太祖︀太宗は、克狄より出でゝ、沙漠の北に興りたるに、文武の名臣夥しくして、漢︀唐の創業の時にも愈れるは、驚くべき事なり。それらの名臣にて。元史に傳はりて。祕史に名も見えざる人を數へ擧ぐれば、實に十餘人あり。今その人々を蒙古色目漢︀人の三綱に分けて。その仕履の槪略を述べん。考證の必要ある時は、その詳傳を載することもあるべし。
蒙古色目漢︀人の別に付きては、すこし說明を要することあり。陶宗儀の輟耕錄に蒙古七十二種、色目三十一種、漢︀人八種を載せて、蒙古の內には、祕史に見えたる巴塔赤罕バタチカンの子孫皆屬するのみならず、忽神︀フチン卽元史の許兀愼ヒユウジン、瓮吉剌歹オンギラダイ卽祕史の翁吉喇惕オンギラト、永吉列思インギレス(か、亦乞列歹イキレダイか)卽亦乞咧思イキレス、郭兒剌思ゴルラス卽豁嚕剌思ゴルラス、怯烈歹ケレイダイ卽客咧亦惕ケレイト、禿別歹トベダイ卽元史の土別燕トベエンか祕史の禿別干トベゲンか、脫里別歹トリベダイ卽元史の禿立不帶トリブダイまた多禮伯台ダリブタイ、塔塔兒タタル 卽元史の達達兒タタル、滅里吉歹メリギダイ卽祕史の篾兒乞惕メルキト、兀羅歹ウロダイ卽元史の兀羅帶ウロダイ、伯要歹バヤウダイ〈[#「伯要歹」の「要」は底本では印刷が薄いが実録§120の訳者注に倣い修正]〉卽元史の伯牙吾バヤウ祕史の巴牙兀惕バヤウト、外剌歹オイダダイ卽元史の斡亦剌オイラ祕史の斡亦喇惕オイラト、塔塔歹タタダイ卽元史の荅荅帶タタダイ、塔塔兒歹タタルダイ卽元史の荅荅里帶タタリダイ(この二つは前の塔塔兒タタルに同じきか)、八魯忽歹バルクダイ卽祕史の巴兒忽惕バルクト元史の八剌忽䚟バラクダイなどあり。色目には、哈剌魯ハラル(また合魯歹匣剌魯カルダイカラル)卽合兒魯兀惕カルルウト、欽察キムチヤ卽乞卜察兀惕キブチヤウト、唐兀タング卽唐兀惕タングト、阿速アス卽阿速惕アスト、禿八トバ(また禿伯歹トバダイ)卽禿巴思トバス、康里カングリ(また夯力ハンリ)、畏吾兀ウイウウ(兀ウは兒ルの誤)卽委兀惕ウイウト、回回フイフイ卽撒兒塔兀兒サルタウル、乃蠻歹ナイマンダイ卽乃蠻ナイマン、阿兒渾アルクン卽元史の阿魯渾アルクン、撒里哥サリゲ(また徹兒哥チエルゲ)卽祕史の薛兒客速惕セルケスト、雍古歹オングダイ卽汪古惕オングト、哈剌吉荅歹ハラギダダイ卽合剌乞塔惕カラキタト、拙兒察歹チエルチヤダイ卽主兒扯惕ヂユルチエト、甘木魯カンムル卽馬兒科保羅マルコポーロの喀木勒カムル今の哈密ハミ、乞失迷兒キシミル元史の迦葉彌兒カシユミルなどあり。貴赤グイチは善走者︀、禿魯花トルハは質子にて、軍隊の名なり。姓としては知らず。苦里魯クリル・剌乞歹ラキダイ・赤乞歹チキダイ・密赤思ミチス・苦魯丁クルヂン・禿魯八歹トルバダイは、考へ得ず。字の誤もあるべし。火里剌ホリラ二つあり。蒙古の豁嚕剌思ゴルラスの混れ入りたるに似たり。漢︀人八種は、契丹キダン・高麗カウライ・女直ヂユチ・竹因歹ヂインダイ・朮里闊歹チユリコダイ・竹溫歹ヂウンダイ・竹亦歹ヂイダイ・渤海︀ボツカイ(原注女直ヂユチ同)とあり。契丹キダンは合剌乞塔惕カラキタト、高麗は莎郞合思シヨランガス、女直ヂユチは主兒扯惕ヂユルチエトなり。合喇乞塔惕カラキタトは、垂チユイ河の濱に徒れる西遼のみならず、支那の北方に居るものをも蒙古語にては合喇乞塔惕カラキタトと云へり。蒙古語にて合喇カラを附けずに乞塔惕キタトと云ふは、契丹キダンに非ずして、支那人の事なり。合喇乞塔惕主兒扯惕カラキタトヂユルチエトは、色目漢︀人の兩方に入りたるは、支那に化せざるものを色目とし、支那に化したるものを漢︀人としたるならん。竹因歹ヂインダイ・竹溫歹ヂウンダイ・竹亦歹ヂイダイの三つは、いづれも秘此の主因ヂユイン鎭海︀の傳なる只溫ヂウンの訛にして、誤りて重複したるに似たり。朮里闊歹は、考へ得ず。祕史に金人卽乞塔惕キタトを札忽惕ヂヤクトとも云へば、朮里闊歹ヂユリコダイ卽朮兒闊歹チユルコダイは、札兒忽惕ヂヤルクトの訛れるには非ずや。蒙古人は、金卽中原の支那人を乞塔惕キタト又は札忽惕ヂヤクトと云ふに對し、宋卽江南の支那人を蠻子マンツと云ひたるに、こゝに見えざるは、脫ちたるならん。渤海︀は、粟末靺鞨の遺種にして、注に「女直ヂユチ同」とあるは、女直ヂユチの如く支那に化したるものを云へるなるべし。
列傳卷七、鎭海︀チンハイ、怯烈台ケレイタイ氏。許有壬の撰れる神︀道碑に「系出怯烈ケレイ氏。或曰、本田姓、至朔方始氏怯烈ケレイ」。長春の西游記にも田鎭海︀チンハイと云へり。「初以軍伍長從太祖︀、同飮班朱尼バンヂユニ河水」また「旣破燕、太祖︀命於城中環射四箭、凡四箭所至、園池邸舍之處、悉以賜之。尋拜中書右丞相。己丑、太宗卽位、扈從至西京、攻河中河南均州」とあれども、太宗紀に「三年辛卯秋八月、幸雲中、始立中書省、改侍從官名、云云」とあれば、右丞相の拜命は、「至西京」の下に書くべきなり。又「定宗卽位、以鎭海︀チンハイ爲先朝舊臣、仍拜中書右丞相。薨、年八十四」と事も無げに書きたれども、喇失惕ラシツトに據れば、太宗の皇后禿喇奇納トラキナ攝政して、丞相鎭海︀チンハイを罷め、定宗卽位して、鎭海︀チンハイ喀荅克カダクを丞相とし、定宗疾ありて、政を二人に委ね、定宗の皇后斡古勒該米失オグルガイミシ攝政の時も、二人は用ひられしが、憲宗卽位の明年誅せられきとあり。
列傳卷七、肖乃台シヤウナイタイ、禿伯怯烈トベケレイ氏。客咧亦惕ケレイトの分部禿別干トベゲンか。太祖︀二十年乙酉の春、史天澤と共に武仙を破りて眞定を取回したる時「將士怒民之反覆、驅萬人出、將屠之。肖乃台シヤウナイタイ曰「金民慕國威信、後我來蘇。此民爲賊所軀脅、有何罪焉。若不勝一朝之忿、非惟自屈其力、且堅他城不降之心」。乃皆釋之」とありて、一萬の民は、肖乃台シヤウナイタイの爲に助かりたるが如くなれども、史天澤の傳には「笑乃䚟シヤウナイダイ怒、忿民之從賊、驅萬餘人、將殺︀之。