其上州、望各留寺一所。其下州、竝廢。其上都︀(長安)(洛陽)東都︀兩街、請留十寺、寺僧︀十人」。勅曰「上州合留寺、工作精︀妙者︀留之、如破落、亦宜廢毀。其合行香日、官吏宜於道觀。其上都︀下都︀、每街留寺兩所、寺留僧︀三十人」。四街にて寺八所、僧︀二百八十人なり。佛祖︀統紀には「天下州郡、各留一寺、上寺二十人、中寺十人、下寺五人」とあり。本紀と稍異なり。その續きに「中書又奏「天下廢寺銅像鐘磬、委鹽鐵使鑄錢。其鐵像、委本州鑄爲農器︀。金銀鍮石等像、銷付度支。衣冠士庶之家所有金銀銅鐵之像、敕出後、限一月納官如違、委鹽鐵使、依禁銅法處分。其土木石等像、合留寺內依舊」。又奏「僧︀尼不合隷祠部、請隷鴻臚寺。其大秦穆護モグ等祠、釋敎旣巳釐革、邪法不可獨存。其人竝勒還俗、遞歸本貫、充稅戶。如外國人、送還本處收管」」。大秦穆護モグ等祠は、大秦景敎の寺と穆護モグの祭れる祇神︀の祠とを云へるなり。外に摩尼マニ敎などある故に、等の字を加へたるなり。かくてその八月には、廢佛勵行の詔を下し、「其天下所拆寺、四千六百餘所。還俗僧︀尼二十六萬五百人、收充兩稅戶。拆招提蘭若、四萬餘所。收膏腴上田、數千萬頃。收奴婢爲兩稅戶、十五萬人。隷僧︀尼屬主客、顯明外國之敎。勒大秦穆護モグ祓三千餘人還俗、不襍中華之風」と本紀に云へり。主客は、外客を取扱ふ官司の名なり。穆護モグの下に祓の字あり。通典卷四十に祆祠の官を載せて、視︀正五品薩寶、視︀從七品薩寶府祆正、視︀流外薩實府祓祝︀とあれば、この祓は、卽祓祝︀ならんか。又西溪叢語には勅大秦穆護モグ大祆等六十餘人、竝放還俗、」佛祖︀統記には「穆護火祆、竝勒還俗、凡二千餘人」とあり。叢語の大祆は、火祆の誤なり。然らば本紀の祓は、祆の字の誤にして、その上に火の字脫ちたるならんか。いづれにしても祆敎の徒にして、穆護モグの同僚又は下僚なり。叢語の六十は、六千の誤ならん。六千は本紀より多く、統紀の二千は本紀より少し。
又佛祖︀統紀に佛寺を廢する前に「會昌三年、勅天下末尼マニ寺、竝令廢能、京城女末尼マニ七十人皆死、在回紇フイフ者︀流之諸︀道、死者︀大半」とあり。これは、武宗廻鶻フイフを征して烏介可汗ウカイカガンを擊破りたる時の處分にして、武宗紀に百官賀を稱へし時の詔を載せたり。その末段に「應在京外宅及東都︀修功德廻紇フイフ、竝勒冠帶、各配諸︀道收管。其廻紇フイフ及摩尼マニ寺莊宅錢物等、竝委功德使、與御史臺及京兆府、各差官點檢收抽、不得容諸︀色人影占。如犯者︀竝處極法、錢物納官。摩尼マニ寺僧︀、委中書門下、條疏聞奏」とあり。中書門下は、摩尼マニ寺の僧︀の處分をいかに條奏したるかは、本紀に漏れたれども、武宗は旣に道士趙歸眞等に迷ひ込みて、他の宗敎を排除せんと考へ居たる時なれば。廻鶻フイフを破れる勢に乘じて、必ず嚴酷の處分をなしたるならん。
かくて武宗の道敎に凝り固まりたる氣燄は、佛敎のみならず、景敎祆敎摩尼マニ敎までも掃蕩したるなり。武宗は、その翌年に崩じ、叔父宣宗立ち、翌年(大中元年)佛敎の禁を弛めたれば、景敎も同時に蘇息したらんと思はる。されどもこれより衰微して前時の隆︀盛に復せざるらしく、史書にその景況を記せるもの無し。
阿喇必亞アラビア人亦撒克イサークの子にて阿不勒發喇只アブルフアラヂと號する馬訶篾惕マホメト(咧腦篤レイナウドの阿不勒弗荅アブルフエダ一四〇二に)曰く「三七七年(西紀九八七年、宋の太宗雍熙四年)に、(巴固荅惕バグダートの)克哩思惕クリスト敎徒の坊區にある寺の後にて、納只㘓ナヂランの一僧︀に我遇へり。その僧︀は、七年前に、阿兒篾尼亞アルメニアの敎長の命にて、五人の僧︀と共に、支那の克哩思惕クリスト敎の事務を整理せんが爲に彼の國に遣されたりき。我その旅行の事を問ひたれば、その人曰く「克哩思惕クリスト敎は支那にて全く滅びたりき。克哩思惕クリスト敎徒は、種種なる道(死方)にて死にたりき。彼等の寺は、毀たれて、克哩思惕クリスト敎徒只一人その地に殘れり。我が世話して助くべき人を一人も見出さざる故に、往きしより速に歸りたりき」と云へり」。この僧︀は、支那の都︀を太兀納タイウナ又は塔余也タユエと呼びたるに由り、保世バウシーは、兆チヤウ卽兆府チヤウフの訛ならんと云ひたれども、京兆府キンチヤウフの京キンを略きて、只兆チヤウ又は兆府チヤウフと呼びたること無し。裕勒ユールは、太原府タイユエンフならんと云ひたれども、太原は宋の都︀にあらず。それらよりは宋の都︀開封府の古名大梁タイリヤンに稍近き樣なれども、これも確な