王曰「朔方人來、聞海︀都︀ハイド言「戰者︀人人如土土哈トトハ、吾屬何所容身哉」」。論功行賞、先欽察キムチヤ之士」。末の五字を、傳は「帝欲先欽察キムチヤ之士。土土哈トトハ言「慶賞之典、蒙古將吏宜先之」。帝曰「爾勿飾讓。蒙古人誠居汝右、力戰豈在汝右耶」。召諸︀將、頒賞有差」と改め補へり。「以建康廬饒舊籍租戶千爲哈剌赤ハラチ戶、又以俘獲之戶千七百賜之、官一子以督賦。而創兀兒チヤングル在宿衞、亦帥其軍扈從、至和林ホリム兀卑思ウビス之山、拜昭武大將軍欽察キムチヤ親軍都︀指揮使左衞親軍都︀指揮使兼太僕少卿」。
「二十八年、王奏「哈剌赤ハラチ之軍、數已盈萬、足以備用」。詔賜珠帽珠衣玉帶金帶名鶻縑素萬匹」。末の四字は、傳に「復賜其部曲毳衣縑素萬匹」とあり。「帥其人(傳は於是率哈剌赤ハラチ萬人)、北獵漢︀塔海︀ハンタハイ。邊寇聞之、不敢動。二十九年、掠地金山、虜︀海︀都︀ハイド之戶三千。有詔、進取乞里吉思キリギス。明年春、次欠ケム河(今の客姆ケム河)、冰行數日、盡取其眾(傳は其五部之衆)、留兵鎭之。奏功、拜龍虎衞上將軍、賜行樞密院印。海︀都︀ハイド聞之、領兵至欠ケム河。又敗之、擒其將孛羅察ボロチヤ」。
「成宗皇帝卽位、詔之曰「北邊事重、其免︀會朝」。賜白金五百兩」。末の六字は、傳に「遣使就賜銀五百兩、七寶金壺盤盂各一、鈔萬貫、白氈帳一、獨峯駝五」とあり。「冬、召入朝、有加賜、別賜其軍士鈔一千二百萬。元貞元年春、還守北邊。三年秋、諸︀王從海︀都︀ハイド者︀、皆來降、邊民驚動。王帥兵金山之玉龍海︀ユルンガイ備之、資饋畢給、民用不擾。親導岳木忽ヨムフ等王以朝。上解御衣以賜」。岳木忽ヨムフは、世系表阿里不哥アリブカ大王の子威定王玉木忽爾ユムフルにして多遜ドーソンは、余不庫兒ユブクルと云へり。世系表には、威定王王木忽爾の外に、その姪定王藥木忽爾あれども、威定王と定王とは、その實同じ人なり、諸︀王表金鍍銀印龜紐定遠王の下に「藥木忽兒、大德二年封」、金印駝紐威定王の下に「藥木忽爾、大德九年、由定遠王徙封」、金印獸紐定王の下に「要木忽爾、至大元年、由定遠王進封」、とあり、末の要木忽爾は、卽前の藥木忽兒にして、又卽世系表の玉木忽爾なり、この王は、大德九年に定遠王より威定王に進みたれば、至大元年に定王に進みたるは、定遠王よりにはあらずして、威定王よりなり、表は、威定を定遠と誤れり、又世系表を作れる人は、威定王と定王と同じ人なることに心附かず、已に威定王玉木忽爾を阿里不哥の長子として記し、定王を記すべき所なき故に、威定王の弟乃剌忽不花大王の三子の次に書き加へたるならん。「大德元年、拜銀靑光祿大夫、上柱國、同知樞密院事、欽察キムチヤ親軍都︀指揮使如故。還邊。二月、至宣德府薨、年六十一」。
「是歲、有詔創兀兒チヤングル世其父官、領北征諸︀軍。後亦封句容郡王。王帥師踰金山、攻八隣バリン之地。八隣バリン之南、有大河曰荅魯忽ダルフ。其將帖良臺テリヤンタイ、阻水而軍、伐木柵岸以自庇。士皆下馬跪坐、持弓矢以待我軍。矢不能及、馬不能進。王卽命吹銅角、擧軍大呼、聲振林野。坐士不知所爲、爭起就馬。王麾師畢渡、湧水拍岸、木柵漂散。因奮師馳擊、五十里而後止、盡得其人馬廬帳。還次阿雷アルイ河、與孛伯拔都︀ボベバード之軍相遇。孛伯拔都︀ボベバード者︀、海︀都︀ハイド所遣援八隣バリン者︀也。阿雷アルイ之上、有山甚高、孛伯ボベ陣焉。山高峻、馬不利於下馳。急麾軍、渡河蹴之。孛伯ボベ馬下坂、多顚躓急擊敗之、追奔三十餘里。孛伯ボベ僅以身免︀。二年、北邊諸︀王都︀哇徹徹禿ドワチエチエト等、潛師急至、襲我火兒哈禿ホルハト之地。火兒哈禿ホルハト、亦有山甚高、其師來據之。王選勇而能步者︀、持挺刀四面上、奮擊、盡覆其軍。敵遁者︀無幾。都︀哇ドワは、元史世祖︀紀に朶瓦ドワ、武宗紀に篤娃ドワ、忽林失フリンシの傳に都︀瓦ドワとも書き、世系表には無し。多遜ドーソンに據れば、察合台チヤガタイ太子の玄孫、孛喇克ボラク(表の八剌バラ大王)の子にして、察合台汗國チヤガタイカンコク第十代の君なり。徹徹禿チエチエトは、世系表憲宗の第三子玉龍荅失ユルンダシ大王の孫郊王徹徹禿チエチエトなり。この王は、後に歸順し、諸︀王表に「泰定三年封武寧王、至順二年進封郷王」とあり、明宗文宗二紀天曆二年の條に武導王徹徹禿チエチエトの名屢見え、至順以後は郷王徹徹禿チエチエトの名も見えたり。篾兒乞惕メルキトの伯顏バヤンの傳に、順帝至元五年「構陷郯王徹徹篤チエチエド奏賜死」とあり。
「三年、入朝。上解衣賜、慰勞優渥、拜鎭國上將軍、僉樞密院事、欽察キムチヤ親軍都︀指揮使、左衞親軍都︀指揮使、