列傳卷十、阿朮魯アチユルは蒙古氏とあれども、阿朮魯アチユルの孫懷都︀ホワイドの僂(勿傳卷十八)に斡魯納台オルナタイ氏とあるに據れば、蒙古氏は、蒙古斡魯納台オルナタイ氏と云ふべきを脫したるなり。「太祖︀時、命同飮班朱尼バンヂユニ河之水」。懷都︀ホワイドの傳には「祖︀父阿朮魯アチユル、與太祖︀同、飮黑河水」とあり。懷都︀ホワイドは、世祖︀の時南征して、屢戰功ありき。
列傳卷十、怯怯里ケケリ、斡耳那オルナ氏。太宗の時、千戶。
列傳卷十、紹古兒チヤウグル麥里吉台メリギタイ氏。「事太祖︀、命同飮班朱尼バンヂユニ河之水」。洛磁等路の都︀達魯花赤ダルハチ。
列傳卷十、抄兒チヤウル、別速ベス氏。子抄海︀チヤウハイ、孫別帖ベテと、祖︀孫三代皆陳に歿し、別帖ベテの子阿必察アビチヤも、至元中疾にて軍中に卒しき。
列傳卷十、塔不己兒タブギル、束呂糺シユルギウ氏。太宗の時、招討使、征行萬戶。子脫察剌トチヤラ、孫重喜チユンヒ。重喜チユンヒは、列傳卷二十に別に傳あり。
列傳卷十、直脫兒チトル、蒙古モング氏。父阿察兒アチヤルは、太祖︀の博兒赤ボルチ(寶兒赤バウルチ)。直脫兒チトルは、孫忽剌出クラチユの傳(列傳卷二十)に赤脫兒チトルとあり。太宗九年丁酉、涿州路の達魯花赤ダルハチ。
列傳卷七、察罕チヤガン、唐兀烏密タングウミ氏。鳥密ウミは、於彌オミとも書き、李恆の傳に「其先、姓於彌オミ氏。唐末賜姓李、世爲西夏國主」とあり。李恆は、西夏國主の子兀納剌ウナラ城を守りて死したる人の孫なり。恆の子李世安の墓誌を吳澄の撰りたるに「公、西夏賀蘭於彌ハランオミ部人也」とあるに據れば、國亡びたる後住みたる部落の名を姓としたるにて、傳の如く李姓を賜はれる前に稱したるには非ず。故に錢大昕の考異に「西夏之先、本拓跋トバ氏。於彌オミ與拓跋トバ、音不相近。蓋元時國俗之語」と云へり。察罕チヤガンは、太祖︀の時、御帳前の首千戶。太宗十年戊戌、馬步軍