成吉思汗実録/巻の四
[120]チンギス カン ジツロク成吉思 汗 實錄 マキ卷のシ四。
§127(04:01:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
アルタン阿勒壇 クチヤル忽察兒にイ言はしむるヂヤムカ札木合のいやみ
アルカイ カツサル阿兒孩 合撒兒、チヤウルカン察兀兒罕 フタリ二人をヂヤムカ札木合のトコロ處にツカヒ使にヤ遣りたれば、ヂヤムカ札木合 イ言はく「アルタン阿勒壇、クチヤル忽察兒 フタリ二人にイ言へ」とて、イ言ひてヤ遣るには「アルタン阿勒壇 クチヤル忽察兒、ナンヂラ汝等 フタリ二人は、テムヂン アンダ帖木眞 安荅とワレ我とフタリ二人のアヒダ閒に、アンダ安荅のコシノクビレ腰窩速別額をサ截薛赤して、アバラボネ肋骨合必兒合をツカ攫合惕忽みて、ナン何ぞハナ離れしめたる、ナンヂラ汝等。アンダ安荅 ワレ我 フタリ二人をハナ離れしめずヒトトコロ一處にヲ居るトキ時、テムヂン アンダ帖木眞 安荅をカン罕にナン何ぞナ爲さざりし、ナンヂラ汝等。イマ今 ナニ何をタヾ只 コヽロ心にオモ思ひてかカン罕となしたる、ナンヂラ汝等。アルタン阿勒壇、クチヤル忽察兒 ナンヂラ汝等 フタリ二人は、イ言へるコトバ言にシタガ從ひ、アンダ安荅のコヽロ心をヤス安からしめて、ワ我がアンダ安荅にヨ善くもトモ伴となりてアタ與へよ」とイ云ひてヤ遣り[121]て、
§128(04:02:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのノチ後 ヂヤムカ札木合のオトヽ弟 タイチヤル台察兒(親征錄 元史トタイチヤル禿台察兒)は、ヂヤラマ札剌麻(山の名)のマヘ前なるオレガイ ブラク斡列該 不剌黑(斡列該の泉。親征錄 元史ユルゲノ イヅミ玉律哥 泉)にス住めるに、ワレラ我等のサアリ ケエル撒阿里 客額兒にヲ居るヂユチ ダルマラ拙赤 荅兒馬剌(親征錄シユヂ タルマラ搠只 塔兒馬剌)、(元史 搠只)のバグン馬羣をヌス盜みにユ往きけり。(
撒阿里 客額兒は、撒阿里の原にて、親征錄 元史に薩里 川とあり。薩里 河ともあるは、非なり河にはあらず、廣き谷なり。川なれば、谷の義にも用ふ。元史 明宗紀に據るに、天曆 二年 正月、和寧の北に卽位し、三月、潔堅 察罕の地に止まり、五月四日、斡耳罕 水(斡兒桓 河)の東に至り、二十三日、禿忽剌 河(土兀剌 河)の東に至り、六月 十五日、撒里 怯兒の地に至り、二十一日、闊朶傑 阿剌倫に至り、それより南に進みて上都︀に向へり。撒里 怯兒は、卽ち撒阿里 客額兒なり。闊朶傑 阿剌倫は、此書の末に見ゆる闊迭額 阿喇勒にして、客魯嗹 河の中洲なり。西より進みて、闊迭額 島より前に撒阿里 原に至れるを見れば、撒阿里 原は、客魯嗹河の上流の地なるべし。金幼孜の北征錄に「雙泉海︀、卽 撒里 怯兒。元 太祖︀ 發㆑跡之所、舊建㆓宮殿㆒。山川環繞、有㆓二海︀子㆒。西北有㆓三關 口㆒、通㆓飮馬河土拉河㆒」とあり、その宮殿は、卽ち太祖︀紀に薩里川 哈老徒の行宮とある處なれば、二海︀子の一つは、必ず哈老徒の海︀子、今の噶老台の池ならん。)タイチヤル台察兒は、ヂユチ ダルマラ拙赤 荅兒馬剌のバグン馬羣をヌス盜みてヰ率てサ去りき。ヂユチ ダルマラ拙赤 荅兒馬剌は、バグン馬羣をヌス盜みてサ去られて、トモビト從者︀どもにコヽロ心 オク臆せられて、ヂユチ ダルマラ拙赤 荅兒馬剌のみオ追ひてユ往きて、ヨル夜そのバグン馬羣のホトリ邊にイタ到りて、オノ己がウマ馬のタテガミ鬛のウヘ上にハラ腹にてフ伏してイタ到りて、タイチヤル台察兒のセボネ脊梁をヲ折るべくイ射てコロ殺︀すと、バグン馬羣をヒキ率ゐてキ來ぬ。
§129(04:03:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
「オトヽ弟 タイチヤル台察兒をコロ殺︀されたり」とてヂヤムカ札木合がカシラ頭となれるヂヤダラン札荅㘓は、ジフサンブ十三部 トモ伴なひて、サンマンニン三萬人となりて、アラウウト阿剌兀兀惕(明譯文は阿剌兀惕)、トルカウト土兒合兀惕(二山の名。親征錄アラウ トラウ阿剌烏 禿剌烏 ニザン二山)にヨ依りコ越えて、チンギス カガン成吉思 合罕のトコロ處へシユツバ出馬してキ來ぬとて、イキレス亦乞咧思よ[122]りムルケ トタク木勒客 脫塔黑、(親征錄モゲ慕哥、元史 孛禿の傳モリ トト磨里 禿禿)ボロルダイ孛囉勒歹 (親征錄ブロンタイ卜欒台)、(孛禿の傳ボロンダイ波欒歹)フタリ二人、チンギス カガン成吉思 合罕にグレルグ古咧勒古にヲ居るトコロ處にシラセ報吿をオク送りキ來ぬ。このシラセ報吿をシ知ると、チンギス カガン成吉思 合罕は、―ジフサンダン十三團ありき。(團 は、蒙語 古哩延、その複稱 古哩額惕なり。親征錄に十三翼と譯したるは、支那風に書きたるなり。)―マタ亦 サンマンニン三萬人となりて、ヂヤムカ札木合のムカ迎へにシユツバ出馬して、ダラン バルヂユト荅闌 巴勒主惕(親征錄 元史ダラン バンジユス ノ ノ荅闌 版朱思 之 野)にタ立ちア合ひ(對戰し)て、チンギス カガン成吉思 合罕は、ヂヤムカ札木合にそこにウゴ動かされ(敗られ)て、オナン斡難︀のヂエレネ カブチカイ哲咧捏 合卜赤孩(哲咧捏の隘處)にノガ遁れたり。
ヂヤムカ札木合 イ言はく「オナン斡難︀のヂエレネ哲咧捏にノガ遁れしめたり、ワレラ我等」とイ云ひてカヘ回るトキ時、チノス赤那思のコ子ら(家の子 一族)をシチジフ七十のナベ鍋にニ煮︀て、ネウダイ チヤカアン ウワ捏兀歹 察合安 兀洼のカシラ頭をキ斬りて、ウマ馬のヲ尾にヒ拖きてサ去りき。(赤那思 氏は、喇失惕 額丁に依れば、察剌孩 領忽の二子 堅都︀ 赤那、烏魯克眞 赤那の裔なり。堅都︀ 赤那は牡狼、烏魯克眞 赤那は牝狼の義にして、赤那思は、狼なる赤那の複稱なり。親征錄の撰者︀は、修正 祕史を譯するに當り、赤那思の姓氏なることを知らず、「半途爲㆓七十二竈㆒、烹㆑狼爲㆑食」と譯せり)
§130(04:05:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そこにヂヤムカ札木合をソコ其處よりカヘ回らすると、ウルウト兀嚕兀惕(元史 朮赤台の傳ウルウタイ ウヂ兀魯兀台 氏)のヂユルチエダイ主兒扯歹(元史 本傳チユチタイ朮赤台、畏荅兒の傳チユチエダイ朮徹帶)は、ウルウト兀嚕兀惕(親征錄ウルウ ブ兀魯吾 部)をヒキ率ゐ、モンクト忙忽惕(畏荅兒の傳モング ウヂ忙兀 氏)のクユルダル忽余勒荅兒(朮赤台の傳クインダル忽因荅兒、本傳ウイダル畏荅兒)は、モンクト忙忽惕(親征錄モング ブ忙兀 部)をヒキ率ゐ、ヂヤムカ札木合よりハナ離れて、チンギス カガン成吉思 合罕のトコロ處にキ來ぬ。コンゴタン晃豁壇のモンリク エチゲ蒙力克 額赤格(蒙力克なる父)は、そこにヂヤムカ札木合のトコロ處にヲ居りて、モンリク エチゲ蒙力克 額赤格、そのナヽタリ七人のコ子と、ヂヤムカ札木合よりハナ離れて、そこに[123]チンギス カガン成吉思 合罕にア合ひにキ來ぬ。ヂヤムカ札木合よりコレラ此等のタミ民 キ來ぬとて、チンギス カガン成吉思 合罕は、オノ己がトコロ處にクニ國 キ來ぬとヨロコ喜びて、チンギス カガン成吉思 合罕は、ホエルン ウヂン訶額侖 兀眞、カツサル合撒兒、ヂユルキン主兒勤のサチヤ ベキ撒察 別乞、タイチユ泰出らとトモ共に、「オナン斡難︀ のハヤシ林のウチ裏にウタゲ筵會せん」とイ云ひア合ひてウタゲ筵會したるに、チンギス カガン成吉思 合罕に、ホエルン ウヂン訶額侖 兀眞に、カツサル合撒兒に、サチヤ ベキ撒察 別乞〈[#「撒察 別乞」は底本では「撒察別乞」。直前の「撒察 別乞」に倣い名前の区切りを追加]〉になどハジメ首としてヒト一つのミカ甕(馬乳酒を入るゝ革の嚢)をカタム傾けけり。マタ又 サチヤ ベキ撒察 別乞のワカ少きハヽ母(莎兒合禿 主兒乞 の妾、撒察 別乞の生母エベガイ額別該親征錄 元史セチエ ベギ薛徹 別吉
フタリ二女「ワレ我をハジメ首とせず、エベガイ額別該をハジメ首としてナン何ぞカタム傾けたる」とイ云ひ、カシハデ厨官 シキウル失乞兀兒(親征錄 元史シユゼンシヤ主膳者︀ シキウル失丘兒)をウ打ちけり。ウ打たれてカシハデ厨官 シキウル失乞兀兒 イ言はく「エスガイ バアドル也速該 巴阿都︀兒、ネクン タイシ捏坤 太石 フタリ二人 シ死にたるユヱ故に、かくワ我がウ打たれたるはいかに」とイ云ひて、オホゴヱ大聲にてナ哭きけり。
§131(04:08:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ブリ不哩に肩キ斫らるゝベルグタイ別勒古台
そのエンセキ筵席を、ワレラ我等よりはベルグタイ別勒古台 セイヂ整治し、チンギス カガン成吉思 合罕のセンバ騸馬をト執りてタ立ちヲ居りき。ヂユルキン主兒勤よりはブリ ボコ不哩 孛闊(親征錄 元史ボリ播里)そのエンセキ筵席をセイヂ整治しヲ居りき。ワレラ我等のウマヨセバ聚馬處より(蒙語キルエス乞魯額思、親征錄 元史キレス乞列思、錄は禁外 繋馬所と注し、史は野外 牧場と注せり。)カタキン合塔斤〈[#ルビの「カタキン」はママ。他の節︀ではすべて「カタギン」。昭和18年復刻版も同じ]〉の人 タヅナカハ韁皮をヌス盜みたるに、ヌスビト盜人をトラ拏へき。ブリ ボコ不哩 孛闊そのヒト人をカバ回護ひて、ベルグタイ別勒古台はツネ常のゴト如くウ搏ちア合ふに、ミギ右のソデ袖をヌ脫ぎ[124]てアカハダ赤膚にてユ行きたりき。かくヌ脫ぎたるそのアカハダ赤膚のカタ肩を、ブリ ボコ不哩 孛闊、クワンタウ環刀にてサ劈くべくキ斫り(斫り劈き)けり。ベルグタイ別勒古台かくキ斫られたれども、ナニ何ともなさずアラソ爭はず、チ血をナガ流してユ行くを、チンギス カガン成吉思 合罕、コカゲ木蔭にヰ居て、エンセキ筵席のウチ內よりミ見て、イ出でてキ來てイ言はく「ナン何ぞ かくナ爲されたりし、ワレラ我等」とイ云へるに、ベルグタイ別勒古台 イ言はく「キズ傷はイマダ未なりき。ワ我がユヱ故にアニオトヽ兄弟にナカワロ中惡くナ爲りア合はんや。ワレ我、サシツカ差支へず。ワレ我、ヤヽ稍 ヨ好くあり。アニオトヽ兄弟にワヅカ纔にナ慣れア合ひヲ居るトキ時、アニ兄やめよ。シバラ暫くタ立ちとまれ」とイ云へり。
§132(04:10:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カガン成吉思 合罕は、ベルグタイ別勒古台かくスヽ勸むれどもキ肯かず、キ木のエダ枝をヲ折るべくヒ引き(引き折り)て、カハヲケ皮桶のカキマハシボウ撞乳棒をヌ抽きだしてト執りて、ウ打ちア合ひて、ヂユルキン主兒勤にカ勝ちて、ゴリヂン カトン豁哩眞 合屯、クウルチン カトン忽兀兒臣 合屯 フタリ二女をウバ奪ひてト取れり。カヘツ却てカレラ彼等に「ムツ睦びア合はん」とイ云はれて、ゴリヂン カトン豁哩眞 合屯、クウルチン カトン忽兀兒臣 合屯 フタリ二女をカヘ還して、ムツ睦びア合はんとてツカヒ使しア合ひてヲ居るトキ時に、キタト乞塔惕のタミ民のアルタン カン阿勒壇 罕(金の章宗 皇帝)は、
カンガン ジヨウ完顏 襄のタタル塔塔兒征伐
〈[#「完顏 襄」は底本では「完顏襄」で姓名の単語区切りなし。]〉タタル塔塔兒のメグヂン セウルト篾古眞 薛无勒圖(親征錄 元史メウヂン セウリト篾兀眞 笑里徒)ラ等に、そのメイ命にシタガ從はれず、ワンキン シヤウジヤウ王京 丞相(王金は、金の國姓なる完顏の轉。金史 列傳の內族 襄 卽ち 右丞相 完顏 襄)に「イクサ軍をトヽノ整へてナ勿 タメラ踞踏ひそ、スナハ便ち」とイ言ひてヤ遣りき。(金史の紀傳を見るに、この役は、金の章宗 承安 元年 丙辰の歲にあり。我が後鳥羽︀ 天皇 建久 七年、宋の寧宗 慶元 二年、西紀 一一九六年、成吉思 汗 三十五歲の時なり。)「ワンキン シヤウジヤウ王京 丞相は、メグヂン セウルト篾古眞 薛兀勒圖がカシラ頭たるタタル塔塔兒を、ウルヂヤ ガハ兀勒札 河(金史 內族 襄の傳オリヂヤ ガハ斡里札 河、今の烏爾匝 河、また 烏爾載 河)にサカノボ泝り、バグン馬羣 リヤウシヨク糧食ごめに[125]オイマク追捲りてキ來ぬ」とてウハサ噂をシ知れり。そのウハサ噂をシ知ると、
§133(04:11:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カン成吉思 汗 ワンカン王罕のタタル塔塔兒ハサ夾み攻め
チンギス カガン成吉思 合罕 イ言はく「サキ前のヒ日よりタタル塔塔兒のタミ民は、ミオヤ御祖︀なるチヽ父をウシナ失ひたるアタ讎あるタミ民なりき。イマ今このキクワイ機會にチカラ力 ア合はせん(金の軍と夾み攻めん)、ワレラ我等」とイ云ひて、トオリル カン脫斡哩勒 罕のトコロ處に「アルタン カン阿勒壇 罕のワンキン シヤウジヤウ王京 丞相は、タタル塔塔兒のメグヂン セウルト篾古眞 薛兀勒圖がカシラ頭たるタタル塔塔兒をウルヂヤ ガハ兀勒札 河にサカノボ泝りオイマク追捲りてキ來ぬとイ云へり。ワレラ我等のミオヤ御祖︀なるチヽ父をウシナ失ひたるタタル塔塔兒をハサ夾みセ攻めん、ワレラ我等。トオリル カン エチゲ脫斡哩勒 罕 額赤格 ト疾くコ來よ」とて、このデンゴン傳言をイタ致しに使をヤ遣りぬ。このデンゴン傳言をイタ致さるゝとトオリル カン脫斡哩勒 罕 イ言はく「ワ我がコ子はジヨブ勺卜(丁度善し、善き機會なり)とイ言ひておこせたり。チカラ力 ア合はせん、ワレラ我等」とイ云ひて、ダイサン第三のヒ日にイクサビト軍士をアツ聚めてイクサ軍をオコ起して、トオリル カン脫斡哩勒 罕は、スミヤカ速にオモム赴きて、チンギス カガン成吉思 合罕、トオリル カン脫斡哩勒 罕 フタリ二人は、ヂユルキン主兒勤のサチヤ ベキ撒察 別乞、タイチユ泰出がカシラ頭たるヂユルキン主兒勤(親征錄ユルキン月兒斤)にイ言ひてヤ遣るに「サキ前のヒ日よりワレラ我等のミオヤ御祖︀なるチヽ父をウシナ失ひたるタタル塔塔兒をイマ今このキクワイ機會にハサ夾みセ攻めん。モロトモ諸︀共にシユツバ出馬せん」とイ云ひてヤ遣りぬ。ヂユルキン主兒勤にコ來らるゝことをムユカ六日 マ待ちて[マ待ち]かねて、チンギス カガン成吉思 合罕、トオリル カン脫斡哩勒 罕 フタリ二人、モロトモ諸︀共にイクサ軍をオコ起して、ウルヂヤ兀勒札にシタガ沿ひ、ワンキン シヤウジヤウ王京 丞相とチカラ力 ア合はせにキ來つるトキ時、ウルヂヤ兀勒札のクスト シトエン忽速禿 失禿延〈[#「忽速禿 失禿延」は底本では「忽速禿失禿延」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§133(04:13:09)の漢︀字音訳「忽速禿-失禿延」に倣い二語に分割]〉、ナラト シトエン納喇禿 失禿延〈[#「納喇禿 失禿延」は底本では「納喇禿失禿延」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§133(04:13:09~10)の漢︀字音訳「納喇禿-失禿額捏」に倣い二語に分割]〉(親征錄、納剌禿 失圖、忽速禿失圖 之 野)にタタル塔塔兒のメグヂン篾古眞がカシラ頭たるタタル塔塔兒は、そこにトリデ寨にヨ據りき。[126]チンギス カガン成吉思 合罕、トオリル カン脫斡哩勒 罕 フタリ二人 は、かくタテコモ楯籠れるメグヂン セウルト篾古眞 薛兀勒圖をそのトリデ寨よりトラ拏へて、メグヂン セウルト篾古眞 薛兀勒圖をそこにコロ殺︀して、カレ彼のシロカネ銀のウバグルマ繃車、トウシユ東珠あるフスマ衾をチンギス カガン成吉思 合罕そこにト取りき。
§134(04:15:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ヂヤウトクリ札兀惕忽哩の官 ワンカン王罕のガウ號
メグヂン セウルト篾古眞 薛兀勒圖をコロ殺︀したりとて、チンギス カガン成吉思 合罕、トオリル カン脫斡哩勒 罕 フタリ二人、(この二人の名は、上の篾古眞の上 又は下の篾古眞の上にあるべきに似たり。)ワンキン シヤウジヤウ王京 丞相は、メグヂン セウルト篾古眞 薛兀勒圖をコロ殺︀しけりとシ知ると、イタ甚だヨロコ喜びて、チンギス カガン成吉思 合罕にヂヤウトクリ札兀惕忽哩のナ名をアタ與へたり。(親征錄 元史チヤウクル察兀忽魯。札兀惕は、百なる札溫の複稱なり。忽哩は、聚むる と云ふ 忽哩牙、聚會と云ふ忽喇勒などの語根なれば、牧長の義あるべし。然らば札兀惕 忽哩は。百戶の長の譯語ならんか。)ケレイト客咧亦惕のトオリル脫斡哩勒にワン王のナ名をそこにアタ與へたり。ワンカン王罕のナ名は、ワンキン シヤウジヤウ王京 丞相のナ名づけたるにヨ依り、そのトキ時よりナ爲れり、ワンキン シヤウジヤウ王京 丞相 イ言はく「メグヂン セウルト篾古眞 薛兀勒圖をナンヂラ汝等がチカラ力 ア合はせてコロ殺︀したるは、アルタン カン阿勒壇 罕にイト最 オホ大きなるタスケ助をナ爲せり、ナンヂラ汝等。ナンヂラ汝等のコ此のタスケ助をアルタン カン阿勒壇 罕にマウ奏しア上げん、ワレ我。チンギス カガン成吉思 合罕にコレ此よりオホ大きなるナ名をクハ加ふることを、セウタウ招討のナ名をアタ與ふることを、アルタン カン阿勒壇 罕 シロ知しめさん」とイ云へり。ワンキン シヤウジヤウ王京 丞相は、そこよりかくヨロコ喜びてシリゾ退けり。チンギス カガン成吉思 合罕 ワンカン王罕 フタリ二人は、そこにタタル塔塔兒をトラ虜︀へてワカ分けア合ひてト取りア合ひて、イヘイヘ家家にカヘ回りてゲバ下馬せり。
§135(04:16:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
タタル塔塔兒のトリデ寨にノコ遺れるヲサナゴ幼兒 シキケン クドク失乞刊 忽都︀忽
タタル塔塔兒のタテコモ楯籠れるナラト シトエン納喇禿 失禿延〈[#「納喇禿 失禿延」は底本では「納喇禿失禿延」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§135(04:16:10)の漢︀字音訳「納喇禿-失禿額捏」に倣い二語に分割]〉にオロ下したるイヘヰ營盤のウチ內[127]をカス掠むるトキ時、ヒトリ一人のチヒサ小きヲサナゴ幼兒をス棄てたるをワレラ我等のイクサビト軍士どもイヘヰ營盤よりエ得けり。コガネ金のワ環のハナワ鼻環ある、キンシ金絲のヌノ布にテウソ貂鼠にてウラヅ裏附けたるハラガケ腹掛あるチヒサ小きヲサナゴ幼兒をツ伴れキ來て、チンギス カガン成吉思 合罕は、ホエルン エケ訶額侖 額客にキフジ給事にとてアタ與へたり。ホエルン エケ訶額侖 額客 イ言はく「ヨ好きヒト人のコ子なるぞ。イヘスヂ家系 ヨ善きヒト人のタネ胤なるぞ。イツタリ五人のコ子にはオトヽ弟、ダイロク第六にてコ子となさん。」シキケン クドク失乞刊 忽都︀忽とナ名づけてハヽ母 ヤシナ育へり。(後の文には失吉 忽禿忽とありて、刊の字なし。親征錄 元史に、忽都︀忽、元史 太宗紀に胡土虎ともあり。)
§136(04:18:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ヂユルキン主兒勤の殺︀掠を聞けるチンギス カン成吉思 汗の怒
チンギス カガン成吉思 合罕のラウエイ老營は、ハリルト ナウル哈哩勒禿 納兀兒にア在りき。(哈哩勒禿 湖 親征錄ハレントタク哈連徒澤。露西亞の地圖に、克魯倫 河の南流の東に折るゝ處より西南に當り、哈里隆︀ 湖あり。露國 東方 經營 圖には、哈里隆︀ 湖なく、それより東に倚りて、ハラリオル泊あり。哈哩勒禿 湖は、この二湖の內なるべし。)ラウエイ老營にノコ殘れるモノ者︀を、ヂユルキン主兒勤は、ゴジフ五十のヒト人のキモノ衣服をハ剝ぎけり。トヲ十のヒト人をコロ殺︀しけり。「ヂユルキン主兒勤にシカ然 ナ爲されたり」とて、ワレラ我等のラウエイ老營にノコ殘れるモノ者︀ども、チンギス カガン成吉思 合罕にツ吿げたれば、このシラセ報吿をキ聽くと、チンギス カガン成吉思 合罕 イタ甚くイカ怒りてイ言はく「ヂユルキン主兒勤にいかでか かくナ爲されたりし、ワレラ我等。オナン斡難︀のハヤシ林にウタゲ筵會せるトキ時、カシハデ厨官 シキウル失乞兀兒をもカレラ彼等 ウ打ちたり。ベルグタイ別勒古台のカタ肩をもカレラ彼等 キ斫りたり。ムツ睦びア合はんとイ云はれて、ゴリヂン カトン豁哩眞 合屯、クウルチン忽兀兒臣 フタリ二女をカヘ還してアタ與へたり、ワレラ我等。そのノチ後 サキ曩のアタ讎ありウラミ怨あるワレラ我等のミオヤ御祖︀なるチヽ父をウシナ失ひたるタタル塔塔兒をハサミゼメ夾攻にシユツバ出馬せんとて、ヂユルキン主兒勤をムユカ六日 マ待ちてもコ來られざりき。イマ今 マタ又 テキ敵にヨ倚り、テキ敵にカレラ彼等もナ爲[128]れり」とイ云ひて、チンギス カガン成吉思 合罕は、ヂユルキン主兒勤のトコロ處にシユツバ出馬せり。ヂユルキン主兒勤を、ケルレン客魯嗹のコドエ アラル闊朶額 阿喇勒のドロアン ボルダウト朶羅安 孛勒荅兀惕にヲ居るカレラ彼等のタミ民をトラ虜︀へたり。(闊朶額 洲は、卷十五〈[#「卷十五」はママ。昭和18年復刻版も同じ。実際には底本の卷十二]〉に闊迭兀 阿喇勒とも闊迭額 阿喇勒ともあり。朶羅安は七つ、孛勒荅兀惕は孤山なる孛勒荅黑の複稱にして、七つ岡なり。親征錄ドロン ボンダ サン朶欒 盤陀 山。卷十五〈[#「卷十五」はママ。昭和18年復刻版も同じ。実際には底本の卷十二]〉の末に、朶羅安 孛勒荅黑とあり。撤阿里 原の東南に當れる客魯嗹の河中島の小山にして、後に成吉思 汗の大斡兒朶の設けられたる處なり。)サチヤ ベキ撒察 別乞、タイチユ泰出 フタリ二人は、ワヅカ僅にミ身をノガ遁れたり。
カレラ彼等のシリヘ後よりオソ襲ひて、テレゲト アマサル帖列格禿 阿馬撒兒に(帖列格禿の口。親征錄 帖列徒 之 隘、元史 帖烈徒 之 隘。露西亞の地圖に、車臣汗の駐牧地より一度ほど南に當り、租里格圖と云ふ處ありて、內蒙古に往く路に當れるは、帖列格禿の轉なるに似たり。)ハ馳せイタ至りて、サチヤ ベキ撒察 別乞、タイチユ泰出 フタリ二人をトラ拏へたり。トラ拏へて、チンギス カガン成吉思 合罕は、サチヤ撒察、タイチユ泰出 フタリ二人にイ言へらく「サキ前のヒ日 ワレラ我等はナニ何とイ言ひア合ひしか」とイ云はれて、サチヤ撒察、タイチユ泰出 フタリ二人 イ言はく「イ言へるコトバ言にワレラ我等はシタガ従はざりき。ワレラ我等のコトバ言にシタガ從はしめよ」とイ云ひて、そのコトバ言をシ知らせて、マカ任せ(頸を伸べ)てアタ與へたり。カレラ彼等のコトバ言をシ知らせられて、カレラ彼等のイ言にシタガ従はしむべくカタヅ片付け(殺︀し)て、スグ直にソコ其處にス棄てたり。(前日の言とは、成吉思 汗を立てたる時の盟の言を云へるなり。)
§137(04:21:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ヂヤライル札剌亦兒の人 ムカリ模合里 等の降附
サチヤ撒察 タイチユ泰出 フタリ二人をカタヅ片付くると、カヘ回りてキ來て、ヂユルキン主兒勤の タミ民をウゴ動かするトキ時、ヂヤライル札剌亦兒のテレゲト バヤン帖別格禿 伯顏(帖別格禿の長者︀)のコ子 グウングア古溫兀阿(元史 木華黎の傳コンウンクワ孔溫窟哇)、チラウン カイチ赤剌溫 孩赤(元史 忙哥撒兒の傳チラウン カイチ赤老溫 愷赤)、ヂエブケ者︀卜客 ミタリ三人は、そのヂユルキン主兒勤のトコロ處にヲ居りき。グウングア古溫兀阿は、ムカリ模合里(親征錄 元史ムホアリ木華黎)、ブカ不合(蒙韃 備錄ムカ抹歌)なるフタリ二人のコヅ子伴れにて[129]マミ見えてイ言はく「ナムチ爾のトグチ戶口孛莎合のヤツコ奴孛斡勒となさん。ナムチ爾のトグチ戶口孛莎合よりニゲマハ逃廻不勒只らば、カレ彼のアシノスヂ脚筋孛兒必をキ斷れ。ナムチ爾のカド門額兀顚のキンジユ近習奄出のヤツコ奴となさん。ナムチ爾のカド門額兀顚よりハナ離赫亦魯れば、カレ彼のカン肝額里格惕をサ割額惕客きてス棄てよ」とイ云ひてアタ與へたり。チラウン カイチ赤剌溫 孩赤も、トンゲ統格、カシ合失なるフタリ二人のコ子をチンギス カガン成吉思 合罕にマミ見え[しめ]てイ言はく「ナムチ爾のコガネ金阿勒壇のトグチ戶口をマモ守りてヰ居阿禿孩よとてタテマツ奉れり、ワレ我。ナムチ爾のコガネ金阿勒壇のトグチ戶口よりホカ外昻吉荅にサ去らば、カレ彼のイノチ命阿米をタ絕ちてス棄てよ。ナムチ爾のヒロ寬斡兒堅きカド門をモタ擡げてア上斡克げよ(擡ぐる事をして上げよ)とてタテマツ奉斡克れり、ワレ我。ナムチ爾のヒロ寬きカド門斡兒堅よりソト外斡額咧にサ去斡都︀らば、カレ彼のシンザウ心臟斡咧をフ蹈みてス棄てよ」とイ云へり。ヂエブケ者︀卜客をば、カツサル合撒兒にアタ與へたり。
ヂユルキン主兒勤〈[#「主兒勤」は底本では「主兒勒」]〉の家より得たるヲサナゴ幼兒 ボロウル孛囉兀勒
ヂエブケ者︀卜客は、ヂユルキン主兒勤のイヘヰ營盤よりボロウル孛囉兀勒(親征錄 元史ボロフン博羅渾、元史 本傳ボルフ博爾忽)とイ云へるチヒサ小きオサナゴ幼兒をツ伴れキ來て、ホエルン エケ訶額侖 額客にマミ見ゆべくアタ與へたり。
§138(04:24:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ホエルン エケ訶額侖 額客は、メルキト篾兒乞惕のイヘヰ營盤よりエ得られたるグチユ古出(卷三の曲出)とイ云ふヲサナゴ幼兒を、タイチウト泰赤兀惕のウチ內なるベスト別速惕のイヘヰ營盤よりエ得られたるココチユ闊闊出とイ云ふヲサナゴ幼兒を、タタル塔塔兒のイヘヰ營盤よりエ得られたるシキケン クトク失吉刊 忽禿忽とイ云ふヲサナゴ幼兒を、ヂユルキン主兒勤のイヘヰ營盤よりエ得られたるボロウル孛囉兀勒とイ云ふヲサナゴ幼兒を、このヨタリ四人をイヘ家のウチ內にヤシナ養ふに、ホエルン エケ訶額侖 額客は、「コ子ども[のタメ爲]に、ヒル晝兀都︀兒はミ視︀兀者︀るメ目、ヨル夜雪泥はキ聽莎那思くノミ耳とタレ誰にナ爲らしめんか」とて、イヘ家のウチ內にヤシナ養へり。[130]
§139(04:25:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
このヂユルキン主兒勤のタミ民のコトノモト緣由。ヂユルキン主兒勤とナ爲るには、カブル カン合不勒 罕のナヽタリ七人のコ子のオホアニ大兄 オキン バラカク斡勤 巴喇合黑ありき。ソ其のコ子 シヨルカト ヂユルキ莎兒合禿 主兒乞ありき。ヂユルキン主兒勤となるには、カブル カン合不勒 罕のコ子どものアニ兄とイ云ひて、そのタミ民亦兒堅のウチ中よりエラ擇びて、カン肝(はら)にキモ膽ある、オホユビ拇指赫咧該にてヨ善くイ射る、ハイ肺阿兀失吉 ミ滿つるムネ心ある(胸に肺の滿ちたる)、クチ口阿蠻 ミ滿つる(大聲を發する)ガウイ剛氣ある、ヲトコ男額咧ごとにギノウ技能額兒迭木惕ある、タケ猛きキリヨク氣力あるをエラ擇びて、アタ與へて、ガウキ剛氣ありキモ膽ありユウ勇ありサカ抗ふモノ者︀ ナ無き(蒙語ヂユルキメス拙兒乞篾思)、(明譯タヾ但アレバ有㆓ユクトコロ去處㆒、ミナセメヤブリ皆攻破、ナキ無㆓ヒトノヨクテキスル人能敵㆒)がユヱ故にヂユルキン主兒勤とイ云はれたるコトノモト緣由かくあり。かゝるユウ勇あるタミ民をチンギス カガン成吉思 合罕はマツロ降服はせて、ヂユルキン主兒勤 ウヂ姓あるモノ者︀をホロボ滅せり。カレラ彼等のタミ民をブラク部落を、チンギス カガン成吉思 合罕は、オノ己がヂツキン昵近のタミ民となしたり。
§140(04:26:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ベルグタイ別勒古台に殺︀さるゝブリ ボコ不哩 孛可
チンギス カガン成吉思 合罕は、ヒトヒ一日 ブリ ボコ不哩 孛可、(前の不哩 孛闊)ベルグタイ別勒古台 フタリ二人に「ウ搏ちア合はしめん(相撲 取らせん)」とイ云へり[サキ先に]ブリ ボコ不哩 孛可は、ヂユルキン主兒勤のトコロ處にヰ居たりき。ブリ ボコ不哩 孛可は、ベルグタイ別勒古台をカタテ片手にてトラ拏へてカタアシ片足にてハ撥ねてタフ倒してウゴ動かせずオシツ壓着けたりき。ブリ ボコ不哩 孛可は、クニ國のボコ孛可(力士)。そこにベルグタイ別勒古台、ブリ ボコ不哩 字可 フタリ二人をスマヒ相撲せしめたり。ブリ ボコ不哩 孛可は、カ勝たれざる人[なれども、コトサラ殊更に]タフ倒れてアタ與へたり。ベルグタイ別勒古台は、オシツ壓着けかね、カタ肩 ト把りて、シリ臀のウヘ上にノボ上りて、ベルグタイ別勒古台 カヘリ顧みて、チンギス カガン成吉思 合罕をミ見れば、カガン合罕はシタクチビル下脣をカ咬めり。ベルグタイ別勒古台 サト悟りエ得て、カレ彼のウヘ上に[131]ウマノリ馬乘して、カレ彼のフタ二つのエリ領をマジ交へオサ扼へて、カレ彼のセボネ脊梁をヒザ膝にス据ゑてヲ折りてヤ遣りたり。ブリ ボコ不哩 孛可は、セボネ脊梁をヲ折られてイ言はく「ベルグタイ別勒古台にカ勝たれ(負け)ざるなりき、ワレ我。カガン合罕をオソ恐れて、イツハ佯りタフ倒れタメラ猶豫ひて、イノチ命をト取らせたり、ワレ我」とイ云ふと、ス死にてサ去りぬ。ベルグタイ別勒古台は、カレ彼のセボネ脊梁をヒ扯きヲ折ると、ヒキズ引摺りてノ除けてサ去りぬ。カブル カン合不勒 罕のナヽタリ七人のコ子のアニ兄 オキン バルカク斡勤 巴兒合黑ありき。ツギ次にバルタン バアトル巴兒壇 巴阿禿兒ありき。そのコ子 エスガイ バアトル也速該 巴阿禿兒ありき。(明譯 この間に下の句あり。エスガイノ コハ也速該 子、スナハチ卽ナリ是㆓タイソ太祖︀㆒。)カレ彼(巴兒壇)のツギ次にクトクト モンレル忽禿黑圖 蒙列兒(卷一の忽禿黑禿 蒙古兒)ありき。そのコ子 ブリ不哩ありき。ト取りア合ひ(物を爭ひ)て、バルタン バアトル巴兒壇 巴阿禿兒のコ子よりヘダ隔客禿思たり、バルカク巴兒合黑のユウ勇あるコ子らにトモ伴となれるがタメ爲に、ブリ ボコ不哩 孛可、クニ國のボコ孛可、ベルグタイ別勒古台にセボネ脊梁をヲ折られてシ死にたり。
§141(04:30:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そのノチ後 ニハトリ雞のトシ年(我が土御門 天皇 建仁 元年 辛酉、金の章宗 泰和 元年、宋の寧宗 嘉奉 元年、西紀 一二〇一年、成吉思 汗 四十歲の時)、カタギン合塔斤、サルヂウト撒勒只兀惕(親征錄 元史ハタギン哈荅斤、サンヂウ散只兀)ヒト一つになりて、カタギン合塔斤のバクシユロギ巴忽搠囉吉がカシラ頭たるカタギン合塔斤、サルヂウト撒勒只兀惕のチルギタイ バアトル赤兒吉歹 巴阿禿兒がカシラ頭たる[サルヂウト撒勒只兀惕]は、ドルベン朶兒邊(親征錄 元史ドルバン朶魯班)、タタル塔塔兒にムツ睦びア合ひて、ドルベン朶兒邊のカヂウン ベキ合只溫 別乞がカシラ頭たるもの、タタル塔塔兒のアルチ タタル阿勒赤 塔塔兒(塔塔兒の分部の名。親征錄 元史アンチ タタル案赤 塔塔兒)のヂヤンブリカ札隣不合〈[#「札隣 不合」は底本では「札隣不合」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§141(04:30:05)の漢︀字音訳「札鄰-不合」に倣い二語に分割]〉がカシラ頭たるもの、イキレス亦乞咧思(親征錄 元史イキラス亦乞剌思)のドゲマカ土格馬合がカシラ頭たるもの、オンギラト翁吉喇惕(親征錄 元史ホンギラ弘吉剌)のデルゲク エメル迭兒格克 額篾勒[132](親征錄テムゲ アマン帖木哥 阿蠻。明譯は、二人とせり。今 征錄、喇失惕の集史の一人とせるに從ふ。)、アルクイ阿勒灰 ラ等、ゴロラス豁囉剌思(卷一の豁哩剌兒 姓。親征錄 元史ホルラス火魯剌思)のチヨナク綽納黑、チヤカアン察合安がカシラ頭たるもの、ナイマン乃蠻よりグチユウト ナイマン古出兀惕 乃蠻(乃蠻の分部の名)のブイルク カン不亦嚕黑 罕(親征錄ブイル カガン盃祿 可汗、元史ブルユ ハン不魯欲 罕。魯欲は、欲魯の誤りなり。)メルキト篾兒乞惕のトクトア ベキ脫黑脫阿 別乞(親征錄トト ベギ脫脫 別吉)のコ子 クト忽禿(親征錄ホド和都︀またホド火都︀)、オイラト斡亦喇惕(親征錄 元史オイラ斡亦剌)のクドカ ベキ忽都︀合 別乞(親征錄フドハ ベギ忽都︀花 別吉)、タイチウト泰赤兀惕のタルクタイ キリルトク塔兒忽台 乞哩勒禿黑(親征錄タルフタイ ヒリント塔兒忽台 希憐禿)、ゴドン オルチヤン豁敦 斡兒長(親征錄フドン フルヂヤン忽敦 忽兒章)、アウチユ バアトル阿兀出 巴阿禿兒(親征錄アフチユ バード阿忽出 拔都︀、喇失惕の集史アクチユ バハドル阿忽出 巴哈都︀兒)ラ等のタイチウト泰赤兀惕、コレラ此等のブラク部落は、アルクイ ブラク阿勒灰 不剌黑(阿勒灰の泉。親征錄 元史アルイノ イヅミ阿雷 泉)にツド聚ひて、ヂヤダラン札荅㘓のヂヤムカ札木合をキミ君にイタヾ戴かんとて、ヲウマ牡馬 メウマ牝馬をドウギリ腰斬にキ斬りア合ひてチカ盟ひア合ひて、ソコ其處よりエルグネ ムレン額兒古捏 木嗹(額兒古捏 河、水道 提綱の額爾古納 河、朔方 備乘の額爾古訥 河)にシタガ沿ひタ起ちて、ケンムレン刊木嗹(刊河。親征錄 元史ゲンガハ犍河、召烈台 抄兀兒の傳ゲンガハ堅河龍沙 紀略の根河、中俄 分界圖の旱河)のエルグネ額兒古捏にソヽ注ぐデジマ出島のカド角(元史トルベルノ カハギジ禿律別兒 河岸、抄兀兒の傳クラン エルギ忽蘭 也兒吉、赤き崖、卽ち赤壁)にて、ヂヤムカ札木合をソコ其處にグル カン古兒 罕(普き君、すめらぎ。合木渾 罕に同じ。親征錄グル カガン局兒 可汗、元史グル ハン局兒 罕)にイタヾ戴きたり。グル カン古兒 罕にイタヾ戴くと、チンギス カガン成吉思 合罕 ワンカン王罕 フタリ二人のトコロ處にシユツバ出馬せんとイ云ひア合へり。シユツバ出馬せんとイ云ひア合へるを、
ゴロラス豁囉剌思のゴリダイ豁哩歹(親征錄ホリタイ火力台)は、チンギス カガン成吉思 合罕にグレルグ古咧勒古にヲ居るトコロ處にコ此のシラセ報吿をイタ致してヤ遣りき。このシラセ報吿にコ來らるゝと、チンギス カガン成吉思 合罕は、ワンカン王罕にこのシラセ報吿をイタ致してヤ遣りたれ[133]ば、ワンカン王罕は、シラセ報吿をイタ致さるゝと、イクサ軍をオコ起してイソ急ぎチンギス カガン成吉思 合罕のトコロ處にワンカン王罕 イタ到りてキ來ぬ。
§142(04:32:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ワンカン王罕にコ來らるゝと、チンギス カガン成吉思 合罕 ワンカン王罕 フタリ二人 ヒト一つになりて、ヂヤムカ札木合のムカ迎へにシユツバ出馬せんとイ云ひア合ひて、ケルレン ガハ客魯嗹 河にシタガ沿ひシユツバ出馬するにチンギス カガン成吉思 合罕はアルタン阿勒壇、クチヤル忽察兒、ダリタイ荅哩台 ミタリ三人をセンポウ先鋒にユ行かしめたり。ワンカン王罕は、サングン桑昆(王罕の子。親征錄 元史 朮赤台の傳セングン鮮昆)、ヂヤカガンブ札合敢不〈[#「札合敢不」は底本では「札合敢木」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§142(04:33:03)の漢︀字音訳「札合敢不」に倣い修正]〉、ビルゲ ベキ必勒格 別乞 ミタリ三人をセンポウ先鋒にユ行かしめたり。このセンポウ先鋒よりマヘ前へマタ又 モノミ斥候をヤ遣るに、エネグン クイレト額捏堅 歸列禿に(親征錄ネゲン クイント捏干 貴因都︀捏の上 額の字を脫し、列は因と誤れり。)ヒトクミ一坐のモノミ斥候をハナ放ちたり。ソレ其のカナタ彼方 チエクチエル徹克徹兒(卷一 卷二の扯克徹兒。親征錄チエチエル ザン徹徹兒 山また徹兒山)にヒトクミ一坐のモノミ斥候をハナ放たしめたり。ソレ其のカナタ彼方 チクルク赤忽兒忽(親征錄チフルク ザン赤忽兒黑 山)にヒトクミ一坐のモノミ斥候をハナ放たしめたり。ワレラ我等のセンポウ先鋒 アルタン阿勒壇、クチヤル忽察兒、サングン桑昆 ラ等、ウトキヤ兀惕乞牙にイタ到りて、ゲバ下馬せんとイ言ひア合ひヲ居るトキ時、チクルク赤忽兒忽にハナ放てるモノミ斥候よりヒト人 ハシ走りてキ來て「テキ敵 キ來ぬ」とイ云ふシラセ報吿をオク送りキ來ぬ。そのシラセ報吿 ク來ると、ゲバ下馬せず、テキ敵のムカ迎へに(敵を迎へて)シラセ報吿をト取らん(偵察せん)とて、ユ行きてチカ近づきて、シラセ報吿をト取り(偵察し)て、ソナヘ備ありやとサグ探れば、ヂヤムカ札木合のセンポウ先鋒は、モンゴル忙豁勒よりアウチユ バアトル阿兀出 把阿禿兒、ナイマン乃蠻のブイルク カン不亦嚕黑 罕、メルキト篾兒乞惕のトクトア ベキ脫黑脫阿 別乞のコ子 クト忽禿、オイラト斡亦喇惕のクドカ ベキ忽都︀合 別乞、このヨタリ四人、ヂヤムカ札木合のセンポウ先鋒にユ行きけり。ワレラ我等のセンポウ先鋒は、カレラ彼等のトコロ處にヨ呼び[134]ア合ひてサケ叫びて、クレ晩になられて、「あすタヽカ戰はん」とイ言ひて、シリゾ退きてタイグン大軍にア合ひヤド宿れり。
§143(04:35:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
アス明日 ユ行かしめて、チカ近づきてコイテン闊亦田(親征錄 元史ケイタン闕亦壇)にタイヂン對陣して、クダ下りつノボ上りつイド挑みア合ひセイゾロヘ勢揃しア合ひてヲ居るトキ時、カレラ彼等、ブイルク カン不亦嚕黑 罕、クドカ忽都︀合 フタリ二人、マジナヒ呪(蒙語ヂヤダ札荅)をシ知りてヲ居りき。マジナヒ呪したるに、アラシ風雨(蒙語ヂヤダ札荅、呪ひて起したる風雨)ヒルガヘ翻りて、カレラ彼等のウヘ上にアラシ風雨となりき。カレラ彼等 ユ行くアタ能はずしてミゾ溝のウチ裏にタフ倒るゝと、「アマツカミ上帝にメグ愛まれざりき、ワレラ我等」とイ言ひア合ひてツイ潰えけり。(札荅の事は、輟耕錄 卷四 に「往往見㆓蒙古人之禱㆑雨者︀㆒、惟取㆓淨水一盆㆒、浸㆓石子數枚㆒而已。其大者︀若㆓雞卵㆒、小者︀不㆑等。然後默持㆓密呪㆒、將㆓石子㆒淘漉玩弄。如㆑此良久、輒有㆑雨。石子、名曰㆓鮓荅㆒、乃走獸腹中所產。獨牛馬者︀最妙。恐亦是牛黃狗寶之屬耳。」金幼孜の北征錄に「永樂八年五月二十八日、發㆓雙淸源㆒、午至㆑河、縛㆑筏渡㆑水。得㆑一木板、上有㆓虜︀字㆒。譯史讀㆑之、乃祈︀㆑雨之言也。虜︀語謂㆓之札達㆒、華言云㆑詛㆓風雨㆒。蓋虜︀中有㆓此術㆒也。」東華錄に載せたる康熙 五十六年の勅喩に「書册所載、有㆓所語雷斧雷楔㆒。大約得㆑自㆓深林㆒者︀皆石、得㆑自㆓平原㆒者︀皆銅。朕所得最多。將㆓小石一塊㆒、置㆓於泉水㆒攪㆑之、卽可㆑祈︀㆑雨。蒙語謂㆓之査達齊㆒、書冊則曰㆓資達㆒也。」方觀承の松溪章詩の注に「蒙古西域祈︀㆑雨、以㆓楂達石㆒浸㆓水中㆒呪㆑之、輒驗。楂達生㆓駝羊腹中㆒。圓者︀如㆑卵、扁者︀如㆓虎脛㆒。在㆑腎以㆓鸚鵡嘴㆒者︀良、色有㆓黃白㆒。駝羊有㆑此、則漸羸瘁。生剖得者︀尤靈」などあり。この迷信は、古に起りて今も變はらずにありと見ゆ。)
§144(04:36:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ナイマン乃蠻のブイルク カン不亦嚕黑 罕は、アルタイ ザン阿勒台 山のマヘ前なるウルクタク兀魯黑塔黑(親征錄ウルタ ザン兀魯塔 山)をサ指し、ハナ離れウゴ動きけり。(阿勒台 山は、古の金山、淸 一統志の阿爾泰 山にして、綿亙 二千餘里、その最大幹は、烏布薩 諾爾の西北に在り。淸露 兩國の界をなし、科布多 城の北に當れり。古出兀惕 乃蠻の王庭のありし兀魯黑塔黑の地は、阿勒台 山の前 卽ち南に在りと云へば、卽ち今の科布多 地方なるべし。)メルキト篾兒乞惕のトクトア脫黑脫阿のコ子 クト忽禿は、セレンゲ ガハ薛涼格 河をサ指しウゴ動きけり。オイラト斡亦喇惕のクドカ ベキ忽都︀合 別乞は、ハヤシ林をアラソ爭ひ、シスギス失思吉思をサ指しウゴ動きけり。タイチウト泰赤兀惕のアウチユ バアトル阿兀出 巴阿禿兒[135]はオナン ガハ斡難︀ 河をサ指しウゴ動きけり。ヂヤムカ札木合は、オノレ己をキミ君にイタヾ戴きたるタミ民をトラ虜︀ふると、エルグネ ガハ額兒古捏 河にシタガ沿ひヂヤムカ札木合はカヘ回りウゴ動きけり。カレラ彼等をかくツイ潰やして、ワンカン王罕は、エルグネ ガハ額兒古捏 河にシタガ沿ひヂヤムカ札木合をオ追ひたり。(この時、札木合は、蓋 王罕に降れり。)
チンギス カン成吉思 汗のタイチウト泰赤兀惕 追撃
チンギス カガン成吉思 合罕は、オナン ガハ斡難︀ 河のトコロ處にタイチウト泰赤兀惕のアウチユ バアトル阿兀出 巴阿禿兒をオ追ひたり。アウチユ バアトル阿兀出 巴阿禿兒は、そのブラク部落のトコロ處にイタ到ると、ブシウ部眾をイソ急がしウゴ動かして、アウチユ バアトル阿兀出 巴阿禿兒、ゴドン オルチヤン豁敦 斡兒長[ラ等の]タイチウト泰赤兀惕は、オナン ガハ斡難︀ 河のかなたのホトリ邊にあまたのタテ楯(蒙語トラス禿剌思、明譯 方牌)もてるイクサビト軍士をトヽノ整へて、タヽカ戰はんとてトヽノ整へてタ立ちけり。チンギス カガン成吉思 合罕 イタ到ると、タイチウト泰赤兀惕とタヽカ戰へり。スコブ頗るカヘ返すカヘ返すタヽカ戰ひて、クレ晩になられて、そのタヽカ戰へるトコロ地にムカ抗ひ合ひてヤド宿れり。ブシウ部眾もイソ急ぎてキ來てマタ又そこにイクサビト軍士どもとヒト一つにダン團をなしてダン宿りア合へり。
§145(04:38:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チンギス カン成吉思 汗の重傷をヂエルメ者︀勒篾の看護
チンギス カガン成吉思 合罕は、そのタヽカヒ戰ひのナカ中にケイミヤク頸脈をキズツ傷けられて、チ血をトヾ止むれどもトヾ止まらず、ナヤ惱まさるゝトキ時、ヒ日 オ落ちて、すぐソコ其處にムカ抗ひア合ひてゲバ下馬して、フサ塞がれるチ血をヂエルメ者︀勒篾 ス吮ひス吮ひクチ口をチ血まみれにして、ヂエルメ者︀勒篾はホカ他のヒト人にタヨ賴らず、マモ守りア合ひてヰ居てヨハ夜半になるまでフサ塞がれるチ血をクチ口にミ滿たしノ嚥みてはハ吐きて、ヨハ夜半をス過ぐれば、チンギス カガン成吉思 合罕 コヽロ心 サ醒めてイ言はく「チ血 カワ乾きてシマ了へり。ノド喉 カワ渇けり、ワレ我」とイ云へり。
そこよりヂエルメ者︀勒篾は、バウ帽 クツ靴 ウハギ上衣 シタギ下衣 スベ都︀てをヌ脫ぎて、タヾ只 フドシ褌ある[136]アカハダカ赤裸にて、ムカ抗ひア合ひてタ立てる(陣どれる)テキ敵のウチ內にハシ走りて、かなたにダン團をなせるタミ民のクルマ車にノボ上りて、ウマノチ馬乳をタヅ尋ねてエ得ずして[……。テキ敵は]イソ急げるトキ時、メウマ騍馬をチヽ乳 シボ擠らずにハナ放ちたるなりき。ウマノチ馬乳をエ得かねて、ヒト一つのオホイ大なるフタヲケ蓋桶のニウラク乳酪をそのクルマ車よりト取りてモタ擡げてキ來ぬ。そのアヒダ閒 ユ往くにもク來るにもヒト人にミ見られざりき。アマツカミ上帝はタヾ只 マモ護りタマ給ひたるぞ。ニウラク乳酪のフタヲケ蓋桶にあるをモ持ちキ來て、そのヂエルメ者︀勒篾 ミヅカ自らミヅ水をタヅ尋ねてモ持ちキ來て、ニウラク乳酪をテウガフ調合してカガン合罕にノ飮ませたり。ミ三たびヤス休みてノ飮みて、カガン合罕 イ言はく「ワ我がコヽロ心 マナコ眼 アカ明るくなれり」とイ云ひて、アクビ欠しオ起きてス坐わりつゝ、ヒ日 ア明けてアカ明るくなりてミ見れば、そのス坐われるマハリ周圍は、ヂエルメ者︀勒篾のス吮ひス吮ひフサ塞がれるチ血をハ吐きたるマハリ周圍は、ヒヂリコ泥濘となれりけり。チンギス カガン成吉思 合罕 ミ見てイ言はく「こはナニ何となれる。トホ遠くハ吐かばいかにありけん」とイ云へり。それよりヂエルメ者︀勒篾 イ言はく「ナムチ爾のナヤ惱まさるゝトキ時、トホ遠くサ去らばナムチ爾よりハナ離れんことをハク伯れて、イソ急ぎてノ嚥むをばノ嚥みて、ハ吐くをばハ吐きて、アワ遽ててワ我がハラ腹にもイク幾ばくかはイ入りぬ」とイ云へり。チンギス カガン成吉思 合罕 マタ又 イ言はく「ワ我がかくなりてフ臥しヲ居るホド程に、アカハダカ赤裸にてナン何ぞハシ走りてイ入りたる、ナンヂ汝。ト捕へられば、ワレ我をかくあるをツ吿げざらんや」とイ云へり。ヂエルメ者︀勒篾 イ言はく「ワ我がコヽロ心には、アカハダカ赤裸にてユ往きて、もしトラ捕へられば「ワレ我、[137]ナンヂラ汝等にトウ投ずるコヽロ心ありき。サト覺りてト捕へてコロ殺︀さんとて、ワ我がキモノ衣服 スベ都︀てをヌ脫ぎて、タヾ只 フドシ褌をヌ脫がざるに、タチマ忽ちノガ遁れて、ナンヂラ汝等のトコロ處にかくハ馳せてキ來ぬ、ワレ我」とイ言はん[カンガ考ヘ]なりき。ワレ我をマコト實となして、イフク衣服をワレ我にアタ與へてセワ世話するならん。ワレ我 ウマ馬にノ乘りてミ見つゝ、かゝるアヒダ閒にコ來ざることあらんや、ワレ我。しかオモ思ひて、カガン合罕のカワ渴きナヤ惱めるコヽロ心をイヤ愈さんとて、マナコ クロ眼 黑く(膽太く)かくオモ思ひてユ往きけり、ワレ我」とイ云へり。
チンギス カガン成吉思 合罕 イ言はく「イマ今 ナニ何をかイ云へる。マヘ前のヒ日 ミ三つのメルキト篾兒乞惕 キ來て、ブルカン ダケ不兒罕 獄をミ三たびメグ繞らしめたるトキ時、ワ我がイノチ命をヒト一たびモ持ちてイ出でたりき、ナンヂ汝。イマ マタ今 又 カワ乾きてあるチ血をクチ口にてス吮ひてワ我がイノチ命をヒラ開きたり、ナンヂ汝。マタ又 カワ渴きてナヤ惱みヲ居るトキ時、イノチ命をス棄てて、テキジン敵人のトコロ處にマナコ クロ眼 黑くイ入りて、ノミモノ飮物 タ足りてワ我がイノチ命をイ入らしめ(とりとめ)たり、ナンヂ汝。ナンヂ汝がこのミ三つのオン恩をワ我がコヽロ心のウチ內にソン存せん」とミコト勅ありき。
§146(04:45:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
テムヂン帖木眞をヨ喚べるカダアン合荅安
ヒ日 ア明けヲハ了れば、ムカ抗ひア合ひてヤド宿れるイクサビト軍士ども、ヨル夜 スナハ便ちツヒ潰えたりき。ダン團をなしたるタミ民は、ノガ逃るゝアタ能はずとて、ダン團をなしたるトコロ地よりウゴ動かざりき。ハシ走れるブシウ部眾をトヾ止めんとて、チンギス カガン成吉思 合罕は、ヤド宿れるトコロ地よりシユツバ出馬して、ハシ走るタミ民をトヾ止めつつユ行くトキ時、タウゲ峠のウヘ上にヒトリ一人のアカ紅きウハギ上衣のヲミナ婦人、「テムヂン帖木眞よ」とてオホゴヱ大聲にヨ喚び、ナ哭きつゝタ立てるを、チンギス カガン成吉思 合罕 ミヅカ自らキ聽[138]きて「いかなるヒト人のツマ妻にてかくヨ喚びたる」とト問はせにヒト人をヤ遣りぬ。そのヒト人 ユ往きてト問ひたれば、そのヲミナ婦人 イ言はく「ソルカン シラ鎖兒罕 失喇のムスメ女、ワレ我 カダアン合荅安とイ云ふもの。ワ我がヲツト夫をこゝにイクサビト軍士どもトラ拏へてコロ殺︀したり。オツト夫をコロ殺︀さるゝトキ時、テムヂン帖木眞を、ワ我がオツト夫をスク救ひタマ給へとて、サケ叫びてヨ喚びてナ哭きたり、ワレ我」とイ云へり。そのヒト人 キ來て、チンギス カガン成吉思 合罕にこのコトバ言をノ述ぶれば、チンギス カガン成吉思 合罕このイ言をキ聽くと、ウマ馬をハシ走らしてイタ到りて、チンギス カガン成吉思 合罕は、カダアン合荅安のトコロ處にクダ下りてイダ抱きア合へり。カレ彼のヲツト夫をばワレラ我等のイクサビト軍士どもサキ生にコロ殺︀したりき。かのタミ民をヒキモド引戻すと、チンギス カガン成吉思 合罕のタイグン大軍は、すぐソコ其處にゲバ下馬してヤド宿れり。カダアン合荅安をヨ召びてコ來させてカタハラ傍にス坐ゑたり。
オク後れて來ぬるソルカン シラ鎖兒罕 失喇
ア明くるヒ日 ソルカン シラ鎖兒罕 失喇、ヂエベ者︀別(親征錄 元史ヂエベ哲別、元史また遮別、折不、哲伯、只別、者︀必、闍別、柘柏など)フタリ二人、[スナハ卽ち]タイチウト泰赤兀惕のトドゲ脫朶格のケニン家人なるそのフタリ二人もキ來ぬ。チンギス カガン成吉思 合罕は、ソルカン シラ鎖兒罕 失喇にイ言へらく「クビ頸古主渾のウヘ上のオモ重坤都︀きキ木をチ地闊薛兒にス去てさせたる、エリ衣領札合のウヘ上のカシ枷札兒必牙勒のム木をマヌガ免札亦剌兀勒れさせたるナンヂラ汝等 オヤコ父子どものオン恩ありしぞ、ナンヂラ汝等。いかでかオク後れたる、ナンヂラ汝等」とイ云へり。ソルカン シラ鎖兒罕 失喇 イ言はく「ワレ我 コヽロ心にマノアタリ タヨリ見在 倚仗にオモ思ひてヲ居りき。いかんぞイソ急がん、ワレ我。「イソ急ぎてサキ先にコ來ば、ワ我がタイチウト泰赤兀惕のクワンニン官人 ダチ等、ワ我がノコ殘れるツマコ妻子 バグン馬羣 リヤウシヨク糧食をハヒ灰のゴト如くハイメツ廢滅せん、カレラ彼等」とイ云ひてイソ急がず、イマ今 カガン合罕のトコロ處にア合はんとオヒカ追掛けてキ來ぬ、[139]ワレラ我等」とイ云へり。カタ語りヲ了ふれば、ヨ善しとイ云へり。
§147(04:49:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 チンギス カガン成吉思 合罕 イ言はく「コイテン闊亦田にタイヂン對陣してイド挑みア合ひセイゾロヘ勢揃しア合ひてヲ居るトキ時、カ彼のミネ嶺のウヘ上よりヤ箭 キ來て、ワ我がタヽカ戰ふクチ口 シロ白きキイロノウマ黃馬のアゴボネ鎖子骨をヲ折るべくタレ誰かイ射ける、ヤマ山のウヘ上より」とイ云へり。そのコトバ言につきヂエベ者︀別 イ言はく「ヤマ山のウヘ上よりワレ我 イ射けり。イマ今 カガン合罕にシ死なしめられば、テノヒラ掌のゴト如きチ地をケガ汙してノコ殘らん。オンシ恩賜せられば、カガン合罕のマヘ前に、フカ深徹額勒きミヅ水兀孫をヨコ橫豁黑脫嚕ぎり、ヒカ光超堅るイシ石赤剌溫をクダ碎潮嚕くべくツ衝きてアタ與へん。イタ到古兒れとイ云ふトコロ地にアヲイシ靑石闊闊古嚕をヤブ破客兀魯り、イ出合勒でよとイ云ふトコロ地にクロイシ黑石合喇古嚕をサ裂含合嚕くべくツ衝きてアタ與へん」とイ云へり。チンギス カガン成吉思 合罕 イ言はく「テキ敵となりたるヒト人は、コロ殺︀したることを、テキタイ敵對したることを、ミ身をカク隱して、ハナシ話をイ諱みてオソ怕るゝなり。このコト事こそはとイ云へば、カヘツ却てコロ殺︀したることを、テキタイ敵對したることをイ諱まず、カヘツ却てツ吿げたり。トモ伴とすべきヒト人なり。」ヂルゴアダイ只兒豁阿歹とイ云ふナ名なりき。「ワ我がタヽカ戰ふクチ口 シロ白きキイロノウマ黃馬をアゴボネ鎖子骨をイ射たるユヱ故に、ヂエベ者︀別とナ名づけて、タヽカ戰は[しめ]ん、カレ彼を」とて、ヂエベ者︀別とナ名づけて「ワ我がマヘ前にユ行け」とミコト勅ありき。(戰ふ口 白き黃馬、蒙語にヂエベレグ アマン チヤガン クラ者︀別列古 阿蠻 察罕 忽剌。者︀別列古は戰ふ、阿蠻は口、察罕は白き、忽剌は黃馬なり。者︀別列古 忽剌 卽ち戰馬を殺︀したる故に、戰馬に代りて働けとて者︀別と名を賜ひたるなり。然るを、明譯文に「者︀別、軍器︀之名也」とあるは、本文の意に非ざる上に、俗文譯の文體に似ず。後人のさかしらに加へたるものなるべし)ヂエベ者︀別、タイチウト泰赤兀惕よりキ來てトモ伴となれるコトノモト緣由かくあり。
成吉思 汗 實錄 卷の四 終り。
- ↑ 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート読み込みサイズが制限値を越えるので分冊化しています。
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