住みたる人ありしならん。次に甲傳に「父哈剌火者︀ホアラボヂヤ、從憲宗征討有功。完者︀都︀オンヂエイト廣顙豐頷、髯長過腹。爲人驍勇、而樂善好施。歲丙辰(憲宗六年)、以材武從軍。己未(九年)、從攻鄂州先登、賞銀五十兩」。「從攻」の六字は、乙傳に「從世祖︀攻鄂州、登城斬馘」とあり。それよりして世祖︀一代は、屢戰功を立て、至元二十六年江西等處行樞密院の副使となり、廣東の宣慰使を兼ね、元貞元年、江浙行省の平章政事となり、大德二年卒し、林國公に追封せられき。完者︀都︀オンヂエイトの父祖︀嘗て彰德に居たるに由り、彰德路林州の名を取り封號としたるならん。元の林州は、今の直隸彰德府林縣なり。子十四人皆仕へ、孫二十四人も多くは仕へき。
列傳卷十八「伯帖木兒ベテムル、欽察キムチヤ人也。至元中、充哈剌赤ハラチ、入備宿衞。二十四年、御史大夫玉速帖木兒ユステムル(玉昔帖木兒ユシテムル)に從ひ、叛王乃顏ナヤンを征し、二十五年、諸︀王乃麻歹ナマダイ(乃蠻台ナイマンタイ)に從ひ、叛王哈丹ハダンを征し、又玉速帖木兒ユステムルに從ひ、哈丹ハダンの黨を敗り、二十六年、拜要バヤウ(□□□)の黨伯顏バヤンを擒にし、「是年冬、立東路蒙古軍上萬戶府、統欽察キムチヤ・乃蠻ナイマン・捏古思ネグス・那亦勒ノイル等四千餘戶、陞懷遠大將軍上萬戶、佩三珠虎符」。那亦勒ノイルの勒ルは、恐らくは勤キンの誤りにて、卽那牙勤ノヤキンならん。二十七年哈丹ハダンを逐ひ、二十八年鴨綠アリユ江に至り、二十九年叛王捏怯烈ネケレを逐ひ、女直ヂユチの地を定めき。
列傳卷二十「昔都︀兒シドル、欽察キムチヤ氏。父禿孫トスン、隷蒙古軍籍。中統二年、從丞相伯顏バヤン、討李壇叛、以功授百戶。至元十年吿老、以昔都︀兒シドル代之」。十一年、昔都︀兒シドルは、大軍に從ひ南征し、「十四年、從諸︀王伯木兒ベムル、追擊折兒凹台ヂエルアタイ岳不思兒ヨブスル等於黑城哈剌火林ハラホリム之地平之。」伯木兒ベムルは、伯帖木兒ベテムルの帖テを脫したるか。但世系表太宗の第二子闊端コドン太子の孫にも汾陽王伯帖木兒ベテムルあり、睿宗の第九子末哥モゲ大王の孫にも伯帖木兒ベテムル大王あり。いづれなるか知らず。折兒凹台ヂエルアタイは、土土哈トトハの傳の只兒瓦台ヂルワタイ、句容郡王世績碑の只兒瓦䚟ヂルワダイなり。岳不思兒ユブスルの思スは、忽フの誤にて、多遜ドーソンの余不庫兒ユブクル、世系表の定王藥木忽兒ヤムフルなり。世系表は、藥木忽兒ヤムフルを阿里不哥アリブカの孫としたれども、孫に非ずして子なるべきことは、已に土土哈トトハの傳に云へり。黑城は、合喇巴勒合孫カラバルガスンの譯にして、舊城の義、哈剌火林ハラホリムは合喇闊嚕姆カラコルムなり。〈[#底本では「り」と句点「。」の順番が逆。意味が通らないので修正]〉合喇闊嚕姆カラコルム二所あり、斡兒歡オルホン河の西なるは回紇フイフの舊城、東なるは蒙古の新城なることは、實錄六一四頁以下に云へり。黑城哈剌火林ハラホリムは、卽回紇フイフの舊き合喇闊嚕姆カラコルム、今の合喇巴勒嘎孫カラバルガスンなり。この戰は、句容郡王世績碑に、至元十四年「遂滅只兒瓦䚟ヂルワダイ、六月、逐其兵於禿剌トラ河、八月、又敗之斡歡オホン(斡兒歡オルホン)河」とある時なり。二十四年、昔都︀兒シドルは、漢︀洞左江萬戶府の達魯花赤ダルハチとなり、洞軍を領ゐて、鎭南王(世祖︀の第九子脫歡トホン)に從ひ交趾を征し、明年その都︀城に入り、師を全うして還り「二十六年、賜虎符、授廣威將軍砲手軍匠萬戶府達魯花赤ダルハチ。大德二年卒、子也先帖木兒エセンテムル襲」。
列傳卷二十二「乞台キタイ、察台チヤタイ氏」とある察チヤの上欽キムの字脫ちたるならん。欽察キムチヤ衞の兵を率ゐ、欽察キムチヤの土土哈トトハ創兀兒チヤングル父子に從ひて働けるを見れば、必欽察キムチヤ人なるべし。「至元二十四年、爲欽察キムチヤ衞百戶、從土土哈トトハ、征叛王失烈吉シレギ及乃顏ナヤン有功、賜金符、陞千戶。從征忽剌出クラチユ、戰于阿里台アリタイ之地」。忽剌出クラチユは、合赤溫カチウン〈[#ルビの「カチウン」は底本では「カチムン」。同じ読みが他にないので誤植と判断し修正]〉の曾孫、按只歹アンヂダイの孫、隴王忽剌出クラチユなり。阿里台アリタイは、阿勒台アルタイ卽金山なり。この金山の戰は、土土哈トトハの傳に「二十九年秋、略地金山、獲海︀都︀ハイド之戶三千餘」とある時ならん。「元貞二年、以疾卒、子哈贊赤ハヅアンチ襲職。從創兀兒チヤングル於魁烈兒クイレル之地、與哈荅安ハダアン戰有功」。創兀兒チヤングルは、土土哈トトハの傳の牀兀兒チヤングル、魁烈兒クイレルは、貴烈グイレ河、哈荅安ハダアンは、叛王哈丹ハダンなり。この戰は、哈贊赤ハヅアンチの職を襲ぐ前、金山の戰の前、至元二十五年の事なり。「大德五年、從戰杭海︀ハンガイ、從武宗親征哈剌阿荅ハラアダ、復從創兀兒チヤングル、征不別八憐ブベバレン、爲先鋒、以功受賞賚」。「親征哈剌阿荅ハラアダ」は、武宗紀に「海︀都︀ハイド悉合其眾以來、大戰于