旣附書于杭忽思直脫兒ハンフスチトル之傳矣、而又爲立傳。至於作佛事、則本紀必書、游皇城、入之禮樂志、(原注。當云祭祀志、朱誤記。)皆乖謬之甚者︀」。予按、元史列傳之重複者︀、如第十卷也蒲甘卜エブガンブ傳、附見其子昂吉兒アンギル、而第十九卷、又有昂吉兒アンギル傳、第十卷塔不己兒タブギル傳、附見其孫重喜チユンヒ、而第二十卷、又有重喜チユンヒ傳、第十卷、已有阿朮魯アチユル傳而第十八卷懷都︀ホワイド傳、又附書阿朮魯アチユル事、第五十四卷譚資榮傳、附見其子澄、而第七十八卷良吏傳、又有譚澄、皆朱氏所未及糾也」。錢氏は、洵に善く取調べたれども、艾貌拔都︀アイマウバードの傳にその子也速台兒エスタイルの事を附記しながら、重ねて也速䚟兒エスダイルの傳を立てたる車に心附かざりしは、二傳互に詳略あり錯誤ありて、異なる人の如くも見ゆるが爲なるべし。
次に擧ぐる康里カングリ人は、國初の功臣に非ざれども、前の回回フイフイ人の如く、支那の朝廷に例なき遠人の集合を示
さんが爲に列記するなり。
列傳卷十七「不忽木ブクム、一名時用、字用臣、世爲康里カングリ部大人。康里カングリ、卽漢︀高車國也」。高車は、康居の誤なり。高車は、魏書に見え、漢︀の世には聞えず。又高車は、鐵勒カレの同種にして、康里カングリとは異なり。「祖︀海︀藍伯ハイロンバ、嘗事克烈王可汗ケレイワンカガン。王可汗ワンカガン滅、卽棄家、從數十騎、望西北馳去。太祖︀遣使招之。荅曰「昔與帝同事王可汗ワンカガン。今王可汗ワンカガン旣亡、不忍改所事」遂去、莫知所之。子十人、皆太祖︀所虜︀。燕眞エンヂン最幼、年方六歲、太祖︀以賜莊聖皇后(拖雷トルイの妃)。后憐而育之、遣侍世祖︀於藩邸。長從征伐有功。云云、官止衞率」。その仲子不忽木ブクムは、「資廪英特、進止詳雅。世祖︀奇之、命給事裕宗東宮、師事太子贊書王恂。恂從北征、乃受學於國子祭酒許衡、日記數千言。衡毎稱之、以爲有公輔器︀」。その學成りて官に就くに及びて、純然たる儒生なりき。至元十四年、利用少監、十五年、燕南河北道の提刑按察副使、十九年、提刑按察使、二十一年、參議中書省事、二十三年、刑部尙書二十七年、翰林學士承旨、二十八年、中書平章政事。三十年「帝大漸、與御史大夫月魯那顏ユルノヤン(哈剌哈孫ハラハスン)、太傅伯顏並受遺詔、留禁中」。元貞二年、昭文館︀大學士平章軍國事、大德四年卒しき。長子回回フイフイは、陝西行省の平章政事。その事蹟は、列傳卷三十弟巙巙の傳に附記せり。巙巙も、儒臣にして、至正四年江浙行省の平章政事、五年翰林學士承旨。又海︀藍伯ハイロンバの裔に太子の司經拜住バイヂユなる人あり、明の兵京師に入りたる時、井に入りて自殺︀せり。その事は、列傳卷八十三忠義四閔本の傳に附記せり。
列傳卷二十一「禿忽魯トブル、字親臣、康里亦納カングリイナ之孫、亞禮達石アリダシ第九子也」。亦納イナは、何人なるか、知らず。欽察キムチヤ部主亦納思イナスに似たれども、部の名異なり。禿忽魯トブルは、不忽木ブクムと同じく許衡に學び、世祖︀嘗て康秀才と呼べり。至元の末、湖廣行省の右丞、成宗の時、江浙行省の右丞。
列傳卷二十一「斡羅思オロス、康里カングリ氏。曾祖︀哈失伯要ハシバヤウ、國初款附、爲莊聖太后宮牧官」。哈失伯要ハシバヤウは、名は哈失ハシ、姓は巴牙兀バヤウにて、愛伯伯牙兀アイベバヤウと同姓なり。「祖︀海︀都︀ハイド、從憲宗、征釣魚山、歿于陣。父明里帖木兒ミンリテムル、世祖︀時爲必闍赤ビヂエチ、後爲太府少監」。斡羅思オロスは、至元二十九年、八番順元等處の宣慰使都︀元帥、大德六年、羅羅思ロロスの宣慰使兼管軍萬戶、武宗の時、四川行省の平章政事。その子慶童キントンは、列傳卷二十九に傳あり、仁宗の時より朝に仕へ、至正十年、江浙行省の平章政事、二十五年、陝西行省の左丞相、二十八年中書左丞相、京城破れたる時殺︀されき。
列傳卷二十二「塔里赤タリチ、康里カングリ人。其父也里里白エリリベ、太祖︀時、以武功授帳前總校」。塔里赤タリチは、世祖︀の時、蒙古