其兄斡禿蠻オトマン、獵於燕南、斡禿蠻オトマン使歸獻所獲。世祖︀見其骨氣沈雄、步履莊重、歎曰「後日大用之才、已生於今」。卽命入宿衞」。丞相伯顏バヤンも見て驚き、「吾老矣。他日可大用者︀、未見汝比」と云ひしが、後果して賢相となれり。「大德三年、武宗以皇子撫軍北部、脫脫トト從行。五年、叛王海︀都︀ハイド犯邊、脫脫トト從武宗討之。進擊海︀都︀ハイド、大破其眾。云云。兵之始交也、武宗銳欲出戰。脫脫トト執輿力諫。武宗怒、揮鞭扶其手、不退、乃止。已而武宗與大將朶兒荅哈ドルダハ語及之。朶兒荅哈ドルダハ曰「太子在軍中、如身有首、如衣有領。脫有不虞、衆安所附。脫脫トト之諫可謂忠矣」。武宗深然之」。朶兒哈荅ドルダハは、世祖︀紀に朶兒朶海︀ドルドハイ、牙忽都︀ヤフドの傳に朶兒朶哈ドルトハ、土土哈玉哇失トトハユワシの傳に朶兒朶懷ドルドハイとあり。「身有首、衣有領」は、蒙古の俗語「別耶帖哩兀禿ベエテリウト、迭額勒札哈禿デエルイヂヤハト」の直譯なり。至大元年、中書左丞相、仁宗の時、江浙行省の左丞相、英宗の時、御史大夫、泰定四年薨じき。「子九人、其最顯者︀二人、曰鐵木兒塔識テムルタシ、曰達識帖睦邇タシテムル、各有傳」。(列傳卷二十七)。鐵木兒塔識テムルタシは、至正元年、中書平章政事、七年左丞相。達識帖睦邇タシテムルは、至正十五年、中書平章政事、江浙行省の左丞相。
列傳卷九十二姦臣傳にも、康里カングリの兄弟あり。「哈麻ハマ、字士廉、康里カングリ人。父禿魯トル。母爲寧宗乳母。禿魯トル以故封冀國公、加太尉、階金紫光祿大夫。哈麻ハマ與其弟雪雪セセ、早備宿衞、順帝深眷寵之。而哈麻ハマ有口才、尤爲帝所褻幸、累遷官爲殿中侍御史。雪雪セセ累官集賢學士」。至正十四年、哈麻ハマは中書平章政事となり、丞相脫脫トトと脫脫トトの弟御史大夫也先帖木兒エセンテムルとを讒害し、「十五年四月、雪雪セセ由知樞密院事、拜御史大夫。五月、哈麻ハマ遂拜中書左丞相。國家大柄、盡歸其兄弟二人矣」。十六年、哈麻ハマ不軌を謀れるを、その妹壻禿魯帖木兒トルテムルに帝に吿げられ、「遂詔哈麻ハマ於惠州安置、雪雪セセ於肇州安置、比行俱杖死、仍籍其家財」。
氏族表に曰く「康里カングリ人見於史者︀、又有定柱チンチユ、至正中中書右丞相。見於祕書志者︀、有敎化的ギヤウハヂ、至順二年祕書少監、乞荅撒里キダサリ、元統元年祕書省丞」。
八。欽察キムチヤ卽乞卜察兀惕キブチヤウト。
列傳卷十「苫徹拔都︀兒シエンチエバードル、欽察キムチヤ〈[#ルビの「キムチヤ」は底本では「キマチヤ」。直前のルビに倣い修正]〉人。初事太宗、堂牧馬、從攻鳳翔、戰潼關皆有功」。その後汴京を攻め、蔡州を攻むるに皆從ひ、定宗憲宗の世を歷て、至元十四年まで、從軍殆ど虛歲なく、滁州路總管府の達魯花赤ダルハチとなれり。子脫歡トホンは、滁州萬戶府の達魯花赤ダルハチ。脫歡トホンの子麻兀マウは、祖︀の職を襲ぎ、次子鎖住ソーヂユは、父の職を襲げり。
欽察キムチヤ人にて太宗に事へ、元史に傳あるものは、苫徹拔都︀兒シエンチエバードルのみなれども、憲宗以後の朝に事へて名を顯せるもの多きことは、康里カングリ人に遜らず。
列傳卷十五、欽察キムチヤの土土哈トトハの傳は、虞集の句容コウヨウ郡王世績碑(元文類︀卷二十六)に依り、やや增損改修したるものなり。碑に曰く「欽察キムチヤ之先、武平北折連ヂエレン川按答罕アンダハン山部族也。後遷西北、卽玉黎北里ユリベリ之山居焉。土風剛悍、其人勇而善戰。自曲年キユネン者︀、乃號其國人曰欽察キムチヤ、爲之主面統之」。この文に怪むべき所あり。武平は、金志地理志北京路大定府の屬縣、元史地理志遼陽行省大寧路の屬縣にして、今の直隷承德府の境內に在り、文宗紀に至順元年、土土哈トトハの親族なる不花帖木兒ブハテムルを武平郡王に封じたることも見えて、支那の內地なること明かなり。折連ヂエレン川は、兵志三馬政の篇太僕寺の牧地十四處を列記したる第一に東路折連怯呆兒ヂエレンケエル等處と見え、碑に武平の北と云へば、武平より上都︀に赴く間に在るべし。玉黎北里ユリベリの山は、兵志牧地の第二に玉你伯牙ユルベヤ〈[#ルビの「ユルベヤ」は底本では「エルベヤ」。他の「玉」ルビに倣い修正]〉上都︀周圍と見え、折連怯呆兒ヂエレンケエル等處の管內にも玉你伯牙ユルベヤ斷頭山と見えたれば、玉黎北里ユリベリの里リは野ヤの誤りにて、この山も上都︀