§274(12:26:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
綽兒馬罕チヨルマカンの巴黑塔惕バクタト征服
綽兒馬罕 豁兒赤チヨルマカン ゴルチは、巴黑塔惕バクタトの民タミを降クダらせき。(多遜の史に據れば、「出兒馬昆は、珀兒沙 征伐の命を受け、三萬の兵を率ゐて、一二三〇年(太宗 二年)闊喇散に至れり。速勤壇 者︀剌列丁は、太祖︀ 凱旋の後、印度より客兒蠻を經て、亦思帕杭に入り、亦喇克 闊喇散 馬贊迭㘓を徇へ、合里發の領地を侵し、阿在兒拜展を取り、古兒只の軍を敗り、一二二六年(太祖︀ 二十一年)三月、その都︀ 提甫里思を取り、その十月 阿卜合實 部を襲ひて回り、翌年 八月 二十七日 蒙古の軍と亦思帕杭の近傍に戰ひて大敗せしが、蒙古の死傷も甚 多くして速に退けり。(倭勒甫は、この軍を指揮したるは、闊喇散の總督 成帖木兒なりと云へり。又 蒙古の速に退けるは、太祖︀の凶報 達したるが爲なりと云へれども、いかゞあらん。)者︀剌列丁は、二たび古兒只に逼り、高喀速 山 南北の諸︀部 聯合の兵を敗り、合里發 木思壇昔兒と和を講じ、珀兒沙 汗の封册を受けたり。一二二九年(太宗 元年)の末に、者︀剌列丁は客剌惕を圍み、翌年 四月 遂に落したれども、荅馬思庫思 嚕姆 阿列玻 抹速勒 篾鎖玻塔米亞 聯合の兵に擊破られて帖卜里自に回りたる時、出兒馬昆の軍 至れり。一二三一年(太宗 三年)阿兒㘓 阿在兒拜展 諸︀州に叛かれ、者︀剌列丁は、蒙古を禦ぐこと能はず、逃れて庫兒篤の山中に入り、土人に殺︀されたり。蒙古 人は、篾鎖玻塔米亞 額兒必勒 客剌惕の地を蹂躪するに、敢て抗するものなし。翌年 阿在兒拜展に入り、帖卜里自を降し、歲貢の額を定め、一二三五 一二三六の二年(太宗 七年 八年)の閒、復 額兒必勒に入り、阿兒㘓の甘札を取り、古兒只の諸︀城を侵し、一二三七年(太宗 九年)亦喇克 阿喇必に入り、巴固荅惕の兵に敗られ、翌年 再 亦喇克 阿喇必に入り、七千の敵を皆殺︀にせり。諸︀將 兵を分けて、古兒只に屬する諸︀部落、阿勒巴尼亞 大阿兒篾尼亞の諸︀城を取り、一二三九年(太宗 十一年)裏海︀ 黑海︀の閒 全境 皆 定まり、翌年 出兒馬昆 卒し、副帥 拜住その任を繼ぎたり」出兒馬昆 卽 綽兒馬罕は、一たびは巴固荅惕の軍を擊破りたれども、その國を平げたるに非ず。その國の亡びたるは、旭烈兀 西征の時にして、憲宗 八年の事なり。祕史に 綽兒馬罕は巴黑塔惕の民を降せりと云へるは、珀兒沙 又は西 亞細亞の諸︀部を平げたるを指せるなり。)
その地好チヨく物好モノヨしと云イはれたりと知シりて、(常德の西使記に曰く「報達 國、富庶爲㆓西域冠㆒、宮殿皆沈檀烏木、壁白黑玉。產㆘大珠曰㆓太歲彈㆒、蘭石、瑟瑟、金剛鑽之類︀㆖、帶有㆘値㆓千金㆒者︀㆖。人物頗秀㆓於諸︀國㆒、所產馬名㆓脫必察㆒。」)斡歌歹 合罕オゴダイ カガン 勅ミコトあるには「綽兒馬罕 豁兒赤チヨルマカン ゴルチをすぐそこに探馬タンマに坐スゑて(探馬は、探馬臣の語原にして、探馬にすうるは、探馬臣とすることなり。故に明譯には「就令㆘綽兒馬罕 等、爲㆓探馬赤 官㆒、畱鎭㆗其地㆖」と譯せり。等の字は、衍なり。原文にはなし。蓋 探馬は、鎭戌の義にして、探馬臣は鎭戌の官、探馬赤 軍は鎭戌の兵なり。元史 兵