<< 神が我等に神聖なる書を與へたるは何の為か。 >>
一、 王あり、其詔勅と其賜とをあたへんと欲する者に文書を遣し、衆に知らしめていはん、『速に我に来りて王の賜を我よりうけんことを努めよ』と、しかるにもし来りてこれをうけずんば、文書を読むは其者に利益を與へざるのみならず。来りて王の手より栄誉をうけんことを望まざる為に、直に死に罰せらるるものとならん、神の書もかくの如し、王たる神が文書としてこれを告示し、人々の前にあらはしたるは、神を呼び且信じたる者が天の賜を願ふて、これを其神性の実在よりうけんためなり。けだし録していへるあり、『神の性に與る者とならん為なり』〔ペトル後一の四〕。されどもし人は来らず、願はず、受けずんば、聖書をよむも、彼に益する所あらざるべし、反つて天の王より生命の賜をうけんことを望まざるために、死に罰せらるるものとならん、けだし此の賜なくんば、不死の生命なるハリストスを求め得るあたはざればなり。彼に光栄は世々に。アミン。