都︀元帥。憲宗の時、以都︀元帥兼領尙書省事。察罕チヤガンの兄弟曲也怯祖︀クエケヅは、太祖︀の時、皇子察哈台チヤハタイの札魯火赤ヂヤルホチ(札兒忽赤ヂヤルクチ)。曲也怯祖︀クエケヅの孫二人、亦力撒合イリカサは、世祖︀の朝の直臣、立智理威リヂリオイは、成宗の朝の能臣。
列傳卷十一、李楨、字榦臣、西夏國族子也。太宗十年戊戌、軍前行中書省の左右司郞中。庚戌(憲宗卽位の前年)襄陽軍馬萬戶。
列傳卷九、昔里鈐部シリケンブ、唐兀タング人、昔里シリ氏。鈐部ケンブ亦云甘卜ガンブ、音相近而互用也。太祖︀の末年西夏征伐に從ひ、太宗の時、定宗・憲宗諸︀王拔都︀バドに從ひ西域を征し、十三年還り、千戶を授かり、尋で斷事官に遷り、定宗元年大名路の達魯花赤ダルハチに進み、憲宗九年に卒し、子愛魯アイルその職を奬げり。王憚の撰れる大名路宣差李公神︀道碑に云く「公諱益里山イリシヤン。其先係沙陀シヤダ貴種、以世故徒酒泉郡之沙州、遂爲沙州人」。李公は、卽昔里鈐部シリケンブにして、一名を益里山イリシヤンと云へるなり。沙陀シヤダの種にして姓は李氏なれば、沙陀シヤダの李國昌の一族にてやあらん。中堂事紀に中統二年大名路達魯花赤ダルハチ愛魯アイルを黜けたることを載せて、「愛魯アイル、河西人小李鈐部シヤウリケンブ之子也。小李シヤウリ譌爲昔里シリ」とあり。小李は、卽李氏にして、沙陀シヤダの李氏又は唐兀タングの李氏に別たんが爲に小の字を加へたるならん。
列傳卷十、也蒲甘卜エブガンブ、唐兀タング氏。「歲辛巳(太祖︀十六年)、率眾歸太祖︀、隷蒙古軍籍、奉旨同所管河西人、從木華黎ムカリ〈[#「木華黎」は底本では「木華黍」。「黎」(lí)と「黍」(shǔ)は音が大きく異なるので誤植と判断]〉出征、以疾卒、子昻吉兒アンギル襲領其軍」。列傳卷十九昻吉兒アンギルの傳に「昻吉兒アンギル、張掖人、姓野蒲エヷ氏、世爲西夏將家。歲辛巳、父甘卜ガンブ率所部歸太祖︀。以其軍隷蒙古軍籍、仍以甘卜ガンブ爲千戶主之、云云」とありて、甘卜ガンブの傳よりは却て稍委し。昻吉兒アンギルは、至元中、淮西の宣慰使、廬州の蒙古漢︀軍萬戶府の達魯花赤ダルハチ、江浙行省の左丞。
列傳卷八、按竺邇アンヂニ、雍古オング氏。「其先居雲中寒外。父䵣公ダコン〈[#「䵣公」は底本では「𪐵公」。ルビ「ダコン」に倣い修正。以後すべて同じ]〉爲金羣牧使。歲辛未(太祖︀六年)、驅所牧馬來歸、太祖︀命仍其官。按竺邇アンヂニ幼鞠子外祖︀朮要甲チユヤウカ家。訛言爲趙家チヤウカ、因姓趙氏。年十四、隷皇子察合台チヤガタイ部。云云。」つぎに「甲戌、太祖︀西征尋思干セムスカン阿里麻里アリマリ等國、以功爲千戶」とある甲戌は、庚辰などの誤なり。「太祖︀卽位、尊察合台チヤガタイ爲皇兄、以按竺邇アンヂニ爲元帥、戊子鎭刪丹州」。戊子は、太祖︀卽位の前年なれば、こゝにも何か誤あらん。金亡びて後、金蘭定會四州を定め、鞏州を招ぎ降したる時、「皇兄嘉其材勇、賞賚甚厚、賜名拔都︀バド、拜征行大元帥。」子十人ありて、その中徹理チエリ國寶コバウ二人最名を知られ、憲宗の末年、按竺邇アンヂニ老を吿げ、徹理チエリ命ぜられて征行元帥の職を襲げり。徹理チエリの子步魯合荅ブルカダの傳(列傳卷十九)、に「步魯合荅ブルカダ、蒙古弘吉剌ホンギラ氏。祖︀按主奴アンジユヌ云云。父車里チエリ云云」とあり。考異に云く「步魯合荅ブルカダ、乃按竺邇アンヂニ之孫、系出雍古オング氏、非宏吉剌ホンギラ氏。雍古オング爲色目之一種、非蒙古史誤」。蓋雍古オングを雍吉オンギ〈[#「雍古」と「雍吉」は底本では逆。ルビに倣い修正]〉と誤り、遂に剌ラを添へ、蒙古を加へたるなり。按主奴アンヂユヌは卽按竺通アンヂニ、車里チエリは卽徹理チエリなり。又國寶コバウの子趙世延の傳(列傳卷六十七)「其先雍古オング族人、居雲中北邊。曾祖︀䵣公ダコン爲金羣牧使。太祖︀得其所牧馬、䵣公ダコン死之」とあるは、按竺通の傳に「太祖︀命仍其官」と云へると異なり。又國寶の名は、步魯合荅ブルカダの傳に黑子ハツ、世延の傳に黑梓ハツとあり。世延の子野峻台エシユンタイは、忠義傳(列傳卷八十二)に載せられたり。