と云へるは疑ふべし。殊に鸇と雀と叢との譬は、實錄六三頁なる鎖兒罕失喇ソルガンシラの二子の語と全く同じくして、卽蒙古の俚諺なれば、亦納思イナスの答と云へるものも、蒙古人の作れる談なるべし。次に「及我師西征、亦訥思イヌス老、不能理其國。歲丁酉(太宗九年)、亦訥思イヌス之子忽魯速蠻フルスマン、自歸於太宗。而憲宗受命帥師、已及其國。忽魯速蠻フルスマン之子班都︀察バンドチヤ、擧族來歸、從討蔑乞思メキス有功」。傳に前の蔑乞思メキスを蔑里乞メリキと改め、こゝの蔑乞思メキスを麥怯斯メケスと改めたるは、甚當れり。麥怯斯メケスは、祕史の蔑客惕メケト〈[#「蔑客惕」はママ。「元朝秘史」§270(12:16:02)では「篾客惕」。実録では「篾客禿」]〉にして、蔑兒乞惕メルキト〈[#「蔑兒乞惕」はママ。「元朝秘史」では「篾兒乞惕」]〉とは全く異なるを、碑に同じ文字を用ひたるは非なり。
次に「世祖︀皇帝、西征大理、南取宋、其種人以强勇見信用、掌芻牧之事、奉馬湩バトウウマノチ、以供玉食。馬湩・尙黑者︀。國人謂黑爲哈剌ハラ、故別號其人曰哈剌赤ハラチ、日見親近、妻以哈納ハナ郡王之女弟訥論ヌルン」。黑き馬乳は、蒙古人の殊に重ずるものなりき。黑韃事略に曰く「馬之初乳、日則聽其駒之食、夜則聚之以泲シボル(原注、手捻其乳曰泲)。貯以革器︀、傾桐數宿、味微酸、始可飮、謂之馬嬭子バダイシ」。徐霆曰く「霆嘗見其日中泲馬嬭矣。亦嘗問之、初無拘於日與夜。泲之之法、先令駒子啜、敎乳路來、卽趕了駒子、人自用手泲下皮桶中、却又傾入皮袋撞之。尋常人、只數宿便飮。初到金帳、韃主飮以馬嬭。色淸而味甜、與尋常色白而濁、味酸而羶者︀、大不同、名曰黑馬嬭コクバダイクロキウマノチ。蓋淸則似黑。問之則云「此實撞之七八日。撞多則愈淸、淸則氣不羶」。只此一次得飮、他處更不曾見。玉食之奉如此」と云へり。輿服志三儀衞の篇殿上執事の部、酒人凡六十人の內、「二十人主潼、國語曰郃剌赤ハラチ」。又兵志三馬政の篇に「車駕還京師、太僕卿先期遣使、徵馬五十醞都︀ウンド來京師。醞都︀ウンド者︀、承乳車之名也。旣至、俾哈赤哈剌赤ハチハラチ之在朝爲卿大夫者︀、親秣飼︀之、日釀黑馬乳、以奉玉食、謂之細乳。毎醞都︀ウンド牝馬四十。自諸︀王百官而下、亦有馬乳之供。醞都︀ウンド如前之數、而馬減四之一、謂之粗乳」とあり。
「中統初元、討阿里卜哥アリブガ之亂、班都︀察バンドチヤ與其子土土哈トトハ、皆有功。班都︀察バンドチヤ卒、土土哈トトハ領其父事、是爲句容郡武毅王。海︀都︀ハイド之叛、皇子北平王(那木罕ノムハン)、帥諸︀王之師、鎭祖︀宗興龍之故地。至元十四年、叛王脫脫トトム木失列吉シレギ入寇、諸︀部曲見掠、先朝大武帳亡焉。土土哈トトハ王憤之、誓請決戰。三月、敗其將朶兒赤延ドルチエン於納蘭不剌ナランブラ、以所掠諸︀部還」。阿里卜哥アリブガは、世系表睿宗の第七子阿里不哥アリブガ大王、海︀都︀ハイドは、太宗の第五子合失カシ大王の子海︀都︀ハイド大王なり。脫脫木トトムは、列傳卷四牙忽都︀ヤフドの傳に脫帖木兒トテムル、忠義傳伯八ババの傳に脫鐵木兒トテムル、喇失惕ラシツトは脫克帖木兒トグテムルと云へり。世系表寄宗の第十子歲都︀哥セイドカ大王の孫に荆王脫脫木兒トトムルあるに由り、考異に「疑卽其人也」と云へれども、世祖︀の幼弟の孫に叛を謀る程の壯年あるべしとも思はれざれば、鐵木哥斡赤斤テムゲオチギンの曾孫脫帖木兒トテムル大王にはあらずや。失列吉シレギは、傳に失烈吉シレギ、憲宗紀に昔烈吉シレギ、世祖︀紀に昔里給シリギまた昔里吉シリギ、伯八ババの傳に昔列吉シレギ、喇失惕ラシツト失列奇シレキ、世系表憲宗の第四子河平王昔里吉シリギなり。
「四月、只兒瓦䚟ヂルワダイ構亂應昌、脫脫木トトム以兵應之、與我軍遇、將決戰。先得其斥候數十。脫脫木トトム懼而引去。遂滅只兒瓦䚟ヂルワダイ。六月、逐其兵於禿剌トラ河、(傳は「三宿而後返」と補へり)。八月、又敗之斡歡オホン(斡兒歡オルホン)河、得所亡大帳、還諸︀部之眾於北平」。北平に還すとは、北平王の所に還せるを云ふ。「我師北伐、詔率欽察キムチヤ驍騎千人以從。十五年正月、追失列吉シレギ、踰金山、擒札忽台ヂヤフタイ以獻。又敗寬赤哥カンチゲ等軍、俘獲甚衆」。末の十字を、傳は「敗寬折哥コンヂエゲ等、裏瘡力戰、獲羊馬輜重甚眾」と改め補へり。寬赤哥コンチゲは、伯荅兒バダルの傳に寬赤哥思コンチゲスとあり。
「冬、入朝。召至榻前、親慰勞之、賜以白金百兩、海︀東白體一。國家侍內宴者︀、每宴必各有衣冠、其制如一謂之只孫ヂスン。悉以賜之。且有詔曰「祖︀宗武帳、非人臣所得御。卿能歸之、故以與卿。軍中宴諸︀帥、則設之」。欽察キムチヤ人爲民戶、及隷諸︀王者︀、別籍之、(傳は「以隷土土哈トトハ」と補へり)。戶給鈔二千貫、歲給粟帛、擇其材者︀、備禁衞。十九年、拜昭勇大將軍同知太僕院事。明年、改同知衞尉院事、領羣牧司事、給霸州文安縣田四百頃、命哈剌赤ハラチ屯田、益以亡宋新附軍八百。二十一年、賜金虎符、(傳は「幷賜金貂裘帽玉帶各一、海︀東靑鵑一、水磑