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12。​納速剌丁​​ナスラヂン​。

 列傳卷八十一、忠義二、​納速剌丁​​ナスラヂン​(​納思嚕丁​​ナスルツヂン​)、字士瞻。其父​馬合木​​マハム​(​馬呵木惕​​マハムト​)、從征襄陽、以勞擢濟州​達魯花赤​​ダルハチ​、因家大名。​納速剌丁​​ナスラヂン​は、順帝の時、淮東宣慰使の掾となり、屢賊と戰ひ、その子寶童​海︀嚕丁​​ハイルツヂン​西山驢と皆節︀に死せり。傳に何國の人とも云はざれども、その名に依りて、​抹哈篾惕​​モハメト​敎徒なること知らる。


13。​迭里彌失​​デリミシ​。

 列傳卷八十三、忠義四、​迭里彌失​​デリミシ​、字子初、​回回​​フイフイ​人。至正中、漳州路の​達魯花赤​​ダルハチ​。漳州明の兵に降れる時節︀に死せり。又​回回​​フイフイ​の人​獲獨步丁​​ホドブツヂン​は、福︀州の降れる時節︀に死し、その兄二人、​穆魯丁​​ムルツヂン​は、建康にて國難に死し、​海︀魯丁​​ハイルツヂン​は、列傳卷八十二に見たる淅東の都元帥​伯顏不花的斤​​バヤンブハチキン​と共に信州を守りて死を效しき。


14。​阿老瓦丁​​アラワヂン​。

 列傳卷九十方伎の工藝に「​阿老瓦丁​​アラワヂン​(​阿來額丁​​アライエツヂン​)、​回回​​フイフイ​氏、西域​木發里​​ムフアリ​人也」とあるを、​卜咧惕施乃迭兒​​ブレトシユナイデル​曰く「​木發里​​ムフアリ​は、蓋​的阿兒別奇兒​​デアルベキル​の北東の寨にて一二六〇年(中統元年)蒙古に取られたる​抹阿弗𡂰​​モアフエリン​ならん」と云へり。​多遜​​ドーソン​三、三五五頁に見えたる​馬牙發兒勤​​マヤフアルキン​(​抹阿弗𡂰​​モアフエリン​)の寨の堪能なる軍匠の事を參考せよ。「至元八年、世祖︀遣使徵砲匠于宗王​阿不哥​​アブカ​」。​阿不哥​​アブカ​は、皇弟​旭剌古​​フラグ​の子​亦兒汗阿巴咯​​イルカナバカ​なり。「工以​阿老瓦丁​​アラワヂン​・​亦思馬因​​イスマイン​應詔。二人擧家馳驛至京師、給以官舍。首造大砲、竪于五門前。帝命試之、各賜衣段。十一年、國兵渡江平章​阿里海︀牙​​アリハイヤ​、遣使求砲手匠。命​阿老瓦丁​​アラワヂン​往、破潭州靜江等郡、悉賴其力。十五年、授宣武將軍管軍總管」。潭州の砲擊は、十二年の冬に在り、靜江の破れたるは、十三年十二月にあり、列傳卷十五​阿里海︀牙​​アリハイヤ​の傳に見ゆ。「十八年、命屯田於南京」は、世祖︀紀至元十八年七月の條に「括​回回​​フイフイ​砲手散居他郡者︀、悉令赴南京屯田」とあり。「二十二年、樞密院奏、改元帥府爲​回回​​フイフイ​砲手軍匠上萬戶府、以​阿老瓦丁​​アラワヂン​爲副萬戶。大德四年、吿老、子​富謀只​​フミウヂ​襲副萬戶。皇慶元年卒、子​馬哈馬沙​​マハマシヤ​襲」。


15。​亦思馬因​​イスマイン​。

 同じ卷に「​亦思馬因​​イスマイン​(​亦思馬額勒​​イスマエル​)、​回回​​フイフイ​氏、西域​旭烈​​フレ​人也」。​旭烈​​フレ​は、地の名に非ず。​旭烈兀​​ブレウ​の領地の人と云ふべきを誤れるなり。​喇失惕​​ラシツト​に據れば、この人は、​荅馬思庫思​​ダマスクス​より至れり。「善造砲、至元八年、與​阿老瓦丁​​アラワヂン​至京師。十年、從國兵攻襄陽、未下。​亦思馬因​​イスマイン​相地勢、置砲于城東南隅、重一百五十斤。機發、聲震天地、所擊無不摧陷、入地七尺。宋安撫呂文煥懼、以城降。旣而以功賜銀二百五十兩、命爲​回回​​フイフイ​砲手總管、佩虎符。十一年、以疾卒、子​布伯​​ブベ​襲職。時國兵渡江、宋兵陳于南岸、擁舟師迎戰。​布伯​​ブベ​於北岸堅砲以擊之、舟悉沉沒。後每戰用之、皆有功」。

 國兵渡江とは、十一年十二月、丞相​伯顏​​バヤン​大軍を統べて漢︀口に至り、​阿里海︀牙​​アリハイヤ​張弘範等に陽羅堡を攻めさせ​阿朮​​アチユ​をして靑山磯より江を渡らしめたる時の事を云へるなり。又十二年二月、池州を發して、賈似道の舟師を敗る時、​伯顏​​バヤン​の傳に「​伯顏​​バヤン​命左右翼萬戶、率騎兵夾江而進、砲聲震百里、宋軍陣動」、​阿朮​​アチユ​の傳に「遣騎兵夾岸而進、兩岸樹砲、擊其中堅、宋軍陣動」とあり。​布伯​​ブベ​は、「十八年、加鎭國上將軍​回回​​フイフイ​砲手都︀元帥、明年、改軍匠萬戶府萬戶、遷刑部尙書」。のち浙東道宣慰使。その子​哈散​​ハサン​(​哈思散​​ハスサン​)は、高郵府同知。​布伯​​ブベ​の弟​亦不剌金​​イブラキム​(​亦卜喇希姆​​イブラヒム​)は、兄の刑部に遷れる時、萬戶となれり。「致和元年八月、樞密院檄​亦不剌金​​イブラキム​所部軍匠至京師、與​馬哈馬沙​​マハマシヤ​造砲。天曆二年、以疾卒、子​亞古​​アグ​襲」。


16。襄陽府の攻圍。

 襄陽攻圍の事は、​兀良合​​ウリヤンカ​の​阿朮​​アチユ​(​速不台​​スブタイ​の孫、​兀良合台​​ウリヤンカタイ​の子、列傳卷十五)、史天澤(史天倪の弟、列傳卷四十二)、張弘範(張柔の子、列傳卷四十三)、劉整(列傳卷四十八)の傳に、その砲擊の事は、​畏吾兒​​ウイウル​の​阿里海︀牙​​アリハイヤ​