住みて、偶像を運ぶ輿を預れり。
沙曼シヤマンどもは、星占を行ひ、(日月の)蝕を豫言し、吉日凶日を指定し、朝廷の用に供せらるゝ物、合罕に獻れる物を火を以て淨め、誕生の時に星命を說き、病牀に招オがれて醫療を行へり。彼等もし人を害せんとすれば、その人未來の禍︀を起さんことを訴ふるのみにて足れり。彼等は、惡鬼を呼ぶ時、大鼓を擊ちて、感覺を失ふまで己が心を剌激し、その惡鬼より答を得たりと云ひて、その答を神︀託と宣言せり。
復活祭の日(憲宗四年)に、嚕卜嚕克ルブルクは、合罕カガンに從ひて、喀喇科嚕姆カラコルムに至れり。この都︀の狀を嚕卜嚕克ルブルクの述べたる談は、實錄六一三頁の注に引けり。又皇宮の中堂の高御座の前に當り、銀の樹ありて、四の銀の獅子の上に立ち、その獅子の口より四の銀の罍に葡萄酒馬乳酒糖蜜酒米酒流れ出づ。樹の頂に銀の天使ありて四の噴泉を供する酒池涸れて注入を要する時に喇叭を吹く。この珍奇なる銀細工は、洪噶哩亞ハンガリアの別勒果囉篤ベルグラド(白城)にて捕はたれる帕哩パリの銀工吉要姆ギヤウム孛舍ボーシエーの作にして、それを作るに銀三千馬兒克マルクを費しき。この銀工の外に、嚕卜嚕克ルブルクは、喀喇科嚕姆カラコルムにてあまたの克哩思惕クリスト敎徒・洪噶哩ハンガリ人・阿闌アラン人・嚕思ルス人・古兒只グルヂ(勺兒只亜ヂヨルヂア)人・阿兒篾尼亞アルメニア人に遇ひき。蒙古に五箇月留まりたる後、嚕卜嚕克ルブルクは、歸國の途に上り、路易ルイ第九の書簡に答ふる合罕カガンの返書を與へられき。その書は、穩なる辭にて述べたれども、通例の如く、その國の遠きことゝ强きこととを恃まずに服從すべきを命じて結べり(訶倭兒思ホヲルス一、一九一)。
又嚕卜嚕克ルブルクは、支那を喀台カタイと、西遼卽合喇乞台カラキタイを喀喇喀台カラカタイと呼びて、その紀行に「此等の(喀喇カラ)喀台カタイ人は、我が通りたる或る山中の草地(阿勒魄思アルプス)に住みき、其等の山中の或る野に、威力ある羊飼︀にして、乃蠻ナイマンと云ふ人民の主君なる捏思脫兒ネストル敎徒居りき。その人民は、捏思脫兒ネストル派の克哩思惕クリスト敎徒なりき、科亦兒コイル汗死にし時に、その捏思脫兒ネストル敎徒は、(彼に代り)自ら王となり、捏思脫兒ネストル敎徒どもは、その人を王約翰ヂヨハンと呼びてその事蹟を眞實より十倍多く語りき。それは、世界のその方より來ぬる捏思脫兒ネストル敎徒どもの常にして、最驚くべき物語を烏有の中より引き出すことを好み、撒兒塔黑サルタクは克哩思惕クリスト敎徒なることを言ひふらしたるも、彼等にて、曼古マング汗と肯汗とにつきても、同じ事を語れり、事實は、たゞその汗だちは、克哩思惕クリスト敎徒を他の民より重く取扱ふのみにて、嘗て少しも克哩思惕嘗敎徒に非ず、かゝる成行にて王約翰ヂヨハンにつき大なる物語行はれけれども、その遊牧地なりし所を我が過ぎたる時すら、わづかなる捏思脫兒ネストル敎徒の外は、誰も約翰ヂヨハンにつきて何事をも知らざりき。その遊牧地を今占領したる肯汗の朝廷には、富喇帖兒フラテル(敎會の兄弟)安篤咧アンドレ立寄り、我は歸り路にそこを過ぎけり。この約翰ヂヨハンに、一人の兄弟ありて、それも遊牧民の大首領にて、その名は翁克オンクと云ひ、喀喇喀台カラカタイの阿勒魄思アルプスの他(東)の方にて、その兄弟より二十日路ばかり隔たれる所に住み、喀喇科嚕姆カラコルムと云ふ小き町の主君にして、克哩惕篾兒奇惕クリトメルキトと云ふ人民を管きたりき、此等の人民も、捏思脫兒ネストル派の克哩思惕クリスト敎徒なりき。されどもその主君は、克哩思惕クリスト敎を棄てて、偶像敎に歸依し、己の傍に居らしめたる偶像の僧︀どもは、皆惡鬼の呪ひ託宣を事とするものなり、又その遊牧地より十日又は十五日行きたる所に抹阿勒モアルと云ふ甚貧しき部落の遊牧地ありき。その部落には、會長も無く、其邊のあらゆる人民の信ずるが如き占ひ呪ひの外に宗敎も無し。抹阿勒モアルの次に、又塔兒塔兒タルタルと云ふ他の貧しき部落ありき。時に王約翰ヂヨハンは、嗣子を遺さずに死にたれば、翁克オンク入りて自ら汗と稱し、その羊馬の群は、抹阿勒モアルの界までも廣がりき。その時抹阿勒モアルの部落の內に成吉思チンギスと云へる鍛冶ありて、機會あるごとに翁克オンク汗の家畜を掠むることを常としたれば、翁克オンク汗の牧人は、大なる苦情をその主に陳べたり。かくて翁克オンクは、軍を聚めて、成吉思チンギスの罪を責めて抹阿勒モアルの地に攻め入りたれば、成吉思チンギスは、塔塔兒タタルの地に遁げてそこに身を匿せり云云」と云へり(裕勒ユールの「喀勢カセイ」一七七)。
この紀行の科亦兒コイル汗は、合喇乞台カラキタイの古兒罕直魯古グルカンチルグを、王約翰ヂヨハンは、乃蠻ナイマンの古出魯克罕グチユルクカンを云へるなり。