成吉思汗実録/巻の九
チンギス カン ジツロク成吉思 汗 實錄 マキ卷のク九。
§209(09:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、クビライ忽必來にノリタマ宣はく「チカラ力古出あるウナジ項古主溫、リキシ力士孛可のシリ臀孛克薛をオシツ壓けてくれたるぞ、ナンヂ汝。コレラ此等 クビライ忽必來、ヂエルメ者︀勒篾、ヂエベ者︀別、スベゲタイ速別格台(卽ち速別額台)、
ナンヂラ汝等 ヨタリ四人のイヌ狗を、オモ思ふトコロ處にムカ向けてヤ遣れば、イタ到古兒れとイ云ふトコロ處にイハ岩古嚕をクダ碎坎客侖き、ヒ引合勒けとイ云ふトコロ處にガケ崖合荅をヤブ破合合侖り、ヒカ光超堅るイシ石をクダ碎超侖き、フカ深扯額勒きミヅ水をタチキ斷切你禿侖りたりしぞ、ナンヂラ汝等。クビライ忽必來、ヂエルメ者︀勒篾、ヂエベ者︀別、スベエタイ速別額台、ナンヂラ汝等 ヨタリ四人のイヌ狗をサ指したるトコロ地にヤ遣りて、
ボオルチユ孛斡兒出、ムカリ木合黎、ボロクル孛囉忽勒、チラウン バアトル赤剌溫 巴阿禿兒、これらヨタリ四人のシユンバ駿馬(蒙語ドルベン クルウト朶兒邊 曲魯兀惕)をカタハラ側にオ置けば、(元史 木華黎の傳に「與㆓博爾朮 博爾忽 赤老溫㆒事㆓太祖︀㆒、俱以㆓忠勇㆒稱、號㆓掇里班 曲律㆒、猶㆔華言㆓四傑㆒也」と云ひ、兵志にも同じき文あり。)タヽカ戰ふヒ日となれば、ヂユルチエダイ主兒扯歹、[235]
クイルダル忽亦勒荅兒 フタリ二人を、ウルウト兀嚕兀惕、モンクト忙忽惕をヒキ率ゐてマヘ前にタ立たしむれば、スベ都︀てコヽロ心 ヤス安くありき、ワレ我」とノリタマ宣へり。(元史 木華黎の傳に、木華黎 薨じて子 孛魯 嗣ぎたる後
「丙戌(太祖︀ 二十一年)夏、詔封㆓功臣戶口㆒爲㆓食邑㆒曰㆓十投下㆒、孛魯 居㆓其首㆒」と云ひ、畏荅兒 博羅歡の傳にも十功臣の目 見えたるは、この十人を云へるなるべし。)「ナンヂ汝 クビライ忽必來は、イクサ軍のジム事務 スベ都︀てにタ長としてヲ居らずや」とてオンシ恩賜してミコト勅ありき。
マタ又「ベドウン別都︀溫のネヂ拗けたるユヱ故に、ワレ我 アヤシ怪みてユ行きて、センコ千戶をアタ與へざりき。ナンヂ汝はカレ彼にヨ好くあるぞ。ナンヂ汝とトモ共にセンコ千戶となりてハカ議りア合ひてユ行かれん」とノリタマ宣へり。マタ又「このノチ後 ベドウン別都︀溫にキヲツ注意くるぞ、ワレラ我等」とノリタマ宣へり(別都︀溫は、卽ち卷三の抹赤 別都︀溫なり。抹赤は木匠にして、名は別都︀溫なり。)
§210(09:03:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、ゲニゲス格你格思のクナン忽難︀に[つきて]ノリタマ宣はく「ナンヂラ汝等、ボオルチユ孛斡兒出、ムカリ木合黎がカシラ頭たるクワンニン官人どもに、ドダイ朶歹、ドゴルク朶豁勒忽 ラ等のチエルビン扯兒賓︀に。このクナン忽難︀、クロ黑合喇きヨル夜はヲ オホカミ雄狼堅都︀赤那、アカル明格格延きヒル晝はクロ黑合喇きヤマガラス老鴉客哩額となりて、タ起くるトキ時はヤス休まざりし、ヤス休むトキ時はオ起きざりし、ワロ歹孛速古溫きヒト人とトモ共にアシ非不失きカホ面してヲ居らざりし、アタ讎斡失禿古溫あるヒト人とトモ共にコト別斡額列なるカホ面してヲ居らざりし、
クナン忽難︀、ココシユス闊闊搠思 フタリ二人にサウダン相談 ナ無くてナ勿 コト事をナ做しそ。クナン忽難︀、ココシユス闊闊搠思 フタリ二人にサウダン相談してコト事をナ做せ」とミコト勅ありき。「ワ我がコ子どものアニ兄にてヂユチ拙赤はあるぞ。
クナン忽難︀は、ゲニゲス格你格思にカシラ頭として、ヂユチ拙赤のシタ下にバンコ萬戶のクワンニン官人となれ」とミコト勅ありき。(元史 世系表に「太祖︀ 皇帝 六子、長 朮赤 太子」とあり。元史の本傳は甚だ疏略なるが、洪鈞の元史 譯文 證補に補傳あり、詳備せる佳作なり。明譯には、次の忽難︀の上にマタ又 イハク說の二字あり。)
クナン忽難︀、ココシユス闊闊搠思、[236]デガイ迭該、ウスン エブゲン兀孫 額不干(卽ち巴阿𡂰の豁兒赤 兀孫 翁)、このヨタリ四人は、ミ見たるコト事をイ諱まず、キ聞きたるコト事をカク匿さざりき。[シカジカ云云にて]これらヨタリ四人はありしぞ。(これら四人の上に脫文あり。明譯にはタヾカツテ但曾キヽミタルコトヲ聞見的事、ズ不㆓カツテカクシイマ曾隱諱㆒、スナハチキテ便來ムカヒ對㆑ワレニ我イヒタリ說了とあり。この一節︀は、明譯に「又說」とある如く、太祖︀の勅語なるべし。)
§211(09:05:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、ヂエルメ者︀勒篾にノリタマ宣はく「ヂヤルチウダイ札兒赤兀歹 オキナ翁は、フイゴ風匣をオ負ひて、ヂエルメ者︀勒篾はエウシヤ搖車のウチ內より[ア擧げられて]、ブルカン カルドン不兒罕 合勒敦よりクダ下りてク來るトキ時、オナン斡難︀[のカハベ河邊]のデリウン ボルダク迭里溫 孛勒荅黑に[ワ我がハヽ母]ワレ我をウ生みたるトキ時、テウソ貂鼠のムツキ襁褓をアタ與へてありき。かくてトモ伴となりたるにヨ依り、シキミ閾孛莎合のヤツコ奴孛斡勒、カト門額兀點のキンジユ近習奄出となりたるぞ。ヂエルメ者︀勒篾のイサヲ功はオホ多くあるぞ。ウマ生るゝとトモ共にウマ生れたる、タ長くるとトモ共にタ長けたる、テウソ貂鼠のムツキ襁褓なるコンゲン根源ある、サイハヒ福︀あるヨロコビ慶あるヂエルメ者︀勒篾、コヽノタビ九次のツミ罪をオカ犯すともケイ刑にナ勿 イ入れそ」とミコト勅ありき。
§212(09:07:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、トルン脫侖(卷八なる脫欒)にノリタマ宣はく「チヽ父とコ子とコト別にセンコ千戶をいかでかシ知りたりし、ナンヂ汝。クニタミ國民をアツ聚めア合ふチヽ父にカタカタ片方のツバサ翅となり、ヒ拽きア合ひてクニタミ國民をアツ聚めア合ひたるユヱ故に、チエルビ扯兒必のナ號をアタ與へたるぞ。イマ今 オノレ己のエ得たるオ置きたる[タミ民]にヨ依りオノレ己 センコ千戶となりて、トルカン禿嚕罕にハカ議りア合ひてヲ居らずや、ナンヂ汝」とミコト勅ありき。(禿嚕罕の名は、前後に見えず。脫侖に兄弟 多ければ、その兄弟の一人なるべし。)
§213(09:08:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、オングル汪古兒 カシハデ厨官にノリタマ宣はく「ミタリ三人の[237]トクラウト脫忽喇兀惕(脫忽喇溫の複稱)、イツタリ五人のタルクト塔兒忽惕、モンゲト キヤン蒙格禿 乞顏のコ子 ナンヂ汝 オングル汪古兒、シヤンシウト敞失兀惕 バトウト巴牙兀惕をヒキ率ゐ、ナンヂラ汝等 ワレ我にヒト一つのダン團となりて、ナンヂ汝 オングル汪古兒は、キリ霧不丹のウチ裏にマヨ迷はざりしぞ、ナンヂ汝。ミダレ亂不勒合のウチ裏にハナ離れざりしぞ、ナンヂ汝。ヌ濡るゝにヌ濡れア合ひて、サム寒きにコヾ寒えア合ひてユ行きたりしぞ、ナンヂ汝。イマ今いかなるオンシヤウ恩賞をかモト要むる、ナンヂ汝」とノリタマ宣へば、オングル汪古兒 マウ申さく
オングル汪古兒に屬するバヤウト巴牙兀惕 部
「オンシヤウ恩賞をエラ擇ばしめば、ワ我がバヤウト巴牙兀惕のアニオトヽ兄弟は、ブラク部落 ブラク部落ごとにチ散りたり。オンシ恩賜せば、バヤウト巴牙兀惕のアニオトヽ兄弟をアツマ聚らしめん」とマウ申せば、「シカ然り。かくバヤウト巴牙兀惕のアニオトヽ兄弟をアツ聚めて、ナンヂ汝 センコ千戶をシ知れ」とミコト勅ありき。
オングル汪古兒 ボロウル孛囉兀勒 食物の給散
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「オングル汪古兒、ボロウル孛囉兀勒 フタリ二人は、ミギヒダリ右左のカタハラ側にてナンヂラ汝等 フタリ二人のカシハデ厨官は、クヒモノ食物をクバ配る時、ミギ右巴剌溫のカタハラ側にタ立巴亦てるものスワ坐れるものにカ缺けさせず、ヒダリ左沼溫のカタハラ側にツラナ列者︀兒格列れるものイマダ未なるものにカ缺けさせず、ナンヂラ汝等 フタリ二人にてかくキフサン給散すれば、ワ我がノド喉 ムセ噎ばずコヽロ心 ヤス安くあり。イマ今 オングル汪古兒、ボロウル孛囉兀勒 フタリ二人は、ウマ馬にノ乘りてユ行きて、クヒモノ食物をオホ多くのヒト人にキフサン給散せよ」とミコト勅ありき。「クラヰ坐にスワ坐るトキ時は、オホイ大なるシユキヨク酒局のミギヒダリ右左のカタハラ側にクヒモノ食物をツカサド掌りてスワ坐れ。トルン脫侖 ラ等とトモ共にキタ北にムカ向ひス坐れ」とクラヰ坐をツ吿げてアタ與へたり。
§214(09:11:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、ボロクル孛囉忽勒(卽ち孛囉兀勒)にノリタマ宣はく「ワ我がハヽ母は、シギ クトク失吉 忽禿忽、ボロクル孛囉忽勒、グチユ古出、ココチユ闊闊出、ナンヂラ汝等 ヨタリ四人を、タミ民のイヘヰ營盤よりチ地闊薛兒よりエ得て、アシ脚闊勒のトコロ處にイ入れて、コ子可兀赤連としソダ育ててヤシナ養ふ[238]に、ナンヂラ汝等のウナジ項古主溫をヒ引きて、ヒト人古溫とヒト齊しくならしめて、ナンヂラ汝等のカタ肩額堅をヒ引きて、ヲトコ男額咧とヒト齊しくならしめて、コ子どもなるワレラ我等にトモ伴[となり]カゲ影とならしめんとてヤシナ養ひたるぞ。ナンヂラ汝等をヤシナ養へるトク德にワ我がハヽ母にケダシ蓋 イク幾ばくかはムク報いオン恩をカヘ廻したり、ナンヂラ汝等。ボロクル孛囉忽勒は、ワレ我にトモ伴なひて、ハゲ劇忽兒敦しきシユツセイ出征に、アメ雨忽喇のヨ夜 トボ乏豁斡孫しくヤド宿豁那兀勒らしめざりしぞ、ナンヂ汝。ハリア抗合失禿額列勒都︀ひてヲ居るテキ敵のトコロ處に、ユ湯暑︀連なくヤド宿らしめざりしぞ、ナンヂ汝。マタ又 ミオヤ御祖︀なるチヽ父をウシナ失ひたるアタ讎ありウラミ怨あるタタル塔塔兒のタミ民をクツプク屈服せしめて、アタ讎斡雪勒 カヘ復斡旋しウラミ怨乞撒勒 ムク報乞三い、タタル塔塔兒のタミ民をクルマ車にクラ比べてネダヤ根絕しにタヒラ夷ぐるトキ時 コロ殺︀されたるに、
カルギル シラ合兒吉勒 失喇にトルイ拖雷の盜まれ
タタル塔塔兒のカルギル シラ合兒吉勒 失喇〈[#「合兒吉勒 失喇」は底本では「合兒吉勒失喇」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§214(09:12:07)の漢︀字音訳「合兒吉勒-失喇」に倣い二語に分割。以後すべて同じ]〉、ヌスビト賊となりイ出でて、サテ却 コンキウ困窮してウ飢ゑてイ入りてキ來て、ハヽ母のトコロ處にイヘ家にイ入りて、「ヨ善くタヅ尋ねさすることア有り、ワレ我」とイ云ひて、「ヨ善くタヅ尋ねさすることア有らば、そこにスワ坐れ」とイ云はれて(明譯カレハ他イヘバ說㆑ナリト是㆑タヅヌル尋㆓イシヨクノモノヲ衣食的㆒、ハヽオヤハ母親 イヒキ說㆘スデニ旣ナラ是㆑タヅヌル尋㆓イシヨクノ モノヲ衣食 的㆒バ時、ソコニ那裏 スワレト坐㆖)、ニシガハ西邊のユカ床のモンゴ門後にハシ端にスワ坐りてヲ居るトキ時、トルイ拖雷 イツツ五歲なる、ホカ外よりイ入りてキ來て、サテ却 ハシ走りてイ出でてサ去りたるを、カルギル シラ合兒吉勒 失喇 タ起ちて、ヲサナゴ幼兒をワキ腋にハサ夾みてイ出でてユ行きてサ去りながら、カタナ刀をヒ引きてヌ拔きつゝユ行くトキ時、
ボロクル孛囉忽勒のツマ妻 アルタニ阿勒塔泥は、ハヽ母のイヘ家にヒガシ東にスワ坐りてヲ居りき。ハヽ母 サケ叫びて「コ子をウシナ失へり」とイ云へるとトモ共に、アルタニ阿勒塔泥 ツヾ續きア合ひハシ走りてイ出でア合ひて、カルギル シラ合兒吉勒 失喇のウシロ後より[239]オ趕ひて、カレ彼のベンパツ辮髮をトラ拏へて、ツギ次のテ手にて、カタナ刀をヌ拔きてあるカレ彼のテ手をトラ拏へて、ヒ扯くとトモ共に、そのカタナ刀をオト落しけり。イヘ家のキタ北に
ヂエタイ哲台 ヂエルメ者︀勒篾にヌスビト盜人の殺︀され
ヂエタイ哲台、ヂエルメ者︀勒篾 フタリ二人、ツノ角なきクロウシ黑牛をクラ食はんとコロ殺︀してヲ居るトキ時、アルタニ阿勒塔泥のコヱ聲にて、ヂエタイ哲台、ヂエルメ者︀勒篾 フタリ二人、ヲノ斧をト執りて、コブシ拳をアカ赤くして、ハシ走りてキ來て、タタル塔塔兒のカルギル シラ合兒吉勒 失喇をヲノ斧にてカタナ刀にてすぐそこにコロ殺︀しけり。アルタニ阿勒塔泥、ヂエタイ哲台、ヂエルメ者︀勒篾 ミタリ三人、コ子のイノチ命をスク救へるトウコウ頭功をアラソ爭ひ合いたれば、
ヂエタイ哲台、ヂエルメ者︀勒篾 フタリ二人 イハ言く「ワレラ我等 ナ無かりせば、ト疾くハシ走りてイタ到りてコロ殺︀さざりせば、アルタニ阿勒塔泥は、ヲンナ婦のヒト人、いかに ありけん。コ子のイノチ命にガイ害をイタ致したりけん。トウコウ頭功は、ワレラ我等のなるぞ」とイ云へり。アルタニ阿勒塔泥 イハ言く「ワ我がコヱ聲をキ聞かざりせば、ナンヂラ汝等いかでかキ來にけん。ワレ我 ハシ走りてオ趕ひてカレ彼のベンパツ辮髮をトラ拏へて、カタナ刀をヌ拔きたるカレ彼のテ手をヒ扯きてカタナ刀をオト落さざりせば、ヂエタイ哲台、ヂエルメ者︀勒篾 フタリ二人 イタ到りてク來るまでに、コ子のイノチ命にガイ害をイタ致さずやはありけん」とイ云へり。
イ言ひヲ畢へたれば、トウコウ頭功は、アルタニ阿勒塔泥のとなれり。ボロクル孛囉忽勒のツマ妻は、ボロクル孛囉忽勒にダイニ第二のナガエ轅となり、トルイ拖雷のイノチ命にイサヲ功となれり。マタ又 ボロクル孛囉忽勒は、ケレイト客咧亦惕とカラカルヂト合剌合勒只惕のサバク沙漠にタヽカ戰へるトキ時、
オゴダイ斡歌歹を救ひたるボロクル孛囉忽勒
オゴダイ斡歌歹はケイミヤク頸脈をヤ箭にイ射られたれば、タフ倒れたれば、ボロクル孛囉忽勒は、ウヘ上にクダ下りア合ひて、コ凝りたるカレ彼のチ血をクチ口にてス咂ひて、ヨル夜 トマ宿りア合ひて、アシタ明朝[240]ウマ馬にノ乘らしめてスワ坐りかぬるを、シリウマ尻馬にノ乘りて、オゴダイ斡歌歹のウシロ後よりイダ抱きて、フサガ塞れるチ血をス咂ひス咂ひクチ口のヘリ緣をアカ赤くして、オゴダイ斡歌歹のイノチ命をヤス安らかにオク送りてキ來てありき。ワ我がハヽ母のヤシナ養へるホネヲ勞りたるにムク報い、ワ我がフタリ二人のコ子のイノチ命にイサヲ功となりたるぞ。ボロクル孛囉忽勒は、ワレ我にトモ伴なひて、マネ招荅兒巴安ぎヨ喚びに、コヱ聲荅溫 コタヘ應 オク後れたることなかりしぞ。ボロクル孛囉忽勒は、コヽノタビ九次 ツミ罪をオカ犯すともナ勿 ツミ罪なひそ」とミコト勅ありき。
§215(09:19:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又「ムスメ女子 カゾク家族にオンシヤウ恩賞をアタ與へん」とノリタマ宣へり。
§216(09:19:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ベキ別乞とせらるゝゴルチ ウスン豁兒赤 兀孫 オキナ翁
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、ウスン兀孫 オキナ翁(豁兒赤 兀孫 翁)にノリタマ宣はく「ウスン兀孫、クナン忽難︀、ココシユス闊闊搠思、デガイ迭該、このヨタリ四人は、ミ見たるコト事 キ聞きたるコト事をイ諱みカク匿さずツ吿げヲ居たりき。コヽロヅ心附きたるコト事 カンガ考へたるコト事をコトバ語りヰ居たりき。モンゴル忙豁勒のタイレイ體例には、クワンニン官人のセイ制にベキ別乞となるハフ法ありき。バアリン巴阿𡂰は、コノカミ兄のシソン子孫なりき。(巴阿卿の遠祖︀ 巴阿哩歹は、孛端察兒の長子にて、巴啉 失亦喇禿 合必赤の兄なり。)ベキ別乞のセイ制は、ワレラ我等のウチ內にてカミ上より[ナ爲るハフ法なれば]ベキ別乞にウスン兀孫 オキナ翁 ナ爲れ。ベキ別乞にイタヾ戴くと、シロ白きコロモ衣をキ着せて、シロ白きセンバ騸馬にノ乘らしめて、クラヰ位のカミ上にスワ坐らせて、カシヅ侍きて、マタ又 ネンゲツ年月にハカ議りてかくア有れ」とミコト勅ありき。(
別乞は、族長の稱號なり。蒙古の諸︀部長 往往 別乞と稱する者︀あり。薛徹 別乞は合不勒 合罕の長子の孫にして、禹兒斤の長なり。忽察兒 別乞は、也速該の兄の子なるが故に、別乞と稱せり。兀都︀亦惕 篾兒乞惕の脫黑脫阿 別乞、その長子 脫古思 別乞、朶兒邊の合只溫 別乞、斡亦喇惕の忽都︀合 別乞は、皆その一族の長なり。王罕に事へたる必勒格 別乞も、或一族の長なるべし。但 太祖︀の女 豁眞 別乞、阿剌合 別乞、桑昆の妹 察兀兒 別乞、札合敢不の二女 亦巴合 別乞、莎兒合黑塔泥 別乞の如く、女子にして別乞と稱するは、美稱に用ふるのみにて、族長の別乞とは異なり。又[241]輟耕錄の白道子の條に「國俗尙㆑白、以㆑白爲㆑吉」とあれば、別乞の白衣を被るは、優禮に出でたるなり。黑韃 事略に蒙古の衣服の事を述べて「色用㆓紅紫紺綠㆒、紋以㆓日月龍鳳㆒、無㆓貴賤等差㆒」と云ひて、白衣の事を少しも云はざるを見れば、この優禮を受くるものは極めて稀なりしなるべし。)
§217(09:20:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく「クイルダル アンダ忽亦勒荅兒 安荅は、タヽカ戰ふトキ時にイノチ命をサシイダ差出してマヅ先 クチ口をヒラ開きたるイサヲ功のユヱ故に、シソン子孫のシソン子孫にイタ至るまでミナシゴ孤兒のオンキフ恩給をウ受けてヲ居れ」とミコト勅ありき。
§218(09:21:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ヂヤムカ札木合に殺︀されたるチヤガン ゴア察罕 豁阿の遺子の恩賞
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、チヤガン ゴア察罕 豁阿(卷四の察合安 兀阿)のコ子 ナリン トオリル納𡂰 脫斡哩勒にノリタマ宣はく「ナンヂ汝のチヽ父 チヤガン ゴア察罕 豁阿は、ワ我がマヘ前にツヽシ愼みて、タヽカ戰ひとなりダラン バルヂユト荅闌 巴勒主惕にタヽカ戰へるトキ時、ヂヤムカ札木合にコロ殺︀されき。イマ今 トオリル脫斡哩勒は、チヽ父のイサヲ功にてミナシゴ孤兒のオンキフ恩給をウ受けよ」とノリタマ宣はれて、トオリル脫斡哩勒 マウ申さく「オンシ恩賜せば、ワ我がネグス捏古思のアニオトヽ兄弟は、ホカ他のブラク部落ごとにチ散りたり。オンシ恩賜せば、そのネグス捏古思のアニオトヽ兄弟をアツ聚めてん」とマウ申せば、チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「しかあらば、ネグス捏古思のアニオトヽ兄弟をアツ聚めて、ナンヂ汝はシソン子孫のシソン子孫にイタ至るまでシ知りてヲ居らずや」とミコト勅ありき。(捏古思 氏の人は、元史に見えず。只 孝友傳に「徹徹、担古思 氏」とあるを、錢大昕の氏族表に「担、亦 捏 之譌」と云へり。)
§219(09:23:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇にノリタマ宣はく「ワレ我を、チヒサ小きトキ時にタイチウト泰赤兀惕のタルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑 アニオトヽ兄弟にネタ嫉みてトラ拏へ[られ]たれば、そこに「アニオトヽ兄弟にネタ嫉まれたり」とて、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇は、チラウン赤剌溫、チンベ沈伯なるコ子どもに、カダアン合荅安なるムスメ女にセワ世話せしめて、カク匿してヰ居て、ワレ我をハナ放ちてヤ遣りたるぞ、ナンヂラ汝等。ナンヂラ汝等のカ彼のオン恩[242]ヨ好きをオモ想ひて、クロ黑きヨル夜のユメ夢のウチ裏に、アカル明きヒル晝のムネ胷のウチ裏に、オモ想ひてユ行きたるぞ、ワレ我。ナンヂラ汝等は、カヘツ却てワレ我にタイチウト泰赤兀惕よりオソ遲くキ來しぞ。イマ今 ワレ我 ナンヂラ汝等にオンシ恩賜せば、いかなるオンシ恩賜をかホツ欲する、ナンヂラ汝等」とノリタマ宣へり。ソルカン シラ鎖兒罕 失喇は、チラウン赤剌溫、チンベ沈伯なるコ子どもとトモ共にマウ申さく
「オンシ恩賜せば、イヘヰ營盤 ジザイ自在ならん。メルキト篾兒乞惕のチ地なるセレンゲ薛涼格をイヘヰ營盤としてジザイ自在ならん。マタ又 ベツ別にオンシ恩賜せば、チンギス カガン成吉思 合罕 シロ知しめせ」とマウ申せり。そのトキ時 チンギス カガン成吉思 合罕 ノリタマ宣はく「メルキト篾兒乞惕のチ地なるセレンゲ薛涼格をイヘヰ營盤として、イヘヰ營盤 マタ又 ジザイ自在なれ。シソン子孫のシソン子孫にイタ至るまで、ヤナグヒ箭筒をオ帶ばしめてアイサン喝︀盞せしめて、ジザイ自在なれ。コヽノタビ九次のツミ罪にケイ刑にナ勿 イ入りそ」とミコト勅ありき。マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、
チラウン赤剌溫、チンベ沈伯 フタリ二人にオンシ恩賜して「サキ前にチラウン赤剌溫、チンベ沈伯 フタリ二人のイ言へるコトバ言をオモ想ひては、いかんぞワス忘れん、ナンヂラ汝等[を]。チラウン赤剌溫、チンベ沈伯、ナンヂラ汝等 フタリ二人、コヽロ心にイ言ふことあらば、フソク不足をモト求むることあらば、アヒダ閒のヒト人にナ勿 カタ語りそ。オノレミ己身にてクチ口にてワレ我にナンヂラ汝等 ミヅカラ自 オモ思へることをカタ語れ。フソク不足をミヅカ自らモト求めよ」とミコト勅ありき。
ソルカン シラ鎖兒罕 失喇 バダイ巴歹 キシリク乞失里黑 三人のダルカン荅兒罕
マタ又「ソルカン シラ鎖兒罕 失喇、バダイ巴歹、キシリク乞失里黑。ナンヂラ汝等はジザイ自在なれ。マタ又 ジザイ自在なるには、オホ多斡欒きテキ敵にハシ馳りて、タカラ財斡勒札をエ得斡魯たるにヨ依りてト取れ。ノ野斡囉阿のケダモノ獸をマキガリ圍獵阿巴剌せば、コロ殺︀阿剌したるにヨ依りてト取阿不惕渾れ」ミコト勅ありき。「ソルカン シラ鎖兒罕 失喇とイ云へば、タイチウト泰赤兀惕のトデゲ脫迭格のケニン家人なりしぞ。バダイ巴歹 キシリク乞失里黑 フタリ二人とイ云へば、チエレン扯嗹(忽闌 巴阿禿兒の子 也客 扯嗹)[243]のウマカヒ馬飼︀なりしぞ。イマ今はワ我がシンシン信臣、ヤナグヒ箭筒をオ帶ばしめて、アイサン喝︀盞せしめて、ジザイ自在にクワイクワツ快活なれ」とミコト勅ありき。(自在なるの蒙語はダルカラク荅兒合剌忽、自在の特典を得たる官人をダルカン荅兒罕と云ふ。輟耕錄に「荅剌罕、譯言㆓一國之長㆒、得㆓自由㆒之意、非㆓勳戚㆒不㆑與焉。太祖︀龍飛日、朝廷草創、官制簡古、惟左右萬戶、次及㆓千戶㆒而已。丞相順德忠獻王之曾祖︀啓昔禮、以㆓英材㆒見㆑遇、擢任㆓千戶㆒、錫㆓號 荅剌罕㆒。至元壬申、世祖︀錄㆓勳臣後㆒、拜㆓王宿衞官㆒、襲號㆓荅剌罕㆒」とあり。荅剌罕は、卽 荅兒罕、啓昔禮は、卽 乞失里黑、忠獻王は、世祖︀ 成宗の朝の名相 哈剌哈孫なり。)
§220(09:27:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
セイシユ正主をス廢てかねたるナヤア納牙阿の恩賞
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、ナヤア納牙阿にノリタマ宣はく「シルゲト失兒歌禿 オキナ翁(卷五の失兒古額禿 翁)は、アラク阿剌黑、ナヤア納牙阿なるコ子どもと、[スナハチ卽]ナンヂラ汝等と、タルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑をワレラ我等のトコロ處にトラ拏へてク來るトキ時、ミチ路にてクトクル忽禿忽勒のスミ隅にイタ到りて、そこにナヤア納牙阿 イハ言く「セイシユ正主のキミ君をいかでス廢ててトラ拏へてユ往かん、ワレラ我等」とイ云ひて、ス廢てかねてハナ放してヤ遣りて、シルゲト失兒歌禿 オキナ翁はアラク阿剌黑、ナヤア納牙阿なるコ子どもとキ來て、そこにナヤア ビルヂウル納牙阿 必勒只兀兒(必勒只兀兒は、雲雀なり。納牙阿の號か)イハ言く「セイシユ正主のキミ君をタルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑をテ手にカ掛けてキ來ぬるに、カヘツ却てス廢てかねてハナ放してヤ遣りて、ワレラ我等は、チンギス カガン成吉思 合罕にチカラ力をアタ與へんとキ來ぬ。そのキミ君をテ手にカ掛けてキ來なば、「セイシユ正主のキミ君をテ手にカ掛けたるヒト人、ユクスヱ久後いかんぞイシン倚信せられん、コレラ此等の[ヒト人]」とイ云はれんとイ云ひき。そのキミ君をス廢てかねたり」とイ云へば、そこに「セイシユ正主のキミ君をス廢てかねたるワケ理は、オホイ大なるダウリ道理をオモ思ひけり」とて、カレラ彼等のコトバ言をヨ善しとして「ヒト一つのコウタウ句當をユダ委ねん」とイ云ひき。
イマ今 ボオルチユ孛斡兒出にミギテ右手のバンコ萬戶をシ知れ(シ知らし[244]め)、ムカリ木合里にコクワウ國王のナ號をアタ與へてヒダリテ左手のバンコ萬戶をシ知らしめたり。イマ今 ナヤア納牙阿は、ナカ中のバンコ萬戶をシ知れ」とミコト勅ありき。
§221(09:29:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又「ヂエベ者︀別、スベエタイ速別額台 フタリ二人は、ミヅカラ自 エ得たるオ置きたる[タミ民]にセンコ千戶となれ」とノリタマ宣へり。
§222(09:29:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 デガイ迭該なるヒツジカイ羊飼︀に、(卷三に、迭該は羊を牧する事を掌れること見えたり。)ウヅモ埋れたる(明譯ナキ無㆓コセキ戶籍㆒的 タミ百姓)をアツ聚めてセンコ千戶をシ知らしめたり。
§223(09:30:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
グチユグル古出古兒 ムルカルク木勒合勒忽の封戶
マタ又 グチユグル古出古兒 タクミ木匠は、(卷三に、古出古兒は家 車の修造を掌れること見えたり。卽 木匠なり。)タミ民 カ缺けて、こゝよりそこよりヲサ收めて、ヂヤダラン札荅㘓よりムルカルク木勒合勒忽、シタ親しきにヨ依りトモ伴なひき。「グチユグル古出古兒、ムルカルク木勒合勒忽 フタリ二人は、ヒト一つにセンコ千戶となりてハカ議りア合ひてヲ居れ」とノリタマ宣へり。
§224(09:30:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
シンヱイ親衞をマン萬にミ滿たするミコト勅
クニ國をトモ共にタ立てたるトモ共にカンナン艱難︀したるモノ者︀どもをセンコ千戶のクワンニン官人となして、セン千をセン千として、センコ千戶 ヒヤクコ百戶 ジツコ十戶のクワンニン官人をヨサ任して、[マン萬を]マン萬として、バンコ萬戶のクワンニン官人をヨサ任して、バンコ萬戶 センコ千戶のクワンニン官人どもに、オンシヤウ恩賞をアタ與ふべきモノ者︀にはオンシヤウ恩賞をアタ與へて、オンシヤウ恩賞のミコト勅あるモノ者︀にはア有りて、チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「サキ前にハチジフ八十のシユクヱイ宿衞あり、シチジフ七十のジヱイ侍衞のバンシ番士 ア有りたりき。イマ今 トコヨ長生のアマツカミ上帝のチカラ力にて、アマツカミクニツカミ天地にチカライキホヒ力勢をソ添へられて、アマネ普きクニタミ國民をタヾ匡して、ヒトリ獨のテウド調度のウチ內にイ入れたるトキ時、イマ今 ワ我がトコロ處にバンチヨク番直するジヱイ侍衞をセンコ千戶 センコ千戶よりエラ選びてイ入れよ。イ入るゝには、シユクヱイ宿衞、セントウシ箭筒士、ジヱイ侍衞にイ入るゝには、マン萬にミ滿たせイ入れよ」[245]とミコト勅ありき。マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕は、バンシ番士をエラ選びてイ入るゝことをミコト勅をセンコ千戶 センコ千戶にツタ傳へけらく
バンシ番士を選び弟とトモビト從士とをシタガ隨へしむるミコト勅
「ワレラ我等のトコロ處にバンシ番士をイ入るるに、バンコ萬戶 センコ千戶 ヒヤクコ百戶のクワンニン官人のコ子ども、ハクシン白身のヒト人のコ子どもイ入るトキ時、ギノウ技能ありカタチ狀 ヨ好きモノ者︀を、ワレラ我等のマヘ前にユ行くべきモノ者︀をイ入れよ。センコ千戶のクワンニン官人のコ子どもをイ入るゝには、トタリ十人のトモビト從士あり、カレ彼のオトヽ弟 ヒトリ一人をシタガ隨へてコ來よ。ヒヤクコ百戶のクワンニン官人のコ子どもをイ入るゝには、イツタリ五人のトモビト從士あり、ヒトリ一人のオトヽ弟をシタガ随へてコ來よ。ジツコ十戶のクワンニン官人(卽ちハイシトウ牌子頭)のコ子どもをイ入るゝにもハクシン白身のヒト人のコ子どもをイ入るゝにも、ミタリ三人のトモビト從士あり、マタ亦 ヒトリ一人のオトヽ弟をシタガ隨へて、ハジメ初よりジヨウメ乘馬 キリヨク氣力をトヽノ調へてコ來よ。ワレラ我等のトコロ處にてマヘ前にユ行かしむることをハゲ勵ますに、センコ千戶のクワンニン官人のコ子どもには、トタリ十人のトモビト從士をモト本のセンコ千戶 ヒヤクコ百戶よりクワレン科斂してアタ與へよ。そのチヽ父 アタ與へたるブンミン分民あらば、カレ彼のミ身 ミヅカラ自 エ得たるオ置きたるジンコウ人口 センバ騸馬 イク幾ばくかア有らば、ヂツキン昵近のブンミン分民よりホカ外にて、ワレラ我等のカギ限りたるカギ限りにヨ依りクワレン科斂して、かくクワレン科斂してトヽノ整へてアタ與へよ。ヒヤクコ百戶のクワンニン官人のコ子どもにイツタリ五人のトモビト從士を、ジツコ十戶のクワンニン官人のコ子どもにハクシン白身のヒト人のコ子どもにミタリ三人のトモビト從士を、タヾ只 マタ亦 ハフ法にヨ依り、カレ彼のヂツキン昵近のブンミン分民よりホカ外にて、タヾ只かくクワレン科斂してアタ與へよ」とミコト勅ありき。
「センコ千戶 ヒヤクコ百戶 ジツコ十戶のクワンニン官人 アマタ眾のヒト人、ワレラ我等のコ此のミコト勅をイタ致さしめて、キ聞きて[246]ありながらコ越えたるヒト人は、ツミ罪あるとなれ。ワレラ我等のトコロ處にバンチヨク番直にイ入れられたるヒト人にてサ避けてナ爲らざるヒト人、ワレラ我等のマヘ前にユ行くことをカタ難︀しとせば、コト別なる[ヒト人]をイ入れて、そのヒト人をばツミ罪なひて、メ眼のカゲ陰(眼力の及ばざる處)にトホ遠きトコロ地にヤ遣れ」とミコト勅ありき。「ワレラ我等のダイリ內裏にマヘ前にユ行きてマナ學びア合はんとイ云ひてワレラ我等にク來るヒト人をナ勿 サマタ妨げそ」とノリタマ宣へり。
§225(09:35:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カガン成吉思 合罕のミコト勅ありたるにヨ依り、センコ千戶よりエラ選びて、ヒヤクコ百戶 ジツコ十戶のクワンニン官人のコ子どもも、そのミコト勅にヨ依りエラ選びてイダ出してキ來て、「サキ前にハチジフ八十のシユクヱイ宿衞ありしをハツピヤク八百にナ爲したり。「ハツピヤク八百のウヘ上にセン千にミ滿たせよ」とイ云へり。シユクヱイ宿衞にイ入るモノ者︀をナ勿 サマタ妨げそ」とミコト勅ありき。「シユクヱイ宿衞にはエケ ネウリン也客 捏兀𡂰 ヲサ長となりて、センプ千夫をシ知りてヲ居れ」とミコト勅ありき。(「宿衞を也客 捏兀𡂰 統べて」と譯すべきなれども、統ぶる の蒙語 阿合剌は、阿合 卽 長となると云ふ義なる故に、「宿衞を」の「を」を「に」と改めたり。下 皆これに準ふ。也客 捏兀𡂰は、何人なるか、知らず。晃豁壇の蒙力克 額赤格の子にてやあらん。)「サキ前にシヒヤク四百のセントウシ箭筒士をエラ選びたり。エラ選びて「セントウシ箭筒士にヂエルメ者︀勒篾のコ子 エスン テエ也孫 帖額〈[#「也孫 帖額」は底本では「也孫帖額」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§225(09:36:09)の漢︀字音訳「也孫-帖額」に倣い二語に分割。以後すべて同じ]〉 ヲサ長となりて、トゲ禿格のコ子 ブギダイ不吉歹とハカ議りア合ひてヲ居れ」とイ云へり。(也孫 帖額は、憲宗紀に葉孫脫とあり、憲宗 卽位の年 按只䚟 等と共に「務持㆓兩端㆒、坐㆘誘㆓諸︀王㆒爲㆖㆑亂、並伏㆑誅」とあり。者︀勒篾の子孫の顯れざるは、也孫 帖額の誅せられたるが爲ならん。禿格は、卽 卷四なる統格、木合黎の從弟にして、九十五の千戶の第十に列せり。その子 不吉歹は、太祖︀に代りて許婚の饗に赴きたる不合台と音 近けれども、同じきか否か知らず。)
セントウシ箭筒士 四班の長 エスン テエ也孫 帖額 ブギダイ不吉歹 ゴルクダク豁兒忽荅忽 ラブラカ剌卜剌合
ジヱイ侍衞とトモ共にセントウシ箭筒士のクミグミ班班にイ入りア合ふトキ時、エスン テエ也孫 帖額は、ヒトクミ一班のセントウシ箭筒士にヲサ長となりてイ入れ。ブギダイ不吉歹は、ヒトクミ一班のセントウシ箭筒士にヲサ長となりてイ入れ。[247]ゴルクダク豁兒忽荅黑は、ヒトクミ一班のセントウシ箭筒士にヲサ長となりてイ入れ。ラブラカ剌卜剌合は、ヒトクミ一班のセントウシ箭筒士にヲサ長となりてイ入れ。(豁兒忽荅黑は、卷十二にも見え、剌卜剌合は、卷十二に剌巴勒合とあり。)セントウ箭筒をオ帶ぶるものに、ジヱイ侍衞のクミグミ班班[にツ貼く]セントウシ箭筒士に、かくヲサ長となりてイ入らせよ。
セントウシ箭筒士をセン千にミ滿たせて、エスン テエ也孫 帖額 ヲサ長となりてヲ居れ」とミコト勅ありき。
§226(09:38:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
サキ前にオゲレ チエルビ斡格列 扯兒必とイ入りたるジヱイ侍衞のウヘ上にセン千にミ滿たせて
「ボオルチユ孛斡兒出のシンゾク親族よりオゲレ チエルビ斡格列 扯兒必(孛斡兒出の弟)はシ知れ」とノリタマ宣へり。
「ムカリ木合里のシンゾク親族よりブカ不合(木下里の弟)はイツセン一千のジヱイ侍衞をシ知れ」とノリタマ宣へり。
イルガイ亦魯該のシンゾク親族よりアルチダイ阿勒赤歹に、「イツセン一千のジヱイ侍衞をシ知れ」とノリタマ宣へり。(阿勒赤歹は、卷六に見えたる合赤溫の子 阿勒赤歹と名 同じけれども、異なる人なり。元史 憲宗紀に按只䚟とあり、憲宗 卽位の年、葉孫脫 等と共に諸︀王を亂に誘へりとて誅せられたり。)「
イツセン一千のジヱイ侍衞をドダイ チエルビ朶歹 扯兒必 シ知れ。
イツセン一千のジヱイ侍衞をドゴルク チエルビ朶豁勒忽 扯兒必 シ知れ」とノリタマ宣へり。「
イツセン一千のジヱイ侍衞をヂユルチエダイ主兒扯歹のシンゾク親族よりチヤナイ察乃 シ知れ。
イツセン一千のジヱイ侍衞をアルチ阿勒赤のシンゾク親族よりアクタイ阿忽台 シ知れ。(阿勒赤は、卽 阿勒赤 古咧堅、元史の國舅 按陳 那顏なり。阿忽台と云へる人は、元史に見えず。たゞ特 薛禪の傳に、按陳の弟 火忽と云へるは、甲戌の年に哈老溫 迤東塗河 潢河の閒 火兒赤納 慶州の地を住所として賜はれること見ゆ。その火忽は、阿忽台の訛略にはあらずや。)
イツセン一千のジヱイ侍衞をアルカイ カツサル阿兒孩 合撒兒[シ知れ。]イツセン一千のエラ選びたるユウシ勇士をシ知りて、オホ多くのヒ日はジヱイ侍衞となれ。タヽカ戰ふヒ日はマヘ前にタ立ちてユウシ勇士となれ」とミコト勅ありき。(卷八なる九十五の千戶の處に、亦魯該は阿兒孩ならんと云ふ疑ひを陳べたれども、こゝに亦魯該の名ある續きに又 阿兒孩 合撒兒あるを見れば、同じ人とも思はれず。)センコ千戶 センコ千戶よりエラ選びてキ來つるもの、ハツセン八千のジヱイ侍衞となれり。シユクヱイ宿衞は、セントウシ箭筒士[248]とトモ共にニセン二千となれり。[ミ三つ(宿衞、箭筒士、侍衞)アハ幷せて]
萬のバンシ番士よりなれるタイチウグン大中軍
マン萬のバンシ番士となれり。チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「ワレラ我等のミ身にツ貼けるマン萬のバンシ番士をハゲ勵ましてタイチウグン大中軍となりヲ居れ」とミコト勅ありき。
§227(09:40:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
バンチヨク番直のオトナ宿老 四人 ブカ不合 アルチダイ阿勒赤歹 ドダイ朶歹 ドゴルク朶豁勒忽
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅ありて、ジヱイ侍衞のヨクミ四班のオトナ宿老たるモノ者︀にコトヨサ任し「ブカ不合は、ヒトクミ一班のバンシ番士をシ知りて、バンシ番士をトヽノ整へてイ入れ、アルチダイ阿勒赤歹は、ヒトクミ一班のバンシ番士をシ知りて、バンシ番士をトヽノ整へてイ入れ。ドダイ チエルビ朶歹 扯兒必は、ヒトクミ一班のバンシ番士をシ知りて、バンシ番士をトヽノ整へてイ入れ。ドゴルク チエルビ朶豁勒忽 扯兒必は、ヒトクミ一班のバンシ番士をシ知りてバンシ番士をトヽノ整へてイ入れ」とて、ヨクミ四班のオトナ宿老をヨサ任して、
バンチヨク番直にイ入るミコト勅をツタ傳へ「バンチヨク番直にイ入るには、バンチヨク番直のクワンニン官人、オノレ己のトコロ處にバンチヨク番直するバンシ番士をテンケン點檢して、バンチヨク番直にイ入りて、ミ三たびトマ宿りア合ひて、カハ代りア合へ。
バンチヨク番直ある(番地に當れる)ヒト人 バンチヨク番直をハヅ脫さば、そのバンチヨク番直をハヅ脫したるバンシ番士にミ三つのシモト笞をアタ與へよ。そのバンシ番士 マタ又 フタ二たびバンチヨク番直をハヅ脫さばシチ七つのシモト笞をアタ與へよ。マタ又 そのヒト人、ミ身にヤマヒ病なく、バンチヨク番直のクワンニン官人 ラ等にサウダン相談なく、マタ又そのバンシ番士 ミ三たびバンチヨク番直をハヅ脫さば、サンジフシチ三十七のシモト笞をアタ與へて、ワレラ我等のトコロ處にユ行くことをツラ艱しとしたれば、[メ眼の]カゲ陰にトホ遠きトコロ地にヤ遣らん」とミコト勅ありき。(番直の宿老、蒙語に客失昆 斡脫古と云ひ、元史 兵志には怯薛 之 長とあり。輟耕錄に曰く「國朝有㆓四 怯薛 大官㆒。怯薛 者︀、分㆓宿衞供奉之士㆒爲㆓四番㆒、番三晝夜。凡上之起居飮食諸︀服御之政令、怯薛 之長皆總焉」と云へり。)
「バンチヨク番直のオトナ宿老は、ダイサン第三 ダイサン第三のバンチヨク番直に(當番の三日目ごとに)このミコト勅をバンシ番士にキ聽かせよ(明譯掌
「バンチヨク番直のオトナ宿老は、ヲサ長となられたりとのみイ云ひて、ドウトウ同等にイ入りたるワ我がバンシ番士をワレ我にサウダン相談 ナ無くてナ勿 セ責めそ。ハフド法度をウゴカ動さば、ワレ我にツ吿げよ。キ斬らしむるリ理あるならば、ワレラ我等はキ斬らしむるぞ。ウ打たるゝリ理あるならば、フ臥さしめてウ打つぞ。ヲサ長となれりとのみイ云ひて、ドウトウ同等のワ我がバンシ番士をオノ己がテアシ手足をイタ致してムチウ笞打たば、シモト笞のムクイ報にシモト笞をマタ亦、コブシ拳のムクイ報にコブシ拳をマタ亦 カヘ回さん」とノリタマ宣へり。
§228(09:44:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅あるには「ホカ外にヲ居るセンコ千戶のクワンニン官人よりワ我がバンシ番士はカミ上にア在るぞ。ホカ外にヲ居るヒヤクコ百戶 ジツコ十戶のクワンニン官人よりワ我がバンシ番士のケニン家人はカミ上にあるぞ。ワ我がバンシ番士に、ホカ外にヲ居るセンコ千戶ども、ドウトウ同等となりてナラ竝びて、ワ我がバンシ番土とウ毆ちア合はば、センコ千戶のヒト人をツミ罪せん」とミコト勅ありき。
§229(09:45:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
セントウシ箭筒士 ジヱイ侍衞 カシハデ厨官の勤方
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 ミコト勅ありて、クミグミ班班のクワンニン官人どもにミコト勅をツタ傳ふるには「セントウシ箭筒士、ジヱイ侍衞 ラ等、バンチヨク番直にイ入りて、ヒル晝のオコナ行ひをオノ〳〵各そのミチミチ道道にオコナ行いて、ヒ日のヒカリ光あるにシユクヱイ宿衞にユヅ譲りて、ホカ外にイ出でてヤド宿れ。ワレラ我等のトコロ處にヨル夜はシユクヱイ宿衞 トマ宿りヲ居れ。セントウシ箭筒士はセントウ箭筒を、カシハデ厨官はキベイ器︀皿をシユクヱイ宿衞にワタ渡してサ去れ。ホカ外にヤド宿れるセントウシ箭筒士、ジヱイ侍衞、カシハデ厨官は、ワレラ我等 ユ湯をノ飮むまで、ウマヨセバ聚馬處にスワ坐りて、シユクヱイ宿衞に[250]トヾ屆けて、ユ湯をノ飮みヲ畢へば、セントウシ箭筒士はセントウ箭筒のトコロ處に、ジヱイ侍衞はクラヰ坐のトコロ處に、カシハデ厨官はキベイ器︀皿のトコロ處にカヘ復りア合へ。クミグミ班班にイ入るモノ者︀は、タヾタヾ只只 ダウリ道理にヨ依りこのタイレイ體例にヨ依りかくナ爲せ」とミコト勅ありき。
「ヒ日 オ落ちたるノチ後、オルド斡兒朶のウシロ後よりマヘ前よりコ越えユ行くヒト人を拏へて、シユクヱイ宿衞はトラ拏へてトマ宿りて、アシタ明朝 シユクヱイ宿衞はカレ彼のコトバ言をキ聞け。シユクヱイ宿衞は、バンチヨク番直にカハ代りア合ふには、そのシルシ符をワタ渡してイ入りてコ來よ。カハ代りてイ出づるシユクヱイ宿衞も、ワタ渡してイ出でてサ去れ」とノリタマ宣へり。「シユクヱイ宿衞は、ヨル夜 オルド斡兒朶のマハリ周圍にフ臥してカド門をオサ壓へてタ立てるシユクヱイ宿衞は、ヨル夜 イ入るヒト人をば、そのカシラ頭をウチワ打割り、そのカタ肩をオ落つるほどキ斫りてノ去けよ。イソ急ぎのハナシ話あるヒト人 ヨル夜 キ來なば、シユクヱイ宿衞にハナシ話して、チヤウバウ帳房のキタ北よりシユクヱイ宿衞とヒトトコロ一處にタ立ちてハナシ話さしめよ」とノリタマ宣へり。
「シユクヱイ宿衞よりウヘ上のクラヰ坐には、タレ誰もナ勿 スワ坐りそ。シユクヱイ宿衞よりコトバ言なくては、タレ誰もナ勿 イ入りそ。シユクヱイ宿衞のウヘ上をタレ誰もナ勿 ユ行きそ。シユクヱイ宿衞のアヒダ閒をナ勿 ユ行きそ。シユクヱイ宿衞のカズ數をナ勿 ト問ひそ。シユクヱイ宿衞のウヘ上をユ行くヒト人をシユクヱイ宿衞はトラ拏へよ。アヒダ閒をユ行くヒト人をシユクヱイ宿衞はトラ拏へよ。カズ數をト問へるヒト人をば、シユクヱイ宿衞は、そのヒト人を、そのヒ日 ノ乘れるセンバ騸馬、クラ鞍ありクツワ轡あるを、キ被たるイフク衣服ごめにシユクヱイ宿衞はト取れ」とミコト勅ありき。エルヂギダイ額勒只吉歹は、シンニン信任あるヒト人なるに、ユフベ夕にシユクヱイ宿衞のウヘ上をユ行けるありて、シユクヱイ宿衞にいかんぞトラ拏へられける。(額勒只吉歹は、合赤溫の子 阿勒赤歹、卽 世系表に按只吉歹とある人と名 似たれども、異なる人なり。後文にも元史にも屢 見ゆ。八十八 功臣の中には見えず。かの名前の內に阿勒赤と云ふ人あり、餘り名の聞えぬ人なり。阿勒赤吉歹の吉歹を脫したるにあらずやとも疑はる。)
成吉思 汗 實錄 卷の九 終り。
- ↑ 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
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