困於小谷。帝命玉哇失ユワシ援出之。帝喜、謂諸︀將曰「今日大丈夫之事、舍玉哇失ユワシ、其誰能之。縱以黃金包其身、猶未足以厭朕志」」。この帝は、武宗にして、この戰は、成宗の大德五年、武宗のまだ宗王なりし時なれば、その語を記するに朕の字を用ふべからず。大德七年、成宗の牀兀兒チヤングルを諭せるにも、全くこれに同じき語あり。「武宗南還、命玉哇失ユワシ後從。敵懼莫敢近。因留之成後、賜以金察剌チヤラ二、玉束帶渾金段各一、仍賜秫米七十石、使爲酒以犒其軍」。察剌チヤラは、語解に察喇チヤラと書き「注酒器︀也」とあり。「後海︀都︀ハイド子察八兒チヤバル等、遣人詣闕請和。朝廷許之、遂撒邊備。玉哇失ユワシ乃還。帝錄其功、賜鈔五萬貫、進鎭國上將軍、仍舊職」。こゝの帝は、成宗なり。「大德十年五月、晝寢于衞舍、不疾而卒。子亦乞里歹イキリダイ襲。亦乞里歹イキリダイ卒、子拜住バイヂユ襲」。
列傳卷十九「拔都︀兒バードル、阿速アス氏、世居上都︀宜興」。勿論歸化して後の事なり。「憲宗在潛邸、與兄兀作不罕ウヅオルブハン及馬塔兒沙マタルシヤ、帥眾來歸。馬塔兒沙マタルシヤ從憲宗、征麥各思メゴス(祕史の篾客禿メケト)城、爲先鋒將。身中二矢、奮戰拔其城。又從征蜀、至釣魚山、歿于軍。拔都︀兒バードル從征李壇、圍濟南、身二十餘戰。世祖︀嘉其能、賞納失思ナシス段九、命領阿速アス軍一千、常居左右。尋於阿塔赤アタチ內、充怯薛ケセ百戶」。阿塔赤アタチは、阿黑塔赤アクタチにて、騸馬を掌る人なり。怯薛ケセは、客失克ケシクにて番直なり。「後從塔不台タブタイ南征、與敵軍戰於金剛臺、又以功受賞。師還、言於帝曰「臣願從軍、爲國效死」。世祖︀留之、仍命充孛可孫ホコスン、兼領阿速アス軍、御馬必令鞚引。至元二十三年、授廣威將軍、後衞親軍副都︀指揮使、賜虎符。明年夏、從征乃顏ナヤン于亦迷イミ河、擒僉家奴塔不台ツエンカヌタブタイ以歸。賞鈔及衣段、加定遠大將軍。大德元年卒、子別吉連ベイレン襲」。僉家奴塔不台ツエンカヌタブタイは、玉哇失ユワシの傳の塔不歹金家奴タブダイキンカヌなり。別吉連ベイレンは、致和元年、燕鐵木兒エンテムルに黨し、功を以て文宗より三珠虎符を賜はり、尋で疾に由りて辭し、子也連的エレンヂ襲げり。
列傳卷二十二「口兒吉ケウルギ(叫兒吉ケオルギ)、阿速アス氏。憲宗時、與父福︀得フデ來賜(賜は、歸の誤りか)、俱直宿衞、領阿速アス軍二十戶。世祖︀時、口兒吉ケウルギ以百戶、從元帥阿朮アチユ伐宋、有功、賜以白金等物。宋平、命充大宗正府也可札魯花赤エケヂヤルハチ、領阿速アス軍。從征海︀都︀ハイド、以功受上賞。師還、成宗命宣撫湖廣等處、訪求民瘼、還仍舊職。至大元年、武宗命充左衞阿速アス親軍都︀指揮使、進階廣威將軍。四年、卒。子的迷的兒ヂミヂル(的迷惕兒ヂミトル)、由玉典赤ユデンチ、改百戶、領阿速アス軍」。玉典赤ユデンチは、正しくは額兀迭赤エウデチなり。語解は諤德齊イユデチと改め、「司門人也」と注せり。「從指揮玉瓜失ユグワシ、征叛王乃顏ナヤン、却金剛奴キンガンヌ軍于鏁寶直ソバチ之地、降哈丹禿魯干ハダントルゲン、累以功受賞」。指揮玉瓜失ユグワシは、前衞親軍都︀指揮使玉哇失ユワシなり。金剛奴キンガンヌは、玉哇失ユワシの傳の金家奴キンカヌなり。鏁寶直ソバチは、□□□□□□□□哈丹禿魯干ハダントルゲンは、□□□□□□□□「至大四年、襲父職、授明威將軍阿速アス親軍都︀指揮使。子香山ヒヤンシヤン〈[#「香山」の「香」は底本では異体字「昋」]〉事武宗仁宗、直宿衞。天曆元年九月、兵興、從戰宜興、擊殺︀敵兵七人。自旦至暮、却敵兵凡一十三處。以功賜金帶一、授左阿速アス衞都︀指揮使」。
列傳卷二十二「失剌拔都︀兒シラバードル、阿速アス氏。父月魯達某ユルタミウ、憲宗時、領阿速アス十人入覲、充阿塔赤アタチ(阿黑塔赤アクタチ)。從世祖︀至哈剌ハラ[章ヂヤン]之地、戰數勝。兀里羊哈台ウリヤンガタイ(兀限合台ウリヤンカタイ)以其功聞、賜所俘人一口以賞之。後以金瘡發卒。失剌拔都︀兒シラバードル、至自脫別トベ(禿別惕トベト)之地、帝特賜白金楮幣牛馬等物。至元二十一年、從丞相伯顏バヤン南征、有功、仍充阿塔赤アタチ。帝嘗命放海︀靑、日「能獲新者︀賞之」。失剌拔都︀兒シラバードル、卽援弓、射一免︀二禽以獻。賞沙魚皮雜帶及貂裘、且命於尙乘寺爲少卿、於阿速アス爲千戶。二十四年、授武略將軍、管阿速アス軍千戶、賜金符。乃顏ナヤン叛、從諸︀王和元魯往征之、力戰有功」。和元魯は、□□□□□□□□「乃顏ナヤン平、帝賞以金腰帶及銀交牀等。二十五年、進武德將軍尙乘寺少卿、兼阿速アス千戶。征哈荅安ハダアン(哈丹ハダン)等敗之、獲其駝馬等物。成宗嘉其功、以軍二千益之。討叛王脫脫トト