埃及マカリイ全書/第三十七講話

第三十七講話

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<< 楽園らくえんことおよ神的しんてき律法りっぽうこと。 >>

一、 ろくしていへるあり、『ともたるはかみあだたり』と〔イアコフ四の四〕。ゆえに聖書せいしょは『ことごとくのまもりをもてなんぢこころまもるべきこと』〔箴言四の二十三〕をすべてのひとめいずるなり、これひと楽園らくえんごとことばまもりて、恩寵おんちょうたのしみ、ないふくして逸楽いつらくたすけとなるものをすすむるへびにしたがはざらんためなり、けだし兄弟けいていころすのいかりはこれよりしょうずべくして、これをしょうずる霊魂たましひせん、さればしゅところとどめて、しんぼうとをおもんぱかるべし、けだし永生えいせいにみちびくところかみあいひとあいするのあいはこれよりしょうずるなり。ノイ誡命かいめいまもかつおこなひて、この楽園らくえんり、あいためいかりよりすくはれたり。アウラアムはこれをまもりて、かみこえをきけり。モイセイはこれをまもりて、覿面てきめんさかえをうけたり、これとおなじくダワィドもこれをまもりて耕耘こううんせり、ゆえてきたいして主権しゅけんれり、しかれどもサウルこころまもりしあひだしんをなしたれど、おはりいたりて誡命かいめいやぶるや、まったてられたりき。けだしかみことば各人かくじん才能さいのうにしたがひ、それにれいして、ひとかいせしむるものなれば、ひとのこれをりょうするだけはりょうするをべく、まもるだけはまもらるるなり。

二、 ゆえにすべてせいなる言者げんしゃ使徒しと命者めいしゃ全隊ぜんたいそのこころことばまもりて、おもんぱかりゆうせず、ぞくするものをかろんじて、聖神せいしん誡命かいめいこころもっぱらにし、しんよろこばるるものとぜんなるものとをすべてのものよりおもんじて、ただにげん一片いっぺん認識にんしきとをもつてするのみならず、ことばもつてもおこなひもつても、実際じっさいとみへてまづしきをえらび、えいへてじょくをえらび、快楽かいらくにかへてなんをえらび、かつこれによりげきにかへてあいをえらびたりき。けだしうきかんをきらひ、これをうばふものをことあいして、おのれ目的もくてきたすくるものごとくし、もつ善者ぜんしゃ悪者あくしゃとの認識にんしき制限せいげんしたりき。ことごとくのひとみとめて主宰しゅさいせつにつとむる責任せきにんあるきんしゃとなして、ぜんなるものいなまず、あくなるものとがめず、ゆえにことごとくのひとたいしてぜんなる心情しんじょうゆうしたりき。けだし『ひとゆるせ、しからばなんぢゆるされん』〔ルカ六の三十七〕とのことばしゅよりきくや、其時そのときじょくしゃもつ恩恵者おんけいしゃおもひ、じょくをゆるすかいをあたふるものとなせり。また『ひとなんぢおこなはんとほつするところものなんぢかくごとくこれをひとおこなへ』〔マトフェイ七の十二〕とのことばをきくや、其時そのときぜんなるもの良心りょうしんによりてあいしたりき。けだしかれおのれきて、かみをたづねたれば、ぜんにこれにかくるるところあい発見はっけんたるは当然とうぜんなりとす。

三、 しゅあいのことにかんするおほくの誡命かいめいをあたへて、かみたづぬべきをめいぜり、けだしあいははたるをりたればなり。ただ近者きんしゃもつてするのほかすくひるあたはざるべし、これぞゆるせよなんぢゆるされんと誡命かいめいしたる所以ゆえんなる。これすなはち信者しんじゃこころめいせられたる神的しんてき律法りっぽうにして、こは第一だいいち律法りっぽうすなり。けだししゅはいへり、『きたるは律法りっぽうこぼたんがためあらず、すなはちこれをさんためなり』〔マトフェイ五の十七〕。しかれどもいかにして律法りっぽう成就じょうじゅせらるべきか、よろしくくべし。第一だいいち律法りっぽうつみおかしたるものよりもはづかしめをうけたるものおもつみしたるは、充分じゅうぶんゆうによれり、けだしいふあり、『にんするはまさこれもつおのれつみするなり』、しかれどもゆるものゆるされん〔ロマ二の一シラフ二十八の二〕。けだし律法りっぽうことばによるにいふ、裁判さいばんうち裁判さいばんあり、きずうちきずありと〔復傳律令十七の八、四〕。

四、 ゆえつみゆるすは律法りっぽうすなり。されどもわれ第一だいいち律法りっぽうのことをいひしはかみ人々ひとびとふたつ律法りっぽうをあたへたるによるにあらず、これにはんして、律法りっぽういつなり、せい関係かんけいしては律法りっぽう神的しんてきなれども、窘逐きんちく関係かんけいしては各人かくじんとう窘逐きんちくふくせしむるなり、かれゆるすものにゆるせども、窘逐きんちくするものを窘逐きんちくす、けだしいへり、『きよものにはきよきをもつて、よこしまなるものにはそのよこしまもつほどこす』〔聖詠十七の二十七〕。ゆえに律法りっぽう神的しんてきかつこれにじゅんじて恩寵おんちょうにあづかるもの恩恵者おんけいしゃあいするのみならず、謗者ぼうしゃおよ窘逐者きんちくしゃをもあいして、ぜんため報酬ほうしゅうとして神的しんてきあいつなり。しかれどもがこれをぜんづくるはじょくゆるすによるにあらず、じょくしたるもの霊魂たましひ恩恵おんけいほどこすによる、かれ其者そのものためかみとうすること其者そのものによりて幸福こうふくをうけたるごとくせん、いふあり、いはく『ひとためなんぢそしり、窘逐きんちくし、なんぢこといつはりてもろもろしきことばはんときはなんぢさいはひなり』〔マトフェイ五の十一〕。

五、 さりながらかれ神的しんてき律法りっぽうもとにありて、かくのごと深慮しんりょするをまなべり。けだしかれ忍耐にんたいして霊神れいしんじょう温柔おんじゅうまもりしにより、しゅたたかものこころ忍耐にんたいたれざるあいとをて、防禦ぼうぎょかべこぼたまへり、さればかれまったくの怨敵おんてきて、はやりょくもつてせず、かみたすけによりてあいゆうしたりき。つひしゅ自ら舞旋する劍創世記三の二十四おこところねんとどめん、さればかれは『しゅわれためぜんとしてたまひしまくうちに』〔エウレイ六の二十りて、しんもつたのしまん、しかしてこころけんもつらい洞観どうかんしつつ、さつするにかがみもつてせずして、使徒しとおなじくいはん、いはく『かみかれあいせしものためそなへしこといまみみいまかず、ひとこころいまらず』と〔コリンフ前二の九〕。さりながら奇異きいなることにつきてはんとす。

六、 問、 もしひとこころらずんば、いかんしてなんぢこれるか、いはんなんぢわれ同情どうじょうひとなりと、使徒しと行実ぎょうじつ十四の十五〕にみづからみとめたるにおいてをや。

答、 さりながらパウェルのこれにこたふるをくべし。かれはいへり、『ただわれにはかみおのれしんもつこれあらはせり、けだししんさつせざるところなしかみふかきをもさつするなり』〔コリンフ前二の十〕。しかれどもひとたれかいはん、かれ使徒しとたるものにはしんあたへられたれど、われには本性ほんせいおいてこれをるるあたはざるべし、といふものあらん。ゆえにパウェル別所べっしょとうをささげて、つぎごとくいへり、いはく『ねがはくはかれその光栄こうえいとみしたがひ、其神そのしんもつて、なんぢに、うちなるひとおいつよかためられ、しんりてハリストスなんぢこころるをたまはんことを』〔エフェス三の十六、十七〕、またいへり『しゅしんなり、しゅしんのあるところにはゆうあり』〔コリンフ後三の十七〕、またいへり『もしひとハリストスしんたずば、ハリストスぞくせず』〔ロマ八の九〕。

七、 ゆえにわれらもあつしんじ、ふかかんじて、とうせん、われにも聖神せいしんたまはりて、われきたりたるそのところらんためなり、霊魂たましひほろぼへびと、高慢こうまんなる慫慂しょうようしゃと、煩悶はんもんおよ大酒たいしゅしんつひわれよりとほざからんためなり、ゆえにかたしんじて、しゅ誡命かいめいまもり、これによりちょうじて成全せいぜんひととなり、よはひりょうたつせん、しからばこの誘惑ゆうわくはやわれ主宰しゅさいせざるべくして、しんにてしょうせらるるわれかみ恩寵おんちょうゆる罪人ざいにんあはれみをたまふをしんずる信念しんねんをうしなはざらん。けだし恩寵おんちょうによりてたまはるものは、これにさきだつところ劣弱れつじゃくとはかくにもならず、しからずんば恩寵おんちょう恩寵おんちょうにあらざるなり。さりながら全能ぜんのうかみ確信かくしんし、純一じゅんいつにしてこうてきあらざるこころもつて、しんくるをたまものくはしんる、おこなひしんあつるにるにあらざるなり。けだしいふあり、『しんをうけしは律法りっぽうおこなひるにあらずして、きてしんぜしによる』〔ガラティヤ三の二〕。

八、 問、 なんぢふ、すべてのものは霊魂たましひしんかくるるありと、『教会きょうかいうちりてはもつげんはんをほつす』〔コリンフ前十四の十九〕とはなにふか。

答、 教会きょうかいふたつ種類しゅるいかいするをべし、あるひはこれを信者しんじゃ集合しゅうごうとしてかいすべく、あるひこころしきとしてかいすべし。ゆえに教会きょうかい霊神的れいしんてきに、すなはちひと意味いみるときは教会きょうかいひとぜんしきなり、しかれども五言とはおほくの種類しゅるいわかれて全人ぜんじんとくつるいつつおほやけなる徳行とくこうしめす。しゅことものげんもつすべての智慧ちえ包括ほうかつするごとく、しゅしたがものいつつ徳行とくこうもつおほいなる敬虔けいけんてん、なんとなれば徳行とくこういつつなれども、のあらゆるものをみづから包括ほうかつすればなり。第一だいいちとうつぎ節制せっせいつぎ施与せよつぎひんつぎ寛忍かんにんにして、これみな願望がんぼうにんとによりりて、しゅもつかたこころもつ霊中れいちゅうことばなり、けだししゅこうして、しん其時そのとき心中しんちゅうおいふ、しかしてこころ懇願こんがんするにしたがひ顕然けんぜんとしておこなふなり。

九、 しかれどもこれ徳行とくこう衆人しゅうじんのために一般いっぱんのものになるにより、徳行とくこうたいして密着みっちゃく関係かんけいするなり。けだし第一者だいいちしゃらざるとともにすべては消滅しょうめつせん、されどもこれと同様どうようだいしゃともにこれにところのものおよその包括ほうかつせらるるなり。けだししんひとかんぜしめずんば、いかんしてひととうすべきか。聖書せいしょはわがため証者しょうしゃたり、いへらく『聖神せいしんらざれば、一人いちにんイイススしゅとなふることあたはず』〔コリンフ前十二の三〕。しかれどもとうなしに節制せっせいするものは、いかんしてこの幇助ほうじょなしにかたたんや。またすべてに節制せっせいせざるものはいかんしてえたるものまたはづかしめられしものたいして憐憫れんびんなるものとなるべけんや。しかして無慈悲むじひなるものにんまづしくなるを甘心かんしんせざらん。かへつてげきやすきはひとかねたざるにかかはらずこれむさぼるによるこころともるなり。さりながら豪雄ごうゆうなるたましひがかく聖堂せいどう建増たてましするは、これしたるによるにあらずして、のぞみおこしたるによる。けだしひとすくふはひと自己じこおこなひにあらずしてちからたまものおこなひなり。ゆえにもしたれ主宰しゅさいきずをさへ忍受にんじゅするならば、たとへ何事なにごとしたりとも、またただ何事なにごとをかあいしてこうあらかじはじめたりとも、みづからおのれため自負じふするこころゆうせざるべし。ゆえなにとき徳行とくこうおいしゅさきんぜんとおもふなかれ、使徒しとのいふところごとし、いはく『かみそのぜんもつなんぢうちのぞことをもおこなことをもすなり』〔フィリッピ二の十三〕。

十、 問、 聖書せいしょひとなにすをめいずるか。

答、 ひと天性てんせいぜんこうあらかじはじむるこころゆうして、かみがこれをうながたまふことはわれさきすでにいへり。ゆえひとかいし、かいしてあいし、しかしてゆうのぞみによりあらかじはじめんことをめいずるなり。しかれどもおこなひにみちびき、あるひろう忍耐にんたいし、あるひこと成就じょうじゅするは、これすなはちしゅ恩寵おんちょうのぞみおこしたるかつ確信かくしんしたるものにあたふるなり。ゆえにひとゆうのぞみようなる條件じょうけんといふべし。もしゆうのぞみなくんば、かみおのれゆうによりるといへども、みづからなにたまはざるべし。ゆえにしんもつこと成就じょうじゅするは、かかところひとゆうのぞみにあり。またわれおの十分じゅうぶんなるゆうのぞみをあらはすならば、すべてに奇異きいにしてまった思議しぎべからざるかみはすべてのこうわれせん。われ人々ひとびとかみせきぶんあるひ聖書せいしょもとづき、あるひ確言かくげんすれば聖書せいしょにをしへられてかたらんをおもふ。けだしいふあり、『たれしゅ智慧ちえるをん』と〔コリンフ前二の十六〕。しかしてかみもみづからいひたまふ、いはく『幾次いくたびなんぢしょあつめんことをほつしたれどもなんぢほつせざりき』〔ルカ十三の三十四〕。ゆえにかみみづからわれあつめて、われらよりただゆうのぞみうながすをしんずべし。しかしてゆうのぞみあらはれとなるものはぜんてきろうにあらずしてなんぞや。

十一、 てつあるひり、あるひり、あるひたがやし、あるひ植付うえつけするときは、圧搾あっさくせられて、みづからふからん、さりながらひとありてこれをうごかし、これをて、もしるるときは、やきてこれをあらたにせん、かくのごとひとぜんして傷心しょうしんろうしたりといへども、しゅえずして、其人そのひとうちこうし、ろう傷心しょうしんときにはこころなぐさめて、これをあらたにするなり、言者げんしゃもいへり、『おのはこれをもちひてるものにむかつてみづからほこるべけんや、のこぎりはこれをものたいしてみづからたかぶるべけんや』〔イサイヤ十の十五〕。あくおいてもこれとおなじきあり、ひと従順じゅうじゅんにしてたくするときは、サタナかれはげまし、かれするどくすること、ぞくけんするどくするごとくせん。われこころてつしたるはその感覚かんかくそのおほいなる残忍ざんにんとによる。さりながらわれはおのれをとうするところものらざること感覚かんかくなるてつごとくなるべからずかへつてうしおよ驢馬ろばごとく、われはげまし、わがせいによりてわれをみちびくものたれなるをらんことをようするなり。けだしいへり『うしはそのしゅり、驢馬ろばはその主人しゅじんうまやる、されどイズライリらず』〔イサイヤ一の三-五〕。ゆえにとうせん。われらかみるの認識にんしきちち聖神せいしん世々よよ讃栄さんえいし、その聖誡せいかい実行じっこうするがために神的しんてき律法りっぽうをまなばんことを。アミン。