ガラテヤ人への書 (文語訳)

<文語訳新約聖書

w:舊新約聖書 [文語]』w:日本聖書協会、1950年

w:大正改訳聖書

ガラテヤ人への書

第1章

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人よりに非ず、人に由るにも非ず、イエス・キリスト及び之を死人の中より甦へらせ給ひし父なる神に由りて使徒となれるパウロ、

及び我と偕にある凡ての兄弟、書をガラテヤの諸教會に贈る。

願はくは、我らの父なる神および主イエス・キリストより賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。

主は我らの父なる神の御意に隨ひて、我らを今の惡しき世より救ひ出さんとて、己が身を我らの罪のために與へたまへり。

願はくは榮光、世々限りなく神にあらん事を、アァメン。

我は汝らが斯くも速かにキリストの恩惠をもて召し給ひし者より離れて、異なる福音に移りゆくを怪しむ。

此は福音と言ふべき者にあらず、ただ或人々が汝らを擾してキリストの福音を變へんとするなり。

されど我等にもせよ、天よりの御使にもせよ、我らの曾て宣傳へたる所に背きたる福音を汝らに宣傳ふる者あらば詛はるべし。

われら前に言ひし如く今また言はん、汝らの受けし所に背きたる福音を宣傳ふる者あらば詛はるべし。

我いま人に喜ばれんとするか、或は神に喜ばれんとするか、抑もまた人を喜ばせんことを求むるか。もし我なほ人を喜ばせをらば、キリストの僕にあらじ。

兄弟よ、われ汝らに示す、わが傳へたる福音は、人に由れるものにあらず。

我は人より之を受けず、また教へられず、唯イエス・キリストの默示に由れるなり。

我がユダヤ教に於ける曩の日の擧動は、なんぢら既に聞けり、即ち烈しく神の教會を責め、かつ暴したり。

又わが國人のうち、我と同じ年輩なる多くの者にも勝りてユダヤ教に進み、わが先祖たちの言傳に對して甚だ熱心なりき。

されど母の胎を出でしより我を選び別ち、その恩惠をもて召し給へる者

御子を我が内に顯して其の福音を異邦人に宣傳へしむるを可しとし給へる時、われ直ちに血肉と謀らず、

我より前に使徒となりし人々に逢はんとてエルサレムにも上らず、アラビヤに出で往きて遂にまたダマスコに返れり。

その後三年を歴て、ケパを尋ねんとエルサレムに上り、十五日の間かれと偕に留りしが、

主の兄弟ヤコブのほか孰の使徒にも逢はざりき。

(茲に書きおくる事は、視よ、神の前にて僞らざるなり)

その後シリヤ、キリキヤの地方に往けり。

キリストにあるユダヤの諸教會は我が顏を知らざりしかど、

ただ人々の『われらを前に責めし者、曾て暴したる信仰の道を今は傳ふ』といふを聞き、

わが事によりて神を崇めたり。

第2章

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その後十四年を歴て、バルナバと共にテトスをも連れて、復エルサレムに上れり。

我が上りしは默示に因りてなり。かくて異邦人の中に宣ぶる福音を彼らに告げ、また名ある者どもに私に告げたり、これは我が走ること、又すでに走りしことの空しからざらん爲なり。

而して我と偕なるギリシヤ人テトスすら割禮を強ひられざりき。

これ私に入りたる僞兄弟あるに因りてなり。彼らの忍び入りたるは、我らがキリスト・イエスに在りて有てる自由を窺ひ、且われらを奴隷とせん爲なり。

然れど福音の眞理の汝らの中に留らんために、我ら一時も彼らに讓り從はざりき。

然るに、かの名ある者どもより――彼らは如何なる人なるにもせよ、我には關係なし、神は人の外面を取り給はず――實にかの名ある者どもは我に何をも加へず、

反つてペテロが割禮ある者に對する福音を委ねられたる如く、我が割禮なき者に對する福音を委ねられたるを認め、

(ペテロに能力を與へて割禮ある者の使徒となし給ひし者は、我にも異邦人のために能力を與へ給へり)

また我に賜はりたる恩惠をさとりて、柱と思はるるヤコブ、ケパ、ヨハネは、交誼の印として我とバルナバとに握手せり。これは我らが異邦人にゆき、彼らが割禮ある者に往かん爲なり。

唯その願ふところは我らが貧しき者を顧みんことなり、我も固より此の事を勵みて行へり。

されどケパがアンテオケに來りしとき、責むべき事のありしをもて面前これと諍ひたり。

その故はある人々のヤコブの許より來るまでは、かれ異邦人と共に食しゐたるに、かの人々の來りてよりは、割禮ある者どもを恐れ、退きて異邦人と別れたり。

他のユダヤ人も彼とともに僞行をなし、バルナバまでもその僞行に誘はれゆけり。

されど我かれらが福音の眞理に循ひて正しく歩まざるを見て、會衆の前にてケパに言ふ『なんぢユダヤ人なるにユダヤ人の如くせず、異邦人のごとく生活せば、何ぞ強ひて異邦人をユダヤ人の如くならしめんとするか』

我らは生來のユダヤ人にして、罪人なる異邦人にあらざれども、

人の義とせらるるは律法の行爲に由らず、唯キリスト・イエスを信ずる信仰に由るを知りて、キリスト・イエスを信じたり。これ律法の行爲に由らず、キリストを信ずる信仰によりて義とせられん爲なり。律法の行爲によりては義とせらるる者一人だになし。

若しキリストに在りて義とせららんことを求めて、なほ罪人と認められなば、キリストは罪の役者なるか、決して然らず。

我もし前に毀ちしものを再び建てなば、己みづから犯罪者たるを表す。

我は神に生きんために、律法によりて律法に死にたり。

我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり。

我は神の恩惠を空しくせず、もし義とせらるること律法に由らば、キリストの死に給へるは徒然なり。

第3章

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愚なる哉、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顯されたるに、誰が汝らを誑かししぞ。

我は汝等より唯この事を聞かんと欲す。汝らが御靈を受けしは律法の行爲に由るか、聽きて信じたるに由るか。

汝らは斯くも愚なるか、御靈によりて始りしに、今肉によりて全うせらるるか。

斯程まで多くの苦難を受けしことは徒然なるか、徒然にはあるまじ。

然らば汝らに御靈を賜ひて汝らの中に能力ある業を行ひ給へるは、律法の行爲に由るか、聽きて信ずるに由るか。

録して『アブラハム神を信じ、その信仰を義とせられたり』とあるが如し。

されば知れ、信仰に由る者は是アブラハムの子なるを。

聖書は神が異邦人を信仰に由りて義とし給ふことを知りて、預じめ福音をアブラハムに傳へて言ふ『なんぢに由りてもろもろの國人は祝福せられん』と。

この故に信仰による者は、信仰ありしアブラハムと共に祝福せらる。

されど凡て律法の行爲による者は詛の下にあり。録して『律法の書に記されたる凡ての事を常に行はぬ者はみな詛はるべし』とあればなり。

律法に由りて神の前に義とせらるる事なきは明かなり『義人は信仰によりて生くべし』とあればなり。

律法は信仰に由るにあらず、反つて『律法を行ふ者は之に由りて生くべし』と云へり。

キリストは我等のために詛はるる者となりて、律法の詛より我らを贖ひ出し給へり。録して『木に懸けらるる者は凡て詛はるべし』と云へばなり。

これアブラハムの受けたる祝福の、イエス・キリストによりて異邦人におよび、且われらが信仰に由りて約束の御靈を受けん爲なり。

兄弟よ、われ人の事を藉りて言はん、人の契約すら既に定むれば、之を廢しまた加ふる者なし。

かの約束はアブラハムと其の裔とに與へ給ひし者なり。多くの者を指すごとく『裔々に』とは云はず、一人を指すごとく『なんぢの裔に』と云へり、これ即ちキリストなり。

然れば我いはん、神の預じめ定め給ひし契約は、その後四百三十年を歴て起りし律法に廢せらるることなく、その約束も空しくせらるる事なし。

もし嗣業を受くること律法に由らば、もはや約束には由らず、然るに神は約束に由りて之をアブラハムに賜ひたり。

然れば律法は何のためぞ。これ罪の爲に加へ給ひしものにて、御使たちを經て中保の手によりて立てられ、約束を與へられたる裔の來らん時にまで及ぶなり。

(中保は一方のみの者にあらず、然れど神は唯一に在せり)

さらば律法は神の約束に悖るか、決して然らず。もし人を生かすべき律法を與へられたらんには、實に義とせらるるは律法に由りしならん。

されど聖書は凡ての者を罪の下に閉ぢ籠めたり。これ信ずる者のイエス・キリストに對する信仰に由れる約束を與へられん爲なり。

信仰の出で來らぬ前は、われら律法の下に守られて、後に顯れんとする信仰の時まで閉ぢ籠められたり。

かく信仰によりて我らの義とせられん爲に、律法は我らをキリストに導く守役となれり。

されど信仰の出で來りし後は、我等もはや守役の下に居らず。

汝らは信仰によりキリスト・イエスに在りて、みな神の子たり。

凡そバプテスマに由りてキリストに合ひし汝らは、キリストを衣たるなり。

今はユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自主もなく、男も女もなし、汝らは皆キリスト・イエスに在りて一體なり。

汝等もしキリストのものならば、アブラハムの裔にして約束に循へる世嗣たるなり。

第4章

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われ言ふ、世嗣は全業の主なれども、成人とならぬ間は僕と異なることなく、

父の定めし時の至るまでは後見者と家令との下にあり。

斯くのごとく我らも成人とならぬほどは、世の小學の下にありて僕たりしなり。

されど時滿つるに及びては、神その御子を遣し、これを女より生れしめ、律法の下に生れしめ給へり。

これ律法の下にある者をあがなひ、我等をして子たることを得しめん爲なり。

かく汝ら神の子たる故に、神は御子の御靈を我らの心に遣して『アバ、父』と呼ばしめ給ふ。

されば最早なんぢは僕にあらず、子たるなり、既に子たらば亦神に由りて世嗣たるなり。

されど汝ら神を知らざりし時は、その實神にあらざる神々に事へたり。

今は神を知り、むしろ神に知られたるに、何ぞ復かの弱くして賤しき小學に還りて、再びその僕たらんとするか。

汝らは日と月と季節と年とを守る。

我は汝らの爲に働きし事の或は無益にならんことを恐る。

兄弟よ、我なんぢらに請ふ、われ汝等のごとく成りたれば、汝ら我がごとく成れ。汝ら何事にも我を害ひしことなし。

わが初め汝らに福音を傳へしは、肉體の弱かりし故なるを汝ら知る。

わが肉體に汝らの試錬となる者ありたれど汝ら之を卑しめず、又きらはず、反つて我を神の使の如く、キリスト・イエスの如く迎へたり。

汝らの其の時の幸福はいま何處に在るか。我なんぢらに就きて證す、もし爲し得べくば己が目を抉りて我に與へんとまで思ひしを。

然るに我なんぢらに眞を言ふによりて仇となりたるか。

かの人々の汝らに熱心なるは善き心にあらず、汝らを我らより離して己らに熱心ならしめんとてなり。

善き心より熱心に慕はるるは、啻に我が汝らと偕にをる時のみならず、何時にても宜しき事なり。

わが幼兒よ、汝らの衷にキリストの形成るまでは、我ふたたび産の苦痛をなす。

今なんぢらに到りて我が聲を易へんことを願ふ、汝らに就きて惑へばなり。

律法の下にあらんと願ふ者よ、我にいへ、汝ら律法をきかぬか。

即ちアブラハムに子二人あり、一人は婢女より、一人は自主の女より生れたりと録されたり。

婢女よりの子は肉によりて生れ、自主の女よりの子は約束による。

この中に譬あり、二人の女は二つの契約なり、その一つはシナイ山より出でて、奴隷たる子を生む、これハガルなり。

このハガルはアラビヤに在るシナイ山にして今のエルサレムに當る。エルサレムはその子らとともに奴隷たるなり。

されど上なるエルサレムは、自主にして我らの母なり。

録していふ 『石女にして産まぬものよ、喜べ。:産の苦痛せぬ者よ、聲をあげて呼はれ。:獨住の女の子は多し、夫ある者の子よりも多し』とあり。

兄弟よ、なんぢらはイサクのごとく約束の子なり。

然るに其の時、肉によりて生れし者御靈によりて生れし者を責めしごとく、今なほ然り。

されど聖書は何と云へるか『婢女とその子とを逐ひいだせ、婢女の子は自主の女の子と共に業を嗣ぐべからず』とあり。

されば兄弟よ、われらは婢女の子ならず、自主の女の子なり。

第5章

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キリストは自由を得させん爲に我らを釋き放ちたまへり。されば堅く立ちて再び奴隷の軛に繋がるな。

視よ、我パウロ汝らに言ふ、もし割禮を受けば、キリストは汝らに益なし。

又さらに凡て割禮を受くる人に證す、かれは律法の全體を行ふべき負債あり。

律法に由りて義とせられんと思ふ汝らは、キリストより離れたり、恩惠より墮ちたり。

我らは御靈により、信仰によりて希望をいだき、義とせらるることを待てるなり。

キリスト・イエスに在りては、割禮を受くるも割禮を受けぬも益なく、ただ愛に由りてはたらく信仰のみ益あり。

なんぢら前には善く走りたるに、誰が汝らの眞理に從ふを阻みしか。

かかる勸は汝らを召したまふ者より出づるにあらず。

少しのパン種は粉の團塊をみな膨れしむ。

われ汝らに就きては、その聊かも異念を懷かぬことを主によりて信ず。されど汝らを擾す者は、誰にもあれ審判を受けん。

兄弟よ、我もし今も割禮を宣傳へば、何ぞなほ迫害せられんや。もし然せば十字架の顛躓も止みしならん。

願はくは汝らを亂す者どもの自己を不具にせんことを。

兄弟よ、汝らの召されたるは自由を與へられん爲なり。ただ其の自由を肉に從ふ機會となさず、反つて愛をもて互に事へよ。

それ律法の全體は『おのれの如くなんぢの隣を愛すべし』との一言にて全うせらるるなり。

心せよ、若し互に咬み食はば相共に亡されん。

我いふ、御靈によりて歩め、さらば肉の慾を遂げざるべし。

肉の望むところは御靈にさからひ、御靈の望むところは肉にさからひて互に相戻ればなり。これ汝らの欲する所をなし得ざらしめん爲なり。

汝等もし御靈に導かれなば、律法の下にあらじ。

それ肉の行爲はあらはなり。即ち淫行・汚穢・好色・

偶像崇拜・呪術・怨恨・紛爭・嫉妬・憤恚・徒黨・分離・異端・

猜忌・醉酒・宴樂などの如し。我すでに警めたるごとく、今また警む。斯かることを行ふ者は神の國を嗣ぐことなし。

されど御靈の果は愛・喜悦・平和・寛容・仁慈・善良・忠信・

柔和・節制なり。斯かるものを禁ずる律法はあらず。

キリスト・イエスに屬する者は、肉とともに其の情と慾とを十字架につけたり。

もし我ら御靈に由りて生きなば、御靈に由りて歩むべし。

互に挑み互に妬みて、虚しき譽を求むることを爲な。

第6章

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兄弟よ、もし人の罪を認むることあらば、御靈に感じたる者、柔和なる心をもて之を正すべし、且おのおの自ら省みよ、恐らくは己も誘はるる事あらん。

なんぢら互に重を負へ、而してキリストの律法を全うせよ。

人もし有ること無くして自ら有りとせば、是みづから欺くなり。

各自おのが行爲を驗し見よ、さらば誇るところは他にあらで、ただ己にあらん。

各自おのが荷を負ふべければなり。

御言を教へらるる人は、教ふる人と凡ての善き物を共にせよ。

自ら欺くな、神は侮るべき者にあらず、人の播く所は、その刈る所とならん。

己が肉のために播く者は肉によりて滅亡を刈りとり、御靈のために播く者は御靈によりて永遠の生命を刈りとらん。

われら善をなすに倦まざれ、もし撓まずば、時いたりて刈り取るべし。

この故に機に隨ひて、凡ての人、殊に信仰の家族に善をおこなへ。

視よ、われ手づから如何に大なる文字にて汝らに書き贈るかを。

凡そ肉において美しき外觀をなさんと欲する者は、汝らに割禮を強ふ。これ唯キリストの十字架の故によりて責められざらん爲のみ。

そは割禮をうくる者すら自ら律法を守らず、而も汝らに割禮をうけしめんと欲するは、汝らの肉につきて誇らんが爲なり。

されど我には、我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。之によりて世は我に對して十字架につけられたり、我が世に對するも亦然り。

それ割禮を受くるも受けぬも、共に數ふるに足らず、ただ貴きは新に造らるる事なり。

此の法に循ひて歩む凡ての者の上に、神のイスラエルの上に、平安と憐憫とあれ。

今よりのち誰も我を煩はすな、我はイエスの印を身に佩びたるなり。

兄弟よ、願はくは我らの主イエス・キリストの恩惠、なんぢらの靈とともに在らんことを、アァメン。