て、
§128(04:02:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
その後ノチ 札木合ヂヤムカの弟オトヽ 台察兒タイチヤル(親征錄 元史禿台察兒トタイチヤル)は、札剌麻ヂヤラマ(山の名)の前マヘなる斡列該 不剌黑オレガイ ブラク(斡列該の泉。親征錄 元史玉律哥 泉ユルゲノ イヅミ)に住スめるに、我等ワレラの撒阿里 客額兒サアリ ケエルに居ヲる拙赤 荅兒馬剌ヂユチ ダルマラ(親征錄搠只 塔兒馬剌シユヂ タルマラ)、(元史 搠只)の馬羣バグンを盜ヌスみに往ユきけり。(
撒阿里 客額兒は、撒阿里の原にて、親征錄 元史に薩里 川とあり。薩里 河ともあるは、非なり河にはあらず、廣き谷なり。川なれば、谷の義にも用ふ。元史 明宗紀に據るに、天曆 二年 正月、和寧の北に卽位し、三月、潔堅 察罕の地に止まり、五月四日、斡耳罕 水(斡兒桓 河)の東に至り、二十三日、禿忽剌 河(土兀剌 河)の東に至り、六月 十五日、撒里 怯兒の地に至り、二十一日、闊朶傑 阿剌倫に至り、それより南に進みて上都︀に向へり。撒里 怯兒は、卽ち撒阿里 客額兒なり。闊朶傑 阿剌倫は、此書の末に見ゆる闊迭額 阿喇勒にして、客魯嗹 河の中洲なり。西より進みて、闊迭額 島より前に撒阿里 原に至れるを見れば、撒阿里 原は、客魯嗹河の上流の地なるべし。金幼孜の北征錄に「雙泉海︀、卽 撒里 怯兒。元 太祖︀ 發㆑跡之所、舊建㆓宮殿㆒。山川環繞、有㆓二海︀子㆒。西北有㆓三關 口㆒、通㆓飮馬河土拉河㆒」とあり、その宮殿は、卽ち太祖︀紀に薩里川 哈老徒の行宮とある處なれば、二海︀子の一つは、必ず哈老徒の海︀子、今の噶老台の池ならん。)台察兒タイチヤルは、拙赤 荅兒馬剌ヂユチ ダルマラの馬羣バグンを盜ヌスみて率ヰて去サりき。拙赤 荅兒馬剌ヂユチ ダルマラは、馬羣バグンを盜ヌスみて去サられて、從者︀トモビトどもに心コヽロ 臆オクせられて、拙赤 荅兒馬剌ヂユチ ダルマラのみ追オひて往ユきて、夜ヨルその馬羣バグンの邊ホトリに到イタりて、己オノが馬ウマの鬛タテガミの上ウヘに腹ハラにて伏フして到イタりて、台察兒タイチヤルの脊梁セボネを折ヲるべく射イて殺︀コロすと、馬羣バグンを率ヒキゐて來キぬ。
§129(04:03:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
「弟オトヽ 台察兒タイチヤルを殺︀コロされたり」とて札木合ヂヤムカが頭カシラとなれる札荅㘓ヂヤダランは、十三部ジフサンブ 伴トモなひて、三萬人サンマンニンとなりて、阿剌兀兀惕アラウウト(明譯文は阿剌兀惕)、土兒合兀惕トルカウト(二山の名。親征錄阿剌烏 禿剌烏アラウ トラウ 二山ニザン)に依ヨり越コえて、成吉思 合罕チンギス カガンの處トコロへ出馬シユツバして來キぬとて、亦乞咧思イキレスよ