れり」と云イひて、成吉思 合罕チンギス カガンは、主兒勤ヂユルキンの處トコロに出馬シユツバせり。主兒勤ヂユルキンを、客魯嗹ケルレンの闊朶額 阿喇勒コドエ アラルの朶羅安 孛勒荅兀惕ドロアン ボルダウトに居ヲる彼等カレラの民タミを虜︀トラへたり。(闊朶額 洲は、卷十五〈[#「卷十五」はママ。昭和18年復刻版も同じ。実際には底本の卷十二]〉に闊迭兀 阿喇勒とも闊迭額 阿喇勒ともあり。朶羅安は七つ、孛勒荅兀惕は孤山なる孛勒荅黑の複稱にして、七つ岡なり。親征錄朶欒 盤陀 山ドロン ボンダ サン。卷十五〈[#「卷十五」はママ。昭和18年復刻版も同じ。実際には底本の卷十二]〉の末に、朶羅安 孛勒荅黑とあり。撤阿里 原の東南に當れる客魯嗹の河中島の小山にして、後に成吉思 汗の大斡兒朶の設けられたる處なり。)撒察 別乞サチヤ ベキ、泰出タイチユ 二人フタリは、僅ワヅカに身ミを遁ノガれたり。
撒察サチヤ 泰出タイチユの捕り殺︀され
彼等カレラの後シリヘより襲オソひて、帖列格禿 阿馬撒兒テレゲト アマサルに(帖列格禿の口。親征錄 帖列徒 之 隘、元史 帖烈徒 之 隘。露西亞の地圖に、車臣汗の駐牧地より一度ほど南に當り、租里格圖と云ふ處ありて、內蒙古に往く路に當れるは、帖列格禿の轉なるに似たり。)馳ハせ至イタりて、撒察 別乞サチヤ ベキ、泰出タイチユ 二人フタリを拏トラへたり。拏トラへて、成吉思 合罕チンギス カガンは、撒察サチヤ、泰出タイチユ 二人フタリに言イへらく「前サキの日ヒ 我等ワレラは何ナニと言イひ合アひしか」と云イはれて、撒察サチヤ、泰出タイチユ 二人フタリ 言イはく「言イへる言コトバに我等ワレラは従シタガはざりき。我等ワレラの言コトバに從シタガはしめよ」と云イひて、その言コトバを知シらせて、任マカせ(頸を伸べ)て與アタへたり。彼等カレラの言コトバを知シらせられて、彼等カレラの言イに従シタガはしむべく片付カタヅけ(殺︀し)て、直スグに其處ソコに棄スてたり。(前日の言とは、成吉思 汗を立てたる時の盟の言を云へるなり。)
§137(04:21:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
札剌亦兒ヂヤライルの人 模合里ムカリ 等の降附
撒察サチヤ 泰出タイチユ 二人フタリを片付カタヅくると、回カヘりて來キて、主兒勤ヂユルキンの 民タミを動ウゴかする時トキ、札剌亦兒ヂヤライルの帖別格禿 伯顏テレゲト バヤン(帖別格禿の長者︀)の子コ 古溫兀阿グウングア(元史 木華黎の傳孔溫窟哇コンウンクワ)、赤剌溫 孩赤チラウン カイチ(元史 忙哥撒兒の傳赤老溫 愷赤チラウン カイチ)、者︀卜客ヂエブケ 三人ミタリは、その主兒勤ヂユルキンの處トコロに居ヲりき。古溫兀阿グウングアは、模合里ムカリ(親征錄 元史木華黎ムホアリ)、不合ブカ(蒙韃 備錄抹歌ムカ)なる二人フタリの子伴コヅれにて