周匝、追出其境鐵門關。秋又敗其大軍札亦兒ヂヤイル之地。上聞之、遣使賜勞有加。四年、上念王之功、而憫其老也、召之、命商議中書省事、知樞密院事」。傳は、こゝに「大理國進象牙金飾轎、卽以賜之」を補へり。「每見必賜坐、上食必賜食、待之以宗室親王之禮。王常曰「老臣受朝廷之賜厚矣。吾子孫不以死報國、可乎」。至治二年薨、年六十三」。この下忽魯速蠻フルスマン以下三代の贈︀諡、夫妻の封爵、土土哈トトハ創兀兒チヤングルの諸︀子の仕履などあれども、煩はしければ載せず。
土土哈トトハの子八人、皆朝に仕へて大官となれる中にて、第三子牀兀兒チヤングル最顯れ、牀兀兒チヤングルの子七人の內、第三子燕帖木兒エンテムル最顯れ、第四子撒敦サドンは中書左丞相となり、第六子荅里ダリ(文宗紀に荅隣荅里ダリンダリ)は、父の封を襲ぎ句容郡王となれり。燕帖木兒エンテムルは、列傳卷二十五に燕鐵木兒エンテムルと書きて、別に傳あり。この燕鐵木兒エンテムルは、武宗・仁宗・英宗に歷仕し、致和元年僉書樞密院事に進み、泰定帝上都︀に崩じて、皇太子阿速吉八アスギバ(天順帝)位に卽きたる時、兵を以て大都︀の羣臣を脅し、武宗の二子明宗・文宗を迎へ、遂に文宗を擁立し、上都︀の官軍を擊ち破りて天順帝は行くへ知れずなれり。燕鐵木兒エンテムルは、その功に依り、中書右丞相錄軍國重事大都︀督太師荅剌罕ダラハン太平王となれり、天曆三年二月「文宗欲昭其勳、詔命禮部尙書馬祖︀常製文、立石於北郊」。石に刻みたる文は、太師太平王定策元勳之碑と題して、元文類︀卷二十六に見えたり。燕鐵木兒エンテムルの傳は、專らその碑文に本づきたるものなるが、その碑は、勅を奉じて權臣を諛頭したるものにて、事實を枉げたる所あれば、こゝに轉載せず。
すべて燕鐡木兒伯顏エンテムルバヤン(蔑兒吉䚟メルギダイ)等の傳、泰定帝明宗文宗本紀などには、往徃順逆を顚倒したる誣罔の詞あれば、讀者︀は、前後の事情を斟酌して取捨せざるべからず。例へば明宗紀に「歲戊辰七月庚午、泰定皇帝崩于上都︀、倒剌沙ダウラシヤ專權自用、踰月不立君、朝野疑懼。時僉樞密院事燕鐵木兒エンテムル、留守京師、遂謀擧義」とあるにつき、考異に「按、泰定以七月庚午崩、至八月甲午擧事、爲時尙未及三旬。元諸︀帝卽位、皆俟諸︀王大臣畢會議之、距前君之崩、或兩月、或三月、初無定期。蓋其家法如是。況泰定踐祚之日、儲位早定、朝野本無異議也。燕帖木兒エンテムル逆謀早萠于泰定未崩之先、豈因踰月不立君、人心疑懼、始謀擧事乎。此皆實錄之誣詞、史臣不能刋正也」と云へり。逆謀早く萌せることは、この年三月、泰定帝の上都︀に幸する前に、燕鐵木兒等は、もし不諱あらば大事を擧げんと謀りたる(文宗紀の卷首)を見て、知るべし。又御批通鑑輯覽は、燕鐵木兒エンテムルの「謀擧義」を「謀逆」と改めて、御批に「武宗旣傳子弟、其子卽無統業可承。而泰定帝己成其爲君、儲嗣現存神︀器︀自有專屬。乃燕鐵木兒エンテムル忽進異圖、謬託受武宗恩寵之言以自文、遠迎周(明宗)懷(文宗)二王入繼、于情理爲不順。其意不過欲假援立之功、以憑寵肆志、遂成圖帖睦爾トテムル(文宗)簒弑之謀、則燕鐵木兒エンテムル實爲罪首」とあり。
かくて燕鐵木兒エンテムルは、專橫を極めたる後、至順三年文宗崩じ、明宗の次子懿璘質班イリンヂバン(寧宗)も位を繼ぎてまもなく崩じ、明宗の長子妥懽貼睦爾トホンテムル(惠宗皇帝、明人の謂はゆる順帝)は、廣西より迎へられ、未立たざるに明年三月、燕鐵木兒エンテムル病死せり。順帝位に卽き、篾兒乞惕メルキトの伯顏バヤン右丞相となり、燕鐵木兒エンテムルの弟撒敦サドン左丞相となり、燕鐵木兒エンテムルの女は皇后となり、撒敦サドン死して、燕鐵木兒エンテムルの子唐其勢タンキシ左丞相となりしが、伯顏バヤンと權を爭ひ、至元元年、弟塔剌海︀タラハイと共に伯顏バヤンを殺︀さんとして宮關を犯し、捕へられて誅に伏し、皇后も塔剌海︀タラハイを庇したるが爲に執へられ、伯顏バヤンに殺︀されき。
3。完者︀都︀オンヂエイト卽完者︀拔都︀オンヂエイバード。
列傳卷十八の完者︀都︀オンヂエイトと列傳卷二十の完者︀拔都︀オンヂエイバードとは、同じ人にして、完者︀都︀オンヂエイトは、正しくは斡勒者︀亦禿オルヂエイト、完者︀拔都︀オンヂエイバードは、斡勒者︀亦禿巴阿禿兒オルヂエイトバアトルなり。甲傳は委しく、乙傳は簡なり。只初の句だけは、甲傳に「完者︀都︀オンヂエイト、欽察キムチヤ人」とあるを、乙傳には「完者︀拔都︀オンヂエイバード、欽察キムチヤ氏、其先彰德人」とあり。完者︀都︀オンヂエイトの父祖︀蒙古に屬して後に彰德に