以兵、死復何辭。若坐以與謀、則過矣、請免︀傳首」。皇太子言於帝、遂從之」とあれば、張易の謀に與らざることは明かなり。
喇失惕ラシツトの史(多遜ドーソン二、四六七)に依れば、阿呵篾惕アハメトは、牙克撒兒帖思ヤクサルテス河に近き弗納客惕フエナケト(後に沙呵嚕乞亞シヤハルキア)の人にして、札梅︀合屯ヂヤムイカトンの入內する前より知られ、入內の後その宮(斡兒朶オルド)に仕へ、遂に庫卜賚クブライの信用を得たり。札梅︀合屯ヂヤムイカトンは、后妃表世祖︀の第二斡兒朶オルドなる察必チヤビ皇后、弘吉列ホンギレ氏、魯忠武王按嗔那顏アンチノヤンの女にして、中統の初に皇后となり、至元十八年に崩じ、昭睿順聖皇后と謚せられたる人なり。
馬兒科保羅マルコポーロの第二十三章「拜羅阿黑馬惕バイロアクマト〈[#「拜羅阿黑馬惕」は底本では「拜阿羅黑馬惕」。同文の「阿黑馬惕」に倣い修正]〉の暴虐云云」と題する一章は、阿合馬アハマの事を述べたるなり。その叙事のやゝ違へるは、馬兒科マルコの覺え誤りもあるべく、書取りたる人の書き誤りもあるべし。阿黑馬惕アクマト〈[#ルビの「アクマト」は底本では「アクマク」。後文のルビに倣い修正]〉の貪淫なることを述べたる後に、「千戶潺出チエンチユと云ふ支那人は、母と女と妻とを阿黑馬惕アクマトに汙されて深く怨み、萬戶晩出ヷンチユと云ふ支那人と共に丞相を殺︀さんことを謀りき」。千戶潺出チエンチユは、樞密副使張易の誤にして、萬戶晩出ヷンチユは、卽千戶王著︀なり。「阿黑馬惕アクマトは、宮門に至れる時、京城の衞士一萬二千の長なる科噶台コガタイと云ふ塔兒塔兒タルタルに遇ひ」て、問答ありき。この科噶台コガタイは、その夜宮中に宿衞せる工部侍部高觿〈[#「高觿」は底本では「高鑴」。元史(四庫全書本)卷169に倣い修正。以後すべて同じ]〉にて、蒙古人に非ず、渤海︀の人なり。阿合馬アハマを擊ち殺︀したるは王著︀にして、太子と僞れるは他の人なるを、「阿黑馬惕アクマトは、晩出ヷンチユを眞金ヂンキムなりと思ひ、その前に拜りたる時、劍をもて待ち構へ居たる潺出チエンチユは直ちにその頭を斬り落しき」と云へり。「入口に留まり居たる科噶台コガタイは、この事を見ると直に「賊なり」と叫びて、急に晩出ヷンチユに箭を放ちて、その坐れる處を射殺︀し、同時にその衆を呼びて潺を捕へさせき」とあるは、高觿の傳に「燭影下、遙見阿合馬アハマ及左丞郝禎︀已被殺︀、觿乃與九思大呼曰「此賊也」、叱衞士急捕之。高和尙等皆潰去、惟王著︀就擒」と云へる事なり。王著︀をそこに殺︀されたりとせるは、誤れり。「科噶台コガタイは、直ちに大汗に使者︀を發し、事の顚末を奏しき」は、高觿の傳なる黎明、中丞也先帖木兒エセンテムル與鑴等、馳驛往上都︀.以其事聞」なり。馬兒科マルコは、この章の末に「今あらゆるこの事の起りし時に、馬兒科マルコはそこに居りき」と附け加へたり。迭邁剌デメイラは、通鑑綱目を譯して、阿合馬アハマの罪惡を世祖︀に吿げたる樞密副使孛羅ボロを馬兒科マルコらしく保羅ポーロと譯したれば、裕勒ユールはそれにだまされて、「馬兒科マルコ君のそこに居たることとその折にその正直なる行とは、支那の歷史家に忘れられざりしは、愉快なる事なりき」と嬉しがりたれども、孛羅ボロは、實は馬兒科マルコにあらず。世祖︀紀に、至元七年十二月「以御史中丞孛羅ボロ兼大司農卿」、十二年四月「以大司農御史中丞孛羅ボロ爲御史大夫」、十四年二月「以大司農御史大夫孛羅ボロ爲樞密副使、兼宣徽使、領侍儀司事」とある人にして、馬兒科保羅マルコポーロの支那に至れるよりも遙に前より蒙古の顯官となりたる人なりき。
氏族表に「烏巴都︀剌ウバドラ、亦回回フイフイ人」と云ひて、曾祖︀木沙剌福︀丁マシヤラフツヂン、祖︀札剌魯丁ヂヤラルツヂン北京路木忽里兀察兒必ムクリウチヤルビ、父亦福︀的哈魯丁イフデハルヂン翰林學士承旨、烏巴都︀剌ウバドラ中書參知政事を擧げ、又「倒剌沙ダウラシヤ、亦回回フイフイ人」と云ひて、兄馬某沙マミウシヤ湖南行省左丞、倒剌沙ダウラシヤ中書左丞相、その子潑皮木八剌沙ボビムバラシヤを擧げたり。烏巴都︀剌ウバドラは、本紀には兀伯都︀剌ウバドラ、宰相表には烏伯都︀剌ウバドラと書き、大德十一年武宗卽位の初に中書參知政事(武宗紀に八月と九月と二所に書きたるは重複なり)、至大元年中書左丞、四年中書右丞、仁宗皇慶二年中書平章政事、英宗の時江浙行省に出され、泰定帝の時復中書に入り、倒剌沙ダウラシヤの敗れたる時、燕鐡木兒エンテムルに殺︀されき。
倒剌沙ダウラシヤは、泰定帝の重臣にして、帝の晉王として北邊に居りし時より王府の內史となりき。泰定帝は、世祖︀の曾孫、裕宗(皇太子眞金)の孫、成宗の姪、武宗・仁宗の從兄にして、顯宗(晉王甘麻剌ガマラ)の長子なり。本紀に「倒剌沙ダウラシヤ得幸於帝、常偵伺朝廷事機」とあれども、委しき事情は考ふるに由なし、天曆の朝臣の誣罔