志に「探馬赤 軍、則諸︀部族也」とあるは、鎭戌の兵に諸︀部族を用ひたるが故に、しか云へるなり。趙翼の二十二史 劄記に「探馬赤、軍名、謂㆓兵之矯捷者︀㆒」とあるは、恐らくは探馬の原義にあらじ。)黃キなる金コガネ、黃キばめる金コガネある納忽惕ナクト、(納忽惕は器︀物か。明本 旁譯に渾金とあれどいかゞ)金襴キンラン、總金襴ソウキンラン、眞珠シラタマ、東珠オホタマ、頸長クビナガく脚高アシタカき脫必察兀惕トビチヤウト(西使記に見えたる脫必察の複稱なり。明譯に「西馬毎」とある毎の字は、複稱の語尾 兀惕を譯せるなり。卜咧惕施乃迭兒 曰く「この書方は、西 亞細亞にて今も大に貴ばるゝ謂はゆる禿兒科曼 馬の種類︀にあてはまれり。第十五 世紀の委古兒 支那 字引に、脫必察は大西馬と譯せられたり。」沙兀の禿兒奇 語の語彙に「脫魄察克=頸 長き禿兒科曼 馬」とあり。)古舌零 額劣兀惕グリン エレウト、荅兀昔 乞你都︀惕ダウシ キニドト〈[#「荅兀昔 乞你都︀惕」はママ。「元朝秘史」§274(12:27:02)の漢︀字音訳は「荅兀昔 乞赤都︀惕(ダウシ キチドト)」]〉、(二つともに明本 旁譯に駝名とあり。西南 亞細亞の特產なる獨峯駝の二種の突︀兒克 語ならんか。考ふべし。)馱ニツくる合赤都︀惕 老撒速惕ガチドト ラオサストを(明本 合赤都︀惕の旁譯 騾名、老撒速惕の旁譯 騾とあれば、合赤都︀惕と稱する騾馬と讀みたるなり。これも突︀兒克 語か考ふべし。)年トシごとに送オクらしめておこせ居ヲれ」と宣ノリタマへり。
速別額台 巴阿禿兒スベエタイ バアトルの後援ゴヱンに出征シユツセイしたる巴禿バト 不里ブリ 古余克グユク 蒙格モンゲを首ハジメとせるあまたの諸︀王ミコダチは、康鄰カングリンを乞卜察兀惕キブチヤウトを巴只吉惕バヂギトを收ヲサめて、額只勒エヂル(前卷の亦的勒、また上文の阿的勒)札牙黑ヂヤヤク[なる水ミヅある河カハを渡ワタり]、篾格惕メゲト(上文の篾客惕)の城シロを破ヤブりて、斡嚕速惕オルストを殺︀コロして、盡ツくるまで掠カスめたり。(斡嚕速惕の嚕を前卷も上文も魯と書けるは誤なり。)阿速惕 薛速惕アスト セスト(前卷の撒速惕)孛剌兒ボラル(上文の不剌兒)蠻 客兒蠻 乞瓦マン ケルマン キワ(前卷の乞瓦 綿 客見綿、上文の綿 客兒綿 客亦別)を首ハジメとせる城シロどもの民タミを虜︀トラへて、降クダらしめて、(明譯惟タヾ 阿速惕アスト 等 城 百姓ラノ シロノ タミハ、虜︀ 得 虜︀了トラヘ ウルハ トラヘテ、歸附 得 歸附了クダシ ウルハ クダシテ、)荅嚕合臣ダルガチン 探馬臣タンマチンを置オきて回カヘれり。(巴禿の西征は、本書の記事 甚 簡略なる上に、親征錄には一語もなく、
元史 太宗紀には「七年乙未春、遣㆓諸︀王 拔都︀ 及皇子 貴由 皇姪 蒙哥㆒征㆓西域㆒。」「九年丁酉春、蒙哥 征㆓欽察 部㆒破㆑之、擒㆓其酋 八赤蠻㆒。」「十一年己亥冬十一月、蒙哥 率㆑師圍㆓阿速 蔑怯思 城㆒、閱㆓三月㆒拔㆑之。」「十二年庚子春、皇子 貴由 克㆓西域未㆑下諸︀部㆒、遣㆑使奏㆑捷。冬十二月、詔㆓貴由㆒班㆑師」とあるのみにして、その外 定宗 憲宗 本紀 速不台 昔里鈐部 等の傳に零細の叙事あるに過ぎざるに
主吠尼 喇失惕の舊史 含篾兒の金帳史 倭勒甫の蒙古史 喀喇姆津の嚕西亞史などに由りて、今はその事蹟 委しく明かにな