ロマ人への書(文語訳)

<文語訳新約聖書

w:舊新約聖書 [文語]』w:日本聖書協会、1950年

w:大正改訳聖書

ロマ人への書

第1章

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キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の福音のために選び別たれたるパウロ――

この福音は神その預言者たちにより、聖書の中に預じめ御子に就きて約し給ひしものなり。

御子は肉によれば、ダビデの裔より生れ、

潔き靈によれば、死人の復活により大能をもて神の子と定められ給へり、即ち我らの主イエス・キリストなり。

我等その御名の爲にもろもろの國人を信仰に從順ならしめんとて、彼より恩惠と使徒の職とを受けたり。

汝等もその中にあり、てイエス・キリストの有とならん爲に召されたるなり。――

われ書をロマに在りて神に愛せられ、召されて聖徒となりたる凡ての者に贈る。願はくは我らの父なる神および主イエス・キリストより賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。

汝らの信仰、全世界に言ひ傳へられたれば、我まづ汝ら一同の爲にイエス・キリストによりて我が神に感謝す。

その御子の福音に於て我が靈をもて事ふる神は、わが絶えず祈のうちに汝らを覺え、

如何にしてか御意に適ひ、いつか汝らに到るべき途を得んと、常に冀がふことを我がために證し給ふなり。

われ汝らを見んことを切に望むは、汝らの堅うせられん爲に靈の賜物を分け與へんとてなり。

即ち我なんぢらの中にありて、互の信仰により相共に慰められん爲なり。

兄弟よ、我ほかの異邦人の中より得しごとく、汝らの中よりも實を得んとて、屡次なんぢらに往かんとしたれど、今に至りてなほ妨げらる、此の事を汝らの知らざるを欲せず。

我はギリシヤ人にも夷人にも、智き者にも愚なる者にも負債あり。

この故に我はロマに在る汝らにも福音を宣傳へんことを頻りに願ふなり。

我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシヤ人にも、凡て信ずる者に救を得さする神の力たればなり。

神の義はその福音のうちに顯れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。録して『義人は信仰によりて生くべし』とある如し。

それ神の怒は、不義をもて眞理を阻む人の、もろもろの不虔と不義とに對ひて天より顯る。

その故は、神につきて知り得べきことは彼らに顯著なればなり、神これを顯し給へり。

それ神の見るべからざる永遠の能力と神性とは、造られたる物により世の創より悟りえて明かに見るべければ、彼ら言ひ遁るる術なし。

神を知りつつも尚これを神として崇めず、感謝せず、その念は虚しく、その愚なる心は暗くなれり。

自ら智しと稱へて愚となり、

朽つることなき神の榮光を易へて、朽つべき人および禽獸・匍ふ物に似たる像となす。

この故に神は彼らを其の心の慾にまかせて、互にその身を辱しむる汚穢に付し給へり。

彼らは神の眞を易へて虚僞となし、造物主を措きて造られたる物を拜し、且これに事ふ、造物主は永遠に讃むべき者なり、アァメン。

之によりて神は彼らを恥づべき慾に付し給へり。即ち女は順性の用を易へて逆性の用となし、

男もまた同じく女の順性の用を棄てて互に情慾を熾し、男と男と恥づることを行ひて、その迷に値すべき報を己が身に受けたり。

また神を心に存むるを善しとせざれば、神もその邪曲なる心の隨に爲まじき事をするに任せ給へり。

即ちもろもろの不義・惡・慳貪・惡意にて滿つる者、また嫉妬・殺意・紛爭・詭計・惡念の溢るる者、

讒言する者・謗る者・神に憎まるる者・侮る者・高ぶる者・誇る者・惡事を企つる者・父母に逆ふ者、

無知・違約・無情・無慈悲なる者にして、

かかる事どもを行ふ者の死罪に當るべき神の定を知りながら、啻に自己これらの事を行ふのみならず、また人の之を行ふを可しとせり。

第2章

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されば凡て人を審く者よ、なんぢ言ひ遁るる術なし、他の人を審くは、正しく己を罪するなり。人をさばく汝もみづから同じ事を行へばなり。

かかる事をおこなふ者を罪する神の審判は眞理に合へりと我らは知る。

かかる事をおこなふ者を審きて自己これを行ふ人よ、なんぢ神の審判を遁れんと思ふか。

神の仁慈なんぢを悔改に導くを知らずして、その仁慈と忍耐と寛容との豐なるを輕んずるか。

なんぢ頑固と悔改めぬ心とにより、己のために神の怒を積みて、その正しき審判の顯るる怒の日に及ぶなり。

神はおのおのの所作に隨ひて報い、

耐へ忍びて善をおこない光榮と尊貴と朽ちざる事とを求むる者には、永遠の生命をもて報い、

徒黨により眞理に從はずして不義にしたがう者には、怒と憤恚とをもて報い給はん。

すべて惡をおこなふ人には、ユダヤ人を始めギリシヤ人にも患難と苦難とあり。

凡て善をおこなふ人には、ユダヤ人を始めギリシヤ人にも光榮と尊貴と平安とあらん。

そは神には偏り視給ふこと無ければなり。

凡そ律法なくして罪を犯したる者は律法なくして滅び、律法ありて罪を犯したる者は律法によりて審かるべし。

律法を聞くもの神の前に義たるにあらず、律法をおこなふ者のみ義とせらるべし。――

律法を有たぬ異邦人、もし本性のまま律法に載せたる所をおこなふ時は、律法を有たずともおのづから己が律法たるなり。

即ち律法の命ずる所のその心に録されたるを顯し、おのが良心もこれを證をなして、その念、たがひに或は訴へ或は辯明す。――

是わが福音に云へる如く、神のキリスト・イエスによりて人々の隱れたる事を審きたまふ日に成るべし。

汝ユダヤ人と稱へられ、律法に安んじ、神を誇り、

その御意を知り、律法に教へられて善惡を辨へ、

また律法のうちに知識と眞理との式を有てりとして、盲人の手引、暗黒にをる者の光明、

愚なる者の守役、幼兒の教師なりと自ら信ずる者よ、

何ゆゑ人に教へて己を教へぬか、竊む勿れと宣べて自ら竊むか、

姦淫する勿れと言ひて姦淫するか、偶像を惡みて宮の物を奪ふか、

律法に誇りて律法を破り神を輕んずるか。

録して『神の名は汝らの故によりて異邦人の中に涜さる』とあるが如し。

なんぢ律法を守らば割禮は益あり、律法を破らば汝の割禮は無割禮となるなり。

割禮なき者も律法の義を守らば、その無割禮は割禮とせらるるにあらずや。

本性のまま割禮なくして律法を全うする者は、儀文と割禮とありてなほ律法をやぶる汝を審かん。

それ表面のユダヤ人はユダヤ人たるにあらず、肉に在る表面の割禮は割禮たるにあらず。

隱なるユダヤ人はユダヤ人なり、儀文によらず、靈による心の割禮は割禮なり、その譽は人よりにあらず、神より來るなり。

第3章

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さらばユダヤ人に何の優るる所ありや、また割禮に何の益ありや。

凡ての事に益おほし、先づ第一に彼らは神の言を委ねられたり。

されど如何ん、ここに信ぜざる者ありとも、その不信は神の眞實を廢つべきか。

決して然らず、人をみな虚僞者とすとも神を誠實とすべし。録して 『なんぢは其の言にて義とせられ、

審かるるとき勝を得給はん爲なり』とあるが如し。

然れど若し我らの不義は神の義を顯すとせば何と言はんか、怒を加へたまふ神は不義なるか(こは人の言ふごとく言ふなり)

決して然らず、若し然あらば神は如何にして世を審き給ふべき。

わが虚僞によりて神の誠實いよいよ顯れ、その榮光とならんには、いかで我なほ罪人として審かるる事あらん。

また『善を來らせん爲に惡をなすは可からずや』(或者われらを譏りて之を我らの言なりといふ)かかる人の罪に定めらるるは正し。

さらば如何ん、我らの勝る所ありや、有ることなし。我ら既にユダヤ人もギリシヤ人もみな罪の下に在りと告げたり。

録して 『義人なし、一人だになし、

聰き者なく、

神を求むる者なし。

みな迷ひて相共に空しくなれり、

善をなす者なし、一人だになし。

彼らの咽は開きたる墓なり、

舌には詭計あり、
口唇のうちには蝮の毒あり、

その口は詛と苦とにて滿つ。

その足は血を流すに速し、

破壞と艱難とその道にあり、

彼らは平和の道を知らず。

その眼前に神をおそるる畏なし』とあるが如し。

それ律法の言ふところは律法の下にある者に語ると我らは知る、これは凡ての口ふさがり、神の審判に全世界の服せん爲なり。

律法の行爲によりては、一人だに神のまへに義とせられず、律法によりて罪は知らるるなり。

然るに今や律法の外に神の義は顯れたり、これ律法と預言者とに由りて證せられ、

イエス・キリストを信ずるに由りて凡て信ずる者に與へたまふ神の義なり。之には何等の差別あるなし。

凡ての人、罪を犯したれば神の榮光を受くるに足らず、

功なくして神の恩惠により、キリスト・イエスにある贖罪によりて義とせらるるなり。

即ち神は忍耐をもて過來しかたの罪を見遁し給ひしが、己の義を顯さんとて、キリストを立て、その血によりて信仰によれる宥の供物となし給へり。

これ今おのれの義を顯して、自ら義たらん爲、またイエスを信ずる者を義とし給はん爲なり。

さらば誇るところ何處にあるか。既に除かれたり、何の律法に由りてか、行爲の律法か、然らず、信仰の律法に由りてなり。

我らは思ふ、人の義とせらるるは、律法の行爲によらず、信仰に由るなり。

神はただユダヤ人のみの神なるか、また異邦人の神ならずや、然り、また異邦人の神なり。

神は唯一にして、割禮ある者を信仰によりて義とし、割禮なき者をも信仰によりて義とし給へばなり。

然らば我ら信仰をもて律法を空しくするか、決して然らず、反つて律法を堅うするなり。

第4章

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さらば我らの先祖アブラハムは肉につきて何を得たりと言はんか。

アブラハム若し行爲によりて義とせられたらんには誇るべき所あり、然れど神の前には有ることなし。

聖書に何と云へるか『アブラハム神を信ず、その信仰を義と認められたり』と。

それ働く者への報酬は恩惠といはず、負債と認めらる。

されど働く事なくとも、敬虔ならぬ者を義としたまふ神を信ずる者は、その信仰を義と認めらるるなり。

ダビデもまた行爲なくして神に義と認めらるる人の幸福につきて斯く云へり。曰く、

『不法を免され、

罪を蔽はれたる者は幸福なるかな、

主が罪を認め給はぬ人は幸福なるかな』

されば此の幸福はただ割禮ある者にのみあるか、また割禮なき者にもあるか、我らは言ふ『アブラハムはその信仰を義と認められたり』と。

如何なるときに義と認められたるか、割禮ののちか、無割禮のときか、割禮の後ならず、無割禮の時なり。

而して無割禮のときの信仰によれる義の印として割禮の徽を受けたり、これ無割禮にして信ずる凡ての者の義と認められん爲に、その父となり、

また割禮のみに由らず、我らの父アブラハムの無割禮のときの信仰の跡をふむ割禮ある者の父とならん爲なり。

アブラハム世界の世嗣たるべしとの約束を、アブラハムとその裔との與へられしは、律法に由らず、信仰の義に由れるなり。

もし律法による者ども世嗣たらば、信仰は空しく約束は廢るなり。

それ律法は怒を招く、律法なき所には罪を犯すこともなし。

この故に世嗣たることの恩惠に干らんために信仰に由るなり、是かの約束のアブラハムの凡ての裔、すなわち律法による裔のみならず、彼の信仰に效ふ裔にも堅うせられん爲なり。

彼はその信じたる所の神、すなはち死人を活し、無きものを有るものの如く呼びたまふ神の前にて、我等すべての者の父たるなり。録して『われ汝を立てて多くの國人の父とせり』とあるが如し。

彼は望むべくもあらぬ時になほ望みて信じたり、是なんぢの裔はかくの如くなるべしと言ひ給ひしに隨ひて、多くの國人の父とならん爲なりき。

かくて凡そ百歳に及びて己が身の死にたるがごとき状なると、サラの胎の死にたるが如きとを認むれども、その信仰よわらず、

不信をもて神の約束を疑はず、信仰により強くなりて神に榮光を歸し、

その約し給へることを、成し得給ふと確信せり。

之に由りて其の信仰を義と認められたり。

斯く『義と認められたり』と録したるは、アブラハムの爲のみならず、また我らの爲なり。

我らの主イエスを死人の中より甦へらせ給ひし者を信ずる我らも、その信仰を義と認められん。

主は我らの罪のために付され、我らの義とせられん爲に甦へらせられ給へるなり。

第5章

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斯く我ら信仰によりて義とせられたれば、我らの主イエス・キリストに頼り、神に對して平和を得たり。

また彼により信仰によりて、今立つところの恩惠に入ることを得、神の榮光を望みて喜ぶなり。

然のみならず患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、

忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。

希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり。

我等のなほ弱かりし時、キリスト定りたる日に及びて、敬虔ならぬ者のために死に給へり。

それ義人のために死ぬるもの殆どなし、仁者のためには死ぬることを厭はぬ者もやあらん。

然れど我等がなほ罪人たりし時、キリスト我等のために死に給ひしに由りて、神は我らに對する愛をあらはし給へり。

斯く今その血に頼りて我ら義とせられたらんには、まして彼によりて怒より救はれざらんや。

我等もし敵たりしとき御子の死に頼りて神と和ぐことを得たらんには、まして和ぎて後その生命によりて救はれざらんや。

然のみならず今われらに和睦を得させ給へる我らの主イエス・キリストに頼りて神を喜ぶなり。

それ一人の人によりて罪は世に入り、また罪によりて死は世に入り、凡ての人罪を犯しし故に、死は凡ての人に及べり。

律法のきたる前にも罪は世にありき、されど律法なくば罪は認めらるること無し。

然るにアダムよりモーセに至るまで、アダムの咎と等しき罪を犯さぬ者の上にも死は王たりき。アダムは來らんとする者の型なり。

されど恩惠の賜物は、かの咎の如きにあらず、一人の咎によりて多くの人の死にたらんには、まして神の恩惠と一人の人イエス・キリストによる恩惠の賜物とは、多くの人に溢れざらんや。

又この賜物は罪を犯しし一人より來れるものの如きにあらず、審判は一人よりして罪を定むるに至りしが、恩惠の賜物は多くの咎よりして義とするに至るなり。

もし一人の咎のために一人によりて死は王となりたらんには、まして恩惠と義の賜物とを豐に受くる者は、一人のイエス・キリストにより生命に在りて王たらざらんや。

されば一つの咎によりて罪を定むることの凡ての人に及びしごとく、一つの正しき行爲によりて義とせられ生命を得るに至ることも、凡ての人に及べり。

それは一人の不從順によりて多くの人の罪人とせられし如く、一人の從順によりて多くの人、義人とせらるるなり。

律法の來りしは咎の増さんためなり。されど罪の増すところには恩惠も彌増せり。

これ罪の死によりて王たりし如く、恩惠も義によりて王となり、我らの主イエス・キリストに由りて永遠の生命に至らん爲なり。

第6章

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されば何をか言はん、恩惠の増さんために罪のうちに止るべきか、

決して然らず、罪に就きて死にたる我らは爭で尚その中に生きんや。

なんじら知らぬか、凡そキリスト・イエスに合ふバプテスマを受けたる我らは、その死に合ふバプテスマを受けしを。

我らはバプテスマによりて彼とともに葬られ、その死に合せられたり。これキリスト父の榮光によりて死人の中より甦へらせられ給ひしごとく、我らも新しき生命に歩まんためなり。

我らキリストに接がれて、その死の状にひとしくば、その復活にも等しかるべし。

我らは知る、われらの舊き人、キリストと共に十字架につけられたるは、罪の體ほろびて、此ののち罪に事へざらん爲なるを。

そは死にし者は罪より脱るるなり。

我等もしキリストと共に死にしならば、また彼とともに活きんことを信ず。

キリスト死人の中より甦へりて復死に給はず、死もまた彼に主とならぬを我ら知ればなり。

その死に給へるは罪につきて一たび死に給へるにて、その活き給へるは神につきて活き給へるなり。

斯くのごとく汝らも己を罪につきては死にたるもの、神につきては、キリスト・イエスに在りて活きたる者と思ふべし。

されば罪を汝らの死ぬべき體に王たらしめて其の慾に從ふことなく、


汝らの肢體を罪に献げて不義の器となさず、反つて死人の中より活き返りたる者のごとく己を神にささげ、その肢體を義の器として神に献げよ。

汝らは律法の下にあらずして恩惠の下にあれば、罪は汝らに主となる事なきなり。

然らば如何に、我らは律法の下にあらず、恩惠の下にあるが故に、罪を犯すべきか、決して然らず。

なんぢら知らぬか、己を献げ僕となりて、誰に從ふとも其の僕たることを。或は罪の僕となりて死に至り、或は從順の僕となりて義に至る。

然れど神に感謝す、汝等はもと罪の僕なりしが、傳へられし教の範に心より從ひ、

罪より解放されて義の僕となりたり。

斯く人の事をかりて言ふは、汝らの肉よわき故なり。なんぢら舊その肢體をささげ、穢と不法との僕となりて不法に到りしごとく、今その肢體をささげ、義の僕となりて潔に到れ。

なんぢら罪の僕たりしときは義に對して自由なりき。

その時に今は恥とする所の事によりて何の實を得しか、これらの事の極は死なり。

然れど今は罪より解放されて神の僕となりたれば、潔にいたる實を得たり、その極は永遠の生命なり。

それ罪の拂ふ價は死なり、然れど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠の生命なり。

第7章

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兄弟よ、なんぢら知らぬか、(われ律法を知る者に語る)律法は人の生ける間のみ之に主たるなり。

夫ある婦は律法によりて夫の生ける中は之に縛らる。然れど夫死なば夫の律法より解かるるなり。

されば夫の生ける中に他の人に適かば淫婦と稱へらるれど、夫死なばその律法より解放さるる故に、他の人に適くとも淫婦とはならぬなり。

わが兄弟よ、斯くのごとく汝等もキリストの體により律法に就きて死にたり。これ他の者、すなはち死人の中より甦へらせられ給ひし者に適き、神のために實を結ばん爲なり。

われら肉に在りしとき、律法に由れる罪の情は我らの肢體のうちに働きて、死のために實を結ばせたり。

されど縛られたる所に就きて我等いま死にて律法より解かれたれば、儀文の舊きによらず、靈の新しきに從ひて事ふることを得るなり。

さらば何をか言はん、律法は罪なるか、決して然らず、律法に由らでは、われ罪を知らず、律法に『貪る勿れ』と言はずば、慳貪を知らざりき。

されど罪は機に乘じ誡命によりて各樣の慳貪を我がうちに起せり、律法なくば罪は死にたるものなり。

われ曾て律法なくして生きたれど、誡命きたりし時に罪は生き、我は死にたり。

而して我は生命にいたるべき誡命の反つて死に到らしむるを見出せり。

これ罪は機に乘じ誡命によりて我を欺き、かつ之によりて我を殺せり。

それ律法は聖なり、誡命もまた聖にして正しく、かつ善なり。

されば善なるもの我に死となりたるか。決して然らず、罪は罪たることの現れんために、善なる者によりて我が内に死を來らせたるなり。これ誡命によりて罪の甚だしき惡とならん爲なり。

われら律法は靈なるものと知る、されど我は肉なる者にて罪の下に賣られたり。

わが行ふことは我しらず、我が欲する所は之をなさず、反つて我が憎むところは之を爲すなり。

わが欲せぬ所を爲すときは律法の善なるを認む。

然れば之を行ふは我にあらず、我が中に宿る罪なり。

我はわが中、すなわち我が肉のうちに善の宿らぬを知る、善を欲すること我にあれど、之を行ふ事なければなり。

わが欲する所の善は之をなさず、反つて欲せぬ所の惡は之をなすなり。

我もし欲せぬ所の事をなさば、之を行ふは我にあらず、我が中に宿る罪なり。

然れば善をなさんと欲する我に惡ありとの法を、われ見出せり。

われ中なる人にては神の律法を悦べど、

わが肢體のうちに他の法ありて、我が心の法と戰ひ、我を肢體の中にある罪の法の下に虜とするを見る。

噫われ惱める人なるかな、此の死の體より我を救はん者は誰ぞ。

我らの主イエス・キリストに頼りて神に感謝す、然れば我みづから心にては神の律法につかへ、内にては罪の法に事ふるなり。

第8章

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この故に今やキリスト・イエスに在る者は罪の定めらるることなし。

キリスト・イエスに在る生命の御靈の法は、なんじを罪と死との法より解放したればなり。

肉によりて弱くなれる律法の成し能はぬ所を神は爲し給へり、即ち己の子を罪ある肉の形にて罪のために遣し、肉に於て罪を定めたまへり。

これ肉に從はず靈に從ひて歩む我らの中に、律法の義の完うせられん爲なり。

肉にしたがふ者は肉の事をおもひ、靈にしたがふ者は靈の事をおもふ。

肉の念は死なり、靈の念は生命なり、平安なり。

肉の念は神に逆ふ、それは神の律法に服はず、否したがふこと能はず、

また肉に居る者は神を悦ばすこと能はざるなり。

然れど神の御靈なんぢらの中に宿り給はば、汝らは肉に居らで靈に居らん、キリストの御靈なき者はキリストに屬する者にあらず。

若しキリスト汝らに在さば、體は罪によりて死にたる者なれど、靈は義によりて生命に在らん。

若しイエスを死人の中より甦へらせ給ひし者の御靈なんぢらの中に宿り給はば、キリスト・イエスを死人の中より甦へらせ給ひし者は、汝らの中に宿りたまふ御靈によりて、汝らの死ぬべき體をも活し給はん。

されば兄弟よ、われらは負債あれど、肉に負ふ者ならねば、肉に從ひて活くべきにあらず。

汝等もし肉に從ひて活きなば、死なん。もし靈によりて體の行爲を殺さば活くべし。

すべて神の御靈に導かるる者は、これ神の子なり。

汝らは再び懼を懷くために僕たる靈を受けしにあらず、子とせられたる者の靈を受けたり、之によりて我らはアバ父と呼ぶなり。

御靈みづから我らの靈とともに我らが神の子たることを證す。

もし子たらば世嗣たらん、神の嗣子にしてキリストと共に世嗣たるなり。これはキリストとともに榮光を受けん爲に、その苦難をも共に受くるに因る。

われ思うに、今の時の苦難は、われらの上に顯れんとする榮光にくらぶるに足らず。

それ造られたる者は、切に慕ひて神の子たちの現れんことを待つ。

造られたるものの虚無に服せしは、己が願によるにあらず、服せしめ給ひし者によるなり。

然れどなほ造られたる者にも滅亡の僕たる状より解かれて、神の子たちの光榮の自由に入る望は存れり。

我らは知る、すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、ともに苦しむことを。

然のみならず、御靈の初の實をもつ我らも自ら心のうちに嘆きて、子とせられんこと、即ちおのが軆の贖はれんことを待つなり。

我らは望によりて救はれたり、眼に見ゆる望は望にあらず、人その見るところを爭でなほ望まんや。

我等もし其の見ぬところを望まば、忍耐をもて之を待たん。

斯くのごとく御靈も我らの弱を助けたまふ。我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御靈みづから言ひ難き歎をもて執成し給ふ。

また人の心を極めたまふ者は御靈の念をも知りたまふ。御靈は神の御意に適ひて聖徒のために執成し給へばなり。

神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。

神は預じめ知りたまふ者を御子の像に象らせんと預じめ定め給へり。これ多くの兄弟のうちに、御子を嫡子たらせんが爲なり。

又その預じめ定めたる者を召し、召したる者を義とし、義としたる者には光榮を得させ給ふ。

然れば此等の事につきて何をか言はん、神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。

己の御子を惜まずして我ら衆のために付し給ひし者は、などか之にそへて萬物を我らに賜はざらんや。

誰か神の選び給へる者を訴へん、神は之を義とし給ふ。

誰か之を罪に定めん、死にて甦へり給ひしキリスト・イエスは神の右に在して、我らの爲に執成し給ふなり。

我等をキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ、患難か、苦難か、迫害か、飢か、裸か、危險か、劍か。

録して 『汝のために我らは、終日ころされて

屠らるべき羊の如きものとせられたり』とあるが如し。

されど凡てこれらの事の中にありても、我らを愛したまふ者に頼り、勝ち得て餘あり。

われ確く信ず、死も生命も、御使も、權威ある者も、今ある者も後あらん者も、力ある者も、

高きも深きも、此の他の造られたるものも、我らの主キリスト・イエスにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざることを。

第9章

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我キリストに在りて眞をいひ虚僞を言はず、

我に大なる憂あることと心に絶えざる痛あることとを、我が良心も聖靈によりて證す。

もし我が兄弟わが骨肉の爲にならんには、我みづから詛はれてキリストに棄てらるるも亦ねがふ所なり。

彼等はイスラエル人にして、彼らには神の子とせられたることと、榮光と、もろもろの契約と、授けられたる律法と、禮拜と、もろもろの約束とあり。

先祖たちも彼等のものなり、肉によれば、キリストも彼等より出で給ひたり。キリストは萬物の上にあり、永遠に讃むべき神なり、アァメン。

それ神の言は廢りたるに非ず。イスラエルより出づる者みなイスラエルなるに非ず。

また彼等はアブラハムの裔なればとて皆その子たるに非ず『イサクより出づる者は、なんぢの裔と稱へらるべし』とあり。

即ち肉の子らは神の子らにあらず、ただ約束の子等のみ其の裔と認めらるるなり。

約束の御言は是なり、曰く『時ふたたび巡り來らば、我きたりてサラに男子あらん』と。

然のみならず、レベカも我らの先祖イサク一人によりて孕りたる時、

その子いまだ生れず、善も惡もなさぬ間に、神の選の御旨は動かず、

行爲によらで召す者によらん爲に『兄は次弟に事ふべし』とレベカに宣へり。

『われヤコブを愛しエザウを憎めり』と録されたる如し。

さらば何をか言はん、神には不義あるか。決して然らず。

モーセに言ひ給ふ『われ憐まんとする者をあはれみ、慈悲を施さんとする者に慈悲を施すべし』と。

されば欲する者にも由らず、走る者にも由らず、ただ憐みたまふ神に由るなり。

パロにつきて聖書に言ひ給ふ『わが汝を起したるは此の爲なり、即ち我が能力を汝によりて顯し、且わが名の全世界に傳へられん爲なり』と。

されば神はその憐まんと欲する者を憐み、その頑固にせんと欲する者を頑固にし給ふなり。

さらば汝あるいは我に言はん『神なんぞなほ人を咎め給ふか、誰かその御定に悖る者あらん』

ああ人よ、なんぢ誰なれば神に言ひ逆ふか、造られしもの造りたる者に對ひて『なんぢ何ぞ我を斯く造りし』と言ふべきか。

陶工は同じ土塊をもて、此を貴きに用ふる器とし、彼を賤しきに用ふる器とするの權なからんや。

もし神、怒をあらはし權力を示さんと思しつつも、なほ大なる寛容をもて、滅亡に備れる怒の器を忍び、

また光榮のために預じめ備へ給ひし憐憫の器に對ひて、その榮光の富を示さんとし給ひしならば如何に。

この憐憫の器は我等にして、ユダヤ人の中よりのみならず、異邦人の中よりも召し給ひしものなり。

ホゼヤの書に 『我わが民たらざる者を我が民と呼び、

愛せられざる者を愛せらるる者と呼ばん、

「なんぢら我が民にあらず」と言ひし處にて、

彼らは活ける神の子と呼ばるべし』と宣へる如し。

イザヤもイスラエルに就きて叫べり『イスラエルの子孫の數は海の砂のごとくなりとも、救はるるはただ殘の者のみならん。

主、地の上に御言をなし了へ、これを遂げ、これを速かにし給はん』

また

『萬軍の主われらに裔を遺し給はずば、
我等ソドムの如くになり、ゴモラと等しかりしならん』とイザヤの預言せしが如し。

然らば何をか言はん、義を追ひ求めざりし異邦人は義を得たり、即ち信仰による義なり。

イスラエルは義の律法を追ひ求めたれど、その律法に到らざりき。

何の故か、かれらは信仰によらず、行爲によりて追ひ求めたる故なり。彼らは躓く石に躓きたり。

録して

『視よ、我つまづく石さまたぐる岩をシオンに置く、
之に依頼む者は辱しめられじ』とあるが如し。

第10章

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兄弟よ、わが心のねがひ、神に對する祈は、彼らの救はれんことなり。

われ彼らが神のために熱心なることを證す、されど其の熱心は知識によらざるなり。

それは神の義を知らず、己の義を立てんとして、神の義に服はざればなり。

キリストは凡て信ずる者の義とせられん爲に律法の終となり給へり。

モーセは、律法による義をおこなふ人は之によりて生くべしと録したり。

されど信仰による義は斯くいふ『なんぢ心に「誰か天に昇らん」と言ふなかれ』と。

これキリストを引下さんとするなり『また「たれか底なき所に下らん」と言ふなかれ』と。是キリストを死人の中より引上げんとするなり。

さらば何と言ふか『御言はなんぢに近し、なんぢの口にあり、汝の心にあり』と。これ我らが宣ぶる信仰の言なり。

即ち、なんぢ口にてイエスを主と言ひあらはし、心にて神の之を死人の中より甦へらせ給ひしことを信ぜば、救はるべし。

それ人は心に信じて義とせられ、口に言ひあらはして救はるるなり。

聖書にいふ『すべて彼を信ずる者は辱しめられじ』と。

ユダヤ人とギリシヤ人との區別なし、同一の主は萬民の主にましまして、凡て呼び求むる者に對して豐なり。

『すべて主の御名を呼び求むる者は救はるべし』とあればなり。

然れど未だ信ぜぬ者を爭で呼び求むることをせん、未だ聽かぬ者を爭で信ずることをせん、宣傳ふる者なくば爭で聽くことをせん。

遣されずば爭で宣傳ふることをせん『ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ』と録されたる如し。

されど、みな福音に從ひしにはあらず、イザヤいふ『主よ、われらに聞きたる言を誰か信ぜし』

斯く信仰は聞くにより、聞くはキリストの言による。

されど我いふ、彼ら聞えざりしか、然らず

『その聲は全地にゆきわたり、
其の言は世界の極にまで及べり』

我また言ふ、イスラエルは知らざりしか、先づモーセ言ふ『われ民ならぬ者をもて汝らに嫉を起させ、愚なる民をもて汝らを怒らせん』

またイザヤ憚らずして言ふ

『我を求めざる者に、われ見出され、
我を尋ねざる者に我あらはれたり』

更にイスラエルに就きては『われ服はずして言ひさからふ民に、終日手を伸べたり』と云へり。

第11章

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されば我いふ、神はその民を棄て給ひしか。決して然らず。我もイスラエル人にしてアブラハムの裔ベニヤミンの族の者なり。

神はその預じめ知り給ひし民を棄て給ひしにあらず。汝らエリヤに就きて聖書に云へることを知らぬか、彼イスラエルを神に訴へて言ふ、

『主よ、彼らは汝の預言者たちを殺し、なんぢの祭壇を毀ち、我ひとり遺りたるに、亦わが生命をも求めんとするなり』と。

然るに御答は何と云へるか『われバアルに膝を屈めぬ者、七千人を我がために遺し置けり』と。

斯くのごとく今もなほ恩惠の選によりて遺れる者あり。

もし恩惠によるとせば、もはや行爲によるにあらず。然らずば恩惠はもはや恩惠たらざるべし。

さらば如何に、イスラエルはその求むる所を得ず、選ばれたる者は之を得たり、その他の者は鈍くせられたり。

『神は今日に至るまで、彼らに眠れる心、見えぬ目、聞えぬ耳を與へ給へり』と録されたるが如し。

ダビデも亦いふ

『かれらの食卓は羂となれ、網となれ、
つまづきとなれ、報となれ、
その眼は眩みて見えずなれ、
常にその背を屈めしめ給へ』

されば我いふ、彼らの躓きしは倒れんが爲なりや。決して然らず、反つて其の落度によりて救は異邦人に及べり、これイスラエルを勵まさん爲なり。

もし彼らの落度、世の富となり、その衰微、異邦人の富となりたらんには、まして彼らの數滿つるに於てをや。

われ異邦人なる汝等にいふ、我は異邦人の使徒たるによりて己が職を重んず。

これ或は我が骨肉の者を勵まし、その中の幾許かを救はん爲なり。

もし彼らの棄てらるること世の平和となりたらんには、其の受け納れらるるは、死人の中より活くると等しからずや。

もし初穗の粉潔くば、パンの團塊も潔く、樹の根潔くば、其の枝も潔からん。

若しオリブの幾許の枝きり落されて野のオリブなる汝、その中に接がれ、共にその樹の液汁ある根に與らば、

かの枝に對ひて誇るな、たとひ誇るとも汝は根を支へず、根は反つて汝を支ふるなり。

なんぢ或は言はん『枝の折られしは我が接がれん爲なり』と。

實に然り、彼らは不信によりて折られ、汝は信仰によりて立てるなり、高ぶりたる思をもたず、反つて懼れよ。

もし神、原樹の枝を惜み給はざりしならば、汝をも惜み給はじ。

神の仁慈と、その嚴肅とを見よ。嚴肅は倒れし者にあり、仁慈はその仁慈に止る汝にあり、若しその仁慈に止らずば、汝も切り取らるべし。

彼らも若し不信に止らずば、接がるることあらん、神は再び彼らを接ぎ得給ふなり。

なんぢ生來の野のオリブより切り取られ、その生來に悖りて善きオリブに接がれたらんには、まして原樹のままなる枝は己がオリブに接がれざらんや。

兄弟よ、われ汝らが自己を聰しとする事なからん爲に、この奧義を知らざるを欲せず、即ち幾許のイスラエルの鈍くなれるは、異邦人の入り來りて數滿つるに及ぶ時までなり。

かくしてイスラエルは悉とく救はれん。録して

『救ふ者シオンより出で來りて、
ヤコブより不虔を取り除かん、

われその罪を除くときに

彼らに立つる我が契約は是なり』とあるが如し。

福音につきて云へば、汝等のために彼らは敵とせられ、選につきて云へば、先祖たちの爲に彼らは愛せらるるなり。

それ神の賜物と召とは變ることなし。

汝ら前には神に從はざりしが、今は彼らの不順によりて憐まれたる如く、

彼らも汝らの受くる憐憫によりて憐まれん爲に、今は從はざるなり。

神は凡ての人を憐まんために、凡ての人を不順の中に取籠め給ひたり。

ああ神の智慧と知識との富は深いかな、その審判は測り難く、その途は尋ね難し。

『たれか主の心を知りし、誰かその議士となりし。

たれか先づ主に與へて其の報を受けんや』

これ凡ての物は神より出で、神によりて成り、神に歸すればなり、榮光とこしへに神にあれ。アァメン。

第12章

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されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勸む、己が身を神の悦びたまふ潔き活ける供物として献げよ、これ靈の祭なり。

又この世に效ふな、神の御意の善にして悦ぶべく、かつ全きことを辨へ知らんために、心を更へて新にせよ。

われ與へられし恩惠によりて汝等おのおのに告ぐ、思ふべき所を超えて自己を高しとすな。神のおのおのに分ち給ひし信仰の量にしたがひ愼みて思ふべし。

人は一つ體におほくの肢あれども、凡ての肢その運用を同じうせぬ如く、

我らも多くあれど、キリストに在りて一つ體にして、各人たがひに肢たるなり。

われらが有てる賜物はおのおの與へられし恩惠によりて異なる故に、或は預言あらば信仰の量にしたがひて預言をなし、

或は務あらば務をなし、或は教をなす者は教をなし、

或は勸をなす者は勸をなし、施す者はをしみなく施し、治むる者は心を盡して治め、憐憫をなす者は喜びて憐憫をなすべし。

愛には虚僞あらざれ、惡はにくみ、善はしたしみ、

兄弟の愛をもて互に愛しみ、禮儀をもて相讓り、

勤めて怠らず、心を熱くし、主につかへ、

望みて喜び、患難にたへ、祈を恆にし、

聖徒の缺乏を賑し、旅人を懇ろに待せ、

汝らを責むる者を祝し、これを祝して詛ふな。

喜ぶ者と共によろこび、泣く者と共になけ。

相互に心を同じうし、高ぶりたる思をなさず、反つて卑きに附け。なんぢら己を聰しとすな。

惡をもて惡に報いず、凡ての人のまへに善からんことを圖り、

汝らの爲し得るかぎり力めて凡ての人と相和げ。

愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。

『もし汝の仇飢ゑなば之に食はせ、渇かば之に飮ませよ、なんぢ斯するは熱き火を彼の頭に積むなり』

惡に勝たるることなく、善をもて惡に勝て。

第13章

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凡ての人、上にある權威に服ふべし。そは神によらぬ權威なく、あらゆる權威は神によりて立てらる。

この故に權威にさからふ者は神の定に悖るなり、悖る者は自らその審判を招かん。

長たる者は善き業の懼にあらず、惡しき業の懼なり、なんぢ權威を懼れざらんとするか、善をなせ、然らば彼より譽を得ん。

かれは汝を益せんための神の役者なり。然れど惡をなさば懼れよ、彼は徒らに劍をおびず、神の役者にして、惡をなす者に怒をもて報ゆるなり。

然れば服はざるべからず、啻に怒の爲のみならず、良心のためなり。

また之がために汝ら貢を納む、彼らは神の仕人にして此の職に勵むなり。

汝等その負債をおのおのに償へ、貢を受くべき者に貢ををさめ、税を受くべき者に税ををさめ、畏るべき者をおそれ、尊ぶべき者をたふとべ。

汝等たがひに愛を負ふのほか何をも人に負ふな。人を愛する者は律法を全うするなり。

それ『姦淫する勿れ、殺すなかれ、盜むなかれ、貪るなかれ』と云へるこの他なほ誡命ありとも『おのれの如く隣を愛すべし』といふ言の中にみな籠るなり。

愛は隣を害はず、この故に愛は律法の完全なり。

なんぢら時を知る故に、いよいよ然なすべし。今は眠より覺むべき時なり。始めて信ぜし時よりも今は我らの救近ければなり。

夜ふけて日近づきぬ、然れば我ら暗黒の業をすてて光明の甲を著るべし。

晝のごとく正しく歩みて宴樂・醉酒に、淫樂・好色に、爭鬪・嫉妬に歩むべきに非ず。

ただ汝ら主イエス・キリストを衣よ、肉の慾のために備すな。

第14章

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なんぢら信仰の弱き者を容れよ、その思ふところを詰るな。

或人は凡ての物を食ふを可しと信じ、弱き人はただ野菜を食ふ。

食ふ者は食はぬ者を蔑すべからず、食はぬ者は食ふ者を審くべからず、神は彼を容れ給へばなり。

なんぢ如何なる者なれば、他人の僕を審くか、彼が立つも倒るるも其の主人に由れり。彼は必ず立てられん、主は能く之を立たせ給ふべし。

或人は此の日を彼の日に勝ると思ひ、或人は凡ての日を等しとおもふ、各人おのが心の中に確く定むべし。

日を重んずる者は主のために之を重んず。食ふ者は主のために食ふ、これ神に感謝すればなり。食はぬ者も主のために食はず、かつ神に感謝するなり。

我等のうち己のために生ける者なく、己のために死ぬる者なし。

われら生くるも主のために生き、死ぬるも主のために死ぬ。然れば生くるも死ぬるも我らは主の有なり。

それキリストの死にて復生き給ひしは、死にたる者と生ける者との主とならん爲なり。

なんぢ何ぞその兄弟を審くか、汝なんぞ其の兄弟を蔑するか、我等はみな神の審判の座の前に立つべし。

録して

『主いひ給ふ、我は生くるなり、
凡ての膝はわが前に屈み、
凡ての舌は神を讃め稱へん』とあり。

我等おのおの神のまへに己の事を陳ぶべし。

されば今より後、われら互に審くべからず、むしろ兄弟のまへに妨碍または躓物を置かぬように心を決めよ。

われ如何なる物も自ら潔からぬ事なきを主イエスに在りて知り、かつ確く信ず。ただ潔からずと思ふ人にのみ潔からぬなり。

もし食物によりて兄弟を憂ひしめば、汝は愛によりて歩まざるなり、キリストの代りて死に給ひし人を、汝の食物によりて亡すな。

汝らの善きことの譏られぬようにせよ。

それ神の國は飮食にあらず、義と平和と聖靈によれる歡喜とに在るなり。

かくしてキリストに事ふる者は神に悦ばれ、人々に善しとせらるるなり。

されば我ら平和のことと互に徳を建つる事とを追ひ求むべし。

なんぢ食物のために神の御業を毀つな。凡ての物は潔し、されど之を食ひて人を躓かする者には惡とならん。

肉を食はず、葡萄酒を飮まず、その他なんぢの兄弟を躓かする事をせぬは善し。

なんぢの有てる信仰を己みづから神の前に保て。善しとする所につきて自ら咎めなき者は幸福なり。

疑ひつつ食ふ者は罪せらる。これ信仰によらぬ故なり、凡て信仰によらぬ事は罪なり。

第15章

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われら強き者はおのれを喜ばせずして、力なき者の弱を負ふべし。

おのおの隣人の徳を建てん爲に、その益を圖りて之を喜ばすべし。

キリストだに己を喜ばせ給はざりき。録して『なんぢを謗る者の謗は我に及べり』とあるが如し。

夙くより録されたる所は、みな我らの教訓のために録ししものにして、聖書の忍耐と慰安とによりて希望を保たせんとてなり。

願はくは忍耐と慰安との神、なんぢらをしてキリスト・イエスに效ひ、互に思を同じうせしめ給はん事を。

これ汝らが心を一つにし口を一つにして、我らの主イエス・キリストの父なる神を崇めん爲なり。

此の故にキリスト汝らを容れ給ひしごとく、汝らも互に相容れて神の榮光を彰すべし。

われ言ふ、キリストは神の眞理のために割禮の役者となり給へり。これ先祖たちの蒙りし約束を堅うし給はん爲、

また異邦人も憐憫によりて神を崇めんためなり。録して 『この故に、われ異邦人の中にて

汝を讃めたたへ、
又なんぢの名を謳はん』とあるが如し。

また曰く 『異邦人よ、主の民と共に喜べ』

又いはく

『もろもろの國人よ、主を讃め奉れ、
もろもろの民よ、主を稱へ奉れ』

又イザヤ言ふ

『エツサイの萠薛生じ、
異邦人を治むるもの興らん。:異邦人は彼に望をおかん』

願はくは希望の神、信仰より出づる凡ての喜悦と平安とを汝らに滿たしめ、聖靈の能力によりて希望を豐ならしめ給はんことを。

わが兄弟よ、われは汝らが自ら善に滿ち、もろもろの知識に滿ちて互に訓戒し得ることを確く信ず。

されど我なほ汝らに憶ひ出させん爲に、ここかしこ少しく憚らずして書きたる所あり、これ神の我に賜ひたる恩惠に因る。

即ち異邦人のためにキリスト・イエスの仕人となり、神の福音につきて祭司の職をなす。これ異邦人の聖靈によりて潔められ、御心に適ふ献物とならん爲なり。

されば、われ神の事につきては、キリスト・イエスによりて誇る所あり。

我は、キリストの異邦人を服はせん爲に我を用ひて、言と業と、

また徴と不思議との能力、および聖靈の能力にて働き給ひし事のほかは敢へて語らず、エルサレムよりイルリコの地方に到るまで、徧くキリストの福音を充たせり。

我は努めて他人の置ゑたる基礎のうへに建てじとて、未だキリストの御名の稱へられぬ所にのみ福音を宣傅へり。

録して

『未だ彼のことを傳へられざりし者は見、
いまだ聞かざりし者は悟るべし』とあるが如し。

この故に、われ汝らに往かんとせしが、しばしば妨げられたり。

されど今は此の地方に働くべき處なく、且なんぢらに往かんことを多年切に望みゐたれば、

イスパニヤに赴かんとき立寄りて汝らを見、ほぼ意に滿つるを得てのち汝らに送られんとを望むなり。

されど今、聖徒に事へん爲にエルサレムに往かんとす。

マケドニアとアカヤとの人々は、エルサレムに在る聖徒の貧しき者に幾許かの施與をするを善しとせり。

實に之を善しとせり、また聖徒に對して斯くする負債あり。異邦人もし彼らの靈の物に與りたらんには、肉の物をもて彼らに事ふべきなり。

されば此の事を成し了へ、この果を付してのち、汝らを歴てイスパニヤに往かん。

われ汝らに到るときは、キリストの滿ち足れる祝福をもて到らんことを知る。

兄弟よ、我らの主イエス・キリストにより、また御靈の愛によりて汝らに勸む、なんぢらの祈のうちに、我とともに力を盡して我がために神に祈れ。

これユダヤにをる從はぬ者の中より我が救はれ、又エルサレムに對する我が務の聖徒の心に適ひ、

かつ神の御意により、歡喜をもて汝等にいたり、共に安んぜん爲なり。

願はくは平和の神なんぢら衆と偕に在さんことを、アァメン。

第16章

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我ケンクレヤの教會の執事なる我らの姉妹フィベを汝らに薦む。

なんぢら主にありて聖徒たるに相應しく彼を容れ、何にても其の要する所を助けよ、彼は夙くより多くの人の保護者また我が保護者たり。

プリスカとアクラとに安否を問へ、彼らはキリスト・イエスに在る我が同勞者にして、

わが生命のために己の首をも惜まざりき。彼らに感謝するは、ただ我のみならず、異邦人の諸教會もまた然り。

又その家にある教會にも安否を問へ。又わが愛するエパネトに安否を問へ。彼はアジヤにて結べるキリストの初の實なり。

汝等のために甚く勞せしマリヤに安否を問へ。

我とともに囚人たりし我が同族アンデロニコとユニアスとに安否を問へ、彼らは使徒たちの中に名聲あり、かつ我に先だちてキリストに歸せし者なり。

主にありて我が愛するアンプリヤに安否を問へ。

キリストにある我らの同勞者ウルパノと我が愛するスタキスとに安否を問へ。

キリストに在りて錬達せるアペレに安否を問へ。アリストブロの家の者に安否を問へ。

わが同族ヘロデオンに安否を問へ。ナルキソの家なる主に在る者に安否を問へ。

主に在りて勞せしツルパナとツルポサとに安否を問へ。主に在りて甚く勞せし愛するペルシスに安否を問へ。

主に在りて選ばれたるルポスと其の母とに安否を問へ、彼の母は我にもまた母なり。

アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス及び彼らと偕に在る兄弟たちに安否を問へ。

ピロロゴ及びユリヤ、ネレオ及びその姉妹、またオルンパ及び彼らと偕に在る凡ての聖徒に安否を問へ。

潔き接吻をもて互に安否を問へ。キリストの諸教會みな汝らに安否を問ふ。

兄弟よ、われ汝らに勸む、おほよそ汝らの學びし教に背きて分離を生じ、顛躓をおこす者に心して之に遠ざかれ。

かかる者は我らの主キリストに事へず、反つて己が腹に事へ、また甘き言と媚諂とをもて質朴なる人の心を欺くなり。

汝らの從順は凡ての人に聞えたれば、我なんぢらの爲に喜べり。而して我が欲する所は、汝らが善に智く、惡に疏からんことなり。

平和の神は速かにサタンを汝らの足の下に碎き給ふべし。願はくは我らの主イエスの恩惠、なんぢらと偕に在らんことを。

わが同勞者テモテ及び我が同族ルキオ、ヤソン、ソシパテロ汝らに安否を問ふ。

この書を書ける我テルテオも主にありて汝らに安否を問ふ。

我と全教會との家主ガイオ汝らに安否を問ふ。町の庫司エラストと兄弟クワルトと汝らに安否を問ふ。

[なし]

願はくは長き世のあひだ隱れたれども、

今顯れて、永遠の神の命にしたがひ、預言者たちの書によりて信仰の從順を得しめん爲に、もろもろの國人に示されたる奧義の默示に循へる我が福音と、イエス・キリストを宣ぶる事とによりて、汝らを堅うし得る、

唯一の智き神に、榮光世々限りなくイエス・キリストに由りて在らんことを、アァメン。