に出でたる說なるかも知るべからず。至治三年八月英宗(仁宗の子)、上都︀より南に還りて南坡に蹕を駐めし時、御史大夫鐵失テシ等逆を謀り、右丞相拜住バイヂユを殺︀し、英宗を幄殿に弑し、その黨諸︀王按梯不花アンチブハ知樞密院事也先鐵木兒エツセンテムル、皇帝の璽綬を奉じて帝の迎へに往きたれば、九月癸巳、帝は龍居ルンク河にて卽位し、天下に大赦し、明日倒剌沙ダウラシヤを中書平章政事となしき。この時の赦書は、蒙古文の俗文譯にて珍しければ、こゝに引かん。「薛禪セツエン皇帝クワウテイ可憐見ハレンゲン嫡孫チヤクソン裕宗ユウソウ皇帝クワウテイ長子チヤウシ我仁慈ワガジン甘麻剌ガマラ爺爺ヤヤ根底モトニ、封授ホウジユ晉王シンワウ、統領トウリヤウ成吉思チンギス皇帝クワウテイ四个ヨツノ大斡耳朶ダイオルド及ト軍馬グンバ達達タタ國土コクド都︀スベテ付來アヅケキテ、依著︀ヨリテ薛禪セツエン皇帝クワウテイ聖旨セイシ、小心セウシン謹︀愼キンシン、但凡タヾスベテノ軍馬グンバ人民ジンミン的ノ不ザル揀甚エラバナ麼句當コウタウ裏ウチ、遵守ジユンシユ正道セイダウ行來オコナヒシ的ガ上頭ユヱニ、數年スネン之ノ間アヒダ、百姓ヒヤクセイ得エタリ安ヤスンズルヲ業ゲウ。在ニ後ノチ完澤オルヂエイト篤皇帝クワウテイ、敎シメ我ワレ繼承ケイシヨウ位次セキジ、大斡耳朶ダイオルド裏ウチ委付了來ヰフシタリキ。委付了的ヰフシタルノ大營盤ダイエイバン看守カンシユ著︀シテ、扶立了タスケタテテリ兩箇哥哥フタリノアニ曲律クルク皇帝クワウテイ普顏篤ブヤント皇帝クワウテイ姪ヲヒ碩德シユテ八剌バラ皇帝クワウテイ。我ワレ累朝ルヰテウ皇帝クワウテイ根底モトニ、不ズ謀ハカラ異心ヰシ、不ズ圖ハカラ位次ヰジ、依ヨリ本分ホンブン、與タメ國家コクカ出イ氣力キリヨク行來オコナヒキ。諸︀王シヨワウ哥哥アニ兄弟每キヨウダイラ聚モロ〳〵百姓每ヒヤクセイラ也都︀スベテ理會リクワイ的セルコト也者︀ナルベシ。今イマ我的ワガ姪ヲヒ皇帝クワウテイ生ウ天テン了タリ也麼道トテ、迤南イナン諸︀王シヨワウ大臣タイシン、軍上的イクサノウヘノ諸︀王シヨワウ駙馬フバ臣僚シンレウ、達達タタ百姓每ヒヤクセイラ眾人シウジン商量シヤウリヤウ著︀シテ,「大位次タイヰジ不スベカ宜久ヒサシク虛ムナシクス。惟タヾ我ワレ是ナレバ薛禪セツエン皇帝クワウテイ嫡派チヤクハ、裕宗ユウソウ皇帝クワウテイ長孫チヤウソン、大位次タイヰジ裏ウチ合坐地スワル的ノ體例タイレイ有アリ、其餘ソノホカ爭アラソ立タツヲ的ベキ哥哥アニ兄弟キヤウダイ也無有ナシアルコト。這般コノタビ晏駕アンカ其間ソノホド、比及オヨビテ整治セイジ以ヨリ來コノカタ、人心ジンシン難ガタケレバ測ハカリ、宜ベシト安撫アンブ百姓ヒヤクセイ、使シメ天下テンカ人心ジンシン得寧エヤスキヲ、早就ハヤクツキテ這裏コヽニ卽ツ位クラヰ」提說テイセツ上頭ユエニ、從シタガ著︀衆人シウジン的ノ心ココロ、九月クグワツ初四日ヨカ、於ニテ成吉思チンギス皇帝クワウテイ的ノ大斡耳朶ダイオルド裏ウチ、大位次タイヰジ裏ウチ坐了スワリヌ也。交コモ〴〵衆シウ百姓每ヒヤクセイラ心コヽロ安ヤスンゼン的ガ上頭タメニ、赦書シヤシヨ行有オコナヘリ」。かくてその月辛丑、倒剌沙ダウラシヤの兄馬某沙マミウシヤを知樞憲院事とし、十月逆賊也先鐵木兒エツセンテムル等を行在所に誅し、右丞相旭邁傑フマイケ御史大夫紐澤ニウヂエを遺して逆賊鐵失テシを大都︀に誅し、江淛行省の平章政事兀伯都︀剌ウバドラを中書平章政事とし、十一月、車駕大都︀に至り、十二月、諸︀王按梯不花アンチブハを海︀南に流し、倒剌沙ダウラシヤを中書左丞相とせり。泰定元年四月、嶺北行省の左丞潑皮ボビを中書左丞とし、二年二月、右丞とし、十一月倒剌沙ダウラシヤを錄軍國重事とせり。致和元年七月庚午、帝上都︀に崩じ、九月、倒剌沙ダウラシヤ、皇太子阿速吉八アスギバを立てて、天順と改元せり。
明宗紀に「泰定皇帝崩于上都︀。倒剌沙ダウラシヤ專權自用、踰月不立君、朝野疑懼。時僉樞密院事燕鐵木兒エンテムル、留守京師遂謀擧義」と云ひ、燕鐵木兒エンテムルの傳には「丞相倒剌沙ダウラシヤ專政、利於立幼」とあり。考異にそれを駁して「泰定踐祚之日、儲位早定、朝野本無異議也」とて倒剌沙ダウラシヤの「踰月不立君」を實錄の誣詞とせり。委しくは、下の〇〇〇頁に引けり。かくて八月甲午、燕鐡木兒エンテムルは、百官を興聖宮に集め、兵を以て脅して、武宗の子を立てんことを誓ひ、手づから平章烏伯都︀剌ウバドラ伯顏察兒バヤンチヤルを縛り、武宗の次子懷王圖帖睦爾トテムル(文宗)を江陵より迎へんが爲に使を遣しき。九月辛未、烏伯都︀剌ウバドラを殺︀し、伯顏察兒バヤンチヤルを流して、その家を籍し、壬申、文宗位に卽き天曆と改元せり。この時天順帝已に上都︀に卽位し、大兵を遣して大都︀の叛者︀を征したるに、燕鐵木兒エンテムル自ら出でて禦ぎ戰ひ、劇戰數回の後、北軍遂に敗れ、十月辛丑、倒剌沙ダウラシヤ等、皇帝の寶を奉じて出で降り、天順帝はいかになれるか、元史に記せず。已酉、烏伯都︀剌ウバドラの家貲を追理し、庚戌、倒剌沙ダウラシヤを獄に下し、十一月庚申、倒剌沙ダウラシヤ・馬某沙マミウシヤ・潑皮ボビ・木八剌沙ムバラシヤ等の家貲を追理し、癸未、倒剌沙ダウラシヤ・馬某沙マミウシヤ等を殺︀しき。
24。氏族表に引ける回回フイフイ人。
氏族表は、諸︀書を引きて、これらの外にあまたの回回フイフイ人を載せたり。元統己酉進士錄に見えたる穆古必立ムグビリ剌馬丹ラマダンは、皆回回フイフイ氏、脫穎トインは木速魯蠻ムスルマン氏にて、いづれもその父祖︀三代の名を列記せり。木速魯蠻ムスルマンは、卽木速兒蠻ムスルマンにて、抹哈篾惕モハメト敎徒と云ふに同じ。又進士錄に、阿都︀剌アドラは回回フイフイ昔馬里シマリの人とありと云へり。昔馬里シマリは考へ得ず。祕書志には、至元六年の祕書卿回回フイフイ人木八剌吉ムバラギ、大德十一年祕書少監となれる木速蠻ムスマン(木速兒蠻ムスルマン)の節︀歇兒的ツエヘルヂあり。歐陽玄の集には大食タージ國の人也黑迭兒エクデルあり、茶迭兒チヤデル局諸︀色人匠總管府の達魯花赤ダルハチとなり、その子馬合馬沙マハマシヤその職を襲ぎ、馬合馬沙マハマシヤの子四人密兒沙ミルシヤ・木八剌沙ムバラシヤ・忽都︀魯沙フドルシヤ・阿魯渾沙アルフンシヤ、密兒沙ミルシヤの子烏馬兒ウマル、阿魯渾沙アルフンシヤの子蔑里沙メリシヤあり。同じ集に見えたる燕京の大斷事官于闐ウテンの人雅老瓦實ヤラワシ、朱德潤の集に見えたる于闐ウテンの人