列傳卷八十一、忠義二、納速剌丁ナスラヂン(納思嚕丁ナスルツヂン)、字士瞻。其父馬合木マハム(馬呵木惕マハムト)、從征襄陽、以勞擢濟州達魯花赤ダルハチ、因家大名。納速剌丁ナスラヂンは、順帝の時、淮東宣慰使の掾となり、屢賊と戰ひ、その子寶童海︀嚕丁ハイルツヂン西山驢と皆節︀に死せり。傳に何國の人とも云はざれども、その名に依りて、抹哈篾惕モハメト敎徒なること知らる。
列傳卷八十三、忠義四、迭里彌失デリミシ、字子初、回回フイフイ人。至正中、漳州路の達魯花赤ダルハチ。漳州明の兵に降れる時節︀に死せり。又回回フイフイの人獲獨步丁ホドブツヂンは、福︀州の降れる時節︀に死し、その兄二人、穆魯丁ムルツヂンは、建康にて國難に死し、海︀魯丁ハイルツヂンは、列傳卷八十二に見たる淅東の都元帥伯顏不花的斤バヤンブハチキンと共に信州を守りて死を效しき。
列傳卷九十方伎の工藝に「阿老瓦丁アラワヂン(阿來額丁アライエツヂン)、回回フイフイ氏、西域木發里ムフアリ人也」とあるを、卜咧惕施乃迭兒ブレトシユナイデル曰く「木發里ムフアリは、蓋的阿兒別奇兒デアルベキルの北東の寨にて一二六〇年(中統元年)蒙古に取られたる抹阿弗𡂰モアフエリンならん」と云へり。多遜ドーソン三、三五五頁に見えたる馬牙發兒勤マヤフアルキン(抹阿弗𡂰モアフエリン)の寨の堪能なる軍匠の事を參考せよ。「至元八年、世祖︀遣使徵砲匠于宗王阿不哥アブカ」。阿不哥アブカは、皇弟旭剌古フラグの子亦兒汗阿巴咯イルカナバカなり。「工以阿老瓦丁アラワヂン・亦思馬因イスマイン應詔。二人擧家馳驛至京師、給以官舍。首造大砲、竪于五門前。帝命試之、各賜衣段。十一年、國兵渡江平章阿里海︀牙アリハイヤ、遣使求砲手匠。命阿老瓦丁アラワヂン往、破潭州靜江等郡、悉賴其力。十五年、授宣武將軍管軍總管」。潭州の砲擊は、十二年の冬に在り、靜江の破れたるは、十三年十二月にあり、列傳卷十五阿里海︀牙アリハイヤの傳に見ゆ。「十八年、命屯田於南京」は、世祖︀紀至元十八年七月の條に「括回回フイフイ砲手散居他郡者︀、悉令赴南京屯田」とあり。「二十二年、樞密院奏、改元帥府爲回回フイフイ砲手軍匠上萬戶府、以阿老瓦丁アラワヂン爲副萬戶。大德四年、吿老、子富謀只フミウヂ襲副萬戶。皇慶元年卒、子馬哈馬沙マハマシヤ襲」。
同じ卷に「亦思馬因イスマイン(亦思馬額勒イスマエル)、回回フイフイ氏、西域旭烈フレ人也」。旭烈フレは、地の名に非ず。旭烈兀ブレウの領地の人と云ふべきを誤れるなり。喇失惕ラシツトに據れば、この人は、荅馬思庫思ダマスクスより至れり。「善造砲、至元八年、與阿老瓦丁アラワヂン至京師。十年、從國兵攻襄陽、未下。亦思馬因イスマイン相地勢、置砲于城東南隅、重一百五十斤。機發、聲震天地、所擊無不摧陷、入地七尺。宋安撫呂文煥懼、以城降。旣而以功賜銀二百五十兩、命爲回回フイフイ砲手總管、佩虎符。十一年、以疾卒、子布伯ブベ襲職。時國兵渡江、宋兵陳于南岸、擁舟師迎戰。布伯ブベ於北岸堅砲以擊之、舟悉沉沒。後每戰用之、皆有功」。
國兵渡江とは、十一年十二月、丞相伯顏バヤン大軍を統べて漢︀口に至り、阿里海︀牙アリハイヤ張弘範等に陽羅堡を攻めさせ阿朮アチユをして靑山磯より江を渡らしめたる時の事を云へるなり。又十二年二月、池州を發して、賈似道の舟師を敗る時、伯顏バヤンの傳に「伯顏バヤン命左右翼萬戶、率騎兵夾江而進、砲聲震百里、宋軍陣動」、阿朮アチユの傳に「遣騎兵夾岸而進、兩岸樹砲、擊其中堅、宋軍陣動」とあり。布伯ブベは、「十八年、加鎭國上將軍回回フイフイ砲手都︀元帥、明年、改軍匠萬戶府萬戶、遷刑部尙書」。のち浙東道宣慰使。その子哈散ハサン(哈思散ハスサン)は、高郵府同知。布伯ブベの弟亦不剌金イブラキム(亦卜喇希姆イブラヒム)は、兄の刑部に遷れる時、萬戶となれり。「致和元年八月、樞密院檄亦不剌金イブラキム所部軍匠至京師、與馬哈馬沙マハマシヤ造砲。天曆二年、以疾卒、子亞古アグ襲」。
襄陽攻圍の事は、兀良合ウリヤンカの阿朮アチユ(速不台スブタイの孫、兀良合台ウリヤンカタイの子、列傳卷十五)、史天澤(史天倪の弟、列傳卷四十二)、張弘範(張柔の子、列傳卷四十三)、劉整(列傳卷四十八)の傳に、その砲擊の事は、畏吾兒ウイウルの阿里海︀牙アリハイヤ