橋。襄援不至、城乃拔。詳具阿朮アチユ傳」。阿朮アチユの傳「先是襄樊兩城、漢︀水出其間、宋兵植木江中、聯以鐵鎖、中造浮梁、以通援兵。樊特此爲固。至是阿朮アチユ以機鋸斷木、以斧斷鎖、焚其橋。襄兵不能援。十二月、遂拔樊城襄守將呂文煥懼而出降」。十二月は、十年正月の誤なり。張弘範の傳は、「截江道、斷其援兵」を弘範の計とし、劉整の傳は、「斷木沉索、先攻樊城」を整の計とし、諸︀傳互に頭功を爭ふは奇觀なり。蓋此等の事は、諸︀將の誰も心附きたる事にして、一人をしてその功を專にせしむべきには非ず。されども本紀は、阿里海︀牙アリハイヤの功とし、至元九年十一月の處に「參知行省政事阿里海︀牙アリハイヤ言「襄陽受圍久未下。宜先攻樊城、斷其聲援」。從之。回回フイフイ亦思馬因イスマイン、創作巨石砲來獻、用力省、而所擊甚遠。命送襄陽軍前用之」とあり。阿里海︀牙アリハイヤの傳「阿里海︀牙アリハイヤ旣破樊、移其攻具、以向襄陽。一礮中其誰樓、聲如雷霆、震城中。城中洶洶、諸︀將多踰城降者︀。劉整欲立碎其城、執文煥、以快其意。阿里海︀牙アリハイヤ、獨不欲攻、乃身至城下、與文煥語曰「君以孤軍城守者︀數年、今飛鳥路絕。主上深嘉汝忠。若降、則尊官厚祿可心得、決不殺︀汝也」。文煥狐疑未決。又折矢與之誓、如是者︀數四。文煥感而出降。遂與入朝。帝以文煥爲昭勇大將軍侍衞親軍都︀指揮使襄漢︀大都︀督」。襄陽の降れるは、世祖︀紀に據るに、至元十年二月の事なり。
襄陽砲擊の事は、喇失惕ラシツトの史にも漏されざりき。多遜ドーソンの引けるに據るに、「支那には庫姆嘎クムガと云ふ砲器︀あらざりし故に、合罕カガンは荅馬思庫思ダマスクス卽巴勒別克バルベクより砲匠を送らしめき。その砲匠の三子阿不別克兒アブベクル・亦卜喇希姆イブラヒム・馬訶篾惕マホメツトは、その工人と共に七つの巨砲を造れり。その巨砲は、國界の城にて蠻子マンツの要害なる撒顏府サヤンフの攻撃に用ひられき」。砲匠の名は漏れたれども、方伎傳の亦思馬因イスマインなること疑ひなし。その子阿不別克兒アブベクルは、傳の布伯ブベ、亦卜喇希姆イブラヒムは、傳の弟亦不剌金イブラキムなり。馬訶篾惕マホメツトは、亦思馬因イスマインの傳に見えざれども、阿老瓦丁アラワヂンの孫馬哈馬沙マハマシヤ卽馬訶篾惕沙マホメツトヤはそれと同じ人なるに似たり。撒顏府サヤンフは、卽襄陽府シヤンヤンフの訛なり。
馬兒科保羅マルコポーロの談は、甚面白し。その紀行第十一章に撒顏府サヤンフの雄大にして產物に富めることを叙べたる後に「蠻子マンツの國は皆降りたる後に、その城は三年の間、大汗に抗して守禦せり。大汗の軍は、それを取らんと頻︀に力めたれども、それの周圍に廣き深き水ありて、北なる只一邊よりの外近づくこと能はざりし故に、成功せざりき。大汗の兵は、城の前に三年居て取る能はざりし時に、大にいらちけり。その時尼科羅波羅ニコロポーロと馬弗斡マフエオと馬兒科マルコとは曰く「我等は、城を速に降すべき方法を示さん」と云へば、軍の人人は、それはいかなるかを知らんと欲することを答へき。この話は、大汗の前にて起りき。この時は、軍中より使至りて、味方の攻むる能はざる側かはより、敵は食物の供給を絕えず受くるが故に、封鎖にて城を取るべき樣なしと吿げ、大汗は答へて「必取れ、何とか方法を見出せ」と云ひ遣りたる時なりき。その時二人の兄弟と子馬兒科マルコとは申さく「大君オホギミ。我等の從者︀の中に、城兵の抵抗する能はざるほどに大なる石を抛ぐべき砲器︀を作り得る人あり。この砲器︀を以て城を擊たば、城兵は直ちに降らん」。汗は、かかる砲器︀をなるたけ速に作らんことを熱心に望めり。今尼科羅ニコロとその子とは、直ちにその作事に適する材木を要イるだけ取寄せき。その從者︀の二人、獨逸︀人と捏思脫兒ネストル派の克哩思惕クリスト敎徒とは、その工事の達人なりしかば、それらに命じて三百磅の石を抛げ得べき砲器︀二三臺を作らしめき。かくて立派なる砲器︀、三百磅以上の石を抛げ得る物、三臺成りき。その砲器︀用ひらるべく成りし時に、汗もその他の人も、見て大に喜び、その前にてあまたの石を抛げさせ、大に驚歎し、大に工事を賞めき。汗は命じて、その器︀械を撒顏府サヤンフの行營に居る軍の處に運ばしめき。その器︀械行營に達し、据附けられたる時、塔兒塔兒タルタル人大に感賞せり。その器︀械据附けられ、働かせられたる時、各より石を城に抛げ、建物の中に效力を著︀し、大なる聲と震動とを以て何物にても破り碎きけり。城の民は、この奇異なる新客を見