ヘブル人への書 (文語訳)

<文語訳新約聖書

w:舊新約聖書 [文語]』w:日本聖書協会、1950年

w:大正改訳聖書

ヘブル人への書

第1章

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神むかしは預言者等により、多くに分ち、多くの方法をもて先祖たちに語り給ひしが、

この末の世には御子によりて、我らに語り給へり。神は曾て御子を立てて萬の物の世嗣となし、また御子によりて諸般の世界を造り給へり。

御子は神の榮光のかがやき、神の本質の像にして、己が權能の言をもて萬の物を保ちたまふ。また罪の潔をなして、高き處にある稜威の右に坐し給へり。

その受け給ひし名の御使の名に勝れるごとく、御使よりは更に勝る者となり給へり。

神は孰の御使に曾て斯くは言ひ給ひしぞ

『なんぢは我が子なり、
われ今日なんぢを生めり』と。また
『われ彼の父となり、
彼わが子とならん』と。

また初子を再び世に入れ給ふとき

『神の凡ての使は之を拜すべし』と言ひ給ふ。

また御使たちに就きては

『神は、その使たちを風となし、
その事ふる者を焔となす』と言ひ給ふ。

されど御子に就きては

『神よ、なんじの御座は世々限りなく、
汝の國の杖は正しき杖なり。

なんぢは義を愛し、不法をにくむ。:この故に神なんぢの神は歡喜の油を、

汝の友に勝りて汝にそそぎ給へり』と。

また

『主よ、なんぢ太初に地の基を置きたまへり、
天も御手の業なり。

これらは滅びん、されど汝は常に存へたまはん。:これらはみな衣のごとく舊びん。

而して汝これらを袍のごとく疊み給はん、

これらは衣のごとく變らん。:されど汝はかはり給ふことなく
汝の齡は終らざるなり』と言ひたまふ。

又いづれの御使に曾て斯くは言ひ給ひしぞ

『われ汝の仇を汝の足臺となすまでは、
我が右に坐せよ』と。

御使はみな事へまつる靈にして、救を嗣がんとする者のために職を執るべく遣されたる者にあらずや。

第2章

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この故に我ら聞きし所をいよいよ篤く愼むべし、恐らくは流れ過ぐる事あらん。

若し御使によりて語り給ひし言すら堅くせられて、咎と不從順とみな正しき報を受けたらんには、

我ら斯くのごとき大なる救を等閑にして爭でか遁るることを得ん。この救は初め主によりて語り給ひしものにして、聞きし者ども之を我らに確うし、

神また徴と不思議とさまざまの能力ある業と、御旨のままに分ち與ふる聖靈とをもて證を加へたまへり。

それ神は我らの語るところの來らんとする世界を、御使たちには服はせ給はざりき。

或篇に人證して言ふ

『人は如何なる者なれば、
之を御心にとめ給ふか。:人の子は如何なる者なれば、
之を顧み給ふか。

汝これを御使よりも少しく卑うし、

光榮と尊貴とを冠らせ、

萬の物をその足の下の服はせ給へり』と。既に萬の物を之に服はせ給ひたれば、服はぬものは一つだに殘さるる事なし。されど今もなほ我らは萬の物の之に服ひたるを見ず。

ただ御使よりも少しく卑くせられしイエスの、死の苦難を受くるによりて榮光と尊貴とを冠らせられ給へるを見る。これ神の恩惠によりて萬民のために死を味ひ給はんとてなり。

それ多くの子を光榮に導くに、その救の君を苦難によりて全うし給ふは、萬の物の歸するところ、萬の物を造りたまふ所の者に相應しき事なり。

潔めたまふ者も、潔めらるる者も、皆ただ一つより出づ。この故に彼らを兄弟と稱ふるを恥とせずして言ひ給ふ、

『われ御名を我が兄弟たちに告げ、
集會の中にて汝を讃め歌はん』

また 『われ彼に依頼まん』又 『視よ、我と神の我に賜ひし子等とは……』と。

子等はともに血肉を具ふれば、主もまた同じく之を具へ給ひしなり。これは死の權力を有つもの、即ち惡魔を死によりて亡し、

かつ死の懼によりて生涯、奴隷となりし者どもを解放ち給はんためなり。

實に主は御使を扶けずしてアブラハムの裔を扶けたまふ。

この故に神の事につきて憐憫ある忠實なる大祭司となりて、民の罪を贖はんために、凡ての事において兄弟の如くなり給ひしは宜なり。

主は自ら試みられて苦しみ給ひたれば、試みられるる者を助け得るなり。

第3章

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されば共に天の召を蒙れる聖なる兄弟よ、我らが言ひあらはす信仰の使徒たり大祭司たるイエスを思ひ見よ。

彼の己を立て給ひし者に忠實なるは、モーセが神の全家に忠實なりしが如し。

家を造る者の家より勝りて尊ばるる如く、彼もモーセに勝りて大なる榮光を受くるに相應しき者とせられ給へり。

家は凡て之を造る者あり、萬の物を造り給ひし者は神なり。

モーセは後に語り傳へられんと爲ることの證をせんために、僕として神の全家に忠實なりしが、

キリストは子として神の家を忠實に掌どり給へり。我等もし確信と希望の誇とを終まで堅く保たば、神の家なり。

この故に聖靈の言ひ給ふごとく 『今日なんぢら神の聲を聞かば、

その怒を惹きし時のごとく、

荒野の嘗試の日のごとく、
こころを頑固にするなかれ。

彼處にて汝らの先祖たちは

我をこころみて驗し、
かつ四十年の間わが業を見たり。

この故に我この代の人を憤ほりて云へり、

「彼らは常に心まよい、
わが途を知らざりき」と。

われ怒をもて「彼らは、

我が休に入るべからず」と誓へり』

兄弟よ、心せよ、恐らくは汝等のうち活ける神を離れんとする不信仰の惡しき心を懷く者あらん。

汝等のうち誰も罪の誘惑によりて頑固にならぬやう、今日と稱ふる間に日々互に相勸めよ。

もし始の確信を終まで堅く保たば、我らはキリストに與る者となるなり。

それ

『今日なんじら神の聲を聞かば、
その怒を惹きし時のごとく、
こころを頑固にするなかれ』と云へ。

然れば聞きてなほ怒を惹きし者は誰なるか、モーセによりてエジプトを出でし凡ての人にあらずや。

また四十年のあひだ、神は誰に對して憤ほり給ひしか、罪を犯してその死屍を荒野に横たへし人々にあらずや。

又かれらは我が安息に入るべからずとは、誰に對して誓ひ給ひしか、不從順なる者にあらずや。

之によりて見れば、彼らの入ること能はざりしは、不信仰によりてなり。

第4章

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然れば我ら懼るべし、その安息に入るべき約束はなほ遺れども、恐らくは汝らの中これに達せざる者あらん。

それは彼らのごとく我らも善き音信を傳へられたり、然れど彼らには聞きし所の言益なかりき。聞くもの之に信仰をまじへざりしに因る。

われら信じたる者は、かの休に入ることを得るなり。『われ怒をもて「彼らは、

わが休に入るべからず」と誓へり』と云ひ給ひしが如し。されど世の創より御業は既に成れるなり。

或篇に七日めに就きて斯く云へり『七日めに神その凡ての業を休みたまへり』と。

また茲に

『かれらは、
我が休に入るべからず』と云へり。

然れば之に入るべき者なほ在り、曩に善き音信を傳へられし者らは、不從順によりて入ることを得ざりしなれば、

久しきを經てのち復、日を定めダビデによりて『今日』と言ひ給ふ。曩に記したるが如し。曰く

『今日なんじら神の聲を聞かば、
こころを頑固にするなかれ』

若しヨシュア既に休を彼らに得しめしならば、神はその後、ほかの日につきて語り給はざりしならん。

然れば神の民の爲になほ安息は遺れり。

既に神の休に入りたる者は、神のその業を休み給ひしごとく、己が業を休めり。

されば我等はこの休に入らんことを務むべし、是かの不從順の例にならひて誰も墮つることなからん爲なり。

神の言は生命あり、能力あり、兩刃の劍よりも利くして、精神と靈魂、關節と骨髓を透して之を割ち、心の念と志望とを驗すなり。

また造られたる物に一つとして神の前に顯れぬはなし、萬の物は我らが係れる神の目のまへに裸にて露るるなり。

我等には、もろもろの天を通り給ひし偉なる大祭司、神の子イエスあり。然れば我らが言ひあらはす信仰を堅く保つべし。

我らの大祭司は我らの弱を思ひ遣ること能はぬ者にあらず、罪を外にして凡ての事、われらと等しく試みられ給へり。

この故に我らは憐憫を受けんが爲、また機に合ふ助となる惠を得んがために、憚らずして惠の御座に來るべし。

第5章

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凡そ大祭司は人の中より選ばれ、罪のために供物と犧牲とを献げんとて、人にかはりて神に事ふることを任ぜらる。

彼は自らも弱に纒はるるが故に、無知なるもの、迷へる者を思ひ遣ることを得るなり。

之によりて民のために爲すごとく、また己のためにも罪に就きて献物をなさざるべからず。

又この貴き位はアロンのごとく神に召さるるにあらずば、誰も自ら之を取る者なし。

斯くの如くキリストも己を崇めて自ら大祭司となり給はず。之に向ひて

『なんじは我が子なり、
われ今日なんじを生めり』と語り給ひし者、これを立てたり。

また他の篇に 『なんじは永遠にメルキゼデクの位に等しき祭司たり』と言ひ給へるが如し。

キリストは肉體にて在ししとき、大なる叫と涙とをもて、己を死より救ひ得る者に祈と願とを献げ、その恭敬によりて聽かれ給へり。

彼は御子なれど、受けし所の苦難によりて從順を學び、

かつ全うせられたれば、凡て己に順ふ者のために永遠の救の原となりて、

神よりメルキゼデクの位に等しき大祭司と稱へられ給へり。

之に就きて我ら多くの言ふべき事あれど、汝ら聞くに鈍くなりたれば釋き難し。

なんじら時を經ること久しければ、教師となるべき者なるに、今また神の言の初歩を人より教へられざるを得ず、汝らは堅き食物ならで乳を要する者となれり。

おほよそ乳を用ふる者は幼兒なれば、未だ義の言に熟せず、

堅き食物は智力を練習して善惡を辨ふる成人の用ふるものなり。

第6章

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この故に我らはキリストの教の初歩に止ることなく、再び死にたる行爲の悔改と神に對する信仰との基、

また各樣のバプテスマと按手と、死人の復活と永遠の審判との教の基を置かずして完全に進むべし。

神もし許し給はば、我ら之をなさん。

一たび照されて天よりの賜物を味ひ、聖靈に與る者となり、

神の善き言と來世の能力とを味ひて後、

墮落する者は更にまた自ら神の子を十字架に釘けて肆し者とする故に、再びこれを悔改に立返らすること能はざるなり。

それ地しばしば其の上に降る雨を吸ひ入れて耕す者の益となるべき作物を生ぜば、神より祝福を受く。

されど茨と薊とを生ぜば、棄てられ、かつ詛に近く、その果ては焚かるるなり。

愛する者よ、われら斯くは語れど、汝らには更に善きこと、即ち救にかかはる事あるを深く信ず。

神は不義に在さねば、汝らの勤勞と、前に聖徒につかへ、今もなほ之に事へて御名のために顯したる愛とを忘れ給ふことなし。

我らは汝等がおのおの終まで前と同じ勵をあらはして全き望を保ち、

怠ることなく、信仰と耐忍とをもて約束を嗣ぐ人々に效はんことを求む。

それ神はアブラハムに約し給ふとき、指して誓ふべき己より大なる者なき故に、己を指して誓ひて言ひ給へり、

『われ必ず、なんぢを惠み惠まん、なんぢを殖し殖さん』と、

斯くの如くアブラハムは耐へ忍びて約束のものを得たり。

おほよそ人は己より大なる者を指して誓ふ、その誓はすべての爭論を罷むる保證たり。

この故に神は約束を嗣ぐ者に御旨の變らぬことを充分に示さんと欲して誓を加へ給へり。

これ神の謊ること能はぬ二つの變らぬものによりて、己の前に置かれたる希望を捉へんとて遁れたる我らに強き奨勵を與へん爲なり。

この希望は我らの靈魂の錨のごとく安全にして動かず、かつ幔の内に入る。

イエス我等のために前驅し、永遠にメルキゼデクの位に等しき大祭司となりて、その處に入り給へり。

第7章

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此のメルキゼデクはサレムの王にて至高き神の祭司たりしが、王たちを破りて還るアブラハムを迎へて祝福せり。

アブラハムは彼に凡ての物の十分の一を分け與へたり。その名を釋けば第一に義の王、次にサレムの王、すなはち平和の王なり。

父なく、母なく、系圖なく、齡の始なく、生命の終なく、神の子の如くにして限りなく祭司たり。

先祖アブラハム分捕物のうち十分の一、最も善き物を之に與へたれば、その人の如何に尊きかを思ふべし。

レビの子等のうち祭司の職を受くる者は、律法によりて、民すなはちアブラハムの腰より出でたる己が兄弟より、十分の一を取ることを命ぜらる。

されど此の血脈にあらぬ彼は、アブラハムより十分の一を取りて約束を受けし者を祝福せり。

それ小なる者の大なる者に祝福せらるるは論なき事なり。

かつ此所にては死ぬべき者十分の一を受くれども、彼處にては『活くるなり』と證せられた者これを受く。

また十分の一を受くるレビすら、アブラハムに由りて十分の一を納めたりと云ふも可なり。

そはメルキゼデクのアブラハムを迎へし時に、レビはなほ父の腰に在りたればなり。

もしレビの系なる祭司によりて全うせらるる事ありしならば(民は之によりて律法を受けたり)何ぞなほ他にアロンの位に等しからぬメルキゼデクの位に等しき祭司の起る必要あらんや。

祭司の易る時には律法も亦必ず易るべきなり。

此等のことは曾て祭壇に事へたることなき他の族に屬する者をさして云へるなり。

それ我らの主のユダより出で給へるは明かにして、此の族につき、モーセは聊かも祭司に係ることを云はざりき。

又メルキゼデクのごとき他の祭司おこり、肉の誡命の法に由らず、朽ちざる生命の能力によりて立てられたれば、我が言ふ所いよいよ明かなり。

そは『なんぢは永遠にメルキゼデクの位に等しき祭司たり』と證せられ給へばなり。

前の誡命は弱く、かつ益なき故に廢せられ、

(律法は何をも全うせざりしなり)更に優れたる希望を置かれたり、この希望によりて我らは神に近づくなり。

かの人々は誓なくして祭司とせられたれども、

彼は誓なくしては爲られず、誓をもて祭司とせられ給へり。即ち彼に就きて

『主ちかひて悔い給はず、
「なんじは永遠に祭司たり」』と言ひ給ひしが如し。

イエスは斯くも優れたる契約の保證となり給へり。

かの人々は死によりて永くその職に留ることを得ざる故に、祭司となりし者の數多かりき。

されど彼は永遠に在せば易ることなき祭司の職を保ちたまふ。

この故に彼は己に頼りて神にきたる者のために執成をなさんとて常に生くれば、之を全く救ふこと得給ふなり。

斯くのごとき大祭司こそ我らに相應しき者なれ、即ち聖にして惡なく、穢なく、罪人より遠ざかり、諸般の天よりも高くせられ給へり。

他の大祭司のごとく先づ己の罪のため、次に民の罪のために日々犧牲を献ぐるを要し給はず、その一たび己を献げて之を成し給ひたればなり。

律法は弱みある人々を立てて大祭司とすれども、律法の後なる誓の御言は、永遠に全うせられ給へる御子を大祭司となせり。

第8章

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今いふ所の要點は斯くのごとき大祭司の我らにある事なり。彼は天にては稜威の御座の右に坐し、

聖所および眞の幕屋に事へたまふ。この幕屋は人の設くるものにあらず、主の設けたまふ所なり。

おおよそ大祭司の立てらるるは供物と犧牲とを献げん爲なり、この故に彼もまた献ぐべき物あるべきなり。

然るに若し地に在さば、既に律法に循ひて供物を献ぐる祭司等あるによりて祭司とはなり給はざるべし。

彼らの事ふるは、天にある物の型と影となり。モーセが幕屋を建てんとする時に『愼め、山にて汝が示されたる式に效ひて凡ての物を造れ』との御告を受けしが如し。

されどキリストは更に勝れる約束に基きて立てられし勝れる契約の中保となりたれば、更に勝る職を受け給へり。

かつ初の契約もし虧くる所なくば、第二の契約を求むる事なかりしならん。

然るに彼らを咎めて言ひ給ふ

『主いひ給ふ「視よ、
我イスラエルの家とユダの家とに、
新しき契約を設くる日來らん。

この契約は我かれらの先祖の手を執りて、

エジプトの地より導き出しし時に
立てし所の如きにあらず、
彼らは我が契約にとどまらず、
我も彼らを顧みざりしなり」と主いひ給ふ。
「されば、かの日の後に我がイスラエルの家と立つる契約は是なり」と主いひ給ふ。
「われ我が律法を彼らの念に置き、
そのこころに之を記さん、
また我かれらの神となり、
彼らは我が民とならん。
彼らはまた各人その國人に、
その兄弟に教へて、
なんじ主を知れと言はざるべし。:そは小より大に至るまで、
皆われを知らん。
我もその不義を憐み、
この後また其の罪を思ひ出でざるべし』と。

既に『新し』と言ひ給へば、初のものを舊しとし給へるなり、舊びて衰ふるものは、消失せんとするなり。

第9章

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初の契約には禮拜の定と世に屬する聖所とありき。

設けられたる幕屋あり、前なるを聖所と稱へ、その中に燈臺と案と供のパンとあり。

また第二の幕の後に至聖所と稱ふる幕屋あり。

その中に金の香壇と金にて徧く覆ひたる契約の櫃とあり、この中にマナを納れたる金の壺と芽したるアロンの杖と契約の石碑とあり、

櫃の上に榮光のケルビムありて贖罪所を覆ふ。これらの物に就きては、今一々言ふこと能はず、

此等のもの斯く備りたれば、祭司たちは常に前なる幕屋に入りて禮拜をおこなふ。

されど奧なる幕屋には、大祭司のみ年に一度おのれと民との過失のために献ぐる血を携へて入るなり。

之によりて聖靈は前なる幕屋のなほ存するあひだ、至聖所に入る道の未だ顯れざるを示し給ふ。

この幕屋はその時のために設けられたる比喩なり、之に循ひて献げたる供物と犧牲とは、禮拜をなす者の良心を全うすること能はざりき。

此等はただ食物・飮物さまざまの濯事などに係り、肉に屬する定にして、改革の時まで負せられたるのみ。

然れどキリストは來らんとする善き事の大祭司として來り、手にて造らぬ此の世に屬せぬ更に大なる全き幕屋を經て、

山羊と犢との血を用ひず、己が血をもて只一たび至聖所に入りて、永遠の贖罪を終へたまへり。

もし山羊および牡牛の血、牝牛の灰などを穢れし者にそそぎて其の肉體を潔むることを得ば、

まして永遠の御靈により瑕なくして己を神に献げ給ひしキリストの血は、我らの良心を死にたる行爲より潔めて活ける神に事へしめざらんや。

この故に彼は新しき契約の中保なり。これ初の契約の下に犯したる咎を贖ふべき死あるによりて、召されたる者に約束の永遠の嗣業を受けさせん爲なり。

それ遺言は必ず遺言者の死を要す。

遺言は遺言者死にてのち始めて效あり、遺言者の生くる間は效なきなり。

この故に初の契約も血なくして立てしにあらず。

モーセ律法に循ひて諸般の誡命をすべての民に告げてのち、犢と山羊との血また水と緋色の毛とヒソプとをとりて、書および凡ての民にそそぎて言ふ、

『これ神の汝らに命じたまふ契約の血なり』と。

また同じく幕屋と祭のすべての器とに血をそそげり。

おほよそ律法によれば、萬のもの血をもて潔めらる。もし血を流すことなくば、赦さるることなし。

この故に天に在るものに象りたる物は此等にて潔められ、天にある物は此等に勝りたる犧牲をもて潔めらるべきなり。

キリストは眞のものに象れる、手にて造りたる聖所に入らず、眞の天に入りて今より我等のために神の前にあらはれ給ふ。

これ大祭司が年ごとに他の物の血をもて聖所に入るごとく、屡次おのれを献ぐる爲にあらず。

もし然らずば世の創より以來しばしば苦難を受け給ふべきなり。然れど今、世の季にいたり己を犧牲となして罪を除かんために一たび現れたまへり。

一たび死ぬることと死にてのち審判を受くることとの人に定りたる如く、

キリストも亦おほくの人の罪を負はんが爲に一たび献げられ、復罪を負ふことなく、己を待望む者に再び現れて救を得させ給ふべし。

第10章

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それ律法は來らんとする善き事の影にして眞の形にあらねば、年毎にたえず献ぐる同じ犧牲にて、神にきたる者を何時までも全うすることを得ざるなり。

もし之を得ば、禮拜をなす者、一たび潔められて復心に罪を憶えねば、献ぐることを止めしならん。

然れど犧牲によりて、年ごとに罪を憶ゆるなり。

これ牡牛と山羊との血は罪を除くこと能はざるに因る。

この故にキリスト世に來るとき言ひ給ふ

『なんぢ犧牲と供物とを欲せず、
唯わが爲に體を備へたまへり。
なんぢ燔祭と罪祭とを悦び給はず、
その時われ言ふ「神よ、我なんぢの
御意を行はんとて來る」
我につきて書の卷に録されたるが如し』と。

先には『汝いけにへと供物と燔祭と罪祭と(即ち律法に循ひて献ぐる物)を欲せず、また悦ばず』と言ひ、

後に『視よ、我なんぢの御意を行はんとて來る』と言ひ給へり。その後なる者を立てん爲に、その先なる者を除き給ふなり。

この御意に適ひてイエス・キリストの體の一たび献げられしに由りて我らは潔められたり。

すべての祭司は日毎に立ちて事へ、いつまでも罪を除くこと能はぬ同じ犧牲をしばしば献ぐ。

然れどキリストは罪のために一つの犧牲を献げて限りなく神の右に坐し、

斯くて己が仇の己が足臺とせられん時を待ちたまふ。

そは潔めらるる者を一つの供物にて限りなく全うし給ふなり。

聖靈も亦われらに之を證して

『「この日の後、われ彼らと立つる契約は是なり」と主いひ給ふ。また 「わが律法をその心に置き、その念に銘さん」』と言ひ給ひて、

『この後また彼らの罪と不法とを思ひ出でざるべし』と言ひたまふ。

かかる赦ある上は、もはや罪のために献物をなす要なし。

然れば兄弟よ、我らイエスの血により、

その肉體たる幔を經て我らに開き給へる新しき活ける路より憚らずして至聖所に入ることを得、

かつ神の家を治むる大なる祭司を得たれば、

心は濯がれて良心の咎をさり、身は清き水にて洗はれ、眞の心と全き信仰とをもて神に近づくべし。

また約束し給ひし者は忠實なれば、我ら言ひあらはす所の望を動かさずして堅く守り、

互に相顧み、愛と善き業とを勵まし、

集會をやむる或人の習慣の如くせず、互に勸め合ひ、かの日のいよいよ近づくを見て、ますます斯くの如くすべし。

我等もし眞理を知る知識をうけたる後、ことさらに罪を犯して止めずば、罪のために犧牲、もはや無し。

ただ畏れつつ審判を待つことと、逆ふ者を焚きつくす烈しき火とのみ遺るなり。

モーセの律法を蔑する者は慈悲を受くることなく、二三人の證人によりて死に至る。

まして神の子を蹈みつけ、己が潔められし契約の血を潔からずとなし、恩惠の御靈を侮る者の受くべき罰の重きこと如何許とおもふか。

『仇を復すは我に在り、われ之を報いん』と言ひ、また『主その民を審かん』と言ひ給ひし者を我らは知るなり。

活ける神の御手に陷るは畏るべきかな。

なんぢら御光を受けしのち苦難の大なる戰鬪に耐へし前の日を思ひ出でよ。

或は誹謗と患難とに遭ひて觀物にせられ、或は斯かることに遭ふ人の友となれり。

また囚人となれる者を思ひやり、永く存する尤も勝れる所有の己にあるを知りて、我が所有を奪はるるをも喜びて忍びたり。

されば大なる報を受くべき汝らの確信を投げすつな。

なんぢら神の御意を行ひて約束のものを受けん爲に必要なるは忍耐なり。

『いま暫くせば、
來るべき者きたらん、
遲からじ。

我に屬ける義人は、信仰によりて活くべし。:もし退かば、わが心これを喜ばじ』

然れど我らは退きて滅亡に至る者にあらず、靈魂を得るに至る信仰を保つ者なり。

第11章

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それ信仰は望むところを確信し、見ぬ物を眞實とするなり。

古への人は之によりて證せられたり。

信仰によりて我等は、もろもろの世界の神の言にて造られ、見ゆる物の顯るる物より成らざるを悟る。

信仰に由りてアベルはカインよりも勝れる犧牲を神に献げ、之によりて正しと證せられたり。神その供物につきて證し給へばなり。彼は死ぬれども、信仰によりて今なほ語る。

信仰に由りてエノクは死を見ぬように移されたり。神これを移し給ひたれば見出されざりき。その移さるる前に神に喜ばるることを證せられたり。

信仰なくしては神に悦ばるること能はず、そは神に來る者は、神の在すことと神の己を求むる者に報い給ふこととを、必ず信ずべければなり。

信仰に由りてノアは、未だ見ざる事につきて御告を蒙り、畏みてその家の者を救はん爲に方舟を造り、かつ之によりて世の罪を定め、また信仰に由る義の世嗣となれり。

信仰に由りてアブラハムは召されしとき嗣業として受くべき地に出で往けとの命に遵ひ、その往く所を知らずして出で往けり。

信仰により異國に在るごとく約束の地に寓り、同じ約束を嗣ぐべきイサクとヤコブと共に幕屋に住めり、

これ神の營み造りたまふ基礎ある都を望めばなり。

信仰に由りてサラも約束したまふ者の忠實なるを思ひし故に、年邁ぎたれど胤をやどす力を受けたり。

この故に死にたる者のごとき一人より天の星のごとく、また海邊の數へがたき砂のごとく夥多しく生れ出でたり。

彼等はみな信仰を懷きて死にたり、未だ約束の物を受けざりしが、遙にこれを見て迎へ、地にては旅人また寓れる者なるを言ひあらはせり。

斯く言ふは、己が故郷を求むることを表すなり。

若しその出でし處を念はば、歸るべき機ありしなるべし。

されど彼らの慕ふ所は天にある更に勝りたる所なり。この故に神は彼らの神と稱へらるるを恥とし給はず、そは彼等のために都を備へ給へばなり。

信仰に由りてアブラハムは試みられし時イサクを献げたり、彼は約束を喜び受けし者なるに、その獨子を献げたり。

彼に對しては『イサクより出づる者なんぢの裔と稱へらるべし』と云ひ給ひしなり。

かれ思へらく、神は死人の中より之を甦へらすることを得給ふと、乃ち死より之を受けしが如くなりき。

信仰に由りてイサクは來らんとする事につきヤコブとエサウとを祝福せり。

信仰に由りてヤコブは死ぬる時ヨセフの子等をおのおの祝福し、その杖の頭によりて禮拜せり。

信仰に由りてヨセフは生命の終らんとする時、イスラエルの子らの出で立つことに就きて語り、又おのが骨のことを命じたり。

信仰に由りて兩親はモーセの生れたる時、その美しき子なるを見て、王の命をも畏れずして三月の間これを匿したり。

信仰に由りてモーセは人と成りしときパロの女の子と稱へらるるを否み、

罪のはかなき歡樂を受けんよりは、寧ろ神の民とともに苦しまんことを善しとし、

キリストに因る謗はエジプトの財寶にまさる大なる富と思へり、これ報を望めばなり。

信仰に由りて彼は王の憤恚を畏れずしてエジプトを去れり。これ見えざる者を見るがごとく耐ふる事をすればなり。

信仰に由りて彼は過越と血を灑ぐこととを行へり、これ初子を滅す者の彼らに觸れざらん爲なり。

信仰に由りてイスラエル人は紅海を乾ける地のごとく渡りしが、エジプト人は然せんと試みて溺れ死にたり。

信仰に由りて七日のあいだ廻りたればエリコの石垣は崩れたり。

信仰に由りて遊女ラハブは平和をもて間者を接けたれば、不從順の者とともに亡びざりき。

この外なにを言ふべきか、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル及び預言者たちに就きて語らば、時足らざるべし。

彼らは信仰によりて國々を服へ、義をおこなひ、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、

火の勢力を消し、劍の刃をのがれ、弱よりして強くせられ、戰爭に勇ましくなり、異國人の軍勢を退かせたり。

女は死にたる者の復活を得、ある人は更に勝りたる復活を得んために、免さるることを願はずして極刑を甘んじたり。

その他の者は嘲笑と鞭と、また縲絏と牢獄との試錬を受け、

或者は石にて撃たれ、試みられ、鐵鋸にて挽かれ、劍にて殺され、羊・山羊の皮を纏ひて經あるき、乏しくなり、惱され、苦しめられ、

(世は彼らを置くに堪へず)荒野と山と洞と地の穴とに徨へり。

彼等はみな信仰に由りて證せられたれども約束のものを得ざりき。

これ神は我らの爲に勝りたるものを備へ給ひし故に、彼らも我らと偕ならざれば、全うせらるる事なきなり。

第12章

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この故に我らは斯く多くの證人に雲のごとく圍まれたれば、凡ての重荷と纏へる罪とを除け、忍耐をもて我らの前に置かれたる馳場をはしり、

信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歡喜のために、恥をも厭はずして十字架をしのび、遂に神の御座の右に坐し給へり。

なんじら倦み疲れて心を喪ふこと莫らんために、罪人らの斯く己に逆ひしことを忍び給へる者をおもへ。

汝らは罪と鬪ひて未だ血を流すまで抵抗しことなし。

また子に告ぐるごとく汝らに告げ給ひし勸言を忘れたり。曰く

『わが子よ、主の懲戒を輕んずるなかれ、
主に戒めらるるとき倦むなかれ。
そは主、その愛する者を懲しめ、
凡てその受け給ふ子を鞭うち給へばなり』と。

汝らの忍ぶは懲戒の爲なり、神は汝らを子のごとく待ひたまふ、誰か父の懲しめぬ子あらんや。

凡ての人の受くる懲戒、もし汝らに無くば、それは私生兒にして眞の子にあらず、

また我らの肉體の父は、我らを懲しめし者なるに尚これを敬へり、況して靈魂の父に服ひて生くることを爲ざらんや。

そは肉體の父は暫くの間その心のままに懲しむることを爲しが、靈魂の父は我らを益するために、その聖潔に與らせんとて懲しめ給へばなり。

凡ての懲戒、今は喜ばしと見えず、反つて悲しと見ゆ、されど後これに由りて練習する者に、義の平安なる果を結ばしむ。

されば衰へたる手、弱りたる膝を強くし、

足蹇へたる者の履み外すことなく、反つて醫されんために汝らの足に直なる途を備へよ。

力めて凡ての人と和ぎ、自ら潔からんことを求めよ。もし潔からずば、主を見ること能はず。

なんじら愼め、恐らくは神の恩惠に至らぬ者あらん。恐らくは苦き根はえいでて汝らを惱し、多くの人これに由りて汚されん。

恐らくは淫行のもの、或は一飯のために長子の特權を賣りしエサウの如き妄なるもの起らん。

汝らの知るごとく、彼はそののち祝福を受けんと欲したれども棄てられ、涙を流して之を求めたれど囘復の機を得ざりき。

汝らの近づきたるは、火の燃ゆる觸り得べき山・黒雲・黒闇・嵐、

ラッパの音、言の聲にあらず、この聲を聞きし者は此の上に言の加へられざらんことを願へり。

これ『獸すら山に觸れなば、石にて撃るべし』と命ぜられしを、彼らは忍ぶこと能はざりし故なり。

その現れしところ極めて怖しかりしかば、モーセは『われ甚く怖れ戰けり』と云へり。

されど汝らの近づきたるはシオンの山、活ける神の都なる天のエルサレム、千萬の御使の集會、

天に録されたる長子どもの教會、萬民の審判主なる神、全うせられたる義人の靈魂、

新約の仲保なるイエス及びアベルの血に勝りて物言ふ灑の血なり、

なんじら心して語りたまふ者を拒むな、もし地にて示し給ひし時これを拒みし者ども遁るる事なかりしならば、況して天より示し給ふとき、我ら之を退けて遁るることを得んや。

その時、その聲、地を震へり、されど今は誓ひて言ひたまふ『我なほ一たび地のみならず、天をも震はん』と。

此の『なほ一度』とは震はれぬ物の存らんために、震はるる物すなはち造られたる物の取り除かるることを表すなり。

この故に我らは震はれぬ國を受けたれば、感謝して恭敬と畏懼とをもて御心にかなふ奉仕を神になすべし。

我らの神は燒き盡す火なればなり。

第13章

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兄弟の愛を常に保つべし。

旅人の接待を忘るな、或人これに由り、知らずして御使を舍したり。

己も共に繋がるるごとく囚人を思へ、また己も肉體に在れば、苦しむ者を思へ。

凡ての人、婚姻のことを貴べ、また寢床を汚すな。神は淫行のもの、姦淫の者を審き給ふべければなり。

金を愛することなく、有てるものを以て足れりとせよ。主みづから『われ更に汝を去らず、汝を捨てじ』と言ひ給ひたればなり。

然れば我ら心を強くして斯く言はん

『主わが助主なり、我おそれじ。
人われに何をなさん』と。

神の言を汝らに語りて汝らを導きし者どもを思へ、その行状の終を見てその信仰に效へ。

イエス・キリストは昨日も今日も永遠までも變り給ふことなし。

各樣の異なる教のために惑さるな。飮食によらず、恩惠によりて心を堅うするは善し、飮食によりて歩みたる者は益を得ざりき。

我らに祭壇あり、幕屋に事ふる者は之より食する權を有たず。

大祭司、罪のために活物の血を携へて至聖所に入り、その活物の體は陣營の外にて燒かるるなり。

この故にイエスも己が血をもて民を潔めんが爲に、門の外にて苦難を受け給へり。

されば我らは彼の恥を負ひ、陣營より出でてその御許に往くべし。

われら此處には永遠の都なくして、ただ來らんとする者を求むればなり。

此の故に我らイエスによりて常に讃美の供物を神に献ぐべし、乃ちその御名を頌むる口唇の果なり。

かつ仁慈と施濟とを忘るな、神は斯くのごとき供物を喜びたまふ。

汝らを導く者に順ひ之に服せよ。彼らは己が事を神に陳ぶべき者なれば、汝らの靈魂のために目を覺しをるなり。彼らを歎かせず、喜びて斯く爲さしめよ、然らずば汝らに益なかるべし。

我らの爲に祈れ、我らは善き良心ありて凡てのこと正しく行はんと欲するを信ずるなり。

われ速かに汝らに歸ることを得んために、汝らの祈らんことを殊に求む。

願はくは永遠の契約の血によりて、羊の大牧者となれる我らの主イエスを、死人の中より引上げ給ひし平和の神、

その悦びたまふ所を、イエス・キリストに由りて我らの衷に行ひ、御意を行はしめん爲に凡ての善き事につきて、汝らを全うし給はんことを。世々限りなく榮光、かれに在れ、アァメン。

兄弟よ、請ふ我が勸の言を容れよ、我なんじらに手短く書き贈りたるなり。

なんじら知れ、我らの兄弟テモテは釋されたり。彼もし速かに來らば、我かれと偕に汝らを見ん。

汝らの凡ての導く者、および凡ての聖徒に安否を問へ。イタリヤの人々、なんぢらに安否を問ふ。

願はくは恩惠なんぢら衆と偕に在らんことを。