成吉思汗実録/巻の二
チンギス カン ジツロク成吉思 汗 實錄 マキ卷のニ二。
§69(02:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
テムヂン帖木眞をモンリク蒙力克の迎へカヘ歸り
エスガイ バアトル也速該 巴阿禿兒のコトバ言にタガ違へず、モンリク蒙力克 ユ往きて、デイ セチエン德 薛禪にイ言へらく「エスガイ也速該 アニ兄は、テムヂン帖木眞をイタ甚くオモ想ひて、コヽロ心をイタ痛めたり。テムヂン帖木眞をト取りにキ來つ」とイ云ひき。デイ セチエン德 薛禪 イ言はく「シンカ親家 そのコ子をオモ想ふならばユ往け。マミ見えてハヤ速くコ來よ」とイ云ひて、モンリク エチゲ蒙力克 額赤格(蒙力克なる父。父は、帖木眞より與へたる尊稱。元史 忠義 伯八の傳ミンリ エチゲ明里 也赤哥)は、テムヂン帖木眞をヰ率てキ來ぬ。
§70(02:01:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
祖︀の祭りにホエルン訶額侖のオク後れイタ到り
そのハル春、アンバカイ カガン俺巴孩 合罕のカトト合禿惕(妃の蒙語なる合屯の複稱)、オルベ斡兒伯、シヨカタイ莎合台 フタリ二女(蒙語ヂリン只𡂰、二つと云ふ 豁牙兒の女性)は、オヤ祖︀のミタマ靈をチ地にマツ祭り(明本 旁譯チニ地裏 ヤク燒㆑メシヲ飯︀サイシ祭祀)にイ出でたるトキ時、ホエルン ウヂン訶額侖 兀眞 ユ往きて、オク後れイタ到りてモ漏[84]らされて、ホエルン ウヂン訶額侖 兀眞は、オルベ斡兒伯、シヨカタイ莎合台 フタリ二女にイ言へらく「エスガイ バアトル也速該 巴阿禿兒をシ死にたりとイ云ひて、ワ我がコ子どもを、オホ大きくならざるにヨ依り、ミオヤ御祖︀の[ミマヘ御前の]ハンレツ班列より、アマ餘れるクモツ供物より、ヒモロギ胙よりナン何ぞハヅ脫れさせたる、ナンヂラ汝等。ミ見ると、クラ食ふことをスヽ勸めずに、タ起つことになれり、ナンヂラ汝等」とイ云ひき。
§71(02:02:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのコトバ言につき、オルベ斡兒伯、シヨカタイ莎合台、フタリ二女のキサキ妃 イ言はく「ヨ喚兀哩びてアタ與へられざるミチ道あり、ナンヂ汝。ア遇兀赤喇へばクラ食ふべきコトワリ理あり、ナンヂ汝。シヤウ請古咧うじてアタ與へられざるミチ道あり、ナンヂ汝。イタ到古兒帖ればクラ食ふべきコトワリ理あり、ナンヂ汝。(喚び請ずるにも及ばず、到り遇はば食へ。)アンバカイ カガン俺巴孩 合罕をシ死にたりとイ云ひて、ホエルン訶額侖に、イタ到りつゝかくイ云はるゝこととなれり。
§72(02:03:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
タイチウト泰赤兀惕にホエルン訶額侖 母子の棄てられ
カンガ考ふるに、このオヤコラ母子等をイヘヰ營盤のウチ裏にス棄ててタ起て。ナンヂラ汝等もナ勿 ヰ率てユ行きそ」とイ云ひ、アス明日のヒ日よりタイチウト泰赤兀惕のタルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑(親征錄タルフタイ ヒリント塔兒忽台 希憐禿。喇失惕 額丁の集史を額兒忒曼の譯したるには、乞哩勒禿克を特兒庫台の號とし、毒心と解せり。元史タルブタイ塔兒不台。不は、兀の誤りなり)トドエン ギルテ脫朶延 吉兒帖(親征錄 元史トドン ホルヂン脫端 火兒眞)ラ等のタイチウト泰赤兀惕は、オナン ガハ斡難︀ 河にシタガ沿ひウゴ動けり。ホエルン ウヂン訶額侖 兀眞 オヤコラ母子等をス棄ててタ起たれ、コンゴタン晃豁壇のチヤラカ オキナ察喇合 翁 ユ往きてトヾ止むるトキ時、トドエン ギルテ脫朶延 吉兒帖 イ言はく「フカ深扯額勒兀孫きミヅ水 カワ乾你都︀喇魯阿きたり。ヒカ光超堅赤剌溫るイシ石 クダ碎潮咧魯阿けたり」とイ云ふとタ起ちけり。チヤラカ オキナ察喇合 翁を「いかでかトヾ止むる、ナンヂ汝」とイ云ひ、ウシロ後よりヤリ槍にてソビラ背をサ刺しけり。
§73(02:04:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チヤラカ オキナ察喇合 翁 テオヒ負傷となりて、イヘ家にキ來てナヤ艱みフ臥せるトキ時、[85]テムヂン帖木眞 ミ見にユ往きけり。そこにコンゴタン晃豁壇のチヤラカ オキナ察喇合 翁 イ言はく「ナンヂ汝のヨ好きチヽ父のヲサ收めたるブシウ部眾、ワレラ我等のあまたのブシウ部眾をヒキ率ゐてタ起たるゝ時、トヾ止めんとしてかくナ爲されたり」とイ云ひき。そのトキ時 テムヂン帖木眞 ナ哭きてイ出でてサ去れり。
ホエルン ウヂン訶額侖 兀眞は、ス棄ててタ起たれたるトキ時、トウ纛(蒙語トク禿黑北狄の君長の牙旗にして、旄牛 又は白馬の尾を竿に繋けたる者︀)モ持ちて、ミ身づからウマ馬にノ乘りて、ナカバ半のタミ民をトリモド取戾せり。そのトリモド取戾せるタミ民も、サダ定まらずタイチウト泰赤兀惕のアト後よりタチ起ちけり。
§74(02:05:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
カンナン艱難︀なるホエルン訶額侖の子育て
タイチウト泰赤兀惕のアニオトヽ兄弟に、ホエルン ウヂン訶額侖 兀眞を、ヤモメ寡婦を、コ子ども、ヲサナゴ幼兒ども、オヤコラ母子等を、イヘヰ營盤のウチ裏にス棄ててタ起たれて、ホエルン ウヂン訶額侖 兀眞は、エメ メルゲン額篾 篾兒干(婦人の善射者︀、卽ち女丈夫)にウマ生れて、ヲサナ幼兀出格惕きコ子どもをヤシナ養ふに、きりり兀乞塔剌とミゴシラ身拵孛黑塔剌周へして、スソ裾豁只塔剌 カラ紮げ オビ帶 シ締不薛列周めて、オナン ガハ斡難︀ 河をノボ上斡額迭りクダ下りハシ走りて、ヤマナシ杜梨斡里兒孫 ヤマザクラ山櫻のミ實をヒロ拾ひて、ヒル晝兀都︀兒 ヨル夜 ノド喉をヤシナ養へり。キモ膽雪勒速ありてウマ生れたるウヂン エケ兀眞 額客(夫人なる母)は、サイハヒ福︀速あるコ子どもをヤシナ養ふに、ヒ檜のキ木のクハ鍬失囉をト執りて、ニンジン人參速勒敦 チチギナ赤赤吉納(明 旁譯 草根名)をホ剜りてヤシナ養へり。[ガウキ剛毅合堂斤なる]エケ ウジン額客 兀眞(母 夫人)のノビル野蒜合里牙兒孫、ラツキヤウ辣韮にてヤシナ養へるコ子どもは、テイワウ帝王合惕をノゾ望むにイタ至れり。セイセイ整齊札兒沈台なるウヂン エケ兀眞 額客のサンタンサウ山丹草札兀合速のネ根にてヤシナ養へるコ子どもは、ハフド法度札撒黑あるケンジン賢人となれり。
§75(02:06:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ウツク美豁阿しきウヂン兀眞のニラ韮豁豁孫 ラツキヤウ辣韮にてヤシナ養へるカウルカ合兀魯合(路 又は溝の義あれども、譯する能はず)コ子どもは、ゴイラウト豁亦喇兀惕(これも、譯する能はず)ヨ好くなれり。ヲトコ男額咧思 ヨ好く[86]なりヲ了へて、ヲヲ雄雄額咧坤しくタケ猛斡抹渾くタヾ但額列 ナ爲られたり。(詞のまゝに譯したれども、文意 穩やかならず。)ハヽ母額客をヤシナ養はんとハナ話しア合ひて、ハヽオナン母斡難︀額客斡難︀(母の如き斡難︀ 河)のキシ岸額兒吉のウヘ上にヰ居て、ツリ釣額勒古兀兒するハリ鉤をトヽノ調へア合ひて、カタメ カタハ偏眼 不具額𠿳迭克 詹迭克のウヲ魚をツ釣額兒古りてハリ鉤にカ掛けて、ハリ針折兀をツリバリ鉤にマ曲げて、ゼブゲ折不格 カダラ合荅喇(二つ共に魚の名)をハリ鉤にカ掛けて、イサリアミ漁網赤魯篾 古卜赤兀兒をムス結びて、ウヲ魚只喇木惕のコ子、ウヲ魚只合速をスク撈ひて、カヘツ却只池てそのハヽ母をムク報いヤシナ養へり。
§76(02:07:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ヒトヒ一日、テムヂン帖木眞、カツサル合撒兒、ベクテル別克帖兒(蒙古 源流ベクテル伯克特爾)、ベルグタイ別勒古台(元史ベリグタイ ダイワウ別里古台 大王、輟耕錄、廣寧王 別里古台、卽ち孛魯古歹、蒙古 源流ベルグデイ伯勒格德依。二人は、皆 帖木眞の異母弟なり。)ヨタリ四人、ヒトトコロ一處にヰ居てツリバリ鉤をヒ扯けるウチ中に、ヒト一つのヒカ光るソゴスン鎖豁孫(魚の名)イ入り(取れ)けり。テムヂン帖木眞、カツサル合撒兒 フタリ二人よりベクテル別克帖兒、ベルグタイ別勒古台 フタリ二人 ウバ奪ひてト取れり。テムヂン帖木眞、カツサル合撒兒 フタリ二人、イヘ家にキ來てウヂン エケ兀眞 額客にイ言へらく「ヒト一つのヒカ光るソゴスン鎖豁孫、ツリバリ鉤をフク啣みたるを、ベクテル別克帖兒、ベルグタイ別勒古台、アニオトヽ兄弟 フタリ二人にウバ奪ひてト取られたり、ワレラ我等」とイ云へば、ウヂン エケ兀眞 額客 イ言はく「ナニ何するぞや。アニオトヽ兄弟どもナン何ぞ かくナ爲りア合へる、ナンヂラ汝等。「カゲ影薛兀迭兒よりホカ外にトモ伴なく、ヲ尾薛兀勒よりホカ外にムチ鞭なし、ワレラ我等。タイチウト泰赤兀惕のアニオトヽ兄弟のクルシ苦めをいかでムク報いん、ワレラ我等」とイ云ひてヲ居るに、ムカシ昔のアラン エケ阿闌 額客のイツタリ五人のコ子のゴト如く、いかにカタラヒ談合 ナ無くぞある、ナンヂラ汝等。ヤ止めよ」とイ云へり。
§77(02:09:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ベクテル別克帖兒をテムヂン帖木眞 カツサル合撒兒の射殺︀し
それよりテムヂン帖木眞 カツサル合撒兒 フタリ二人 ヨロコ喜ばずしてイ言はく「サキゴロ先頃 ヒトタビ一度 ヒバリ雲雀をイト射取りたるをもかくウバ奪ひてト取れりき。イマ今 マタ又[87]かくもウバ奪へり。ヒト一つにいかでスゴ過さん、ワレラ我等」とイ云ふと、カド門をア開けてイ出でてサ去れり。ベクテル別克帖兒は、コヤマ小山のウヘ上にアシゲ葦毛のセンバ騸馬 クヒキ九匹をナガ眺めてヰ居たるに、テムヂン帖木眞はシリヘ後よりカク隱れて、カツサル合撒兒はマヘ前よりカク隱れて、ヤ箭をヌ抽きてイタ到れるトキ時、ベクテル別克帖兒 ミ見るとイ言はく「タイチウト泰赤兀惕のアニオトヽ兄弟のクルシ苦めをウ受けかね(受くるに堪へず)、ウラミ怨をタレ誰かムク報いエ得んとイ云ひてヲ居るトキ時、ワレ我をナン何ぞメ目你敦のケ毛速哩木孫、クチ口阿蠻のトゲ梗合合孫とナ爲せる、ナンヂラ汝等。カゲ影薛兀迭兒よりホカ外にトモ伴なく、ヲ尾薛兀勒よりホカ外にムチ鞭なきに、ナン何ぞかくオモ思へる、ナンヂラ汝等。ワ我がヒバチ火盤をナ勿 ヤブ毀りそ。ベルグタイ別勒古台をナ勿 ス廢てそ(別勒古台は、別克帖兒と火盤を共にして住みたるなり。明譯にはワレシナバスナハチシナン我死便死。ナンヂラ您ナ休㆘ヲ將㆓ワガ我ベルグタイ別勒古台㆒スツル棄了㆖)」とイ云ひ、アグミ盤脚 ヰ居てマ待てり。テムヂン帖木眞 カツサル合撒兒 フタリ二人は、マヘ前よりシリヘ後よりアヅチ垜として(垜の如く射中てて)サ去れり。
§78(02:11:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
イヘ家にキ來てイ入りたれば、ウヂン エケ兀眞 額客は、フタリ二人のコ子をカホイロ顏色にてサト覺りてイ言はく「コロ殺︀したる、(蒙語バラクサト巴喇黑撒惕。この詞は、了へたる、棄てたるとも譯すべし。動詞上の形容詞にして、下に名詞 代名詞ありと見るなり。こゝにては、帖木眞なる名詞、又は汝なる代名詞ありと見て、「別克帖兒を殺︀したる帖木眞は」と云へる意ならん。)ワ我がホド熱處合剌溫よりむく合剌惕とイ出合嚕㖮づるトキ時、テ手合兒にクロ黑合喇きチコヾリ血塊をニギ握合惕渾りてウマ生れたりき、コ此の[コ子]。エナ胞衣合兒必速をカ咬合札忽むカツサル合撒兒(狗の名)のイヌ狗のゴト如く、ガケ崖合荅をツ衝くカブラン合卜闌(獸の名)のゴト如く、イカ怒阿兀兒りをオサ抑ふるアタ能はざるシシ獅子阿兒思闌のゴト如く、イ活阿米都︀きたるをノ呑むとイ云ふヲロチ蟒莽古思のゴト如く、オノ己がカゲ影薛兀迭兒をツ衝くカイセイ海︀靑升豁兒のゴト如く、コヱ聲薛米耶兒 ナ無しにてノ呑札勒吉忽むチユラカ出喇合(魚の名)のゴト如[88]く、そのコラクダ子駱駝孛脫罕をアトアシ後跟孛兒必よりカ咬む ラクダ駝駝不兀喇(明譯フウユウダ風雄駝また風駝)のゴト如く、風雪孛囉罕にヨ靠り[トウコウ頭口孛多をソコナ害ふ](明譯ヨリ靠㆓フウセツニ風雪㆒ソコナフ害㆑モノヲ物的)オホカミ狼赤那のゴト如く、そのコ子可兀惕どもをオ追格鄰ひかねて(明譯オヒ趕㆓ズ不㆑ウゴカセ動㆔コドモヲ兒子㆒)、そのコ子可兀惕どもをクラ喫ふヲシドリ鴛鴦昂吉兒のゴト如く、そのフシド臥處客卜迭思をウゴ動款迭かせばタウゴ黨護するサイラウ豺狼啜額孛哩のゴト如く、トラ拏巴哩へてタメラ猶豫はざるトラ虎巴兒思のゴト如く、ミダリ妄巴剌木惕にツ衝くバルース巴嚕思(獸の名)のゴト如く、コロ殺︀したり。カゲ影薛兀迭兒よりホカ外にトモ伴なく、ヲ尾薛兀勒よりホカ外にムチ鞭なきに、タイチウト泰赤兀惕のアニオトヽ兄弟のクルシ苦めをウ受けかねヲ居るに、「ウラミ怨をタレ誰かムク報いん」とイ云ひてヲ居るに、いかにスゴ過さんとて、かくはナ爲しア合へる、ナンヂラ汝等」とて、そのコ子どもを、フル舊合兀臣きコトバ辭をタヅ尋合荅侖ね、ヲキナラ翁等斡脫古思のコトバ辭をヒ引斡兒乞敦き、イタ甚くウレ憂へたり。
§79(02:13:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
かくス住めるホド程に、タイチウト泰赤兀惕のタルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑は、そのジヱイ侍衞をヒキ率ゐて「ヒナ雖豁魯合惕どもハネ ノ翎 伸豁斡只主兀びけん。ヒツジ羔失魯格惕ども(失魯格惕は、涎くりの義にて、二歲の家畜)オヒタ生立失別哩主兀ちけん(この二句確かならず 下の明譯文の意に依り譯せり。モト原 ベツカ撇下 セル的 テムヂン帖木眞 ボシラ母子每、イマ如今 ナケン莫㆑ザル不㆘ニテ似㆓ヒキン ノ ヒナドモノ飛禽 的 雛兒 ゴトク般㆒マウウ毛羽︀ ノビ長了、ソウジウ ノ コドモノ走獸 的 羔兒 ゴトク般 オホキクナラ大了㆖)」とイ云ひてキ來ぬ。オソ罹れてオヤコ アニオトヽ母子 兄弟ども、シゲ繁きハヤシ林のナカ中にトリデ寨 ツク作りて、ベルグタイ別勒古台は、キ木をヲ折りヒキヨ引寄せてカキ垣にヨ據りて、カツサル合撒兒は、ヤ箭をイア射合ひて、カチウン合赤溫、テムゲ帖木格、テムルン帖木侖 ミタリ三人をガケノワレメ崖縫のアヒダ閒にイ投れて、タヽカ鬭ひヲ居るトキ時、タイチウト泰赤兀惕 サケ叫びてイ言はく「アニ兄 テムヂン帖木眞をイダ出せ。ナンヂラ汝等 ホカ外のモノ者︀にヨウ用なし」とサケ叫ばれて、テムヂン帖木眞をウマ馬にノ載せて、ノガ逃れんとハヤシ林のナカ中にハシ走りてサ去れる[89]を、タイチウト泰赤兀惕 ミ見てオ遂ひて、[テムヂン帖木眞は]テルグネ帖兒古捏 ウンドル溫都︀兒(帖兒古 岡)のモリ森のナカ中にキ鑽りてイ入りたれば、タイチウト泰赤兀惕はイ入りかねて、モリ森をカコ圍みマモ守りて、
§80(02:15:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
テムヂン帖木眞、モリ森のナカ中にミ三たびトマ宿りて、イ出でんとてウマ馬をヒ牽きてク來るトキ時、ウマ馬よりそのクラ鞍 ハヅ脫れてオ落ちけり。カヘ囘りてミ見れば、クラ鞍は、ムナガイ扳胷したるまゝにてハラオビ肚帶したるまゝにてハヅ脫れてオ落ちけり。「ハラオビ肚帶は、ともあれ。ムナガイ扳胷あるに、マタ又いかでハヅ脫れたりけん。アマツカミ皇天 トヾ止めタマ給へるか」とイ云ひてカヘ囘りて、マタ又 ミ三たびトマ宿れり。マタ又 イ出でてキ來つるに、モリ森のクチ口にチヤウバウ帳房ほどのシライシ白石、クチ口をフサ塞ぎタフ倒れたりき。「アマツカミ皇天 トヾ止めタマ給へるか」とイ云ひて回りて、マタ又 ミ三たびトマ宿れり。マタ又「コヽノトマ九宿りクヒモノ食物なくヰ居て、ナ名もナ無くナン何ぞシ死なん。イ出でん」とイ云ひて、カ彼のクチ口をフサ塞ぎタフ倒れたるチヤウバウ帳房ほどのシライシ白石のマハリ周圍にイ出づればイ出でられず、キ木どもをヤケヅ箭削りコガタナ小刀にてキリタ切斷ち、ウマ馬をスベ滑らしてイ出でたれば、タイチウト泰赤兀惕 マモ守りてヲ居りき。トラ拏へてヰ率てサ去れり。
§81(02:16:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
トラ虜︀はれをニ脫げてミヅタマリ水澑の仰ぎ臥し
テムヂン帖木眞をタルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑〈[#「塔兒忽台 乞哩勒禿黑」は底本では「塔忽忽台 乞哩勒禿黑」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉 ヰ率てサ去りて、そのブラク部落のタミ民にメイレイ命令してトナリ隣ごとにヒト一たびヤド宿しマハ廻してユ行くトキ時、ナツ夏のハジメ首のツキ月(四月)のダイジフロク第十六のアカ紅くテ照るヒ日に、タイチウト泰赤兀惕は、オナン斡難︀のキシ岸のウヘ上にウタゲ筵會しア合ひて、ヒ日 オ落つればチ散りたり。テムヂン帖木眞をそのウタゲ筵會にカヨワ弱きコビト子人 ヒキ率ゐてありき。ウタゲ筵會の[90]シウ眾をチ散らしめ、[テムヂン帖木眞は]そのカヨワ弱きコ子よりテカシ手枷をヒ扯きてト取りて、そのウナヂ項をヒト一つウ打つと、ハシ走りてオナン斡難︀のハヤシ林のウチ內にフ臥したれども、ミ見られんとイ云ひて、ミヅ水のタマリ濡にアフ仰ぎフ臥して、テカシ手枷をミヅ水にシタガ順ひナガ流し、オモテ面 イダ出してフ臥したり。
§82(02:18:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
カ彼のニガ脫したるヒト人、オホゴヱ大聲に「トラ拏はれビト人 ニ脫げたり」とサケ叫びたるに、チ散りたるタイチウト泰赤兀惕、ツド聚ひてキ來て、ヒル晝のゴト如きツキアカリ月明にオナン斡難︀のハヤシ林をサガ探したり。ミヅタマリ水澑にフ臥してヲ居るを、スルドス速勒都︀思(蒙古 源流スルデス蘇勒德斯、元史 月魯 不花の傳スンド ウヂ遜都︀ 氏)のソルカン シラ鎖兒罕 失喇(親征錄ソルハン シラ梭嚕罕 失剌〈[#「梭嚕罕 失剌」は底本では「梭嚕罕失剌」]〉、蒙古 源流トルガン シヤラ托爾干 沙喇〈[#「托爾干 沙喇」は底本では「托爾 干沙喇」]〉)、マサ正にス過ぎてミ見てイ言はく「マサ正にタヾ只かくザエ才あるがユヱ故に、そのメ目你敦にヒ火合勒あり、そのメン面你兀兒にヒカリ光格咧ありとて、タイチウト泰赤兀惕のアニオトヽ兄弟にシカ然のみネタ嫉まるゝなりき、ナンヂ汝。シカ然 タヾ只 フ臥してよ。ツ吿げざらん、ワレ我」とイ云ひてヨギ過れり。
〈[#底本「成吉思汗実録」が「元朝秘史」の節︀の区切りと無関係な位置で改行一字下げする数少ない箇所なので備忘のため注記しておく]〉
マタ又「カヘ回りサガ探さん」とイ云ひア合へるトキ時、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇 イ言はく「モト本のミチ路にてミ見ざりしトコロ地をミ見ると、カヘ回りサガ探さん」とイ云へり。「シカ然り」とイ云ひア合へり。モト本のミチ路にヨ依りカヘ回りサガ探して、マタ又 ソルカン シラ鎖兒罕 失喇 ス過ぎてイ言はく「ナンヂ汝のアニオトヽ兄弟(族人)は、クチ口のキバ牙をト磨ぎキ來ぬ。しかフ臥しツヽシ愼めよ」とイ云ひてヨギ過れり。
§83(02:20:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又「カヘ回りサガ探さん」とイ云ひア合へるトキ時、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇 マタ又 イ言はく「タイチウト泰赤兀惕のミコ御子だち、ナンヂラ汝等。アカ明るきシロ白きヒル晝にマルビト全人 ニ脫げたり。イマ今 クロ黑きヨ夜にナン何ぞエ得ん。ワレラ我等 マタ又 モト本のミチ路にてミ見ざりし[91]トコロ地を見ると、カヘ回りサガ探すと、チ散りて、アス明日のヒル晝 ツド聚ひてタヅ尋ねん。いづくにかユ往かん、カ彼のテカシ手枷あるヒト人」とイ云へり。「シカ然り」とイ云ひア合ひて、カヘ回りサガ探して、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇 マタ又 ス過ぎてイ言はく「かくサガ探すとカヘ回りてアス明日 タヅ尋ねんとイ云ひア合へり。イマ今 ワレラ我等をチ散らしめヲ了へてハヽ オトヽ母 弟どもをタヅ尋ねサ去れ。「ワレ我をミ見たり」と、ヒト人にミ見られば「ミ見られたり」とナ勿 カタ語りそ」とイ云ひてヨギ過れり。
§84(02:21:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ソルカン シラ鎖兒罕 失喇の家をテムヂン帖木眞の尋ね往き
カレラ彼等をチ散らしめヲ了へて、「テムヂン帖木眞」コヽロ心にカンガ考へて「サキゴロ先頃 トナリ隣にマハ廻してヤド宿したるトキ時、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇のイヘ家にヤド宿りたれば、チンベ沈白(親征錄チンハイ闖拜) チラウン赤老溫(親征錄 元史 同じ。蒙古 源流チラグン齊拉衮)とイ云へるカレ彼がフタリ二人のコ子は、ムネ胸のコヽロ心をイタ痛めて、ヨル夜 ワレ我をミ見て、ワ我がテカシ手枷をト取りてハナ放してヤド宿らしめたり。イマ マタ今 又 ソルカン シラ鎖兒罕 失喇、ワレ我をミ見てツ吿げずヨギ過りたり。イマ タヾ今 只 カレラ彼等はワレ我をスク救はんぞ」とイ云ひて、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇のイヘ家をタヅ尋ね、オナン ガハ斡難︀ 河にシタガ沿ひサ去れり。
§85(02:22:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ソルカン シラ鎖兒罕 失喇の家にテムヂン帖木眞のカク匿まはれ
イヘ家のシルシ記號(目印には非ずして、耳印)は、セイバニウ生馬乳(馬のなまちゝ)をソヽ注ぐと(大甕に移して)、そのジユクバニウ熟馬乳(馬乳の酒)をヨル夜 ヒイ日出づるまでカキマハ搔廻すことなりき。そのシルシ記號をキ聽きてユ行きたれば、カキマハ搔廻すコヱ聲をキ聽きてイタ到りて、そのイヘ家にイ入りたれば、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇 「ハヽ オトヽ母 弟どもをタヅ尋ねサ去れとイ云はざりしか、ワレ我。ナン何ぞキ來ぬる、ナンヂ汝」とイ云へり。チンベ沈白、チラウン赤老溫なるそのフタリ二人のコ子 イ言はく「スヾメ雀をトリンタイ土啉台(明譯ルンドル龍多兒、鷹の一種)クサムラ叢[92]にオ逐ひイ入るれば、クサムラ叢はスク救ひき。イマ今 ワレラ我等のトコロ處にキ來つるをナン何ぞシカ然 イ云へる、ナムチ爾」とて、チヽ父のコトバ言をヨロコ喜ばず、そのテカシ手枷をハヅ脫してヒ火にヤ燒きて、ウシロ後のヒツジノケ羊毛あるクルマ車にノ載せて、カダアン合荅安とイ云へるイモト妹に「イ生きたるヒト人にはナ勿 カタ語りそ」とイ云ひてカシヅ傅かしめたり。
§86(02:24:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ダイサン第三のヒ日に、[タイチウト泰赤兀惕は、]「ヒトカク人匿したるぞ」とイ云ひア合ひて、「オノレラ己等がアヒダ閒をサガ捜しア合はん」とイ云ひア合ひてサガ捜しア合へり。ソルカン シラ鎖兒罕 失喇のイヘ家、クルマ車、ユカ床のシタ下にイタ至るまでサガ捜して、ウシロ後のヒツジノケ羊毛あるクルマ車にノボ上りて、クチ口にあるヒツジノケ羊毛をヒキイダ拖出して、オク奧にイタ至るトキ時、このソルカン シラ鎖兒罕 失喇 マタ又「かゝるアツ熱さにヒツジノケ羊毛のウチ內にナン何ぞタ耐へん」とイ云へば、サガ捜すモノ者︀どもオ下りてサ去れり。
§87(02:25:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
サガシテ搜手どもサ去りたるノチ後に、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇 イ言はく「ワレラ我等をハヒ灰のゴト如くカキタ掻立てアヤウ危かりき。イマ今 ハヽ オトヽ母 弟どもをタヅ尋ねサ去れ」とイ云ひて、クチシロ口白きコマウ駒生まぬカンザウクワウ甘草黃のメウマ牝馬(蒙語クラクチン忽剌黑臣、靑黃色にて鬣 黑き馬)にノ乘らしめて、コ肥えたるコヒツジ羔(蒙語テルクリカン帖勒忽哩罕、明譯ノミ喫㆓ニボノチヲ二母乳㆒タル的コヒツジ羔兒)をニ煮︀て、カハヲケ皮桶、オホカハヲケ大皮桶をトヽノ調へて、クラ鞍をアタ與へず、ヒウチガマ火鎌をアタ與へず、ユミ弓をアタ與へて、フタスヂ二條のヤ箭をアタ與へたり。かくトヽノ調へてヤ遣りぬ。
§88(02:26:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
キムルカ ヲガハ乞木兒合 小河の母子のサイクワイ再會
テムヂン帖木眞かくサ去ると、カキ垣してタテコモ楯籠りたるトコロ地にイタ到りて、クサ草のフミワケアト踏分跡にヨ依り、オナン ガハ斡難︀ 河にサカノボ泝りアト跡つけて、ニシ西より[93]キムルカ ゴロカン乞木兒合 豁囉罕 イ入りてク來るありき。(乞木兒合 小河。水道 提綱の呼馬拉堪 河、內府 興圖の齊母爾喀 河にして、克魯倫 河源の東南より出で、東に流れて濟爾戛朗︀圖 河となり、東北に流れて鄂嫩 河に入る。)かくサカノボ泝りアト跡つけて、[ハヽ母とオトヽ弟どもと]キムルカ ヲガハ乞木兒合 小河のベデル ゴシウン別迭兒 豁失溫(別迭兒の鼻)のゴルチユクイ ボルダク豁兒出恢 孛勒荅黑(豁兒出恢 孤山)にヲ居るにア遇ひア合へり。
§89(02:27:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
サングル ヲガハ桑古兒 小河のホトリ邊の靑湖の移住
そこにクワイ會しア合ひて、サ去りてブルカン ダケ不兒罕 獄のマヘ前(南画)なるグレルグ古咧勒古(山の名。親征錄グリング ザン曲鄰居 山、今の巴爾哈 嶺)のウチ內なるサングル ゴロカン桑古兒 豁囉罕(桑古兒 小河、水道 提綱の孫可勒 河、內府 與圖の僧︀庫爾 河)の[ホトリ邊の]カラ ヂルゲン合喇 只嚕堅(小山の名)のココ ナウル闊闊 納兀兒(靑き湖水)にイヘヰ營盤してヲ居るトキ時、ドバツソ土撥鼠(蒙語タルバカト塔兒巴合惕、塔兒巴罕の複稱。唐書の駝跋鼠、本書 明譯の土撥鼠、元史 伯顏の傳の塔剌不歡、本草の荅剌不花、みな塔兒巴罕の轉なり。穴居の小獸にして、形は獺の如し。肉は食ふべく、皮は裘とすべし。黑龍江 外紀に獺爾とあるも、是なるべし。元史 語解に「塔爾巴噶、獺也」とあるは誤れり。)ノネズミ野鼠をコロ殺︀してクラ食ひヲ居りき
§90(02:27:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
センバ騸馬のヌスビト盜人をテムヂン帖木眞の跡つけ
ヒトヒ一日、アシゲ葦毛のセンバ騸馬 ハチヒキ八匹、イヘ家のマヘ前にタ立ちてヲ居るをヌスビト盜人 キ來てミ見つゝヌス盜みてサ去れり。カチ徒のモノ者︀どもミ見てオク後れたり。ベルグタイ別勒古台は、ヲヌケ尾脫のクリゲ栗毛のウマ馬(蒙語コンゴル晃豁兒、漢︀語の驑馬)にノ乘りて、ドバツソ土撥鼠をトラ捕へにユ往きてありき。ユフベ夕にヒ日のオ落ちたるノチ後、ベルグタイ別勒古台は、ヲヌケ尾脫のクリゲウマ栗毛馬にドバツソ土撥鼠をニ荷つけて、ミ身をユル搖がしつゝアユ歩み、ヒ牽きてキ來ぬ。「アシゲ葦毛のセンバ騸馬どもをヌスビト盜人 ト取りてサ去れり」とイ云へば、ベルグタイ別勒古台 イ言はく[ワレ我 追はん]とイ云へり。カツサル合撒兒 イ言はく「ナンヂ汝 アタ能はず。ワレ我 オ追はん」とイ云へり。テムヂン帖木眞 イ言はく「ナンヂラ汝等 アタ能はず。ワレ我 オ追はん」とイ云ひてヲヌケ尾脫のクリゲウマ栗毛馬にテムヂン帖木眞 ノ乘りて、アシゲ葦毛のセンバ騸馬どもをクサ草のフミワケ蹈分にヨ依りアト跡つけ[94]て、ミ三たびヤド宿りて、アサ朝 ハヤ早くミチ路にてオホ多きバグン馬羣のウチ中にヒトリ一人のサワヤカ爽快なるコビト子人、ウマ馬のチ乳をシボ擠りヲ居るにア遇ひて、アシゲ葦毛のセンバ騸馬どもをト問ひたれば、
そのコ子 イ言はく「このアサ朝、ヒ日 イ出づるマヘ前に、アシゲ葦毛のセンバ騸馬 ハチヒキ八匹こゝをハシ走りてサ去れり。カレラ彼等のミチ路をワレ我 ツ吿げてアタ與へん」とイ云ひて、ヲヌケ尾脫のクリゲウマ栗毛馬をハナ放たしめて、テムヂン帖木眞をセグロ脊黑のアヲウマ靑馬にノ乘らしめたり。オノレ己はハヤ快きウスキイロ淡黃色のウマ馬にノ乘れり。イヘ家にもユ往かず、オホカハヲケ大皮桶 カハマス皮斗にノ野にてフタ蓋して(明譯ツケ著︀㆓クサノフタヲ草蓋㆒テ了)オ置けり。「トモ伴よ。ナンヂ汝こそはイタ甚くナヤ艱みてキ來にけれ。ヲトコ丈夫のナヤ艱みはヒト一つなるぞ。ワレ我 ナンヂ汝にトモ伴とならん。ワ我がチヽ父は、ナク バヤン納忽 伯顏と呼ばる。(納忽 長者︀。元史 博爾朮の傳の納忽 阿兒闌。阿兒闌は、納忽の姓、阿嚕剌惕の單稱。)ワレ我は、そのヒトリゴ獨子。ワレ我は、ボオルチユ孛斡兒出(親征錄 元史ボルチユ博爾朮、蒙古 源流ボゴルヂ博郭爾濟)とイ云ふなり」とイ云ひて、アシゲ葦毛のセンバ騸馬どものミチ路にヨ依りアト跡つけて、ミ三たびヤド宿りて、ユフベ夕にヒヲカ日岡をウ拍ちヲ居る時、イチダン一團(蒙語グリエン古哩延、本義は輪。轉じて羣、明譯 圈子)のタミ民のトコロ處にイタ到れり。アシゲ葦毛のセンバ騸馬 ハチヒキ八匹、そのタイダン大團のホトリ邊にクサ草ハ食みつゝタ立ちてヲ居るをミ見たり。テムヂン帖木眞 イ言はく「トモ伴よ、ナンヂ汝こゝにタ立て。ワレ我、アシゲ葦毛のセンバ騸馬どもはカレラ彼等なり、オ追ひてイ出でん」とイ云へり。ボオルチユ孛斡兒出 イ言はく「トモ伴とならんとてキ來ながら、ワレ我こゝにナン何ぞタ立たん」とイ云ひて、オナ同じくカ驅けてイ入り、アシゲ葦毛のセンバ騸馬どもをオ追ひてイ出でたり。(閻復の撰れる廣平王 玉昔 帖木兒の碑文に據るに、孛斡兒出は、この時 十三歲なりき。)[95]
§91(02:32:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
テムヂン帖木眞のムカ逆へタヽカ戰ひ
シリヘ後よりヒト人どもぞろぞろと(蒙語ウブル スブル兀不兒 速不兒、明譯 陸續)オ追ひてキ來ぬ。ヒトリ一人のシロウマ白馬のヒト人、ウマトリザヲ套馬竿をト執りてヒトリ獨にてオヒツ追附きてキ來ぬ。ボオルチユ孛斡兒出 イ言はく「トモ伴よ、ユミヤ弓箭をワレ我におこせよ。ワレ我 イ ア射 合はん」とイ云へり。テムヂン帖木眞 イ言はく「ワレ我のユヱ故にナンヂ汝 ガイ害せられん。ワレ我 イ ア射 合はん」とイ云ひてムカ逆へカヘ回りイ ア射 合ひたり。カ彼のシロウマ白馬のヒト人、ウマトリザヲ套馬竿にてサ指してタ立てり。アトベ後方のトモラ伴等、オヒツ追附きてキ來ぬ。ヒオ日落ちてサ去れり。(日 去れるなり)タソガレ黃昏となりてキ來ぬ。アトベ後方なるカ彼のシウ眾は、クラ暗くなられてタ立ちてノコ殘りたり。
§92(02:33:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのヨ夜 ユ行きトホ通し、ミカ三日 ミヨ三夜 ユ行きトホ通してイタ到りぬ。テムヂン帖木眞 イ言はく「トモ伴よ。ワレ我、ナンヂ汝[のタスケ助にヨ依る]よりホカ外に、このウマ馬どもをウ得べきあらんや。ワ分けア合はん。イク幾つをト取らんとイ云ふか」とイ云へり。ボオルチユ孛斡兒出 イ言はく「ワレ我、ヨ好きトモ伴をナンヂ汝を「ナヤ艱みてキ來ぬ」とイ云ひて、ヨ好きトモ伴にタスケ助とならんとて、トモ伴となりてキ來ぬ、ワレ我。グワイサイ外財とイ云ひてト取らんや、ワレ我。ワ我がチヽ父は、ナク バヤン納忽 伯顏とイ云ふモノ者︀なり。ナク バヤン納忽 伯顏のヒトリゴ獨子にてワレ我あり。ワ我がチヽ父のタクハヘ貯蓄は、ワレ我にマカ任せあり。ワレ我はト取らず。ワレ我のタスケ助となりたるは、ナニ何のタスケ助とならん。ト取らず」とイ云へり。
§93(02:34:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ナク バヤン納忽 伯顏のイヘ家にイタ到れり。ナク バヤン納忽 伯顏は、そのコ子 ボオルチユ孛斡兒出をウシナ失ひて、ハナミヅ涕 ナミダ涙にてヰ居けり。タチマ忽ちイタ到られて、そのコ子をミ見て、ヒト一たびはナ哭き、ヒト一たびはアヤシ怪めり。そのコ子 ボオルチユ孛斡兒出 イ言は[96]く「いかにナ爲りなんや。ヨ好きトモ伴 ナヤ艱みてキ來たりき。トモ伴となりてサ去りき、ワレ我。イマ今 キ來ぬ」とイ云ひて、ウマ馬をカ驅りサ去りて、ノ野にてフタ蓋したるオホカハヲケ大皮桶 カハマス皮斗をモ持ちキ來ぬ。テムヂン帖木眞には、コ肥えたるコヒツジ羔をコロ殺︀して、カレヒ行糧にアタ與へて、オホカハヲケ大皮桶にモ盛れるモノ物(馬乳)をトヽノ調へてカレヒ行糧とせしめたり。ナク バヤン納忽 伯顏 イ言はく「フタリ二人は、ワカモノ少年なり。ナンヂラ汝等 カエリ眷みア合へ(眷顧せよ)。このノチ後 ナ勿 ス棄てア合ひそ」とイ云へり。
サングル ヲガハ桑古兒 小河の家にテムヂン帖木眞の歸着
テムヂン帖木眞 サ去りてミヨ三夜 ミカ三日 ユ往きて、サングル ヲガハ桑古兒 小河にそのイヘ家にイタ到れり。ホエルン エケ訶額侖 額客、カツサル合撒兒 ラ等のオトヽ弟どもウレ憂へてヰ居て、ミ見てヨロコ歡べり。
§94(02:36:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞をテムヂン帖木眞の迎へ兩親の送り
それよりテムヂン帖木眞、ベルグタイ別勒古台 フタリ二人はデイ セチエン德 薛禪の[ムスメ女]ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞(元史ボルテ フヂン孛兒台 旭眞、ツヰシ追諡 クワウケン ヨクセイ クワウゴウ光獻 翼聖 皇后)を[テムヂン帖木眞]コヽノツ九歲なるトキ時 ミ見てキ來たるにヨ依り、ワカ分れてヲ居りしを、ケルレン ムレン客魯嗹 木嗹にシタガ沿ひタヅ尋ねユ往けり。(客魯嗹 河は、今の克魯倫 河にして、元史には曲綠憐とも怯綠連とも怯魯連とも怯呂連とも書けり。一名は臚朐 河とも云ひ、元史 太祖︀紀 十一年に盧朐 河、丘處機の西遊記に陸局 河、張徳輝の紀行に「北語云㆓翕陸連㆒、漢︀言㆓驢駒 河㆒也」と云ひ、金幼孜の北征錄に臚朐 河と云へり。)チエクチエル扯克徹兒、チクルク赤忽兒忽(卷一の赤忽兒古)ニザン二山のアヒダ閒に、デイ セチエン オンギラ德 薛禪 翁吉喇は、そこにヲ居りき。デイ セチエン德 薛禪は、テムヂン帖木眞をミ見て、イタ甚くオホヨロコビ大喜してイ言はく「タイチウト泰赤兀惕なるナンヂ汝のアニオトヽ兄弟 ネタ嫉めりとシ知りてイタ甚くウレ憂へてゼツバウ絕望せり。やつとミ見たるぞ、ナンヂ汝を」とイ云ひて、ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞をメアハ配せてオク送れり。(帖木眞の孛兒帖と婚したるは、蒙古 源流に據れば、戊戌の年にして、帖木眞 十七歲の時なり。戊戌の年は我が高倉 天皇 治承 二年、宋の孝宗 淳熙 五年、金の大定 十八年、西紀 一一七八年なり。)オク送りキ來つるデイ セチエン德 薛禪は、ミチ路にて[97]ケルレン客魯嗹のウラクチエル兀喇黑啜勒のスミ隅よりカヘ回れり。そのツマ妻、ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞のハヽ母は、シユタン搠壇とイ云ひき。シユタン搠壇は、ムスメ女をオク送りて、グレルグ古咧勒古のウチ內なるサングル ヲガハ桑古兒 小河に[テムヂン帖木眞 ラ等]ヲ居るトコロ處にイタ致してキ來ぬ。
§95(02:38:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
シユタン搠壇をカヘ回らしむると、[テムヂン帖木眞は、]ベルグタイ別勒古台を、ボオルチユ孛斡兒出を「トモ伴とならん」とてヨ喚びてヤ遣りぬ。ボオルチユ孛斡兒出は、ベルグタイ別勒古台に到らるゝと、(原文には「到らしむると」とあり。すべて蒙古語には、日本語にて受動に云ふべき所を令動に云へること多し。日本語として穩かならざる處は、受動に改めて譯せり。)そのチヽ父にカタ語らず、キヨウセキ拱脊のクリゲ栗毛のウマ馬にノ乘リ、アヲ靑きケゴロモ毛衣をウマ馬にツ駄けて、ベルグタイ別勒古台とオナ同じくキ來ぬ。かくトモ伴となれるにヨ依り[このノチ後 ナガク長く]ツカ事ふるコトノモト緣故、かくあり。
§96(02:38:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
サングル ヲガハ桑古兒 小河よりタ起ちて、ケルレン ガハ客魯嗹 河のミナモト源なるブルギ エルギ不兒吉 額兒吉(不兒吉 がし 親征錄ブルギ ガイ不魯吉 崖)にイヘヰ營盤せんとオ下り(馬より下り)て、―シユタン エケ搠壇 額客のヒキデモノ引出物(蒙語シトクル失惕忽勒、明譯ジヤウ上㆓ケンスル見 シウトシウトメニ公姑㆒的 レイブツ禮物)としてクロ黑きテウソ貂鼠のカハコロモ裘をモ持ちキ來てありき。
ケレイト客咧亦惕のワンカン王罕にテムヂン帖木眞 兄弟のまみえ
―そのカハコロモ裘を、テムヂン帖木眞、カツサル合撒兒、ベルグタイ別勒古台 ミタリ三人、モ持ちてユ往きて、「サキ前のヒ日 エスガイ カン エチゲ也速該 罕 額赤格と(也速該 罕なる父。也速該 巴阿禿兒は、罕とならざりき、こゝに罕と云へるは、追王の義ならん。)ケレイト客咧亦惕のタミ民の(親征錄ケレイ ブ克烈 部、元史には、克列、克烈、怯列、怯烈、怯列亦、怯里亦など書けり。)ワンカン王罕(親征錄ワン カガン汪 可汗、元史 本紀ワンハン汪罕、哈剌哈孫の傳、伯八の傳 王可汗)は、アンダ安達とイ云ひア合ひたりき。(安達は、親交なり。元史 太祖︀紀 安荅の注に「交物之友」畏荅兒の傳に「安達者︀、定交 不易之謂也」とあり。)ワ我がチヽ父にアンダ安達とイ云ひア合ひたるは、チヽ父のゴト如くあるぞ」とて、ワンカン王罕をトウラ土兀剌のカラトン合喇屯にア在りとシ知りてユ往きたり。(土兀剌は、河の名なり。親征錄 元史も同じ。唐書 鐵勒の傳に獨樂 河、回鴨の傳に獨邏 水、元史 巴而朮 阿而忒 的斤の傳に禿忽剌 水、張德輝の[98]紀行に獨渾剌 河とあり。今の土拉 河また圖拉 河なり。合喇屯は、黑林にて、今の昭莫多 卽ち 東庫倫 の地、または今の庫倫の南なる汗山 卽ち汗阿林の地なり。)ワンカン王罕のトコロ處にテムヂン帖木眞 イタ到りてイ言はく「サキ前のヒ日 ワ我がチヽ父にアンダ安達とイ云ひア合ひたりき、ナムチ爾。チヽ父にもヒト等しくあるぞ」とイ云ひて、「ツマ妻をオ下ろしてキ被せタテマツ奉る[キウコ舅姑へのレイブツ禮物]をナムチ爾にモ持ちキ來ぬ」とて、テウソ貂鼠のカハコロモ裘をアタ與へたり。
ワンカン王罕 イタ甚くヨロコ喜びてイ言はく「クロ黑合喇きテウソ貂鼠のカハコロモ裘のヘンレイ返禮合哩兀に、ハナ離合合察れたるナンヂ汝のブシウ部眾をアツ集含禿惕合めてアタ與へん。テウソ貂鼠不魯罕のカハコロモ裘のヘンレイ返禮に、チ散不塔喇りたるナンヂ汝のブシウ部眾をマト纏不古惕客勒都︀めア合ひてアタ與へん。コシ腰孛可咧のサキ尖孛克薛にコウシ腔子扯客咧のムネ胸扯額只にア存れ(腹に胸に記憶して忘れじ)」とイ云へり。
§97(02:41:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そこよりカヘ回りてブルギ ガシ不兒吉 岸にヲ居るトキ時、ブルカン ダケ不兒罕 獄よりウリヤンカン兀哴罕のヒト人 ヂヤルチウダイ エブゲン札兒赤兀歹 額不堅(札兒赤兀歹 翁。蒙古 源流ヂヤルチユタイ札爾楚泰)は、カヌチ鍛冶のフイゴ風匣をオ負ひて、ヂエルメ者︀勒篾(親征錄 元史ヂエリメ折里麥、蒙古 源流ヂラマ濟拉瑪)とイ云へるコ子をヒ引きてキ來て、ヂヤルチウダイ札兒赤兒歹 イ言はく「オナン斡難︀のデリウン迭里溫 コザン孤山にヲ居るトキ時、テムヂン帖木眞 ウマ生れたる、テウソ貂鼠のムツキ襁褓(蒙語ネルク捏兒克、明譯 裹兒袱)をアタ與へたりき、ワレ我。このコ子 ヂエルメ者︀勒篾をもアタ與へたりき、ワレ我。チヒサ小しとてツ伴れてサ去れりけり。イマ今 ヂエルメ者︀勒篾にクラ鞍額篾額勒をオ置かせ、カド門額兀頭をア開けさせよ」とイ云ひてアタ與へたり。
§98(02:42:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ホエルン ハヽ訶額侖 母 をゴアクチン オウナ豁阿黑臣 嫗の喚び起し
ケルレン ガハ客魯嗹 河のミナモト源にブルギ ガシ不兒吉 岸にオ下りてヲ居るトキ時、ヒトアサ一朝 ハヤ早く、シラ白みキ黃ばみア明けんとするトキ時、ホエルン エケ訶額侖 額客のイヘ家のウチ內にハタラ働けるゴアクチン エメゲン豁阿黑臣 額篾堅(豁阿黑臣 嫗)オ起きてイ言はく「ハヽ母、ハヽ母、ト疾くオ起き[99]よ。ヂ地 ユル搖げり。トヨミゴヱ震聲 キコ聞えたり。[カツ嘗て]オビヤカ脅したるタイチウト泰赤兀惕 キ來つるならん。ハヽ母 ト疾くオ起きよ」とイ云へり。
§99(02:43:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ホエルン エケ訶額侖 額客 イ言はく「コ子ともをト疾くヨ喚びサマ覺せ」とイ云ひて、ホエルン エケ訶額侖 額客もト疾くオ起きたり。テムヂン帖木眞 ラ等のコ子どももト疾くオ起きて、ウマ馬どもをト執りて、テムヂン帖木眞 ヒト一つのウマ馬にノ乘れり。ホエルン エケ訶額侖 額客 ヒト一つのウマ馬にノ乘れり。カツサル合撒兒 ヒト一つのウマ馬にノ乘れり。カチウン合赤溫 ヒト一つのウマ馬にノ乘れり。テムゲ オツチギン帖木格 斡惕赤斤 ヒト一つのウマ馬にノ乘れり。ベルグタイ別勒古台 ヒト一つのウマ馬にノ乘れり。ボオルチユ孛斡兒出 ヒト一つのウマ馬にノ乘れり。ヂエルメ者︀勒篾 ヒト一つのウマ馬にノ乘れり。テムルン帖木侖をば、ホエルン エケ訶額侖 額客 フトコロ懷にツ駄けたり。[テムヂン帖木眞のみは、](原文に脫ちたるを、明譯に據りて補ふ。)ヒト一つのウマ馬をヒキウマ牽馬にソナ備へたり。ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞には、ウマ馬 カ闕けたり。
§100(02:44:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
車にノ乘れるボルテ孛兒帖 ゴアクチン豁阿黑臣
テムヂン帖木眞 アニオトヽ兄弟どもウマ馬にノ乘りて、ツト夙にスナハ卽ちブルカン不兒罕にノボ上れり。ゴアクチン オウナ豁阿黑臣 嫗は、ボルテ ウヂン孛兒帖 兀眞をカク匿さんと、ヒト一つのクロ黑きコシ輿あるクルマ車にノ乘らしめて、エウクワギウ腰花牛(腰に花紋ある牛)にヒ引かせて、テンゲリ ゴロカン騰格里 豁囉罕に(騰格里 小河、卷一の統格黎克 小河と異なり。)サカノボ泝りウゴ動きてキ來つるトキ時、アケボノ曙のホノカ仄にア明くるトキ時、ムカヒ向よりイクサ軍のシウ眾、ウマ馬をハシ走らしてメグ旋りてイタ到りてキ來て、「ナニビト何人ぞ、ナンヂ汝」とト問へり。ゴアクチン オウナ豁阿黑臣 嫗 イ言はく「ワレ我は、テムヂン帖木眞のなり。オホヤ大家のウチ內にヒツジ羊のケ毛をキ剪りてキ來つ。オノ己がイヘ家にカヘ回りてク來るなり」とイ云へり。それより[カレラ彼等]イ言はく「テムヂン帖木眞は、イヘ家にありや。イヘ家は、いかにトホ遠き」とイ云へり。ゴアクチン オウナ豁阿黑臣 嫗[100]イ言はく「イヘ家は、チカ近くあり。テムヂン帖木眞には、ア有りナ無しには、コヽロヅ心附かざりき。[イヘ家の]ウシロ後よりオ起くるとキ來つ、ワレ我」とイ云へり。
§101(02:46:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ボルテ孛兒帖 等 三女のトラ虜︀はれ
カ彼のイクサビト軍人ども、かくてカ驅けサ去れりゴアクチン オウナ豁阿黑臣 嫗は、そのエウクワギウ腰花牛をムチウ鞭打つと、ト疾くユ行かんとして、クルマ車のヂク軸をヲ折りサ去れり。ヂク軸をオ折られて、「カチ徒にてハヤシ林にハシ走りてイ入らん」とイ云ひア合へるトキ時、ツヾ續きてカ彼のイクサビト軍人ども、ベルグタイ別勒古台のハヽ母をテフキ疊騎せしめ(尻馬に乘らせ)て、そのフタ二つのアシ足をタ垂れさせて、カ驅けてイタ到りてキ來ぬ。「このクルマ車のウチ內にナニ何をノ載せてあるか」とイ云へり。ゴアクチン オウナ豁阿黑臣 嫗 イ言はく「ケ毛をノ載せてあり」とイ云へり。カ彼のイクサビト軍人のアニ兄どもイ言はく「オトヽ弟どもコ子どもオ下りて(馬より下りて)ミ見よ」とイ云へり。カレラ彼等のオトヽ弟どもコ子どもオ下りて、ト戶あるクルマ車のト戶をト取れば、ウチ內にキサキ妃らしきヒト人 ヰ居て、そのヒト人をクルマ車よりヒ拖きてオロ降して、ゴアクチン豁阿黑臣とフタリ二女にテフキ疊騎せしめてヒキ率ゐると、テムヂン帖木眞のシリヘ後よりクサ草のフミワケ蹈分にヨ依りアト跡 ツ附けてブルカン不兒罕にノボ上れり。
§102(02:48:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ブルカン ダケ不兒罕 嶽の三メグ繞り
テムヂン帖木眞のシリヘ後よりブルカン ダケ不兒罕 獄をミ三たびメグ繞りてエ獲かねたり。コナタ カナタ這廂 那廂にイソ急ぎマハ廻ればオチイ陷るヒヂ泥 トホ通れねハヤシ林あり、ア飽けるトコロ地(草木の繁れる處)、キ鑽りイ入れば、イ入られずしてケハ險しくシゲ密く、そのシリヘ後よりシタガ隨ひてエ獲かねたりき。
三つのメルキト篾兒乞惕のし返し
カレラ彼等は、ミ三つのメルキト篾兒乞惕なりき。ウドイト メルキト兀都︀亦惕 篾兒乞惕(親征錄ウドイ メルキ兀都︀夷 篾里乞)のトクトア脫黑脫阿(親征錄 元史トト脫脫)、ウワス メルキト兀洼思 篾兒乞惕のタイル ウスン歹兒 兀孫、カアト メルキト合阿惕 篾兒乞惕の[101]カアタイ ダルマラ合阿台 荅兒麻剌。このミ三つのメルキト篾兒乞惕は、サキ前のホエルン エケ訶額侖 額客をチレド赤列都︀(卷一の也客 赤列都︀)よりウバ奪ひてト取られきとて、イマ今そのウラミ怨をハラ霽しにキ來つるなりき。カ彼のメルキト篾兒乞惕 イ言ひア合へらく「ホエルン訶額侖のアタ讎をムク報いんと、イマ今 カレ彼のヲミナ婦人どもをト取れり。アタ讎をムク報いたり、ワレラ我等」とイ云ひア合ひて、ブルカン ダケ不兒罕 獄よりオ降りてオノ己がイヘイヘ家家にカヘ回りたり。
§103(02:49:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ブルカン ダケ不兒罕 嶽に救はれたるテムヂン帖木眞の感謝
テムヂン帖木眞は、カ彼のミ三つのメルキト篾兒乞惕、マコト實にオノ己がイヘイヘ家家にカヘ回れりやフ伏したりやと、ベルグタイ別勒古台、ボオルチユ孛斡兒出、ヂエルメ者︀勒篾 ミタリ三人を、メルキト篾兒乞惕のシリヘ後よりウカヾ偵ひ、ミ三たびヤド宿りシタガ随はせて、メルキト篾兒乞惕にハナ離れさせて、テムヂン帖木眞は、ブルカン不兒罕のウヘ上よりオ下りて、そのムネ胸をウ椎ちてイ言はく「ゴアクチン エケ豁阿黑臣 額客が(嫗の大功ありし故に母と貴びたるなり)イタチ鼬鎖耶合となりてキ聽莎那思きたるユヱ故に、ギンソ銀鼠兀年となりてミ見兀者︀たるユヱ故に、モト本不敦のミ身をノガ躱不嚕兀敦れんと、ホダシ絆不吉牙せる(足 繋ぎて轡なき)ウマ馬にて、シカ鹿不忽のコミチ徑をワタ徑りて、ニレ楡不兒合孫のエダ條のイヘ家をヤヅク家作らんと、ブルカン不兒罕のウヘ上にノボ上りき、ワレ我。ブルカン不兒罕のミタケ御獄に、シラミ蝨孛額速のゴト如きイノチ命不勒只兀勒荅をカク匿されたり、ワレ我。ヒトリ獨合黑察罕のイノチ命をヲシ惜合赤喇まんと、ヒト一合黑察つのウマ馬にて、カンダスン罕荅孫(獸の名)のコミチ徑をワタ徑りて、ヤナギ柳合勒合孫のエダ枝のイヘ家をヤヅク家作らんと、ミタケ御嶽合勒敦のウヘ上にノボ上りき、ワレ我。ミタケ御嶽合勒敦 ブルカン不兒罕 にアリ蟻合兒察のゴト如きイノチ命をスク救合勒合剌黑荅はれたるぞ、ワレ我。イタ甚くオソ恐れさせられたり、ワレ我。ブルカン不兒罕のミタケ御嶽をアサ朝馬納合兒ごとにマツ祭馬里牙速孩れ、ヒ日兀都︀兒ごとにイノ禱斡赤速孩れ。ワ我がシソン子孫兀嚕渾のシソン子孫兀嚕黑 オボ覺兀合禿孩えヲ居れ」とて、ヒ日をムカ迎へて、オビ帶をウナジ項 にカ掛けて、バウ帽をテ手(左手)にモ持ちソ添へて、テ手(右手)にムネ胸をウ椎ちて、日に[ムカ向ひ]コヽノ九たびヒザマヅ跪きて、クワンテン灌奠(明譯ヲ將㆓ウマノチヽ馬妳子㆒ソヽギソナヘ灑奠)キタウ祈︀禱をサヽ捧げたり。
成吉思 汗 實錄 卷の二 終り。
- ↑ 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
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