Page:那珂通世遺書.pdf/473

このページはまだ校正されていません

壹區、近郊田二千畝」を補へり)。以河南等路(傳は河東諸︀路)蒙古軍子弟四千六百隷之。二十二年、拜鎭國上將軍樞密副使。二十三年、置​欽察​​キムチヤ​衞、遂兼其親軍都︀指揮使、聽以族人將吏備官屬」。

 「六月、​海︀都︀​​ハイド​兵入寇。奉詔與大將​朶兒朶懷​​ドルドハイ​禦之。二十四年、諸︀王​乃顏​​ナヤン​叛於東藩、陰遣使來結​也不干勝剌哈​​エブゲンシンラハ​。王(​土土哈​​トトハ​)獲諜者︀、得其情、密以聞諸︀朝、請召​勝剌哈​​シンラハ​以離之」。​乃顏​​ナヤン​は、​喇失惕​​ラシツト​に據れば、​脫噶察兒​​トガチヤル​の孫、​額出兒​​エチユル​の子なり。​脫噶察兒​​トガチヤル​は、世系表​鐵木哥斡赤斤​​テムゲオチギン​の孫​塔察兒​​タチヤル​國王なれば、​乃顏​​ナヤン​は、​斡赤斤​​オチギン​の玄孫なり。表は​額出兒​​エチユル​卽​阿朮魯​​アチユル​大王を​塔察兒​​タチヤル​の從兄として、その子​乃顏​​ナヤン​を載せず。​也不干​​エブゲン​は、​牙忽都︀​​ヤフド​の傳に​也不堅​​エブゲン​、世系表太祖︀の第六子​闊列堅​​コレゲン​太子の曾孫​也不干​​エブゲン​大王なり。​勝剌哈​​シンラハ​は、世祖︀紀に​勝納合兒​​シンナカル​、​孛禿​​ボト​の傳(曾孫​忽憐​​フレン​の條)に​聲剌哈兒​​シンラハル​、世系表​哈赤溫​​ハチウン​大王の子濟南王​按只吉歹​​アンヂギダイ​の曾孫濟南王​勝納哈兒​​シンナハル​なり。「他日、勝剌哈爲宴會、邀二大將。​朶兒朶懷​​ドルドハイ​將往。王曰「事不可測」。遂不往。​勝剌哈​​シンラハ​計不得行。未幾、有詔召​勝剌哈​​シンラハ​。王日此、東藩之人。由東道、是其欲也。將不可制」。言於北安王 卽北平王〈[#底本では直前に「終わり丸括弧」あり]〉、命之西行。或言​也不干​​エブゲン​將反者︀、軍 吏請 奏而圖之。王曰「不可緩也」。身爲先驅、引大兵前、窮晝夜之力、渡​禿兀剌​​トウラ​河、與​也不干​​エブゲン​戰、大敗之」。「或言」以下を傳は「旣而有言​也不干​​エブゲン​叛者︀、衆欲先聞於朝、然後發兵。​土土哈​​トトハ​曰「兵貴神︀速。若彼果叛、我軍出其不意、可卽圖之。否、則與約而還」。卽日啓行、疾驅七晝夜、渡​禿兀剌​​トウラ​河、戰​孛怯​​ボケ​嶺、大敗之、​也不干​​エブゲン​僅以身免︀」と改め補へり。「世祖︀方親征、聞之、詔王沿河東行、盡收其餘黨以還。道遇​也鐵哥​​エテゲ​、其眾萬騎、擊走之、大獲​乃顏​​ナヤン​畜牧、俘畔王​哈兒魯​​ハルル​等獻之。​康里​​カングリ​​欽察​​キムチヤ​之人、先隸諸︀叛王者︀、悉來歸。置​哈剌魯​​ハラル​萬戶府」。「沿河東行」を、傳は「沿河而下」と改めたり。​禿剌​​トラ​河は、西に流るゝ河なれば、下るは西に行くことにて、碑と異なり。​也鐵哥​​エテゲ​は、傳に叛王​鐵哥​​テゲ​とあり。世祖︀紀至元二十四年六月「諸︀王​失都︀兒​​シドル​所部​鐵哥​​テゲ​率其衆、取咸平府、渡遼」とある​鐵哥​​テゲ​と同じきか異なるか。​哈兒魯​​ハルル​の名は、世系表にも諸︀王表にも見えず。窃に思ふに、これは、王の名に非ず、部落の名にして、​合兒魯黑​​カルルク​の君、卽​阿兒思闌罕​​アルスランカン​の後嗣にはあらずや。その君叛さて俘はれたるに由り、その降れる部眾を以て​哈剌魯​​ハラル​萬戶府を置きたるならん。元史の​哈剌魯​​ハラル​は、皆​合兒魯黑​​カルルク​なり。又傳は、萬戶府の下に「​欽察​​キムチヤ​之散處安西諸︀王部下者︀、悉令統之」の一句を補へり。安西諸︀王とは、皇子安西王​忙哥剌​​モンガラ​の子安西王​阿難︀荅​​アナンダ​等を云ふ。

 「是歲、王子​創兀兒​​チヤングル​(傳に​牀兀兒​​チヤングル​)、奉詔從太師​月兒律​​ユルル​(​玉昔帖木兒​​ユシテムル​)、在軍、戰於​百搭​​バタ​山有功、拜昭勇大將軍左衞親軍都︀指揮使、佩金虎符。出則被堅執銳、以率虎羆之士、入則執刀七、以事割烹、執甖杓、以進湩飮。親幸委任、已見如此」。

 「成宗方撫軍、詔以王從。十一月、征​乃顏​​ナヤン​餘黨於​哈剌​​ハラ​[​溫​​ウン​]、誅兀達海︀(傳に叛王兀塔海︀)、盡降其眾。二十五年、​也只里​​エヂリ​王爲叛王​火魯哈孫​​ホルハスン​所攻甚急。五月、王從成宗、移師援之、敗諸︀​兀魯灰​​ウルフイ​。還至​哈剌溫​​ハラウン​山、夜渡​貴列​​グイレ​河、敗叛王​哈丹​​ハダン​之軍、盡得遼左諸︀部、置東路萬戶府、以鎭之。​也只里​​エヂリ​有女弟​塔倫​​タルン​、遂以妻王」。​也只里​​エヂリ​王は、世祖︀紀に諸︀王​也只烈​​エヂレ​、世系表濟南王​安只吉歹​​アンヂギダイ​の孫、​察忽剌​​チヤフラ​大王の子、濟南王​也只里​​エヂリ​なり。​火魯哈孫​​ホルハスン​は、​喇失惕​​ラシツト​に據れば、​拙赤合撒兒​​ヂユチカツサル​の長子​也古​​エグ​の孫に​火兒合孫​​ホルガスン​あり。世系表には無し。​哈丹​​ハダン​は、卽​合丹​​カダン​にして、​多遜​​ドーソン​は​哈赤溫​​ハチウン​の玄孫にして、​勝納哈兒​​シンナハル​の父なりとせり。世系表に​哈赤溫​​ハチウン​の孫、​勝納哈兒​​シンナハル​の祖︀父とせるは、誤りならん。

 「二十六年、​海︀都︀​​ハイド​軍叛金山、抵​杭海︀​​ハンガイ​嶺、皇孫晉王(​甘麻剌​​ガマラ​)師兵禦之。敵先據險、我師不利。王獨以其軍陷陳入戰、翼晉王而出。明日、追騎大至、伏兵殿之」。「伏兵殿之」の四字を、傳は「乃選精︀銳、設伏以待之。冦不敢遇」と改め補へり。「七月、世祖︀親巡北邊、召見王、慰之曰「昔太祖︀與其臣之同患難︀者︀、飮​班朮​​バンチユ​河之水、以記功。今日之事、何愧昔人。卿其勉︀之」。​海︀都︀​​ハイド​等戰旣數敗、又知上親征、遂引兵去。車駕還都︀、大宴。上謂