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參。祕史に見えざる名臣。


 太祖︀太宗は、克狄より出でゝ、沙漠の北に興りたるに、文武の名臣夥しくして、漢︀唐の創業の時にも愈れるは、驚くべき事なり。それらの名臣にて。元史に傳はりて。祕史に名も見えざる人を數へ擧ぐれば、實に十餘人あり。今その人々を蒙古色目漢︀人の三綱に分けて。その仕履の槪略を述べん。考證の必要ある時は、その詳傳を載することもあるべし。

 蒙古色目漢︀人の別に付きては、すこし說明を要することあり。陶宗儀の輟耕錄に蒙古七十二種、色目三十一種、漢︀人八種を載せて、蒙古の內には、祕史に見えたる​巴塔赤罕​​バタチカン​の子孫皆屬するのみならず、​忽神︀​​フチン​卽元史の​許兀愼​​ヒユウジン​、​瓮吉剌歹​​オンギラダイ​卽祕史の​翁吉喇惕​​オンギラト​、​永吉列思​​インギレス​(か、​亦乞列歹​​イキレダイ​か)卽​亦乞咧思​​イキレス​、​郭兒剌思​​ゴルラス​卽​豁嚕剌思​​ゴルラス​、​怯烈歹​​ケレイダイ​卽​客咧亦惕​​ケレイト​、​禿別歹​​トベダイ​卽元史の​土別燕​​トベエン​か祕史の​禿別干​​トベゲン​か、​脫里別歹​​トリベダイ​卽元史の​禿立不帶​​トリブダイ​また​多禮伯台​​ダリブタイ​、​塔塔兒​​タタル​ 卽元史の​達達兒​​タタル​、​滅里吉歹​​メリギダイ​卽祕史の​篾兒乞惕​​メルキト​、​兀羅歹​​ウロダイ​卽元史の​兀羅帶​​ウロダイ​、​伯要歹​​バヤウダイ​〈[#「伯要歹」の「要」は底本では印刷が薄いが実録§120の訳者注に倣い修正]〉卽元史の​伯牙吾​​バヤウ​祕史の​巴牙兀惕​​バヤウト​、​外剌歹​​オイダダイ​卽元史の​斡亦剌​​オイラ​祕史の​斡亦喇惕​​オイラト​、​塔塔歹​​タタダイ​卽元史の​荅荅帶​​タタダイ​、​塔塔兒歹​​タタルダイ​卽元史の​荅荅里帶​​タタリダイ​(この二つは前の​塔塔兒​​タタル​に同じきか)、​八魯忽歹​​バルクダイ​卽祕史の​巴兒忽惕​​バルクト​元史の​八剌忽䚟​​バラクダイ​などあり。色目には、​哈剌魯​​ハラル​(また​合魯歹匣剌魯​​カルダイカラル​)卽​合兒魯兀惕​​カルルウト​、​欽察​​キムチヤ​卽​乞卜察兀惕​​キブチヤウト​、​唐兀​​タング​卽​唐兀惕​​タングト​、​阿速​​アス​卽​阿速惕​​アスト​、​禿八​​トバ​(また​禿伯歹​​トバダイ​)卽​禿巴思​​トバス​、​康里​​カングリ​(また​夯力​​ハンリ​)、​畏吾兀​​ウイウウ​(​兀​​ウ​は​兒​​ル​の誤)卽​委兀惕​​ウイウト​、​回回​​フイフイ​卽​撒兒塔兀兒​​サルタウル​、​乃蠻歹​​ナイマンダイ​卽​乃蠻​​ナイマン​、​阿兒渾​​アルクン​卽元史の​阿魯渾​​アルクン​、​撒里哥​​サリゲ​(また​徹兒哥​​チエルゲ​)卽祕史の​薛兒客速惕​​セルケスト​、​雍古歹​​オングダイ​卽​汪古惕​​オングト​、​哈剌吉荅歹​​ハラギダダイ​卽​合剌乞塔惕​​カラキタト​、​拙兒察歹​​チエルチヤダイ​卽​主兒扯惕​​ヂユルチエト​、​甘木魯​​カンムル​卽​馬兒科保羅​​マルコポーロ​の​喀木勒​​カムル​今の​哈密​​ハミ​、​乞失迷兒​​キシミル​元史の​迦葉彌兒​​カシユミル​などあり。​貴赤​​グイチ​は善走者︀、​禿魯花​​トルハ​は質子にて、軍隊の名なり。姓としては知らず。​苦里魯​​クリル​・​剌乞歹​​ラキダイ​・​赤乞歹​​チキダイ​・​密赤思​​ミチス​・​苦魯丁​​クルヂン​・​禿魯八歹​​トルバダイ​は、考へ得ず。字の誤もあるべし。​火里剌​​ホリラ​二つあり。蒙古の​豁嚕剌思​​ゴルラス​の混れ入りたるに似たり。漢︀人八種は、​契丹​​キダン​・​高麗​​カウライ​・​女直​​ヂユチ​・​竹因歹​​ヂインダイ​・​朮里闊歹​​チユリコダイ​・​竹溫歹​​ヂウンダイ​・​竹亦歹​​ヂイダイ​・​渤海︀​​ボツカイ​(原注​女直​​ヂユチ​同)とあり。​契丹​​キダン​は​合剌乞塔惕​​カラキタト​、高麗は​莎郞合思​​シヨランガス​、​女直​​ヂユチ​は​主兒扯惕​​ヂユルチエト​なり。​合喇乞塔惕​​カラキタト​は、​垂​​チユイ​河の濱に徒れる西遼のみならず、支那の北方に居るものをも蒙古語にては​合喇乞塔惕​​カラキタト​と云へり。蒙古語にて​合喇​​カラ​を附けずに​乞塔惕​​キタト​と云ふは、​契丹​​キダン​に非ずして、支那人の事なり。​合喇乞塔惕主兒扯惕​​カラキタトヂユルチエト​は、色目漢︀人の兩方に入りたるは、支那に化せざるものを色目とし、支那に化したるものを漢︀人としたるならん。​竹因歹​​ヂインダイ​・​竹溫歹​​ヂウンダイ​・​竹亦歹​​ヂイダイ​の三つは、いづれも秘此の​主因​​ヂユイン​鎭海︀の傳なる​只溫​​ヂウン​の訛にして、誤りて重複したるに似たり。朮里闊歹は、考へ得ず。祕史に金人卽​乞塔惕​​キタト​を​札忽惕​​ヂヤクト​とも云へば、​朮里闊歹​​ヂユリコダイ​卽​朮兒闊歹​​チユルコダイ​は、​札兒忽惕​​ヂヤルクト​の訛れるには非ずや。蒙古人は、金卽中原の支那人を​乞塔惕​​キタト​又は​札忽惕​​ヂヤクト​と云ふに對し、宋卽江南の支那人を​蠻子​​マンツ​と云ひたるに、こゝに見えざるは、脫ちたるならん。渤海︀は、粟末靺鞨の遺種にして、注に「​女直​​ヂユチ​同」とあるは、​女直​​ヂユチ​の如く支那に化したるものを云へるなるべし。



弌。蒙古。



一。​客咧亦惕​​ケレイト​。


1。​鎭海︀​​チンハイ​。

 列傳卷七、​鎭海︀​​チンハイ​、​怯烈台​​ケレイタイ​氏。許有壬の撰れる神︀道碑に「系出​怯烈​​ケレイ​氏。或曰、本田姓、至朔方始氏​怯烈​​ケレイ​」。長春の西游記にも田​鎭海︀​​チンハイ​と云へり。「初以軍伍長從太祖︀、同飮​班朱尼​​バンヂユニ​河水」また「旣破燕、太祖︀命於城中環射四箭、凡四箭所至、園池邸舍之處、悉以賜之。尋拜中書右丞相。己丑、太宗卽位、扈從至西京、攻河中河南均州」とあれども、太宗紀に「三年辛卯秋八月、幸雲中、始立中書省、改侍從官名、云云」とあれば、右丞相の拜命は、「至西京」の下に書くべきなり。又「定宗卽位、以​鎭海︀​​チンハイ​爲先朝舊臣、仍拜中書右丞相。薨、年八十四」と事も無げに書きたれども、​喇失惕​​ラシツト​に據れば、太宗の皇后​禿喇奇納​​トラキナ​攝政して、丞相​鎭海︀​​チンハイ​を罷め、定宗卽位して、​鎭海︀​​チンハイ​​喀荅克​​カダク​を丞相とし、定宗疾ありて、政を二人に委ね、定宗の皇后​斡古勒該米失​​オグルガイミシ​攝政の時も、二人は用ひられしが、憲宗卽位の明年誅せられきとあり。


2。​肖乃台​​シヤウナイタイ​。

 列傳卷七、​肖乃台​​シヤウナイタイ​、​禿伯怯烈​​トベケレイ​氏。​客咧亦惕​​ケレイト​の分部​禿別干​​トベゲン​か。太祖︀二十年乙酉の春、史天澤と共に武仙を破りて眞定を取回したる時「將士怒民之反覆、驅萬人出、將屠之。​肖乃台​​シヤウナイタイ​曰「金民慕國威信、後我來蘇。此民爲賊所軀脅、有何罪焉。若不勝一朝之忿、非惟自屈其力、且堅他城不降之心」。乃皆釋之」とありて、一萬の民は、​肖乃台​​シヤウナイタイ​の爲に助かりたるが如くなれども、史天澤の傳には「​笑乃䚟​​シヤウナイダイ​怒、忿民之從賊、驅萬餘人、將殺︀之。