て赤膚アカハダにて行ユきたりき。かく脫ヌぎたるその赤膚アカハダの肩カタを、不哩 孛闊ブリ ボコ、環刀クワンタウにて劈サくべく斫キり(斫り劈き)けり。別勒古台ベルグタイかく斫キられたれども、何ナニともなさず爭アラソはず、血チを流ナガして行ユくを、成吉思 合罕チンギス カガン、木蔭コカゲに居ヰて、筵席エンセキの內ウチより見ミて、出イでて來キて言イはく「何ナンぞ かく爲ナされたりし、我等ワレラ」と云イへるに、別勒古台ベルグタイ 言イはく「傷キズは未イマダなりき。我ワが故ユヱに兄弟アニオトヽに中惡ナカワロく爲ナり合アはんや。我ワレ、差支サシツカへず。我ワレ、稍ヤヽ 好ヨくあり。兄弟アニオトヽに纔ワヅカに慣ナれ合アひ居ヲる時トキ、兄アニやめよ。暫シバラく立タちとまれ」と云イへり。
§132(04:10:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
成吉思 合罕チンギス カガンは、別勒古台ベルグタイかく勸スヽむれども肯キかず、木キの枝エダを折ヲるべく引ヒき(引き折り)て、皮桶カハヲケの撞乳棒カキマハシボウを抽ヌきだして執トりて、打ウち合アひて、主兒勤ヂユルキンに勝カちて、豁哩眞 合屯ゴリヂン カトン、忽兀兒臣 合屯クウルチン カトン 二女フタリを奪ウバひて取トれり。却カヘツて彼等カレラに「睦ムツび合アはん」と云イはれて、豁哩眞 合屯ゴリヂン カトン、忽兀兒臣 合屯クウルチン カトン 二女フタリを還カヘして、睦ムツび合アはんとて使ツカヒし合アひて居ヲる時トキに、乞塔惕キタトの民タミの阿勒壇 罕アルタン カン(金の章宗 皇帝)は、
完顏 襄カンガン ジヨウの塔塔兒タタル征伐
〈[#「完顏 襄」は底本では「完顏襄」で姓名の単語区切りなし。]〉塔塔兒タタルの篾古眞 薛无勒圖メグヂン セウルト(親征錄 元史篾兀眞 笑里徒メウヂン セウリト)等ラに、その命メイに從シタガはれず、王京 丞相ワンキン シヤウジヤウ(王金は、金の國姓なる完顏の轉。金史 列傳の內族 襄 卽ち 右丞相 完顏 襄)に「軍イクサを整トヽノへて勿ナ 踞踏タメラひそ、便スナハち」と言イひて遣ヤりき。(金史の紀傳を見るに、この役は、金の章宗 承安 元年 丙辰の歲にあり。我が後鳥羽︀ 天皇 建久 七年、宋の寧宗 慶元 二年、西紀 一一九六年、成吉思 汗 三十五歲の時なり。)「王京 丞相ワンキン シヤウジヤウは、篾古眞 薛兀勒圖メグヂン セウルトが頭カシラたる塔塔兒タタルを、兀勒札 河ウルヂヤ ガハ(金史 內族 襄の傳斡里札 河オリヂヤ ガハ、今の烏爾匝 河、また 烏爾載 河)に泝サカノボり、馬羣バグン 糧食リヤウシヨクごめに