖︀方親征、聞之、詔王沿河東行、盡收其餘黨以還。道遇​エテゲ​​也鐵哥​、其眾萬騎、擊走之、大獲​ナヤン​​乃顏​畜牧、俘畔王​ハルル​​哈兒魯​等獻之。​カングリ​​康里​​キムチヤ​​欽察​之人、先隸諸︀叛王者︀、悉來歸。置​ハラル​​哈剌魯​萬戶府」。「沿河東行」を、傳は「沿河而下」と改めたり。​トラ​​禿剌​河は、西に流るゝ河なれば、下るは西に行くことにて、碑と異なり。​エテゲ​​也鐵哥​は、傳に叛王​テゲ​​鐵哥​とあり。世祖︀紀至元二十四年六月「諸︀王​シドル​​失都︀兒​所部​テゲ​​鐵哥​率其衆、取咸平府、渡遼」とある​テゲ​​鐵哥​と同じきか異なるか。​ハルル​​哈兒魯​の名は、世系表にも諸︀王表にも見えず。窃に思ふに、これは、王の名に非ず、部落の名にして、​カルルク​​合兒魯黑​の君、卽​アルスランカン​​阿兒思闌罕​の後嗣にはあらずや。その君叛さて俘はれたるに由り、その降れる部眾を以て​ハラル​​哈剌魯​萬戶府を置きたるならん。元史の​ハラル​​哈剌魯​は、皆​カルルク​​合兒魯黑​なり。又傳は、萬戶府の下に「​キムチヤ​​欽察​之散處安西諸︀王部下者︀、悉令統之」の一句を補へり。安西諸︀王とは、皇子安西王​モンガラ​​忙哥剌​の子安西王​アナンダ​​阿難︀荅​等を云ふ。

 「是歲、王子​チヤングル​​創兀兒​(傳に​チヤングル​​牀兀兒​)、奉詔從太師​ユルル​​月兒律​​ユシテムル​​玉昔帖木兒​)、在軍、戰於​バタ​​百搭​山有功、拜昭勇大將軍左衞親軍都︀指揮使、佩金虎符。出則被堅執銳、以率虎羆之士、入則執刀七、以事割烹、執甖杓、以進湩飮。親幸委任、已見如此」。

 「成宗方撫軍、詔以王從。十一月、征​ナヤン​​乃顏​餘黨於​ハラ​​哈剌​​ウン​​溫​]、誅兀達海︀(傳に叛王兀塔海︀)、盡降其眾。二十五年、​エヂリ​​也只里​王爲叛王​ホルハスン​​火魯哈孫​所攻甚急。五月、王從成宗、移師援之、敗諸︀​ウルフイ​​兀魯灰​。還至​ハラウン​​哈剌溫​山、夜渡​グイレ​​貴列​河、敗叛王​ハダン​​哈丹​之軍、盡得遼左諸︀部、置東路萬戶府、以鎭之。​エヂリ​​也只里​有女弟​タルン​​塔倫​、遂以妻王」。​エヂリ​​也只里​王は、世祖︀紀に諸︀王​エヂレ​​也只烈​、世系表濟南王​アンヂギダイ​​安只吉歹​の孫、​チヤフラ​​察忽剌​大王の子、濟南王​エヂリ​​也只里​なり。​ホルハスン​​火魯哈孫​は、​ラシツト​​喇失惕​に據れば、​ヂユチカツサル​​拙赤合撒兒​の長子​エグ​​也古​の孫に​ホルガスン​​火兒合孫​あり。世系表には無し。​ハダン​​哈丹​は、卽​カダン​​合丹​にして、​ドーソン​​多遜​​ハチウン​​哈赤溫​の玄孫にして、​シンナハル​​勝納哈兒​の父なりとせり。世系表に​ハチウン​​哈赤溫​の孫、​シンナハル​​勝納哈兒​の祖︀父とせるは、誤りならん。

 「二十六年、​ハイド​​海︀都︀​軍叛金山、抵​ハンガイ​​杭海︀​嶺、皇孫晉王(​ガマラ​​甘麻剌​)師兵禦之。敵先據險、我師不利。王獨以其軍陷陳入戰、翼晉王而出。明日、追騎大至、伏兵殿之」。「伏兵殿之」の四字を、傳は「乃選精︀銳、設伏以待之。冦不敢遇」と改め補へり。「七月、世祖︀親巡北邊、召見王、慰之曰「昔太祖︀與其臣之同患難︀者︀、飮​バンチユ​​班朮​河之水、以記功。今日之事、何愧昔人。卿其勉︀之」。​ハイド​​海︀都︀​等戰旣數敗、又知上親征、遂引兵去。車駕還都︀、大宴。上謂[474]王曰「朔方人來、聞​ハイド​​海︀都︀​言「戰者︀人人如​トトハ​​土土哈​、吾屬何所容身哉」」。論功行賞、先​キムチヤ​​欽察​之士」。末の五字を、傳は「帝欲先​キムチヤ​​欽察​之士。​トトハ​​土土哈​言「慶賞之典、蒙古將吏宜先之」。帝曰「爾勿飾讓。蒙古人誠居汝右、力戰豈在汝右耶」。召諸︀將、頒賞有差」と改め補へり。「以建康廬饒舊籍租戶千爲​ハラチ​​哈剌赤​戶、又以俘獲之戶千七百賜之、官一子以督賦。而​チヤングル​​創兀兒​在宿衞、亦帥其軍扈從、至​ホリム​​和林​​ウビス​​兀卑思​之山、拜昭武大將軍​キムチヤ​​欽察​親軍都︀指揮使左衞親軍都︀指揮使兼太僕少卿」。

 「二十八年、王奏「​ハラチ​​哈剌赤​之軍、數已盈萬、足以備用」。詔賜珠帽珠衣玉帶金帶名鶻縑素萬匹」。末の四字は、傳に「復賜其部曲毳衣縑素萬匹」とあり。「帥其人(傳は於是率​ハラチ​​哈剌赤​萬人)、北獵​ハンタハイ​​漢︀塔海︀​。邊寇聞之、不敢動。二十九年、掠地金山、虜︀​ハイド​​海︀都︀​之戶三千。有詔、進取​キリギス​​乞里吉思​。明年春、次​ケム​​欠​河(今の​ケム​​客姆​河)、冰行數日、盡取其眾(傳は其五部之衆)、留兵鎭之。奏功、拜龍虎衞上將軍、賜行樞密院印。​ハイド​​海︀都︀​聞之、領兵至​ケム​​欠​河。又敗之、擒其將​ボロチヤ​​孛羅察​」。

 「成宗皇帝卽位、詔之曰「北邊事重、其免︀會朝」。賜白金五百兩」。末の六字は、傳に「遣使就賜銀五百兩、七寶金壺盤盂各一、鈔萬貫、白氈帳一、獨峯駝五」とあり。「冬、召入朝、有加賜、別賜其軍士鈔一千二百萬。元貞元年春、還守北邊。三年秋、諸︀王從​ハイド​​海︀都︀​者︀、皆來降、邊民驚動。王帥兵金山之​ユルンガイ​​玉龍海︀​備之、資饋畢給、民用不擾。親導​ヨムフ​​岳木忽​等王以朝。上解御衣以賜」。​ヨムフ​​岳木忽​は、世系表​アリブカ​​阿里不哥​大王の子威定王​ユムフル​​玉木忽爾​にして​ドーソン​​多遜​は、​ユブクル​​余不庫兒​と云へり。世系表には、威定王王木忽爾の外に、その姪定王藥木忽爾あれども、威定王と定王とは、その實同じ人なり、諸︀王表金鍍銀印龜紐定遠王の下に「藥木忽兒、大德二年封」、金印駝紐威定王の下に「藥木忽爾、大德九年、由定遠王徙封」、金印獸紐定王の下に「要木忽爾、至大元年、由定遠王進封」、とあり、末の要木忽爾は、卽前の藥木忽兒にして、又卽世系表の玉木忽爾なり、この王は、大德九年に定遠王より威定王に進みたれば、至大元年に定王に進みたるは、定遠王よりにはあらずして、威定王よりなり、表は、威定を定遠と誤れり、又世系表を作れる人は、威定王と定王と同じ人なることに心附かず、已に威定王玉木忽爾を阿里不哥の長子として記し、定王を記すべき所なき故に、威定王の弟乃剌忽不花大王の三子の次に書き加へたるならん。「大德元年、拜銀靑光祿大夫、上柱國、同知樞密院事、​キムチヤ​​欽察​親軍都︀指揮使如故。還邊。二月、至宣德府薨、年六十一」。

 「是歲、有詔​チヤングル​​創兀兒​世其父官、領北征諸︀軍。後亦封句容郡王。王帥師踰金山、攻​バリン​​八隣​之地。​バリン​​八隣​之南、有大河曰​ダルフ​​荅魯忽​。其將​テリヤンタイ​​帖良臺​、阻水而軍、伐木柵岸以自庇。士皆下馬跪坐、持弓矢以待我軍。矢不能及、馬不能進。王卽命吹銅角、擧軍大呼、聲振林野。坐士不知所爲、爭起就馬。王麾師畢渡、湧水拍岸、木柵漂散。因奮師馳擊、五十里而後止、盡得其人馬廬帳。還次​アルイ​​阿雷​河、與​ボベバード​​孛伯拔都︀​之軍相遇。​ボベバード​​孛伯拔都︀​者︀、​ハイド​​海︀都︀​所遣援​バリン​​八隣​者︀也。​アルイ​​阿雷​之上、有山甚高、​ボベ​​孛伯​陣焉。山高峻、馬不利於下馳。急麾軍、渡河蹴之。​ボベ​​孛伯​馬下坂、多顚躓急擊敗之、追奔三十餘里。​ボベ​​孛伯​僅以身免︀。二年、北邊諸︀王​ドワチエチエト​​都︀哇徹徹禿​等、潛師急至、襲我​ホルハト​​火兒哈禿​之地。​ホルハト​​火兒哈禿​、亦有山甚高、其師來據之。王選勇而能步者︀、持挺刀四面上、奮擊、盡覆其軍。敵遁者︀無幾。​ドワ​​都︀哇​は、元史世祖︀紀に​ドワ​​朶瓦​、武宗紀に​ドワ​​篤娃​​フリンシ​​忽林失​の傳に​ドワ​​都︀瓦​とも書き、世系表には無し。​ドーソン​​多遜​に據れば、​チヤガタイ​​察合台​太子の玄孫、​ボラク​​孛喇克​(表の​バラ​​八剌​大王)の子にして、​チヤガタイカンコク​​察合台汗國​第十代の君なり。​チエチエト​​徹徹禿​は、世系表憲宗の第三子​ユルンダシ​​玉龍荅失​大王の孫郊王​チエチエト​​徹徹禿​なり。この王は、後に歸順し、諸︀王表に「泰定三年封武寧王、至順二年進封郷王」とあり、明宗文宗二紀天曆二年の條に武導王​チエチエト​​徹徹禿​の名屢見え、至順以後は郷王​チエチエト​​徹徹禿​の名も見えたり。​メルキト​​篾兒乞惕​​バヤン​​伯顏​の傳に、順帝至元五年「構陷郯王​チエチエド​​徹徹篤​奏賜死」とあり。

 「三年、入朝。上解衣賜、慰勞優渥、拜鎭國上將軍、僉樞密院事、​キムチヤ​​欽察​親軍都︀指揮使、左衞親軍都︀指揮使、[475]太僕少卿、還邊。是時武宗在潜邸、領軍朔方、軍事必諮於王。及戰、王常爲先、付託甚重。四年秋、畔王​トメ​​禿麥​​オルス​​斡魯思​等犯邊。王迎敵於​コケ​​闊客​之地。及其未陣、王以其軍直搏之。敵不能支。逐之踰金山乃還」。​トメ​​禿麥​は、武宗紀に​トクメ​​禿曲滅​​ユチチヤル​​月赤察兒​の傳に​トクメ​​禿苦滅​​ドーソン​​多遜​の書に​テクメ​​帖克篾​とあり、​ハイド​​海︀都︀​の子なり。​オルス​​斡魯思​は、武宗紀に​ウルス​​烏魯斯​​フリンシ​​忽林失​の傳に​オロス​​斡羅思​​ドーソン​​多遜​​ウルス​​禿魯思​、これも​ハイド​​海︀都︀​の子なり。二人ともに世系表には無し。「五年、​ハイド​​海︀都︀​之兵、又越金山而南、止於​テゲング​​鐵堅古​山、因高以自保。王以其軍馳當之。旣得平原、地便於戰。乃幷力攻之、敵又敗績。戰之三日、​ドワ​​都︀哇​之兵西至、與我大車、相持於​ウルト​​兀兒禿​之地。王又獨以其精︀銳、馳入其陣。戈甲憂擊塵血飛濺、轉旋三周、所殺︀不可勝計。而​ドワ​​都︀哇​之兵幾盡。武皇親見之、日「力戰未有如此者︀」。事聞、上使御史大夫​トチ​​禿赤​、知樞密院事​タラハイ​​塔剌海︀​​エケジヤルホチトフル​​也可扎魯火赤禿忽魯​、卽​チナス​​赤納思​之地、聚諸︀王軍將、問戰勝功狀。於是親王以下、至於諸︀軍、咸以爲王功第一、無異辭。於是武皇命王尙​ヤフト​​雅忽禿​楚王公主​チヤギル​​察吉兒​、賞以尙衣貂裘」。​ヤフト​​雅忽禿​楚王は、太宗の第八子​ボチヨ​​撥綽​大王の孫楚王​ヤフド​​牙忽都︀​なり。「使者︀以功簿奏。上出御衣、遣使臨賜之、詔曰「邊圍事重、少留鎭之」。七年秋、入朝。上親諭之曰「自卿在邊、累建大功、事蹟昭著︀。周飾卿身以兼金、猶不足以盡朕意」。遂賜御衣一、黃金百兩、白金五百兩、鈔十萬貫、拜驃騎衞上將軍、樞密副使、​キムチヤ​​欽察​親軍都︀指使、左衞親軍都︀指揮使太僕少卿、賜其親軍萬人鈔四千萬貫」。

 「九年、​ドワ​​都︀哇​​チヤバル​​察八兒​​ミンリテムル​​明里帖木兒​等諸︀王、相聚而謀曰「昔太祖︀、艱難以成帝業、奄有天下。我子孫、乃弗克靖︀[恭]、以安享其成、連年動兵相殘殺︀。是自傷祖︀宗之業也。今撫軍鎭邊者︀、吾世祖︀之嫡孫也。吾與誰家爭哉、且前與​トトハ​​土土哈​戰、旣累不勝。今與其子​チヤングル​​創兀兒​戰、又無一功。惟天惟祖︀宗意可見矣。不若遣使請命、罷兵通一家好、吾士民、老者︀得其養、少者︀得其長、傷殘疲憊者︀、得其休息焉。則亦無負太祖︀之所望於子孫者︀矣」。使至、上深然之。於是​ミンリテムル​​明里帖木兒​等、罷兵入朝。特爲置驛、以通往來」。​チヤバル​​察八兒​は、世系表​ハイド​​海︀都︀​大王の子汝寧王​チヤバル​​察八兒​なり。​ハイド​​海︀都︀​は、大德五年​テゲング​​鐵堅古​山の大戰より回りて後に死し、​チヤバル​​察八兒​その位を嗣ぎたりき。​ミンリテムル​​明里帖木兒​は、武宗紀に​ミンリテムル​​明里鐵木兒​​アシヤブハ​​阿沙不花​の傳に​ミリテムル​​迷里帖木兒​、□□の傳に​メリ​​滅里​とあり。​ドーソン​​多遜​に據れば、​アリブカ​​阿里不哥​の子に​メリグテムル​​篾里克帖木兒​あり。それならん。世系表には無し。

 「十年、拜榮祿大夫、同知樞密院事、尋拜光祿大夫、知樞密院事、​キムチヤ​​欽察​左衞指揮、太僕少卿、皆如故。從武皇於​クンマチユ​​渾麻出​之海︀上。成宗崩、訃至。入吿武皇曰「殿下、親世祖︀之嫡孫。以先帝之命、居祖︀宗之故地、以鎭撫朔方、且十餘年矣。​ハイド​​海︀都︀​​ヨムフル​​約木忽兒​(卽前の​ヨムフ​​岳木忽​)、​ミンリテムル​​明里帖木兒​、自世祖︀時、各爲叛亂、今皆來歸。前後叛亡俘虜︀、悉復其舊。皆殿下之威靈也。臣先父​トトハ​​土土哈​、受知世祖︀、恩深義重。臣之種人、强勇精︀銳。臣父子用之、無戰不克。殿下急宜歸定大業、以副天下之望。臣請率其眾、備驂乘之士」。武皇納其說、卽日南邁、五月、達上都︀。武宗皇帝卽位、賜王尙服七、黃金五百兩、白金五千兩、鈔二十五萬貫、先所御大武帝帳一。秋、拜平章政事、仍兼樞密​キムチヤ​​欽察​左衞太僕、還邊。冬、加封榮國公、授銀印、出制辭以命之。至大二年、入朝。封句容郡王、賜金印一、黃金二百五十兩、白金一千五百兩、鈔一萬貫。上日「世祖︀征大理時所御武帳、及所服珠寶之衣、今以賜卿其勿辭」。翌日又以世祖︀所乘安輿賜王。上曰「以卿有足疾、故賜此」。王叩頭泣涕、固辭而言、曰「世祖︀所御之帳、所服之衣、固非臣所敢當。乘輿而尤非所宜蒙也。貪寵過當、臣實不敢」。上顧左右、曰「他人不知辭此」。別命有司、置馬轎賜之、俾得乘至殿門下。仁宗在東宮、有衣帽金寶之賜。還邊」。

 「仁宗皇帝卽位、入朝。特授光祿大夫、平章政事、知樞密院事、​キムチヤ​​欽察​親軍都︀指揮使、左衞親軍都︀指揮使、太僕少卿。延祐︀元年、​エツセンブハ​​也先不花​等諸︀王、復叛​イテハイミシ​​亦忒海︀迷失​之地。王方接戰、有敵將一人以戟入陣刺王者︀。王擗其戟、揮大斧、碎其首。血髓淋漓、殞於馬首。乘勢奮擊、大破之」。​エツセンブハ​​也先不花​は、​ドワ​​都︀哇​の長子、​チヤガタイ​​察合台​太子の五世の孫にして、​チヤガタイ​​察合台​汗國第十三代の君なり。「二年、與​エツセンブハ​​也先不花​之將​エブゲン​​也不干​​フドテムル​​忽都︀帖木兒​、戰​メゲン​​麥干​之地、轉殺︀[476]周匝、追出其境鐵門關。秋又敗其大軍​ヂヤイル​​札亦兒​之地。上聞之、遣使賜勞有加。四年、上念王之功、而憫其老也、召之、命商議中書省事、知樞密院事」。傳は、こゝに「大理國進象牙金飾轎、卽以賜之」を補へり。「每見必賜坐、上食必賜食、待之以宗室親王之禮。王常曰「老臣受朝廷之賜厚矣。吾子孫不以死報國、可乎」。至治二年薨、年六十三」。この下​フルスマン​​忽魯速蠻​以下三代の贈︀諡、夫妻の封爵、​トトハ​​土土哈​​チヤングル​​創兀兒​の諸︀子の仕履などあれども、煩はしければ載せず。

 ​トトハ​​土土哈​の子八人、皆朝に仕へて大官となれる中にて、第三子​チヤングル​​牀兀兒​最顯れ、​チヤングル​​牀兀兒​の子七人の內、第三子​エンテムル​​燕帖木兒​最顯れ、第四子​サドン​​撒敦​は中書左丞相となり、第六子​ダリ​​荅里​(文宗紀に​ダリンダリ​​荅隣荅里​)は、父の封を襲ぎ句容郡王となれり。​エンテムル​​燕帖木兒​は、列傳卷二十五に​エンテムル​​燕鐵木兒​と書きて、別に傳あり。この​エンテムル​​燕鐵木兒​は、武宗・仁宗・英宗に歷仕し、致和元年僉書樞密院事に進み、泰定帝上都︀に崩じて、皇太子​アスギバ​​阿速吉八​(天順帝)位に卽きたる時、兵を以て大都︀の羣臣を脅し、武宗の二子明宗・文宗を迎へ、遂に文宗を擁立し、上都︀の官軍を擊ち破りて天順帝は行くへ知れずなれり。​エンテムル​​燕鐵木兒​は、その功に依り、中書右丞相錄軍國重事大都︀督太師​ダラハン​​荅剌罕​太平王となれり、天曆三年二月「文宗欲昭其勳、詔命禮部尙書馬祖︀常製文、立石於北郊」。石に刻みたる文は、太師太平王定策元勳之碑と題して、元文類︀卷二十六に見えたり。​エンテムル​​燕鐵木兒​の傳は、專らその碑文に本づきたるものなるが、その碑は、勅を奉じて權臣を諛頭したるものにて、事實を枉げたる所あれば、こゝに轉載せず。

 すべて​エンテムルバヤン​​燕鐡木兒伯顏​​メルギダイ​​蔑兒吉䚟​)等の傳、泰定帝明宗文宗本紀などには、往徃順逆を顚倒したる誣罔の詞あれば、讀者︀は、前後の事情を斟酌して取捨せざるべからず。例へば明宗紀に「歲戊辰七月庚午、泰定皇帝崩于上都︀、​ダウラシヤ​​倒剌沙​專權自用、踰月不立君、朝野疑懼。時僉樞密院事​エンテムル​​燕鐵木兒​、留守京師、遂謀擧義」とあるにつき、考異に「按、泰定以七月庚午崩、至八月甲午擧事、爲時尙未及三旬。元諸︀帝卽位、皆俟諸︀王大臣畢會議之、距前君之崩、或兩月、或三月、初無定期。蓋其家法如是。況泰定踐祚之日、儲位早定、朝野本無異議也。​エンテムル​​燕帖木兒​逆謀早萠于泰定未崩之先、豈因踰月不立君、人心疑懼、始謀擧事乎。此皆實錄之誣詞、史臣不能刋正也」と云へり。逆謀早く萌せることは、この年三月、泰定帝の上都︀に幸する前に、燕鐵木兒等は、もし不諱あらば大事を擧げんと謀りたる(文宗紀の卷首)を見て、知るべし。又御批通鑑輯覽は、​エンテムル​​燕鐵木兒​の「謀擧義」を「謀逆」と改めて、御批に「武宗旣傳子弟、其子卽無統業可承。而泰定帝己成其爲君、儲嗣現存神︀器︀自有專屬。乃​エンテムル​​燕鐵木兒​忽進異圖、謬託受武宗恩寵之言以自文、遠迎周(明宗)懷(文宗)二王入繼、于情理爲不順。其意不過欲假援立之功、以憑寵肆志、遂成​トテムル​​圖帖睦爾​(文宗)簒弑之謀、則​エンテムル​​燕鐵木兒​實爲罪首」とあり。

 かくて​エンテムル​​燕鐵木兒​は、專橫を極めたる後、至順三年文宗崩じ、明宗の次子​イリンヂバン​​懿璘質班​(寧宗)も位を繼ぎてまもなく崩じ、明宗の長子​トホンテムル​​妥懽貼睦爾​(惠宗皇帝、明人の謂はゆる順帝)は、廣西より迎へられ、未立たざるに明年三月、​エンテムル​​燕鐵木兒​病死せり。順帝位に卽き、​メルキト​​篾兒乞惕​​バヤン​​伯顏​右丞相となり、​エンテムル​​燕鐵木兒​の弟​サドン​​撒敦​左丞相となり、​エンテムル​​燕鐵木兒​の女は皇后となり、​サドン​​撒敦​死して、​エンテムル​​燕鐵木兒​の子​タンキシ​​唐其勢​左丞相となりしが、​バヤン​​伯顏​と權を爭ひ、至元元年、弟​タラハイ​​塔剌海︀​と共に​バヤン​​伯顏​を殺︀さんとして宮關を犯し、捕へられて誅に伏し、皇后も​タラハイ​​塔剌海︀​を庇したるが爲に執へられ、​バヤン​​伯顏​に殺︀されき。


3。​オンヂエイト​​完者︀都︀​​オンヂエイバード​​完者︀拔都︀​

 列傳卷十八の​オンヂエイト​​完者︀都︀​と列傳卷二十の​オンヂエイバード​​完者︀拔都︀​とは、同じ人にして、​オンヂエイト​​完者︀都︀​は、正しくは​オルヂエイト​​斡勒者︀亦禿​​オンヂエイバード​​完者︀拔都︀​は、​オルヂエイトバアトル​​斡勒者︀亦禿巴阿禿兒​なり。甲傳は委しく、乙傳は簡なり。只初の句だけは、甲傳に「​オンヂエイト​​完者︀都︀​​キムチヤ​​欽察​人」とあるを、乙傳には「​オンヂエイバード​​完者︀拔都︀​​キムチヤ​​欽察​氏、其先彰德人」とあり。​オンヂエイト​​完者︀都︀​の父祖︀蒙古に屬して後に彰德に[477]住みたる人ありしならん。次に甲傳に「父​ホアラボヂヤ​​哈剌火者︀​、從憲宗征討有功。​オンヂエイト​​完者︀都︀​廣顙豐頷、髯長過腹。爲人驍勇、而樂善好施。歲丙辰(憲宗六年)、以材武從軍。己未(九年)、從攻鄂州先登、賞銀五十兩」。「從攻」の六字は、乙傳に「從世祖︀攻鄂州、登城斬馘」とあり。それよりして世祖︀一代は、屢戰功を立て、至元二十六年江西等處行樞密院の副使となり、廣東の宣慰使を兼ね、元貞元年、江浙行省の平章政事となり、大德二年卒し、林國公に追封せられき。​オンヂエイト​​完者︀都︀​の父祖︀嘗て彰德に居たるに由り、彰德路林州の名を取り封號としたるならん。元の林州は、今の直隸彰德府林縣なり。子十四人皆仕へ、孫二十四人も多くは仕へき。


4。​ベテムル​​伯帖木兒​

 列傳卷十八「​ベテムル​​伯帖木兒​​キムチヤ​​欽察​人也。至元中、充​ハラチ​​哈剌赤​、入備宿衞。二十四年、御史大夫​ユステムル​​玉速帖木兒​​ユシテムル​​玉昔帖木兒​)に從ひ、叛王​ナヤン​​乃顏​を征し、二十五年、諸︀王​ナマダイ​​乃麻歹​​ナイマンタイ​​乃蠻台​)に從ひ、叛王​ハダン​​哈丹​を征し、又​ユステムル​​玉速帖木兒​に從ひ、​ハダン​​哈丹​の黨を敗り、二十六年、​バヤウ​​拜要​(□□□)の黨​バヤン​​伯顏​を擒にし、「是年冬、立東路蒙古軍上萬戶府、統​キムチヤ​​欽察​​ナイマン​​乃蠻​​ネグス​​捏古思​​ノイル​​那亦勒​等四千餘戶、陞懷遠大將軍上萬戶、佩三珠虎符」。​ノイル​​那亦勒​​ル​​勒​は、恐らくは​キン​​勤​の誤りにて、卽​ノヤキン​​那牙勤​ならん。二十七年​ハダン​​哈丹​を逐ひ、二十八年​アリユ​​鴨綠​江に至り、二十九年叛王​ネケレ​​捏怯烈​を逐ひ、​ヂユチ​​女直​の地を定めき。


5。​シドル​​昔都︀兒​

 列傳卷二十「​シドル​​昔都︀兒​​キムチヤ​​欽察​氏。父​トスン​​禿孫​、隷蒙古軍籍。中統二年、從丞相​バヤン​​伯顏​、討李壇叛、以功授百戶。至元十年吿老、以​シドル​​昔都︀兒​代之」。十一年、​シドル​​昔都︀兒​は、大軍に從ひ南征し、「十四年、從諸︀王​ベムル​​伯木兒​、追擊​ヂエルアタイ​​折兒凹台​​ヨブスル​​岳不思兒​等於黑城​ハラホリム​​哈剌火林​之地平之。」​ベムル​​伯木兒​は、​ベテムル​​伯帖木兒​​テ​​帖​を脫したるか。但世系表太宗の第二子​コドン​​闊端​太子の孫にも汾陽王​ベテムル​​伯帖木兒​あり、睿宗の第九子​モゲ​​末哥​大王の孫にも​ベテムル​​伯帖木兒​大王あり。いづれなるか知らず。​ヂエルアタイ​​折兒凹台​は、​トトハ​​土土哈​の傳の​ヂルワタイ​​只兒瓦台​、句容郡王世績碑の​ヂルワダイ​​只兒瓦䚟​なり。​ユブスル​​岳不思兒​​ス​​思​は、​フ​​忽​の誤にて、​ドーソン​​多遜​​ユブクル​​余不庫兒​、世系表の定王​ヤムフル​​藥木忽兒​なり。世系表は、​ヤムフル​​藥木忽兒​​アリブカ​​阿里不哥​の孫としたれども、孫に非ずして子なるべきことは、已に​トトハ​​土土哈​の傳に云へり。黑城は、​カラバルガスン​​合喇巴勒合孫​の譯にして、舊城の義、​ハラホリム​​哈剌火林​​カラコルム​​合喇闊嚕姆​なり。〈[#底本では「り」と句点「。」の順番が逆。意味が通らないので修正]〉​カラコルム​​合喇闊嚕姆​二所あり、​オルホン​​斡兒歡​河の西なるは​フイフ​​回紇​の舊城、東なるは蒙古の新城なることは、實錄六一四頁以下に云へり。黑城​ハラホリム​​哈剌火林​は、卽​フイフ​​回紇​の舊き​カラコルム​​合喇闊嚕姆​、今の​カラバルガスン​​合喇巴勒嘎孫​なり。この戰は、句容郡王世績碑に、至元十四年「遂滅​ヂルワダイ​​只兒瓦䚟​、六月、逐其兵於​トラ​​禿剌​河、八月、又敗之​オホン​​斡歡​​オルホン​​斡兒歡​)河」とある時なり。二十四年、​シドル​​昔都︀兒​は、漢︀洞左江萬戶府の​ダルハチ​​達魯花赤​となり、洞軍を領ゐて、鎭南王(世祖︀の第九子​トホン​​脫歡​)に從ひ交趾を征し、明年その都︀城に入り、師を全うして還り「二十六年、賜虎符、授廣威將軍砲手軍匠萬戶府​ダルハチ​​達魯花赤​。大德二年卒、子​エセンテムル​​也先帖木兒​襲」。


6。​キタイ​​乞台​

 列傳卷二十二「​キタイ​​乞台​​チヤタイ​​察台​氏」とある​チヤ​​察​の上​キム​​欽​の字脫ちたるならん。​キムチヤ​​欽察​衞の兵を率ゐ、​キムチヤ​​欽察​​トトハ​​土土哈​​チヤングル​​創兀兒​父子に從ひて働けるを見れば、必​キムチヤ​​欽察​人なるべし。「至元二十四年、爲​キムチヤ​​欽察​衞百戶、從​トトハ​​土土哈​、征叛王​シレギ​​失烈吉​​ナヤン​​乃顏​有功、賜金符、陞千戶。從征​クラチユ​​忽剌出​、戰于​アリタイ​​阿里台​之地」。​クラチユ​​忽剌出​は、​カチウン​​合赤溫​〈[#ルビの「カチウン」は底本では「カチムン」。同じ読みが他にないので誤植と判断し修正]〉の曾孫、​アンヂダイ​​按只歹​の孫、隴王​クラチユ​​忽剌出​なり。​アリタイ​​阿里台​は、​アルタイ​​阿勒台​卽金山なり。この金山の戰は、​トトハ​​土土哈​の傳に「二十九年秋、略地金山、獲​ハイド​​海︀都︀​之戶三千餘」とある時ならん。「元貞二年、以疾卒、子​ハヅアンチ​​哈贊赤​襲職。從​チヤングル​​創兀兒​​クイレル​​魁烈兒​之地、與​ハダアン​​哈荅安​戰有功」。​チヤングル​​創兀兒​は、​トトハ​​土土哈​の傳の​チヤングル​​牀兀兒​​クイレル​​魁烈兒​は、​グイレ​​貴烈​河、​ハダアン​​哈荅安​は、叛王​ハダン​​哈丹​なり。この戰は、​ハヅアンチ​​哈贊赤​の職を襲ぐ前、金山の戰の前、至元二十五年の事なり。「大德五年、從戰​ハンガイ​​杭海︀​、從武宗親征​ハラアダ​​哈剌阿荅​、復從​チヤングル​​創兀兒​、征​ブベバレン​​不別八憐​、爲先鋒、以功受賞賚」。「親征​ハラアダ​​哈剌阿荅​」は、武宗紀に「​ハイド​​海︀都︀​悉合其眾以來、大戰于[478]​カラカタ​​合剌合塔​之地」とあり。​ブベバレン​​不別八憐​は、句容郡王世績碑に「​ボベバード​​孛伯拔都︀​者︀、​ハイド​​海︀都︀​所遣援​バリン​​八隣​者︀也」とあり。この戰は、碑に據れば、大德元年の事にして、武宗の親征より前にあり。「皇慶二年、授金符、爲千戶。明宗居潛邸延祐︀四年、命從西征、與​トマンテムル​​禿滿帖木兒​、戰于​シラタルマシ​​失剌塔兒馬失​之地、以功復受厚賞、居其地十五年」。​トマンテムル​​禿滿帖木兒​は諸︀王表に延祐︀五年封武平王とあり、世系表に見えず。仁宗紀延祐︀四年十二月と五年正月とに諸︀王​トマンテムル​​禿滿鐵木兒​の所部に金銀鈔帛を賜へることを載せ、その二月「封​トマンテムル​​禿滿鐵木兒​爲武平王」とあり。仁宗紀にも明宗紀にもこの戰の事を載せずして、​トマンテムル​​禿滿帖木兒​は叛きたる樣子も無ければ、これは全く諸︀王の私鬭なるべし。「天曆二年、賜金符、授昭勇大將軍同知大都︀督府事、卒」。


7。​トインナ​​脫因納​

 列傳卷二十二「​トインナ​​脫因納​​ダダチヤ​​荅荅叉​氏」。​ダダチヤ​​荅荅叉​と云ふ姓は、蒙古七十二種の中にも見えず。​キムチヤ​​欽察​衞を率ゐるを見れば、​キムチヤ​​欽察​人ならんと思はる。「世祖︀時、從征​ナヤン​​乃顏​、以功受上賞。大德七年、授​キムチヤ​​欽察​衞親軍千戶所​ダルハチ​​達魯花赤​武德將軍、賜金符。十年遷​アルル​​阿兒魯​軍萬戶府​ダルハチ​​達魯花赤​、易金虎符、進階懷遠大將軍」。阿兒魯は、恐らくは​カルル​​柯兒魯​の誤にて、至元二十四年に設けられたる​ハラル​​哈剌魯​萬戶府ならん。​ハラル​​哈剌魯​​カルルウト​​合兒魯兀惕​を地理志には​カルル​​柯耳魯​と書けり。「至大二年、拜甘肅行尙書省參知政事、四年、入爲太僕卿、皇慶元年、授​アルル​​阿兒魯​萬戶府襄陽漢︀軍​ダルハチ​​達魯花赤​、延祐︀三年、拜甘肅行中書省右丞、至治二年、改通政使、致和元年、分院上都︀、秋八月、爲​ダウラシヤ​​倒剌沙​所殺︀。有子曰​チントン​​定童​​ヂチンハラン​​只沈哈朗︀​」。​ヂチンハラン​​只沈哈朗︀​​チン​​沈​​ル​​兒​の誤なるべし。​チントン​​定童​は、父の職を襲ぎ、​アルル​​阿兒魯​萬戶府襄陽萬戶府漢︀軍の​ダルハチ​​達魯花赤​にて金虎符を佩び、​ヂルハラン​​只兒哈朗︀​は、初​キムチヤ​​欽察​親軍千戶所の​ダルハチ​​達魯花赤​、後に通政院使。

 氏族表に祕書志を引きて、「有​マイマイ​​買買​字子昭、至正十七年、由中政院同知、遷祕書卿、稱​バヤウ​​伯要​氏、當卽​バヤウ​​伯牙吾​氏也」とて、​キムチヤ​​欽察​人の後に附記したれども、​キムチヤ​​欽察​人の​バヤウ​​伯牙吾​氏なりや、​カングリ​​康里​のなりや、蒙古のなりや、知るべからず。


九。​アス​​阿速​​アスト​​阿速惕​

 これより以下の色目の諸︀臣は、國初の功臣に非ざれども、皆異種異敎に屬する遠西の人なるが故に載するなり。


1。​ネグラ​​捏古剌​

 列傳卷十「​ネグラ​​捏古剌​、在憲宗朝、與​エリヤアス​​也里牙阿速​三十人來歸」。​ネグラ​​捏古剌​は、​ニコライ​​尼闊來​なり。​エリヤアス​​也里牙阿速​三十人は、​エリヤ​​也里牙​​エリアス​​額里阿思​と云へる​アス​​阿速​人を首とせる三十人なり。「後從征釣魚山、討李壇、皆有功。子​アタチ​​阿塔赤​、世祖︀時、圍襄陽、下江南、敗​シレキ​​失列及​(世系表の​シリギ​​昔里吉​)、征​ナヤン​​乃顏​、皆以功受賞。後事成宗武宗、爲​ヂヤサウスン​​札撒兀孫​。仁宗時、歷官至左​アス​​阿速​衞千戶卒」。​ヂヤサウスン​​札撒兀孫​は、元史語解に​ヂヤサグスン​​札薩古遜​と改めて「掌班序官也」と注せり。​アタチ​​阿塔赤​の子​ギヤウハ​​敎化​は、父の職を襲ぎ、天曆中章佩卿。​ギヤウハ​​敎化​の子​ヂエエンブハ​​者︀燕不花​は、天曆元年​ウンドチ​​溫都︀赤​​ウルドチ​​兀勒都︀赤​、佩腰刀人)となり、「授兵部郞中、招集​アス​​阿速​軍四百餘人、十月進兵部尙書、授雙珠虎符、領軍六百人」。丞相​エンテムル​​燕帖木兒​に從ひ上都︀の軍と戰ひ、後大司農の丞に遷りき。


2。​アルスラン​​阿兒思蘭​

 列傳卷十「​アルスラン​​阿兒思蘭​​アス​​阿速​氏。初憲宗以兵圍​アルスラン​​阿兒思蘭​之城。​アルスラン​​阿兒思蘭​、偕其子​アサンヂン​​阿散眞​、迎謁︀軍門。帝賜手詔、命專領​アス​​阿速​人、且留其軍之半、餘悉還之、俾鎭其境內、以​アサンヂン​​阿散眞​置左右。道遇​シエルゲ​​闍兒哥​叛軍、​アサンヂン​​阿散眞​力戰死之」。​シエルゲ​​闍兒哥​は、卽​チエルケス​​徹兒客思​なり。「帝遣使裏屍還葬之。​アルスラン​​阿兒思蘭​言于帝曰「臣長子死、不能爲國効力。今以次子​ネグライ​​捏古來​​ニコライ​​尼闊來​)獻之陛下、願用之」。​ネグライ​​捏古來​至、帝命從​ウリヤンガタイ​​兀良哈台​、征​ハラヂヤン​​哈剌章​、有功。​ウリヤンガタイ​​兀良哈台​賞以白[479]金名馬。從伐宋、中流矢而死。子​フルドダ​​忽兒都︀荅​、充管軍百戶。世祖︀命從​ブロノヤン​​不羅那顏​、使​ハルマミウ​​哈兒馬某​之地、以病卒」。​ブレトシユナイデル​​卜咧惕施乃迭兒​曰く「​ミウ​​某​は、​ス​​思​の誤ならん。然らば​ハルマス​​哈兒馬思​は、恐らくは​ホルムス​​訶兒木思​をあらはしたるなり」と云へり。「子​フドテムル​​忽都︀帖木兒​、武宗潛邸時、從征​ハイド​​海︀都︀​、以功賞白金。至大元年、授宣武將軍左衞​アス​​阿速​親軍副都︀指揮使、四年卒」。


3。​ハングス​​杭忽思​​アタチ​​阿塔赤​父子。

 列傳卷十九「​ハングス​​杭忽思​​アス​​阿速​氏、主​アス​​阿速​國。太宗兵至其境、​ハングス​​杭忽思​率眾來降。賜名​バードル​​拔都︀兒​、錫以金符、命領其土民。尋奉旨選​アス​​阿速​軍千人、及其長子​アタチ​​阿塔赤​、扈駕親征」。末の句誤れり。太宗の親征に非ず、​バト​​巴禿​等の征略なりき。「旣還、​アタチ​​阿塔赤​入直宿衞。​ハングス​​杭忽思​還國、道遇敵人戰歿。勅其妻​オイマス​​外麻思​、領兵守其國。​オイマス​​外麻思​躬擐甲冑、平叛亂、後以次子​アンフアブ​​按法普​代之。​アタチ​​阿塔赤​從憲宗、征西川、軍于釣魚山、與宋兵戰、有功。帝親飮以酒、賞以白金」。この​アタチ​​阿塔赤​は、列傳卷二十二にも別に傳ありて、この傳よりは却て簡略なり。​ハングス​​杭忽思​は、​アンゴス​​昻和思​と書き、​アタチ​​阿塔赤​​アタチ​​阿荅赤​と書き、「​アタチ​​阿荅赤​​アス​​阿速​氏。父​アンゴス​​昻和思​、憲宗時、佩虎符、爲萬戶。​アタチ​​阿荅赤​扈從憲宗南征、與敵兵戰于劍州、以功賞白銀」とあり。猶​ハングス​​杭忽思​の傳を引かん。「​アリブカ​​阿里不哥​叛、[​アタチ​​阿塔赤​]從​エリケ​​也里可​征之」。​エリケ​​也里可​は、​アダチ​​阿荅赤​の傳に​エルケ​​也兒怯​とあり。世祖︀紀の□□□□なり。「至寧夏、與​アランダルクンドハイ​​阿藍荅兒渾都︀海︀​戰、率先赴敵、矢中其腹不懼。世祖︀聞而嘉之、賞以白金、召入宿衞。中統二年、扈駕親征​アリブカ​​阿里不哥​、追至​シムリト​​失木里禿​​シムルト​​失木兒禿​)之地、以功復賞白金。三年、從征李壇平之」。末の六字は、​アタチ​​阿荅赤​の傳に「從征李壇、身二十餘戰、累功授金符千戶」とあり。「至元五年、奉旨同​ブダタイ​​不荅台​、領兵南征、攻破金剛臺」。​ブダタイ​​不荅台​は、世祖︀紀の□□□□なり。「六年、從攻安慶府、戰有功。七年、從下五河口。十一年、從下沿江諸︀郡、戍鎭巢。民不堪命、宋將降洪福︀、以計乘醉而殺︀之」。將降は、降將の倒置なるべし。「世祖︀憫其死、賜其家白金五百兩、鈔三千五百貫、併鎭巢降民一千五百三十九戶、且命其子​バダル​​伯荅兒​、襲千戶、佩金符。時​シレギ​​失烈吉​叛、詔​バダル​​伯荅兒​、領​アス​​阿速​軍一千往征之」。末の十八字は、​アタチ​​阿荅赤​の傳に「​バダル​​伯荅兒​​ベギレミシ​​別急列迷失​北征」とあり。​ベギレミシ​​別急列迷失​は、この傳の下文にある​ベリギミシ​​別里吉迷失​、世祖︀紀の□□□□□□にして、​ギレ​​急列​は、​レギ​​列急​の倒置なり。「與​オンギラヂルワタイ​​甕吉剌只兒瓦台​軍戰于​アリ​​押里​」。​オンギラヂルワタイ​​甕吉剌只兒瓦台​は、​オンギラト​​翁吉喇惕​​ヂルワタイ​​只兒瓦台​にして、​トトハ​​土土哈​の傳には應昌の部族​ヂルワタイ​​只兒瓦台​とあり。​アリ​​押里​は、​アタチ​​阿荅赤​の傳に​ヤリバンド​​牙里伴朶​之地とあり。「復與​ヤムフル​​藥木忽兒​軍、戰于​トラ​​禿剌​​オルホン​​斡魯歡​之地。十五年春、至​バヤ​​伯牙​之地、與​チリン​​赤怜​軍合戰」。​バヤ​​伯牙​は□□□□□□、​チリン​​赤怜​は、□□□□□□□「五月、駐兵​ハラヤ​​呵剌牙​、與​オイラタイ​​外剌台​​コンヂゲス​​寬赤哥思​等軍合戰」。​ハラヤ​​呵剌牙​は、祕史の​アライ​​阿喇亦​嶺なるべし。​トトハ​​土土哈​の傳に「追​シレギ​​失烈吉​、踰金山」とあれば、​ナイマン​​乃蠻​の故地の西端なること知るべし。​オイラタイ​​外剌台​​コンチゲス​​寬赤哥思​は、​トトハ​​土土哈​の傳に​コンヂエゲ​​寬折哥​とあり、​オイラト​​斡亦喇惕​​コンチゲス​​寬赤哥思​なり。「其大將​タスブハ​​塔思不花​、樹木爲柵、積石爲城、以拒大軍。​バダル​​伯荅兒​督勇士、先登拔之。​バダル​​伯荅兒​矢中右股。​ベリギミシ​​別里吉迷失​、以其功聞、賞白金。二十年、授虎符、定遠大將軍、後衞親軍都︀指揮使、兼領​アス​​阿速​軍、充​アスバード​​阿速拔都︀​​ダルハチ​​達魯花赤​。二十二年、征​ベシバリ​​別失八里​、軍于​イリクンチヤハンル​​亦里渾察罕兒​之地、與​トハブツアウマ​​禿呵不早麻​軍戰、有功」。​トハブツアウマ​​禿呵不早麻​は、

 「二十六年、征​ハンガイ​​抗海︀​、敵勢甚盛、大軍乏食。其母​ナイガウヂン​​乃咬眞​、輸己帑及畜牧等、給軍食。世祖︀聞而嘉之、賜予甚厚」。末の十字は、​アタチ​​阿荅赤​の傳に「樞密臣以其功聞。賞白金貂裘弓矢鞍轡等、尋復以銀坐椅賜之」とあり。「大德四年、​バダル​​伯荅兒​卒。長子​オロス​​斡羅思​、由宿衞仕至隆︀鎭衞都︀指揮使」。​アタチ​​阿荅赤​の傳には「子​オロス​​斡羅思​、由宿衞陞僉隆︀鎭衞都︀指揮使司事、賜一珠虎符。天曆元年、諭降上都︀軍凡若干數。特賜三珠虎符、陞本衞都︀指揮使」とあり。「次子​フチン​​福︀定​襲職、官懷遠大將軍、尋改右​アス​​阿速​​ダルハチ​​達魯花赤​、兼管後衞軍。至大四年、兄​ドダン​​都︀丹​充右​アス​​阿速​衞都︀指揮使。​フチン​​福︀定​復職後衞、陞樞密同僉、云云」。前に長子​オロス​​斡羅思​、次子​フチン​​福︀定​とあるに、​フチン​​福︀定​の兄​ドダン​​都︀丹​あるは、怪むべし。氏族表は、​フチン​​福︀定​​オロス​​斡羅思​の次子として、​ドダン​​都︀丹​​オロス​​斡羅思​の長子としたれども、​バダル​​伯荅兒​の子は、只​オロス​​斡羅思​[480]のみを擧げたるならば、只子と云ふべく、長子とは云ふべからず。こゝの文には、何か誤脫あらん。​フチン​​福︀定​は後の至元に至り、知樞密院事に進みき。


4。​ユワシ​​玉哇失​

 列傳卷十九「​ユワシ​​玉哇失​​アス​​阿速​人。父​エレバードル​​也烈拔都︀兒​、從其國主來歸。太宗命充宿衞」。​エレバードル​​也烈拔都︀兒​​エリアスバアトル​​額里阿思巴阿禿兒​は、​ネグラ​​捏古剌​の傳の​エリヤ​​也里牙​にて、其國主は、​ハングス​​杭忽思​なるべし。然らば​ネグラ​​捏古剌​の傳に「在憲宗朝」とあるは誤にて、​ネグラ​​捏古剌​​エレバードル​​也烈拔都︀兒​も、太宗の朝憲宗の西征せる時、​アス​​阿速​國主​ハングス​​杭忽思​に從ひて歸降せるなり。「歲戌午(憲宗八年)、後憲宗征蜀、爲游兵前行、至重慶、戰數有功。嘗出獵、遇虎於隘。下馬搏虎。虎張吻、欲噬之。以手探虎口、抉其舌、拔所佩刀、剌而殺︀之。帝壯其勇、賞黃金五十兩。別立​アス​​阿速​一軍、使領其衆。從世祖︀、征​アリブカ​​阿里不哥​、又從親王​ハビシ​​哈必失​、征李壇、俱有功、賜金符、授本軍千戶」。​ハビシ​​哈必失​は、親王には見えず。諸︀王なるべけれども、それも世系表には無し。諸︀王表銀印龜紐にして「無國邑名者︀」の中に、​カビチ​​合必赤​大王あり誰の子とも知れず。「從下襄陽、又從下沿江諸︀城。宋洪安撫、旣降復叛、誘其入城宴、乘醉殺︀之」。洪安撫は、​ハングス​​杭忽思​の傳の降將洪福︀なり。​エレバードル​​也烈拔都︀兒​は、​アタチ​​阿荅赤​と同時に殺︀されたるならん。「長子​エスダイル​​也速歹兒​、代領其軍、從攻揚州、中流矢卒。玉哇失襲父職、爲阿速軍千戶、從丞相伯顏平宋、賜巢縣二千五十二戶。只兒瓦歹叛。率所部兵擊之、至​ハイルハド​​懷魯哈都︀​、擒其將​シラチヤル​​失剌察兒​、斬于軍、其衆悉平。諸︀王​ホリム​​和林​​シラ​​失剌​等叛」。​ホリム​​和林​は、諸︀王の名に非ず。​シラ​​失剌​は、​トトハ​​土土哈​​ハングス​​杭忽思​の傳の​シレギ​​失烈吉​なり。この句誤あり。「​ホリム​​和林​諸︀王​シラキ​​失剌及​等叛」又は「諸︀王​シラキ​​失剌及​等叛​ホリム​​和林​」を顚倒せるならん。「從皇子北安王討之」。北安王は、北平王​ノムハン​​那木罕​なり。後に北安王に改め封ぜられき。「至​オルハン​​斡耳罕​河、無舟。躍馬涉流而渡、俘獲甚眾。時北安王方戰失、利陷敵陣中。​ユワシ​​玉哇失​從諸︀王​ヤムフル​​藥木忽兒​、追至金山。王乃得脫歸。賞白金五十兩鈔二千五百貫、改賜金虎符、進定遠大將軍、前衞親軍都︀指揮使、​ヤムフル​​藥木忽兒​は、​ハングス​​杭忽思​の傳に據るに、叛王の黨なり。この傳に​ユワシ​​玉哇失​の王帥としたるは誤れり。​トトハ​​土土哈​の傳に​ヨムフ​​岳木忽​と書き、元貞二年歸順せり。「諸︀王​ナヤン​​乃顏​叛、世祖︀親征、​ユワシ​​玉哇失​爲前鋒。​ナヤン​​乃顏​​ハダン​​哈丹​、領兵萬人來拒。擊敗之、追至​ブリグドバダハ​​不里古都︀伯塔哈​之地、​ナヤン​​乃顏​兵號十萬。​ユワシ​​玉哇失​陷陣力戰、又敗之、追至​シレムン​​失列門​林、遂擒​ナヤン​​乃顏​。帝嘉其功、賜金帶​ヂスン​​只孫​錢幣甚厚。​ナヤン​​乃顏​餘黨​タブダイキンカヌ​​塔不歹金家奴​聚兵​メネゲイ​​滅捏該​。從大軍、討平之。旣而​ハダン​​哈丹​復叛於​キユレン​​曲連​江。追擊其軍。渡河而遁」。​キユレン​​曲連​江は、​トトハ​​土土哈​の傳の​グイレ​​貴烈​河、​キタイ​​乞台​の傳の​クイレル​​魁烈兒​河なり。「又與​ハイド​​海︀都︀​​バレンテリゲダイ​​八憐帖里哥歹​​ビリチヤ​​必里察​等、戰於​イビルシビル​​亦必兒失必兒​之地、戰屢勝」。​バレンテリゲダイ​​八憐帖里哥歹​は、​トトハ​​土土哈​の傳(​チヤングル​​牀兀兒​の條)に​バリン​​八憐​の將​テリヤンタイ​​帖良臺​とあり。​ビリチヤ​​必里察​は、​トトハ​​土土哈​の傳に​ボロチヤ​​孛羅察​とあり。​イビルシビル​​亦必兒失必兒​之地は、實錄四〇〇頁に見えたる​シビル​​失必兒​にて、​ラシツト​​喇失惕​は「​キルギス​​乞兒吉思​の國は、​アベルシビル​​阿別兒昔必兒​の境に流るゝ​アンガラ​​安噶喇​の大河まで廣がれり」と云へり。​トトハ​​土土哈​の傳にこの戰を述べて、軍は​ケム​​欠​河(​ケム​​客姆​河)の冰を數日渉りて​キリギス​​乞里吉思​の境に至れりと云へれば、​シビル​​失必兒​の地は、​ケム​​客姆​河の下流、​キルギス​​乞兒吉思​の南境にありしなるべし。「成宗時在潛邸。帝以​ハイド​​海︀都︀​連年犯邊、命出鎭金山。​ユワシ​​玉哇失​率所部在行。從皇子​ココチユ​​闊闊出​丞相​ドルドハイ​​朶兒朶懷​、擊​ハイド​​海︀都︀​軍、突︀陣而入、大破之」。​ココチユ​​闊闊出​は、世祖︀の第八子なり。丞相​ドルドハイ​​朶兒朶懷​は、​トトハ​​土土哈​の傳に大將とあり。​ホリム​​和林​に行中書省を立てたるは、大德十一年の事にして、この時は未丞相の官あらざれば、この丞相は誤れり。「復從諸︀王​ヤムフル​​藥木忽兒​丞相​ドルドハイ​​朶兒朶懷​、擊​ハイド​​海︀都︀​​バレン​​八憐​​バレン​​八憐​敗。​バレン​​八憐​は、​トトハ​​土土哈​の傳(​チヤングル​​牀兀兒​の條)に​バリン​​八隣​之地とあり。こゝに將の名とせるは誤れり。「​ハイド​​海︀都︀​復以​トクマ​​禿苦馬​、領精︀兵三萬人、直趨​サラス​​撒剌思​河、欲據險以襲我師。​ユワシ​​玉哇失​率善射者︀三百人、守其隘、注矢以射、竟全軍而歸。帝嘉之、賜鈔萬五千緡、金織段三十匹」。​トクマ​​禿苦馬​は、武宗紀の​トクメ​​禿曲滅​​トトハ​​土土哈​の傳(​チヤングル​​牀兀兒​の條)の​トメ​​禿麥​□□□□の傳(月赤察兒の條)の​トクメ​​禿苦滅​​ドーソン​​多遜​​テクメ​​帖克篾​​ハイド​​海︀都︀​の子なり。「​ハイド​​海︀都︀​​ドワ​​朶哇​、以兵來襲。擊走之。武宗鎭北邊。​ハイド​​海︀都︀​復入寇、至​ウルト​​兀兒禿​​ユワシ​​玉哇失​敗之、獲其駝馬器︀仗以獻。時​ヂヤルハチ​​札魯花赤​​ボロテムル​​孛羅帖木兒​所將兵、爲​ハイド​​海︀都︀​[481]困於小谷。帝命​ユワシ​​玉哇失​援出之。帝喜、謂諸︀將曰「今日大丈夫之事、舍​ユワシ​​玉哇失​、其誰能之。縱以黃金包其身、猶未足以厭朕志」」。この帝は、武宗にして、この戰は、成宗の大德五年、武宗のまだ宗王なりし時なれば、その語を記するに朕の字を用ふべからず。大德七年、成宗の​チヤングル​​牀兀兒​を諭せるにも、全くこれに同じき語あり。「武宗南還、命​ユワシ​​玉哇失​後從。敵懼莫敢近。因留之成後、賜以金​チヤラ​​察剌​二、玉束帶渾金段各一、仍賜秫米七十石、使爲酒以犒其軍」。​チヤラ​​察剌​は、語解に​チヤラ​​察喇​と書き「注酒器︀也」とあり。「後​ハイド​​海︀都︀​​チヤバル​​察八兒​等、遣人詣闕請和。朝廷許之、遂撒邊備。​ユワシ​​玉哇失​乃還。帝錄其功、賜鈔五萬貫、進鎭國上將軍、仍舊職」。こゝの帝は、成宗なり。「大德十年五月、晝寢于衞舍、不疾而卒。子​イキリダイ​​亦乞里歹​襲。​イキリダイ​​亦乞里歹​卒、子​バイヂユ​​拜住​襲」。


5.​バードル​​拔都︀兒​

 列傳卷十九「​バードル​​拔都︀兒​​アス​​阿速​氏、世居上都︀宜興」。勿論歸化して後の事なり。「憲宗在潛邸、與兄​ウヅオルブハン​​兀作不罕​​マタルシヤ​​馬塔兒沙​、帥眾來歸。​マタルシヤ​​馬塔兒沙​從憲宗、征​メゴス​​麥各思​(祕史の​メケト​​篾客禿​)城、爲先鋒將。身中二矢、奮戰拔其城。又從征蜀、至釣魚山、歿于軍。​バードル​​拔都︀兒​從征李壇、圍濟南、身二十餘戰。世祖︀嘉其能、賞​ナシス​​納失思​段九、命領​アス​​阿速​軍一千、常居左右。尋於​アタチ​​阿塔赤​內、充​ケセ​​怯薛​百戶」。​アタチ​​阿塔赤​は、​アクタチ​​阿黑塔赤​にて、騸馬を掌る人なり。​ケセ​​怯薛​は、​ケシク​​客失克​にて番直なり。「後從​タブタイ​​塔不台​南征、與敵軍戰於金剛臺、又以功受賞。師還、言於帝曰「臣願從軍、爲國效死」。世祖︀留之、仍命充​ホコスン​​孛可孫​、兼領​アス​​阿速​軍、御馬必令鞚引。至元二十三年、授廣威將軍、後衞親軍副都︀指揮使、賜虎符。明年夏、從征​ナヤン​​乃顏​​イミ​​亦迷​河、擒​ツエンカヌタブタイ​​僉家奴塔不台​以歸。賞鈔及衣段、加定遠大將軍。大德元年卒、子​ベイレン​​別吉連​襲」。​ツエンカヌタブタイ​​僉家奴塔不台​は、​ユワシ​​玉哇失​の傳の​タブダイキンカヌ​​塔不歹金家奴​なり。​ベイレン​​別吉連​は、致和元年、​エンテムル​​燕鐵木兒​に黨し、功を以て文宗より三珠虎符を賜はり、尋で疾に由りて辭し、子​エレンヂ​​也連的​襲げり。


6。​ケウルギ​​口兒吉​

 列傳卷二十二「​ケウルギ​​口兒吉​​ケオルギ​​叫兒吉​)、​アス​​阿速​氏。憲宗時、與父​フデ​​福︀得​來賜(賜は、歸の誤りか)、俱直宿衞、領​アス​​阿速​軍二十戶。世祖︀時、​ケウルギ​​口兒吉​以百戶、從元帥​アチユ​​阿朮​伐宋、有功、賜以白金等物。宋平、命充大宗正府​エケヂヤルハチ​​也可札魯花赤​、領​アス​​阿速​軍。從征​ハイド​​海︀都︀​、以功受上賞。師還、成宗命宣撫湖廣等處、訪求民瘼、還仍舊職。至大元年、武宗命充左衞​アス​​阿速​親軍都︀指揮使、進階廣威將軍。四年、卒。子​ヂミヂル​​的迷的兒​​ヂミトル​​的迷惕兒​)、由​ユデンチ​​玉典赤​、改百戶、領​アス​​阿速​軍」。​ユデンチ​​玉典赤​は、正しくは​エウデチ​​額兀迭赤​なり。語解は​イユデチ​​諤德齊​と改め、「司門人也」と注せり。「從指揮​ユグワシ​​玉瓜失​、征叛王​ナヤン​​乃顏​、却​キンガンヌ​​金剛奴​軍于​ソバチ​​鏁寶直​之地、降​ハダントルゲン​​哈丹禿魯干​、累以功受賞」。指揮​ユグワシ​​玉瓜失​は、前衞親軍都︀指揮使​ユワシ​​玉哇失​なり。​キンガンヌ​​金剛奴​は、​ユワシ​​玉哇失​の傳の​キンカヌ​​金家奴​なり。​ソバチ​​鏁寶直​は、□□□□□□□□​ハダントルゲン​​哈丹禿魯干​は、□□□□□□□□「至大四年、襲父職、授明威將軍​アス​​阿速​親軍都︀指揮使。子​ヒヤンシヤン​​香山​〈[#「香山」の「香」は底本では異体字「昋」]〉事武宗仁宗、直宿衞。天曆元年九月、兵興、從戰宜興、擊殺︀敵兵七人。自旦至暮、却敵兵凡一十三處。以功賜金帶一、授左​アス​​阿速​衞都︀指揮使」。


7。​シラバードル​​失剌拔都︀兒​

 列傳卷二十二「​シラバードル​​失剌拔都︀兒​​アス​​阿速​氏。父​ユルタミウ​​月魯達某​、憲宗時、領​アス​​阿速​十人入覲、充​アタチ​​阿塔赤​​アクタチ​​阿黑塔赤​)。從世祖︀至​ハラ​​哈剌​​ヂヤン​​章​]之地、戰數勝。​ウリヤンガタイ​​兀里羊哈台​​ウリヤンカタイ​​兀限合台​)以其功聞、賜所俘人一口以賞之。後以金瘡發卒。​シラバードル​​失剌拔都︀兒​、至自​トベ​​脫別​​トベト​​禿別惕​)之地、帝特賜白金楮幣牛馬等物。至元二十一年、從丞相​バヤン​​伯顏​南征、有功、仍充​アタチ​​阿塔赤​。帝嘗命放海︀靑、日「能獲新者︀賞之」。​シラバードル​​失剌拔都︀兒​、卽援弓、射一免︀二禽以獻。賞沙魚皮雜帶及貂裘、且命於尙乘寺爲少卿、於​アス​​阿速​爲千戶。二十四年、授武略將軍、管​アス​​阿速​軍千戶、賜金符。​ナヤン​​乃顏​叛、從諸︀王和元魯往征之、力戰有功」。和元魯は、□□□□□□□□「​ナヤン​​乃顏​平、帝賞以金腰帶及銀交牀等。二十五年、進武德將軍尙乘寺少卿、兼​アス​​阿速​千戶。征​ハダアン​​哈荅安​​ハダン​​哈丹​)等敗之、獲其駝馬等物。成宗嘉其功、以軍二千益之。討叛王​トト​​脫脫​[482]擒之、以功受賞」。​トト​​脫脫​は、​トトハ​​土土哈​の傳の​トトム​​脫脫木​か、又は太宗の第四子​ハラチヤル​​哈剌察兒​王の子​トト​​脫脫​大王なるべし。大德六年卒、子​ノハイシヤン​​那海︀產​襲其職。至大二年、進宣武將軍、右衞​アス​​阿速​親軍都︀指揮使、賜三珠虎符。泰定二年、單加明威將軍」。


8。​チエリ​​徹里​

 列傳卷二十二「​チエリ​​徹里​​アス​​阿速​氏。父​ベギバ​​別吉八​、在憲宗時、從攻釣魚山、以功受賞。​チエリ​​徹里​事世祖︀、充​ホルチ​​火兒赤​。從征​ハイド​​海︀都︀​、奮戈擊其前鋒。官軍二人陷陣、抜而出之。以功受賞。後從征​ハンガイ​​杭海︀​、獲其牛馬畜牧、悉以給軍食。帝嘉之、賞鈔三千五百錠、仍以分資士卒。成宗時、盜據​ボロトル​​博落脫兒​之地。命將兵討之、獲三千餘人、誅其曾長。還奉命、同客省使​バードル​​拔都︀兒​等、往​バルフ​​八兒胡​之地、以前所獲人口畜牧、悉給其主。軍還、帝特賜鈔一百錠。武宗在潛邸、亦以銀酒器︀賞之」。​ボロトル​​博落脫兒​は、成宗紀に□□□□□□□□​バードル​​拔都︀兒​は、​アス​​阿速​​バードル​​拔都︀兒​に非ず、□□□□□□□□「至大二年、立左​アス​​阿速​衞、授本衞僉事、賜金符。皇慶二年、從湘寧王(顯宗​ガマラ​​甘麻剌​の第三子​デリゲルブハ​​送里哥兒不花​)北征、以功賜一珠虎符。子​シレムン​​失列門​直宿衞」。天曆元年、屢上都︀の兵と戰ひ、「以功授左衞​アス​​阿速​親軍都︀指揮使司僉事。」


9。​アス​​阿速​​クリスト​​克哩思惕​敎。

 ​アス​​阿速​は、古くより​カウカス​​高喀速​山の北の麓に住みたる部族にして、史記漢︀書の奄蔡、漢︀書陳湯の傳なる闔蘇、三國志の注に引ける魏略の西戎傳に「奄蔡國、一名阿蘭」とあるは、卽この​アス​​阿速​なり。(實錄五二四​アスト​​阿速惕​の注を見よ。)西紀の初頃より​ギリシヤ​​吉哩沙​​ローマ​​囉馬​の書に、その後の​ヒガシローマ​​東囉馬​​アラビア​​阿喇必亞​の書に見えたる​アラン​​阿蘭​の名は、魏略の​アラン​​阿蘭​に同じく、​ルシア​​嚕西亞​の舊史に見えたる​ヤシ​​牙矢​は、​エンツアイ​​奄蔡​に近し。經世大典の圖に​アランアス​​阿蘭阿思​とあるは、​アラン​​阿蘭​​アス​​阿思​と云へる意にて、阿思は卽阿速、亦卽漢︀書の圏蘇なり。祕史に阿速惕とあるは、蒙語の複稱なり。

 ​マスヂ​​馬速的​は、第十世紀の初に、​アラン​​阿闌​の事を委しく述べ、その都︀を​マアス​​馬阿思​と呼び、「​アラン​​阿闌​の國と​カウカス​​高喀速​山との間に、寨と大河に架する橋とあり。寨は、​アラン​​阿闌​の寨の名にて知らる。それは、古の時、​アラン​​阿闌​人の侵伐を禦がんが爲に​ペルシヤ​​珀兒沙​の王​イスフエンヂアル​​亦思分的阿兒​の築きし物なり」と云ひ、又「​アラン​​阿闌​人は、​クリスト​​克哩思惕​敎徒なりき。されども後に​イスラム​​亦思藍​敎を奉じき」と云へり。​プラノカルピニ​​普剌諾喀兒闢尼​は、​アラニ​​阿剌尼​​アシ​​阿昔​と呼びて、その住處を​コマニア​​科馬尼亞​​コマン​​科曼​​キムチヤ​​欽察​の國)の南に記せり。​ルブルク​​嚕卜嚕克​は(二四六に)、南​ルシア​​嚕西亞​の曠原を西方より通りたることを記して、こに​カブチヤト​​喀魄察惕​と呼ばるゝ​コンマニ​​寬馬尼​遊牧せり。獨逸︀人には、そは​ヷラニ​​縛剌尼​と、その領地は​ヷラニア​​縛剌尼亞​と呼ばる。​イシドルス​​亦昔朶嚕思​は、​タナイ​​塔主​〈[#「塔主」はママ。「主」は「乃」の誤植と思われる]〉​ドン​​端​)より篾斡提思河荅紐卜河の沼多き野までを​アラニア​​阿剌尼亞​と呼べり」と云ひ、二五二頁には「彼等(​コマン​​科曼​人)は、南に高き山をもつ。その山の麓に、荒野を亙りて橫さまに​チエルキス​​徹兒奇思​​アラニ​​阿剌尼​​アアス​​阿阿思​と住めり。それらは、​クリスト​​克哩思惕​敎徒にて、今(一二五四年、憲宗四年)まで​タルタル​​塔兒塔兒​人に抗ひて戰へり」と云ひ、又二四三頁には「五十日祭の朝に(一二五三年、憲宗三年。その時この人は、​ドン​​端​河に近き或る處に在りき)。或る​アラニ​​阿剌尼​人、又​アアス​​阿阿思​人とも呼ばるゝもの、我等を問ひき。それらは、​ギリシヤ​​吉哩沙​の禮式に從ふ​クリスト​​克哩思惕​敎徒にて、​ギリシヤ​​吉哩沙​の文字と​ギリシヤ​​吉哩沙​の僧︀侶とを持てり」とあり。​アブルフエダ​​阿不勒弗荅​(二、二八七)の引ける​イブンサイド​​亦本賽篤​(第十三世紀)は、​アラン​​阿闌​​アス​​阿思​とを二種に分けたれども、​アス​​阿思​は、​アラン​​阿闌​の近所に住み、同じく​トルク​​突︀兒克​種に屬し、同じく​クリスト​​克哩思惕​敎を奉じたりと云へり。​ヂヨザフオバルバロ​​勺撒佛巴兒巴囉​(一四三六年、明の正統元年)は、その紀行に「​アラニア​​阿剌尼亞​なる名は、​アラニ​​阿剌尼​なる俗名より出でたり。​アラニ​​阿剌尼​は、その國語にて​アス​​阿思​を稱するなり」と記せり。

 ​マルコポーロ​​馬兒科保囉​の紀行にある、​クリスト​​克哩思惕​敎徒なる​アラン​​阿闌​の兵士の、常州府にて殺︀されたる談は、前の​バヤン​​伯顏​の條に引けり。​マリグノリ​​馬哩固諾里​​ユール​​裕勒​の「​カセイ​​喀勢​」三七三)は、第十四世紀の中頃に​アラン​​阿闌​の事を記して「彼等は、今日にては世界の最大なる最貴き國民にして、人の最美しく最强きものとなれり。​タルタル​​塔兒塔兒​は、彼等の助に依り東の[483]帝國を得たり。彼等なくば、一度も重要なる勝利を得ざりけん。​タルタル​​塔兒塔兒​の始の王​チンギスカン​​成吉思汗​は、天の命を受けて世界を鞭韃せんが爲に進みし時に、彼等の君長七十二人を手下に用ひたりき」といへり。卜咧惕旋乃迭兒曰く「​チンギスカン​​成吉思汗​の下に​アラン​​阿闌​の働きたるを云へるは、誤なり。阿闌の國は、斡歌台の世に始めて征服せられき」。又曰く「元史に記せる​アラン​​阿闌​人の名の或るもの(​クリスト​​克哩思惕​敎徒に限れる名)に由りて、彼等の​クリスト​​克哩思惕​敎徒なることは推し料らる。この推定は、​マスヂ​​馬速的​​アブルフエダル​​阿不勒弗荅嚕​​ブルク​​卜嚕克​​マルコポーロ​​馬兒科保囉​の證明にて確めらる。


10。​エリケウン​​也里可溫​​クリスト​​克哩思惕​敎徒。

 列傳卷八十四孝友一郭全の傳に附して、「​マヤフ​​馬押忽​​エリケウン​​也里可溫​氏、素貧。事繼母張氏、庶母呂氏、克盡子職とあり。その外諸︀傳に​エリケウン​​也里可溫​の人見えず。氏族表に曰く「​エリケウン​​也里可溫​氏、不知所自出。案祕書志、有失​レムン​​列門​、大德十一年祕書監。​ヤグ​​雅古​、字正卿、泰定元年著︀作佐郞。​ノンガタイ​​囊加台​、字元道、後至元三年祕書省奏差。皆不得其世系。又有馬世德、字元臣、官淮南廉訪僉事、見靑陽集」と云へり。

 ​エリケウン​​也里可溫​は、​クリスト​​克哩思惕​敎徒を蒙古人の呼びたる名にして、西亞細亞の書史には、​アルカウン​​阿兒喀溫​とも​アルカイウン​​阿兒開溫​ともあり。大佐​ユール​​裕勒​​マルコポーロ​​馬兒科保羅​一、二八〇注に)曰く「​モンゴル​​蒙果勒​時代の史に、東方の​クリスト​​克哩思惕​敎徒又はその僧︀侶を指して、​アルカイウン​​阿兒開溫​なる詞屢見ゆ。聖​マルチン​​馬兒庭​の引ける​ステフエンオルペリアン​​思帖返斡兒珀里安​​アルメニア​​阿兒篾尼亞​史に、​アルカイウン​​阿兒開溫​​アルカウン​​阿兒喀溫​なる詞は、この意味にて用ひらる。​ドーソン​​多遜​の據れる​タリクヂハンクシヤイ​​塔哩黑只杭庫沙亦​(世界征服史)の著︀者︀(​チユヹニ​​主吠尼​)は、​クリスト​​克哩思惕​敎徒を​モンゴル​​蒙果勒​人は​アルカウン​​阿兒喀溫​と呼びたりと云へり。​フラク​​呼剌庫​​バグダト​​巴固荅惕​を攻むる時に、法官長老醫師​アルカウン​​阿兒喀溫​どもに書に贈︀りて、平和に働くものを免︀さんことを約束せりとあり。又その侵掠の時には、僅の阿兒喀溫と外國人との外は、免︀れたる家一つもあらざりきとあり。​ラシドツヂン​​喇失都︀丁​は、​ペキン​​北京​(大都︀)の執政大臣の事を記して、平章卽次位の相四人は、​タヂク​​塔只克​​ペルシヤ​​珀兒沙​人)、漢︀人、​ウイグル​​委古兒​​アルカウン​​阿兒喀溫​の四種より取られきと云へり。​サバヂンアルカウン​​撒巴丁阿兒喀溫​は、一二八八年(至元二十五年)に​ペルシヤ​​珀兒沙​​アルグンカン​​阿兒昆汗​より​ローマ​​囉馬​敎主に遣したる公使の一人の名なりき。​ヸスデルー​​微思迭婁​は、支那の文書より奇異なる文を引きて、「世祖︀の至元二十六年、大吏十九員の一局を設けて、十字架、​マルハ​​馬兒哈​​シリクバン​​昔里克判​​エリカエン​​也里可溫​の宗敎の事務を監督せしめき。この局は、仁宗の延祐︀二年に位置を高められ、その時にる監督の下に​エリカエン​​也里可溫​の宗敎を管する小さき役所十二ありき」と云へり。​エリカエン​​也里可溫​は、漢︀字に寫せる​アルカイウン​​阿兒開溫​なること明かなり。而して​マルハ​​馬兒哈​​アルメニア​​阿兒篾尼亞​派を、​シリクバン​​昔里克判​​シリア​​失哩亞​​ヂヤコブ​​札科卜​派を、​エリカエン​​也里可溫​​ネストル​​捏思脫兒​派を、指せるならんと試に推定せん」と云へり。​ヸスデルー​​微思迭婁​の引けるは、何書なるか、考へ得ず。​エリカエン​​也里可溫​は、初は​ネストル​​捏思脫兒​派を指せる名なれども、元史に據れば、一般に​クリスト​​克哩思惕​敎徒を指せるにて、​ネストル​​捏思脫兒​派のみに限られざるが如し。

 世祖︀紀中統三年三月「括​ムスマン​​木速蠻​​ウイウル​​畏吾兒​​エリケウン​​也里可溫​​タシマン​​荅失蠻​等戶丁爲兵」。​ムスマン​​木速蠻​は、​ムスルマン​​木速兒蠻​、卽​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒なり。​ダシマン​​荅失蠻​も、​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒にして、​ベクタシユ​​別克塔施​派とも云ひ、​ペルシヤ​​珀兒沙​の人​ベクタシユ​​別克塔施​の唱へたる一派なり。四年十二月「敕、​エリケウン​​也里可溫​​ダシマン​​荅失蠻​僧︀道、種田入租、貿易輸稅」。至元元年正月「命儒釋道​エリケウン​​也里可溫​​タシマン​​達失蠻​等戶、舊免︀租稅、今竝徵之」。十三年六月「勅、西京僧︀道​エリケウン​​也里可溫​​ダシマン​​荅失蠻​等、有室家者︀、與民一體輸賦」。十九年四月「勅、​エリケウン​​也里可溫​、依僧︀例給糧」。九月「招討使楊庭堅、招撫海︀外南番、皆遣使來貢。寓​ダーラン​​俱藍​​エリケウン​​也里可溫​​ウヅアルべリマ​​兀咱兒撇里馬​、亦遺使奉表、進七寶項牌一、藥物二瓶。又管領​ムスマンマハマ​​木速蠻馬合馬​、亦遺使奉表、同日赴闕」。列傳卷九十七(元史末卷)​マーバル​​馬八兒​等國の傳には、廣東招討司の​ダルハチ​​達魯花赤​楊庭壁、​ダーラン​​俱藍​國に至れる時「​エリケウン​​也里可溫​​ウツアルサリマ​​兀咱兒撒里馬​〈[#「撒」は底本では「撇」。「撇」ではルビと直後の文脈に合わない。元史卷210に倣い修正]〉、及​ムスマン​​木速蠻​​マハマ​​馬合麻​等、亦在其國、聞詔使至、皆相率來吿、願納歲幣、遣使入覲」とあり。紀の楊庭堅は、壁を堅と誤れり。​ベリマ​​撇里馬​​セリマ​​撒里馬​は、孰か是なるを知らず。又紀その年十月「勅、河西僧︀道也里可溫、有妻室者︀、同民納稅」。二十九年七月「​エリウイリシヤシヤ​​也里嵬里沙沙​、嘗簽僧︀道儒​エリケウンダチマン​​也里可溫荅赤蠻​爲軍、詔令止隷軍籍」。​チ​​赤​は、​シ​​失​[484]の誤なり。武宗紀大德十一年十二月改元の詔に「僧︀道​エリケウン​​也里可溫​​ダシマン​​荅失蠻​、竝依舊制納稅」。至大二年六月「中書省臣言「河南江浙省言「宣政院奏免︀僧︀道​エリケウン​​也里可溫​​ダシマン​​荅失蠻​租稅」。臣等議、田有租商有稅、乃祖︀宗成法。今宣政院一體奏免︀、非制」。有旨、依舊制徵之」。仁宗紀至大四年四月「能僧︀道​エリケウン​​也里可溫​​ダシマン​​荅失蠻​、頭陀白雲宗諸︀司」。泰定帝紀泰定元年二月「宣諭​エリケウン​​也里可溫​、各如敎具戒」。十一月「詔免︀​エリケウン​​也里可溫​​ダシマン​​荅失蠻​差役」。文宗紀 天曆 元年九月「命高昌僧︀、作佛事於延春閣、又命​エリケウン​​也里可溫​、於顯懿莊聖皇后(睿宗​トルイ​​拖雷​〈[#「里」はママ]〉の妃)神︀御殿作佛事」などあり。外にも猶あるべし。

 洪鈞の元世各敎名考に經世大典の馬政篇を引きて、「中統四年、諭中書省、於東平大名河南路宣慰司、不以​フイフイ​​回回​通事​オト​​斡脫​幷僧︀道​ダシマン​​荅失蠻​​エリケウン​​也里可溫​​ウイウル​​畏兀兒​諸︀色人戶、每鈔一百兩、通滾和買堪中肥壯馬七匹。(不以猶言不論と洪鈞注せり)。至元二十六年七月十日、兵部承奉尙書省奏。諸︀衙門官吏僧︀道​ダシマン​​荅失蠻​​エリケウン​​也里可溫​​オト​​斡脫​、不以是何軍民諸︀色人戶、所有堪中馬匹、盡數和買。十四日、兵部承奉尙書省箭付、​ホシヤン​​和尙​先生​エリケウン​​也里可溫​​ダシマン​​荅失蠻​​オト​​斡脫​等戶但有四歲以上騸馬​イラ​​曳剌​馬小馬、盡數赴官中納、當面給付價鈔」。また「至元十二年、樞密院奏、僧︀道​エリケウン​​也里可溫​​ダシマン​​荅失蠻​、欲馬何用。二十四年、楊總統奏、漢︀地​ホシヤウ​​和尙​也里可溫先生荅失蠻有馬者︀、己行拘刷、江南者︀未刷。江淮省言、江南​ホシヤウ​​和尙​​エリケウン​​也里可溫​先生、出皆乘轎、養馬者︀少」とあり。洪鈞曰く「經世大典之​オト​​斡脫​、也​ユダイ​​猶太​敎。審定字音、當云​ユト​​攸特​。首字、今譯爲勝。次字大典譯音爲勝。或稱​ヂユデア​​如德亞​、則言其他。​ヂユデ​​如德​、亦​ユト​​攸特​也」。先生は、錢大昕の考異に「元人稱道士爲先生」と云へり。

 又考異に、武宗紀至大二年六月の條に、元典章の一條を引きて、「​ダシマン​​荅失蠻​​デリヰシ​​迭里威失​戶、若在​フイフイ​​回回​寺內住坐、並無事產、合行開除外、據有營連事產戶數、依​フイフイ​​回回​戶體例收差」とあり。​デリヰシ​​迭里威失​は、正しくは​デルヰシユ​​迭兒微施​にて、​ペルシヤ​​珀兒沙​語乞食卽苦行の僧︀なり。故に​デルヰシユ​​迭兒微施​は、一派の名にあらず、數派の總名にして、その中に​カヂル​​喀的兒​派、​リフアイ​​哩發亦​派、​ルミ​​嚕米​派、​シヤヂリ​​沙的里​派、​バダヰ​​巴荅威​派、​ナクシユバンド​​納克施邊篤​派、​サド​​撒篤​派、​ベクタシユ​​別克塔施​派、​カルワト​​合勒哇惕​派などありき。​ダシマン​​荅失蠻​​デリヰシ​​迭里威失​戶は、​ベクタシユ​​別克塔施​派の​デルヰシユ​​迭兒微施​の家なり。

 又至元辨僞錄に曰く「釋道兩路、各不相妨。今先生言道門最高、秀才人言儒門第一、​テセ​​迭屑​人奉​ミシハ​​彌失訶​、言得生天、​タシマン​​達失蠻​叫空、謝天賜與。細思根本、皆難與佛齊」と云へり。​テセ​​迭屑​は、長春の西游記にも、辛巳の九月四日、​フイフ​​回紇​​ウイグル​​委古兒​)の都︀の西なる輪臺の東に宿れる時「​テセ​​迭屑​頭目來迎」とあり​ブレトシユナイデル​​卜咧惕施乃迭兒​曰く「​パラヂウス​​帕剌的兀思​(「支那の​クリスト​​克哩思惕​敎の古き跡形」​ルシア​​嚕西亞​の東洋の記錄一二五-一六三)に據れば、​テセ​​迭屑​は、​サツサン​​薩散​朝の時より​クリスト​​克哩思惕​敎徒を、時ありては又事火敎徒と​マヂ​​馬只​とを呼ぶに​ペルシヤ​​珀兒沙​人用ひたる帖兒撒なる詞の支那音譯なり。​アルメニア​​阿兒篾尼亞​​ハイトン​​海︀屯​は、亞細亞の諸︀國(第十四世紀の初)の談に、​タルセ​​塔兒薛​の名を​ヨグル​​約古兒​​ウイグル​​委古兒​)の國に明かに加へたり。​モンテコルヸノ​​蒙帖科兒微諾​は、同じ時ごろに北京にて書きたる手紙の中に​タルセ​​培兒薛​文字と云へる事あるは、明かに​ウイグル​​委古兒​文字を指せり。この詞を​ウイグル​​委古兒​に當てたることは、彼等の中に​ネストル​​捏思脫兒​派の​クリスト​​克哩思惕​敎の廣く流行せることを示すと、​ユール​​裕勒​(「​カセイ​​喀勢​」二〇五)は考へたり」。​ミシハ​​彌失訶​は、景敎の碑に​ミシハ​​彌施訶​と書けり。卽​メシア​​篾昔亞​にして、救世主​エス​​耶蘇​を云へるなり。また顧炎武の山東考古錄に載せたる元の泰定帝の嶽廟の碑に「​ホシヤン​​和尙​​エリケウン​​也里可溫​先生​タシマン​​達識蠻​每、不拘揀甚麼、差發休當者︀」とあり。佛も​エス​​耶蘇​も道士も​フイフイ​​回回​も、何にても徭役するなと云へるなり。


11。​クリスト​​克哩思惕​敎の東流。

 ​クリスト​​克哩思惕​敎の支那に入りたるは、唐の世にして、太宗の貞觀九年、​ネストル​​捏思脫兒​派の高僧︀​アラボン​​阿羅本​​ペルシヤ​​珀兒沙​より長安に詣り、太宗の崇敬を得てより、その敎稍行はれき。​シリア​​失哩亞​の古記に據れば、​ネストリウス​​捏思惕哩兀思​の放逐せられて後、その說は、却て​ペルシヤ​​珀兒沙​その外東方の諸︀國に廣まり、西紀四百十餘年には​ヘラト​​赫喇惕​に、第六世紀の初に[485]​サマルカンド​​撒馬兒干篤​に敎正の管區を設けたり。支那も、初は敎正の管區なりしが、第八世紀の初(玄宗の開元中)に、​ヘラト​​赫喇惕​​サマルカンド​​撒馬兒干篤​と共に大敎正の管區に陛せられき。敎主​チモシー​​提抹世​の時(七七八-八二〇)、​ダヸト​​荅微篤​と云へる支那の大敎正に任じたること見え、又第九世紀の中頃に、支那の大敎正は、他の東方諸︀國のそれらと共にその地の遠きに由り、敎會の毎四年の集會に參列せざることを許され、その事業の有樣の報吿を六年毎に送るべきことを命ぜられたること見えたり。​アラビア​​阿喇必亞​​アブサイド​​阿不賽篤​の談に據れば、八七八年(僖宗の乾符五年)に、澉浦(卽杭州)の夥しき外國居留民の一部は、​クリスト​​克哩思惕​敎徒なりと云へり。

 ​ネストル​​捏思脫兒​派の​クリスト​​克哩思惕​敎の支那に行はれたる景況は、景敎の碑に詳かなり。景敎の碑は、委しく云へば「大秦景敎流行中國碑」にして「久しく地に埋もれ居たるを、明の天啓五年(我が寬永二年)にふと掘り出したる物なり。その碑文を飜譯し注釋したる人數多き中に、​ヤンマノ​​陽瑪諾​​エンマヌエル​​奄馬努額勒​)の景敎碑頭正詮などあり。その碑文には​アラボン​​阿羅本​を大秦國(​ローマ​​囉馬​卽東​ローマ​​囉馬​)の大德と云ひ、貞觀九年に長安に至り、十二年に詔ありて京の義寧坊に大秦寺を造るとあれども、實は​アラボン​​阿羅本​​ペルシヤ​​珀兒沙​より詣り、寺の名も波斯寺と云ひしを、後に改めたる名を以て追稱したるなり。册府元龜に曰く「天寶四載九月、勅波斯經敎、出自大秦。傳習而來、久行中國。爰初建寺、因以爲名。將以示人、必循其本。其兩京波斯寺、宜改爲大秦寺。天下諸︀州郡有者︀、亦宜準此」とあり。杜佑の通典に(姚寬の西溪叢語、馬端臨の文獻通考も同じく)、この勅を引き、九月を七月とし、循を脩と誤れり。波斯寺を大秦寺と改められたる理由は、蓋當時​ペルシヤ​​珀兒沙​​サラセン​​撒喇先​國の領地となり、​モハメト​​抹哈篾惕​敎の中心となりたる故に、​クリスト​​克哩思惕​敎を​ペルシヤ​​珀兒沙​の宗敎の一派と見られんことを嫌ひ、かつ​クリスト​​克哩思惕​敎の起りたる​シリア​​失哩亞​の地は、もと​ローマ​​囉馬​帝國卽大秦國の領地なりし故に、「波斯經敎、出自大秦」と云へるなり。諸︀州郡に波斯寺の立てられたる事は、景敎の碑に「高宗大帝、克恭纉祖︀、潤色眞宗。而于諸︀州、各置景寺、仍崇​アラボン​​阿羅本​爲鎭國大法主。法流十道、寺滿百城」とあり。寺の名を改めたることは、固より碑には載せざれども、「天寶三載、大秦國有僧︀佶和、瞻星向化、望日朝尊。詔僧︀羅含僧︀普論等一七人、興大德佶和、於興慶宮修功德。於是天題寺牓、額戴龍書。寶裝璀翠、灼燦丹霞。睿札宏空、騰凌激日。寵賓︀比南山峻極、沛澤與東海︀齊深」とあり。この寺牓龍書は、佶和の至れる翌年、寺の名を改めたるに由り勅額を賜はれるならん。​シリア​​失哩亞​の古記に第八世紀の初に支那を大敎正の管區に陞せきとあれば、この大德信和は、蓋初めての大敎正なるべし。天寶三年は、西紀七四四年なり。

 又通典に「貞觀二年、置波斯寺」とあるは、二の上に十の字を脫したるなり。西溪叢語には「貞觀五年、有傳法​モグハロク​​穆護何祿​、將祆敎詣闕聞奏。勅令長安崇化坊立祆寺、號大秦寺、又名波斯寺」とあり。五年は、九年の誤なり。​モグ​​穆護​は、​ペルシヤ​​珀兒沙​語の​モグ​​抹古​​マヂ​​馬只​にて、祆敎の僧︀なり。唐の人は、景敎を祆敎と混じ居る故に、景敎の僧︀をも​モグ​​穆護​と云へり。​ハロク​​何祿​​アラボン​​阿羅本​の訛にて、​ア​​阿​​ハ​​何​と誤り、​ボン​​本​の字を脫したるなり。​アラボン​​阿羅本​の來朝は、貞觀九年にして、寺の建立は十二年なるを、建立の年を揭げざるは疎なり。佛祖︀統紀に「貞觀五年、勅於京師建大秦寺」とあるは、全く西溪叢語に依りて誤れるなり。

 景敎の碑は、始めに「大秦寺僧︀景淨述」、末に「大唐建中二年、歲在作噩、太簇月七日、大耀森文日建立。時僧︀寧恕知東方之景眾也」とありて、卽西紀七八一年、​チモシー​​提抹世​の敎主たる間にして、寧恕と云へる大敎正の時に立てられたり。この寧恕は、​チモシー​​提抹世​の任じたる大敎正​ダヸト​​荅微篤​の漢︀名なるか、その前の大敎正なるか、知るべからず。この碑の地に埋められたるは、武宗の佛寺を毀ち、僧︀尼を還俗せしめたる時の事なるべし。

 舊唐書武宗紀會昌五年(西紀八四五年)「四月、勅祠部檢括天下寺及僧︀尼人數。大凡寺四千六百、蘭若四萬、僧︀尼二十六萬五百。七月、勅併省天下佛寺。中書門下條疏聞奏「據令式、諸︀上州、國忌日、官吏行香於寺。[486]其上州、望各留寺一所。其下州、竝廢。其上都︀(長安)(洛陽)東都︀兩街、請留十寺、寺僧︀十人」。勅曰「上州合留寺、工作精︀妙者︀留之、如破落、亦宜廢毀。其合行香日、官吏宜於道觀。其上都︀下都︀、每街留寺兩所、寺留僧︀三十人」。四街にて寺八所、僧︀二百八十人なり。佛祖︀統紀には「天下州郡、各留一寺、上寺二十人、中寺十人、下寺五人」とあり。本紀と稍異なり。その續きに「中書又奏「天下廢寺銅像鐘磬、委鹽鐵使鑄錢。其鐵像、委本州鑄爲農器︀。金銀鍮石等像、銷付度支。衣冠士庶之家所有金銀銅鐵之像、敕出後、限一月納官如違、委鹽鐵使、依禁銅法處分。其土木石等像、合留寺內依舊」。又奏「僧︀尼不合隷祠部、請隷鴻臚寺。其大秦​モグ​​穆護​等祠、釋敎旣巳釐革、邪法不可獨存。其人竝勒還俗、遞歸本貫、充稅戶。如外國人、送還本處收管」」。大秦​モグ​​穆護​等祠は、大秦景敎の寺と​モグ​​穆護​の祭れる祇神︀の祠とを云へるなり。外に​マニ​​摩尼​敎などある故に、等の字を加へたるなり。かくてその八月には、廢佛勵行の詔を下し、「其天下所拆寺、四千六百餘所。還俗僧︀尼二十六萬五百人、收充兩稅戶。拆招提蘭若、四萬餘所。收膏腴上田、數千萬頃。收奴婢爲兩稅戶、十五萬人。隷僧︀尼屬主客、顯明外國之敎。勒大秦​モグ​​穆護​祓三千餘人還俗、不襍中華之風」と本紀に云へり。主客は、外客を取扱ふ官司の名なり。​モグ​​穆護​の下に祓の字あり。通典卷四十に祆祠の官を載せて、視︀正五品薩寶、視︀從七品薩寶府祆正、視︀流外薩實府祓祝︀とあれば、この祓は、卽祓祝︀ならんか。又西溪叢語には勅大秦​モグ​​穆護​大祆等六十餘人、竝放還俗、」佛祖︀統記には「穆護火祆、竝勒還俗、凡二千餘人」とあり。叢語の大祆は、火祆の誤なり。然らば本紀の祓は、祆の字の誤にして、その上に火の字脫ちたるならんか。いづれにしても祆敎の徒にして、​モグ​​穆護​の同僚又は下僚なり。叢語の六十は、六千の誤ならん。六千は本紀より多く、統紀の二千は本紀より少し。

 又佛祖︀統紀に佛寺を廢する前に「會昌三年、勅天下​マニ​​末尼​寺、竝令廢能、京城女​マニ​​末尼​七十人皆死、在​フイフ​​回紇​者︀流之諸︀道、死者︀大半」とあり。これは、武宗​フイフ​​廻鶻​を征して​ウカイカガン​​烏介可汗​を擊破りたる時の處分にして、武宗紀に百官賀を稱へし時の詔を載せたり。その末段に「應在京外宅及東都︀修功德​フイフ​​廻紇​、竝勒冠帶、各配諸︀道收管。其​フイフ​​廻紇​​マニ​​摩尼​寺莊宅錢物等、竝委功德使、與御史臺及京兆府、各差官點檢收抽、不得容諸︀色人影占。如犯者︀竝處極法、錢物納官。​マニ​​摩尼​寺僧︀、委中書門下、條疏聞奏」とあり。中書門下は、​マニ​​摩尼​寺の僧︀の處分をいかに條奏したるかは、本紀に漏れたれども、武宗は旣に道士趙歸眞等に迷ひ込みて、他の宗敎を排除せんと考へ居たる時なれば。​フイフ​​廻鶻​を破れる勢に乘じて、必ず嚴酷の處分をなしたるならん。

 かくて武宗の道敎に凝り固まりたる氣燄は、佛敎のみならず、景敎祆敎​マニ​​摩尼​敎までも掃蕩したるなり。武宗は、その翌年に崩じ、叔父宣宗立ち、翌年(大中元年)佛敎の禁を弛めたれば、景敎も同時に蘇息したらんと思はる。されどもこれより衰微して前時の隆︀盛に復せざるらしく、史書にその景況を記せるもの無し。

 ​アラビア​​阿喇必亞​​イサーク​​亦撒克​の子にて​アブルフアラヂ​​阿不勒發喇只​と號する​マホメト​​馬訶篾惕​​レイナウド​​咧腦篤​​アブルフエダ​​阿不勒弗荅​一四〇二に)曰く「三七七年(西紀九八七年、宋の太宗雍熙四年)に、(​バグダート​​巴固荅惕​の)​クリスト​​克哩思惕​敎徒の坊區にある寺の後にて、​ナヂラン​​納只㘓​の一僧︀に我遇へり。その僧︀は、七年前に、​アルメニア​​阿兒篾尼亞​の敎長の命にて、五人の僧︀と共に、支那の​クリスト​​克哩思惕​敎の事務を整理せんが爲に彼の國に遣されたりき。我その旅行の事を問ひたれば、その人曰く「​クリスト​​克哩思惕​敎は支那にて全く滅びたりき。​クリスト​​克哩思惕​敎徒は、種種なる道(死方)にて死にたりき。彼等の寺は、毀たれて、​クリスト​​克哩思惕​敎徒只一人その地に殘れり。我が世話して助くべき人を一人も見出さざる故に、往きしより速に歸りたりき」と云へり」。この僧︀は、支那の都︀を​タイウナ​​太兀納​又は​タユエ​​塔余也​と呼びたるに由り、​バウシー​​保世​は、​チヤウ​​兆​​チヤウフ​​兆府​の訛ならんと云ひたれども、​キンチヤウフ​​京兆府​​キン​​京​を略きて、只​チヤウ​​兆​又は​チヤウフ​​兆府​と呼びたること無し。​ユール​​裕勒​は、​タイユエンフ​​太原府​ならんと云ひたれども、太原は宋の都︀にあらず。それらよりは宋の都︀開封府の古名​タイリヤン​​大梁​に稍近き樣なれども、これも確な[487]らず。

 ​クリスト​​克哩思惕​敎は、支那にては甚衰へ或は滅びたれども、中​アジア​​亞細亞​の諸︀國にては衰へざりき。旣に敎主​チモシー​​提抹世​(七七八-八二〇)の時に、裏海︀に臨める諸︀國にて布敎盛になり、それに續きて​トルク​​突︀兒克​の一​カガン​​可汗​と小き君長數人との改宗せし事あり。​ユール​​裕勒​の「​カセイ​​喀勢​」(一七九)に曰く「​クリスト​​克哩思惕​敎徒の史家​グレゴリ​​固咧果哩​​アブルフアラギウス​​阿不勒發喇糾思​の談に依れば、一〇〇一年(宋の眞宗咸平四年)と一〇一二年(大中祥︀符五年)との間に、​バグダート​​巴固荅惕​の(​ネストル​​捏思脫兒​派の)敎主は、​コラサン​​闊喇散​​メルウ​​篾兒兀​の大敎正より書簡を受取れり。その書簡は、​トルク​​突︀兒克​の國の奧にて遙に北東にある​ケリト​​客哩惕​の王の不思議なる改宗を述べて、その王は、​メルウ​​篾兒兀​に使を遣〈[#「遣」は底本では「造」]〉して​クリスト​​克哩思惕​敎の僧︀を求め、かつその臣民二十萬人は王に傚ひて洗禮を受けんとして居ることを吿げこしたり。敎主は、命を下して、僧︀侶敎師を派遣せしめき。一部落として​ケライト​​客喇亦惕​人の​クリスト​​克哩思惕​敎徒なりし事は、​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒の史家なる​ラシツトエツヂン​​喇失惕額丁​も證明せり」。​ケリト​​客哩惕​の王は、卽​ケレイト​​客咧亦惕​の罕なり。​アブルフアラギウス​​阿不勒發喇糾思​の談に殊にその年紀に誤り無くば、その​カン​​罕​の改宗は、​エスゲイ​​也速該​の死したる一一七〇年(宋の孝宗乾道六年)より百六七十年前なれば。その​カン​​罕​は、​エスゲイ​​也速該​​アンダ​​安荅​なる​ケレイト​​客咧亦惕​​ワンカン​​王罕​の五世又は六世の祖︀なるべし。

 元の定宗元年に蒙吉の行宮に到かなる​フランシス​​佛㘓昔思​派の​プラノカルピニ​​普剌諾喀兒闢尼​​チンギスカン​​成吉思汗​​キタイ​​奇台​征伐を述べたる後に、​キタイ​​奇台​の民の風俗を記して、「​キタイ​​奇台​人は、異敎の徒にして、已らの文字を用ふ。されども舊約新約聖書と聖父の列傳と隱居せる法師と會堂として用ひらるゝ建物とあり、その建物にて彼等は、彼等の都︀合善き時に祈︀禱す。然して彼等の中にも聖僧︀ありと彼等は云ふ。彼等は、唯一の神︀を拜み、主​エスクリスト​​耶蘇克哩思惕​を尊び、永久の生活を信ずれども、洗禮は全く無し。彼等は、我等の經典を崇び敬ひ、​クリスト​​克哩思惕​敎徒を善く待遇し、惠施の業を多く爲す。實に彼等は、全く親切にして禮儀ある民なりと見ゆ」と云へり(「​カセイ​​喀勢​」序論一二四)。​プラノカルピニ​​普剌諾喀兒闢尼​は、只傳聞に依りて書きたれば、誤りあらん。その一神︀を拜むと云へるは、儒家の上帝を敬ひ、又は道家の玉皇を崇むるを聞きて誤解したるに似たり。〈[#以後、最後までルビがほぼないので入力者が補う]〉

 ​プラノカルピニ​​普剌諾喀兒闢尼​と同じ時に、小​アルメニア​​阿兒篾尼亞​の王​ハイトン​​海︀屯​の命を受けて、​ハイトン​​海︀屯​の弟​アルメニア​​阿兒篾尼亞​の騎將​セムパト​​撏帕惕​は、定宗卽位の大會に參列せんが爲に蒙古に到れり。蒙古より還る途中​サウレコアント​​撒兀咧庫安惕​にて、​セムパト​​撏帕惕​は、​キプロス​​奇魄囉思​の王と后とその朝廷の人だちとに宛てたる書簡を送れり。​サウレコアント​​撒兀咧庫安惕​は、​ユール​​裕勒​の考へに、​ウ​​兀​は蓋​ム​​姆​の誤りにて、​サマルカンド​​撒馬兒干篤​ならんと云へり。その書簡の大意に曰く「今の汗の父(​オコダイ​​斡闊歹​)の死してより五年過ぎたることは、事實なり。されども​タルタル​​塔兒塔兒​の列侯諸︀將は、大地の面に分散したりし故に、その汗を戴かんが爲に一所に聚ることは、五年の內には殆どむづかしかりき。或る者︀は​インヂア​​印的亞​に、他の者︀は​カタ​​合塔​(支那)の國に、又は​カスガルタンガト​​喀思合兒唐合惕​​タングト​​唐兀惕​)の國に居りき。​タンガト​​唐合惕​の國は、主​エス​​耶蘇​の生れたるを拜まんと​ベスレム​​別思列姆​に至りし三王の出でたる所なり。​クリスト​​克哩思惕​の勢力は大なるものにて、その地の民は、​クリスト​​克哩思惕​敎徒なり。又​カタ​​合塔​の全土は、その三王を信ず。我嘗て自ら彼等の會堂に入りて、​エスクリスト​​耶蘇克哩思惕​の畫と黄金乳香沒藥を供する三王の畫とを見たり。彼等の​クリスト​​克哩思惕​を信じ、汗もその民も今​クリスト​​克哩思惕​敎徒となりたるは、その三王に由りてなり。彼等は、汗の諸︀門の前に會堂をもち、そこに鐘を鳴らし、木の片を敲く。‥‥我等は、東方にいづこにも散在するあまたの​クリスト​​克哩思惕​敎徒を見、又高き、古き、善き建築の、美麗なる會堂あまた、​トルク​​突︀兒克​人に壞られたるを見たり。それ故にその他の​クリスト​​克哩思惕​敎徒は、今の汗の祖︀父の前に來ぬ。彼は、彼等を最も敬ひて、崇拜の自由を與へ、又辭又は行ひを以て迫害し、彼等に陳情の正しき理由を與ふることを禁ずるの命令を出せり。かくて彼等を慢侮︀して取扱ひたる​サラセン​​撒喇先​どもも、今は同樣なる取扱をなすに至れり。‥‥又使徒聖​トマス​​脫馬思​の敎化したる​インヂア​​印的亞​の國に、​クリスト​​克哩思惕​〈[#「克哩思惕」は底本では「克哩惕」。脱字と判断し修正]〉敎を信ずる一王ありて、​サラセン​​撒喇先​なる諸︀王の中に孤立して苦みき。諸︀王は常に[488]方方より彼を攻めたる末に、​タルタル​​塔兒塔兒​は、その國に至りたれば、彼はその藩臣となりき。その時彼は、己の軍と​タルタル​​塔兒塔兒​の軍とを以て​サラセン​​撒喇先​どもを擊破り、​インヂア​​印的亞​にて夥しき捕虜︀を得たれば、​インヂア​​印的亞​の奴隷は、東方全體に滿ちたり。我この王の捕りて賣りに送りたる奴隷五萬人以上を見たり」とあり(「​カセイ​​喀勢​」序論一二七)。この書簡に述べたる事蹟は、殆ど皆根無し言なり。​ユール​​裕勒​曰く「この書簡の動機は、蓋その兄​ハイトン​​海︀屯​が、その怪しき​インド​​印度​の王の如く、​タルタル​​塔兒塔兒​の藩臣となりたることを言譯せんが爲ならん。​セムパト​​撏帕惕​は、一二七二年(至元九年)​トルク​​突︀兒克​人との戰にて死にき」。

 ​フランス​​佛㘓西​​ルイ​​路易​第九は、​バド​​拔都︀​の子​サルタク​​撒兒塔黑​​クリスト​​克哩思惕​敎徒なるを聞き、​タルタル​​塔兒塔兒​の國情を探りかつ敎化せんが爲に、​フランシス​​佛㘓昔思​派の僧︀​ルブルク​​嚕卜嚕克​を東方に派遣せり。​ルブルク​​嚕卜嚕克​は、一二五三年(憲宗三年)五月、公士但丁堡より黑海︀を渡り、​クリミア​​克哩米亞​を過ぎ、​ブルガ​​佛勒噶​河の畔に至り、​サルタク​​撒兒塔黑​に見えしが、​サルタク​​撒兒塔黑​は聞きしに違ひ、頑なる不信者︀なりき。​コヂヤト​​科札惕​と云へる​ネストル​​捏思脫兒​敎徒、異敎徒にも劣れりと​ルブルク​​嚕卜嚕克​の誹れる大臣ありて、​サルタク​​撒兒塔黑​に紹介し、謁︀見の事を取計ひ、​ルブルク​​嚕卜嚕克​を欺きてその衣服を奪へり。それより​ブルガ​​佛勒噶​河に傍ひて泝り、​バト​​巴禿​汗の營に至り、それより又四箇月の長旅にて、その年の冬、憲宗の行宮に達しき。

 憲宗は、​ネストル​​捏思脫兒​派の僧︀侶に​ルブルク​​嚕卜嚕克​の使命を問はしめたる上にて、謁︀見を許し、蒙古に住みて布敎せんとする​ルブルク​​嚕卜嚕克​の願をば却けたれども、家を與へて、寒さの緩むまで二月ほど留まること、望むならば​カラコルム​​喀喇科嚕姆​に往くことを許せり。​ルブルク​​嚕卜嚕克​の觀たるには、​マング​​曼古​とその家族とは、​クリスト​​克哩思惕​​ムハメト​​木哈篾惕​敎佛敎の法事に區別なく加はり、各の宗敎の與へんと云ふ福︀を慥にせんとせり。​クリスト​​克哩思惕​敎は、​ネストル​​捏思脫兒​派のそれにして、その宗派のいかに墮落したるかは、​ルブルク​​嚕卜嚕克​の述べたる畫の如き珍談に由りて察せらる。或る祭の日に​マング​​曼古​の正妻は、その子どもを伴れて、​ネストル​​捏思脫兒​派の寺に入り、その派の風習に從ひ、聖像の右手に接吻し、己の右手を與へて接吻せしめき。​マング​​曼古​も居て、その妻と神︀案の前なる金着せの椅子に坐り、​ルブルク​​嚕卜嚕克​とその隨行者︀とに歌はしめたれば、二人は​ヹニサンクテスピリトス​​吠尼散克帖思闢哩禿思​(聖靈來)を唱へき。帝はその後直に去りたれども、皇后は後に留りて、​クリスト​​克哩思惕​敎徒に賜物を與へ、米酒葡萄酒馬乳酒を取寄せ、自ら盞を取り、跪きて福︀を求め、后の飮む間僧︀徒は歌ひ、然る後僧︀徒は醉ふまで飮みけり。かくてその日を過し、夕に向ひ皇后も同じく醉ひ、輿に乘りて歸るを、僧︀徒は歌ひつゝ吠えつゝ護送せり。

 他の折に​ルブルク​​嚕卜嚕克​は、​ネストル​​捏思脫兒​派の僧︀衆​アルメニア​​阿兒篾尼亞​の一僧︀と列を成して、​マング​​曼古​の宮殿に往きけり。內に入る時、一人の僕、​シヤマン​​沙曼​​ウラナ​​卜​ひに用ひたる羊の肩骨の燻したるを持ち出づるを見たり。僧︀徒は、香爐を持ち往きて、帝の身に香氣を與へ、その蓋を祝︀して然る後に眾皆飮みき。皇族の人人にも、次次に見えき。​ネストル​​捏思脫兒​派の考へたる​クリスト​​克哩思惕​敎の禮拜は、高き所に十字架を新しき絹の一片の上に置きて、その前にひれふすなりき。

 前に記せる三の宗派は、常に改宗を勸め居りて、彼等の大なる望みは、合罕を引入るゝことなれども、​マング​​曼古​は中立して、いづれをも寬大に扱へり。一日​ルブルク​​嚕卜嚕克​に語りて曰く「我が朝廷の人人は、唯一にして長生なる同じ神︀を拜むものなれば。各の方式にてそれを崇むることを許されざるべからず。あらゆる宗派の人に我が恩寵を分け與ふるは、いづれも我が意に適ふことを著︀さんが爲なり」と云ひき。歷史家​ヂユヹニ​​主吠尼​は、​マング​​曼古​はおもに​ムハメト​​木哈篾惕​敎徒をひいきせしことを云へるに、​ハイトン​​海︀屯​​ステフエンオルフエリアン​​思帖返斡兒弗里安​とは、​クリスト​​克哩思惕​敎徒最ひいきせられしことを主張せり(​ホヲルス​​訶倭兒思​〈[#「訶倭兒思」は底本では「訶兒倭思」]〉一、一九〇)。

 されども​クリスト​​克哩思惕​​ムハメト​​木哈篾惕​・佛陀の三敎は、皆朝廷の贅澤〈[#「贅澤」は底本では「聱澤」]〉に過ぎず。蒙古の國民の實行するは、​シヤマン​​沙曼​敎にして、舊の如く國敎となり居たり。​ルブルク​​嚕卜嚕克​の記載に據れば、​シヤマン​​沙曼​僧︀徒の長は、皇宮より石の投げらる距離に[489]住みて、偶像を運ぶ輿を預れり。

 ​シヤマン​​沙曼​どもは、星占を行ひ、(日月の)蝕を豫言し、吉日凶日を指定し、朝廷の用に供せらるゝ物、合罕に獻れる物を火を以て淨め、誕生の時に星命を說き、病牀に​オ​​招​がれて醫療を行へり。彼等もし人を害せんとすれば、その人未來の禍︀を起さんことを訴ふるのみにて足れり。彼等は、惡鬼を呼ぶ時、大鼓を擊ちて、感覺を失ふまで己が心を剌激し、その惡鬼より答を得たりと云ひて、その答を神︀託と宣言せり。

 復活祭の日(憲宗四年)に、​ルブルク​​嚕卜嚕克​は、​カガン​​合罕​に從ひて、​カラコルム​​喀喇科嚕姆​に至れり。この都︀の狀を​ルブルク​​嚕卜嚕克​の述べたる談は、實錄六一三頁の注に引けり。又皇宮の中堂の高御座の前に當り、銀の樹ありて、四の銀の獅子の上に立ち、その獅子の口より四の銀の罍に葡萄酒馬乳酒糖蜜酒米酒流れ出づ。樹の頂に銀の天使ありて四の噴泉を供する酒池涸れて注入を要する時に喇叭を吹く。この珍奇なる銀細工は、​ハンガリア​​洪噶哩亞​​ベルグラド​​別勒果囉篤​(白城)にて捕はたれる​パリ​​帕哩​の銀工​ギヤウム​​吉要姆​​ボーシエー​​孛舍​の作にして、それを作るに銀三千​マルク​​馬兒克​を費しき。この銀工の外に、​ルブルク​​嚕卜嚕克​は、​カラコルム​​喀喇科嚕姆​にてあまたの​クリスト​​克哩思惕​敎徒・​ハンガリ​​洪噶哩​人・​アラン​​阿闌​人・​ルス​​嚕思​人・​グルヂ​​古兒只​​ヂヨルヂア​​勺兒只亜​)人・​アルメニア​​阿兒篾尼亞​人に遇ひき。蒙古に五箇月留まりたる後、​ルブルク​​嚕卜嚕克​は、歸國の途に上り、​ルイ​​路易​第九の書簡に答ふる​カガン​​合罕​の返書を與へられき。その書は、穩なる辭にて述べたれども、通例の如く、その國の遠きことゝ强きこととを恃まずに服從すべきを命じて結べり(​ホヲルス​​訶倭兒思​一、一九一)。

 又​ルブルク​​嚕卜嚕克​は、支那を​カタイ​​喀台​と、西遼卽​カラキタイ​​合喇乞台​​カラカタイ​​喀喇喀台​と呼びて、その紀行に「此等の(​カラ​​喀喇​​カタイ​​喀台​人は、我が通りたる或る山中の草地(​アルプス​​阿勒魄思​)に住みき、其等の山中の或る野に、威力ある羊飼︀にして、​ナイマン​​乃蠻​と云ふ人民の主君なる​ネストル​​捏思脫兒​敎徒居りき。その人民は、​ネストル​​捏思脫兒​派の​クリスト​​克哩思惕​敎徒なりき、​コイル​​科亦兒​汗死にし時に、その​ネストル​​捏思脫兒​敎徒は、(彼に代り)自ら王となり、​ネストル​​捏思脫兒​敎徒どもは、その人を王​ヂヨハン​​約翰​と呼びてその事蹟を眞實より十倍多く語りき。それは、世界のその方より來ぬる​ネストル​​捏思脫兒​敎徒どもの常にして、最驚くべき物語を烏有の中より引き出すことを好み、​サルタク​​撒兒塔黑​​クリスト​​克哩思惕​敎徒なることを言ひふらしたるも、彼等にて、​マング​​曼古​汗と肯汗とにつきても、同じ事を語れり、事實は、たゞその汗だちは、​クリスト​​克哩思惕​敎徒を他の民より重く取扱ふのみにて、嘗て少しも​嘗​​克哩思惕​敎徒に非ず、かゝる成行にて王​ヂヨハン​​約翰​につき大なる物語行はれけれども、その遊牧地なりし所を我が過ぎたる時すら、わづかなる​ネストル​​捏思脫兒​敎徒の外は、誰も​ヂヨハン​​約翰​につきて何事をも知らざりき。その遊牧地を今占領したる肯汗の朝廷には、​フラテル​​富喇帖兒​(敎會の兄弟)​アンドレ​​安篤咧​立寄り、我は歸り路にそこを過ぎけり。この​ヂヨハン​​約翰​に、一人の兄弟ありて、それも遊牧民の大首領にて、その名は​オンク​​翁克​と云ひ、​カラカタイ​​喀喇喀台​​アルプス​​阿勒魄思​の他(東)の方にて、その兄弟より二十日路ばかり隔たれる所に住み、​カラコルム​​喀喇科嚕姆​と云ふ小き町の主君にして、​クリトメルキト​​克哩惕篾兒奇惕​と云ふ人民を管きたりき、此等の人民も、​ネストル​​捏思脫兒​派の​クリスト​​克哩思惕​敎徒なりき。されどもその主君は、​クリスト​​克哩思惕​敎を棄てて、偶像敎に歸依し、己の傍に居らしめたる偶像の僧︀どもは、皆惡鬼の呪ひ託宣を事とするものなり、又その遊牧地より十日又は十五日行きたる所に​モアル​​抹阿勒​と云ふ甚貧しき部落の遊牧地ありき。その部落には、會長も無く、其邊のあらゆる人民の信ずるが如き占ひ呪ひの外に宗敎も無し。​モアル​​抹阿勒​の次に、又​タルタル​​塔兒塔兒​と云ふ他の貧しき部落ありき。時に王​ヂヨハン​​約翰​は、嗣子を遺さずに死にたれば、​オンク​​翁克​入りて自ら汗と稱し、その羊馬の群は、​モアル​​抹阿勒​の界までも廣がりき。その時​モアル​​抹阿勒​の部落の內に​チンギス​​成吉思​と云へる鍛冶ありて、機會あるごとに​オンク​​翁克​汗の家畜を掠むることを常としたれば、​オンク​​翁克​汗の牧人は、大なる苦情をその主に陳べたり。かくて​オンク​​翁克​は、軍を聚めて、​チンギス​​成吉思​の罪を責めて​モアル​​抹阿勒​の地に攻め入りたれば、​チンギス​​成吉思​は、​タタル​​塔塔兒​の地に遁げてそこに身を匿せり云云」と云へり(​ユール​​裕勒​の「​カセイ​​喀勢​」一七七)。

 この紀行の​コイル​​科亦兒​汗は、​カラキタイ​​合喇乞台​​グルカンチルグ​​古兒罕直魯古​を、王​ヂヨハン​​約翰​は、​ナイマン​​乃蠻​​グチユルクカン​​古出魯克罕​を云へるなり。[490]​クチユルク​​克出魯克​​ヂヨハン​​約翰​と云へるは、その頃​エウロパ​​歐囉巴​にて、​アジア​​亞細亞​の奧に、​プレスビテル​​普咧思必帖兒​​ヂヨハン​​約翰​と呼ばるゝ​クリスト​​克哩思惕​敎を信ずる國君ありて、​モハメト​​抹哈篾惕​敎徒を擊破れりと云へる傳奇の說行はれ居たるに由り、​クリスト​​克哩思惕​敎徒なりと聞ける​ナイマン​​乃蠻​​カン​​罕​をその​ヂヨハン​​約翰​に古事附けたるなり。


成吉思汗實錄續編



  1. 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/950907
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