[251]



​チンギス カン ジツロク​​成吉思 汗 實錄​ ​マキ​​卷​​ジフ​​十​


§230(10:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ラウ​​老​ ​シユクヱイ​​宿衞​

 ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​クモ​​雲​​額兀列​ある​ヨル​​夜​​ワ​​我​​ソラマド​​天窓​​斡嚕格​ある​ヘヤ​​房​​マハ​​廻​​額額嗹​りに​フ​​臥​して、​シヅカ​​靜​​斡嚕克訥塔​​ネム​​睡​​溫塔兀勒​らしめて、​この​​額捏​​クラヰ​​位​​斡欒​​イタ​​到​らせたる​ラウコウ​​老功​​斡脫古思​​ワ​​我​​シユクヱイ​​宿衞​​ホシ​​星​​豁都︀​ある​ヨル​​夜​​ワ​​我​​チヤウデン​​帳殿​​斡兒朶​​ヘヤ​​房​​マハリ​​周圍​​豁兒臣​​フ​​臥​して、​フトン​​蒲團​​斡欒​​ウチ​​內​​オドロ​​驚​​斡黑札惕合​かさざりし​サイハヒ​​慶​​斡勒澤​ある​ワ​​我​​シユクヱイ​​宿衞​は、​タカ​​高​​溫都︀兒​​クラヰ​​位​​斡欒​​イタ​​到​らせたり。​ヘンドウ​​變動​​失勒只𡂰​​ヲ​​居​​フヾキ​​風雪​に、​ワナヽ​​顫​​失勒古惕刊​かし​ヲ​​居​​レイキ​​冷氣​に、​ソヽ​​瀉​​赤惕渾​​ヲ​​居​​アメ​​雨​に、​ワ​​我​​アミタルカベ​​編壁​​失勒帖速​ある​ヘヤ​​房​​マハリ​​周圍​​ヤスミ​​休​​只啉​​ナ​​爲​さず​タ​​立​ちて​コヽロ​​心​​只嚕格​​ヤス​​安​からしめたる​マコト​​誠​​申​​コヽロ​​心​ある​ワ​​我​​シユクヱイ​​宿衞​は、​クワイクワツ​​快活​​只兒合郞​なる​クラヰ​​位​​イタ​​到​らせたり。​ミダ​​亂​​亦不侖​​ヲ​​居​​テキ​​敵​​ナカ​​中​に、​ワ​​我​​トテイ​​土堤​​亦兒格​ある​イヘ​​家​​マハリ​​周圍​に、​マタヽキ​​瞬​​希兒篾思​もせず​スヽ​​勸​​亦惕合​めて​タ​​立​ちたる​タノミ​​賴​​亦帖格勒​ある​ワ​​我​[252]​シユクヱイ​​宿衞​​カバノカハ​​樺皮​​兀亦勒孫​​ヤナグヒ​​箭筒​​ウゴカ​​動​​忽必思​​ナ​​爲​せば​オク​​後​​豁只惕​れて​タ​​立​たざりし​ハヤ​​快​​忽兒敦​​ユ​​行​​ワ​​我​​シユクヱイ​​宿衞​​サイハヒ​​慶​​斡勒澤​ある​ワ​​我​​シユクヱイ​​宿衞​どもを​ラウ​​老​ ​シユクヱイ​​宿衞​老功の宿衞士)と​イ​​云​へ。

​タイ​​大​ ​ジヱイ​​侍衞​

​オゲレ チエルビ​​斡歌列 扯兒必​​イ​​入​りたる​シチジフ​​七十​​ジヱイ​​侍衞​どもを​タイ​​大​ ​ジヱイ​​侍衞​​イ​​云​へ。

​ラウ​​老​ ​ユウシ​​勇士​

​アルカイ​​阿兒孩​卽ち阿兒孩 合撒兒)の​ユウシ​​勇士​どもを​ラウ​​老​ ​ユウシ​​勇士​​イ​​云​へ。

​タイ​​大​ ​セントウシ​​箭筒士​

​エスン テエ​​也孫 帖額​​ブギダイ​​不吉歹​ ​ラ​​等​​セントウシ​​箭筒士​どもを​タイ​​大​ ​セントウシ​​箭筒士​​イ​​云​へ」と​ミコト​​勅​ありき。


§231(10:03:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


愛撫すべき​マン​​萬​​バンシ​​番士​

 「​ワ​​我​​クジフゴ​​九十五​​センコ​​千戶​より​ミ​​身​​ツ​​貼​​キンシン​​近臣​​エラ​​選​びて​キ​​來​つる​マン​​萬​​シンキン​​親近​なる​ワ​​我​​バンシ​​番士​を、​ユクスヱ​​久後​ ​ワ​​我​​クラヰ​​位​​スワ​​坐​りたる​コ​​子​ども、​ワ​​我​​シソン​​子孫​​シソン​​子孫​は、この​バンシ​​番士​​カタミ​​遺念​​ゴト​​如​​オモ​​想​ひて、​ウラ​​怨​みしめず、​ヨ​​善​​アツカ​​扱​へ。この​マン​​萬​​バンシ​​番士​​ワ​​我​がめでたき​フク​​福︀​​カミ​​神︀​​イ​​云​ひて​ヲ​​居​らずや」と​ノリタマ​​宣​へり。


§232(10:04:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​シユクヱイ​​宿衞​​ツカサド​​掌​る雜務

 ​マタ​​又​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​オルド​​斡兒朶​​コシモト​​侍女​蒙語​チエルビン オキト​​扯兒賓︀ 斡乞惕​侍從の女​イヘノコモノ​​家僮​蒙語​グルン コウト​​格㖮 可兀惕​家の子​ラクダカヒ​​駱駝飼︀​蒙語​テメエチン​​帖篾額臣​元史 兵志に「牧駱駝者︀曰帖蔑赤」とあり。​ウシカヒ​​牛飼︀​蒙語​クケチン​​忽客臣​)を​シユクヱイ​​宿衞​​トリシ​​取締​めて、​オルド​​斡兒朶​​ヘヤ​​房​ ​クルマ​​車​​トヽノ​​調​へよ。​タウ​​纛​ ​ツヾミ​​鼓​ ​ドロ​​朶囉​明本 語譯には下とあれども解する能はず。​ヤリ​​鎗​​シユクエイ​​宿衞​ ​トヽノ​​調​へよ。​キベイ​​器︀皿​をも​シユクヱイ​​宿衞​ ​トヽノ​​調​へよ。​ワレラ​​我等​​ノミモノ​​飮物​ ​クヒモノ​​食物​​シユクヱイ​​宿衞​ ​シタク​​支度​せよ。​シゲ​​稠​​ニク​​肉​​クヒモノ​​食物​をも​シユクヱイ​​宿衞​ ​シタク​​支度​して​ニ​​煑​よ。​ノミモノ​​飮物​ ​クヒモノ​​食物​ ​フソク​​不足​とならば、​シタク​​支度​ぜられたる​シユクヱイ​​宿衞​​タヅ​​尋​ねよ」と​ノリタマ​​宣​へり。「​セントウシ​​箭筒士​​ノミモノ​​飮物​ ​クヒモノ​​食物​​クバ​​配​るに、​シタク​​支度​したる​シユクヱイ​​宿衞​​サウダン​​相談​ ​ナ​​無​くて​ナ​​勿​ ​クバ​​配​りそ。​クヒモノ​​食物​​クバ​​配​るに、まづ​シユクヱイ​​宿衞​より​ハジ​​始​めて​クバ​​配​れ」と​ノリタマ​​宣​へり。[253]​オルド​​斡兒朶​​ヘヤ​​房​​イ​​入​​イ​​出​づるを​シユクヱイ​​宿衞​ ​トヽノ​​整​へよ。​カド​​門​には​シユクヱイ​​宿衞​​カドモリ​​門者︀​蒙語​エウデチン​​額兀迭臣​​イヘ​​家​​ヨ​​倚​りて​タ​​立​て。​シユクヱイ​​宿衞​より​フタリ​​二人​ ​イ​​入​りて​タイシユキヨク​​大酒局​​ト​​執​りて​ヲ​​居​れ」と​ノリタマ​​宣​へり。「〈[#底本では直前の「開き括弧」なし]〉​シユクヱイ​​宿衞​より​イヘヰヅカサ​​營盤官​蒙語​ヌントウチン​​嫩禿兀臣​​ユ​​行​きて​オルド​​斡兒朶​​ヘヤ​​房​​オロ​​下​せ(据ゑつけよ)」と​ノリタマ​​宣​へり。「​ワレラ​​我等​ ​タカ​​鷹​ ​ツカヒ​​使​​マキガリ​​圍獵​する​トキ​​時​​シユクヱイ​​宿衞​​ワレラ​​我等​​トモ​​共​​タカ​​鷹​ ​ツカヒ​​使​​マキガリ​​圍獵​しに​ユ​​行​け。​クルマ​​車​に[​エモノ​​獲物​の]​ナカバ​​半​​ワ​​分​けて〈[#「[獲物の]半を分けて」はママ。底本の六四五頁(§278)に訳注者本人による事後訂正あり]〉​オ​​置​け」と​ノリタマ​​宣​へり。(元史 兵志に「預怯薛 之職、而居禁近者︀、分冠服弓矢食飮文史車馬廬帳府庫醫藥卜祝︀之事、悉世守之。雖才能任使、服官政、貴盛之極、一日歸至內庭、則執其事故、至於子孫改。非甚親信、不預也」とあり。


§233(10:06:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​シユクヱイ​​宿衞​​イクサ​​軍​を出さざる理由

 ​マタ​​又​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​ワレラ​​我等​​ミ​​身​​イクサ​​軍​​イ​​出​でずば、​シユクヱイ​​宿衞​は、​ワレラ​​我等​より​ホカ​​外​​イクサ​​軍​​ナ​​勿​ ​イ​​出​でそ」と​ノリタマ​​宣​へり。「かく​イ​​云​はれて、​ミコト​​勅​​コ​​越​えて​シユクヱイ​​宿衞​​ネタ​​嫉​みて​イクサ​​軍​​イダ​​出​すものあらば、​イクサ​​軍​​シ​​知​れる​チエルビン​​扯兒賓︀​ ​ツミ​​罪​あるとなれ」と​ミコト​​勅​ありき。「​シユクヱイ​​宿衞​​イクサ​​軍​はいかんぞ​イダ​​出​されざると​イ​​云​へるぞ、​ナンヂラ​​汝等​​シユクヱイ​​宿衞​は、​タヾ​​但​ ​ワレラ​​我等​​コガネ​​金​​イノチ​​命​​マモ​​守​るなり。​タカガリ​​鷹狩​ ​マキガリ​​圍獵​​ユ​​行​​トキ​​時​​ハタラ​​働​​ア​​合​ふなり。​オルド​​斡兒朶​​アヅ​​預​けられて、​タ​​起​​トキ​​時​ ​シヅカ​​靜​なる​トキ​​時​ ​クルマ​​車​​トヽノ​​調​ふるなり。​ワ​​我​​ミ​​身​​マモ​​守​りて​トマ​​宿​ること​タヤス​​容易​からんや。​イヘ​​家​ ​クルマ​​車​ ​タイラウエイ​​大老營​を、​タ​​起​​トキ​​時​ ​ヲ​​居​​トキ​​時​ ​トヽノ​​調​ふること​タヤス​​容易​からんや。かく​オモ​​重​​ハナ​​離​​バナ​​離​れの​ハタラ​​働​きあることを​イ​​云​ひて、「​ワレラ​​我等​より​ホカ​​外​​コト​​別​​イクサ​​軍​​ナ​​勿​ ​ユ​​行​きそ」と​イ​​云​へるは、かくあるぞ」と​ノリタマ​​宣​ひき。


§234(10:08:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​シユクヱイ​​宿衞​の陪審また雜務

 ​マタ​​又​ ​ミコト​​勅​あるには「​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​​サイダン​​裁斷​に、​シユクヱイ​​宿衞​より[​ヒト​​人​[254]​イダ​​出​して]​サイダン​​裁斷​​トモ​​共​​キ​​聽​け」と​ノリタマ​​宣​へり。「​シユクヱイ​​宿衞​より​ヤナグヒ​​箭筒​ ​ユミ​​弓​ ​カブト​​甲​ ​キカイ​​器︀械​​トヽノ​​調​へて​クバ​​配​​ア​​合​へ。​センバ​​騸馬​​トヽノ​​調​へて​マウサク​​網索​​ツ​​駄​けて​ユ​​行​け」と​ノリタマ​​宣​へり。「​シユクヱイ​​宿衞​より​チエルビン​​扯兒賓︀​​トモ​​共​​タンモノ​​段匹​​クバ​​配​れ」と​ノリタマ​​宣​へり。

​オルド​​斡兒朶​の右左前なる​セントウシ​​箭筒士​ ​ジヱイ​​侍衞​の屯營

​セントウシ​​箭筒士​ ​ジヱイ​​侍衞​​タムロ​​營​​ツ​​吿​ぐる(定むる)には、​エスン テエ​​也孫 帖額​ ​ブギダイ​​不吉歹​ ​ラ​​等​​セントウシ​​箭筒士​​アルチダイ​​阿勒赤歹​ ​オゲレ​​斡歌列​ ​アクタイ​​阿忽台​ ​ラ​​等​​ジヱイ​​侍衞​は、​オルド​​斡兒朶​​ミギ​​右​​ホトリ​​邊​​ユ​​行​け」と​ノリタマ​​宣​へり。「[​ゴルクダク​​豁兒忽荅黑​ ​ラブラカ​​剌卜剌合​ ​ラ​​等​​セントウシ​​箭筒士​、]​ブカ​​不合​​ドダイ チエルビ​​朶歹 扯兒必​​ドゴルク チエルビ​​多豁勒忽 扯兒必​​チヤナイ​​察乃​ ​ラ​​等​​ジヱイ​​侍衞​は、​オルド​​斡兒朶​​ヒダリ​​左​​ホトリ​​邊​​ユ​​行​け」と​ノリタマ​​宣​へり。「​アルカイ​​阿兒孩​​ユウシ​​勇士​どもは、​オルド​​斡兒朶​​マヘ​​前​​ユ​​行​け」と​ノリタマ​​宣​へり。「​シユクヱイ​​宿衞​は、​オルド​​斡兒朶​​イヘ​​家​ ​クルマ​​車​​トヽノ​​調​へて、​オルド​​斡兒朶​​マヘ​​前​​ヒダリ​​左​​ホトリ​​邊​​ユ​​行​け」と​ノリタマ​​宣​へり。(明譯には​チヤウデンノ​​帳殿​ ​マヘノ​​根前​ ​ヒダリ​​左​ ​ミギ​​右​とあり。原文 左の下に右の字 脫ちたるなるべし。

殿中を監視︀する​ドダイ チエルビ​​朶歹 扯兒必​

​アマタ​​許多​​バンチヨク​​番直​する​ジヱイ​​侍衞​を、​オルド​​斡兒朶​​マハリ​​周圍​​オルド​​斡兒朶​​イヘノコ​​家僮​を、​ウマカヒ​​馬飼︀​蒙語​アドウチン​​阿都︀兀臣​​ヒツジカイ​​羊飼︀​蒙語​ゴニチン​​豁你臣​元史 兵志に「牧羊者︀曰火你赤」とあり。​ラクダカヒ​​駱駝飼︀​ ​ウシカヒ​​牛飼︀​を、​ツネ​​常​​ドダイ チエルビ​​朶歹 扯兒必​​キ​​氣​​フ​​付​けて​ヲ​​居​れ」と​コトヨサ​​任​​タマ​​給​へり。「​ドダイ チエルビ​​朶歹 扯兒必​は、​ツネ​​常​​イ​​居​て、​オルド​​斡兒朶​​ウシロ​​後​​豁亦納​より​カレクサ​​枯草​​豁黑​​ク​​喫​ひて​カンプン​​乾糞​​豁馬兀兒​​ヤ​​燒​きて​ユ​​行​け」と​ミコト​​勅​ありき。(末の一語は、掃除せよとの意なるべきか。確ならず。朶歹 扯兒必は、一千の侍衞の長にて、番直の宿老 卽ち四 怯薛 長の一人となり、兼ねて殿中監の職務をも執れるなり。この職務は、太祖︀ 始めて合罕となれる時「家の內の婢僕どもを統べん」と云へるに同じ。


§235(10:10:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​カルルウト​​合兒魯兀惕​の降附

 ​クビライ ノヤン​​忽必來 那顏​​カルルウト​​合兒魯兀惕​​コトム​​征​けさせたり。​カルルウト​​合兒魯兀惕​​アルスラン カン​​阿兒思闌 罕​​クビライ​​忽必來​​クダ​​降​​キ​​來​ぬ。​クビライ ノヤン​​忽必來 那顏​は、​アルスラン カン​​阿兒思闌 罕​​ヒキ​​率​​キ​​來​て、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マミ​​見​えさせたり。​テキタイ​​敵對​[255]ざりきとて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​アルスラン​​阿兒思闌​​オンシヤウ​​恩賞​して、「​ムスメ​​女​​アタ​​與​へん」と​ミコト​​勅​ありき。(合兒魯兀惕は、合兒魯黑の複稱、唐書の葛邏祿なり。葛邏祿は、鐵勒 諸︀部の一にして、唐の世に北庭の西北金山の西に居り、その盛なる時は碎葉 但邏斯の諸︀城をも有ちしが、宋の世に至りて國 衰へ、西遼の屬國となれり。

​カルルク​​合兒魯黑​の異文

烏古孫 仲端の北使記 元史 鐵邁赤の傳に合魯、親征錄 太祖︀紀 沙全の傳 儒學 伯顏の傳に哈剌魯、哈剌䚟の傳に哈魯、也罕 的斤の傳に匣剌魯とあり。輟耕錄の色目 三十一種の中には哈剌魯とも匣剌魯とも書けり。珀兒沙の亦思塔黑哩の書には喀兒列怯、普剌諾 喀兒闢尼の紀行には科囉剌と云へり。元史 地理志の西北地 附錄には柯耳魯とありて、經世 大典の圖に、柯耳魯は阿力麻里 卽ち阿勒馬里克(今の伊犂)の西北に載せたり。親征錄に「辛未 春、上居怯綠連 河時、西域 哈剌魯 部主 阿昔蘭 可汗 來歸、因忽必來 那顏上」とあり。元史も、太祖︀ 六年 辛未の條にこの事を記せり。

​カヤリク​​喀牙里克​の君を兼ぬる​カルルク カン​​合兒魯黑 罕​

多遜は、主吠尼の史を譯して「突︀兒克 喀兒魯克の酋長にして喀牙里克の君なる阿兒思闌 汗、阿勒馬里克の君なる斡匝兒、二人ともに合喇乞台の古兒汗の臣なりしが、一二一一年 來て成吉思 汗に從ひ、成吉思 汗は、阿兒思闌に宗女を與へたり」と云へり。喇失惕の記載は、祕史に同じくして、只 皇女をば主吠尼と同じく宗女とし、「阿兒思闌 汗の號 存すべからざるに依り、撒兒惕の號を賜へり」と云へり。合兒魯兀惕の罕は喀牙里克の君を兼ぬとあれば、その國は、喀牙里克の邊、卽ち巴勒喀什 湖の東南にあるべし。喀牙里克は、嚕卜嚕克の紀行に喀亦剌克と云ひ、元史 憲宗紀「二年夏、分遷諸︀王於各所」の條に「海︀都︀ 於海︀押立 地」とありて、太宗の孫なる海︀都︀の分地となり、海︀都︀の亂に世祖︀の兵は阿勒馬里克に進み、阿剌套 山を隔てて相 對し居たり。大佐 裕勒は「その地は、今の闊帕勒に近し」と云へり。一八五七年、ある塔塔兒 人は、闊帕勒の古墳より古き金環を寶石と共に發見し、その金環に突︀兒克 字にて阿兒思闌と刻みてありしは、珍らしき堀出物なりき(露西亞の地學 協會の報吿、一八六七年 第一編 第 二百九十ぺーぢ)。

世世 元の駙馬

諸︀公主表に「脫烈 公主、適阿爾思蘭子 也先 不花 駙馬」とありて、皇女とも宗女とも云はず。又 表には阿兒思闌を駙馬と云はざれども、諸︀書みな阿兒思闌に妻せたりとあれば、これも先に阿兒思闌に配し、後にその子に配したるを、公主表は諱みて後の駙馬のみを擧げたるならん。又 脫烈 公主の次に「八八公主、適也先 不花子 忽納荅兒 駙馬。某 公主、適忽納荅兒 子 剌海︀涯里那 駙馬」とあれば、阿兒思闌の後は、曾孫までも世世 元の駙馬となりしなり。


§236(10:11:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​メルキト​​篾兒乞惕​​ヰゲツ​​遺孽​​サウメツ​​𠞰滅​

 ​スベエタイ バアトル​​速別額台 巴阿禿兒​は、​クロガネ​​鐵​​クルマ​​車​にて、​メルキト​​篾兒乞惕​​トクトア​​脫黑脫阿​​クト​​忽禿​ ​チラウン​​赤剌溫​ ​ラ​​等​なる​コ​​子​どもを​オ​​追​ひに​シユツセイ​​出征​して、​チユイ ガハ​​垂 河​​オヒツ​​追詰​めて​キハ​​窮​めて​キ​​來​ぬ。(親征錄に曰く「辛未、遣將 脫忽察兒、率騎二千、出哨西邊戎。丁丑、上遣大將 速不台拔都︀、以鐵裹車輪、征蔑兒乞 部、與先遣征西前鋒 脫忽察兒 二千騎合、至嶄河、遇其長大戰、盡滅蔑兒乞還」と云ひ、

丁丑の年なる嶄河の戰

喇失惕も、この戰を記して牛の年の事とし、嶄河を眞河と書けり。元史 本紀は、三年 戊辰の也兒的石 河の戰に「討蔑里乞 部之」と書きて、十二年 丁丑には速不台の征戰を載せず。速不台の傳に曰く「滅里吉 部强盛不附。丙子、帝[256]諸︀將於 禿兀剌 河之黑林、問誰能爲我征滅里吉者︀。速不台請行。帝壯而許之。乃選裨將 阿里出、領百人先行、覘其虛實。速不台 繼進云云。己卯、大軍至蟾河、與滅里吉遇、一戰而獲其二將、盡降其眾、其部主 霍都︀ 奔欽察。速不台 追之、與欽察于 玉峪〈[#「峪」は底本では「山+容」。昭和18年復刻版では「山+客」。「元史(四庫全書本)卷一百二十一、第2丁、蘇布特(速不台)の傳」では「峪」]〉之」とあり。丙子は十二年 丁丑の前年、己卯は丁丑の二年後にして、親征錄 集史と年紀 合はず。多遜は、嶄河を哲姆 河と書き、その戰を一二一六年 卽ち丙子の事とせり。諸︀書を合せ考ふるに、蓋 子の年に軍を出し、丑の年に垂河に戰ひ、卯の年に餘孽 悉く平ぎたるならん。

​カングリン​​康鄰​​ハシ​​奔​れる​クド​​忽都︀​

親征錄の嶄河、喇失惕の眞河、多遜の哲姆 河、速不台の傳の蟾河は、祕史の垂河と同じきか異なるか、知らず。霍都︀の欽察に奔れることは、卷八にも「忽都︀ 合惕 赤剌溫 等の篾兒乞惕は、康鄰 欽察兀惕を過ぎ去りき」と云ひ、土土哈の傳には「太祖︀ 征蔑里乞、其主 火都︀ 奔欽察。欽察 國主 亦納思 納之。太祖︀ 遣使諭之 云云。亦納思 答 云云。太祖︀ 乃命將 討之」とあれども、西域の諸︀史には更にその事なし。喇失惕は「忽都︀は乞魄察克に奔らんとしたるを、蒙古の軍に捕へ殺︀されたり」と(別咧津 卷一 第七十三頁に)云ひ、多遜の史には「篾兒乞惕の酋 禿克脫干は、蒙古に逐はれ、眾を率ゐて氈篤の北に走り、その下に殺︀され、蒙古はその眾を海︀哩 哈米赤 兩河の間に敗りて滅ぼせり」とあれば、篾兒乞惕の走りて康鄰の地に入りたるは、實らしけれども、欽察に奔れりと云へるは、傳聞の誤りなるべし。


§237(10:11:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​グチユルク カン​​古出魯克 罕​​サウメツ​​𠞰滅​

 ​ヂエベ​​者︀別​は、​ナイマン​​乃蠻​​グチユルク カン​​古出魯克 罕​​オ​​追​ひて、​サリクグン​​撒哩黑昆​​オヒツ​​追詰​めて、​グチユルク​​古出魯克​​キハ​​窮​めて​キ​​來​ぬ。(親征錄 戊寅(太祖︀ 十三年) 木華黎 國王 南征の次に「別遣大將 哲別、攻曲出律 可汗、至撒里桓 地之」とありて、その簡略なること祕史と同じ。

​グチユルク​​古出魯克​の西遼 簒奪

遼史 天祚紀の末に西遼の興亡を附記し、遼の德宗 耶律 大石の自立より大石の妻 感天 太后 塔不煙、その子 仁宗 夷列、夷列の妹 承天 太后 普速完を歷て、夷列の子 直魯古に至り、「直魯古 卽位、改元 天禧、在位三十四年。時秋出獵、乃蠻 主 屈出律、以伏兵八千之、而據其位、襲遼衣冠、尊直魯古太上皇、皇后爲皇太后、朝夕問起居、以侍終焉。直魯古 死、遼絕」とあり。屈出律は、卽ち古出魯克にして、その西遼に奔れるは、親征錄 主吠尼に據るに、太祖︀ 三年 戊辰、西紀 一二〇八年にあり。古出魯克の西遼を簒へるは、錢大昕の考證と主吠尼の史とに據るに、太祖︀ 六年 辛未、西紀 一二一一年にあり。直魯古の死は、主吠尼 喇失惕の書に據るに、國を奪はれて憂悶し、二年を歷て病死したるなり。長春の西游記に「自金師破遼、大石 林牙 領眾數千西北、移徙十餘年、方至此地云云。延袤萬里、傳國幾百年。乃滿 失國依大石、士馬復振、盜據其土。繼而 算端 西削其地。天兵至、乃滿 尋滅、算端 亦亡」と云へり。林牙は、學士を呼ぶ契丹語にして、耶律 大石の舊官なり。乃滿 失國依大石とは、乃蠻の古出魯克 逃げて大石の立てたる國に依れるを云ふ。算端 西削其地とは、闊喇自姆の君 速勒壇 抹哈篾惕、西遼の舊境 失兒 河 以南を取れるを云ふ。乃滿 尋滅は、古出魯克の滅びたるなり。算端 亦亡は、この戊寅の年より二年後にあり。撒哩黑昆は、集史に撒哩黑庫勒とあり。今は撒哩庫勒と呼び、葉兒羌 河の上流にあり、西は直に露西亞の領地に接す。古出魯克の事蹟は、主吠尼 喇失惕の二書に詳なり。

​フス メリク​​曷思麥里​​デン​​傳​​カウシヨウ​​考證​

元史には只 曷思麥里の傳に「曷思麥里、西域 谷則 斡兒朶 人。初爲西遼 闊兒罕 近侍、後爲谷則 斡兒朶 所屬 可散 八思哈 長官。太祖︀西征、曷思麥里 率 可散 等城酋長迎降。大將 哲伯 以聞。帝 命曷思麥里、從哲伯先鋒、攻乃蠻之、斬其主 曲出律[257]哲伯 令曷思麥里、持曲出律 首、往徇其地。若可失哈兒 押兒牽 斡端 諸︀城、皆臨風降附」とあり。谷則 斡兒朶は、大城の義にして、垂河(今の楚河)の濱に在りし西遼の都︀なり。遼史 天祚紀に虎思 斡耳朶、金史 粘割 韓奴の傳に骨斯 訛魯朶、耶律 楚材の西游錄に虎司 窩魯朶と書けり。或は古思を略きて斡兒朶とのみも云へり。元好問の大丞相 劉氏 先瑩の碑、元史 郭寶玉の傳に、訛夷朶とあるは、兒を夷と誤りたるなり。闊兒罕は、祕史 卷五の古兒 罕、親征錄の菊律 可汗なり。遼史に記せる如く、大石 林牙 卽位して葛兒罕と號してより、子孫みなその號を襲ぎたるなり。可散は、西游錄に可傘と書き、經世 大典の圖には柯散と書きて、察赤(今の塔什干)の東南に在り。露西亞の地圖には、塔什干の東南に今も喀散 城あり。曷思麥里は、者︀別に降れるにて、この時 太祖︀は未だ親征せざれば、傳に太祖︀ 西征とあるは誤れり。可失哈兒は今の喀什噶爾、押兒牽は今の葉爾羌、斡端は今の和闐なり。


§238(10:12:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ウイウト​​委兀惕​ 降附の使

 ​ウイウト​​委兀惕​​イドウト​​亦都︀兀惕​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ツカヒ​​使​​ヤ​​遣​りき。(この事は、親征錄 集史 元史、みな祕史より委し。親征錄にまづ「己巳(太祖︀ 四年)春、畏吾兒 國主 亦都︀護、聞上威名、遂殺︀契丹 主所置監國 沙監」とあり。亦都︀護は、卽ち亦都︀兀惕、委兀惕の王號にして、集史には亦的庫惕と云へり。この亦都︀兀惕の名は、巴而朮 阿而忒 的斤と云ひ、元史に傳あり。哈剌亦 哈赤北魯の傳には、八兒出 阿兒忒 亦都︀護とあり。契丹は、合喇 乞塔惕、卽ち西遼にして、岳璘 帖穆爾の傳には西契丹とあり。西遼の畏兀を威制したること、畏兀の叛きてその監國を殺︀したる事情は、哈剌亦 哈赤北魯、岳璘 帖穆爾 二人の傳に見ゆ。

親征錄なる​イドゴ​​亦都︀護​ 降附の始末

さて親征錄に、監國を殺︀したる處へ、太祖︀の使 二人 至りたれば、亦都︀護 喜びて、使 二人を遣り降附の意を奏さしめき。この時 蔑里乞の脫脫より使 至りたるを、亦都︀護はその使を殺︀し、又 脫脫の子 四人は、父を失ひ、也兒的石 河を渉りて至りたるを嶄河にて禦ぎ戰へり。この戰は、祕史 卷八の初にある不黑都︀兒麻の戰に續きて、額兒的失 河にて多數 溺れてより西に奔るまでの間にありし事なり。嶄河は、巴兒朮の傳に襜河とあり、古の昌八里に傍ひて流るゝ昌河、卽ち今の昌吉 河にして、委兀惕の都︀城の西にあり。太祖︀ 十二年 丁丑に速不台の戰へる薪河、速不台の傳に蟾河とあるものとは、名 同じくして實は異なり。この戰の後、亦都︀護は使 四人を遣り蔑里乞の事を吿げたれば、太祖︀は又 前の使 二人を遣り、亦都︀護は復使を遣り珍寶 方物を奉れりとあり。これらの事を皆 太祖︀ 四年の事とせり。​アトキラク​​阿惕乞喇黑​親征錄に乞力吉思の二使の一人を阿忒黑剌と云ひ、喇失傷も乞兒吉思の二使の一人を阿惕黑剌黑と云へば、修正 祕史は、委兀惕の使を乞兒吉思の使と改めたるに似たり。​ダルベ​​荅兒伯​喇失惕は、太祖︀の二使の一人を迭兒拜と云へり。親征錄 初に荅拜とあるは、兒の字を落せるなり。後に荅兒班とあるは、拜を班と誤れるなり。これも委兀惕の使を太祖︀の使に混らしたるなり。​フタリ​​二人​​ツカヒ​​使​とし​マウ​​奏​して​ヤ​​遣​るには

譬 雲開見日 冰泮得水

​クモ​​雲​​額兀速​ ​ハ​​霽​れて​ハヽ​​母​​額客​なる​ヒ​​日​母の如き太陽)を​ミ​​見​たるが​ゴト​​如​く、​コホリ​​冰​​抹勒孫​ ​ト​​解​けて​カハ​​河​​木嗹​​ミヅ​​水​​エ​​得​たるが​ゴト​​如​く、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ナ​​名​​コヱ​​聲​とを[258]​キ​​聞​きて​ハナハダ​​甚​ ​ヨロコ​​歡​べり。

金帶之星裝 袞衣之餘縷

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​オンシ​​恩賜​せば、​コガネ​​金​​阿勒壇​​オビ​​帶​​不薛​​シメガネ​​締金​​豁兒吉​より​アケノオホミゾ​​大紅衣​​阿勒迭額勒​​キヌギレ​​帛片​​忽兒帖孫​より​エ​​得​ば(分與せられば)、​ナガミコト​​爾​​ダイゴ​​第五​​コ​​子​となりて​チカラ​​力​​アタ​​與​へん」と​マウ​​奏​して​ヤ​​遣​りき。(親征錄は、この辭を二章に分けて、辭句を增し加へ、前章は、亦都︀護の始めて二使を遣りたる時の辭とし、後章は太祖︀ 六年に亦都︀護の入朝したる時の辭とせり。その前章は「臣國聞皇帝威名、故棄契丹舊好、方將使來通誠意、躬自效順。豈料遠辱天使、降臨下國。譬雲開見日、冰泮得水、喜不勝矣。而今而後、盡率部眾、爲僕爲子、竭犬馬之勞也」と云ひ、その後章は「陛下若恩賜臣、使遠者︀悉聞、近者︀悉見、綴袞衣之餘縷、摘金帶之星裝、誠願在陛下四子之亞、竭其力也」と云へり。喇失暢も、殆ど之に同じ。

​イドウト​​亦都︀兀惕​の來朝 貢獻

その​コトバ​​言​につき、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​オンシ​​恩賜​して​コタ​​答​​ノリタマ​​宣​ひて​ヤ​​遣​るには「​ムスメ​​女​をも​アタ​​與​へん。​ダイゴ​​第五​​コ​​子​となれ。​コガネ​​金​ ​シロカネ​​銀​ ​シラタマ​​眞珠​ ​オホタマ​​東珠​ ​キンラン​​金襴​ ​ソウキンラン​​總金襴​ ​オリモノ​​段匹​​モ​​持​ちて​イドウト​​亦都︀兀惕​ ​コ​​來​よ」と​ノリタマ​​宣​ひて​ヤ​​遣​れば​イドウト​​亦都︀兀惕​は、​オンシ​​恩賜​せられたりとて​ヨロコ​​喜​びて、​コガネ​​金​ ​シロカネ​​銀​ ​シラタマ​​眞珠​ ​オホタマ​​東珠​ ​オリモノ​​段匹​ ​キンラン​​金襴​ ​ソウキンラン​​總金襴​ ​ドンス​​緞子​​モ​​持​ちて、​イドウト​​亦都︀兀惕​〈[#「亦都︀兀惕」は底本では「都︀兀兀惕」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉 ​キ​​來​て、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マミ​​見​えたり。(〈[#底本では直前の「開き括弧」なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉親征錄は、「寶を持ち來よ」と太祖︀ 云へりとは云はず、太祖︀の使 二たび往きたる時、亦都︀護の使 復 至りて珍寶 方物を奉れりとあり。かくてそれより二年を歷て、辛未(太祖︀ 六年)の春、哈剌魯 部 主 阿昔蘭 可汗の來朝と同じ時に、亦都︀護 來朝して、彼の袞衣 金帶の辭を陳べたれば、「上說其言、使公主、仍序第五」とあり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、

​アル アルトン​​阿勒 阿勒屯​の下嫁

​イドウト​​亦都︀兀惕​​オンシ​​恩賜​して​アル アルトン​​阿勒 阿勒屯​​アタ​​與​へたり。(元史 巴而朮 阿而忒の傳は、全く親征錄に本づきたれども、巳の年の使者︀の辭より「雲開見日、冰泮得水」の語を略き、また「辛未、朝帝亍 怯綠連 河、奏曰「陛下若恩顧臣、使臣得陛下四子之末、庶幾竭其犬馬之力。」帝感其言、使公主 也立 安敦、且得於諸︀子」とありて、袞衣 金帶の語を略きたれば、亦都︀兀惕の辭命として祕史に載せられたる面白き韻文は、骨拔泥鰌となれり。公主表 高昌 公主 位の處に「也立 可敦 公主、太祖︀ 女、適亦都︀護 巴而述 阿兒忒 的斤」とあり。可敦は、安敦の誤、也立 安敦は、卽ち阿勒 阿勒屯なり。喇失惕は、正后の出にあらずと云へり。


§239(10:14:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ヂユチ​​拙赤​の北征

 ​ウサギ​​兔​​トシ​​年​我が土御門 天皇 承元 元年 丁卯、宋の開禧 三年、金の泰和 七年、元の太祖︀ 二年、西紀 一二〇七年、太祖︀ 四十六歲の時)、​ヂユチ​​拙赤​​ミギ​​右​​テ​​手​​イクサ​​軍​にて​ハヤシ​​林​​タミ​​民​​トコロ​​處​​シユツセイ​​出征​せしめたり。​ブカ​​不合​[259]は、​ミチビキ​​嚮導​して​ユ​​往​きたり。(親征錄には、この年「遣案彈 不兀剌 二人、使乞力吉思 部」とありて、拙赤 北征の事なし。拙赤 北征の事は、この年より十一年後なる戊寅の年(太祖︀ 十三年)、哲別の曲出律を滅したる次に記し、「先 吐麻 部 叛、上遣徵兵 乞兒乞思 部、不從亦叛去、遂先命大太子往討之、以不花前鋒」とあり。集史もほゞ同じ。不花は卽ち不合、八十八 功臣の中なる不合 駙馬なり。

​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​の降附

​オイラト​​斡亦喇惕​​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​前に十一部の亂に加はりたる人)は、​トメン​​禿綿​萬の​オイラト​​斡亦喇惕​​マヘ​​前​​クダ​​降​​イ​​入​りて​キ​​來​ぬ。​キ​​來​​ヂユチ​​拙赤​​ヒ​​引​きて、​トメン オイラト​​禿綿 斡亦喇惕​​トコロ​​處​​ミチビ​​導​きて、​シクシト​​失黑失惕​​イ​​入​らしめたり。(親征錄には、丁卯の年、乞力吉思 部 降附し、その翌年 戊辰の冬、二たび脫脫 曲出律を征する時「斡亦剌 部 長 忽都︀花 別吉 等、遇我 前鋒、不戰而降。因用爲鄕導、至也兒的石 河云云」とありて、拙赤に降れる忽都︀合を脫黑脫阿 征伐の軍に降れりとせり。喇失惕も同じ。洪鈞の朮赤 補傳の自注に曰く「本紀、斡亦剌 之降在三年、而 乞力吉思 之附在二年。考之西圖、應祕史。先定斡亦剌、由東而西、軍程乃合」と云へり。​ヂユチ​​拙赤​は、

​オイラト​​斡亦喇惕​ ​ブリヤト​​不哩牙惕​ 諸︀部の降附

​オイラト​​斡亦喇惕​ ​ブリヤト​​不哩牙惕​ ​バルクン​​巴兒渾​ ​ウルスト​​兀兒速惕​ ​カブカナス​​合卜合納思​ ​カンカス​​康合思​ ​トバス​​禿巴思​​クダ​​降​して、(喇失惕の書に「客姆 河の上流に八河ありて、斡亦喇惕は、その左に居り、その近き東に兀喇速惕 帖連郭惕 客思的米なる林の民は、拜喀勒 湖の西に居りて、斡亦喇惕 乞兒吉思と鄰り合へり、」また「拜喀勒 湖の東に庫哩 禿剌思 不哩牙惕 禿馬惕 四部あり、都︀て巴兒古惕と云ふ」と云へり。巴兒渾は、卽ち巴兒古惕にて、卷一にその部の人 巴兒忽歹 篾兒干あり。太祖︀紀に八剌忽とあるも、巴兒古惕なり。喇失惕は、四部の總名とすれども、こゝに不哩牙惕と並べ擧げたれば、一部の名にも用ひたるなり。兀兒速惕は、卽ち兀喇速惕なり。合卜合納思は、元史 類︀編なる朮赤の傳に大方 通鑑を引きて憾哈納思とあり。親征錄に憾哈思とあるは、納の字を脫せるなり。元史 地理志には撼合納、劉 哈剌 拔都︀魯の傳には憨哈納思と書けり。その地の事は、元史 譯文 證補の地理志 西北地 附錄 釋地の下に詳なり。康合思 禿巴思は、知らず。

​キルギスト​​乞兒吉速惕​の降附

​トメン キルギスト​​禿綿 乞兒吉速惕​​トコロ​​處​​イタ​​到​れば、(乞兒吉速惕は、乞兒吉思の複稱なり。多遜 曰く「乞兒吉思の住める地は甚 廣く、安噶喇 河の西、阿勒台 山の北の東よりに居り、乃蠻はその南東にあり、客姆 河、客姆 客姆主惕は、その境內にあり。俗は遊牧なれども、城郭もあり」と云へり。​キルギスト​​乞兒吉速惕​​クワンニン​​官人​ ​エデ イナル​​也迪 亦納勒​​アルデエル​​阿勒迪額兒​​オレベク チギン​​斡列別克 的斤​なる​キルギスト​​乞兒吉速惕​​クワンニン​​官人​ども​クダ​​降​​イ​​入​りて、​シロ​​白​​カイセイ​​海︀靑​ども​シロ​​白​​センバ​​騸馬​ども​クロ​​黑​​テウソ​​貂鼠​どもを​モ​​持​​キ​​來​て、​ヂユチ​​拙赤​​マミ​​見​えたり。(〈[#底本では直前の「開き括弧」なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉親征錄には「遣案彈 不兀剌 二人、使乞力吉思 部。其長 斡羅思 亦難︀ 及 阿忒里剌 二人、偕我使來、獻白 海︀靑、名鷹也」太祖︀紀には「野牒 亦納里 部、阿里替也兒 部、皆遣[260]使來獻名鷹」とありて、本書と異なり。別咧津は喇失惕を譯して「阿勒壇 不剌の二人 乞兒吉思に使し、まづ一部に至り」と云ひて、「部の名も酋長の名も文字 見えず」と注し、「次の一部を也迪 斡侖、酋長を兀嚕思 亦納勒と云ふ。二酋 厚くもてなし、阿里克 帖木兒 阿惕黑喇黑 二人を遣して白き獵鳥を獻れり」と云へり。錄の亦難︀、紀の亦納里は、亦納勒の訛なり。多遜は、喇失惕を引きて「亦納勒は、乞兒吉思にて酋長を稱する號なり」と云へば、也迪 亦納勒は、也迪 部の酋長と云ふことにて、兀嚕思 又は斡囉思は、その名なるべし。名の見えざる酋長は、阿勒迪額兒ならん。元史は、二つともに人の名を部の名に誤れり。阿里克 帖木兒は、額兒篤曼の譯に阿里別克 帖木兒とあり、卽ち斡列別克 的斤なり。祕史に無き一使を阿惕黑喇黑と云へるに據れば、錄の阿忒里剌は、黑を里に誤りたるにて、祕史の委兀惕の使を修正 祕史は乞兒吉思に移せるなり。

​シビル​​失必兒​ 以南 林民の降附

​シビル​​失必兒​ ​ケスチイム​​客思的音​ ​バイト​​巴亦惕​ ​トカス​​禿合思​ ​テンレク​​田列克​ ​トエレス​​脫額列思​ ​タス​​塔思​ ​バヂギト​​巴只吉惕​より​コナタ​​這廂​なる​ハヤシ​​林​​タミ​​民​​ヂユチ​​拙赤​ ​クダ​​降​して、​キルギスト​​乞兒吉速惕​​バンコ​​萬戶​ ​センコ​​千戶​​クワンニン​​官人​どもを​ハヤシ​​林​​タミ​​民​​クワンニン​​官人​どもを​ツ​​伴​​キ​​來​て、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​シロ​​白​​カイセイ​​海︀靑​ども​シロ​​白​​センバ​​騸馬​ども​クロ​​黑​​テウソ​​貂鼠​どもをもて​マミ​​見​えさせたり。(

​シベリア​​昔別哩亞​の名の起り

失必兒は、今の昔別哩亞なり。喇失惕は、乞兒吉思の事を述べて「その國は、阿別兒 昔必兒の境に流るゝ安噶喇の大河まで廣がれり」と云ひ、元史 玉哇失の傳に「與海︀都︀ 將某某等於 亦必兒 失必兒 之地」とあり。篾撒列克 阿剌卜撒兒(第 十四 世紀の前半の人)は、昔必兒 卽 阿必兒と書き、亦奔 阿喇卜沙は「乞魄察克は、北は阿必兒 卽 昔必兒に界す」と云へり。合塔闌 地圖の北邊の薛不兒は、明に昔必兒を表せり。西紀 一三九四年より一四二七年まで亞細亞の諸︀國に遊び、帖木兒 大王の遠征にも伴ひし失勒篤別兒格兒の書きたるものには、亦必思昔不兒と云ふ國の名あり。然れどもこの昔必兒の名は、直に今の昔別哩亞となれるに非ず。第 十六 世紀の頃、亦兒的石 河の濱にて今の脫孛勒思克より四里 餘り河上に、昔必兒と云へる塔塔兒の城ありて、一五八一年に也兒馬克に取られ、その後 嚕西亞 人は、その名を採りて北亞細亞の總名に推廣めたり。客思的音は、親征錄に克失的迷とあり、卽 喇失惕の客思的米なり。田列克は、卷八に帖良古惕、親征錄に帖良兀とあり、卽 喇失惕の帖連郭惕なり。不咧惕施乃迭兒は「帖連古惕は、唐書の鐵勒より出でたるならん」と云へり。脫額列思は、卷八に脫斡列思とあり、卽 喇失惕の禿剌思なり。巴亦惕 禿合思 塔思 巴只吉惕は、未 考へず。

​バヂギト​​巴只吉惕​​シビル​​失必兒​の西にある部落なり 卷十一なる​スベエタイ​​速別額台​ 西征の條に注あり

親征錄なる戊寅 朮赤 北征の條には「以不花先鋒、追乞兒吉思、至亦馬兒 河而還。大太子領兵涉謙河冰順下、招降不困 克兒 爲思 憾哈思 帖良兀 克失的迷 火因 亦而干 諸︀部」とあり。亦馬兒 河は知らず。謙河は卽 客姆 河、今の也尼塞 河の上流なり。不困 克兒 爲思は、讀み難︀し。恐らくは誤脫あらん。火因 亦而干は、祕史には槐因 亦兒堅とあり。槐因は林の、亦兒堅は民にて、林の民なり。卽 諸︀部の統名にして、部の名に非ず。

​オイラト​​斡亦喇惕​​ムコギミ​​駙馬​ 兄弟

​オイラト​​斡亦喇惕​​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​​ムカ​​迎​へ、「​サキ​​先​​クダ​​降​り、​トメン オイラト​​禿綿 斡亦喇惕​​ヒキ​​牽​[261]​キ​​來​ぬ」とて​オンシ​​恩賜​して、​カレ​​彼​​コ​​子​ ​イナルチ​​亦納勒赤​​チエチエイゲン​​扯扯亦干​​アタ​​與​へたり。​イナルチ​​亦納勒赤​​アニ​​兄​ ​トレルチ​​脫咧勒赤​​ヂユチ​​拙赤​​ムスメ​​女​ ​ゴルイカン​​豁雷罕​​アタ​​與​へたり。(

​トレルチ​​脫咧勒赤​​ハダ​​哈荅​との同異

喇失惕は「成吉思 汗の第二の女 扯扯干は、忽禿合 別乞の子 脫喇勒赤に嫁げり」と云へり。扯扯干は卽 扯扯亦干なれども、脫喇勒赤は亦納勒赤に非ずして、却てその兄 脫咧勒赤に似たり。公主表もそれに同じく、延安 公主 位の處に「闊闊干 公主、適脫亦列赤 駙馬」とあり。然らば豁雷罕の夫を亦納勒赤とするかと云ふに、然らず。闊闊干 公主の前に「火魯 公主、適哈答 駙馬」とありて、火魯は、豁雷罕の下略に似たれども、哈荅は、亦納勒赤にも脫咧勒赤にも似ず。錢大昕の氏族表は、祕史と元史とを折衷し、「哈荅、一作脫劣勒赤、尙太祖︀ 孫女 火雷 公主、」「脫亦列赤、一作亦納勒赤、尙太祖︀ 女 闊闊干 公主」と書きたれども、哈荅は、八十八 功臣の內に旣に合歹 古咧堅とありて、卷十二にも合歹あり、親征錄の哈台、憲宗紀の合荅、多遜の喀荅克など、みなこの哈荅なるべく、脫咧勒赤は、八十八 功臣の定まりたる後に降附して駙馬となれる人なれば、その別人なること明なり。然れども哈荅 合歹を脫咧勒赤に非ずとし、火魯 火雷を豁雷罕に非ずとすれば、又 不都︀合なることあり。火魯 公主は、闊闊干 公主と共に、公主表 延安 公主 位の初に擧げられ、その次に公主 三人ありて、末に「延安 公主、適延安王 也不干」とあり、食貨志には「火雷 公主 位、丙申 年、分撥 延安府 九千七百九十六戶」とあり。闊闊干は、卽 扯扯干 扯扯亦干にして、斡亦喇惕の忽都︀合 別乞の子に嫁ぎたること確なる上は、延安王の家は、卽 忽都︀合の子孫にして、火雷 公主は、始めてその家に嫁ぎたる人なれば、その夫は必ず斡亦喇惕の首領なるべし。然らずば延安 公主 位を火雷 公主 位とも云ふべき筈なし。然らば哈荅 合歹は、果して脫咧勒赤なるか。この疑ひはいかに考へても解き得ず。

​オングト​​汪古惕​​ムコギミ​​駙馬​

​アラカ ベキ​​阿剌合 別乞​元史の阿剌海︀ 別吉 公主)を​オングト​​汪古惕​汪古惕の阿剌忽失 的吉惕忽哩 古咧堅)に​アタ​​與​へたり。(この事につきては、卷八に委しく論じたり。九十五の千戶を定められたる時は、まだ公主を娶らざりし時なれども、後の稱號に依り古咧堅と書きたるなり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、

​ヂユチ​​拙赤​ 初陣の​イサヲ​​功​

​ヂユチ​​拙赤​​オンシヤウ​​恩賞​して​ノリタマ​​宣​はく「​ワ​​我​​コ​​子​どもの​アニ​​兄​なる​ナンヂ​​汝​は、​イヘ​​家​より​ワヅカ​​纔​​イ​​出​でて、​ミチ​​道​ ​ヨ​​好​くある(道の遠き​ユ​​往​きたる​トコロ​​地​に、​ヲトコ​​男​ ​センバ​​騸馬​​キズツ​​傷​けず​クルシ​​苦​めずして、​サイハヒ​​福︀​ある​ハヤシ​​林​​タミ​​民​​クダ​​降​して​キ​​來​ぬ。​タミ​​民​​アタ​​與​へん」と​ミコト​​勅​ありき。


§240(10:17:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​ボロクル​​孛囉忽勒​​トマト​​禿馬惕​ 征伐

 ​マタ​​又​ ​ボロクル ノヤン​​孛囉忽勒 那顏​親征錄 博羅渾 那顏、元史 太祖︀紀 鉢魯完)を​ゴリ トマト​​豁哩 禿馬惕​​タミ​​民​​トコロ​​處​​シユツセイ​​出征​せしめたり。(豁哩 禿馬惕は、卷一に見えたり。豁哩は、善と云ふ美稱なれば、常には略きて只 禿馬惕と云ふ。親征[262]錄には吐麻 部、元史 本紀には禿滿 部とあり。兵志 三には火里 禿麻ともあり。​トマト​​禿馬惕​​タミ​​民​​クワンニン​​官人​ ​ダイドクル シヨゴル​​歹都︀忽勒 莎豁兒​ ​シ​​死​にたれば、

勇婦 ​ボトクイ​​孛脫灰​

その​ツマ​​妻​ ​ボトクイ タルクン​​孛脫灰 塔兒渾​孛脫灰 勇婦)は、​トマト​​禿馬惕​​タミ​​民​​シ​​知​りて​ヲ​​居​りき。(歹都︀忽勒 莎豁兒は、明譯文に歹都︀禿勒とあり、忽を禿に誤り、莎豁兒を略けり。倭勒甫の書に塔禿剌克 速喀兒とあるは、音 稍 近けれども、剌克は、忽勒を倒にせるに似たり。親征錄に都︀剌 莎合兒とあるは、都︀の上歹 又は塔を脫し、剌の下 克の字を略けるなり。

​ボロクル​​孛囉忽勒​の殺︀され

​ボロクル ノヤン​​孛囉忽勒 那顏​ ​イタ​​到​りて、​ミタリ​​三人​にて​タイグン​​大軍​より​マヘ​​前​​アユ​​步​​ユ​​往​きて、​ユフグレ​​夕暮​​オボ​​覺​えず​カタ​​難︀​​ハヤシ​​林​​ナカ​​中​​コミチ​​徑​​ヨ​​依​​アユ​​步​みたれば、​カレラ​​彼等​​モノミ​​斥候​​ウシロ​​後​より​オビヤカ​​脅​されて、​コミチ​​徑​​ハヾ​​阻​みて、​ボロクル ノヤン​​孛囉忽勒 那顏​​トラ​​拏​へて​コロ​​殺︀​しけり。​トマト​​禿馬惕​​ボロクル​​孛囉忽勒​​コロ​​殺︀​せりと​シ​​知​りて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​イタ​​甚​​イカ​​怒​りて、​ミヅカ​​自​​シユツバ​​出馬​せんとしたれば、​ボオルチユ​​孛斡兒出​​ムカリ​​木合黎​ ​フタリ​​二人​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​トヾ​​止​まるまで​イサ​​諫​めたり。

​ドルベ ドクシン​​朶兒伯 多黑申​​トマト​​禿馬惕​ 征服

​サテ​​却​ ​ドルベト​​朶兒別惕​朶兒邊の複稱)の​ドルベ ドクシン​​朶兒伯 多黑申​親征錄 都︀魯伯、元史 朶魯伯)に​コトヨサ​​任​し「​イクサ​​軍​​オゴソカ​​嚴​​トヽノ​​整​へて、​トコヨ​​長生​​アマツカミ​​上帝​​イノ​​禱​りて、​トマト​​禿馬惕​​タミ​​民​​クダ​​降​さんと​コヽロ​​試​みよ」と​ミコト​​勅​ありき。​ドルベ​​朶兒伯​は、​イクサ​​軍​​トヽノ​​整​へて、​サキ​​前​​イクサ​​軍​​ユ​​行​きたる、​モノミ​​斥候​​マモ​​守​りたる​ミチ​​路​ ​コミチ​​徑​​クチグチ​​口口​に、​ムナ​​虛​しき​イキホヒ​​勢​​ハ​​張​りて、​アカ​​紅​​キヤウギウ​​强牛​野牛の一種)の​ユ​​行​きたる​ミチ​​路​​ヨ​​依​り、​イクサビト​​軍士​どもに​ガウレイ​​號令​し、​イクサ​​軍​​カズ​​數​ある(數に具はれる​ヒト​​人​​コヽロ ヲク​​心 臆​せば​ウ​​打​たんが​タメ​​爲​に、​ヒト​​人​ごとに​トヲ​​十​​シモト​​笞​​マ​​負​はせて、​ヲノ​​斧​ ​ホン​​錛​蒙語 兀哈里。義を知らず、明譯に從へり。錛は、字典に「音奔、平木器︀」とあれども、これも解り得ず。​ノコギリ​​鋸​ ​ノミ​​鑿​なる​ヒト​​人​ ​ゴト​​毎​の(人ごとに用ふる​キカイ​​器︀械​​トヽノ​​整​へさせて、​アカ​​紅​​キヤウギウ​​强牛​​ユ​​行​きたる​ミチ​​路​​ヨ​​依​り、​ミチ​​路​​タ​​立​てる​キ​​樹​どもを​タ​​斷​ち斫らせて、​ノコギ​​鋸​らしめて​ミチ​​路​をなして、​ヤマ​​山​​ウヘ​​上​[263]​ノボ​​上​りたれば、​トマト​​禿馬惕​​タミ​​民​​ソラマド​​天窗​​ウヘ​​上​より、​フイ​​不意​にて​ウタゲ​​筵會​して​ヲ​​居​​トコロ​​處​​トラ​​虜︀​へたり。


§241(10:20:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​トラ​​拏​へられたる二將の助かり

 ​サキ​​前​​ゴルチ ノヤン​​豁兒赤 那顏​​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​ ​フタリ​​二人​​トマト​​禿馬惕​​トラ​​拏​へられて、​ボトクイ タルクン​​孛脫灰 塔兒渾​​トコロ​​處​にそこにありき。​ゴルチ​​豁兒赤​​トラ​​拏​へられたる​ワケ​​理由​は、​トマト​​禿馬惕​​タミ​​民​​ヲトメ​​女子​どもは​ウツク​​美​しくあり、​サンジフ​​三十​​ツマ​​妻​​ト​​取​れと​ミコト​​勅​ありたるにつき、​トマト​​禿馬惕​​タミ​​民​​ヲトメ​​女子​どもを​ト​​取​らんとて​ユ​​往​きたるに、​サキ​​前​​クダ​​降​りたる​タミ​​民​は、​カヘツ​​却​​テキ​​敵​となりて、​ゴルチ ノヤン​​豁兒赤 那顏​​トラ​​拏​へたりき。​ゴルチ​​豁兒赤​​トマト​​禿馬惕​​トラ​​拏​へられたりと​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​シ​​知​りて、「​ハヤシ​​林​​タミ​​民​​オコナヒ​​行​は、​クドカ​​忽都︀合​ ​シ​​知​れるぞ」と​ノリタマ​​宣​ひて​ヤ​​遣​りたれば、​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​ ​マタ​​又​ ​トラ​​拏​へられき。

三將の恩賜

[こたび]​トマト​​禿馬惕​​タミ​​民​​クダ​​降​​ヲ​​畢​へたれば、​ボロクル​​孛囉忽勒​​ホネ​​骨​​ユヱ​​故​​ヒヤク​​百​​トマト​​禿馬惕​​タマ​​賜​へり。(孛囉忽勒の遺族に賜はりたるなり。​ゴルチ​​豁兒赤​は、​サンジフ​​三十​​ムスメ​​女子​​ト​​取​れり。​クドカ ベキ​​忽都︀合 別乞​​ボトクイ タルクン​​孛脫灰 塔兒渾​​タマ​​賜​へり。(親征錄は、禿馬惕 征伐を丁丑(太祖︀ 十二年)に移し、簡短に「是歲、吐麻 部 主 都︀剌 莎合兒、旣 附而叛、上命博羅渾 那顏 都︀魯伯 二將平之、博羅渾 那顏 卒於彼」と記せり。元史は、それよりも簡略にて、たゞ「是歲、禿滿 部 民 叛、命鉢魯完 朶魯伯平之」とありて、鉢魯完の殺︀されたる事も云はず。蓋 四傑の一人なることに心附かざりしならん。


§242(10:22:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


母と子弟とに民の分配

 ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミコト​​勅​ありて「​ハヽ​​母​​コ​​子​どもに​オトヽ​​弟​どもに​タミ​​民​​ワカ​​分​けて​アタ​​與​へん」とて​アタ​​與​ふる​トキ​​時​​クニタミ​​國民​​アツ​​聚​むるに​カンナン​​艱難︀​したるは、​ハヽ​​母​なるぞ。​ワ​​我​​コ​​子​どもの​アニ​​兄​は、​ヂユチ​​拙赤​なるぞ。​ワ​​我​​オトヽ​​弟​どもの​スエ​​末​は、​オツチギン​​斡惕赤斤​なるぞ」と​ノリタマ​​宣​ひて、​ハヽ​​母​には​オツチギン​​斡惕赤斤​[264]​ワケマヘ​​分前​となして​マン​​萬​​タミ​​民​​アタ​​與​へたり。​ハヽ​​母​は、​フソク​​不足​​オモ​​思​ひて​コヱ​​聲​をなさざりき。​ヂユチ​​拙赤​​クセン​​九千​​タミ​​民​​アタ​​與​へたり。​チヤアダイ​​察阿歹​​ハツセン​​八千​​タミ​​民​​アタ​​與​へたり。​オゴダイ​​斡歌歹​​ゴセン​​五千​​タミ​​民​​アタ​​與​へたり。​トルイ​​脫雷​​ゴセン​​五千​​タミ​​民​​アタ​​與​へたり。(元史の宗室 世系表に「太祖︀ 皇帝 六子、長 尤赤 太子、次 二 察合台 太子、次 三 太宗 皇帝、次 四 拖雷、卽 睿宗 也。次 五 兀魯赤、無嗣、次 六 闊列堅 太子」とあり。拖雷まで四人は、光獻 翼聖 皇后の子なり。兀魯赤 闊列堅は、庶子にしてかつ幼き故に、分民なかりき。​カツサル​​合撒兒​​シセン​​四千​​タミ​​民​​アタ​​與​へたり。​アルチダイ​​阿勒赤歹​​ニセン​​二千​​タミ​​民​​アタ​​與​へたり。​ベルグタイ​​別勒古台​​イツセンゴヒヤク​​一千五百​​タミ​​民​​アタ​​與​へたり(世系表に「烈祖︀ 神︀元 皇帝 五子、長 太祖︀ 皇帝、次 二 撒只 哈兒 王、次 三 哈赤溫 大王、次 四 鐵木哥 斡赤斤、所謂 皇太弟 國王 斡嗔 那顏 者︀也。次 五 別里古台 大王」とあり。搠只 哈兒は、太祖︀紀に皇弟 哈撒兒、食貨志に搠只 哈撒兒 大王とあり。表の哈兒は、撒の字を脫したり。合赤溫は、早く死にたる故に、その子に民を與へたり。この阿勒赤歹も、亦魯該の親屬なる阿勒赤歹も、卷九なる額勒只吉歹とは名 稍 異なり。元史にも太宗紀に按赤帶、定宗 憲宗 世祖︀紀に按只帶とありて、阿勒赤吉歹と云へる事 無ければ、世系表なる按只吉台の吉の字は、恐らくは衍字ならん。

​ダアリタイ​​荅阿哩台​の處分

​ダアリタイ​​荅阿哩台​卷一の荅哩台 斡惕赤斤、太祖︀紀 荅力台、世系表 荅里眞、食貨志 太祖︀ 叔 荅里眞 官人)は、​ケレイト​​客咧亦惕​​クミ​​與​したりとて「​メ​​眼​​カゲ​​背處​​シリゾ​​黜​けん」と​ノリタマ​​宣​へば、​ボオルチユ​​孛斡兒出​​ムカリ​​木合黎​​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​ ​ミタリ​​三人​ ​イ​​言​はく「​オノ​​己​​ヒ​​火​​ケ​​滅​すが​ゴト​​如​く、​オノ​​己​​イヘ​​家​​ヤブ​​壞​るが​ゴト​​如​く、​ナガミコト​​爾​​ヨ​​善​​チヽ​​父​​カタミ​​遺念​は、​ヒトリ​​獨​ ​ナガミコト​​爾​​ヲヂ​​叔父​ ​ノコ​​殘​りてあるを、いかんぞ​ス​​棄​てん。​カレ​​彼​​キ​​氣​​ツ​​附​けざりしことを​ナ​​勿​[​オモ​​想​ひ]そ。​ナガミコト​​爾​​ヨ​​好​​チヽ​​父​​マツテイ​​末弟​​イヘヰ​​營盤​​ケムリ​​煙​​タ​​立​てさせ​ア​​合​ひて​ヲ​​居​れ」と​イ​​云​はれて、​ハナ​​鼻​​合巴兒​より​ケムリ​​煙​​忽泥​ ​ツ​​搶​​康失​くまで​アキラ​​明​​合合思​かに​ハナシ​​話​されて(意 明ならざれども、明本 語譯に從へり、文譯には​タイソ​​太祖︀​ ​コヽロノウチ​​心下​ ​クルシミテ​​辛酸​)、「​ウベナ​​諾​へり」とて、​ヨ​​好​​チヽ​​父​​オモ​​想​ひて、​ボオルチユ​​孛斡兒出​​ムカリ​​木合里​​シギ クトク​​失吉 忽禿忽​ ​ミタリ​​三人​​ハナシ​​話​にて​シヅ​​靜​まりたるぞ(明譯​イカリ​​怒​ ​ツヒニ​​遂​ ​ヤミタリ​​息了​)。(好き父 以下は、叙事の文なり。原文[265]に太祖︀の語氣として、「我」の字を末に加へたるは誤りならん。


§243(10:25:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


三弟 四子の傅

 ​ハヽ​​母​​オツチギン​​斡惕赤斤​​マン​​萬​​タミ​​民​​アタ​​與​へて、​クワンニン​​官人​どもより​グチユ​​古出​ ​ココチユ​​闊闊出​ ​チユンサイ​​種賽​ ​ゴルカスン​​豁兒合孫​八十八の功臣の中にて第十七 第十八 第三十三 第十九​ヨタリ​​四人​​ツ​​傅​けたり。​ヂユチ​​拙赤​には​クナン​​忽難︀​ ​モンケウル​​蒙客兀兒​ ​ケテ​​客帖​功臣の第七 第三十九 第五十​ミタリ​​三人​​ツ​​傳​けたり。​チヤアダイ​​察阿歹​には​カラチヤル​​合喇察兒​ ​モンケ​​蒙客​ ​イドクダイ​​亦多忽歹​功臣の第二十九 第三十七 第六十六​ミタリ​​三人​​ツ​​傅​けたり。​マタ​​又​ ​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​チヤアダイ​​察阿歹​は、​タケ​​猛​くあり。​コマヤカ​​細​なる​サガ​​性​あるなり。​コケシユス​​闊客搠思​卽 闊闊搠思、功臣の第三十)は、​オソ​​晩​​ハヤ​​早​く(朝夕に​マヘ​​前​​ヰ​​居​て、​オモ​​思​へる​コト​​事​​カタ​​語​りて​ヲ​​居​れ」と​ミコト​​勅​ありき。(明譯​マタ​​又​ ​イハク​​說​​チヤアダイハ​​察阿歹​ ​セイ​​性​ ​コハシ​​剛​​コマヤカニ​​子細​ ​シム​​敎​​コケシユス​​闊客搠思​ ​ハヤクオソク​​早晩​ ​マヘニテ​​根前​ ​モノガタリセ​​說話​​ベシ​​者︀​とあるに據れば、原文「細なる性あるなり」の「なり」は、衍字にて、「細なる性ある」は、闊客搠思に係る詞ならん。​オゴダイ​​斡歌歹​には​イルゲ​​亦魯格​卽 亦魯該​デガイ​​迭該​功臣の第五 第十一​フタリ​​二人​​ツ​​傅​けたり。​トルイ​​拖雷​には​ヂエダイ​​哲歹​功臣の第二十三なる者︀台​バラ​​巴剌​功臣の第三十五なる巴剌 斡囉納兒台 又は第四十九なる巴剌 扯兒必​フタリ​​二人​​ツ​​傅​けたり。​カツサル​​合撒兒​には​ヂエブケ​​者︀卜客​功臣の第四十四)を​ツ​​傅​けたり。​アルチダイ​​阿勒赤歹​には​チヤウルカイ​​察兀兒孩​功臣の第五十八)を​ツ​​傅​けたり。


§244(10:26:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​コンゴタト​​晃豁塔惕​​カツサル​​合撒兒​の打たれ

 ​コンゴタト​​晃豁塔惕​晃豁壇の複稱)の​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​​コ​​子​ども​ナヽタリ​​七人​ありき。​ナヽタリ​​七人​​ナカ​​中​​ココチユ テブテンゲリ​​闊闊出 帖卜騰格哩​闊闊出と云ふ神︀巫)ありき(元史 憲宗紀の「初に母曰莊聖 太后 怯烈 氏、歲 戊辰 十二月三日、生帝。時 有黃忽荅 部 知天象者︀、言帝後必大貴、故以蒙哥名。蒙哥、華言 長生 也」とあり。黃忽荅は、卽 晃豁塔惕にして、いはゆる天象を知れる者︀は、卽この帖卜騰格哩なり。歲 戊辰は、太祖︀ 卽位の三年なれば、この晃豁壇の騷動は、三年 以後に起れる事なるべし。)その​ナヽタリ​​七人​​コンゴタン​​晃豁壇​は、​カツサル​​合撒兒​​イチミ​​黨​して​ウ​​打​ちたりき。​カツサル​​合撒兒​は「​ナヽタリ​​七人​​コンゴタン​​晃豁壇​に、​イチミ​​黨​して​ウ​​打​たれたり」と​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ウタ​​愬​へたれば、[266]​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​ホカ​​別​​コト​​事​にて​イカ​​怒​りて​イマ​​在​せる​アヒダ​​閒​​マウ​​申​したる​ユヱ​​故​に、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​イカリ​​怒​​ウチ​​裏​​カツサル​​合撒兒​​ノリタマ​​宣​はく「​イノチ​​命​あるものに​カ​​勝​たれざる[​ヒト​​人​]なりき、​ナンヂ​​汝​明譯​ナンヂハ​​你​ ​ツネニ​​平日​ ​イヘリ​​說​​ヒト​​人​ ​ズト​​不​​アタハ​​能​​テキスル​​敵​)。いかんぞ​カ​​勝​たれたる、​ナンヂ​​汝​」と​イ​​云​はれて、​カツサル​​合撒兒​ ​ナミダ​​涙​​オト​​墮​​タ​​起​ちて​サ​​去​りて、​カツサル​​合撒兒​ ​ウレ​​憂​へて​ミカ​​三日​ ​コ​​來​ざりき。

​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​の讒言

そこに​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​は、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マウ​​白​さく「​トコヨ​​長生​​アマツカミ​​上帝​​ミコト​​勅​にて​カン​​罕​[を​サダ​​定​むる]​ミツゲ​​神︀吿​​ノリタマ​​宣​へり。「​ヒトタビ​​一次​​テムヂン​​帖木眞​ ​クニ​​國​​ト​​取​れ」と​ノリタマ​​宣​へり。「​ヒトタビ​​一次​​カツサル​​合撒兒​を」と​ノリタマ​​宣​へり。​カツサル​​合撒兒​​ハカ​​圖​らずば、[​コト​​事​]​シ​​知​られずあるぞ」と​イ​​云​はれて、

太祖︀の性急

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、その​ヨル​​夜​ ​シユツバ​​出馬​して、​カツサル​​合撒兒​​トラ​​拏​へに​ユ​​往​きたれば、​グチユ​​古出​ ​ココチユ​​闊闊出​ ​フタリ​​二人​は「​カツサル​​合撒兒​​トラ​​拏​へに​ユ​​往​きたり」と​ハヽ​​母​​ツ​​吿​げけり。​ハヽ​​母​ ​シ​​知​ると、​ヨル​​夜​ ​スナハチ​​便​ ​ツヾ​​續​きて、​シロ​​白​​ラクダ​​駱駝​​ヒ​​引​かせて​クロ​​黑​​クルマ​​車​にて​ヨドオ​​夜通​​ユ​​行​きて、​ヒイ​​日出​づる​コロ​​頃​ ​イタ​​到​れば、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​カツサル​​合撒兒​​ソデ​​袖​​シバリ​​縛​りて、その​バウオビ​​帽帶​​ハ​​褫​ぎて、その​コトバ​​言​​ト​​問​​ヲ​​居​​トコロ​​處​に、

母に怒られたる太祖︀の​キク​​愧懼​

​ハヽ​​母​​イタ​​到​られて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​オドロ​​驚​きて​ハヽ​​母​​オソ​​畏​れたり。​ハヽ​​母​ ​イカ​​怒​りて​イタ​​到​りて​クルマ​​車​より​オ​​降​り、​ハヽ​​母​ ​ミヅカラ​​自​ ​カツサル​​合撒兒​​シバ​​縛​れる​ソデ​​袖​​ト​​解​きて​ハナ​​放​し、その​バウオビ​​帽帶​​カツサル​​合撒兒​​アタ​​與​へて、​ハヽ​​母​ ​イカ​​怒​りて​キ​​氣​怒氣)を​オサ​​壓​へかね、​アグミ​​盤脚​ ​ヰ​​坐​​フタツ​​兩​​チ​​乳​​イダ​​出​して​フタツ​​兩​​ヒザ​​膝​​ウヘ​​上​にのせて​イ​​言​はく「​ミ​​見​たりや。​ナンヂ​​汝​​チ​​乳​乳汁)を​ノ​​飮​みたる​チ​​乳​乳房)は、​コレ​​此​なり。この​タヅ​​尋​​合荅侖​​オ​​追​ひて、​エナ​​胞衣​​合兒必速​​カ​​咬​​合札​みたる、​ホソノヲ​​臍帶​​灰亦​​タ​​斷​ちたる​カツサル​​合撒兒​は、[267]​ナニ​​何​をか​シ​​爲​たる。(合撒兒は、猛き野犬の名を采りて名づけたるなり。故にその野犬の猛く生れたるさまを韻語に云ひて、合撒兒の勇猛なるに譬へたり。​テムヂン​​帖木眞​は、​ワ​​我​​コ​​此​​ヒト​​一​つの​チ​​乳​​ツク​​盡​したりき。​カチウン​​合赤溫​​オツチギン​​斡惕赤斤​は、​フタリ​​二人​となりて​ヒト​​一​つの​チ​​乳​​ツク​​盡​さざりき。​カツサル​​合撒兒​こそは、​ワ​​我​​フタツ​​兩​​チ​​乳​ ​ミナ​​皆​​ツク​​盡​して、​ワ​​我​​ムネ​​胷​ ​ユルヤカ​​寬​になるまで​ヤス​​休​ましめて、​ムネ​​胷​​ユルヤカ​​寬​になしたりき。それが​タメ​​爲​​ギノウ​​技能​ある​ワ​​我​​テムヂン​​帖木眞​は、​ムネ​​胷​​扯額只​ ​シカジカ​​云云​。(こゝに脫文あり、補ふこと能はず。​ギノウ​​技能​ある​ワ​​我​​カツサル​​合撒兒​は、​ユミイ​​射​​合兒不​​チカラ​​力​ ​ギノウ​​技能​ある​ユヱ​​故​に、​ソム​​叛​​合兒不察​きて(語譯に交參とあれども、今 文譯に從へり、​イ​​出​​合嚕​でたるを​カブラヤ​​鏑失​​合兒不​ ​イ​​射​​クダ​​降​らしめたりき。​オドロ​​驚​​斡黑札惕​きて​イ​​出​でたるを​トホヤ​​遠箭​​桓禿察​ ​イ​​射​​クダ​​降​らしめたりき。​イマ​​今​ ​テキ​​敵​​ヒト​​人​​キハ​​窮​めたりと​イ​​云​ひて、​カツサル​​合撒兒​​ミ​​見​る(用ふること​アタ​​能​はざるなり、​ナンヂ​​汝​」と​イ​​云​へり。​ハヽ​​母​​ヤス​​休​ましめ​ヲ​​畢​へて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​ハヽ​​母​​イカ​​怒​られて、​オソ​​畏​れも​オソ​​畏​れたり、​ハ​​羞​ぢも​ハ​​羞​ぢたり、​ワレ​​我​」と​ノリタマ​​宣​ひて、「​シリゾ​​退​かん、​ワレラ​​我等​」と​ノリタマ​​宣​ひて​シリゾ​​退​きたり。​ハヽ​​母​​シ​​知​らしめず​ヒソカ​​陰​​カツサル​​合撒兒​​タミ​​民​​ト​​取​りて、​カツサル​​合撒兒​​センシヒヤク​​千四百​​タミ​​民​​アタ​​與​へたり。​ハヽ​​母​ ​シ​​知​りて、​コヽロ​​心​に[​ウレ​​憂​へ](原文に脫ちたるを、明譯に依りて補へり。​ハヤ​​早​​オ​​老​いたる​リイウ​​理由​はかくあり。​ヂヤライル​​札剌亦兒​​ヂエブケ​​者︀卜客​は、そこに​オドロ​​驚​きて、​バルクヂン​​巴兒忽眞​​イ​​入​​ノガ​​逃​れたり。


§245(10:33:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​の橫暴

 その​ノチ​​後​ ​コヽノイロ​​九種​​クニコトバ​​方言​ある​タミ​​民​​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​トコロ​​處​​アツマ​​聚​りて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​ウマヨセバ​​聚馬處​より​オホ​​多​​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​トコロ​​處​​アツマ​​聚​るとなれり。かく​アツマ​​聚​れる​トキ​​時​​テムゲ オツチギン​​帖木格 斡惕赤斤​​シタガ​​屬​へる​タミ​​民​[268]は、​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​トコロ​​處​​サ​​去​りき。​オツチギン ノヤン​​斡惕赤斤 那顏​は、​サ​​去​りたる​タミ​​民​​モト​​索​めに​シヨゴル​​莎豁兒​​イ​​云​​ツカヒ​​使​​ヤ​​遣​りき。​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​は、​シヨゴル ツカヒ​​莎豁兒 使​​イ​​言​へらく「​オツチギン​​斡惕赤斤​​ナンヂラ​​汝等​ ​フタリ​​二女​ ​ツカヒ​​使​となりき」と​イ​​云​ひて、(この言、意 通せず。二女とは、莎豁見と馬とを云ひ、莎豁兒を馬に比べ女に比べて辱めたるならんか。​シヨゴル ツカヒ​​莎豁兒 使​​ウ​​打​ちて、​アユ​​步​ませてその​クラ​​鞍​​オ​​負​はせて​カヘ​​回​らしめき。​オツチギン​​斡惕赤斤​は、​シヨゴル ツカヒ​​莎豁兒 使​​ウ​​打​ちて​アユ​​步​ませ​オコ​​致​せられて、​アスノアサ​​明朝​ ​オツチギン​​斡惕赤斤​〈[#「斡惕赤斤」は底本では「斡惕兒斤」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉​ミヅカラ​​自​ ​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​トコロ​​處​​ユ​​往​きて​イ​​言​はく「​シヨゴル ツカヒ​​莎豁兒 使​​ヤ​​遣​りたれば、​ウ​​打​ちて​アユ​​步​ませ​オコ​​致​せき。​イマ​​今​ ​ワレ​​我​ ​タミ​​民​​モト​​索​めに​キ​​來​つ」と​イ​​云​はれて、​ナヽタリ​​七人​​コンゴタン​​晃豁壇​は、​オツチギン​​斡惕赤斤​をここよりそこより​カコ​​圍​みて「​シヨゴル ツカヒ​​莎豁兒 使​​ナンヂ​​汝​​オコ​​致​せたるは、​ヨ​​善​​ア​​有​り」と​イ​​云​ひて、(明譯​ナンヂ​​你​ ​イカンゾ​​如何​ ​アヘテ​​敢​​ツカハシテ​差​​ヒトヲ​​人​​キテトル​​來取​​タミヲ​​百姓​とあれば、原文には打消の副詞 脫ちたるならん。​トラ​​拏​へんと​ウ​​打​たんと​ナ​​做​さるゝに​オソ​​懼​れて、​オツチギン ノヤン​​斡惕赤斤 那顏​ ​イ​​言​はく「​ツカヒ​​使​​ワ​​我​​オコ​​致​せたるは、​ヨ​​善​からず」と​イ​​云​ひき。​ナヽタリ​​七人​​コンゴタン​​晃豁壇​ ​イ​​言​はく「​ヨ​​善​からずあらば、​サンゲ​​懺悔︀​して​ヒザマヅ​​跪​け」と​イ​​云​ひて、​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​シリヘ​​後​より​ヒザマヅ​​跪​かせけり。​タミ​​民​をも​アタ​​與​へられずして、

​オツチギン​​斡惕赤斤​の泣き訴へ

​オツチギン​​斡惕赤斤​は、​アスノアサ​​明朝​ ​ハヤ​​早​​チンギス カガン​​成吉思 合罕​に、​オ​​起​きざるに​ネドコ​​寢床​​ウチ​​內​​イマ​​在​​トコロ​​處​​イ​​入​りて、​ナ​​哭​​ヒザマヅ​​跪​きて​マウ​​申​さく「​コヽノイロ​​九種​​クニコトバ​​方言​ある​タミ​​民​は、​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​トコロ​​處​​アツマ​​聚​られて、​ワレ​​我​​シタガ​​屬​へる​タミ​​民​​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​より​モト​​索​めに​シヨゴル​​莎豁兒​​イ​​云​​ツカヒ​​使​​ヤ​​遣​りたるに、​ワ​​我​​シヨゴル ツカヒ​​莎豁兒 使​​ウ​​打​ちて​アユ​​步​ませ​クラ​​鞍​​オ​​負​はせて​オコ​​致​せられて、​ワレ​​我​ ​ミヅカラ​​自​[269]​モト​​索​めに​ユ​​往​けば、​ナヽタリ​​七人​​コンゴタン​​晃豁壇​に、こゝよりそこより​カコ​​圍​みて​サンゲ​​懺悔︀​せしめて、​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​シリヘ​​後​より​ヒザマヅ​​跪​かせられたり」と​イ​​云​​ナ​​哭​きたり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​コヱ​​聲​​イダ​​出​さざるに、

​ボルテ ウヂン​​孛兒帖 兀眞​​ウタレ​​慨︀​​ゴト​​言​

​ボルテ ウヂン​​孛兒帖 兀眞​は、​ネドコ​​寢床​​ウチ​​內​​オ​​起​きて​スワ​​坐​りて、​フスマ​​衾​​エリ​​領​にて​ムネ​​胷​​オホ​​蔽​ひて、​オツチギン​​斡惕赤斤​​ナ​​哭​けるを​ミ​​見​て、​ナミダ​​涙​​オト​​墮​して​イ​​言​はく「​ナニ​​何​をかする​コンゴタン​​晃豁壇​ぞ。​カレラ​​彼等​は、​サキゴロ​​先頃​ ​カツサル​​合撒兒​をも​イチミ​​黨​して​ウ​​打​ちてありき。​イマ​​今​ ​マタ​​又​この​オツチギン​​斡惕赤斤​をいかんぞ​シリヘ​​後​より​ヒザマヅ​​跪​かせたる。いかなる​ダウリ​​道理​​ア​​有​りし。​マシテ​​況​この​ヒノキマツ​​檜松​​ゴト​​如​​ナ​​爾​​オトヽ​​弟​だちをかく​ソコナ​​害​​ア​​合​へり。​マコト​​實​​兀年​​マタ​​又​ ​ユクスヱ​​久後​ ​オイキ​​老木​​揑兀列​​ゴト​​如​​ナ​​爾​​ミ​​身​ ​カタム​​傾​​捏古思​​サ​​去​らば、​アサガラ​​麻穰​​捏惕客勒​​ゴト​​如​​ナ​​爾​​クニタミ​​國民​​タレ​​誰​にか​シ​​知​らしめん、​カレラ​​彼等​​ハシラ​​柱​​禿魯​​ゴト​​如​​ナ​​爾​​ミ​​身​ ​タフ​​倒​​禿勒巴思​​サ​​去​らば、​ムラスヾメ​​羣雀​​禿牙勒​​ゴト​​如​​ナ​​爾​​クニタミ​​國民​​タレ​​誰​にか​シ​​知​らしめん、​カレラ​​彼等​​ヒノキマツ​​檜松​​ゴト​​如​​ナ​​爾​​オトヽ​​弟​だちをかく​ソコナ​​害​​ワ​​我​​ケニン​​家人​は、​ミタリ​​三人​ ​ヨタリ​​四人​​ワ​​我​​チヒサ​​小​​ヨワ​​弱​きものども​セイチヤウ​​成長​するまでは、いかんぞ​シ​​知​らしめん、​カレラ​​彼等​​ナニ​​何​をかする​コンゴタン​​晃豁壇​なりし、​カレラ​​彼等​​オトヽ​​弟​だちを​カレラ​​彼等​にかく​ナ​​做​さしめて、いかんぞ​ミ​​見​ておはせん。​ナガミコト​​爾​」と​イ​​云​ひて、​ボルテ ウヂン​​孛兒帖 兀眞​​ナミダ​​涙​​オト​​墮​したり。

​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​の打取り

​ボルテ ウヂン​​孛兒帖 兀眞​のこの​コトバ​​言​につき、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​オツチギン​​斡惕赤斤​​ノリタマ​​宣​はく「​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​ ​イマ​​今​ ​コ​​來​ん。​ナ​​爲​​ウ​​得​ることをいかにも​オコナ​​行​​ア​​合​はば、​ナンヂ​​汝​ ​シ​​知​れ」と​ノリタマ​​宣​へり。その​トキ​​時​ ​オツチギン​​斡惕赤斤​ ​タ​​起​ちて​ナミダ​​涙​​ヌグ​​拭​​イ​​出​でて、​ミタリ​​三人​​リキシ​​力士​​ソナ​​備​へて[270]​タ​​立​てり。​シバラク​​暫​ありて​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​は、​ナヽタリ​​七人​​コ​​子​どもと​キ​​來​て、​ナヽタリ​​七人​ ​ミナ​​皆​ ​イ​​入​りて、​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​は、​シユキヨク​​酒局​​ミギ​​右​​ホトリ​​邊​​スワ​​坐​ると、​オツチギン​​斡惕赤斤​は、​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​エリ​​領​​トラ​​拏​へて、「​キノフ​​昨​​ヒ​​日​ ​ワレ​​我​​サンゲ​​懺悔︀​せしめたりき、​ナンヂ​​汝​​コヽロ​​試​​ア​​合​はん」と​イ​​云​ひて、​カレ​​彼​​エリ​​領​​トラ​​拏​へて​カド​​門​​トコロ​​處​​ヒ​​拖​きたり。​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​は、​オツチギン​​斡惕赤斤​​ムカ​​迎​​エリ​​領​​トラ​​拏​へて​ウ​​搏​​ア​​合​へり。​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​バウ​​帽​は、​ウ​​搏​​ア​​合​​トキ​​時​​ヒバチ​​火盤​​ウヘ​​上​​オ​​落​ちたり。​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​は、その​バウ​​帽​​ト​​取​りて​カ​​嗅​きて​フトコロ​​懷​​オ​​置​きたり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​イ​​出​でて​リキシ​​力士​​チカラ​​力​​アラソ​​爭​​ア​​合​へ」と​ノリタマ​​宣​へり。​オツチギン​​斡惕赤斤​は、​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​ヒ​​拖​きて​イ​​出​づる​トキ​​時​​カド​​門​​シキミ​​閾​​アヒダ​​閒​​サキ​​先​​ソナ​​備​へたる​ミタリ​​三人​​リキシ​​力士​ ​ムカ​​迎​へて、​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​トラ​​拏​​ヒ​​拖​きて​イ​​出​でて、​カレ​​彼​​セボネ​​脊梁​​ヲ​​折​りて、​ヒダリ​​左​​ホトリ​​邊​​クルマ​​車​​ハシ​​端​​サ​​去​てて、​オツチギン​​斡惕赤斤​ ​イ​​入​りて​イ​​言​はく「​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​は、​ワレ​​我​​サンゲ​​懺悔︀​せしめたりき。​コヽロ​​試​みんと​イ​​云​へば、​キ​​肯​かず。​アザム​​欺​〈[#ルビの「アザム」は底本では「アサム」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉きて​フ​​臥​したり。​ヨノツネ​​尋常​​トモ​​伴​なりき」と​イ​​云​へば、​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​ ​サト​​覺​りて、​ナミダ​​涙​​オト​​墮​して​イ​​言​はく「​オホキ​​大​​荅亦兒​なる​チ​​地​​ツチクレ​​土塊​​シカ​​然​ ​ア​​有​りしより、​ウミ​​海︀​​荅來​なす​カハ​​河​​ヲガハ​​小川​のしかありしより、​トモ​​件​となれり​ワレ​​我​明譯​ワレ​​我​ ​ヨリ​​自​​クワウテイ​​皇帝​ ​ザリシ​​未​​タチ​​起​​ハジメ​​創​​サキ​​先​​ナリテ​​做​​トモト​​伴當​​イタレリ​​到​​イマニ​​今日​)」と​イ​​云​ふとひとしく、​ムタリ​​六人​​コンゴタン​​晃豁壇​なる​カレ​​彼​​コ​​子​どもは、​カド​​門​​フサ​​塞​ぎて、​ヒバチ​​火盤​​マハリ​​周圍​​タ​​立​ちて、その​ソデ​​袖​​ヒ​​挽​かれて、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​オソ​​恐​れて​セマ​​迫​られて、「​ノガ​​躱​​イ​​出​でん」と​ノリタマ​​宣​[271]​イ​​出​づれば、​チンギス カガン​​成吉思 合罕​​マハリ​​周圍​​セントウシ​​箭筒士​ ​ジヱイ​​侍衞​ ​ラ​​等​ ​メグ​​繞​りて​タ​​立​てり。​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​クルマ​​車​​ハシ​​端​​セボネ​​脊梁​​ヲ​​折​りて​サ​​去​てたるを​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ミソナハ​​御覽​して、​アトベ​​後方​より​ヒト​​一​つの​アヲ​​靑​​チヤウバウ​​帳房​​モ​​持​​コ​​來​させて、​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​ウヘ​​上​​オホ​​被​はせて、「​カセルクルマ​​駕車​に[​ワレ​​我​を]​イ​​入​らしめよ。​タ​​起​たん」と​ノリタマ​​宣​ひて、そこより​タヽ​​起​したり。


§246(10:42:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​テブ​​帖卜​の死體の失せ

 ​テブ​​帖卜​帖卜騰格哩の略稱)を​オホ​​被​ひたる​チヤウバウ​​帳房​​ソラマド​​天窗​​フタ​​蓋​して、​カド​​門​​オサ​​壓​へて​ヒト​​人​​マモ​​守​らせたれば、​ダイサン​​第三​​ヨル​​夜​​ヒ​​日​ ​キ​​黃​なる​トキ​​時​明譯​スルトキ​將​​アケント​​曉​)、​ソラマド​​天窗​ ​ア​​開​けて​ミ​​身​ぐるみ​イ​​出​でけり。​タシカ​​審​むれば、​マコト​​實​​テブ​​帖卜​ ​カレ​​彼​の[​イ​​出​でたる]は、そこに​タシカ​​審​められたり。​チンギス カガン​​成吉思 合罕​ ​ノリタマ​​宣​はく「​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​は、​ワ​​我​​オトヽ​​弟​どもに​テアシ​​手足​​イタ​​致​したる​ユヱ​​故​に、​ワ​​我​​オトヽ​​弟​どもの​アヒダ​​閒​に、​アトカタ​​跡形​なき​ザンゲン​​讒言​​ユヱ​​故​に、​アマツカミ​​上帝​​イツクシ​​愛​まれずして、​イノチ​​命​​ミ​​身​ぐるみ​モ​​持​ちて​サ​​去​られたるぞ」と​ノリタマ​​宣​へり。

​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​の責められ

​チンギス カガン​​成吉思 合罕​は、​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​をそこに​セ​​責​めけらく「​コ​​子​どもを​セイカウ​​性行​​セイ​​制​せず、[​ワレ​​我​と]​ヒト​​齊​しからんと​オモ​​思​へる​ユヱ​​故​に、[​ワザハヒ​​禍︀​は]​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​カシラ​​頭​​イタ​​到​りぬ、​ナンヂラ​​汝等​​ナンヂラ​​汝等​のかゝる​セイカウ​​性行​​サト​​覺​れるならば、​ヂヤムカ​​札木合​​アルタン​​阿勒壇​​クチヤル​​忽察兒​ ​ラ​​等​の[​ゴト​​如​き]​リイウ​​理由​あるものと​ナ​​做​さるべきなりき、​ナンヂラ​​汝等​」と​ノリタマ​​宣​ひて、​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​​セ​​責​めて、​セ​​責​​ヲ​​畢​へてさて「​アシタ​​朝​​イ​​言​へるを​ユフベ​​夕​​カ​​變​へば、​ユフベ​​夕​​イ​​言​へるを​アシタ​​朝​​カ​​變​へば、​ハヂ​​恥​恥づべきこと)と​カナラズ​​必​ ​イ​​云​はれん。​タヾ​​只​ ​サキ​​前​​コトバ​​言​​サダ​​定​められたるぞ、​カ​​彼​​コト​​事​を(明譯​ヨリテ​​因​​サキニ​​在先​ ​イヒ​​說​​サダメユルスト​​定免​[272]​ナンヂノシヲ​​汝死​​タリシニ​​有來​​ヤメン​​罷​)」とて、​オンシ​​恩賜​して​イカリ​​怒​​ヤ​​息​めたり。「​ヰエツ​​違越​する​セイコウ​​性行​​ヒキシ​​引締​めたりせば、​モンリク エチゲ​​蒙力克 額赤格​​シソン​​子孫​​タレ​​誰​​ヒト​​齊​しき​モノ​​者︀​あらん」と​ノリタマ​​宣​へり。​テブテンゲリ​​帖卜騰格哩​​ナ​​無​くなすと、​コンゴタン​​晃豁壇​​ガンシヨク​​顏色​​キエウ​​消失​せけるぞ。(こゝにて祕史 正集 十卷は終れり。次の二卷は、續集なり。卷八に虎の年(丙寅)の卽位を記してより この卷の初までは、功臣の恩賞、親衞の制度を定むる詔勅を列ね、次に合兒魯兀惕の降服 篾兒乞惕 古出魯克の𠞰滅、委兀惕の親附を記し、次に兔の年(丁卯)と年を揭げて、朮赤の北征、禿馬惕の征服、皇族の分民 傳相の事を記し、晃豁壇の敗滅を以て終れり。されば この集は、太祖︀ 二年 丁卯に終れるが如くなれども、古出魯克の勦滅は、太祖︀ 元年に非ずして、實は十三年 戊寅にあること甚 確なれば、篾兒乞惕の勦滅も、親征錄 集史の十二年 丁丑とせるに從はざるべからず。續集は、太祖︀ 六年 辛未の征金の役より始まりたるに、この集に已に十二年 丁丑 十三年 戊寅の事を載せたるはいかにと云ふに、そは怪むべき事に非ず。蓋この集の成れるは、征金の役の起れる後なれども、征金の役は、未 事 竣らざりし故に、後の記錄に讓りて、この集には載せず。幾兒乞惕 古出魯克の勦滅は、卷三の篾兒乞惕 征伐より、卷五 卷七の乃蠻 征伐より引續きたる戡定の大業なるに由り、その局を結ばんが爲に、太祖︀ 騰極の續きに、年をも揭げずに十餘年 後の事を附記したるなり。



成吉思 汗 實錄 卷の十 終り。



  1. 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
  2. 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
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原文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。