合剌合塔カラカタ之地」とあり。不別八憐ブベバレンは、句容郡王世績碑に「孛伯拔都︀ボベバード者︀、海︀都︀ハイド所遣援八隣バリン者︀也」とあり。この戰は、碑に據れば、大德元年の事にして、武宗の親征より前にあり。「皇慶二年、授金符、爲千戶。明宗居潛邸延祐︀四年、命從西征、與禿滿帖木兒トマンテムル、戰于失剌塔兒馬失シラタルマシ之地、以功復受厚賞、居其地十五年」。禿滿帖木兒トマンテムルは諸︀王表に延祐︀五年封武平王とあり、世系表に見えず。仁宗紀延祐︀四年十二月と五年正月とに諸︀王禿滿鐵木兒トマンテムルの所部に金銀鈔帛を賜へることを載せ、その二月「封禿滿鐵木兒トマンテムル爲武平王」とあり。仁宗紀にも明宗紀にもこの戰の事を載せずして、禿滿帖木兒トマンテムルは叛きたる樣子も無ければ、これは全く諸︀王の私鬭なるべし。「天曆二年、賜金符、授昭勇大將軍同知大都︀督府事、卒」。
列傳卷二十二「脫因納トインナ、荅荅叉ダダチヤ氏」。荅荅叉ダダチヤと云ふ姓は、蒙古七十二種の中にも見えず。欽察キムチヤ衞を率ゐるを見れば、欽察キムチヤ人ならんと思はる。「世祖︀時、從征乃顏ナヤン、以功受上賞。大德七年、授欽察キムチヤ衞親軍千戶所達魯花赤ダルハチ武德將軍、賜金符。十年遷阿兒魯アルル軍萬戶府達魯花赤ダルハチ、易金虎符、進階懷遠大將軍」。阿兒魯は、恐らくは柯兒魯カルルの誤にて、至元二十四年に設けられたる哈剌魯ハラル萬戶府ならん。哈剌魯ハラル卽合兒魯兀惕カルルウトを地理志には柯耳魯カルルと書けり。「至大二年、拜甘肅行尙書省參知政事、四年、入爲太僕卿、皇慶元年、授阿兒魯アルル萬戶府襄陽漢︀軍達魯花赤ダルハチ、延祐︀三年、拜甘肅行中書省右丞、至治二年、改通政使、致和元年、分院上都︀、秋八月、爲倒剌沙ダウラシヤ所殺︀。有子曰定童チントン只沈哈朗︀ヂチンハラン」。只沈哈朗︀ヂチンハランの沈チンは兒ルの誤なるべし。定童チントンは、父の職を襲ぎ、阿兒魯アルル萬戶府襄陽萬戶府漢︀軍の達魯花赤ダルハチにて金虎符を佩び、只兒哈朗︀ヂルハランは、初欽察キムチヤ親軍千戶所の達魯花赤ダルハチ、後に通政院使。
氏族表に祕書志を引きて、「有買買マイマイ字子昭、至正十七年、由中政院同知、遷祕書卿、稱伯要バヤウ氏、當卽伯牙吾バヤウ氏也」とて、欽察キムチヤ人の後に附記したれども、欽察キムチヤ人の伯牙吾バヤウ氏なりや、康里カングリのなりや、蒙古のなりや、知るべからず。
これより以下の色目の諸︀臣は、國初の功臣に非ざれども、皆異種異敎に屬する遠西の人なるが故に載するなり。
列傳卷十「捏古剌ネグラ、在憲宗朝、與也里牙阿速エリヤアス三十人來歸」。捏古剌ネグラは、尼闊來ニコライなり。也里牙阿速エリヤアス三十人は、也里牙エリヤ卽額里阿思エリアスと云へる阿速アス人を首とせる三十人なり。「後從征釣魚山、討李壇、皆有功。子阿塔赤アタチ、世祖︀時、圍襄陽、下江南、敗失列及シレキ(世系表の昔里吉シリギ)、征乃顏ナヤン、皆以功受賞。後事成宗武宗、爲札撒兀孫ヂヤサウスン。仁宗時、歷官至左阿速アス衞千戶卒」。札撒兀孫ヂヤサウスンは、元史語解に札薩古遜ヂヤサグスンと改めて「掌班序官也」と注せり。阿塔赤アタチの子敎化ギヤウハは、父の職を襲ぎ、天曆中章佩卿。敎化ギヤウハの子者︀燕不花ヂエエンブハは、天曆元年溫都︀赤ウンドチ(兀勒都︀赤ウルドチ、佩腰刀人)となり、「授兵部郞中、招集阿速アス軍四百餘人、十月進兵部尙書、授雙珠虎符、領軍六百人」。丞相燕帖木兒エンテムルに從ひ上都︀の軍と戰ひ、後大司農の丞に遷りき。
列傳卷十「阿兒思蘭アルスラン、阿速アス氏。初憲宗以兵圍阿兒思蘭アルスラン之城。阿兒思蘭アルスラン、偕其子阿散眞アサンヂン、迎謁︀軍門。帝賜手詔、命專領阿速アス人、且留其軍之半、餘悉還之、俾鎭其境內、以阿散眞アサンヂン置左右。道遇闍兒哥シエルゲ叛軍、阿散眞アサンヂン力戰死之」。闍兒哥シエルゲは、卽徹兒客思チエルケスなり。「帝遣使裏屍還葬之。阿兒思蘭アルスラン言于帝曰「臣長子死、不能爲國効力。今以次子捏古來ネグライ(尼闊來ニコライ)獻之陛下、願用之」。捏古來ネグライ至、帝命從兀良哈台ウリヤンガタイ、征哈剌章ハラヂヤン、有功。兀良哈台ウリヤンガタイ賞以白