列傳卷九、唵木海︀アンムハイ、蒙古八剌忽䚟バラクダイ氏。太祖︀九年甲戌、隨路砲手達魯花赤ダルハチ。憲宗二年壬子、都︀元帥。
列傳卷十、召烈台抄兀兒チヤウレイタイチヤウル。太祖︀の時荅剌罕ダラカン(荅兒罕ダルカン)。
列傳卷十、闊闊不花ココブハ、按攤脫脫里アンタントトリ氏。阿兒壇塔塔兒アルタンタタルにて、塔塔兒タタルの分部ならん。太祖︀十三年戊寅、探馬赤タンマチ五部の前鋒都︀元帥。
列傳卷十、拜延八都︀魯バヤンバドル、蒙古札剌ヂヤラ氏。八都︀魯バドル卽巴阿禿兒バアトルは、太祖︀より賜はれる號なり。世祖︀中統二年、蒙古奧魯アウル官。
列傳卷十一、忙哥撒兒モンゲサル、察哈札剌兒チヤハヂヤラル氏。察罕札剌亦兒チヤガンヂヤライルなり。「曾祖︀赤老溫愷赤チラウンカイチ、祖︀搠阿シユア、父那海︀ノハイ、竝事烈祖︀及太祖︀嗣位、年尙少、所部多叛亡、搠阿シユア獨不去」と云へるは、恐らくは誤あらん。赤剌溫愷赤チラウンカイチは、實錄一三七頁に見えたる赤剌溫孩赤チラウンカイチにして、太祖︀の主兒勤ヂユルキンを滅せる時、兄古溫兀阿グウングアと共に諸︀子を率ゐて降附したるなれば、搠阿那海︀シユアノハイの夙く烈祖︀に事へたる事はあるべからず。部衆の叛ける時搠阿シユアの獨留まれることも祕史に見えず。赤剌溫孩赤チラウンカイチの降附する時率ゐたる子は、統格トンゲ・合失カシ二人にして、搠阿シユアの名見えざれば、搠阿シユアは幼子なるべし。忙哥撒兒モンゲサルは幼時より太宗に事へ、又拖雷トルイに從ひて、鳳翔を攻め、奇功を立てたり。「定宗陞爲斷事官」とは、定宗の時拖雷トルイの後王の斷事官と爲れるにて、皇朝の斷事官には非ず。この時諸︀王の分地に皆斷事官ありて、忙哥撒兒モンゲサルは、「剛明能擧職。憲宗在藩邸、深知其人、從征斡羅思オロス・阿速アス・欽察キムチヤ諸︀部、常身先諸︀將。及以所俘寶玉頒諸︀將則退然一無所取。憲宗由是益重之、使治藩邸之分民。間出游獵、則長其軍士、動如紀律。雖太后及諸︀嬪御、小有過失、知無不言。以故邸中人咸敬憚之。廼以爲斷事官之長、其位在三公之上、猶漢︀之大將軍也」。藩邸の斷事官を漢︀の大將軍に比したるは、不倫なり。「旣拜命、出帳殿外、欹槖坐熊席、其僚列坐左右者︀四十人。忙哥撒兒モンゲサル問曰「主上以我長此官。諸︀公其爲我言。當以何道守官」。衆皆默然。又問之。有夏人和斡ホワ居下坐、進曰「夫札魯忽赤ヂヤルクチ之道、猶宰之到羊也。解肩者︀、不使傷其脊。在持平而已」。忙哥撒兒モンゲサル聞之、卽起入帳內。衆不知所爲、皆各和斡ホワ失言。旣入、乃爲帝言和斡ホワ之言善。和斡ホワ由是知名」。この後憲宗を推戴したる始末は、前の額勒只吉歹エルヂギダイの條に引けり。憲宗旣に立ち、忙哥撒兒モンゲサルは、帝國の札兒忽赤ヂヤルクチなり、叛者︀を捕へてその首謀を悉く誅し、「帝以其奉法不阿、委任益專。有當刑者︀、輒以法刑之、乃入奏、無不報可。癸丑(憲宗三年冬、病酒而卒」。第四子帖木兒不花テムルブハの子伯荅沙バダシヤは、成宗以下六朝に歷事し、延祐︀二年中書右丞相、至治中太宗正札魯忽赤ヂヤルクチ、泰定中太保、天曆元年太傅。