軍を率ゐ、南征して功あり、測東道の實慰使に終れり。
列傳卷二十二「明安ミンガン、康里カングリ氏。至元十三年、世祖︀詔、民之蕩析離居、及僧︀道漏籍、諸︀色人不當差徭者︀萬餘人、充貴赤グイチ、令明安ミンガン領之」。貴赤グイチは、走る人なり。語解に、桂齊グイチと改めて、「善跑ヨクハシル人也」と注せり。日本語にて足輕組アシガルグミと云ふが如し。「二十年、授定遠大將軍中衞親軍都︀指揮使。明年、賜佩虎符、領貴赤グイチ軍北征。又明年立貴赤グイチ親軍都︀指揮使司、命爲本衞達魯花赤ダルハチ。尋奉旨領蒙古軍八千北征」。二十年の「又明年」は、二十二年なり。然るに元史八六百官志二樞密院の所管に「貴赤グイチ衞親軍都︀指揮使司。至元二十四年立、置都︀指揮使二員、副都︀指揮使二員。二十九年、置達魯花赤ダルハチ一員」とあれば、「又明年」は、二十四年の誤なるべし。その年は、未達魯花赤ダルハチを置かれざれば、本衞達魯花赤ダルハチは、何かの誤なるべし。明安ミンガンは、それより海︀都︀ハイド等諸︀叛王の軍と屢戰ひ、「二十九年、以功陛定遠大將軍貴赤グイチ親軍都︀指揮使司達魯花赤ダルハチ」とあるは、百官志の語と合へり。その後「大德二年、復將兵北征、與海︀都︀ハイド戰、七年歿于軍」。その子帖哥台テゲタイ、弟脫迭出トドチユ、帖哥台テゲタイの子普顏忽里ブヤンフリ、皆貴赤グイチ親軍都︀指揮使司の達魯花赤ダルハチ。帖哥台テゲタイ、(後に)、帖哥台テゲタイの弟李蘭奚字ボランヒボ、蘭奚ランヒの子桑兀孫サングスン・乞荅海︀キダハイ二人、皆中衞親軍都︀指揮使。
列傳卷二十三、阿沙不花アシヤブハの傳に曰く「阿沙不花アシヤブハ者︀、康里カングリ國王族也。初太祖︀拔康里カングリ時、其祖︀母苫滅古麻里シエンメグマリ氏新寡、有二子曰曲律クル・牙牙ヤヤ、皆幼。而國亂家破、無所依。欲去而歸朝廷、念無以自達。一夕有數駝、皆重負、突︀入營中、驅之不去。且乃繫駝營外、置所負其旁、夜復納營中、候有求者︀歸之。如是十餘日、終無求者︀。乃發視︀其裝、皆西域重寶。驚曰「殆天欲資我而東耶。不然、此豈吾所宜有」。遂驅馳、載二子、越數國、至京師時太祖︀已崩、太宗立、盡獻其所有。帝深異之、命有司治邸舍、具廩餼、以居焉」。洪鈞の康里カングリ補傳に曰く「太祖︀十六年辛巳〈[#「巳」は底本では「已」]〉、以西域不日底定、命哲別・速不台、北征奇卜察克。旣殘其聚、復敗俄羅斯軍。十九年、東入康里カングリ、乘勝席捲、前無堅城、遂躪其部」と云ひて、自注に「西書記征康里カングリ、不詳。元史速不台スブタイ傳「蔑里乞メリキ部主霍都︀ホド奔欽察キムチヤ。速不台スブタイ追之、與欽察キムチヤ戰於玉峪敗之」。康里カングリ在東、欽察キムチヤ在西。如往欽察キムチヤ、必經康里カングリ。則當帝征西域之前、已臨其境。然阿沙不花アシヤブハ傳云「云云、至京師、時太祖︀已崩」。據此、則康里カングリ之拔、必在太祖︀季年。其爲哲速ヂエス二將北征之役、更無疑義。而速不台在太祖︀朝、僅一至欽察、傳乃誤爲兩役、亦可取以爲證」と云へり。かの寡婦は、「居二年、聞國中已定、謁︀帝欲歸。帝曰「汝昔何爲而來、今何爲而去」。且問其所欲。對曰「臣妾昔以國亂無主、遠歸陛下。今賴陛下威德、聞國已定、欲歸守墳墓耳。妾惟二子、雖愚無知、願留事陛下」。帝大喜、立召二子入宿衞、而禮遣之。後十三年復來、則二子已從憲宗伐蜀矣。逮至和寧、聞憲宗崩、諸︀將皆還、而二子獨後、心方以爲憂。過一古廟、因入禱焉。若聞神︀語、連稱好好、而不知其故。問其國人通漢︀語者︀、知爲古語、還至舍、則二子已至矣。遂留居焉。曲律クル無子。牙牙ヤヤ後[追]封康國王カウコクワウ、生六子、阿沙不花アシヤブハ最賢、年十四入侍世祖︀云云」。世祖︀の時、千戶を以て昔寶赤シバウチを領し、成宗の時、大宗正札魯火赤ヂヤルホチ、武宗の時、中書平章政事錄軍國重事康國公知樞密院事。子伯嘉訥バギヤヌは、翰林侍讀學士。氏族表に據れば、阿沙不花アシヤブハの兄四人、孛別舍兒ボベシエル 和者︀吉ホヂエギ 不別ブベ 斡禿蠻オトマン。和者︀吉ホヂエギの子四人、燕不憐エンブレンは、遼陽行省の平章政事太保興國公。燕八思提エンバスチは、大司農別不花ベブハは、嶺北行省の平章政事。伯撒里バサリは、太師中書右丞相永平王。伯嘉訥バギヤヌの兄海︀亦兒ハイイルは、順寧府の達魯花赤ダルハチ。阿沙不花アシヤブハの弟脫脫トトは、別に傳あり。
列傳卷二十五に曰く、「康里脫脫カングリトト、父曰牙牙ヤヤ、由康國王封雲中王。阿沙不花アシヤブハ之弟也。脫脫トト姿貌魁梧。少時從