擒之、以功受賞」。脫脫トトは、土土哈トトハの傳の脫脫木トトムか、又は太宗の第四子哈剌察兒ハラチヤル王の子脫脫トト大王なるべし。大德六年卒、子那海︀產ノハイシヤン襲其職。至大二年、進宣武將軍、右衞阿速アス親軍都︀指揮使、賜三珠虎符。泰定二年、單加明威將軍」。
列傳卷二十二「徹里チエリ、阿速アス氏。父別吉八ベギバ、在憲宗時、從攻釣魚山、以功受賞。徹里チエリ事世祖︀、充火兒赤ホルチ。從征海︀都︀ハイド、奮戈擊其前鋒。官軍二人陷陣、抜而出之。以功受賞。後從征杭海︀ハンガイ、獲其牛馬畜牧、悉以給軍食。帝嘉之、賞鈔三千五百錠、仍以分資士卒。成宗時、盜據博落脫兒ボロトル之地。命將兵討之、獲三千餘人、誅其曾長。還奉命、同客省使拔都︀兒バードル等、往八兒胡バルフ之地、以前所獲人口畜牧、悉給其主。軍還、帝特賜鈔一百錠。武宗在潛邸、亦以銀酒器︀賞之」。博落脫兒ボロトルは、成宗紀に□□□□□□□□拔都︀兒バードルは、阿速アスの拔都︀兒バードルに非ず、□□□□□□□□「至大二年、立左阿速アス衞、授本衞僉事、賜金符。皇慶二年、從湘寧王(顯宗甘麻剌ガマラの第三子送里哥兒不花デリゲルブハ)北征、以功賜一珠虎符。子失列門シレムン直宿衞」。天曆元年、屢上都︀の兵と戰ひ、「以功授左衞阿速アス親軍都︀指揮使司僉事。」
9。阿速アスの克哩思惕クリスト敎。
阿速アスは、古くより高喀速カウカス山の北の麓に住みたる部族にして、史記漢︀書の奄蔡、漢︀書陳湯の傳なる闔蘇、三國志の注に引ける魏略の西戎傳に「奄蔡國、一名阿蘭」とあるは、卽この阿速アスなり。(實錄五二四阿速惕アストの注を見よ。)西紀の初頃より吉哩沙ギリシヤ囉馬ローマの書に、その後の東囉馬ヒガシローマ阿喇必亞アラビアの書に見えたる阿蘭アランの名は、魏略の阿蘭アランに同じく、嚕西亞ルシアの舊史に見えたる牙矢ヤシは、奄蔡エンツアイに近し。經世大典の圖に阿蘭阿思アランアスとあるは、阿蘭アラン卽阿思アスと云へる意にて、阿思は卽阿速、亦卽漢︀書の圏蘇なり。祕史に阿速惕とあるは、蒙語の複稱なり。
馬速的マスヂは、第十世紀の初に、阿闌アランの事を委しく述べ、その都︀を馬阿思マアスと呼び、「阿闌アランの國と高喀速カウカス山との間に、寨と大河に架する橋とあり。寨は、阿闌アランの寨の名にて知らる。それは、古の時、阿闌アラン人の侵伐を禦がんが爲に珀兒沙ペルシヤの王亦思分的阿兒イスフエンヂアルの築きし物なり」と云ひ、又「阿闌アラン人は、克哩思惕クリスト敎徒なりき。されども後に亦思藍イスラム敎を奉じき」と云へり。普剌諾喀兒闢尼プラノカルピニは、阿剌尼アラニ卽阿昔アシと呼びて、その住處を科馬尼亞コマニア(科曼コマン卽欽察キムチヤの國)の南に記せり。嚕卜嚕克ルブルクは(二四六に)、南嚕西亞ルシアの曠原を西方より通りたることを記して、こに喀魄察惕カブチヤトと呼ばるゝ寬馬尼コンマニ遊牧せり。獨逸︀人には、そは縛剌尼ヷラニと、その領地は縛剌尼亞ヷラニアと呼ばる。亦昔朶嚕思イシドルスは、塔主タナイ〈[#「塔主」はママ。「主」は「乃」の誤植と思われる]〉(端ドン)より篾斡提思河荅紐卜河の沼多き野までを阿剌尼亞アラニアと呼べり」と云ひ、二五二頁には「彼等(科曼コマン人)は、南に高き山をもつ。その山の麓に、荒野を亙りて橫さまに徹兒奇思チエルキスと阿剌尼アラニ卽阿阿思アアスと住めり。それらは、克哩思惕クリスト敎徒にて、今(一二五四年、憲宗四年)まで塔兒塔兒タルタル人に抗ひて戰へり」と云ひ、又二四三頁には「五十日祭の朝に(一二五三年、憲宗三年。その時この人は、端ドン河に近き或る處に在りき)。或る阿剌尼アラニ人、又阿阿思アアス人とも呼ばるゝもの、我等を問ひき。それらは、吉哩沙ギリシヤの禮式に從ふ克哩思惕クリスト敎徒にて、吉哩沙ギリシヤの文字と吉哩沙ギリシヤの僧︀侶とを持てり」とあり。阿不勒弗荅アブルフエダ(二、二八七)の引ける亦本賽篤イブンサイド(第十三世紀)は、阿闌アランと阿思アスとを二種に分けたれども、阿思アスは、阿闌アランの近所に住み、同じく突︀兒克トルク種に屬し、同じく克哩思惕クリスト敎を奉じたりと云へり。勺撒佛巴兒巴囉ヂヨザフオバルバロ(一四三六年、明の正統元年)は、その紀行に「阿剌尼亞アラニアなる名は、阿剌尼アラニなる俗名より出でたり。阿剌尼アラニは、その國語にて阿思アスを稱するなり」と記せり。
馬兒科保囉マルコポーロの紀行にある、克哩思惕クリスト敎徒なる阿闌アランの兵士の、常州府にて殺︀されたる談は、前の伯顏バヤンの條に引けり。馬哩固諾里マリグノリ(裕勒ユールの「喀勢カセイ」三七三)は、第十四世紀の中頃に阿闌アランの事を記して「彼等は、今日にては世界の最大なる最貴き國民にして、人の最美しく最强きものとなれり。塔兒塔兒タルタルは、彼等の助に依り東の