<< 眞の「ハリステアニン」と眞の「ハリステアニン」の如何なるとを試み知らんには、われらに多くの注意と瞭解とを要す。 >>
一、 一見したる所正しきが如くなる多くの者は「ハリステアニン」と認めらるるなり、さりながらかくの如き者等は、王の印と像とを実におのれに有するか、或は意匠者の業事に偽印を押して、それが為に意匠者は或は驚き或は咎むるをなさざるかを試み知らんことは練達にして実験ある人々の行為なり。練達なる人にあらずんば、当事者、即欺騙者を試み知るあたはざるべし、何となればかれらも修道士或は「ハリステアニン」の像をおのれに負へばなり。けだし偽使徒もハリストスのために苦をうけ、彼等も天国の事を福音したればなり。ゆえに使徒はいへり、『我労に服せしこと較多く、鞭うたれしこと過度、獄に繋がれしこと更に多し』〔コリンフ後十一の二十三〕と、これを以て使徒は自から彼等よりも多く苦をうけたるをあらはさんと欲す。
二、 金はたやすく捜索せらるべし、しかれども王冠の為に適当なる真珠と宝石とは稀に発見せらるるのみにて、彼等の中にも用に適するものとならざる者の多きことしばしばこれあり。かくのごとく、ハリストスの栄冠のために他の霊魂を建つる所の「ハリステアニン」も、其霊魂が聖者の同伴となりしを見るは稀なりとす。光栄はかくの如く此霊魂を愛して、これがために苦をうけ、これを死より復活せしめたる者に帰す。さりながらモイセイの面に帕ありて、民は其面を見るあたはざりし如く、今も爾の心に帕ありて、神の栄の見えざるを致す、しかれども帕を脱するときは、神は自からあらはれて、「ハリステアニン」と神を愛して実に神を尋ぬる者に己をあらはし給ふこと、主の自ら言ふ所の如くならん、曰く『彼に己を顕はして居住をなさん』〔イオアン十四の二十一、二十三〕。
三、 されば許約と新しき約束をうけんが為に謊らざるハリストスに至ることを努めん、けだし十字架と死とをもて地獄と罪の門戸をやぶりて、篤信なる霊魂を引出し、其内部に撫恤者をあたへて、これを其国にみちびき入れ、以て約束を新にしたればなり。ゆえに我等は彼の都なるイエルサリムと、天の教会と、聖なる天使の集合に於て彼と共に王たるべし、然して兄弟の中久しく練習して実験を経たる者は実験なき者に助けて彼等を憐むを得ん。
四、 或者は己を防守して、神の恩寵の強くおのれに作用する時にあたり、己が肢体の聖にせられたるを発見し、自から己の事を決定して思へらくハリストス教には最早肉慾の余地あるなく、謙遜清潔なる智は自から求め得らるべくして、内部の人は最早神聖なる天に属するものに高飛せんとすと。ゆえにかくの如き人は完全の度に達すること疑なしと思ふ、しかるに己を以て安然の港に入りし者と思ふや、彼に対して波は起り、彼は再び身の海中にありて、ただ水と天とのみなる處に引去られ、まさに死せんとするを覚らん。かくて我等に入り来れる罪は種々に悪慾を作生せん。さりながらかくの如き者は、或る恩寵を新に賜はること、たとへば全海の深きより一小点滴をうくる如くして、これに於て毎時毎日おこなはるる所の奇跡を見ん、ゆえにかくの如く非常にして且新なる神妙なる行為に遭遇したる者は、欺騙せられし者の如くおどろき且あやしまん。終に神妙にして天に属する恩寵は彼を照し、彼を導き、彼を和げて、すべてを善良ならしめん、ゆえに諸王及び有権者、智者及び高名なる者は彼に比すれば小なる者卑き者の如く思はれん。然れども漸次時来りて事情は一変す、ゆえにかくの如き人は実に己をあらゆる人類よりも更に罪あるものと思ふ。而して又他時には己を見てさながら偉大非常なる王の如く、或は王の有力なる友の如く思ふべし。而してまた他時には己を無力にして貧なる者と思ふべし。終に智は困難するなり、故に或はかくの如く思ひ、或はまた然らざらん、何となれば善の嫉妬者たるサタナは徳行に大に発達するものに悪をすすめ入れて、彼等を敗壊せしめんと力むればなり。事情はかくの如し。
五、 しかれども汝は内部の人におこなはるる所の義を為して、彼に降伏するなかれ、彼処にハリストスの祭台は汚れざる聖所と共に立てらるるなり、汝の良心を死せる行よりきよむるハリストスの十字架を以て誇るべし、しからば汝は己の神を以て神に勤め、拝する所の誰なるを識ること、録して言ふ如くならん、曰く『我等は拝する所を知る』〔イオアン四の二十二〕。汝の霊魂は神と体合すること、新婦の新郎と與にする如くなるべし。けだしいふあり、『此の奥義は大なり、我ハリストスと無玷なる霊魂とに於てこれを言ふ』〔エフェス五の三十二〕。主に光栄は世々に帰す。アミン。