列傳卷九、鐵邁赤テマイチ、合魯カル氏。太祖︀の時、忽蘭クラン皇后の挏馬官。至元七年、蒙古諸︀萬戶府の奧魯アウル總管。
列傳卷七、曷思麥里カスメリ、西域谷則斡兒朶グツエオルド人、初爲西遼闊兒罕コルカン近侍。谷則斡兒朶グツエオルドは、遼史天祚紀に見えたる耶律大石エリユタイシの都︀虎思斡耳朶フスオルド、西遼の闊兒罕コルカンは、合喇乞塔惕カラキタトの古兒罕グルカンなり。曷思麥里カスメリの者︀別ヂエベに從ひ西域諸︀國に轉戰したることは、實錄卷十一の注に引けり。太祖︀の末年、必闍赤ビジエチ。太宗四年、懷孟州の達魯花赤ダルハチ。十一年、長子捏只必ネヂビ、懷孟州の達魯花赤ダルハチを襲ぎ、次子密里吉ミリギ、必闍赤ビジエチを襲ぎ、曷思麥里カスメリは札魯火赤ヂヤルホチとなり、十二年懷孟河南二十八處の都︀達魯花赤ダルハチに進めり。
六。撒兒惕サルト卽回回フイフイ。
列傳卷七、札八兒火者︀ヂヤバルホヂヤ、賽夷サイイ人。賽夷サイイ、西域部之族長也、因以爲氏。火者︀ホヂヤ、其官稱也。火者︀ホヂヤ卽闊札コヂヤは、抹哈篾惕モハメト敎の一派なる賽亦惕サイイト派の人の用ふる稱號なり。賽夷人は、卽賽亦惕サイイト派の人にして、地の名に非ず。賽亦惕サイイトは、族長に非ずして、宗派の長なり。その長は、賽亦惕サイイト何某と稱するが故に氏と誤れるなり。この傳には、疑はしきことのみ多し。札八兒ヂヤバルは、西域の人なれば、太祖︀に降れるは、太祖︀西征の後にあるべきを、克烈ケレイの汪罕ワンカンとの戰には班朱尼バンヂユニ河の誓に與れりとし、南征の役には居庸關の間道を前導せりとして、者︀別ヂエベの南口より襲へる事實と撞着せり。金人汴に遷りて、乘輿北に歸る時、「留札八兒ヂヤバル、與諸︀將守中都︀」も、本紀諸︀傳に見えざるのみならず、「授黄河以北鐵門以南天下都︀達魯花赤ダルハチ」と云へるに至りては、恐らくは誇張の言なるべし。「有丘眞人者︀、有道之士也、隱居崑崙山中。太祖︀聞其名、命札八兒ヂヤバル往聘之。云云」と云へるも、西游記に「住萊州昊天觀。成吉思チンギス皇帝遣侍劉仲祿、縣虎頭金牌、傅旨敦請」とあるに合はず。この時は、大軍正に西に進める時なれば、札八兒ヂヤバルは未太祖︀にも降らず、丘眞人の名をも知らざりけん。卒したるは何年とも云はずして、年は一百一十八なり。長子阿里罕アリカンは、憲宗の時天下の質子兵馬都︀元帥。
列傳卷十、阿剌瓦而思アラワルス、回鶻八瓦耳フイフバワル人。仕其國爲千夫長。太祖︀征西域、駐蹕八瓦耳バワル之地。阿剌瓦而思アラワルス、率其部曲來降、從帝親征。云云、沒于軍。八瓦耳バワルは、閣喇散コラツサンの巴兀兒篤バウルドなるべし。巴兀兒篤バウルドに至れるは、太祖︀に非ず、他の將なるべし。「子阿剌瓦丁アラワヂン(阿來兀丁アライウツヂン)從世祖︀北征有功」。その子贍思丁シエンスヂンに子五人あり。長は烏馬兒ウマル(斡馬兒オマル)、次は不別ブベ、次は忻都︀ヒンド、次は阿合馬アハマ(阿呵篾惕アハメト)、次は阿散不別アサンブベ。阿散不別アサンブベの子斡都︀蠻オドマン(斡惕蠻)。
列傳卷十二、賽典赤贍思丁サイデンチシエンスヂン、一名烏馬兒ウマル、回回フイフイ人、別菴伯爾ベアンベル之裔。其國言賽典赤サイデンチ、猶華言貴族也。太祖︀西征贍思丁シエンスヂン率千騎、以文豹白鶻迎降。命入宿衞、從征伐、以賽典赤サイデンチ呼之而不名。別菴伯爾ベアンベルの事は、常德の西使記に「報達バウダ之西、馬行二十日、有天房、內有天使神︀胡之祖︀葬所也。師名癖顏八兒ビヤンバル〈[#ルビの「ビヤンバル」は底本では「ビヤバル」。他の「癖顏八兒」のルビに倣い修正]〉。房中懸鐵絚。以手捫之、心誠可及、不誠者︀竟不得捫。經文甚多、皆癖顏八兒ビヤンバル所作」とあり。別菴伯爾ベアベルも、癖顏八兒ビヤンバル〈[#「癖顏八兒」の「八」は底本では印刷が薄いが他のルビに倣い修正]〉も、珀兒沙語にて豫