方方より彼を攻めたる末に、塔兒塔兒タルタルは、その國に至りたれば、彼はその藩臣となりき。その時彼は、己の軍と塔兒塔兒タルタルの軍とを以て撒喇先サラセンどもを擊破り、印的亞インヂアにて夥しき捕虜︀を得たれば、印的亞インヂアの奴隷は、東方全體に滿ちたり。我この王の捕りて賣りに送りたる奴隷五萬人以上を見たり」とあり(「喀勢カセイ」序論一二七)。この書簡に述べたる事蹟は、殆ど皆根無し言なり。裕勒ユール曰く「この書簡の動機は、蓋その兄海︀屯ハイトンが、その怪しき印度インドの王の如く、塔兒塔兒タルタルの藩臣となりたることを言譯せんが爲ならん。撏帕惕セムパトは、一二七二年(至元九年)突︀兒克トルク人との戰にて死にき」。
佛㘓西フランス王路易ルイ第九は、拔都︀バドの子撒兒塔黑サルタクの克哩思惕クリスト敎徒なるを聞き、塔兒塔兒タルタルの國情を探りかつ敎化せんが爲に、佛㘓昔思フランシス派の僧︀嚕卜嚕克ルブルクを東方に派遣せり。嚕卜嚕克ルブルクは、一二五三年(憲宗三年)五月、公士但丁堡より黑海︀を渡り、克哩米亞クリミアを過ぎ、佛勒噶ブルガ河の畔に至り、撒兒塔黑サルタクに見えしが、撒兒塔黑サルタクは聞きしに違ひ、頑なる不信者︀なりき。科札惕コヂヤトと云へる捏思脫兒ネストル敎徒、異敎徒にも劣れりと嚕卜嚕克ルブルクの誹れる大臣ありて、撒兒塔黑サルタクに紹介し、謁︀見の事を取計ひ、嚕卜嚕克ルブルクを欺きてその衣服を奪へり。それより佛勒噶ブルガ河に傍ひて泝り、巴禿バト汗の營に至り、それより又四箇月の長旅にて、その年の冬、憲宗の行宮に達しき。
憲宗は、捏思脫兒ネストル派の僧︀侶に嚕卜嚕克ルブルクの使命を問はしめたる上にて、謁︀見を許し、蒙古に住みて布敎せんとする嚕卜嚕克ルブルクの願をば却けたれども、家を與へて、寒さの緩むまで二月ほど留まること、望むならば喀喇科嚕姆カラコルムに往くことを許せり。嚕卜嚕克ルブルクの觀たるには、曼古マングとその家族とは、克哩思惕クリスト敎木哈篾惕ムハメト敎佛敎の法事に區別なく加はり、各の宗敎の與へんと云ふ福︀を慥にせんとせり。克哩思惕クリスト敎は、捏思脫兒ネストル派のそれにして、その宗派のいかに墮落したるかは、嚕卜嚕克ルブルクの述べたる畫の如き珍談に由りて察せらる。或る祭の日に曼古マングの正妻は、その子どもを伴れて、捏思脫兒ネストル派の寺に入り、その派の風習に從ひ、聖像の右手に接吻し、己の右手を與へて接吻せしめき。曼古マングも居て、その妻と神︀案の前なる金着せの椅子に坐り、嚕卜嚕克ルブルクとその隨行者︀とに歌はしめたれば、二人は吠尼散克帖思闢哩禿思ヹニサンクテスピリトス(聖靈來)を唱へき。帝はその後直に去りたれども、皇后は後に留りて、克哩思惕クリスト敎徒に賜物を與へ、米酒葡萄酒馬乳酒を取寄せ、自ら盞を取り、跪きて福︀を求め、后の飮む間僧︀徒は歌ひ、然る後僧︀徒は醉ふまで飮みけり。かくてその日を過し、夕に向ひ皇后も同じく醉ひ、輿に乘りて歸るを、僧︀徒は歌ひつゝ吠えつゝ護送せり。
他の折に嚕卜嚕克ルブルクは、捏思脫兒ネストル派の僧︀衆阿兒篾尼亞アルメニアの一僧︀と列を成して、曼古マングの宮殿に往きけり。內に入る時、一人の僕、沙曼シヤマンの卜ウラナひに用ひたる羊の肩骨の燻したるを持ち出づるを見たり。僧︀徒は、香爐を持ち往きて、帝の身に香氣を與へ、その蓋を祝︀して然る後に眾皆飮みき。皇族の人人にも、次次に見えき。捏思脫兒ネストル派の考へたる克哩思惕クリスト敎の禮拜は、高き所に十字架を新しき絹の一片の上に置きて、その前にひれふすなりき。
前に記せる三の宗派は、常に改宗を勸め居りて、彼等の大なる望みは、合罕を引入るゝことなれども、曼古マングは中立して、いづれをも寬大に扱へり。一日嚕卜嚕克ルブルクに語りて曰く「我が朝廷の人人は、唯一にして長生なる同じ神︀を拜むものなれば。各の方式にてそれを崇むることを許されざるべからず。あらゆる宗派の人に我が恩寵を分け與ふるは、いづれも我が意に適ふことを著︀さんが爲なり」と云ひき。歷史家主吠尼ヂユヹニは、曼古マングはおもに木哈篾惕ムハメト敎徒をひいきせしことを云へるに、海︀屯ハイトンと思帖返斡兒弗里安ステフエンオルフエリアンとは、克哩思惕クリスト敎徒最ひいきせられしことを主張せり(訶倭兒思ホヲルス〈[#「訶倭兒思」は底本では「訶兒倭思」]〉一、一九〇)。
されども克哩思惕クリスト・木哈篾惕ムハメト・佛陀の三敎は、皆朝廷の贅澤〈[#「贅澤」は底本では「聱澤」]〉に過ぎず。蒙古の國民の實行するは、沙曼シヤマン敎にして、舊の如く國敎となり居たり。嚕卜嚕克ルブルクの記載に據れば、沙曼シヤマン僧︀徒の長は、皇宮より石の投げらる距離に