の誤なり。武宗紀大德十一年十二月改元の詔に「僧︀道也里可溫エリケウン荅失蠻ダシマン、竝依舊制納稅」。至大二年六月「中書省臣言「河南江浙省言「宣政院奏免︀僧︀道也里可溫エリケウン荅失蠻ダシマン租稅」。臣等議、田有租商有稅、乃祖︀宗成法。今宣政院一體奏免︀、非制」。有旨、依舊制徵之」。仁宗紀至大四年四月「能僧︀道也里可溫エリケウン荅失蠻ダシマン、頭陀白雲宗諸︀司」。泰定帝紀泰定元年二月「宣諭也里可溫エリケウン、各如敎具戒」。十一月「詔免︀也里可溫エリケウン荅失蠻ダシマン差役」。文宗紀 天曆 元年九月「命高昌僧︀、作佛事於延春閣、又命也里可溫エリケウン、於顯懿莊聖皇后(睿宗拖雷トルイ里〈[#「里」はママ]〉の妃)神︀御殿作佛事」などあり。外にも猶あるべし。
洪鈞の元世各敎名考に經世大典の馬政篇を引きて、「中統四年、諭中書省、於東平大名河南路宣慰司、不以回回フイフイ通事斡脫オト幷僧︀道荅失蠻ダシマン也里可溫エリケウン畏兀兒ウイウル諸︀色人戶、每鈔一百兩、通滾和買堪中肥壯馬七匹。(不以猶言不論と洪鈞注せり)。至元二十六年七月十日、兵部承奉尙書省奏。諸︀衙門官吏僧︀道荅失蠻ダシマン也里可溫エリケウン斡脫オト、不以是何軍民諸︀色人戶、所有堪中馬匹、盡數和買。十四日、兵部承奉尙書省箭付、和尙ホシヤン先生也里可溫エリケウン荅失蠻ダシマン斡脫オト等戶但有四歲以上騸馬曳剌イラ馬小馬、盡數赴官中納、當面給付價鈔」。また「至元十二年、樞密院奏、僧︀道也里可溫エリケウン荅失蠻ダシマン、欲馬何用。二十四年、楊總統奏、漢︀地和尙ホシヤウ也里可溫先生荅失蠻有馬者︀、己行拘刷、江南者︀未刷。江淮省言、江南和尙ホシヤウ也里可溫エリケウン先生、出皆乘轎、養馬者︀少」とあり。洪鈞曰く「經世大典之斡脫オト、也猶太ユダイ敎。審定字音、當云攸特ユト。首字、今譯爲勝。次字大典譯音爲勝。或稱如德亞ヂユデア、則言其他。如德ヂユデ、亦攸特ユト也」。先生は、錢大昕の考異に「元人稱道士爲先生」と云へり。
又考異に、武宗紀至大二年六月の條に、元典章の一條を引きて、「荅失蠻ダシマン迭里威失デリヰシ戶、若在回回フイフイ寺內住坐、並無事產、合行開除外、據有營連事產戶數、依回回フイフイ戶體例收差」とあり。迭里威失デリヰシは、正しくは迭兒微施デルヰシユにて、珀兒沙ペルシヤ語乞食卽苦行の僧︀なり。故に迭兒微施デルヰシユは、一派の名にあらず、數派の總名にして、その中に喀的兒カヂル派、哩發亦リフアイ派、嚕米ルミ派、沙的里シヤヂリ派、巴荅威バダヰ派、納克施邊篤ナクシユバンド派、撒篤サド派、別克塔施ベクタシユ派、合勒哇惕カルワト派などありき。荅失蠻ダシマン迭里威失デリヰシ戶は、別克塔施ベクタシユ派の迭兒微施デルヰシユの家なり。
又至元辨僞錄に曰く「釋道兩路、各不相妨。今先生言道門最高、秀才人言儒門第一、迭屑テセ人奉彌失訶ミシハ、言得生天、達失蠻タシマン叫空、謝天賜與。細思根本、皆難與佛齊」と云へり。迭屑テセは、長春の西游記にも、辛巳の九月四日、回紇フイフ(委古兒ウイグル)の都︀の西なる輪臺の東に宿れる時「迭屑テセ頭目來迎」とあり卜咧惕施乃迭兒ブレトシユナイデル曰く「帕剌的兀思パラヂウス(「支那の克哩思惕クリスト敎の古き跡形」嚕西亞ルシアの東洋の記錄一二五-一六三)に據れば、迭屑テセは、薩散サツサン朝の時より克哩思惕クリスト敎徒を、時ありては又事火敎徒と馬只マヂとを呼ぶに珀兒沙ペルシヤ人用ひたる帖兒撒なる詞の支那音譯なり。阿兒篾尼亞アルメニアの海︀屯ハイトンは、亞細亞の諸︀國(第十四世紀の初)の談に、塔兒薛タルセの名を約古兒ヨグル(委古兒ウイグル)の國に明かに加へたり。蒙帖科兒微諾モンテコルヸノは、同じ時ごろに北京にて書きたる手紙の中に培兒薛タルセ文字と云へる事あるは、明かに委古兒ウイグル文字を指せり。この詞を委古兒ウイグルに當てたることは、彼等の中に捏思脫兒ネストル派の克哩思惕クリスト敎の廣く流行せることを示すと、裕勒ユール(「喀勢カセイ」二〇五)は考へたり」。彌失訶ミシハは、景敎の碑に彌施訶ミシハと書けり。卽篾昔亞メシアにして、救世主耶蘇エスを云へるなり。また顧炎武の山東考古錄に載せたる元の泰定帝の嶽廟の碑に「和尙ホシヤン也里可溫エリケウン先生達識蠻タシマン每、不拘揀甚麼、差發休當者︀」とあり。佛も耶蘇エスも道士も回回フイフイも、何にても徭役するなと云へるなり。
克哩思惕クリスト敎の支那に入りたるは、唐の世にして、太宗の貞觀九年、捏思脫兒ネストル派の高僧︀阿羅本アラボン、珀兒沙ペルシヤより長安に詣り、太宗の崇敬を得てより、その敎稍行はれき。失哩亞シリアの古記に據れば、捏思惕哩兀思ネストリウスの放逐せられて後、その說は、却て珀兒沙ペルシヤその外東方の諸︀國に廣まり、西紀四百十餘年には赫喇惕ヘラトに、第六世紀の初に