天澤曰「彼皆吾民、但爲賊所脅耳。殺︀之何罪」。力爭得釋」とありて、殺︀さんとしたるは肖乃台シヤウナイタイなり。肖乃台シヤウナイタイは蒙古、史天澤は漢︀人なれば、寬仁の名は、恐らくは肖乃台のものにあらざるべし。
列傳卷九、按札兒アンヂヤル、拓跋トバ氏。氏族表に「疑卽禿別トベ之轉、借古名譯之」とあれば、肖乃台シヤウナイタイの同姓なるべし。太祖︀十四年己卯、木華黎ムカリの前鋒總帥。
列傳卷九、槊直腯魯華シユチトルカ、蒙古克烈ケレイ氏。太祖︀南征の時、木華黎ムカリの前鋒。その子撒吉思卜華サギスブカは、太宗二年庚寅眞定五路萬戶史天澤の監軍。撒吉思卜華サギスブカの弟明安荅兒ミンガンダルは、蒙古漢︀軍萬戶。
列傳卷十一、速哥スゲ、蒙古怯烈ケレイ氏、世傳李唐外族。太宗七年乙未、山西の大達魯花赤ダルハチ。
列傳卷七、吾也而ウエル、珊竹サンヂ氏。太祖︀九年甲戌、北京總管都︀元帥。太宗十三年辛丑、北京東京廣寧蓋州平州泰州開元府七路の征行兵馬都︀元帥。その子雪禮ツアリは、太宗の時、北京等路の達魯花赤ダルハチ。
列傳卷十、純只海︀シユンヂハイ、散朮台サンチユタイ氏。太宗九年丁酉、京兆行省の都︀達魯花赤ダルハチにて、懷孟に鎭しき。
列傳卷八、抄思チヤウス、乃蠻ナイマン部人、亦號曰荅祿ダル。氏族表に「其國族稱荅祿ダル氏」と云ひて、外にも達魯乃蠻ダルナイマン氏の人を引けり。蓋乃蠻ナイマンの不亦嚕黑罕ブイルクカンの族を古出兀惕乃蠻グチユウトナイマンと云ひしが如く、塔陽罕タヤンカンの子孫を荅祿乃蠻ダルナイマンと云ひしなり。「其先太陽タヤン爲乃蠻ナイマン部主、祖︀曲書律クシユル(古出魯克グチユルク)、父敞溫チヤングン。太祖︀擧兵討不庭、曲書律クシユル失其部落、敞溫チヤングン奔契丹キタン卒。抄思チヤウス尙幼、與其母(康里カングリ氏)間行、來歸太祖︀、奉中宮旨侍宮掖」。その後抄思チヤウスは、屢征伐に從ひ、功を立て、太宗四年壬辰、萬戶となり、隨州を鎭し、後潁州に移り、定宗三年戊甲、四十四歲に卒しきとあり。抄思チヤウスの年に依り逆推するに、生れたるは、太祖︀卽位の前年、古出魯克グチユルクの西遼に奔る三年前なり。その時古出魯克グチユルクに壯年の子あるべしとも思はれざる上に、西遂に奔る前にては康里カングリの婦人を敞溫チヤングンの娶るべき由なければ、この傳には何か誤りあらん。
列傳卷十、月里麻思ユリマス、乃馬ナイマ氏。乃馬ナイマも、乃蠻ナイマンなり。「歲丁丑(太宗九年丁酉)、太宗命與斷事官忽都︀那クドノ(忽都︀忽クドク)同署︀。歲戊戌(太宗十年)、又同阿朮魯拔都︀兒アチユルバドル、充達魯花赤ダルハチ、砂南宿州」。阿朮魯拔都︀兒アチユルバドルは、斡囉納兒オロナルの阿朮魯アチユルなるべけれども、阿朮魯アチユルの傳にはこの事を載せず。かくて月里麻思ユリマスは、太宗十三年辛丑宋に使し、脅されたれども屈せず、長沙の飛虎寨に囚はれ、三十六年にして死せり。