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らず。

 ​克哩思惕​​クリスト​敎は、支那にては甚衰へ或は滅びたれども、中​亞細亞​​アジア​の諸︀國にては衰へざりき。旣に敎主​提抹世​​チモシー​(七七八-八二〇)の時に、裏海︀に臨める諸︀國にて布敎盛になり、それに續きて​突︀兒克​​トルク​の一​可汗​​カガン​と小き君長數人との改宗せし事あり。​裕勒​​ユール​の「​喀勢​​カセイ​」(一七九)に曰く「​克哩思惕​​クリスト​敎徒の史家​固咧果哩​​グレゴリ​​阿不勒發喇糾思​​アブルフアラギウス​の談に依れば、一〇〇一年(宋の眞宗咸平四年)と一〇一二年(大中祥︀符五年)との間に、​巴固荅惕​​バグダート​の(​捏思脫兒​​ネストル​派の)敎主は、​闊喇散​​コラサン​の​篾兒兀​​メルウ​の大敎正より書簡を受取れり。その書簡は、​突︀兒克​​トルク​の國の奧にて遙に北東にある​客哩惕​​ケリト​の王の不思議なる改宗を述べて、その王は、​篾兒兀​​メルウ​に使を遣〈[#「遣」は底本では「造」]〉して​克哩思惕​​クリスト​敎の僧︀を求め、かつその臣民二十萬人は王に傚ひて洗禮を受けんとして居ることを吿げこしたり。敎主は、命を下して、僧︀侶敎師を派遣せしめき。一部落として​客喇亦惕​​ケライト​人の​克哩思惕​​クリスト​敎徒なりし事は、​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒の史家なる​喇失惕額丁​​ラシツトエツヂン​も證明せり」。​客哩惕​​ケリト​の王は、卽​客咧亦惕​​ケレイト​の罕なり。​阿不勒發喇糾思​​アブルフアラギウス​の談に殊にその年紀に誤り無くば、その​罕​​カン​の改宗は、​也速該​​エスゲイ​の死したる一一七〇年(宋の孝宗乾道六年)より百六七十年前なれば。その​罕​​カン​は、​也速該​​エスゲイ​の​安荅​​アンダ​なる​客咧亦惕​​ケレイト​の​王罕​​ワンカン​の五世又は六世の祖︀なるべし。

 元の定宗元年に蒙吉の行宮に到かなる​佛㘓昔思​​フランシス​派の​普剌諾喀兒闢尼​​プラノカルピニ​は​成吉思汗​​チンギスカン​の​奇台​​キタイ​征伐を述べたる後に、​奇台​​キタイ​の民の風俗を記して、「​奇台​​キタイ​人は、異敎の徒にして、已らの文字を用ふ。されども舊約新約聖書と聖父の列傳と隱居せる法師と會堂として用ひらるゝ建物とあり、その建物にて彼等は、彼等の都︀合善き時に祈︀禱す。然して彼等の中にも聖僧︀ありと彼等は云ふ。彼等は、唯一の神︀を拜み、主​耶蘇克哩思惕​​エスクリスト​を尊び、永久の生活を信ずれども、洗禮は全く無し。彼等は、我等の經典を崇び敬ひ、​克哩思惕​​クリスト​敎徒を善く待遇し、惠施の業を多く爲す。實に彼等は、全く親切にして禮儀ある民なりと見ゆ」と云へり(「​喀勢​​カセイ​」序論一二四)。​普剌諾喀兒闢尼​​プラノカルピニ​は、只傳聞に依りて書きたれば、誤りあらん。その一神︀を拜むと云へるは、儒家の上帝を敬ひ、又は道家の玉皇を崇むるを聞きて誤解したるに似たり。〈[#以後、最後までルビがほぼないので入力者が補う]〉

 ​普剌諾喀兒闢尼​​プラノカルピニ​と同じ時に、小​阿兒篾尼亞​​アルメニア​の王​海︀屯​​ハイトン​の命を受けて、​海︀屯​​ハイトン​の弟​阿兒篾尼亞​​アルメニア​の騎將​撏帕惕​​セムパト​は、定宗卽位の大會に參列せんが爲に蒙古に到れり。蒙古より還る途中​撒兀咧庫安惕​​サウレコアント​にて、​撏帕惕​​セムパト​は、​奇魄囉思​​キプロス​の王と后とその朝廷の人だちとに宛てたる書簡を送れり。​撒兀咧庫安惕​​サウレコアント​は、​裕勒​​ユール​の考へに、​兀​​ウ​は蓋​姆​​ム​の誤りにて、​撒馬兒干篤​​サマルカンド​ならんと云へり。その書簡の大意に曰く「今の汗の父(​斡闊歹​​オコダイ​)の死してより五年過ぎたることは、事實なり。されども​塔兒塔兒​​タルタル​の列侯諸︀將は、大地の面に分散したりし故に、その汗を戴かんが爲に一所に聚ることは、五年の內には殆どむづかしかりき。或る者︀は​印的亞​​インヂア​に、他の者︀は​合塔​​カタ​(支那)の國に、又は​喀思合兒唐合惕​​カスガルタンガト​(​唐兀惕​​タングト​)の國に居りき。​唐合惕​​タンガト​の國は、主​耶蘇​​エス​の生れたるを拜まんと​別思列姆​​ベスレム​に至りし三王の出でたる所なり。​克哩思惕​​クリスト​の勢力は大なるものにて、その地の民は、​克哩思惕​​クリスト​敎徒なり。又​合塔​​カタ​の全土は、その三王を信ず。我嘗て自ら彼等の會堂に入りて、​耶蘇克哩思惕​​エスクリスト​の畫と黄金乳香沒藥を供する三王の畫とを見たり。彼等の​克哩思惕​​クリスト​を信じ、汗もその民も今​克哩思惕​​クリスト​敎徒となりたるは、その三王に由りてなり。彼等は、汗の諸︀門の前に會堂をもち、そこに鐘を鳴らし、木の片を敲く。‥‥我等は、東方にいづこにも散在するあまたの​克哩思惕​​クリスト​敎徒を見、又高き、古き、善き建築の、美麗なる會堂あまた、​突︀兒克​​トルク​人に壞られたるを見たり。それ故にその他の​克哩思惕​​クリスト​敎徒は、今の汗の祖︀父の前に來ぬ。彼は、彼等を最も敬ひて、崇拜の自由を與へ、又辭又は行ひを以て迫害し、彼等に陳情の正しき理由を與ふることを禁ずるの命令を出せり。かくて彼等を慢侮︀して取扱ひたる​撒喇先​​サラセン​どもも、今は同樣なる取扱をなすに至れり。‥‥又使徒聖​脫馬思​​トマス​の敎化したる​印的亞​​インヂア​の國に、​克哩思惕​​クリスト​〈[#「克哩思惕」は底本では「克哩惕」。脱字と判断し修正]〉敎を信ずる一王ありて、​撒喇先​​サラセン​なる諸︀王の中に孤立して苦みき。諸︀王は常に