列傳卷十一、塔本タブン、伊吾盧イウル人、伊吾盧イウルは、合木兒カムル卽今の哈密ハミの古名にして、委兀惕ウイウトの地なり。「父宋五設託陀スングシエトド。訛陀トド者︀、其國主所賜號、猶華言國老也」とあり。その國主は、卽委兀惕ウイウトの君なり。塔本タブンは、太祖︀の時、興平行省の都︀元帥。太宗二年詔して中山平定平原を益して行省に隸せり。
列傳卷十一、哈剌亦哈赤北魯ハライハチベル、畏兀ウイウ人也。この傳に八兒出阿兒忒亦都︀護バルチユアルテイドクとあるは、卽列傳卷九の巴而朮阿而忒的斤亦都︀護バルチユアルテチキンイドク、西遼主鞠兒可汗グルカガンとあるは、秘吏の合喇乞塔惕カラキタトの古兒罕グルカンなり。八兒出阿兒忒バルチエアルテの父の名月仙帖木兒ユセンテムルは、この傳にのみ見ゆ。哈剌亦哈赤北魯ハライハチベルの子月朶失野訥ユドシエヌは、太祖︀の時、都︀督にて獨山城の達魯花赤ダルハチを兼ね、その子乞赤宋忽兒キチスンクルは、太宗の時、爵を襲ぎ、荅剌罕ダラカンの號を賜はれり。
列傳卷十一、塔塔統阿タタトンガ、畏兀ウイウ人也。乃蠻ナイマンの大敭可汗タヤンカガン(塔陽罕タヤンカン)に尊用せられ、國亡びて後太祖︀に事へたることは、序論の初に云へり。太宗の時內府の玉璽金帛を司り、その妻吾和利ウコリ氏は、皇子哈剌察兒ハラチヤルの乳母となれり。
列傳卷十一、岳璘帖穆爾ヨリンテムル、回鶻フイフ人、畏兀ウイウ國相暾欲谷トンヨクコク之裔也。其兄仳理伽普華ビリガブカ、年十六、襲國相荅剌罕ダラハン。歐陽玄の高昌偰セ氏家傳に曰く「偰セ氏、其先世曰暾欲谷トンヨクコク、本突︀厥トツケツ部。突︀厥トツケツ亡、其地入於回紇フイフ、暾欲谷トンヨクコク之子孫、世爲其國相。嘗從其主、居偰輦セレン河、因以偰セ爲氏。數世至克直普爾ケチブル、襲本國相荅剌罕ダラハン、錫號阿大都︀督。遼主授以太師大丞相、總管內外藏事。國人稱之曰藏赤立ツアンチリ。死、子岳弼ヨビ襲。岳弼ヨビ七子、曰達林ダリン、曰亞思弼アスビ、云云、曰多和思ドコス」。亞思弼アスビの長子仳埋伽帖穆爾ビリガテムルは、卽傳の仳理伽普華ビリガブカなり。畏兀ウイウの亦都︀護イドク、西遼の監使を殺︀して蒙古に降れるは、仳理伽普華ビリガブカの計に從へるなり。岳璘帖穆爾ヨリンテムルは、太祖︀の時、河南等處軍民の都︀達魯花赤ダルハチ、太宗の時、大斷事官。その子合剌普華カラブカの事は、忠義傳(列傳卷八十)にあり。
列傳卷二十一、撒吉思サギス、回鶻フイフ人、其國阿大都︀督多和思ドコス之次子也。卽阿思弼アスビの孫にして、岳璘帖穆爾ヨリンテムルの從弟なり。太祖︀の弟斡眞オヂン(斡赤斤オチギン)の必闍赤ビジエチ〈[#「必闍赤」は底本では「闍」の印刷が薄くて読めない。他ルビ「ビジエチ」に倣い修正]〉となり、斡赤斤オチギン薨じたるとき、火魯和孫ホルコスン(豁兒豁孫ゴルゴスン)と共に適孫塔察兒タチヤルを擁立したることは、前の豁兒豁孫ゴルゴスンの條に引けり。世祖︀の時、山東行省の大都︀督にて益都︀の達魯花赤ダルハチを兼ねき。撒吉思サギスの孫荅里麻ダリマは、別に(列傳卷三十一に)傳あり、「高昌人、大父撒吉斯サギス」と云へり。高昌は、委兀ウイウの地の古名なり。
列傳卷十一、孟速思メンスス、畏兀ウイウ人、世居別失八里ベシバリ、古北庭都︀護之地。別失八里ベシバリは、委兀惕ウイウトの都︀必失巴里克ビシバリクにして、唐の北庭都︀護府の地なり。孟速思メンスス年十五にして本國の書に通じたるを太祖︀聞きて、召し見てに大に悦び「此兒目中有火、他日可大用」と曰へりとあるは、蒙古の韻語なる「目に火あり、面に光あり」を半だけ譯したるなり。世祖︀の時、斷事官。
列傳卷十二、布魯海︀牙ブルハイヤ、畏吾ウイウ人也。太宗三年、燕南諸︀路の廉訪使兼斷事官、世祖︀の時、順德等路の宣慰使。廉使を命ぜられたる日に子希憲生れしかば、布魯海︀牙ブルハイヤ喜びて「吾聞、古以官爲姓。天其以廉爲吾宗之姓乎」と云ひ、子孫皆廉氏となれり。廉希憲は別に傳あり(列傳卷十三)。