にて不花剌ブハラ氏なる馬合馬マハマ、進士錄なる回回フイフイ于闐ウテンの人哈八石ハバシ、回回フイフイ阿里馬里アリマリの人烏馬兒ウマルの如きは、いづれも抹哈篾惕モハメト敎徒なれども、蔥嶺以東の人なり。危素の集なる耶爾脫忽璘エルトフリン回紇古速魯フイフグスル氏は、いづこの人なるか確ならず。進士錄なる別羅沙ベロシヤは、西域別失八里ベシバリの人にて、「其母回回フイフイ氏、妻荅失蠻ダシマン氏、當亦回回フイフイ也」。別羅沙ベロシヤの曾祖︀木八剌ムバラ、祖︀別魯沙ベルシヤ、父苫思丁シエンスヂン、兄默理契沙メリキシヤ、皆回回フイフイの名に似たり。
列傳卷十「艾貌拔都︀アイマウバード、康里カングリ氏。初從雪不台那演セブタイノエン、征欽察キムチヤ、攻河西城、收西關、破河南、繼從定宗、略地阿奴アヌ、皆有功、又從四太子南伐、命充怯憐口ケレンク阿荅赤孛可孫アダチボコスン」。雪不台那演は、卽速不台那顏なり。阿奴は、人の名にして、地の名に非ず、金の威平路の宣撫使蒲鮮萬奴にして、太祖︀十年遼東に據り天王と稱し、十一年蒙古に降りて復叛きたる人なり。親征錄辛未(太祖︀六年)南征の條に野狐嶺の敵將を招討九斤監軍爲奴と書けるを、續綱目には完顏九斤完顏萬奴とあり。李文田曰く「爲奴、當作萬奴、卽元史太祖︀紀蒲鮮萬奴也」。喇失惕の史に洼奴とあるは、卽萬奴にして、又こゝの阿奴とも音近し。又親征錄甲戌(太祖︀九年)金主南遷の條に「以招討也奴爲咸平路宣撫」とあるを、沈曾植は「當作也奴、卽萬奴也」と云へり。「從定宗、略地阿奴」は、太宗五年の秋、皇子貴由(定宗)、諸︀王按赤帶等の、萬奴を征したる時、艾貌も從へるなり。「從四太子南伐」は、太宗三年、皇弟拖雷(四太子)、陜西に入り、金房より漢︀江を渡り、四年正月禹山三峯山の戰ありし時、愛貌〈[#「愛貌」はママ]〉も從へるなり。然らば南伐は前にあり、東征は後にあるを、この傳は次序を顚倒せり。次に「又從兵、渡江攻鄂、以疾卒于軍」と云へるは、憲宗九年皇弟忽必烈南伐の時の事なり。その子也速台兒は、世祖︀に事へて、屢軍に從ひ、「以功升武略將軍千戶、賜金符。又招手號新軍二千五百餘人、升宣武將軍總管、賜虎符。有旨征日本、也速台兒エスタイル願效力、賜以弓矢、進懷遠大將軍萬戶、至元二十年、授泰州萬戶府達魯花赤ダルハチ。二十三年、遷昭勇大將軍欽察キムチヤ親軍都︀指揮使」。
この也速台兒エスタイルは、列傳卷二十に別に傳ありて、「也速䚟兒エスダル、康里カングリ人。父愛伯伯牙兀アイババヤウ、太祖︀時率衆來歸」と云へり。愛伯アイバは、卽艾貌アイマウ、伯牙兀バヤウは、愛伯アイバの姓なり。艾貌アイマウの傳に康里カングリ氏とあるは、正しくは康里カングリの伯牙兀バヤウ氏と云ふべきなり。卜咧惕施乃迭兒ブレトシユナイデル曰く「伯牙兀バヤウは、蓋巴牙兀惕バヤウトなり。巴牙兀惕バヤウトは、抹哈篾惕モハメト敎徒の記者︀に據れば(多遜一、一九七)、闊喇自姆コラズムの沙抹哈篾惕シヤーモハメトの母突︀兒罕合屯トルカンカトンの屬する康克里カンクリの一部族の名なりき。蒙果勒モンゴルの始めて闊喇自姆コラズムを攻めし時、その國に康克里カンクリ人あまた居たりき」。この巴牙兀惕バヤウトは、實錄卷一、九頁に見えたる蒙古の巴牙兀歹バヤウダイ、輟耕錄蒙古七十二種の內なる伯要歹バヤウダイとは全く異なり。次に「初以五十戶從軍、力戰而死」とあるは、艾貌アイマウの傳なる「從兵、渡江攻鄂、以疾卒于軍」を云へるなり。
也速䚟兒エスダイルは、父の官を襲ぎ、丞相伯顏バヤンに從ひ南伐し、「世祖︀賜金符、加爲千戶、督五路招討、至元十六年、改金虎符管軍總管。江南平、錄功、進懷遠大將軍管軍萬戶、領江淮戰艦數百艘、東征日本、全軍而還。有旨、特賜養老一百戶、衣服弓矢鞍轡有加。二十二年、移鎭秦州。時籍民丁爲兵、得萬人、以也速䚟兒エスダイル爲欽察キムチヤ親軍指揮使統之」とあり。艾貌アイマウの傳なる也速台見エスダイルといかに似たるかを見よ。
すべて元史には、叙事の重複夥しき上に、一人の傳を重複して二所に書きたるもの往往有り。顧炎武曰く「元史列傳八卷速不台スブタイ、九卷雪不台セブタイ、一人作兩傳。十八卷完者︀都︀モンヂエイト、十九卷完者︀拔都︀オンヂエイバード、亦是一人作兩傳。蓋其成書不出于一人之手」。錢大昕曰く「雪不台セブタイ、卽速不台スブタイ、譯音無定字也。朱錫鬯云「元史旣有速不台スブタイ矣、而又別出雪不台セブタイ。旣有完者︀都︀オンヂエイト矣、而又別出完者︀拔都︀オンヂエイバード。旣有石抹也先シモエツセン矣、而又別出石抹阿辛シモアシン。以及阿塔出忽剌出アタチユフラチユ兩人、