成吉思汗実録/巻の十二-2
§274(12:26:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
チヨルマカン綽兒馬罕のバクタト巴黑塔惕征服
チヨルマカン ゴルチ綽兒馬罕 豁兒赤は、バクタト巴黑塔惕のタミ民をクダ降らせき。(多遜の史に據れば、「出兒馬昆は、珀兒沙 征伐の命を受け、三萬の兵を率ゐて、一二三〇年(太宗 二年)闊喇散に至れり。速勤壇 者︀剌列丁は、太祖︀ 凱旋の後、印度より客兒蠻を經て、亦思帕杭に入り、亦喇克 闊喇散 馬贊迭㘓を徇へ、合里發の領地を侵し、阿在兒拜展を取り、古兒只の軍を敗り、一二二六年(太祖︀ 二十一年)三月、その都︀ 提甫里思を取り、その十月 阿卜合實 部を襲ひて回り、翌年 八月 二十七日 蒙古の軍と亦思帕杭の近傍に戰ひて大敗せしが、蒙古の死傷も甚 多くして速に退けり。(倭勒甫は、この軍を指揮したるは、闊喇散の總督 成帖木兒なりと云へり。又 蒙古の速に退けるは、太祖︀の凶報 達したるが爲なりと云へれども、いかゞあらん。)者︀剌列丁は、二たび古兒只に逼り、高喀速 山 南北の諸︀部 聯合の兵を敗り、合里發 木思壇昔兒と和を講じ、珀兒沙 汗の封册を受けたり。一二二九年(太宗 元年)の末に、者︀剌列丁は客剌惕を圍み、翌年 四月 遂に落したれども、荅馬思庫思 嚕姆 阿列玻 抹速勒 篾鎖玻塔米亞 聯合の兵に擊破られて帖卜里自に回りたる時、出兒馬昆の軍 至れり。一二三一年(太宗 三年)阿兒㘓 阿在兒拜展 諸︀州に叛かれ、者︀剌列丁は、蒙古を禦ぐこと能はず、逃れて庫兒篤の山中に入り、土人に殺︀されたり。蒙古 人は、篾鎖玻塔米亞 額兒必勒 客剌惕の地を蹂躪するに、敢て抗するものなし。翌年 阿在兒拜展に入り、帖卜里自を降し、歲貢の額を定め、一二三五 一二三六の二年(太宗 七年 八年)の閒、復 額兒必勒に入り、阿兒㘓の甘札を取り、古兒只の諸︀城を侵し、一二三七年(太宗 九年)亦喇克 阿喇必に入り、巴固荅惕の兵に敗られ、翌年 再 亦喇克 阿喇必に入り、七千の敵を皆殺︀にせり。諸︀將 兵を分けて、古兒只に屬する諸︀部落、阿勒巴尼亞 大阿兒篾尼亞の諸︀城を取り、一二三九年(太宗 十一年)裏海︀ 黑海︀の閒 全境 皆 定まり、翌年 出兒馬昆 卒し、副帥 拜住その任を繼ぎたり」出兒馬昆 卽 綽兒馬罕は、一たびは巴固荅惕の軍を擊破りたれども、その國を平げたるに非ず。その國の亡びたるは、旭烈兀 西征の時にして、憲宗 八年の事なり。祕史に 綽兒馬罕は巴黑塔惕の民を降せりと云へるは、珀兒沙 又は西 亞細亞の諸︀部を平げたるを指せるなり。)
そのチヨ地好くモノヨ物好しとイ云はれたりとシ知りて、(常德の西使記に曰く「報達 國、富庶爲㆓西域冠㆒、宮殿皆沈檀烏木、壁白黑玉。產㆘大珠曰㆓太歲彈㆒、蘭石、瑟瑟、金剛鑽之類︀㆖、帶有㆘値㆓千金㆒者︀㆖。人物頗秀㆓於諸︀國㆒、所產馬名㆓脫必察㆒。」)オゴダイ カガン斡歌歹 合罕 ミコト勅あるには「チヨルマカン ゴルチ綽兒馬罕 豁兒赤をすぐそこにタンマ探馬にス坐ゑて(探馬は、探馬臣の語原にして、探馬にすうるは、探馬臣とすることなり。故に明譯には「就令㆘綽兒馬罕 等、爲㆓探馬赤 官㆒、畱鎭㆗其地㆖」と譯せり。等の字は、衍なり。原文にはなし。蓋 探馬は、鎭戌の義にして、探馬臣は鎭戌の官、探馬赤 軍は鎭戌の兵なり。元史 兵[371]志に「探馬赤 軍、則諸︀部族也」とあるは、鎭戌の兵に諸︀部族を用ひたるが故に、しか云へるなり。趙翼の二十二史 劄記に「探馬赤、軍名、謂㆓兵之矯捷者︀㆒」とあるは、恐らくは探馬の原義にあらじ。)キ黃なるコガネ金、キ黃ばめるコガネ金あるナクト納忽惕、(納忽惕は器︀物か。明本 旁譯に渾金とあれどいかゞ)キンラン金襴、ソウキンラン總金襴、シラタマ眞珠、オホタマ東珠、クビナガ頸長くアシタカ脚高きトビチヤウト脫必察兀惕(西使記に見えたる脫必察の複稱なり。明譯に「西馬毎」とある毎の字は、複稱の語尾 兀惕を譯せるなり。卜咧惕施乃迭兒 曰く「この書方は、西 亞細亞にて今も大に貴ばるゝ謂はゆる禿兒科曼 馬の種類︀にあてはまれり。第十五 世紀の委古兒 支那 字引に、脫必察は大西馬と譯せられたり。」沙兀の禿兒奇 語の語彙に「脫魄察克=頸 長き禿兒科曼 馬」とあり。)グリン エレウト古舌零 額劣兀惕、ダウシ キニドト荅兀昔 乞你都︀惕〈[#「荅兀昔 乞你都︀惕」はママ。「元朝秘史」§274(12:27:02)の漢︀字音訳は「荅兀昔 乞赤都︀惕(ダウシ キチドト)」]〉、(二つともに明本 旁譯に駝名とあり。西南 亞細亞の特產なる獨峯駝の二種の突︀兒克 語ならんか。考ふべし。)ニツ馱くるガチドト ラオサスト合赤都︀惕 老撒速惕を(明本 合赤都︀惕の旁譯 騾名、老撒速惕の旁譯 騾とあれば、合赤都︀惕と稱する騾馬と讀みたるなり。これも突︀兒克 語か考ふべし。)トシ年ごとにオク送らしめておこせヲ居れ」とノリタマ宣へり。
スベエタイ バアトル速別額台 巴阿禿兒のゴヱン後援にシユツセイ出征したるバト巴禿 ブリ不里 グユク古余克 モンゲ蒙格をハジメ首とせるあまたのミコダチ諸︀王は、カングリン康鄰をキブチヤウト乞卜察兀惕をバヂギト巴只吉惕をヲサ收めて、エヂル額只勒(前卷の亦的勒、また上文の阿的勒)ヂヤヤク札牙黑[なるミヅ水あるカハ河をワタ渡り]、メゲト篾格惕(上文の篾客惕)のシロ城をヤブ破りて、オルスト斡嚕速惕をコロ殺︀して、ツ盡くるまでカス掠めたり。(斡嚕速惕の嚕を前卷も上文も魯と書けるは誤なり。)アスト セスト阿速惕 薛速惕(前卷の撒速惕)ボラル孛剌兒(上文の不剌兒)マン ケルマン キワ蠻 客兒蠻 乞瓦(前卷の乞瓦 綿 客見綿、上文の綿 客兒綿 客亦別)をハジメ首とせるシロ城どものタミ民をトラ虜︀へて、クダ降らしめて、(明譯タヾ惟 アスト阿速惕 ラノ シロノ タミハ等 城 百姓、トラヘ ウルハ トラヘテ虜︀ 得 虜︀了、クダシ ウルハ クダシテ歸附 得 歸附了、)ダルガチン荅嚕合臣 タンマチン探馬臣をオ置きてカヘ回れり。(巴禿の西征は、本書の記事 甚 簡略なる上に、親征錄には一語もなく、
元史 太宗紀には「七年乙未春、遣㆓諸︀王 拔都︀ 及皇子 貴由 皇姪 蒙哥㆒征㆓西域㆒。」「九年丁酉春、蒙哥 征㆓欽察 部㆒破㆑之、擒㆓其酋 八赤蠻㆒。」「十一年己亥冬十一月、蒙哥 率㆑師圍㆓阿速 蔑怯思 城㆒、閱㆓三月㆒拔㆑之。」「十二年庚子春、皇子 貴由 克㆓西域未㆑下諸︀部㆒、遣㆑使奏㆑捷。冬十二月、詔㆓貴由㆒班㆑師」とあるのみにして、その外 定宗 憲宗 本紀 速不台 昔里鈐部 等の傳に零細の叙事あるに過ぎざるに
主吠尼 喇失惕の舊史 含篾兒の金帳史 倭勒甫の蒙古史 喀喇姆津の嚕西亞史などに由りて、今はその事蹟 委しく明かにな[372]りたれば、こゝに卜咧惕施乃迭兒に據りてその事蹟の槪略を補ひ述べん。「抹哈篾惕 敎徒の記述に依れば(多遜 第二 第六一九頁 以下)蒙古の軍は、一二三六年の全夏の閒 進みて、秋には不勒噶兒の國の近傍、佛勒噶 河の畔なる拙赤の子どもの斡兒朶に達せり。その冬、蒙古の諸︀王は、阿昔 不勒噶兒の國を擊たしめに速不台を遣りき。速不台は、不勒噶兒の都︀に進みて攻め落し、その民を屠り又は奴隷として引き去れり。その時 酋長 二人 自ら來て諸︀王に降り、赦されしが、その後 叛きて、速不台は再 平げに遣られたり。嚕西亞の史(喀喇姆津 第三 第二七〇頁)には、巴提(卽 巴禿)は、一二三六年の冬、佛勒噶 河に近く、不勒噶兒の都︀より遠からざる處に駐冬し、その都︀は、一二三七年の秋に破壞せられたりとあり。喇失惕に依るに(多遜 二、六二三)、蒙古の諸︀王は、軍議の後、その軍を擴げて、圍獵の時の如く廣がりて進まんと決したり。曼古は、海︀(裏海︀)に近く左軍を率ゐ、乞魄察克の豪酋の一人なる巴出曼と阿薛の民に屬する喀察兒 斡果剌とを擒にせり。巴出曼は、久しく追兵を避けて、盜賊 逃民の軍を聚め、常に蒙古の軍を苦めて、時時 掠奪を行ひたりき。その住所を屢 變へて阿提勒 河の畔の林に身を匿せる故に、それを捕ふること難︀かりき。曼古は、小船 二百艘を作らしめて、一艘に百人づゝ載せ、弟 不者︀克と二人、各 船隊の半を以て兩岸の林を捜したり。ある處にて蒙古 人は新に棄てたる陣營の遺物を見出し、一人の老婦は、巴出曼の島に入りたることを吿げたり。その處に舟一艘も無かりし故に、巴出曼を追ふこと能はざる折しも、俄に强風起りて水を吹き去れり。蒙古の軍は、河を徒渉りして、巴出曼を不意に捕へ、その眾を溺らし又は殺︀せり。巴出曼は、曼古の手に殺︀されんことを願ひたれども、曼古は、不者︀克に命じて斬らしめたり。阿薛の酋長の一人なる喀察兒 斡果剌も斬られたり。蒙古の諸︀王は、一二三七年の夏をその國にて過し、その年に巴禿 斡兒荅 巴兒孩 喀丹 不哩 庫勒勘は、孛克沙 不兒塔思を攻めき。」巴兒孩は、喇失惕に依るに巴禿の弟なり。普剌諾 喀兒闢尼は、別兒喀と云ひ、元史 憲宗紀には西方 諸︀王 別兒哥とあり。孛克沙は、蓋 抹克沙にして、今 佛勒噶 河の中流の西に住める部族にその名あり。嚕卜嚕克は、額提里亞 河の邊なる抹克薛勒と云ふ民のことを言へり。不兒塔思は、馬速的 亦思塔黑哩の巴兒塔思 別兒塔思にて、第十 世紀には、阿帖勒 河の畔、合咱兒の鄰に住めり。
巴出曼 擒殺︀の事は憲宗紀に「嘗攻㆓欽察 部㆒、其酋 八赤蠻 逃㆓于海︀島㆒。帝聞、亟進㆑師至㆓其地㆒。適大風刮㆓海︀水㆒去、其淺可㆑渡。帝喜曰「此天開㆑道與㆑我也。」遂進屠㆓其眾㆒、擒㆓八赤蠻㆒、命㆑之跪。八赤蠻 曰「我爲㆓一國主㆒、豈苟求㆑生。且身非㆑駝、何以跪爲。」乃命囚㆑之。八赤蠻 謂㆓守者︀㆒曰「我之竄㆓入于海︀㆒、與㆑魚何異。然終見㆑擒、天也。今水廻期且㆑至、軍宜㆓早還㆒。」帝聞㆑之、卽班㆑師、而水已至、後軍有㆓浮渡者︀㆒」とあり。速不台の傳には「乙未(太宗 七年)、太宗命㆓諸︀王 拔都︀㆒、西征㆓八赤蠻㆒、且曰「聞㆔八赤蠻 有㆓膽氣㆒。速不台 亦有㆓膽勇㆒、可㆓以勝㆒㆑之。」遂命爲㆓先鋒㆒、與㆓八赤蠻㆒戰。繼又令㆑統㆓大軍㆒、遂虜︀㆓八赤蠻 妻子於寬 田吉思 海︀㆒。八赤蠻 聞㆓速不台 至㆒大懼、逃入㆓海︀中㆒」とありて、擒殺︀と云はず。蓋 八赤蠻を先に破りたるは速不台にて、後に擒にしたるは憲宗ならん。昔里鈐部の傳に「乙未、定宗憲宗皆以㆓親王㆒、與㆓速卜帶㆒征㆓西域㆒、明年啓㆑行、鈐部 亦在㆓行中㆒。又明年至㆓寬 田吉思 海︀㆒」とあるは、年序 正に合へり。
「喀喇姆津の嚕西亞 史(三、二七二以下)に依れば〈[#「依れば」は底本では「依れは」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉、不勒噶兒の都︀を破壞せる後、塔塔兒 人(卽 蒙古 人)は、一二三七年の末に、嚕西亞の境に入り、普舌欒思克 別勒果囉惕 等の城を取りて、哩牙贊に至り、十二月 二十一日に攻め落して、その民を屠り、その君 裕哩は家族と共に殺︀されたり。喇失惕の史に「一二三八年の秋、[373]庫裕克 曼古 庫勒勘 不哩は、顏の城を圍みて三日にて取れり」とある顏は、哩牙贊を云へるならん。裕哩の弟 囉曼の守れる科羅姆納の城も、哩牙贊と同じ禍︀に罹れり。喇失惕の史に「亦客の城を攻むる時、庫勒勘 傷つけられて死せり。遂にその城を破りて、嚕西亞の君長の一人なる兀兒曼を殺︀せり」とあり。亦客の城は、斡喀 河の畔にある科羅姆納を云ひ、兀兒曼は、囉曼を云へるならん。兀剌的米兒の大公 裕哩 第二の子 兀剌的米兒は、抹思克哇を守り居たりしが、蒙古に破られ、擒となれり。主吠尼の史に抹闊思の城攻の事あるを、多遜は抹思科に當てたり。又 喇失惕の史に「木思喀甫の城は、五日 攻められて落ち、額米兒 兀來 提木兒 殺︀されたり」とあるは、兀剌的米兒の擒となれるを誤れるなり。大公 裕哩は、その子 兀薛佛羅惕 木思提思剌甫を畱めて兀剌的米兒を守らしめ、兵を率ゐて昔提 河(抹羅噶 河の支河)の濱に陣して、その弟 奇額甫の牙囉思剌甫 珀咧思剌甫勒の思委阿脫思剌甫の約束せる援兵を待てり。一二三八年 二月 二日、蒙古人は、兀剌的米兒を圍み、八日に城 破れ、住民は屠られ、大公の一家は皆 死せり。喇失惕の史に「大 裕兒奇の城を取るに八日かゝれり」とあるは、大公 裕哩の都︀なる兀剌的米兒を云へるならん。その後 蒙古の軍は、數隊に分れて、諸︀方に動き、城を破り邑を荒して、殺︀掠を肆にせり。大公 裕哩は、猶 昔提 河の濱に居て、三月 四日に攻められ、その兵の多數と共に殺︀されたり。巴提の軍は、諾物果囉惕に向ひしが、一百 嚕里 計の處に到りし時、遽に回りて科在勒思克に向へり。その城の民勇にして善く禦ぎ、七週にて始めて降れり。巴提は、その民を屠りて、その城を卯 巴里克(惡き城)と名づけたり。この後 豪古人は、玻羅物次(卽 奇魄察克)の國に還り、大公 裕哩の弟 奇額甫の君 牙囉思剌甫は、兀剌的米兒に往き、大公の位を襲ぎ、徹兒尼果甫の米海︀勒は、奇額甫の君となれり。」
憲宗紀に「復 與㆓諸︀王 拔都︀㆒、征㆓斡羅思 部㆒、至㆓也烈贊 城㆒、躬自搏戰破㆑之」とあるは、哩牙贊の戰を云へるなり。
シリ ガンボ昔里鈐部の傳に鈐部 從諸︀王 拔都︀ 征 兀魯思 至 也里替 城大戰七日拔之とあり 替は賛の誤なり
速不台の傳に「辛丑、太宗命㆓諸︀王 拔都︀等㆒、討㆓兀魯思 部主 也烈班㆒、爲㆓其所敗㆒、圍㆓禿里思哥 城㆒、不㆑克。拔都︀ 奏遣㆓速不台㆒督㆑戰。速不台 選㆓哈必赤 軍 怯憐口 等五十人㆒赴㆑之、一戰獲㆓也烈班㆒、進攻㆓禿里思哥 城㆒、三日克㆑之、盡取㆓兀魯思 所部㆒而還」とあり。也烈班は、嚕西亞 諸︀侯の宗主なる裕哩 大公を云へるに似たり。洪鈞 曰く「俄史謂㆓錫第 河之戰、蒙古 軍亦受㆒㆑創、或係㆓先敗後勝㆒。」禿里思哥は、科在勒思克の訛なるべし。但 此等の戰は、喇失惕に依れば一二三七年 卽 太宗 十年、喀喇姆津に依れば一二三八年 卽 太宗 十一年の事なるを、傳に辛丑(太宗 十三年)と云へるは、誤れり。
「〈[#直前の「開き鍵括弧」はママ。昭和18年復刻版も同じ。ここではなく後続の「一二三八年の秋」の直前にあるべき]〉喇失惕に依れば、一二三八年の秋、□□ 喀丹は、昔兒喀思を征し、その冬 酋長 禿勘(か)を殺︀せり。失班 不者︀克 不哩は、臣察克の一部なる篾哩姆の國を侵せり。巴兒孩は、奇魄察克を敗り、篾克哩惕の酋長を擒にせり。その冬、□□は、(蓋 曼古ならん。)不理 喀丹と共に曼噶思の(米客思とも讀まるゝ)城を攻めて、六週の圍の後に取れり。一二三九年の春、庫克歹は提木兒 喀哈里亞(鐵門)を拔き、近傍の諸︀國を取れり。」曼噶思また米客思の攻擊の事は、元史に屢 見えたり。太宗紀に「十一年己亥冬十一月、蒙哥率㆑師圍㆓阿速 篾怯思 城㆒、閱㆓三月㆒拔㆑之」とあるは、春を冬とせり。昔里鈐部の傳に「己亥冬十一月、至㆓阿速 篾怯思 城㆒、負㆑固久不㆑下。明年春正月、鈐部 率㆓敢死士十人㆒、躡㆓雲梯㆒先登、俘㆓十一人㆒、大呼曰「城破矣。」眾蟻附而上、遂拔㆑之」とあるは、甚 委し。但 落城の時序は、集史より一年後れたり。土土哈の傳に、父 班都︀察「從征㆓麥怯斯㆒有㆑功、」拔都︀兒の傳に、兄 馬塔兒沙「從㆓憲宗㆒征㆓麥各思 城㆒、爲㆓前鋒將㆒、身中㆓二矢㆒、奮戰拔㆓其城㆒」などあり。
「〈[#直前の「開き鍵括弧」はママ。昭和18年復刻版も同じ。ここではなく後続の「巴提は」の直前にあるべき]〉嚕西亞の史に依れば(喀喇姆津 四六頁 以下)、巴提は、玻羅物次を平げたる後、再 嚕西亞を[374]侵し、大公の國を嚇し、俄に南に轉じて珀咧思剌甫勒を破り、徹兒尼果甫を破り、奇額甫に使を遣り降服を勸めたるに、その使 殺︀されたり。蒙古人 近づける時、米海︀勒は洪噶哩に逃れ、驍將 篤米惕哩 守禦の任に當れり。蒙古の大軍は、四方より圍み攻めて、遂に奇額甫の大城を拔き、篤米惕哩を擒にせり。巴提は、篤米惕哩を殺︀さずして伴へり。篤米惕哩は、巴提に勸めて、富饒なる洪噶哩に攻め入らしめて、嚕西亞の蹂躪を緩めたりと云はる。喇失惕に依れば、諸︀王 庫裕克 曼古は、斡歌台 汗より歸朝の命を受けて、一二三九年の秋に軍を去り、巴禿の王は、その兄弟 等と、諸︀王 喀丹 不哩 不者︀克と共に、嚕西亞 人と喀喇 喀勒帕克(黑帽)人とを征伐し、九日にて民格兒勘の大城を、その後 兀剌的米兒の諸︀城を攻め取れり。到る處に地を荒し城を破れる後、軍を合せて兀剌的米兒の子 兀徹思剌甫の城を攻めて三日に取れりとあり。別咧津は、喀篾捏惕の君 亦匝思剌甫 兀剌的米囉委赤を云へりと考へたり。」民格兒勘の大城は、卽 本書の蠻 客兒 蠻 乞瓦にして卽 奇額甫の城なり。
本書に「荅嚕合臣 探馬臣を置きて回れり」とあるは、全軍 回れるに非ず、喇失惕の庫裕克 曼古 卽 古余克 蒙格 等の回れるを云へるなり。然れども元史 太宗紀に「十二年庚子春、皇子 貴由 克㆓西域未㆑下諸︀部㆒、遣㆑使奏㆑捷。冬十二月、詔㆓貴由㆒班㆑師」とあれば、二王の回りたるは、奇額甫を平げたる後にして、十二月に蒙古に歸着したるならん。この後 巴禿 速不台 等は、一二四〇年(太宗 十二年)の末、別軍を遣り波蘭に入らしめ、一二四一年(太宗 十三年)全軍 洪噶哩に入りたる大侵略あれども、本書の記事の外なるが故に略けり。)
サキ先にヂユルチエト主兒扯惕 シヨランガス莎郞合思のトコロ處にシユツセイ出征したるヂヤライルタイ ゴルチ札剌亦兒台 豁兒赤のゴヱン後援に、エスデル ゴルチ也速迭兒 豁兒赤をシユツセイ出征せさせたり。「タンマ探馬にヲ居れ」とミコト勅ありき。(この主兒扯惕は、女眞の僭王 蒲鮮 萬奴の國を云ふ。
莎郞合思は、高麗人を呼べる蒙古語 莎郞合の複稱なり。元史 忠義傳 四に「朴賽因不花、字德中、肅良合台 人」とある肅良合は、卽 莎郞合、台は「の」の義にして卽 高麗の人と云ふに同じ。后妃傳に「順帝 完者︀忽都︀ 皇后、奇氏、高麗人」とありて、その册文に「咨爾 肅良合 氏」とあり。錢大昕 曰く「元人稱㆓高麗㆒爲㆓肅良合㆒、康良合 氏者︀、高麗氏也。猶㆔河西人稱㆓唐兀氏㆒、擧㆓其部㆒、不㆑擧㆓其族㆒。或謂㆘改㆓奇氏㆒曰㆗肅良合㆖者︀、蓋未㆑通㆓于國語㆒。」普剌諾 喀兒闢尼の鎖闌格思と云ひ、嚕卜嚕克の鎖闌噶と云ひ、中世 抹哈篾惕 敎徒の記錄に速郞喀と云へるは、皆 高麗を指せるなり。然るに喇失惕は、蒙古の十二 行省を記して、出兒扯(卽 女直)と鎖郞喀とを第二 行省とし、高麗を第三 行省とし、高麗の外に鎖郞喀ありて別の行省をなせるが如く書きたることにつきては、白鳥 博士 嘗て(歷史 地理 第八卷 第五號「新羅の國號に就て」と云へる論文に)その誤を辨ぜり。搠米惕の蒙古 字引には「鎖龍豁思は、北 高麗人 又は索倫 人」とあり。高麗の上に北の字を加へたるは、喇失惕の文に泥みて斟酌したるに非ずや。又 今の索倫 人は、契丹の遺種にして、黑龍江 省の地に住み、韓人とは關係なきものなるを、その音の近きに由りて附會したるに似たり。果勒思屯思奇の蒙古 字引には「鎖欒果思 鎖欒果惕は、高麗、高麗人」とありて、北の字を加へず。蒙古と女眞 高麗との關係は、元史の紀傳と高麗史の世家 列傳とに見ゆれば、今 二書の文を節︀約して、その大要をこゝに述べん。
元太祖︀七年壬申、契丹 耶律 畱哥 聚㆓眾于隆︀安㆒、自爲㆓都︀元帥㆒。太祖︀命㆓按陳 那衍㆒、行㆑軍[375]至㆑遼、畱哥 降㆑之。旣而帝召㆓按陳㆒還、而以㆓可特哥㆒副㆓畱哥㆒屯㆓其地㆒。八年癸酉春、眾以㆓遼東未㆒㆑定推㆓畱哥㆒爲㆓遼王㆒(耶律 畱哥 傳)、改㆓元元統㆒(太祖︀紀)。九年甲戌、金遣㆓使 靑狗㆒、誘㆓畱哥㆒以㆓重祿㆒使㆑降、不㆑從。靑狗 度㆓其勢不可㆒、反臣㆑之。宣宗怒(畱哥 傳)、以㆓招討 蒲鮮 萬奴㆒爲㆓咸平路宣撫㆒(親征錄)、領㆓眾四十餘萬㆒攻㆑之。畱哥 逆㆓戰于歸仁縣北河上㆒。金兵大潰、萬奴 收㆓散卒㆒、奔㆓東京㆒。畱哥 盡有㆓遼東州郡㆒、遂都︀㆓威平㆒、號爲㆓中京㆒。十年乙亥、畱哥 破㆓東京㆒。可特哥 娶㆓萬奴 之妻李僊娥㆒。畱哥 不㆑直㆑之、有㆑隙。旣而其屬 耶厮不 等、勸㆓畱哥 稱㆒㆑帝。畱哥 不㆑從、潛與㆓其子 薛闍㆒奔㆓蒙古㆒(畱哥 傳)。十月、萬奴 據㆓遼東㆒、稱㆓天王㆒、國號㆓大眞㆒、改㆓元天泰㆒(太祖︀紀)。十一月、畱哥 入覲。太祖︀諭以㆓三千人㆒爲㆑質、遣㆓蒙古 三百人㆒往取㆑之。畱哥 亦 遣㆓大夫 乞奴 安撫 禿哥㆒與俱、且命詰㆓可特哥㆒、曰「爾妻㆓萬奴 之妻㆒、悖㆑法尤甚、」使㆓拘縶以來㆒。可特哥 懼、與㆓耶厮不 等㆒、以㆓其眾㆒叛、殺︀㆓所遣三百人㆒、惟三人逃歸。十一年丙子(高麗 高宗 安孝王 三年)、乞奴 金山 靑狗 統古與 等、推㆓耶厮不㆒、稱㆓帝于澄州㆒、國號㆑遼、改㆓元天威㆒、以㆓畱哥 兄 獨剌㆒爲㆓平章㆒、置㆓百官㆒。方閱㆑月、其元帥 靑狗 叛 歸㆓于金㆒、耶厮不 爲㆓其下所殺︀㆒、僭號僅七十餘日。眾推㆓其丞相 乞奴㆒監㆑國、與㆓其行元帥 鴉兒㆒、分㆓兵民㆒爲㆓左右翼㆒、屯㆓開保州關㆒。金開州守將 完顏 眾家奴 引㆑兵攻㆓敗之㆒。畱哥 引㆓蒙古 軍數千㆒適至、得㆓兄 獨剌、幷妻 姚里 氏、戶二千㆒。鴉兒 引㆓敗軍㆒東走。畱哥 追㆓擊之㆒(畱哥 傳。鴉兒、高麗史 作㆓鵝兒㆒。高麗史金就礪傳云「高宗三年、契丹 遺種 金山 金始、脅㆓河朔民㆒、自稱㆓大遼收國王㆒、建㆓元天成㆒。蒙古 大擧伐㆑之」)。金山等席卷而東、與㆓金兵三萬㆒、戰㆓于開州館︀㆒。金兵不㆑克、退守㆓大夫營㆒(高麗史金就礪傳)。閏七月、金東京總管府、移㆓牒高麗㆒、吿㆓蒲鮮 萬奴 契丹 餘黨之亂㆒。八月、金山 金始 鵝兒 乞奴 等、引㆓兵數萬㆒、渡㆓鴨綠 江㆒、侵㆓高麗寧朔定戎之境㆒(高麗史高宗世家。數萬、元史高麗傳作㆓九萬餘㆒)。金山 自稱㆓國王㆒、改㆓元天德㆒。畱哥 還度㆓遼河㆒、招㆓撫懿州廣寧㆒、移㆓居臨潢府㆒(畱哥 傳)。是時 木華黎 平㆓錦州㆒、誅㆓張致㆒、拔㆓蘇復海︀三州㆒、斬㆓完顏 眾家奴㆒。萬奴 等率㆓眾十餘萬㆒、遁入㆓海︀島㆒(木華黎 傳)。十月、萬奴 降㆓蒙古㆒、以㆓其子 帖哥㆒入侍。旣而復叛、僭稱㆓東夏㆒(太祖︀紀。東夏、高麗史作㆓東眞㆒)。十一月、契丹 賊 履㆑冰渡㆓大同江㆒、遂入㆓西海︀道㆒。十二月、屠㆓黃州㆒。十二年丁丑四月、萬奴 兵破㆓大夫營㆒。又有㆓女眞 黃旗子軍㆒叛㆑金、九月、自㆓婆速 府㆒、渡㆓鴨綠 江㆒、屯㆓古義州城㆒。十月、高麗將趙沖擊逐㆑之(高麗史)。契丹 乞奴、爲㆓金山 所殺︀㆒、統古與 復殺︀㆓金山㆒而自立。喊舍 又殺︀㆑之、亦自立(畱哥 傳、喊舍、高麗史作㆓𠿑捨㆒、太祖︀紀高麗傳作㆓六哥㆒)。十三年戊寅九月、契丹 賊保㆓江東城㆒(高麗史)。太祖︀命㆓哈眞 札剌㆒率㆑師追討(太祖︀紀。哈眞 札剌、高麗傳作㆓哈只吉 劄剌㆒)。遼王 畱哥 將㆓契丹 兵㆒(畱哥 傳)、與㆓東眞國元帥 完顏 子淵兵二萬㆒皆屬㆑之(高麗史)、兵凡十萬(畱哥 傳)。冬、入㆓高麗㆒、破㆓和孟順德四城㆒(高麗史)。麟州都︀領洪大宣迎降(洪福︀源傳)。十二月、蒙古 使至㆓高麗營㆒、求㆑糧徵㆑兵。高麗輸㆓米一千石㆒。十四年己卯正月、蒙古 東眞與㆓高麗將趙沖金就礪㆒合㆑兵、平㆓契丹 賊㆒。𠿑捨 自縊死。哈眞 等還(高麗史)。劄剌 與㆓趙冲㆒約爲㆓兄弟㆒。沖請㆔歲輸㆓貢賦㆒。劄剌 曰「爾國道遠、難︀㆓於往來㆒。每歲可㆘遣㆓使十人㆒取㆖㆑之」(高麗傳。取㆑之、原文作㆓入貢㆒。然太宗四年十一月高麗王上㆓皇帝㆒狀、引㆓蒙古 元帥語㆒、曰「道路甚梗、爾國必難︀㆓於來往㆒。每年我國遣㆓使佐㆒、不㆑過㆓十人㆒、可㆓賷持以去㆒。」然則是往取、而非㆓來貢㆒也)。高宗遣㆓尹公就、崔逸︀㆒、以㆓結㆑和牒文㆒送㆓劄剌 行營㆒、劄剌 遣㆑使報㆑之。太祖︀又遣㆓蒲里帒也㆒、持㆑詔往諭㆑之(高麗傳)。是歲、太祖︀西征、皇弟 斡赤斤 居守(蒙古 祕史)。九月、斡赤斤 及元帥 合臣(卽 哈眞)副元帥 劄剌 等、各以㆑書遣㆓使十人㆒、往索㆓方物㆒。自㆑是 蒙古 使者︀、每歲至㆓高麗㆒、或歲再至焉(高麗傳)。十五年庚辰、畱哥 卒、妻 姚里 氏權領㆓其眾㆒(畱哥 傳)。十七年壬午十月、蒙古 使 着古歟 等至㆓高麗㆒、察㆓其納㆑款之實㆒。十九年甲辰二月、着古歟 復使㆓高麗㆒、[376]十二月又使焉。盜殺︀㆓之于途㆒。自㆑是連㆓七歲㆒絕㆓信使㆒矣(高麗傳)。二十一年丙戌、畱哥 長子 薛闍 歸㆓臨潢㆒、襲㆓父爵㆒(畱哥 傳)。時金平章 葛不哥、行㆓省於遼東㆒、與㆓蒲鮮 萬奴㆒相依。太宗元年己丑、命㆓撒里荅 火兒赤㆒、與㆓吾也而 薛闍 王榮祖︀等㆒征㆓遼東㆒(吾也而 王珣傳。薛闍 據㆓畱哥 傳㆒)、拔㆓蓋州宣城石城等十餘城㆒、葛不哥 走死(王珣傳)。薛闍 行收㆓其父遺民㆒、移鎭㆓廣寧府㆒、行㆓廣寧路都︀元帥事㆒(畱哥 傳)。三年辛卯八月、以㆔高麗殺︀㆓使者︀㆒、命㆓撒禮塔㆒率㆑師東征(太宗紀)、吾也而 薛闍 王榮祖︀ 移剌 買奴 等從㆑之(吾也而 畱哥 王珣 移剌 捏兒 傳)。圍㆓咸新鎭㆒、屠㆓鐵州㆒(高麗史)。西京郞將洪福︀源(大宣子)迎降㆓于軍㆒、獻㆓所率編民千五百戶㆒、導㆓撤禮塔㆒、攻㆓州郡未附者︀㆒(洪福︀源高麗傳)。九月、過㆓西京㆒、入㆓黃鳳州㆒、陷㆓宣郭州㆒(高麗史)、取㆑城凡四十餘(太宗紀)。使㆘阿兒禿 與㆓福︀源㆒抵㆓王京㆒招諭㆖。高宗遣㆓弟懷安公王侹㆒請㆑和(高麗傳)。十一月庚戌、蒙古 兵屠㆓平州㆒。辛亥、元帥 蒲桃 廸巨 唐古 等、領㆑兵至㆓京郊㆒。王遣㆓御史閔曦㆒犒㆑師。十二月壬子朔、蒙古 軍分屯㆓京城門外㆒。閔曦復犒㆑之。癸丑、撤禮塔 遣㆑使入㆑闕、付㆓文牒㆒諭㆑降。丙辰、遣㆓淮安公(卽 懷安公)侹㆒、以㆓土物㆒遺㆓撒禮塔㆒。甲戌、撤禮塔 復送㆑牒、徵索甚鉅。庚辰、王獻㆓國贐㆒、遣㆑使上㆑表辨疏(高麗史)。撒禮塔 遂承㆑制置㆓京府及州縣 達魯花赤 七十二人㆒以鎭㆑之(太宗紀、洪福︀源傳)。四年壬辰正月、撒禮塔 班㆑師(高麗史)。太宗遣㆑使以㆓璽書㆒諭㆑王(高麗傳。高麗史云「都︀旦 等二十四人來」)。三月、王遣㆓中郞將池義深、錄事洪巨源、金謙等㆒、賷㆓國贐牒文㆒、送㆓撒禮塔 屯所㆒(高麗傳)。四月、遣㆓上將軍趙叔昌、侍御史薛愼㆒如㆓蒙古㆒、上㆑表稱㆑臣獻㆓方物㆒(高麗史)。五月、太宗復下㆑詔諭㆑之(高麗傳。高麗史云「七月、蒙古 使九人來」)、以㆑將㆑征㆓萬奴㆒徵㆑兵(太宗四年十一月高麗陳情表)。六月、高麗權臣崔瑀脅㆑王遷㆑都︀、以避㆓蒙古 之亂㆒。七月、王發㆓開京㆒、入㆓江華島㆒、遣㆓使于諸︀道㆒、徙㆓民山城海︀島㆒(高麗史)。八月、太宗復遣㆓撒禮塔㆒領㆑兵討㆑之(高麗傳)。高麗傳云「六月、㬚(高宗)盡殺︀㆓朝廷所置 達魯花赤 七十二人㆒以叛。」然高麗史所載、唯有㆘「七月、王遣㆓內侍尹復昌㆒、往㆓北界諸︀城㆒、奪㆓達魯花赤 弓矢㆒、却被㆓達魯花赤 射殺︀㆒、」及「八月朔、西京巡撫使閔曦、使㆓將校等謀㆒㆑殺︀㆓達魯花赤㆒、不㆑成」二事㆖、而無㆘盡殺︀㆓七十二㆒人之事㆖。觀㆘所載九月答㆓蒙古 官人㆒書、十一月答㆓蒙古 沙打 官人㆒書、上㆓皇帝㆒陳㆑情表又狀、答㆓撒禮塔㆒書、十二月寄㆓蒙古 大官人㆒書、又答㆓大官人㆒書㆖、皆極辨㆘疏竄㆓海︀島㆒闕㆓朝覲㆒數事、出㆖㆑不㆑得㆑已、而無㆘一語及㆗盡殺︀㆓朝官㆒之事㆖。高麗傳載㆔太宗五年、詔數㆓高麗五罪㆒、亦唯摘㆓擧鎖事㆒、而不㆑及㆓是事㆒。然則是事之爲㆓妄傳㆒、無㆑可㆑疑矣。十月、王遣㆓將軍金寶鼎、郞中趙瑞章㆒上㆑表陳㆑情(高麗傳)。十二月、撒禮塔 攻㆓處仁城㆒、有㆓一僧︀㆒射㆓殺︀之㆒。王嘉㆓其功㆒授㆑官(高麗史)。別將 鐵哥 以㆑軍還、令㆘洪福︀源領㆓已降之人㆒、畱屯㆗西京㆖(高麗傳。西京據㆓高麗史㆒)。五年癸巳二月、詔㆓諸︀王㆒議㆑伐㆓蒲鮮 萬奴㆒、遂命㆓皇子 貴由 諸︀王 按赤帶 國王 塔思㆒、將㆓左翼軍㆒討㆑之(太宗紀。塔思 據㆓木華黎 傳㆒)。兀良合台(速不台 子)札忽兒臣(孛禿 孫)屬㆓貴由㆒、移剌 買奴(捏兒 子)屬㆓按赤台㆒、石抹 査剌(也先 子)石抹 孛迭兒 屬㆓塔思㆒、王榮祖︀不㆑知㆓所屬㆒、皆從征(速不台 孛禿 移剌 捏兒 王珣 石抹 也先 石抹 孛迭兒 諸︀傳)。四月、詔諭㆓高麗王㆒、悔︀㆑過來朝、且數㆓其五罪㆒(高麗傳)。蒙古 軍至㆓遼東㆒、園㆓南京㆒(卽 東京)、城堅如㆑立㆑鐵。九月、石抹 査剌 奮㆑槊先登。眾軍乘㆑之而進、遂克㆑之、擒㆓萬奴㆒。遼東平(石抹 也先 石抹 阿辛 傳)。西京人畢賢甫、與㆓洪福︀源等㆒謀、殺︀㆓高麗宣諭使鄭毅㆒。十月、崔瑀遣㆓家兵三千㆒、與㆓北界兵馬使閔曦㆒攻㆓西京㆒、獲㆓賢甫㆒斬㆑之。福︀源逃。擒㆓其父大純(卽 大宣)、弟百壽㆒、悉徒㆓餘民於海︀島㆒、西京遂爲㆓丘城㆒(高麗史)。福︀源以㆓所招集北界之眾㆒歸㆓蒙古㆒、處㆓於遼陽藩陽之閒㆒(洪福︀源 傳)。六年甲午春、蒙古 兵引還(高麗史)。五月、帝以㆓福︀源㆒爲㆓管領歸附高麗軍民長官㆒、仍令㆑招㆓本國未㆑附人民㆒(洪福︀源 傳)。七年乙未、命㆓唐古 拔都︀兒㆒與㆓福︀源㆒領㆑兵征㆓高麗㆒、拔㆓[377]十餘城㆒(高麗傳)。侵掠連年不㆑已(高麗史)。十年戊戌、薛闍 卒、子 收國奴 襲㆑爵、易㆓名 石剌㆒、亦從征㆓高麗㆒有㆑功(畱哥 傳)。五月、高麗人趙玄習、李元祐︀等、率㆓二千人㆒降㆓蒙古㆒。命居㆓東京㆒、受㆓福︀源節︀制㆒。十二月、高宗遣㆓將軍金寶鼎、御史宋彥琦等㆒、奉㆑表朝㆓蒙古㆒(高麗傳)。十一年己亥四月、蒙古 兵還(高麗史)。五月、詔徵㆓王入朝㆒。王以㆓母喪㆒辭、六月乃遣㆑使奉㆑表入朝。十月、諭㆑王徵㆓其親朝㆒。十二月、王遣㆑使入貢。十二年庚子三月、又入貢。五月、復詔諭㆑之。十二月、入貢(高麗傳)。十三年辛丑四月、以㆓族子永寧公綧㆒爲㆓己子㆒、入㆓蒙古㆒、充㆓禿魯花㆒(高麗史)。禿魯花は、蒙語 質子なり。定宗 憲宗の世、歲貢 入らずして、四たび征伐せられしが、憲宗 九年に世子 倎(元宗 順孝王)を質子としてより、永く元の東藩となりき。
サルタイ撒兒台を誤れるヂヤライルタイ札剌亦兒台
祕史の札剌亦兒台 豁兒赤は、撒兒台 豁兒赤の誤寫 又は誤譯ならん。撒兒台は、親征錄に撒兒塔 火兒赤、太宗紀 高麗傳 高麗史に撒禮塔、洪福︀源の傳に撒里塔、吾也而の傳に撒里荅 火兒赤、王珣の傳に撒里台などあり。元史には、兒の音を里と書けること多ければ、これも、正しくは耶律 畱哥の傳に見えたる如く撒兒台なるべくして、親征錄 吾也而の傳なる火兒赤は、卽 豁兒赤なり。也速迭兒 豁兒赤は、何人なるか、東征の役に與れる諸︀將の誰なるか、考へ得ず。蒙古の朝には也速迭兒と云へる人 甚多く、康里の也速䚟兒は、元史に傳あり、その外 康里の艾兒 拔都︀の子 也速荅兒、珊竹帶の紐璘の子 也速荅兒、札剌兒の阿剌罕の子 也速迭兒、阿速の玉哇失の兄 也速歹兒、氏族志には、兀良合の速不台の從孫 也速䚟兒、達達兒の忙兀台の叔父 也速歹兒などあれども、いづれも時代 稍 後れて、こゝの也速迭兒 豁兒赤とは思はれず。耶律 薛闍 吾也而 唐古などの別名には非ずや。)
§275(12:28:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
ブリ不哩 グユク古余克を訴ふるバト巴禿の使
バト巴禿は、キブチヤクト乞卜察黑惕(卽 乞卜察兀惕)のセイバツ征伐のウヘ上より、オゴダイ カガン斡歌歹 合罕にツカヒ使よりマウ奏してヤ遣るには「トコヨ長生のアマツカミ上帝のチカラ力にて、カガン合罕 オヂギミ叔父のサイハヒ福︀にて、メゲト篾格惕のシロ城を破りて、オルスト斡嚕速惕のタミ民をトラ虜︀へて、ジフイツコク十一國のタミ民をタヾシキ正にイ入らしめて、コガネ金のハヅナ縻繩をソ退けヒ扯きて、ワカ別るゝウタゲ筵會にウタゲ筵會せんとイ云ひア合ひて、オホイ大なるテンマク天幕をタ起ててウタゲ筵會するトキ時、ワレ我はこゝにヲ居るミコダチ諸︀王のアニギミ兄君(蒙語 阿合罕、首長)となれるとなりて、ヒトフタサカヅキ一二盞のアイザン喝︀盞をサキ先にノ飮みたりとて、ワレ我にブリ不哩 グユク古余克 フタリ二人 イカ怒りて、ウタゲ筵會にウタゲ筵會せず、ジヤウバ上馬せられたり。ジヤウバ上馬して、ブリ不哩 イハ言く「バト巴禿とヒトシナミ齊等になりてヲ居るに、サキ先にいかんぞノ飮みたりし。ヒゲ髯あるオウナ嫗ども[378]とヒトシナミ齊等になりては、クビス踵斡雪格亦耶兒にてオ壓して、アシノヒラ足掌斡勒速亦耶兒にてフ踏まん」とイ云ひき。グユク古余克 イハ言く「カレラ彼等 ヤナグヒ箭筒あるオウナ嫗どもを、そのムナサキ胸前をシバウ柴打たん、ワレラ我等はカレラ彼等を」とイ云ひき。エルヂギダイ額勒只吉歹のコ子 ハルガスン哈兒合孫 イハ言く「キ木のヲ尾をツ接がん、カレラ彼等を(明譯カレノ他 ウナヂニ後頭 ツガン接㆓與 カノヒトツノ他箇 キノヲヲ木尾子㆒)」とイ云ひき。ワレラ我等こそは、コト別なるキモ肝あるテキ敵のタミ民のトコロ處にシユツバ出馬せさせられて、ヨ善くかヨロ宜しくかなりになれる(明譯タメニ爲㆔ワレラ俺每 コトムケタルガ征㆓了 コノ這 イシユノ異種的 タミヲ百姓㆒、オソル恐㆔コト事 アランヲカナヒ有㆓合㆑宜
§276(12:31:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
バト巴禿のコ此のコトバ言に、カガン合罕 イタ甚くイカ怒りて、グユク古余克をマミ見えさせずしてノリタマ宣はく「このゲラウ下郞朶兒篾該は、タレ誰のコトバ言にシタガ從朶魯思古ひてか、アニビト兄人阿合古溫をクチイツパイ口一杯阿蠻都︀兀嗹にイ言へる。ヒトツ獨のタマゴ卵 クサ腐れ(明譯スツルコトハ捨㆓了 ナンヂヲ你㆒ゴトシ如㆑スツルガ棄㆓ヒトツノタマゴヲ一鳥卵㆒)。スナハチ卽 アニビト兄人のムナサキ胸前にサカラ逆ひたりき。サキガケ先驅阿勒斤赤にヤ放りて、そのトヲ十哈兒班のユビ指のツメ爪 スリツク磨盡哈兀惕荅剌るまで、ヤマ山阿兀剌思のゴト如きシロ城どもにハヒノボ爬登阿巴哩兀魯牙らしめん。タンマ探馬にヤ放塔勒必りて、そのイツヽ五塔奔のユビ指のツメ爪 ハ剝塔木塔剌ぐるまで、キヅ築荅卜塔馬勒けるカタ堅きシロ城どもにハヒノボ爬登らしめん、ナンヂ汝に。アシ歹きゲラウ下郞 ハルガスン哈兒合孫は、タレ誰にマナ學びてかワレラ我等のミウチ親をクチイツパイ口一杯にタイゲン大言 イ言ひたりし。グユク古余克 ハルガスン哈兒合孫 フタリ二人をトモ共にヤ遣らん。ハルガスン哈兒合孫をばキ斬らしむべきなりき。ヘンパ偏頗したりとイ云はん、ナンヂラ汝等(明譯ツミ罪モト本ベケレドモ當㆑コロス殺︀モシ若コロシ殺︀[379]ナバ了呵、ヒトカナラズ人必イハン說㆓ワレヲ ヘンシンナリト我 偏心㆒)。ブリ不哩をこそはとイ云へば、バト巴禿にイ言ひ、チヤアダイ イロセ察阿歹 兄にイ言ひてヤ遣れ。チヤアダイ イロセ察阿歹 兄 シ知れ(明譯ブリハ不哩 ナレバ是㆓チヤアダイ イロセ察阿歹 兄ノコ的子㆒、シメヨ敎㆘バトヲシテ巴禿ムカヒ對㆓チヤアダイ イロセ察阿歹 兄
§277(12:33:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
モンガイ忙該 アルチダイ阿勒赤歹 等の奏議
ミコダチ諸︀王よりモンガイ忙該(卽 憲宗 蒙格)、クワンニンダチ官人等よりアルチダイ阿勒赤歹(亦魯該の親族にて一千の侍衞の長となれる人、卷九に見えたり。)コンゴルタイ晃豁兒台(下文に依れば札撒兀の官に居る人なり。)シヤンギ掌吉を(功臣の第五十四なる苟吉か。)ハジメ首とせるクワンニンダチ官人等 ケンギ建議してマウ奏さく「チンギス カガン成吉思 合罕 ナ爾がミオヤ父 のオホミコト聖旨に、ノ野のコト事は、ノ野にてのみサバ裁くなりき。イヘ家のコト事は、イヘ家のウチ內にてのみサバ裁くなりき。(野の事 家の事は、閫外 閫內の事と云ふが如し。)カガン合罕 オンシ恩賜せば、カガン合罕はグユク古余克にイカ怒りておはせり。(おはすれど、)ノ野のコト事なり。(なれば)バト巴禿にユダ委ねてヤ遣らばヨロ宜しからんか」とマウ奏せば、このコトバ言をカガン合罕はヨシ可としイカリ怒 ヤ息みて、グユク古余克をマミ見えさ
せて、ケウクン敎訓にてコトバ言にコヱ聲 タ立てて、「シユツセイ出征してユ往くアヒダ閒に、シリ臀あるヒト人のシリ臀をアマ剩さざりき(明譯ヲ將㆓イクサビト軍人㆒スベテウチアマネハセリ都︀打徧)とイ云はれたり、ナンヂ汝。イクサ軍のヒト人のカホイロ顏色をクジ挫きてユ行けり(明譯クジキ挫㆓タリ了イキホヒヲ威氣㆒)とイ云はれたり、ナンヂ汝。オルスト斡嚕速惕のタミ民を、かゝるナンヂ汝のイキホヒ勢 イカリ怒にオソ怕れてクダ降られたりとなしてヲ居るか、ナンヂ汝。オルスト斡嚕速惕のタミ民をヒトリ獨にてクダ降したるがゴト如くオモ思ひて、タケ猛きコヽロ心をモ持ちて、アニビト兄人にサカラ逆ひキ來ぬ、ナンヂ汝。チンギス カガン成吉思 合罕 ワレラ我等のミオヤ父のオホミコト聖旨にあり。「オホキ眾斡欒はオソ懼阿余兀里れしむ。フカキ深昆はシ死兀忽兀里なしむ(明譯ヒトオホケレバ人多則ヒトオソル人懼。ミヅフカケレバ水深則ヒトシヌ人死)」とイ云へることあらざりしか。ヒトリ獨にてシオフ爲果せたるが[380]ゴト如く[オモ思ひ]、スベエタイ速別額台 ブヂエク不者︀克(睿宗 拖雷の子、憲宗 蒙格の弟、世系表の撥綽 大王)フタリ二人のカゲ蔭にユ行きて、オホ多斡羅阿兒きモロ〳〵眾にてチカラ力をアハ合せて、オルスト斡嚕速惕 キブチヤウト乞卜察兀惕をクダ降斡囉兀勒して、ヒトリフタリ一二のオルスト斡嚕速惕 キブチヤウト乞卜察兀惕をエ得斡勒て、クロヒツジ羖䍽額失格〈[#二文字目「翔のへん+櫪のつくり」はママ。「元朝秘史」§277(12:35:04)の傍訳は「「翔のへん」+「「暦」の「日」に代えて「心-丿」、U+53AF」」]〉のヒヅメ蹄をもエオ得置かざるにマスラヲ丈夫額咧木失 ブ振りて、ヒト一たびイヘ家よりイ出でて、ナニ何もヒトリ獨にてシオフ爲果せたるがゴト如く、コトバコヱ言聲をヒ惹きてキ來ぬ、ナンヂ汝。(「來ぬ」は、原文に「來て」とあれども「て」は「ぬ」の誤ならん。𦍩〈[#「翔のへん+古、U+26369」はママ。「元朝秘史」§277(12:35:04)の傍訳は「翔のへん+殳、U+7F96」]〉䍽 以下の句を明譯にはナンヂ你 ミヅカラハ自己 クロヒツジ𦍩䍽〈[#「翔のへん+古、U+26369」はママ。「元朝秘史」§277(12:36:07)の総訳は「翔のへん+殳、U+7F96」]〉 ノ的 ヒヅメヲモ蹄子 ザルニ不㆓カツテオキエ曾置得㆒、フリマハシ逞㆓ヨキヲトコヲ好男子㆒、ハジメテ初 イヅレバ出㆑モンヲ門、スナハチ便 ヒク惹㆓ヨシアシヲ是非㆒と譯せり。)モンガイ忙該 アルチダイ阿勒赤歹 コンゴルタイ晃豁兒台 シヤンギ掌吉 ラ等にアガ亢迭克迭克先りたるコヽロ心をマヘ前迭兒格のトモ伴となりてトヾ止めて、ワ沸迭不勒灰きたるナベ鍋をヒロ寬迭列該きヒシヤク柄杓となり(水をさし)てシヅ靜まらせられたるぞ。これはノ野のコト事[なれば]、バト巴禿を[してサバ裁かしめん]とイ云へり。グユク古余克 ハルガスン哈兒合孫 フタリ二人をバト巴禿 シ知れ」とノリタマ宣ひてヤ遣りぬ。ブリ不哩をばチヤアダイ イロセ察阿歹 兄 シ知れとノリタマ宣へり。(古余克 二たび西に往きたる後いかに處分せられたるかは、祕史に載せられざれども、大汗の長子の事なれば、巴禿も任せられては、むごくは取扱はざりしならん。かくて祕史の成りし(太宗 十二年の)翌年(一二四一年)の十一月、太宗 崩じ、その翌年の春、西征の諸︀軍は、洪噶哩亞を引上げて東に進み、高喀速 山の北なる地方に數月 畱まり、乞魄察克の殘黨と戰へり。喇失惕の史に據れば、途にて一夏一冬を過したる後、諸︀王は、一二四三年(朶咧格捏 合屯 稱制の二年 癸卯)に各その領地に歸れりとありて、その諸︀王の內には庫余克も加はれり。
されども巴禿と古余克との不和は解けざりしと見えて、古余克の母なる攝政 合屯、大會を開きて合罕を擇び立てんとしたる時、巴禿は、合屯の意 古余克を立てんことを欲すと聞き、馬の足 弱れりと稱して出發を延引せり。この時 巴禿は、諸︀王の中にて威望ある人なりし故に、朶咧格捏 合屯は、巴禿を待ちて大會を延ばし居たれども、巴禿 竟に至らざるに由り、一二四六年(合屯 稱制の五年 丙午)の春、巴禿なしに大會を開きて、古余克を合罕に戴けり。一二四八年(古余克 合罕の三年 戊申)の春、古余克 疾ありて、潛邸の時より領し居たる額米兒の地方に赴きたるに、拖雷の寡婦 莎兒合黑塔尼は、西巡の目的は巴禿を襲ふにあらんと疑ひて、使を遣りて巴禿に注意を與へたれば、巴禿はみづから朝謁︀せんと思ひ、阿剌克塔克 山に至れる時、偶 古余克 合罕は途にて崩じたり。この巴禿 古余克の不和の事は、喇失惕の史に由りて傳はれるのみにて、元史 本紀に[381]は無し。不哩の事は元史 憲宗紀 元年 卽位の大會の條に「諸︀王 也速忙可 不里 火者︀ 等、後㆑期不㆑至。遣㆓不憐吉䚟㆒率㆑兵備㆑之」とあり。
也速忙可は、世系表なる察合台 太子の子 也速蒙哥 王、火者︀は、世系表なる定宗の子 忽察 大王なり。喇失惕に據れば、失喇門(定宗の姪 失烈門 又 昔列門)闊札 斡古勒(卽 忽察)納古(忽察の弟 腦忽)三王の謀反せる時、不哩も謀に與りたれば、一二五二年(憲宗 二年)に巴禿の處に送られ、巴禿の命にて斬られき。かくて巴禿は、不哩が嘗て爛醉の狀にて吐ける惡口に對し復讎を爲せり(多遜 二、二六九)。この事につきて、嚕卜嚕克は又 次の如く言へり。この旅僧︀は、一二五四年(憲宗 四年)に突︀兒其思壇を通りて還りし時、「我また不哩の獨逸︀ 奴隷どもの居りし塔剌思の町にて問ひき。不哩の事につき、兄弟(敎會の同僚)安篤列亞思 語れり。安篤列亞思に、又 我は、會議所にて撒兒塔黑と巴禿との事を問ひき。彼等の主人なる不哩の、ある折に殺︀されたりし事の外は、何事をも知ること能はざりき。不哩 己れは、好き牧場を有たざりしかば、ある日 醉ひて居りし時、その臣屬に語りて「我は、巴禿の如く、成吉思 汗の子孫ならずや。(原注。不哩は巴禿の姪 又 は從弟なりき。)いかで巴禿の如くも、額提里 河の岸に徘徊して、そこに遊牧すべからざらんや」と云ひき。それらの言は、巴禿に吿げられき。その時 巴禿は、みづから不哩の臣屬に書を贈︀りて、その主人を縛りて送ることを命じければ、その事を臣屬は爲しけり。その時 巴禿は、かゝる言を言ひしかと不哩に問ひ、不哩はみづから承服せり。然れども不哩は、「その時 酔ひて居りしから、醉人を寬恕する習ひなるから」とて分疏せり。然るに巴禿は、「いかんぞ汝は、醉へる時に敢て我が名を呼びし」と答へて、その頭を斬らしめけり。」)
§278(12:36:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 オゴダイ カガン斡歌歹 合罕 ミコト勅ありて、「チンギス カガン成吉思 合罕 ワ我がミオヤ父のトコロ處にユ行き(おこなひ)たるシユクヱイ宿衞 セントウシ箭筒士 ジヱイ侍衞なるモロ〳〵眾のバンシ番士のオコナヒ行をアラタ新にせん」とサト諭しタマ給ふオホミコト聖旨をツタ傳へけらく「カガン エチゲ合罕 額赤格のオホミコト聖旨にヨ依りサキ前にいかにかオコナ行ひたりし。イマ今その(その儘の)ハフ法にヨ依りオコナ行へ」とて、ミコト勅あるには「セントウシ箭筒士 ジヱイ侍衞は、サキ前のハフ法にヨ依り、ヒル晝そのミチミチ道道をオコナ行ひて、ヒ日あるにシユクヱイ宿衞にユヅ讓りて、ホカ外にヤド宿れ」とミコト勅ありき。
「ヨル夜はワレラ我等のトコロ處にシユクヱイ宿衞 トマ宿れ。カド門のトコロ處にイヘ家のマハリ周にシユクヱイ宿衞 タ立て。オルド斡兒朶のウシロ後にマヘ前にシユクヱイ宿衞 マハ巡れ。ヒ日 オ落ちたるノチ後、ヨル夜 ユ行くヒト人をシユクヱイ宿衞 トラ拏へてトマ宿れ。モロビト眾 チ散りたるノチ後、トマ宿れるシユクヱイ宿衞よりホカ外に、ダイリ內裏をサ指してイ入るヒト人をば、トラ拏へ[382]たるシユクヱイ宿衞は、そのカシラ頭をワ割るゝホド程 キ斫りてノ去けよ。ヨル夜 イソギ急のハナシ話あるヒト人 キ來なば、シユクヱイ宿衞にハナ話して、チヤウバウ帳房のキタ北よりシユクヱイ宿衞とヒトトコロ一處にタ立ちてハナ話しア合へ。オルド斡兒朶のヘヤ房にイ入りイ出づるをば、コンゴルタイ晃豁兒台 シラカン失喇罕 ラ等のヂヤサウ札撒兀は、シユクヱイ宿衞とトモ共にヲサ治めよ。(札撒兀は、官の名にて、札撒を掌る官なり。札撒は、法の蒙語にて、元史 太宗紀 元年 卽位の條に「頒㆓大札撒㆒」とありて、原注に「華言㆓大法令㆒也」と云へり。されどもこの札撒兀は、國の大法官に非ず、只 殿中の取締役にて、その名はこゝに始めて出でたれども、その職務は、卷十に見えたる朶歹 扯兒必の殿中を監視︀せると同じ類︀なるべし。札撒兀は、今の蒙古語に札薩克と云ひ、內蒙古 四十九旗の旗長の官となれり)
エルヂギダイ額勒只吉歹は、シンニン信任あるヒト人なるに、ユフベ夕にシユクヱイ宿衞のウヘ上をユ行くとなり、シユクヱイ宿衞にトラ拏へられきとイ云ふオホミコト聖旨にタガ違いナ爲さず、シユクヱイ宿衞はシンニン信任あるものなるぞ」とミコト勅ありて、「シユクヱイ宿衞のカズ數をナ勿 ト問ひそ。シユクヱイ宿衞のクラヰ坐のウヘ上をナ勿 ユ行きそ。シユクヱイ宿衞のアヒダ閒をナ勿 ユ行きそ。シユクヱイ宿衞のウヘ上をユ行く、アヒダ閒をユ行くヒト人をシユクヱイ宿衞はトラ拏へよ。シユクヱイ宿衞のカズ數をト問ふヒト人の、そのヒ日のノ乘れるセンバ騸馬、クラ鞍ありクツワ轡あるを、キ被たるイフク衣服ごめにシユクヱイ宿衞はト取れ。
シユクヱイ宿衞のクラヰ坐のウヘ上にタレ誰もナ勿 スワ坐りそ。シユクヱイ宿衞は、トウ纛 ツヾミ鼓 ドロ朶囉 ヤリ鎗 キベイ器︀皿をトヽノ調へよ。ノミモノ飮物 クヒモノ食物をシゲ稠きニク肉をシユクヱイ宿衞 シタク支度せよ」とミコト勅ありき。「オルド斡兒朶のヘヤ房 クルマ車をシユクヱイ宿衞 トヽノ調へよ。ワレラ我等のミ身 イクサ軍にイ出でずば、ワレラ我等よりホカ外に、コト別にシユクヱイ宿衞はイクサ軍にナ勿 イ出でそ。ワレラ我等 タカ鷹 ツカヒ使ひマキガリ圍獵するトキ時、そのナカバ半をオルド斡兒朶のヘヤ房 クルマ車のトコロ處にミハカラ斟酌ひてオ置きて、ワレラ我等とトモ共にナカバ半のシユクヱイ宿衞はユ行け。(その半は、宿衞の半なり。卷十 三八六頁〈[#「三八六頁」は§232に相当]〉にも、こゝと同じ意味の文ありて、「車の處に半を斟酌ひて置け」と譯すべき所を、「半」の上に「獲物の」を補ひたるは誤解なりき。「斟酌ひ」と譯すべきを、「分[383]け」と譯したるも違へり。)シユクヱイ宿衞よりイヘヰヅカサ營盤官(蒙語ヌントウチン嫩禿兀臣、又 嫩禿黑赤 元史 兵志 三に「玉你伯牙の奴禿赤なる火你赤」とある奴禿赤は、嫩禿黑赤の訛なり。)ユ行きてオルド斡兒朶のヘヤ房をクダ下せ。カド門にヨ倚りてシユクヱイ宿衞のカドモリ門者︀ タ立て。
モロ〳〵眾のシユクヱイ宿衞をカダアン合荅安 センコ千戶 シ知れ」とミコト勅ありき。(合荅安は、八十八 功臣の第六十三なり。今 太祖︀の朝の也客 捏兀𡂰に代れり。)
マタ又 シユクヱイ宿衞のクミグミ班班のクワンニン官人をヨサ任して、
「カダアン合荅安 ブラカダル不剌合荅兒 フタリ二人は、ヒトクミ一班となりてハカ議りア合ひて、バンチヨク番直にイ入りて、オルド斡兒朶のミギヒダリ右左のホトリ邊にワカ分れヰ居てトヽノ整へよ。
アマル阿馬勒 チヤナル察納兒 フタリ二人は、ハカ議りア合ひてヒトクミ一班となりて、バンチヨク番直にイ入りて、オルド斡兒朶のミギヒダリ右左のホトリ邊にワカ分れヰ居てトヽノ整へよ。
カダイ合歹(八十八 功臣の內なる合歹 古咧堅) ゴリカチヤル豁哩合察兒 フタリ二人は、ハカ議りア合ひてヒトクミ一班と[なりて、バンチヨク番直に]イ入りて、オルド斡兒朶のミギヒダリ右左のホトリ邊にワカ分れヰ居てトヽノ整へよ。
ヤルバク牙勒巴黑 カラウダル合喇兀荅兒 フタリ二人は、ハカ議りア合ひてヒトクミ一班となりて、バンチヨク番直にイ入りて、オルド斡兒朶の[ミギ右]ヒダリ左のホトリ邊にワカ分れヰ居てトヽノ整へよ。(太祖︀ 卽位の處には、箭筒士の四班の長 四人と八千の侍衞の長 八人とは、一一名を擧げたれども、宿衞は總長 也客捏兀𡂰のみを擧げて、四班の長をば擧げざりしが、これはそれより委し。)カダアン合荅安 ブルカダル不勒合荅兒(卽 前の不剌合荅兒)のクミ班、アマル阿馬勒 チヤナル察納兒のクミ班、このフタクミ二班は、オルド斡兒朶のヒダリ左のホトリ邊にイヘヰ營盤してバンチヨク番直にイ入れ。カダイ合歹 ゴリカチヤル豁哩合察兒 フタリ二人のクミ班、ヤルバク牙勒巴黑 カラウダル合喇兀荅兒 フタリ二人のクミ班、このフタクミ二班は、オルド斡兒朶のミギ右のホトリ邊にイヘヰ營盤してバンチヨク番直にイ入れ」とノリタマ宣へり。(太祖︀ 卽位の處には、諸︀の營盤を定めて「宿衞は、斡兒朶の前の右左の邊に行け」とあり。)「このヨクミ四班のシユクヱイ宿衞をカダアン合荅安 シ知れ。」マタ又「シユクヱイ宿衞は、ワ我がミ身にツ貼きて、オルド斡兒朶のマハリ周にタ立ちて、カド門をオサ壓へてフ臥せ。シユクヱイ宿衞よりオルド斡兒朶に[384]イ入りて、フタリ二人のヒト人 シユキヨク酒局をト執れ」とミコト勅ありき。
箭筒士 四班の長 エスントエ也孫脫額 ブキダイ不乞歹 ゴルクダク豁兒忽荅黑 ラバルカ剌巴勒合
マタ又「セントウシ箭筒士をエスントエ也孫脫額 ブキダイ不乞歹 ゴルクダク豁兒忽荅黑 ラバルカ剌巴勒合は、ヨツ四のクミグミ班班となりヤナグヒ箭筒 オ帶びたるを、ジヱイ侍衞のヨツ四のクミグミ班班のトコロ處に、ツラナ列るセントウシ箭筒士をトヽノ整へてイ入れ」とミコト勅ありき。(箭筒士の四班の長は、太祖︀ 卽位の時に同じ。額孫脫額は卽 額孫帖額、不乞歹は卽 不吉歹、剌巴勒合は卽 剌卜剌合なり。)
マタ又 ジヱイ侍衞のバンチヨク番直のオトナ宿老をサキ前にシ知りたりしもののシンゾク親族よりヨサ任して、
アルチダイ阿勒赤歹 コンゴルタカイ晃豁兒塔孩
「サキ前にシ知りたるアルチダイ阿勒赤歹 コンゴルタカイ晃豁兒塔孩 フタリ二人は、ハカ議りア合ひて、ヒトクミ一班のジヱイ侍衞をトヽノ整へてイ入れ。(前段の初に官人 阿勒赤歹 晃豁兒台と竝べ擧げたれば、この晃豁兒塔孩は、卽 晃豁兒台と同じ人ならん。)
テムデル帖木迭兒 ヂエグ者︀古 フタリ二人は、ハカ議りア合ひて、ヒトクミ一班のジヱイ侍衞をトヽノ整へてイ入れ。(この閒に脫文あらん。二班の宿老 足らず。今 試に補はば、[
ボウカフ某甲 ボウオツ某乙は、ハカ議りア合ひて、ヒトクミ一班のジヱイ侍衞をトヽノ整へてイ入れ。
ボウヘイ某丙は、])モンクタイ忙忽台にタス輔けさせシ知りて、ヒトクミ一班のジヱイ侍衞をトヽノ整へてイ入れ。」(太祖︀ 卽位の時は、八千の侍衞の長 八人ありて、その八人の內より不合 阿勒赤歹 朶歹 朶豁兒忽 四人は、四班の宿老となりしが、今は一千ごとの長は無くて、四班の宿老は、一班に二人づゝ八人あることとなれり。この八人は、前に知りたりし者︀の親族なるに、阿勒赤歹のみは、前に知りたりし儘なれば、殊に斷れり。晃豁兒塔孩 以下 七人は、不合 朶歹 朶豁兒忽 等の親族なるべけれども、その關係 少しも分らず。元史 列傳に忙兀台あれども、世祖︀の朝の人にて、この忙忽台とは異なり。)
マタ又 カガン合罕 ミコト勅あるには「モロ〳〵眾のクワンニン官人どもは、エルヂギダイ額勒只吉歹をヲサ長として、エルヂギダイ額勒只吉歹のコトバ言にヨ依りコトナ行へ」とノリタマ宣ひて、マタ又 ミコト勅あるには
「バンチヨク番直あるヒト人、バンチヨク番直にイ入るトキ時、ハヅ脫さば、サキ前のオホミコト聖旨のリ理にヨ依り、ミツ三のシモト笞をアタ與へよ。そのバンチヨク番直あるヒト人、マタ又 フタヽビ再 バンチヨク番直をハヅ脫さばナヽツ七のシモト笞をアタ與へよ。マタ又そのヒト人 ヤマヒ病 リイウ理由なく、バンチヨク番直のオトナ宿老にサウダン相談なく、ミ三たびバンチヨク番直をハヅ脫さば、ワレラ我等のトコロ處にユ行く(勤むる)[385]ことをカタ難︀しとしたるなり。サンジフシチ三十七のシモト笞をアタ與へて、トホ遠きトコロ地にマナコ眼のカゲ陰にヤ遣らん。マタ又 バンチヨク番直のオトナ宿老は、バンチヨク番直するバンシ番士をテンケン點檢せず「して、バンシ番士」バンチヨク番直をハヅ脫さば、バンチヨク番直のオトナ宿老をツミナ罰はん。マタ又 バンチヨク番直のオトナ宿老は、ダイサン第三 ダイサン第三に(三日目ごとに)バンチヨク番直にイ入るトキ時 カハ代りア合ふトキ時、このミコト勅をバンシ番士にキ聽かせよ。
ミコト勅をキ聽きてあるに、バンシ番士 バンチヨク番直をハヅ脫さば、ミコト勅のリ理にヨ依リツミナ罰はん。このミコト勅をバンシ番士にキ聽かせずば、バンチヨク番直のオトナ宿老 ツミ罪あるとなれ。
マタ又 バンチヨク番直のオトナ宿老は、ドウトウ同等にイ入りたるワ我がバンシ番士を、ワレラ我等にサウダン相談なく、ヲサ長とせられたりとのみイ云ひてナ勿 セ責めそ。ハフド法度をウゴ動さば、ワレラ我等にツ吿げよ。シ死なしめらるゝリ理あるならば、ワレラ我等はキ斬らしむるぞ。コラ懲︀さるゝリ理あるならば、ワレラ我等はヲシ訓ふるぞ。ヲサ長とせられたりとて、ワレラ我等にツ吿げず、ミヅカ自 テアシ手足をイタ致さば、コブシ拳のムクイ報にコブシ拳を、シモト笞のムクイ報にシモト笞をカヘ回さん」とノリタマ宣へり。
マタ又「ホカ外にヲ居るセンコ千戶のクワンニン官人よりワ我がバンシ番士はウヘ上にア在るぞ。ホカ外にヲ居るヒヤクコ百戶 ジツコ十戶のクワンニン官人よりワ我がバンシ番士のケニン家人はウヘ上にア在るぞ。ホカ外にヲ居るセンコ千戶ども、ワ我がバンシ番士にウ毆ちア合はば、センコ千戶のヒト人をツミナ罰はん」とミコト勅ありき。(これらの勅は、殆 皆 卷九 卷十に跨れる太祖︀のと同じ物にして、彼の勅は太祖︀ 卽位の初に宣諭せられたれば、これも太宗 卽位の初の事ならん。然らば元史 太宗紀 元年 卽位の處に「頒㆓大 札撒㆒、華言㆓大法令㆒也」とあるは、これらの勅を云へるなり。大法令と云へは、國法 民法の類︀かと思ひたりしに、かくの如きものなりき。又 明譯は、重複を厭ひて全文を略き、たゞ「オゴダイ斡歌歹 クワウテイハ皇帝、ヲ將㆓チンギスノ成吉思 トキノ時 シユヱイノ守衞 モノ的 マタ幷 モロ〳〵ノ眾 サンパン散班 ラノ每 オノオノノ各各 シヨクシヤウ職掌㆒、テラシ照㆓ヨリ依 フルキサダメニ舊制㆒、フタヽビ再 センユ宣諭 シタルヿ了[386]
イツペンナリ一遍」と書きたれども、さるにては、宿衞 箭筒士 侍衞の官人 等の名も分らぬこととなり、あまりに筆無性なりき。又これらの勅とは異なれども、太宗紀 六年 甲午の處に法令の如きもの十一章を載せたり。夷狄の法律、實に面白ければ、こゝに引き出して、參考に供せん。まづ「夏五月、帝在㆓達蘭 達葩 之地㆒、大會㆓諸︀王百僚㆒、諭㆓條令㆒曰」と書き出して、第一に「凡當㆑會不㆑赴而私宴者︀、斬。」第二に「諸︀出㆓入宮禁㆒、各有㆓從者︀㆒、男女止以㆓十人㆒爲㆑朋。出入毋㆑得㆓相雜㆒。」第三に「軍中、凡十人置㆓甲長㆒、聽㆓其指揮㆒。專擅者︀、論㆑罪。」第四に「其甲長以㆑事來㆓宮中㆒、卽置㆓權攝一人㆒。」第五に「甲外、一人二人、不㆑得㆓擅自往來㆒。違者︀、罪之。」第六に「諸︀公事、非㆑當㆑言而言者︀、拳㆓其耳㆒。再犯、笞。三犯、杖。四犯、論㆑死」第七に「諸︀千戶越㆓萬戶㆒前行者︀、隨以㆓木鏃㆒射之、百戶甲長諸︀軍有㆑犯、其罪同。不㆑遵㆓此法㆒者︀、斥罷。」第八に「今後來會諸︀軍、甲內數不㆑足、於㆓近翼㆒抽捕足㆑之。」第九に「諸︀人或居㆑室、或在㆑軍、毋㆓敢喧呼㆒。」第十に「凡來會、用㆓善馬五十匹㆒爲㆓一羈㆒。守者︀五人、飼︀㆓羸馬㆒三人、守㆓乞烈思㆒三人。但盜㆓馬一二㆒者︀、卽論㆑死。諸︀人馬不㆑應㆑絆㆓於 乞烈思 內㆒者︀、輙沒與㆘畜㆓虎豹㆒人㆖。」第十一に「諸︀婦人製㆓質孫 燕服㆒不㆑如㆑法者︀、及妒者︀、乘以㆓驏牛㆒、徇㆓部中㆒論㆑罪。卽聚㆑財爲更娶」とあり。)
§279(12:46:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
マタ又 オゴダイ カガン斡歌歹 合罕 ノリタマ宣はく「チンギス カガン エチゲ成吉思 合罕 額赤格のカンナン艱難︀してタ立てタマ給へるクニタミ國民をナ勿 クルシ苦めそ。カレラ彼等のアシ足闊勒をツチ土闊薛兒に、カレラ彼等のテ手合兒をヂ地合札兒にオ置かせてタノシ樂ません。スメラミオヤ皇考のジヤウジユ成就[せるクラヰ位]にスワ坐りて、タミ民をクルシ苦めず、ユ湯(蒙語シユレン暑︀連、本義は湯にして、湯より肉汁となり、肉汁より肉汁を作る羊肉となれり。明譯タウヤウ湯羊)に(湯羊として)コレラ此等のクニタミ國民よりヤウグン羊羣のヒトツ一のニサイ二歲のヒツジ羊をトシドシ年年にタテマツ奉れ。ヒヤク百のヒツジ羊よりヒトツ一のヒツジ羊をイダ出して、そのアヒダ閒のマヅ貧しくトボ乏しきにアタ與へよ。(明譯ヒトツ一。タミノ百姓 ヤウグンノ羊羣 ウチヨリ裏、ベシ可㆘ゴトニ毎㆑トシ年 タヾイダシテ只出㆓ヒトツノ一箇 ニサイノ二歲 カツヤウヲ羯羊㆒ナス做㆗ヤウタウト湯羊㆖。ゴトノ毎㆓イツピヤク一百㆒ヒツジノウチヨリ羊內、ベシ可㆘タヾ只 イダシテ出㆓ヒトツノ一箇 ヒツジヲ羊㆒ スクフ接㆗濟 ソノ本 ブラク部落 ノ之 マヅシクトボシキモノヲ窮乏者︀㆖。元史 太宗紀 元年 卽位の續に「勅、蒙古 民有㆓馬百㆒者︀、輸㆓牝馬一㆒、牛百者︀、輸㆓牸牛一㆒、羊百者︀、輸㆓羒羊一㆒、爲㆓永制㆒」とあるは、この事の異聞なり。)
マタ又 アニオトヽ兄弟(諸︀の皇族の汎稱)あまたのヲトコ男 センバ騸馬 バンシ番士 アツマ聚らば、カレラ彼等のノミモノ飮物をツネ毎にタミ民よりいかでかト征らるべき。トコロドコロ處處のセンコ千戶 センコ千戶よりメウマ騍馬どもをイダ出してシボ擠り、チシボリ乳擠にノバヒ牧せしめ、イヘヰヅカサ營盤官をツネ常にカ替へイダ出して、ニウバカヒ乳馬飼︀となれ。(明譯ヒトツ一。ミコダチ諸︀王 ムコギミ尉馬 ダチ等[387]アツマリアフ聚會 トキ時、ツネヅネ每每 ニテ於㆓タミノ百姓 トコロ處㆒クワレンスルハ科斂、ズ不㆓ベンタウナラ便當㆒。ベシ可㆘シメ敎㆔センコ千戶 ラニ毎、ゴトニ毎㆑トシ年 イダサ出㆓メウマ騍馬 ナラビニ幷 ノガヒ牧 チシボリ擠 ノヒト的人㆒、ソノヒトウマハ其人馬 ニ以㆑トキ時 ツネヅネ常川 カウタイス交替㆖。乳馬飼︀は、蒙古語にウヌクチ兀納忽赤にて、元史 兵志 三に「闊闊の地の兀奴忽赤なる忙兀䚟」とあるも、それなり。然るを元史 語解は、この兀奴忽赤を狐捕りなる兀捏格赤と閒違へ、元史の本文を烏訥格齊と改めたるは、いつもながら亂暴の至りなり。)
マタ又 アニオトヽ兄弟 アツマ聚らば、キフヨ給與 シヤウシ賞賜をアタ與へん。オリモノ織物 カネ貨幣 ヤナグヒ箭筒 ユミ弓 ヨロヒ甲 ブキ武器︀どもをクラ倉どもにイ入れて、タカラ財どもをマモ守らせん、トコロドコロ處處よりタカラモリ財守 コクモリ穀︀守をエラ擇びてマモ守らせよ。(財ども財守の蒙古語は、バラガト巴喇合惕 バラガチン巴喇合臣 にして、巴喇合惕の單稱は、巴喇干なり。原本には巴剌合惕 巴剌合臣と書きて、巴剌合惕の旁譯は庫毎、巴剌合臣は管城的とあれども、譯文には倉庫 等 掌守 的人とありて、城守と云はざれば、二つの剌は、喇の誤なることうつなし。巴喇干は、搠米惕の蒙古 字引に巴兒干と書きて、家具と譯せり。巴喇合臣は、巴喇合赤とも云ふ。元史 世祖︀紀 至元 十七年 九月の處に「守㆑庫軍盜㆓庫鈔㆒。八 剌合赤 分㆓其贜㆒、縱㆑盜遁去。詔誅㆑之」とあり。元史 語解は、八剌合赤を巴喇噶齊と改めて、「管㆓理什物㆒人也」と注したるは、卽この財守なり。明譯には、ヒトツ一。シヤウシ賞賜 ノ的 キンパク金帛 キカイハ器︀械、ソウコ倉庫 ドモ等 シヤウシユ掌守 ノ的 ヒトヲ人、ベシ可㆑シム敎㆓カクシヨヨリ各處 オコシ起㆑ヒトヲ人 キテ來 カンシユセ看守㆒。太宗紀 元年 卽位の續に「始置㆓倉廩㆒」とあるは、この事を云へるなり。)
マタ又 クニ國のタミ民にイヘヰ營盤のミヅ水をワ分けてアタ與へん。イヘヰ營盤にイヘヰ營盤せしめん。センコ千戶 センコ千戶よりイヘヰヅカサ營盤官をエラ擇びてイダ出さばヨ可からん。(明譯ヒトツ一。タミニ百姓行 ワケ分㆓アタヘ與 ホカノ他 チハウヲ地方㆒、ナシテ做㆓イヘヰト營盤㆒スマセン住。ソノ ブンパ ノヒトハ其 分派 之人、ベシ可㆘ニテ於㆓オノ〳〵各 センコノ千戶 ウチ內㆒エラビテ選㆑ヒトヲ人 シム敎㆖㆑ナラ做。水草を逐ふ遊牧の民には水は甚 大切にして、水あれば草あり。この譯文に水の字を脫したるは踈なり。)
マタ又 チエル徹勒のチ地(卷七に見えたる桑昆の遁げ走り往きて水を求めたる所)には、ケダモノ獸よりホカ外はス住まざりき。タミ民にヒロ寬げんと、チヤナイ察乃(卷九に見えたる主兒扯歹の族にて一千の侍衞の長となりし人)ウイウルタイ委兀兒台 フタリ二人のイヘヰヅカサ營盤官をカシラ頭として、ヰ井どもをホ掘らせてイシダタミ甃せよ。(明譯ヒトツ一。チエルノ川勒 ヂメンハ地面、サキニ先ヨリテ因㆑ナキニ無㆑ミヅ水、タヾ止アリ有㆓ヤジウノミ野獸㆒、ナカリキ無㆓ヒトノスムモノ人住㆒。イマ如今 セバ要㆘サン散㆓カイシテ開 タミヲ百姓㆒ヂウザセシメント住坐㆖、ベシ可㆑シム敎㆓チヤナイ察乃 ウイウルタイ畏兀兒台 フタリヲシテ兩箇 ユキテ去 タウケンセ踏驗㆒。ベキ中㆑ナス做㆓[388]イヘヰヲ營盤㆒ノ的 チハウニハ地方、シム敎㆑ホラ穿㆑ヰヲ井ベシ者︀。)
マタ又 ワレラ我等のツカヒ使 ハシ走るに、クニタミ國民にヨ倚らしめてハシ走らせたり。ハシ走るツカヒ使のもカウテイ行程 オク遲れたり。クニ國のタミ民にもクルシ苦ませたり。イマ今 ワレラ我等 マツタ全くサダ定むるには、トコロドコロ處處のセンコ千戶 センコ千戶よりヂヤムチン札木臣(驛の事務を掌る人)ウラアチン兀剌阿臣(驛馬を掌る人)をイダ出して、ザ坐どもザ坐どもに(站を坐ゑ置くべき處處に)ヂヤム站(驛)をオ置きて、ツカヒ使をエウジ要事なくクニタミ國民にヨ倚らせず、ヂヤム站にヨ依りハシ走らせばヨ可からん。(明譯ヒトツ一。シシン使臣 ユキキスルニ往來、ソヒ沿㆓タミノ百姓 トコロニ處㆒ケイクワシ經過、コトモオクレタリ事也遲了。タミ百姓 モ也 クルシメリ生受。イマ如今 ベシ可㆘シメ敎㆔オノ〳〵各センコ千戶ラニ毎イデサ出㆓ヒトウマヲ人馬㆒、タテ立㆗サダム定 ヂヤムチヲ站赤㆖。ズバ不㆑ナラ是㆓キネウノ緊要 ジム事務㆒、ベシ須㆔カナラズ要 ジヨウ乘㆓ザス坐 ヂヤムノウマニ站馬㆒、ズ不㆑ユルサ許㆘ソヒ沿㆓タミノ百姓 トコロニ處㆒ケイクワスルヲ經過㆖。札木臣は、站赤とも云ふ。その制は、元史に委し。後に云ふべし。兀剌阿臣は、兀剌阿赤とも云ふ。元史 兵志 二に「典㆓車馬㆒者︀曰㆓兀剌赤㆒」とあり。語解は烏拉齊と改めて、「司㆓驛站㆒人也」と注せり。又 親征錄に「助㆓貧乏㆒、置㆓倉戌㆒、剏㆓驛站㆒」とあるは、この新制の第一 第三 第六の三章を略記したるなり。元史 太宗紀は、親征錄に本づきて、「始置㆓倉廩㆒、立㆓驛傳㆒」と記して、又その「助㆓貧乏㆒」を略けり。)これらのコト事どもをチヤナイ察乃 ボルカダル孛勒合荅兒(卽 前の不勒合荅兒)フタリ二人 カンガ考へて、ワレラ我等にケンギ建議したれば、ヨ可からんかとオモ思ひて(思はるるが)、チヤアダイ イロセ察阿歹 兄 シ知れ。このイ言はるゝコト事どもヨロ宜しければ、ヨシ可とせば、チヤアダイ イロセ察阿歹 兄よりナ爲せ」とノリタマ宣ひてヤ遣りたれば、
チヤアダイ イロセ察阿歹 兄は、ト問ひてヤ遣りたるこれらのコト事どもをスベ都︀てをヨシ可として、「かくスナハチ便 ナ爲せ」とイ云ひてキ來ぬ。マタ又 チヤアダイ イロセ察阿歹 兄 イ言ひてキ來ぬるに「ワレ我は、こゝよりヂヤムト札木惕(站の複稱)をムカ迎へツギアハ接合せん。マタ又こゝよりバト巴禿のトコロ處にツカヒ使をヤ遣らん。バト巴禿も、ムカ迎へてヂヤムト札木惕をツギアハ接合せよ」とイ云ひて、マタ又 イ言ひてキ來ぬるには「スベ都︀てよりヂヤムト札木惕をオ置かするコト事はヨ善きよりもヨ善し[389]とテイセツ提說せり」とイ云ひてキ來ぬ。
§280(12:51:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
それよりオゴダイ カガン斡歌歹 合罕 ノリタマ宣はく(以下の一段は、末なる「驛舍の騸馬ども云云」の外は、皆 叙事の文に書くべき處なるを、太宗の言として記せり。蓋 史臣は、これらの政令を太宗の口より聞きて筆記したるなるべし。)「チヤアダイ イロセ察阿歹 兄 バト巴禿をハジメ首とせるミギテ右手のミコダチ諸︀王 アニ兄だちオトヽ弟だち。モロ〳〵眾、オツチギン ノヤン斡惕赤斤 那顏 エグ也古をハジメ首とせるヒダリテ左手のアニ兄だちオトヽ弟だちモロ〳〵眾のミコダチ諸︀王、ナイチ內地のヒメミコ公主だちムコギミ駙馬だち、バンコ萬戶 センコ千戶 ヒヤクコ百戶 ジツコ十戶のクワンニン官人だち、モロ〳〵眾にてヨシ可としけり。ヨシ可とするは、「ウミ海︀のカガン合罕(四海︀の主)のタウヤウ湯羊にトシ年[ドシ年]にヤウグン羊羣のヒトツ一のニサイ二歲のセンヤウ騸羊をイダ出さば、ナニ何かあらん。ヒヤク百のヒツジ羊よりヒトツ一のイツサイ一歲[のヒツジ羊]をイダ出して、マヅ貧しくトボ乏しきにアタ與ふるは、ヨ好くあり。ヂヤム站をオ置かしめて、ヂヤムチン札木臣 ウラアチン兀剌阿臣をイダ出さば、オホ多きクニタミ國民にヤス安からしめ、ツカヒ使にもユ行くにタヨリ便 ヨ善けん」とイ云へば、モロ〳〵眾にてタヾ只 ヨシ可としけり。この(原文に、客延「とて」とあれど、「とて」にては、文意 通らぬ故に、假に「この」と改めたり。)カガン合罕のミコト勅をチヤアダイ イロセ察阿歹 兄にハカ謀りて、チヤアダイ イロセ察阿歹 兄にヨシ可とせられて、モロ〳〵眾のクニタミ國民より、トコロドコロ處處のセンコ千戶 センコ千戶より、カガン合罕のミコト勅にヨ依りトシドシ年年にタウヤウ湯羊をヤウグン羊羣よりヒトツ一のニサイ二歲のセンヤウ騸羊を、ヒヤク百のヒツジ羊よりヒトツ一のイツサイ一歲のヒツジ羊をイダ出さしめたり。メウマ騍馬どもをイダ出さしめて、ニウバカヒ乳馬飼︀をス坐ゑたり。ニウバカヒ乳馬飼︀ タカラモリ財守 コクモリ穀︀守をイダ出さしめたり。ヂヤムチン札木臣 ウラアチン兀剌阿臣をイダ出さしめて、ザザ坐坐どものチ地(站を坐ゑ置くべき處處)をミハカラ斟酌はせて、ヂヤム站をオ置かしむるに、
エキテイ驛遞の長 アラツエン阿喇淺 トクチヤル脫忽察兒
アラツエン阿喇淺 トクチヤル脫忽察兒(太祖︀ 西征の役に見えたる脫忽察兒、卽 博爾忽の傳なる塔察兒)フタリ二人にトヽノ整へさせて、ヂヤム站[390]ヒトトコロ一坐にニジフ二十のウラアチン兀剌阿臣とナ做したり。ザ坐ごとにニジフ二十づゝのウラアチン兀剌阿臣とナ做したり。エキシヤ驛舍のセンバ騸馬ども、シル汁のヒツジ羊ども(肉汁を作るべき羊ども)、シボ擠るメウマ騍馬ども、クルマ車にツ駕くるウシ牛ども、クルマ車どもは、こゝよりワレラ我等よりカギ限りたるカギリ限より、ミジカ短斡豁兒きナハ繩(なりとも)カ缺かさば、ウナジ項斡兒豁里牙兒にヨ依りてセツ切り(項を切り)ツミ罪あるとなさん。サジ匙合勒不合ほどのヤ輻(なりとも)カ缺かさば、ハナ鼻合巴兒をセツ切りツミ罪あるとなさん」とミコト勅ありき。(この站の事は、蒙韃 備錄に「凡見㆑馬則換易。幷㆓一行人從㆒、悉可㆑換㆑馬。謂㆔之乘㆓鋪馬㆒。亦古乘㆑傳之意」とあり。
太宗紀 元年には、たゞ「立㆓驛傳㆒」の三字あるのみなれども、兵志 四 站赤の篇にはその事を委しく記せり。まづその序に曰く「元制、站赤 者︀、驛傳之譯名也。蓋以通㆓達邊情㆒、布㆓宣號令㆒。古人所謂「置㆑郵而傳㆑命、」未㆑有㆘重㆓於此㆒者︀㆖焉。凡站、陸則以㆑馬以㆑牛、或以㆑驢、或以㆑車、而水則以㆑舟。其給㆓驛傳㆒璽書、謂㆓之鋪馬聖旨㆒。遇㆓軍務之急㆒、則又以㆓金字圓符㆒爲㆑信、銀字者︀次㆑之。內則掌㆓之天府㆒、外則國人之爲㆓長官㆒者︀主㆑之。其官有㆓驛令㆒、有㆓提領㆒。又置㆓脫脫禾孫 於關會之地㆒、以司㆓辨詰㆒。皆總㆓之於通政院及中書兵部㆒。而站戶闕乏逃亡、則又以㆑時僉補、且加㆓賑䘏㆒焉。於㆑是四方往來之使、止則有㆓館︀舎㆒、頓則有㆓供帳㆒、饑渴則有㆓飮食㆒、而梯航畢達、海︀字會同。元之天下、視︀㆓前代㆒、所㆔以爲㆓極盛㆒也。今故著︀㆓其驛政之大者︀㆒、然後紀㆓各省水陸凡若干站㆒、而遼東狗站、亦因以附見云」と云ひて、次に「太宗元年十一月、勅㆓諸︀牛鋪馬站㆒、每㆓一百戶㆒、置㆓運漢︀車一十具㆒、各站俱置㆓米倉㆒、站戶每年一牌內納㆓米一石㆒、令㆓百戶一人掌㆒㆑之。北使臣每日支㆓肉一斤麵一斤米一升酒一瓶㆒。四年五月、諭㆓隨路官員幷 站赤 人等㆒、使臣無㆓牌面文字㆒、始㆑給馬之驛官及元差官、皆罪之。有㆓文字牌面㆒、而不㆑給㆓驛馬㆒者︀、亦論㆑罪。若係㆓軍情急速㆒、及送納顏色絲線酒食米栗段匹鷹隼、但係㆓御用諸︀物㆒、雖㆑無㆓牌面文字㆒、亦驗㆑數應㆑付㆓車牛㆒」とあり。以下は、世祖︀ 成宗 仁宗 泰定 四朝の站に關する沿革 法令と各省の站赤 船車 人畜の數とを載せたり。)
§281(12:54:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
オゴダイ カガン斡歌歹 合罕 ノリタマ宣はく「スメラミオヤ皇考のタカミクラ大位にヰ坐て、スメラミオヤ皇考のノチ後にイソシ勤みたることは、ワ我がヂヤクト札忽惕(明 旁譯 金人 毎)のタミ民のトコロ處にシユツセイ出征して、ヂヤクト札忽惕のタミ民をタヒラ平げたり、ワレ我。ツギ次にワ我がジゲフ事業は、ワレラ我等のツカヒミチ使路にハヤ快くハシ走りマタ又 モチ用ふるシナモノ品物をハコ搬ばするに、ヂヤム站どもをオ置かせたり。マタ又 ツギ次のジゲフ事業は、ミヅ水なきチ地にヰ井どもをホ掘ら[391]せて、イダ出さしめて、クニ國のタミ民をミヅクサ水草にアリツ有附かしめたり。マタ又 トコロドコロ處處のシロ城どものタミ民のトコロ處にモノミ斥候 タンマチン探馬臣をオ置きて、クニ國のタミ民のアシ足闊勒をツチ土闊薛兒にテ手合兒をヂ地合札兒にオ置かせてス住ませたり、ワレ我。スメラミオヤ皇考にノチ後にヨツ四のジゲフ事業をソ添へたるぞ。マタ又 スメラミオヤ皇考のタカミクラ大位にもヰ居られて、
あまたのクニタミ國民をワ我がウヘ上にニナ擔ひてユ往かれて、
スナハチ便 ブダウシユ葡萄酒のサケ酒にワ我がカ勝たれたるは、アヤマチ過となれり。ヒトツ一のワ我がアヤマチ過とこれはなれるぞ。(耶律 楚材の傳に「帝素嗜㆑酒、日與㆓大臣㆒酣飮。楚材屢諫、不㆑聽。乃持㆓酒槽鐵口㆒進曰「麹糵能腐㆑物。鐵尙如㆑此、況五臟乎。」帝悟、語㆓近臣㆒曰「汝曹愛㆑君憂國之心、豈有㆘如㆓吾圖 撒合里㆒者︀㆖耶。」賞以㆓金帛㆒。勅㆓近臣㆒、日進㆓酒三鍾㆒而止」とあるに據れば、太宗のみづから過を知れるは、楚材の諫に因れるなり。然れども又 傳の後文に「楚材嘗與㆓諸︀王㆒宴、醉臥㆓車中㆒。帝臨㆓平野㆒見㆑之、直至㆓其營㆒、登㆑車手撼㆑之。楚材熟睡未㆑醒、方怒㆓其擾㆒㆑己。忽開㆑目視︀、始知㆓帝至㆒、驚起謝。帝曰「有㆑酒獨醉、不㆓與㆑朕同㆒㆑樂耶」笑而去。楚材不㆑及㆓冠帶㆒、馳詣㆓行宮㆒。帝爲置酒、極㆑歡而罷」とあるを見れば、楚材もなかなかの酒好きにして、太宗の節︀飮も厲行せられざるに似たり。かくて太宗紀 十三年 辛丑(本書の成りし翌年)に「十一月丁亥大獵、庚寅還至㆓鈋鐵𨬕 胡蘭 山㆒。奧都︀ 剌合蠻 進㆑酒、帝歡飮極㆑夜乃罷。辛卯遲明、帝崩㆓于行殿㆒。壽五十有六」とあり。さよなかまで酒飲みて、翌朝 崩じたるは、必 卒中にて斃れたるならん。然らば太宗は、酒の害を悟りながら、終に節︀すること能はずして、少し命を縮め、太祖︀より十歲 短く、本書の譯者︀の今年の齡にて遠に世を去りたるなり。)
ツギ次のアヤマチ過は、ユヱ故なくヲミナ女のヒト人のコトバ言にイ入りて、オツチギン斡惕赤斤 ヲヂ叔父のブシウ部眾のヲトメ女どもをト取りコ來させたるは、ヒヰ非違となれるぞ。クニタミ國民のウシ主 カガン合罕なるに、ユヱ故なくヒヰ非違のジゲフ事業にワ我がハシ趁れるは、ヒトツ一のアヤマチ過とこれはなれるぞ。(太宗紀に「九年丁酉六月、左翼諸︀部、訛㆔言括㆓民女㆒。帝怒、因括以賜㆓麾下㆒」とあり。訛言を怒らば、括せずして、訛言の訛なることを明にすべき筈なるに、怒に因りて括すと云へるは、怪むべし。今 祕史なる太宗の懺悔︀に據れば、婦人の言に從ひてこの事を爲せるにて、謂はゆる訛言は、訛言に非ずして預言なりき。斡惕赤斤の領地は、左翼の大部を占め居たる故に、左翼 諸︀部にて譟ぎたるなり。多遜の史には「斡亦喇惕 人は、その女どもを合罕は他の部落に嫁がせんとすと云ふ噂を聞きて、直に緣附けき。斡歌台この事を聞き、その部落の七歲以上の女ども、その年に嫁ぎたる女ども、凡て四千人を一列に竝べて、その中に[392]て最 美しきものを己と官人 等との分として摘み出し、その次は娼家に送り、殘りみなは兵士どもに摑み取りせしめけり。この事を彼等の父夫兄弟の前にてせしに、一人もぶつぶつ言はざりきと云ふ」とあり。これも同事の異聞なるべけれども、左翼の諸︀部を北方の斡亦喇惕 部とし、女を取るを他の部落に嫁がするとし、人數もあまりに多く、淫暴もあまりに甚しければ、疑はくは傳への誤りにて、話の大きくなり過ぎたるならん。又 耶律 楚材の傳に「侍臣 脫歡 奏𥳑㆓天下室女㆒。詔下、楚材尼㆑之不㆑行。帝怒。楚材進曰「向擇㆓美女二十八人㆒、足㆑備㆓使令㆒。今復選拔、臣恐㆑擾㆑民、欲㆓覆奏㆒耳。」帝良久曰「可㆑罷㆑之」」とあり。この事は、傳に八年 丙申 天下の賦稅を定むるの續にて、工匠の糜費を考覈する次に載せたれども、類︀似の事を丙申の法令の後に連ね擧げたるにて、その實は、九年 丁酉 左翼の女を括したる後の事なるべし。謂はゆる美女 二十八人は、斡惕赤斤の領地より取れるものなるべし。然らば室女を括するの非なることを悟れるも、楚材の諫に因れるに似たり。)
マタ又 ドゴルク朶豁勒忽をガイ害したるは、ヒトツ一のアヤマチ過。いかにアヤマ過てるとイ云へば、ワ我がスメラミオヤ皇考のセイシユ正主のマヘ前にハタラ働けるドゴルク朶豁勒忽をガイ害したるは、アヤマ過てるヒヰ非違。イマ今 ワ我がマヘ前にタレ誰かしかハタラ働きてくれん。ワ我がスメラミオヤ皇考の、モロ〳〵眾のマヘ前にダウリ道理をツヽシ愼めるヒト人をサツ察せずハカ圖りア合ひたるをオノレ己をアヤマチ過とせり、ワレ我。(太宗紀に「二年夏、朶忽魯 及㆓金兵㆒戰、敗績。命㆓速不台㆒援㆑之」とあるは、朶豁勒忽なるべし。この敗績も、朶豁勒忽 罪を得る一因となりしならん。然れども太宗の何を惡み何を怨みて殺︀したるかは知るべからず。)
マタ又 アマツカミクニツカミ天地よりミコト命ありてウマ生れたるケダモノ獸をアニオトヽ兄弟のトコロ處にユ往かんとてムサボ貪りて、カコヒ圍のカキ墻をキヅ築かせてトヾ止めてヰ居たるに、アニオトヽ兄弟よりウラミゴト怨言をキ聽きたり、ワレ我。アヤマチ過と[これ]もなれり。(この事は、他の書に見えず。この圍の墻は、文の儘に解すれば、雙溪集に禁地 圍場と云へる多遜の翁奇の園ひとは、目的 異にして、それよりは規模 大きく、例へば東方は拖雷の諸︀子の領地の界、西方は察阿歹の領地の界などに墻を築きたるが如し。)スメラミオヤ皇考にノチ後にヨツ四のジゲフ事業をソ添へたるぞ、ワレ我。ヨツ四のジゲフ事業は、アヤマチ過となりけるぞ」とノリタマ宣へり。(古人 曰く「人誰無㆑過、能知㆑過爲㆑貴。」太宗 自らその四功を知り、又 自らその四過を知りて、功を匿さず、過を諱まず。その自知の明あるは、古來の帝王に類︀ 希なる事なり。過を改むるの效は、未 至らざる所あるに似たれども、悍然として過を飾りその非を知らざるものに賢れること遠し。淸の高宗は、十たび武功を立てたりとて、自ら十全の記を作りて、一過一失をも言はざるは、太宗に慙づること無か[393]らんや。又 太宗紀の末に「帝有㆓寬弘之量、忠恕之心㆒、量㆑時度㆑力、擧無㆓過事㆒。華夏富庶、羊馬成㆑羣、旅不㆑賷㆑糧、時稱㆓治平㆒」とあるは、元の史臣の作れる太宗 實錄の頌讚の語をそのまゝに寫したるにて、「擧無㆓過事㆒」の諛詞は、太宗の自ら承くるを屑しとせざる事なるべし。訶倭兒思の蒙古史に曰く「斡歌台は、寬仁 大度の君なりき。
常に曰く「人人は、この世の旅客なれば、人の記憶にその名を永からしむるは善し。」「貨幣は、死を止むること能はず。然して我等は彼の世より還られざる故に、我等の財を我等の民の心に置くべきなり。」喀喇 科嚕木を築ける頃、ある日 庫に入りて、貨幣の滿ちたるを見て、「この貨幣は、我に何の用かあらん。之を守るは、困みなり」と云ひて、銀貨を要むるものは誰にても來て取れと命じけり。商人どもを勵まして來させんとの主意にて、買物の價を高く拂ひ、又給與に用ひんが爲に、ある商人より貨物を殘らず買ひたりき、大氣(惠施)の出來心にて、巴固荅惕より來つる乞食に銀貨 千巴里施を與へ、それを運ぶに馬を與へ、長旅に護衞を附けて還したることありき。その老人 路にて死にたれば、その貨幣をその女に送らしめき(多遜二、九〇)。ある日 獵せる時、貧しき人 水瓜 三つを斡歌台に與へたるに、貨幣をもたざりしかば、合屯 蒙噶に、(元史 后妃表の正宮 孛剌合眞 皇后か。)その耳に懸れる大 眞珠 二つを與へよと云ひき。蒙噶 答へて「彼は、眞珠の價を知らず。明日 拂ふ方 善からん」と云へば、合罕は「貧しき人は、明日まで待たるゝものか」と云ひて、眞珠をすぐに與へさせけり。それを直ちに安く賣りければ、買へる人、眞珠の來歷を知らずに、合罕に獻上し、合罕はそれを蒙噶に返しき。發兒思の使、眞珠 二瓶を獻りし時、斡歌台は、その一函を出し、夜會の客どもに進物として杯に入れて出さしめき。成吉思の法にては、春夏に流水に浴する者︀は死刑に當てられき。ある日 兄 札噶台と獵より回る時、貧しき木速勒蠻の浴するを見て、札噶台は、直ちに斬らせんとしければ、斡歌台は、窃に銀貨を流れに投げ入れて、木速勒蠻に敎へて「貧しきものにて、貨幣を流れに落したれば、御赦下され」と言譯せしめけり(多遜二、九三)。木速勒蠻を惡める人、斡歌台の處に來て、木速勒蠻を絕やすべきことを申さんが爲に、成吉思より遣されたりし事を云ひき。斡歌台は、しばし考へて「成吉思 汗は、譯人を用ひしか」と問へば、「否」と云ひき。「然して汝は、蒙古語を知れるか。」「たゞ禿兒克 語を知れり」と云ひき。「然らば汝はうそつきなり。成吉思 汗は蒙古語のみを知れるから」と云ひて、その人を死に處しけり(多遜二、九四)。ある日 支那の見せ物師ども、斡歌台の前にて彼の名高き影繪を見せて、その繪の一つに、馬の尾にて頸を曳かれ行く白髯の老人あるを、支那人は、誇りかに指さして、蒙古の騎兵に木速勒蠻のさいなまるゝ圖なりと云ひき。斡歌台は、彼等に罷めさせて、支那 製 珀兒沙 製の貴き品物を庫より出して、支那 製の劣れることを示し、且 曰く「富める木速勒蠻の多くは、支那 奴隷を多くもてども、支那人に木速勒蠻の奴隷をもてるものなし。成吉思の法にて、木速勒蠻の命は四十巴里施の價あれども、支那人のは驢と價 同じきことを汝等 知らん。然らば汝等は、何ぞ敢て木速勒蠻を辱むる。」斡歌台は、相撲を甚 好み、珀兒沙より名高き力士どもを呼び寄せたる中にも、闢勒は殊に賞せられき。合罕は美女を妻として與へしに、闢勒はそれと寢ねざりき。何故と問はれて、「朝廷にてかゝる大名を得たれば、力を保ちて、合罕の寵を失はざらんことを願ふ」と答へければ、合罕は「我は、汝の種族を增さんことを願ふ。將來の爲に汝の力を分つべし」と云ひき(多遜二、九六)。斡歌台の正妻は、[394]禿喇奇納にして、庫由克 庫壇 庫出 喀喇札兒 喀失の五子を生みけり、他の二子、喀丹 斡古勒と篾里克とは、妾よりなりき(多遜二、九九)。」禿喇奇納は、祕史 卷八の朶咧格捏、后妃表の脫列哥那 六 皇后 乃馬眞 氏 追諡 昭慈 皇后なり。庫由克は、祕史の古由克、本紀の定宗 𥳑平 皇帝 貴由なり。庫壇は、世系表の闊端 太子、憲宗紀の擴端なり。庫出は、世系表の闊出 太子、太宗紀の曲出なり。喀喇札兒は、世系表の哈剌察兒 王、喀失は合失 大王、喀丹 斡古勒は合丹 大王、篾里克は滅里 大王なり。又 訶倭兒思は、巴禿の西征を叙べたる後に、蒙古人に對する批評を下せり。その批評は、甚 面白ければ、こゝに引かん。
「里固尼慈の戰とそれに續ける殺︀掠とは、囉馬 帝國に恐怖の心を滿たしめたれば、敎主 古咧果哩 第九は、十字軍を興さんことを勸め、あらゆる人の加はらんことを願ひき。その信者︀どもに頒ちたる書は、悲哀 恐怖の辭にて次の如く陳べられけり。「あまたの事ども、靈地(基督の墓のある所)の悲しき狀態、囉馬 帝國の哀れなる事情は、我等の注意を要む。然れども我等は、それらを言はざらん。塔兒塔兒どもより起れる禍︀の前にては、それらを忘れん。彼等は基督敎徒の名を根こぎ倒すらんことを想へば、我等の骨は皆 碎け、我等の髓は涸れ、云云。……いかになり往くかを我等は知らず。」○荒えびすのむれの恐ろしき出現に遇ひ、輪を掛けたる(法螺 吹ける)記載 多く著︀れたり。褒吠の微音先惕 曰く「巴禿は、洪噶哩亞を襲ふ前に、惡魔の神︀だちを祭りたれば、その中の一柱は、偶像の中より辭を掛けて、「汝は、心强く進め。我、汝の前に三柱の神︀を送らん。その神︀だちの前に敵は立つこと能はざらん」と云ひしが、果して三柱の神︀ 現れたり。それらは、不和の神︀ 猜疑の神︀ 恐怖の神︀なり」(倭勒甫 二八七)、納兒奔の愛佛は、愕くべき事を記せり。「蒙古の諸︀王は、狗の頭をもち、死人の體を食ひ、たゞ骨を殘して鷹に與ふ。然れども鷹どもは、その殘りを嫌ひて食はず。老いたる醜き女は、竝の民どもに每日の食料として分たれ、美しき少き女は、淫けたる後に、その胸を切り割き、軟き肉として貴人に供へらる」(倭勒甫 三四四)。○歐囉巴の歷史家の書ける此等の輪掛けたる談に、珀兒沙 人のそれも竝べ得べし。伐撒甫は、蒙古人の種種なる性質を數へて、「獅子の如く猛く、狗の如く耐へ忍び、鶴︀の如く注意屆き、狐の如く狡猾に、鳥の如く遠目きゝ、狼の如く貪り、雄雞の如く鬭に銳く、雌雞の如く子を憐み、猫の如くこつそり近寄り、猪︀の如く餌を取るに烈し」と云へり(倭勒甫 一二六)又は含篾兒の云へる如く、蒙古にて用ふる十二支の動物の種種なる性質を集めて、蒙古人の德を數へ、「鼠の如く竊み上手に、牛の如く强く、豹の如く烈しく、兔の如く用心深く、龍の如く恐ろしく、蛇の如く、たくらみあり、馬の如く物に動じ易く、羊の如く柔順に、猴の如く子を愛み、雞の如く家に馴れ、狗の如く忠信に、豕の如く穢し」とも云ひ得べし(含篾兒の亦兒罕 四四)。吉奔(囉馬 衰滅史に)は、蒙古の侵寇の恐れは、歐囉巴の遠き隅まで廣まり、一二三八年、果昔亞(瑞典の果昔亞)甫哩沙の漁人は、彼等を畏れて、英吉利 沖に鯡取に往きかねて、それが爲に鯡の價は大に騰りきと云へり(吉奔 八、一五、注)。○その時 皇帝 甫咧迭哩克 第二と敎主との大なる確執は一つの原因となり、封建の念の極度まで發展したる(諸︀侯の專橫なる)ことは今一つの原因となりて、歐囉巴は分裂し居たる故に、洪噶哩亞の如き禍︀をそれの免れたるは、多遜の言へる如く、蓋 只 斡歌台 合罕のをりよき死に因りてなり。重き鎧に、身を堅むれども、身動きならぬ僅の騎士の一騎打の武勇と、その從者︀なる農民の訓鍊なき羣集とに對ひては、蒙古人の嚴しき訓鍊は、對敵 以上の效を著︀せり。その訓鍊の上[395]に、又 他の軍人の德、卽 工夫を善く運らすこと、甚 堪能なる軍略 兵法ありき。實に、蒙古人は、亞細亞の荒遠なる隅より出で、國の地圖をも、又その地形を學ぶべききまれる方便すらもたざりし事、彼等は、歐囉巴にのみならず、西の人の考へ方などにも全く他國人(不知案內)なりし事、彼等は、實驗の長き續きにて戰の爲に自ら用意したるに非ずして、雪なだれの如く人の國に突︀進したる事、彼等の衣食の供給 運送のしかたは、亞細亞の曠野 沙漠に適すれども歐囉巴の事物の甚 異なる狀態に適せざりし事、これらの事をのみ考へなば、彼等のしか成功したるのみならず、その軍略上の計畫は、理學に依りたるが如く立てられたる事は、殆ど神︀異 不測に近しと思はざるべからず。疑なく彼等の皆殺︀しと殘酷との恐ろしき方法は、その敵人の膽を破りて神︀經を痺れさせき。疑なく又 彼等は、科曼 人 嚕西亞 人などの如き、いかなる寇にても掠奪を許さるれば嚮導 先鋒として十分に働かんとする雇はれ根性の浪人どもを使ひき。然れどもこの事ありとも、我等は猶この偉勳に驚き、軍の成功として世界の歷史の何れにも之を較ぶることを辭せざらん。」
訶倭兒思は、又 太宗の事業を殘らず述べたる後に、「我等は、斡歌台を最 運好き征服者︀と見ても、納坡列 翁 阿歷散迭兒の帝國も較ぶれば甚 小きほどの大國を支配する强盛なる君主と見ても、夥しき民眾を長き時代に涉りて結び固めたる制度を組立つることを差圖したる治國者︀と見ても、世界に現れたる最大なる帝王の一人たる人格を彼に與へざるべからず。事業の多くは人の手にて彼に代りて爲されしことは、彼の位置より價を減ぜず。大國の君 屢 誤るは、能臣の選擇にあり。成吉思の大名は、少くとも英吉利 文學にては、その子のそれを蝕し(蔽ひ)たり。この論は、より多く注意を彼に引かんとする甚 穩當なる企望に外ならず」と云ひて太宗の篇を結べり。)
§282(12:58:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
オホ大 クリルタ忽哩勒塔にクワイ會して、ネズミ鼠のトシ年 シチガツ七月にケルレン ガハ客魯嗹 河のコデエ アラル闊迭額 阿喇勒のドロアン ボルダク朶羅安 孛勒荅黑 シルギンチエク失勒斤扯克 フタツ兩のアヒダ閒なるオルドス斡兒朶思にゲバ下馬してヲ居るトキ時、カ書きてヲ畢へたり。(鼠の年は、我が四條 天皇 仁治 元年 庚子、宋の理宗 嘉熙 四年、元の太宗 十二年、西紀 一二四〇年なること、序論に云へるが如くにて、太宗 昇遐の前年なり。闊迭額 阿喇勒は、卷四 一三六頁〈[#「一三六頁」は§136に相当]〉とこの卷 五八四頁〈[#「五八四頁」は§269に相当]〉とに注せり。朶羅安 孛勒荅黑は、卷四 一三六頁に、朶羅安 孛勒荅兀揚とありて、そこに注せり。朶羅安 孛勒荅兀惕は、七つの孤山にして、孛勒荅兀惕は、孛勒苔黑の複稱なり。孤山 七つあれば、複稱に云ふべきを、こゝに單稱に書けるは、恐らくは誤ならん。又 原文に孛勒荅合とあり。孛勒荅合は、「孛勒荅黑に」なり。こゝは、「に」の字の入るべき所に非ざる故に、誤寫ならんと見て删れり。斡兒朶思は、斡兒朶の複稱なり。
こゝは太祖︀の大 斡見朶にして、帳殿の設けも、一二に止まらざる故に、複稱に呼べり。上文 五九五頁〈[#「五九五頁」は§271に相当]〉に大 斡兒朶思、親征錄に、戊子の年「秋、太宗皇帝自㆓虎八㆒會㆓於先太祖︀皇帝之大宮㆒、」太祖︀紀に十一年 丙子「春、還㆓廬胊 河行宮㆒、」太宗紀 元年 己丑 卽位の處に曲雕 阿蘭の地、また庫鐵烏 阿剌里、四年 壬辰「十二月、如㆓太祖︀行宮㆒、」憲宗紀 元年 辛亥 卽位の處に闊帖兀 阿闌の地、七年 丁巳「夏六月、謁︀㆓太祖行宮㆒、祭㆓旗鼓㆒、」明宗紀 天曆 二年 六月「戊申、次㆓[396]闊朶傑 阿剌倫㆒」などあるは、皆この斡兒朶思なり。
后妃表を案ずるに、太祖︀の斡兒朶は、四所にあり。第一の斡兒朶を大 斡兒朶と云ひ、孛兒台 旭眞 大皇后(孛兒帖 兀眞 大合屯)と皇后 六人と妃子 一人とそれに住み、第二の斡兒朶には、忽蘭 皇后(忽闌 合屯)以下皇后 四人と妃子 四人と住み、第三の斡兒朶には、也速 皇后(也遂 合屯)以下 皇后 七人と妃子 三人と住み、第四の斡兒朶には、也速干 皇后(也速干 合屯)以下 皇后 五人と妃子 七人と住み、四の斡兒朶を合せて、大皇后 一人、皇后 二十二人、妃子 十五人なり。外に斡兒朶の知れざる妃子 一人ありて、后妃すべて三十九人なり。表の皇后 妃子は、蒙古語の合屯(妃)額篾(妻)をしか譯したるにて、支那の后妃よりは輕く、大皇后 卽 大合屯のみは、眞の皇后なり。洪鈞 曰く「拉施特 書 曰「成吉思 婦 有㆓五百㆒。」案、五百、恐是五十之訛。」四の斡兒朶のありかは、諸︀史に明文なけれども、大斡兒朶は、こゝの斡兒朶思なること論なし。他の三は、意をもて推すに、第二は、薩里 川(撒阿里 客額兒)の哈老徒の行宮、金幼孜の北征錄なる撒里 怯兒の宮殿なるべし。第三は、王罕の舊營なる禿剌 河の合喇屯の斡兒朶なるべし(前卷の五四三頁〈[#「五四三頁」は§264に相当]〉に見えたり)。第四は、西游記なる乃滿 國の窩里朶、卽 乃蠻の塔陽 罕の舊營なる額帖兒 河の斡兒朶にして(前卷の四七六頁 四七七頁〈[#「四七六頁 四七七頁」は§257に相当]〉を見よ)、その「皇后」と云へるは、也速干 合屯なるべく、「漢︀ 夏 公主」と云へるは、金の衞紹王の女 岐國 公主と夏の襄宗の女 察合となるべし。忽哩勒塔は、卽 忽哩勒台にして、「に」なる後置詞を踏む時は「亦」の音を略く。
忽哩勒台 卽 聚會は、遊牧の諸︀部落には大抵 有れども、その部落 大きくなり、君權 强くなるに隨ひて、聚會の勢力 衰ふるは常の事なるに、蒙古にては、國はいやが上に太りたれども、聚會は中中 廢れずして、永く(少くとも世祖︀の卽位の頃までは)その勢力を保てり。百戶 內外の部落ならば、相談の必要ある時、酋長は、小山などに登りて、「相談あるから聚れ」と大音に呼はりても、部眾 殘らずを卽刻に聚め得らるべし。しかるに亞細亞 歐囉巴に跨れる大國となりては、召集の使を發してより會員の揃ふまでに一年 餘りを費やし、又その會員は、聚まり得る人數に限ありて、平民は參列することを得ず、代議の制などは夢にも知らざれば、おのづから皇族 貴族 重官 大帥の聚會となれり。かくて一むれのむらびとの總寄合は、四海︀に薄れる大帝國の國會となり、牛飼︀ 羊飼︀どもの寄り聚ひたる平民の相談會は、王侯 將相の列れる威儀 堂堂たる貴族 議院となり、迭抹克喇西は、阿哩思脫克喇西に變じたり。
太宗の崩じたる後 五年目 丙午の年(定宗 元年、西紀 一二四四年)に、攝政 禿喇奇納 合屯(祕史 朶咧格捏、元史 脫列哥那)の召集に由りて聚れる大會の時、囉馬 敎主の命を受けて蒙古に使せる普剌諾 喀兒闢尼、その處に居て、記錄を世に遺したれば、漢︀文の書には更に見えざる蒙古の大會の盛況も、我等に知らるゝに至れり。訶倭兒思の蒙古史に曰く「大 忽哩勒台は、斡歌台の常に夏を過せる科依揭の湖に近き地に聚るべく召集せられき。」斡歌台の常に夏を過したる所は、多遜の史に斡兒篾克禿阿の昔喇 斡兒都︀なりとあれば、「科依揭の湖に近き地」は、何かの誤ならん。「今 巴禿 罕は、蒙古にて最 重要なる人なりしが、この王の來會 遲きに由りて、大會は延び延びになりき。巴禿の口實は、その馬どもの足 弱しと云へるなれども、實の理由は、攝政とその子 庫由克とを惡めるなりき。巴禿は竟に會せずして、大會は、一二四四年の春、巴禿なしにて開かれき。大會の開かれたる昔喇 斡兒都︀まで亞細亞のあらゆる所より輻輳せる かなた こなた の道路に、旅人 羣集しけり。成吉思の弟 兀出肯は、その子孫 四十八人を伴れて來ぬ。拖雷の寡婦とその諸︀子[397]と、斡歌台 拙只 札噶台の子孫だち、支那の蒙古領の文武 長官、珀兒沙の牧長 阿兒昆、突︀兒其思壇 河閒 地方の牧長 馬思速惕、嚕姆の薛勒主克 種の速勒壇 囉古訥丁、嚕西亞の大公 牙囉思喇甫、古兒只の王位の競爭者︀にて二人共に名は荅毗惕、阿列玻の速勒壇の弟、巴固荅惕の合里發の使、亦思馬額勒 宗派なる阿剌木惕の君の使、抹速勒發兒思 客兒曼 撏帕惕の使ども、昔里沙の王 海︀團の弟、この人人は、皆 立派なる獻上物をもちて來ぬ。「この大人だちの中に、人に知られざる出家 二人は、その衣服の卑しきとその使命の大なるとにて著︀しかりき。」この二人は、敎主と里翁の僧︀會との命にて、蒙古人を正敎に導かんが爲に至れるにて、その一人なる都︀ 普喇諾 喀兒闢諾は、卽位の盛禮を記載せり。二千の白き天幕は、貴人の爲に設けられ、その貴人は夥しき故に、頭を曲げて行き過ぐる機會あるのみなりき(會談する機會を得ざりき)。平民の大眾は、その人だちの外の方に天幕を張りき。皇族 大帥の會合する大なる天幕は、二千人を容るゝ程にて、その周圍は、やゝ離れて繪もて蔽はれたる欄︀干をまはしき。その天幕に、入口 二つあり。一は、合罕の爲にて、それより入らんとする大膽者︀のあるべき筈なければ、そこには守兵もなく、他の入口は、弓と劍とを持てる兵士 守衞しけり。每朝 會眾は、會の事務を議し、午後は馬乳酒を飲みて日を送りき。毎日 會員は、種種なる色の衣服、第一の日は白き、第二は赤き、第三は紫の、第四は紅の衣服を着ぬ。ある貴人だちの乘れる馬の轡は、銀貨 二十 巴里施 以上の價ありき。選擧の前より、庫由克は、大なる尊敬をもて取扱はれき(迭 邁剌の引ける喀兒闢諾 九、二四三)。外に往けば、讃美の歌を歌はれ、頭に紅の毛附きたる權力の仗を己の方に傾けられき。選擧の日 來つる時に、攝政と會員とは、昔喇 斡兒都︀より二三 禮古 離れたる金の天幕に赴きて、合罕の選擇の事を討議しけり。金の天幕は、金の釘にて金の板を柱に捲き附けたるが故に、しか名づけられ、紅の毛氈を敷き、帷幔をもて蔽はれき。斡歌台は、初にその第三子 庫出(世系表の闊出、太宗紀の曲出)を相續人に名ざしたれども、庫出は、一二三六年(太宗 八年)支那にて死したる故に、又 庫出の子 失喇門(世系表の昔列門、定宗 憲宗 兩紀の失烈門)を名ざしたりき。然れども禿喇奇納は、その長子なる庫由克を立てんことを願ひ、失喇門はまだ年少きことを言ひて、庫由克を選擧せんことを會眾に勸めき。庫由克は、通例の習慣に隨ひ、一時はうはべの辭退して、竟には皇位をその子孫に保たんことを諸︀王 羣臣の誓へる上にて、斡歌台のなせるが如く承諾しけり。昔蒙 迭 散寬壇と阿兒幾尼亞の海︀團とに據れば、朝廷の大人だちは、庫由克とその妻とを方形なる黑き毛氈の臺に載せて、それを高く擡げて、庫由克を合罕と呼び上げけり。これは、明に甚 古き廣く廣がれる習慣なりき(原注。阿提剌の、また洪噶哩の諸︀王の、選擧の談を引きくらべよ。)會眾は、九たび拜伏して敬禮を行ひ、會場の外に居たる大眾は、同時に顙を地に垂れき。その時 庫由克は、從者︀を伴れて天幕より出でて、日を三たび禮拜しけり。禮式 畢りて、祝︀宴に移り、その閒なりたての合罕は、高御座に坐り、右に諸︀王(諸︀王 駙馬)左に諸︀女王(公主 王妃)を列ね、飲食は夜半まで續き、音樂 軍歌は室內に響︀ぎ渡りき。宴會は、七日の閒 引續き、然る後に總花はまき散らされ、人人その位に隨ひて賜物を受けき。庫由克は、その父の大氣なるにも勝らんことを願ひ、商品を七萬 巴里施の價ほど買ひ、その拂ひには征服したる國に當てたる命令手形を渡しきと云へり。それらの品は、惜しげもなく羣眾に分配せられ、兒ども奴どもすら賜物を受け取りけり。二度目の分配までなし[398]たるに、夥しき貯藏は盡きざりしかば、庫由克は、殘りをば勝手に掠奪せよと命じて畢へけり(多遜 二、一九七-二〇三)。荷車 五百輛あまりに積みたる金 銀 絹衣物は、皇居より遠からざる小山の上に置かれて、悉く分配せられきと喀兒闢諾は云へり。」)
成吉思 汗 實錄 卷の十二 終り。
- ↑ 明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載、「桑原隲藏全集 第二卷」岩波書店、那珂先生を憶う - 青空文庫
- ↑ 国立国会図書館デジタルコレクション:info:ndljp/pid/782220
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