<< 楽園の事、及び神的律法の事。 >>
一、 録していへるあり、『世の友たるは神に仇たり』と〔イアコフ四の四〕。ゆえに聖書は『悉くの守をもて汝の心を守るべきこと』〔箴言四の二十三〕をすべての人に命ずるなり、これ人が楽園の如く言を守りて、恩寵を楽み、内部に匍匐して逸楽の資となるものを勧むる蛇にしたがはざらん為なり、けだし兄弟を殺すの怒はこれより生ずべくして、これを生ずる霊魂は死せん、されば主の言ふ所に意を留めて、信と望とを慮るべし、けだし永生にみちびく所の神を愛し人を愛するの愛はこれより生ずるなり。ノイは誡命を守り且行ひて、此楽園に入り、愛の為に怒より救はれたり。アウラアムはこれを守りて、神の声をきけり。モイセイはこれを守りて、覿面に栄をうけたり、これとおなじくダワィドもこれを守りて耕耘せり、故に敵に対して主権を執れり、然れどもサウルは心を守りし間は善き進歩をなしたれど、終に至りて誡命を破るや、全く棄てられたりき。けだし神の言は各人の才能にしたがひ、それに比例して、人に理会せしむるものなれば、人のこれを領するだけは領するを得べく、守るだけは守らるるなり。
二、 ゆえにすべて聖なる預言者と使徒と致命者の全隊は其心に言を守りて、他の慮を有せず、地に属するものを軽んじて、聖神の誡命に心を専にし、神に悦ばるるものと善なるものとをすべてのものより重んじて、ただに言語と一片の認識とを以てするのみならず、言を以ても行を以ても、実際富に代へて貧しきをえらび、栄誉に代へて汚辱をえらび、快楽にかへて苦難をえらび、且これにより激怒にかへて愛をえらびたりき。けだし浮世の歓喜をきらひ、これをうばふものを殊に愛して、己の目的に助くる者の如くし、以て善者と悪者との認識を制限したりき。悉くの人を認めて主宰の摂理につとむる責任ある勤務者となして、善なる者を否まず、悪なる者を咎めず、ゆえに悉くの人に対して善なる心情を有したりき。けだし『人を恕せ、然らば汝等恕されん』〔ルカ六の三十七〕との言を主よりきくや、其時侮辱者を以て恩恵者と思ひ、侮辱をゆるす機会をあたふる者となせり。また『人の汝等に行はんと欲する所の者は汝等も是の如くこれを人に行へ』〔マトフェイ七の十二〕との言をきくや、其時善なる者を良心によりて愛したりき。けだし彼等は己の義を舍きて、神の義をたづねたれば、自然にこれにかくるる所の愛を発見し得たるは当然なりとす。
三、 主は愛のことに関する多くの誡命をあたへて、神の義を尋ぬべきを命ぜり、けだし義は愛の母たるを知りたればなり。ただ近者を以てするの外に救を得るあたはざるべし、これぞ恕せよ汝等も恕されんと誡命したる所以なる。これ即信者の心に銘せられたる神的律法にして、こは第一の律法を成すなり。けだし主はいへり、『我が来るは律法を毀たんが為に非ず、乃ちこれを成さんためなり』〔マトフェイ五の十七〕。しかれどもいかにして律法は成就せらるべきか、よろしく聴くべし。第一の律法に罪を犯したる者よりも辱をうけたる者を重く罪したるは、充分の理由によれり、けだしいふあり、『他人を議するは適に之を以て己を罪するなり』、しかれども恕す者は恕されん〔ロマ二の一、シラフ二十八の二〕。けだし律法の言によるにいふ、裁判の中に裁判あり、疵の中に疵ありと〔復傳律令十七の八、四〕。
四、 故に罪を恕すは律法を成すなり。されども我等は第一の律法のことをいひしは神が人々に二の律法をあたへたるによるにあらず、これに反して、律法は一なり、性に関係しては律法は神的なれども、窘逐に関係しては各人を至当の窘逐に服せしむるなり、彼は恕すものに恕せども、窘逐するものを窘逐す、けだしいへり、『潔き者には潔きを以て、邪なる者には其邪を以て施す』〔聖詠十七の二十七〕。ゆえに律法を神的に成し且これに準じて恩寵にあづかる者は恩恵者を愛するのみならず、誹謗者及び窘逐者をも愛して、此の善の為の報酬として神的の愛を待つなり。しかれども我がこれを善と名づくるは侮辱を宥すによるにあらず、侮辱したる者の霊魂に恩恵を施すによる、彼等は其者の為に神に祈祷すること其者によりて幸福をうけたる如くせん、いふあり、曰く『人我が為に爾等を詬り、窘逐し、爾等の事を譌りて諸の悪しき言を言はんときは爾等福なり』〔マトフェイ五の十一〕。
五、 さりながら彼等は神的律法の下にありて、かくの如く深慮するをまなべり。けだし彼等は忍耐して霊神上の温柔を守りしにより、主は戦ふ者の心の忍耐と勝たれざる愛とを見て、防禦の壁を毀ち給へり、されば彼等は全くの怨敵を棄て、最早努力を以てせず、神の助によりて愛を有したりき。終に主は自ら舞旋する劍〔創世記三の二十四〕起る所の意念を止めん、されば彼等は『主が我等の為に前駆として入り給ひし幔の内に』〔エウレイ六の二十〕入りて、神の果を以て楽まん、而して心の堅固を以て未来を洞観しつつ、察するに鏡を以てせずして、使徒と同じくいはん、曰く『神が彼を愛せし者の為に備へし事は目未だ見ず耳未だ聞かず、人の心に未だ入らず』と〔コリンフ前二の九〕。さりながら余は此の奇異なる事につきて問はんとす。
六、 問、 もし人の心に入らずんば、いかんして汝等は此を知るか、矧や汝等も我等と同情の人なりと、使徒行実〔十四の十五〕に自から認めたるに於てをや。
答、 さりながらパウェルのこれに答ふるを聴くべし。彼はいへり、『惟我等には神己の神を以て之を顕せり、蓋神は察せざる所なし神の深きをも察するなり』〔コリンフ前二の十〕。然れども人誰かいはん、彼等使徒たる者には神を與へられたれど、我等には本性に於てこれを容るる能はざるべし、といふ者あらん。ゆえにパウェルは別所に祈祷をささげて、次の如くいへり、曰く『願くは彼は其光栄の富に循ひ、其神を以て、爾等に、内なる人に於て強く堅められ、信に由りてハリストスの爾等の心に居るを賜はんことを』〔エフェス三の十六、十七〕、またいへり『主は神なり、主の神のある所には自由あり』〔コリンフ後三の十七〕、またいへり『もし人ハリストスの神を有たずば、ハリストスに属せず』〔ロマ八の九〕。
七、 ゆえにわれらも篤く信じ、深く感じて、祈祷せん、我等にも聖神を賜はりて、我等が出で来りたる其処に入らん為なり、霊魂を亡す蛇と、高慢なる慫慂者と、煩悶及び大酒の神が終に我等より遠ざからんためなり、ゆえに堅く信じて、主の誡命を守り、これにより長じて成全の人となり、齢の量を達せん、然らば此世の誘惑は最早我等を主宰せざるべくして、神にて保証せらるる我等は神の恩寵が悔ゆる罪人に憐みを垂れ給ふを信ずる信念をうしなはざらん。けだし恩寵によりて賜はるものは、これに先だつ所の劣弱とは比較にもならず、然らずんば恩寵は恩寵にあらざるなり。さりながら全能の神を確信し、純一にして好事的に非ざる心を以て、神を受くるを賜ふ者に就くは信に由る、行を信に当るに由るにあらざるなり。けだしいふあり、『神をうけしは律法の行に由るにあらずして、聴きて信ぜしによる』〔ガラティヤ三の二〕。
八、 問、 汝は言ふ、すべてのものは霊魂に神秘に隠るるありと、『教会の中に在りては我が智を以て五言を言はんを欲す』〔コリンフ前十四の十九〕とは何を謂ふか。
答、 教会は二の種類に解するを得べし、或はこれを信者の集合として解すべく、或は心の組織として解すべし。ゆえに教会を霊神的に、即人の意味に取るときは教会は人の全組織なり、然れども五言とは多くの種類に分れて全人の徳を建つる五の公なる徳行を示す。主の事を言ふ者は五言を以て凡ての智慧を包括する如く、主に従ふ者も五の徳行を以て大なる敬虔を建てん、何となれば此の徳行は五なれども、他のあらゆるものを自から包括すればなり。第一は祈祷、次は節制、次は施与、次は貧、次は寛忍にして、此等は皆願望と任意とにより成りて、主を以て語り心を以て聴く霊中の言なり、けだし主は行為して、神は其時心中に於て言ふ、而して心の懇願するにしたがひ顕然として行ふなり。
九、 しかれども此等の徳行は衆人のために一般のものになるにより、他の徳行に対して密着に関係するなり。けだし第一者の在らざると共にすべては消滅せん、されどもこれと同様第二者と共にこれに次ぐ所のもの及び其他も包括せらるるなり。けだし神が人を感ぜしめずんば、いかんして人は祈祷すべきか。聖書はわが為に証者たり、いへらく『聖神に由らざれば、一人もイイススを主と称ふることあたはず』〔コリンフ前十二の三〕。然れども祈祷なしに節制する者は、いかんして此幇助なしに堅く立たんや。またすべてに節制せざる者はいかんして飢えたる者又は辱められし者に対して憐憫なる者となるべけんや。然して無慈悲なる者は任意に貧しくなるを甘心せざらん。かへつて激怒し易きは人の金を有ち有たざるに拘はらず之を貪るによる心と共に在るなり。さりながら豪雄なる霊がかく聖堂に建増するは、これ為したるによるにあらずして、望を起したるによる。けだし人を救ふは人の自己の行にあらずして力を賜ふ者の行なり。ゆえにもし誰か主宰の疵をさへ忍受するならば、たとへ何事を為したりとも、またただ何事をか愛して行為を預め始めたりとも、自から己の為に自負する心を有せざるべし。故に何の時か徳行に於て主に先んぜんと思ふなかれ、使徒のいふ所の如し、曰く『神は其善旨を以て爾等の衷に望む事をも行ふ事をも為すなり』〔フィリッピ二の十三〕。
十、 問、 聖書は人に何を為すを命ずるか。
答、 人が天性自然に行為を預め始むる心を有して、神がこれを促し給ふことは我等先に既にいへり。故に人の先づ理会し、理会して愛し、而して自由の望により預め始めんことを命ずるなり。しかれども意を行にみちびき、或は労を忍耐し、或は事を成就するは、これ即主の恩寵は望を起したる且確信したる者にあたふるなり。ゆえに人の自由の望は至要なる條件といふべし。もし自由の望なくんば、神は己の自由により為し得るといへども、自から何も為し給はざるべし。ゆえに神を以て事を成就するは、繋る所人の自由の望にあり。又我等は己が十分なる自由の望をあらはすならば、すべてに奇異にして全く思議す可らざる神はすべての行為を我等に帰せん。我等人々は神の奇蹟の或る部分を或は聖書に基づき、或は確言すれば聖書にをしへられて語らんを思ふ。けだしいふあり、『誰か主の智慧を知るを得ん』と〔コリンフ前二の十六〕。而して神もみづからいひ給ふ、曰く『幾次か汝の諸子を集めんことを欲したれども汝等は欲せざりき』〔ルカ十三の三十四〕。ゆえに神は自から我等を集めて、われらよりただ自由の望を促すを信ずべし。然して自由の望の顕れとなるものは善意的労苦にあらずして何ぞや。
十一、 鉄は或は切り、或は割り、或は地を耕し、或は植付するときは、圧搾せられて、自から深く入らん、さりながら他に人ありてこれを動かし、これを当て、もし折るるときは、火に焼てこれを新にせん、かくの如く人も善を為して傷心疲労したりといへども、主は見えずして、其人の中に行為し、疲労傷心の時には心を慰めて、これを新にするなり、預言者もいへり、『斧はこれを用ひて伐るものに向つて自から誇るべけんや、鋸はこれを執る者に対して自から高ぶるべけんや』〔イサイヤ十の十五〕。悪に於てもこれと同じきあり、人が従順にして支度するときは、サタナは彼を励まし、彼を鋭くすること、賊の劒を鋭くする如くせん。我等心を鉄に比したるは其無感覚と其大なる残忍とによる。さりながら我等はおのれを統治する所の者を知らざること無感覚なる鉄の如くなるべからず反つて牛及び驢馬の如く、我等を励まし、わが悟性によりて我等をみちびく者の誰なるを知らんことを要するなり。けだしいへり『牛はその主を知り、驢馬はその主人の厩を知る、されどイズライリは識らず』〔イサイヤ一の三-五〕。ゆえに祈祷せん。われら神を識るの認識を得、父と子と聖神を世々に讃栄し、其聖誡を実行するがために神的律法をまなばんことを。アミン。