コリント人への前の書(文語訳)

<文語訳新約聖書

w:舊新約聖書 [文語]』w:日本聖書協会、1950年

w:大正改訳聖書

コリント人への前の書

第1章

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神の御意により召されてイエス・キリストの使徒となれるパウロ及び兄弟ソステネ、

書をコリントに在る神の教會、即ちいづれの處にありても、我らの主、ただに我等のみならず彼らの主なるイエス・キリストの名を呼び求むる者とともに、聖徒となるべき召を蒙り、キリスト・イエスに在りて潔められたる汝らに贈る。

願はくは我らの父なる神および主イエス・キリストより賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。

われ汝らがキリスト・イエスに在りて神より賜はりし恩惠に就きて、常に神に感謝す。

汝らはキリストに在りて、諸般のこと即ち凡ての言と凡ての悟とに富みたればなり。

これキリストの證なんぢらの中に堅うせられたるに因る。

斯く汝らは凡ての賜物に缺くる所なくして、我らの主イエス・キリストの現れ給ふを待てり。

彼は汝らを終まで堅うして、我らの主イエス・キリストの日に責むべき所なからしめ給はん。

汝らを召して其の子われらの主イエス・キリストの交際に入らしめ給ふ神は眞實なる哉。

兄弟よ、我らの主イエス・キリストの名に頼りて汝らに勸む、おのおの語るところを同じうし、分爭する事なく、同じ心おなじ念にて全く一つになるべし。

わが兄弟よ、クロエの家の者、なんぢらの中に紛爭あることを我に知らせたり。

即ち汝等おのおの『我はパウロに屬す』『われはアポロに』『我はケパに』『我はキリストに』と言ふこれなり。

キリストは分たるる者ならんや、パウロは汝らの爲に十字架につけられしや、汝らパウロの名に頼りてバプテスマを受けしや。

我は感謝す、クリスポとガイオとの他には、我なんぢらの中の一人にもバプテスマを施さざりしを。

是わが名に頼りて汝らがバプテスマを受けしと人の言ふ事なからん爲なり。

またステパノの家族にバプテスマを施しし事あり、此の他には我バプテスマを施しし事ありや知らざるなり。

そはキリストの我を遣し給へるはバプテスマを施させん爲にあらず、福音を宣傳へしめんとてなり。而して言の智慧をもつてせず、是キリストの十字架の虚しくならざらん爲なり。

それ十字架の言は亡ぶる者には愚なれど、救はるる我らには神の能力なり。

録して、

『われ智者の智慧をほろぼし、
慧き者のさときを空しうせん』とあればなり。

智者いづこにか在る、學者いづこにか在る、この世の論者いづこにか在る、神は世の智慧をして愚ならしめ給へるにあらずや。

世は己の智慧をもて神を知らず(これ神の智慧に適へるなり)この故に神は宣教の愚をもて、信ずる者を救ふを善しとし給へり。

ユダヤ人は徴を請ひ、ギリシヤ人は智慧を求む。

されど我らは十字架に釘けられ給ひしキリストを宣傳ふ。これはユダヤ人に躓物となり、異邦人に愚となれど、

召されたる者にはユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の能力また神の智慧たるキリストなり。

神の愚は人よりも智く、神の弱は人よりも強ければなり。

兄弟よ、召を蒙れる汝らを見よ、肉によれる智き者おほからず、能力ある者おほからず、貴きもの多からず。

されど神は智き者を辱しめんとて世の愚なる者を選び、強き者を辱しめんとて弱き者を選び、

有る者を亡さんとて世の卑しきもの、輕んぜらるる者、すなわち無きが如き者を選び給へり。

これ神の前に人の誇る事なからん爲なり。

汝らは神に頼りてキリスト・イエスに在り、彼は神に立てられて我らの智慧と義と聖と救贖とになり給へり。

これ『誇る者は主に頼りて誇るべし』と録されたる如くならん爲なり。

第2章

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兄弟よ、われ曩に汝らに到りしとき、神の證を傳ふるに言と智慧との優れたるを用ひざりき。

イエス・キリスト及びその十字架に釘けられ給ひし事のほかは、汝らの中にありて何をも知るまじと心を定めたればなり。

我なんぢらと偕に居りし時に、弱くかつ懼れ、甚く戰けり。

わが談話も、宣教も、智慧の美しき言によらずして、御靈と能力との證明によりたり。

これ汝らの信仰の、人の智慧によらず、神の能力に頼らん爲なり。

されど我らは成人したる者の中にて智慧を語る。これ此の世の智慧にあらず、又この世の廢らんとする司たちの智慧にあらず、

我らは奧義を解きて神の智慧を語る、即ち隱れたる智慧にして、神われらの光榮のために、世の創の先より預じめ定め給ひしものなり。

この世の司には之を知る者なかりき、もし知らば榮光の主を十字架に釘けざりしならん。

録して

『神のおのれを愛する者のために備へ給ひし事は、
眼いまだ見ず、耳いまだ聞かず、
人の心いまだ思はざりし所なり』と有るが如し。

されど我らには神これを御靈によりて顯し給へり。御靈はすべての事を究め、神の深き所まで究むればなり。

それ人のことは己が中にある靈のほかに誰か知る人あらん、斯くのごとく神のことは神の御靈のほかに知る者なし。

我らの受けし靈は世の靈にあらず、神より出づる靈なり、是われらに神の賜ひしものを知らんためなり。

又われら之を語るに人の智慧の教ふる言を用ひず、御靈の教ふる言を用ふ、即ち靈の事に靈の言を當つるなり。

性來のままなる人は神の御靈のことを受けず、彼には愚なる者と見ゆればなり。また之を悟ること能はず、御靈のことは靈によりて辨ふべき者なるが故なり。

されど靈に屬する者は、すべての事をわきまふ、而して己は人に辨へらるる事なし。

誰か主の心を知りて主を教ふる者あらんや。然れど我らはキリストの心を有てり。

第3章

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兄弟よ、われ靈に屬する者に對する如く汝らに語ること能はず、反つて肉に屬するもの、即ちキリストに在る幼兒に對する如く語れり。

われ汝らに乳のみ飮ませて堅き食物を與へざりき。汝等そのとき食ふこと能はざりし故なり。

今もなほ食ふこと能はず、今もなほ肉に屬する者なればなり。汝らの中に嫉妬と紛爭とあるは、これ肉に屬する者にして世の人の如くに歩むならずや。

或者は『われパウロに屬す』といひ、或者は『われアポロに屬す』と言ふ、これ世の人の如くなるにあらずや。

アポロは何者ぞ、パウロは何者ぞ、彼等はおのおの主の賜ふところに隨ひ、汝らをして信ぜしめたる役者に過ぎざるなり。

我は植ゑ、アポロは水灌げり、されど育てたるは神なり。

されば種うる者も、水灌ぐ者も數ふるに足らず、ただ尊きは育てたまふ神なり。

種うる者も、水灌ぐ者も歸する所は一つなれど、各自おのが勞に隨ひて其の値を得べし。

我らは神と共に働く者なり。汝らは神の畠なり、また神の建築物なり。

我は神の賜ひたる恩惠に隨ひて、熟錬なる建築師のごとく基を据ゑたり、而して他の人その上に建つるなり。然れど如何にして建つべきか、おのおの心して爲すべし、

既に置きたる基のほかは誰も据うること能はず、この基は即ちイエス・キリストなり。

人もし此の基の上に金・銀・寳石・木・草・藁をもつて建てなば、

各人の工は顯るべし。かの日これを明かにせん、かの日は火をもつて顯れ、その火おのおのの工の如何を驗すべければなり。

その建つる所の工、もし保たば値を得、

もし其の工燒けなば損すべし。然れど己は火より脱れ出づる如くして救はれん。

汝ら知らずや、汝らは神の宮にして、神の御靈なんぢらの中に住み給ふを。

人もし神の宮を毀たば神かれを毀ち給はん。それ神の宮は聖なり、汝らも亦かくの如し。

誰も自ら欺くな。汝等のうち此の世にて自ら智しと思ふ者は、智くならんために愚なる者となれ。

そは此の世の智慧は神の前に愚なればなり。録して『彼は智者をその惡巧によりて捕へ給ふ』

また『主は智者の念の虚しきを知り給ふ』とあるが如し。

さらば誰も人を誇とすな、萬の物は汝らの有なればなり。

或はパウロ、或はアポロ、或はケパ、或は世界、あるひは生、あるひは死、あるひは現在のもの、或は未來のもの、皆なんぢらの有なり。

汝等はキリストの有、キリストは神のものなり。

第4章

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人よろしく我らをキリストの役者また神の奧義を掌どる家司のごとく思ふべし。

さて家司に求むべきは忠實ならん事なり。

我は汝らに審かれ、或は人の審判によりて審かるることを最小き事とし、また自らも己を審かず。

我みづから責むべき所あるを覺えねど、之に由りて義とせらるる事なければなり。我を審きたまふ者は主なり。

然れば主の來り給ふまでは時に先だちて審判すな。主は暗にある隱れたる事を明かにし、心の謀計をあらはし給はん。その時おのおの神より其の譽を得べし。

兄弟よ、われ汝等のために此等のことを我とアポロとの上に當てて言へり。これ汝らが『録されたる所を踰ゆまじき』を我らの事によりて學び、この人をあげ、かの人を貶して誇らざらん爲なり。

汝をして人と異ならしむる者は誰ぞ、なんぢの有てる物に何か受けぬ物あるか。もし受けしならば、何ぞ受けぬごとく誇るか。

なんぢら既に飽き、既に富めり、我らを差措きて王となれり。われ實に汝らが王たらんことを願ふ、われらも共に王たることを得んが爲なり。

我おもふ、神は使徒たる我らを死に定められし者のごとく、後の者として見せ給へり。實に我らは宇宙のもの、即ち御使にも、衆人にも、觀物にせられたるなり。

我らはキリストのために愚なる者となり、汝らはキリストに在りて慧き者となれり。我等は弱く汝らは強し、汝らは尊く我らは卑し。

今の時にいたるまで我らは飢ゑ、渇き、また裸となり、また打たれ、定れる住家なく、

手づから働きて勞し、罵らるるときは祝し、責めらるるときは忍び、

譏らるるときは勸をなせり。我らは今に至るまで世の塵芥のごとく、萬の物の垢のごとくせられたり。

わが斯く書すは汝らを辱しめんとにあらず、我が愛する子として訓戒せんためなり。

汝等にはキリストに於ける守役一萬ありとも、父は多くあることなし。そはキリスト・イエスに在りて福音により汝らを生みたるは、我なればなり。

この故に汝らに勸む、我に效ふ者とならんことを。

之がために主にありて忠實なる我が愛子テモテを汝らに遣せり。彼は我がキリストにありて行ふところ、即ち常に各地の教會に教ふる所を、汝らに思ひ出さしむべし。

わが汝らに到ること無しとして誇る者あり。

されど主の御意ならば速かに汝等にいたり、誇る者の言にはあらで、その能力を知らんとす。

神の國は言にあらず、能力にあればなり。

汝ら何を欲するか、われ笞をもて到らんか、愛と柔和の心とをもて到らんか。

第5章

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現に聞く所によれば、汝らの中に淫行ありと、而してその淫行は異邦人の中にもなき程にして、或人その父の妻を有てりと云ふ。

斯くてもなほ汝ら誇ることをなし、かかる行爲をなしし者の除かれんことを願ひて悲しまざるか。

われ身は汝らを離れ居れども、心は偕に在りて其處に居るごとく、かかる事を行ひし者を既に審きたり。

すなはち汝ら及び我が靈の、我らの主イエスの能力をもて偕に集らんとき、主イエスの名によりて、

斯くのごとき者をサタンに付さんとす、是その肉は亡されて、其の靈は主イエスの日に救はれん爲なり。

汝らの誇は善からず。少しのパン種の、粉の團塊をみな膨れしむるを知らぬか。

なんぢら新しき團塊とならんために舊きパン種を取り除け、汝らはパン種なき者なればなり。夫われらの過越の羔羊すなはちキリスト既に屠られ給へり、

されば我らは舊きパン種を用ひず、また惡と邪曲とのパン種を用ひず、眞實と眞との種なしパンを用ひて祭を行ふべし。

われ前の書にて淫行の者と交るなと書き贈りしは、

此の世の淫行の者、または貪欲のもの、奪ふ者、または偶像を拜む者と更に交るなと言ふにあらず(もし然せば世を離れざるを得ず)

ただ兄弟と稱ふる者の中に、或は淫行のもの、或は貪欲のもの、或は偶像を拜む者、あるひは罵るもの、或は酒に醉ふもの、或は奪ふ者あらば、斯かる人と交ることなく、共に食する事だにすなとの意なり。

外の者を審くことは我の干る所ならんや、汝らの審くは、ただ内の者ならずや。

外にある者は神これを審き給ふ。かの惡しき者を汝らの中より退けよ。

第6章

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汝等のうち互に事あるとき、之を聖徒の前に訴へずして、正しからぬ者の前に訴ふることを敢へてする者あらんや。

汝ら知らぬか、聖徒は世を審くべき者なるを。世もし汝らに審かれんには、汝ら最小き事を審くに足らぬ者ならんや。

なんぢら知らぬか、我らは御使を審くべき者なるを、ましてこの世の事をや。

然るに汝ら審くべき此の世の事のあるとき、教會にて輕しむる所の者を審判の座に坐らしむるか。

わが斯く言ふは汝らを辱しめんとてなり。汝等のうちに兄弟の間のことを審き得る智きもの一人だになく、

兄弟は兄弟を、而も不信者の前に訴ふるか。

互に相訴ふるは既に當しく汝らの失態なり。何故むしろ不義を受けぬか、何故むしろ欺かれぬか。

然るに汝ら不義をなし、詐欺をなし、兄弟にも之を爲す。

汝ら知らぬか、正しからぬ者の神の國を嗣ぐことなきを。自ら欺くな、淫行のもの、偶像を拜むもの、姦淫をなすもの、男娼となるもの、男色を行ふ者、

盜するもの、貪欲のもの、酒に醉ふもの、罵るもの、奪ふ者などは、みな神の國を嗣ぐことなきなり。

汝等のうち曩には斯くのごとき者ありしかど、主イエス・キリストの名により、我らの神の御靈によりて、己を洗ひかつ潔められ、かつ義とせらるることを得たり。

一切のもの我に可からざるなし、然れど一切のもの益あるにあらず。一切のもの我に可からざるなし、されど我は何物にも支配せられず、

食物は腹のため、腹は食物のためなり。されど神は之をも彼をも亡し給はん。身は淫行をなさん爲にあらず、主の爲なり、主はまた身の爲なり。

神は既に主を甦へらせ給へり、又その能力をもて我等をも甦へらせ給はん。

汝らの身はキリストの肢體なるを知らぬか、然らばキリストの肢體をとりて遊女の肢體となすべきか、決して然すべからず。

遊女につく者は彼と一つ體となることを知らぬか『二人のもの一體となるべし』と言ひ給へり。

主につく者は之と一つ靈となるなり。

淫行を避けよ。人のをかす罪はみな身の外にあり、されど淫行をなす者は己が身を犯すなり。

汝らの身は、その内にある神より受けたる聖靈の宮にして、汝らは己の者にあらざるを知らぬか。

汝らは價をもて買はれたる者なり、然らばその身をもて神の榮光を顯せ。

第7章

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汝らが我に書きおくりし事に就きては、男の女に觸れぬを善しとす。

然れど淫行を免れんために、男はおのおの其の妻をもち、女はおのおの其の夫を有つべし。

夫はその分を妻に盡し、妻もまた夫に然すべし。

妻は己が身を支配する權をもたず、之を持つ者は夫なり。斯くのごとく夫も己が身を支配する權を有たず、之を有つ者は妻なり。

相共に拒むな、ただ祈に身を委ぬるため合意にて暫く相別れ、後また偕になるは善し。これ汝らが情の禁じがたきに乘じてサタンの誘ふことなからん爲なり。

されど我が斯くいふは命ずるにあらず、許すなり。

わが欲する所は、すべての人の我が如くならん事なり。然れど神より各自おのが賜物を受く、此は此のごとく、彼は彼のごとし。

我は婚姻せぬ者および寡婦に言ふ。もし我が如くにして居らば、彼等のために善し。

もし自ら制すること能はずば婚姻すべし、婚姻するは胸の燃ゆるよりも勝ればなり。

われ婚姻したる者に命ず(命ずる者は我にあらず、主なり)妻は夫と別るべからず。

もし別るる事あらば、嫁がずして居るか、又は夫と和げ。夫もまた妻を去るべからず。

その外の人に我いふ(主の言ひ給ふにあらず)もし或兄弟に不信者なる妻ありて偕に居ることを可しとせば、之を去るな。

また女に不信者なる夫ありて偕に居ることを可しとせば、夫を去るな。

そは不信者なる夫は妻によりて潔くなり、不信者なる妻は夫によりて潔くなりたればなり。然なくば汝らの子供は潔からず、されど今は潔き者なり。

不信者みづから離れ去らば、その離るるに任せよ。斯くのごとき事あらば、兄弟または姉妹、もはや繋がるる所なし。神の汝らを召し給へるは平和を得させん爲なり。

妻よ、汝いかで夫を救ひ得るや否やを知らん。夫よ、汝いかで妻を救ひ得るや否やを知らん。

唯おのおの主の分ち賜ふところ、神の召し給ふところに循ひて歩むべし。凡ての教會に我が命ずるは斯くのごとし。

割禮ありて召されし者あらんか、その人、割禮を廢つべからず。割禮なくして召されし者あらんか、その人、割禮を受くべからず。

割禮を受くるも受けぬも數ふるに足らず、ただ貴きは神の誡命を守ることなり。

各人その召されし時の状に止るべし。

なんぢ奴隷にて召されたるか、之を思ひ煩ふな(もし釋さるることを得ばゆるされよ)

召されて主にある奴隷は、主につける自主の人なり。斯くのごとく自主にして召されたる者は、キリストの奴隷なり。

汝らは價をもて買はれたる者なり。人の奴隷となるな。

兄弟よ、おのおの召されし時の状に止りて神と偕に居るべし。

處女のことに就きては主の命を受けず、然れど主の憐憫によりて忠實の者となりたれば、我が意見を告ぐべし。

われ思ふに、目前の患難のためには、人その在るが隨にて止るぞ善き。

なんぢ妻に繋がるる者なるか、釋くことを求むな。妻に繋がれぬ者なるか、妻を求むな。

たとひ妻を娶るとも罪を犯すにはあらず。處女もし嫁ぐとも罪を犯すにあらず。然れどかかる者はその身、苦難に遭はん、我なんぢらを苦難に遭はすに忍びず。

兄弟よ、われ之を言はん、時は縮れり。されば此よりのち妻を有てる者は有たぬが如く、

泣く者は泣かぬが如く、喜ぶ者は喜ばぬが如く、買ふ者は有たぬが如く、

世を用ふる者は用ひ盡さぬが如くすべし。此の世の状態は過ぎ往くべければなり。

わが欲する所は汝らが思ひ煩はざらん事なり。婚姻せぬ者は如何にして主を喜ばせんと主のことを慮ぱかり、

婚姻せし者は如何にして妻を喜ばせんと、世のことを慮ぱかりて心を分つなり。

婚姻せぬ女と處女とは身も靈も潔くならんために主のことを慮ぱかり、婚姻せし者は如何にしてその夫を喜ばせんと世のことを慮ぱかるなり。

わが之を言ふは汝らを益せん爲にして、汝らに絆を置かんとするにあらず、寧ろ汝らを宣しきに適はせ、餘念なく只管、主に事へしめんとてなり。

人もし處女たる己が娘に對すること宣しきに適はずと思ひ、年の頃もまた過ぎんとし、かつ然せざるを得ずば、心のままに行ふべし。これ罪を犯すにあらず、婚姻せさすべし。

されど人もし其の心を堅くし、止むを得ざる事もなく、又おのが心の隨になすを得て、その娘を留め置かんと心のうちに定めたらば、然するは善きなり。

されば其の娘を嫁がする者の行爲は善し。されど之を嫁がせぬ者の行爲は更に善し。

妻は夫の生ける間は繋がるるなり。然れど夫もし死なば、欲するままに嫁ぐ自由を得べし、また主にある者にのみ適くべし。

然れど我が意見にては、その儘に止らば殊に幸福なり。我もまた神の御靈に感じたりと思ふ。

第8章

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偶像の供物に就きては我等みな知識あることを知る。知識は人を誇らしめ、愛は徳を建つ。

もし人みづから知れりと思はば、知るべき程の事をも知らぬなり。

されど人もし神を愛せば、その人、神に知られたるなり。

偶像の供物を食ふことに就きては、我ら偶像の世になき者なるを知り、また唯一の神の外には神なきを知る。

神と稱ふるもの、或は天に或は地にありて、多くの神、おほくの主あるが如くなれど、

我らには父なる唯一の神あるのみ、萬物これより出で、我らも亦これに歸す。また唯一の主イエス・キリストあるのみ、萬物これに由り、我らも亦これに由れり。

されど人みな此の知識あるにあらず、或人は今もなほ偶像に慣れ、偶像の献物として食する故に、その良心よわくして汚さるるなり。

我らを神の前に立たしむるものは食物にあらず、されば食するも益なく、食せざるも損なし。

されど心して汝らの有てる此の自由を弱き者の躓物とすな。

人もし知識ある汝が偶像の宮にて食事するを見んに、その人弱きときは良心そそのかされて偶像の献物を食せざらんや。

さらばキリストの代りて死に給ひし弱き兄弟は、汝の知識によりて亡ぶべし。

斯くのごとく汝ら兄弟に對して罪を犯し、その弱き良心を傷めしむるは、キリストに對して罪を犯すなり。

この故に、もし食物わが兄弟を躓かせんには、兄弟を躓かせぬ爲に、我は何時までも肉を食はじ。

第9章

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我は自主の者ならずや、使徒にあらずや、我らの主イエスを見しにあらずや、汝らは主に在りて我が業ならずや。

われ他の人には使徒ならずとも汝らには使徒なり。汝らは主にありて我が使徒たる職の印なればなり。

われを審く者に對する我が辯明は斯くのごとし。

我らは飮食する權なきか。

我らは他の使徒たち主の兄弟たち及びケパのごとく、姉妹たる妻を携ふる權なきか。

ただ我とバルナバとのみ工を止むる權なきか。

誰か己の財にて兵卒を務むる者あらんや。誰か葡萄畑を作りてその果を食はぬ者あらんや。誰か群を牧ひてその乳を飮まぬ者あらんや。

我ただ人の思にのみ由りて此等のことを言はんや、律法も亦かく言ふにあらずや。

モーセの律法に『穀物を碾す牛には口籠を繋くべからず』と録したり。神は牛のために慮ぱかり給へるか、

また專ら我等のために之を言ひ給ひしか、然り、我らのために録されたり。それ耕す者は望をもて耕し、穀物をこなす者は之に與る望をもて碾すべきなり。

もし我ら靈の物を汝らに蒔きしならば、汝らの肉の物を刈り取るは過分ならんや。

もし他の人なんぢらに對してこの權あらんには、まして我らをや。然れど我等はこの權を用ひざりき。唯キリストの福音に障碍なきやうに一切のことを忍ぶなり。

なんぢら知らぬか、聖なる事を務むる者は宮のものを食し、祭壇に事ふる者は祭壇のものに與るを。

斯くのごとく主もまた福音を宣傳ふる者の福音によりて生活すべきことを定め給へり。

されど我は此等のことを一つだに用ひし事なし、また自ら斯くせられんために之を書き贈るにあらず、斯くせられんよりは寧ろ死ぬるを善しとすればなり。誰もわが誇を空しくせざるべし。

われ福音を宣傳ふとも誇るべき所なし、已むを得ざるなり。もし福音を宣傳へずば、我は禍害なるかな。

若しわれ心より之をなさば報を得ん、たとひ心ならずとも我はその務を委ねられたり。

然らば我が報は何ぞ、福音を宣傳ふるに、人をして費なく福音を得しめ、而も福音によりて我が有てる權を用ひ盡さぬこと是なり。

われ凡ての人に對して自主の者なれど、更に多くの人を得んために、自ら凡ての人の奴隷となれり。

我ユダヤ人にはユダヤ人の如くなれり、これユダヤ人を得んが爲なり。律法の下にある者には――律法の下に我はあらねど――律法の下にある者の如くなれり。これ律法の下にある者を得んが爲なり。

律法なき者には――われ神に向ひて律法なきにあらず、反つてキリストの律法の下にあれど――律法なき者の如くなれり、これ律法なき者を得んがためなり。

弱き者には弱き者となれり、これ弱き者を得んためなり。我すべての人には凡ての人の状に從へり、これ如何にもして幾許かの人を救はんためなり。

われ福音のために凡ての事をなす、これ我も共に福音に與らん爲なり。

なんぢら知らぬか、馳場を走る者はみな走れども、褒美を得る者の、ただ一人なるを。汝らも得んために斯く走れ。

すべて勝を爭ふ者は何事をも節し愼む、彼らは朽つる冠冕を得んが爲なれど、我らは朽ちぬ冠冕を得んがために之をなすなり。

斯く我が走るは目標なきが如きにあらず、我が拳鬪するは空を撃つが如きにあらず。

わが體を打ち擲きて之を服從せしむ。恐らくは他人に宣傳へて自ら棄てらるる事あらん。

第10章

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兄弟よ、我なんぢらが之を知らぬを好まず。即ち我らの先祖はみな雲の下にあり、みな海をとほり、

みな雲と海とにてバプテスマを受けてモーセにつけり。

而して皆おなじく靈なる食物を食し、

みな同じく靈なる飮物を飮めり。これ彼らに隨ひし靈なる岩より飮みたるなり、その岩は即ちキリストなりき。

然れど彼らのうち多くは神の御意に適はず、荒野にて亡されたり。

此等のことは我らの鑑にして、彼らが貪りし如く惡を貪らざらん爲なり。

彼らの中の或者に效ひて偶像を拜する者となるな、即ち『民は坐して飮食し立ちて戯る』と録されたり。

又かれらの中の或者に效ひて我ら姦淫すべからず、姦淫を行ひしもの一日に二萬三千人死にたり。

また彼等のうちの或者に效ひて我ら主を試むべからず、主を試みしもの蛇に亡されたり、

又かれらの中の或者に效ひて呟くな、呟きしもの亡す者に亡されたり。

彼らが遭へる此等のことは鑑となれり、かつ末の世に遭へる我らの訓戒のために録されたり。

さらば自ら立てりと思ふ者は倒れぬやうに心せよ。

汝らが遭ひし試煉は人の常ならぬはなし。神は眞實なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試煉に遭はせ給はず。汝らが試煉を耐へ忍ぶことを得んために之と共に遁るべき道を備へ給はん。

さらば我が愛する者よ、偶像を拜することを避けよ。

され慧き者に言ふごとく言はん、我が言ふところを判斷せよ。

我らが祝ふところの祝の酒杯は、これキリストの血に與るにあらずや。我らが擘く所のパンは、これキリストの體に與るにあらずや。

パンは一つなれば、多くの我らも一體なり、皆ともに一つのパンに與るに因る。

肉によるイスラエルを視よ、供物を食ふ者は祭壇に與るにあらずや。

さらば我が言ふところは何ぞ、偶像の供物はあるものと言ふか、また、偶像はあるものと言ふか。

否、我は言ふ、異邦人の供ふる物は神に供ふるにあらず、惡鬼に供ふるなりと。我なんぢらが惡鬼と交るを欲せず。

なんぢら主の酒杯と惡鬼の酒杯とを兼ね飮むこと能はず。主の食卓と惡鬼の食卓とに兼ね與ること能はず。

われら主の妬を惹起さんとするか、我らは主よりも強き者ならんや。

一切のもの可からざるなし、然れど一切のもの益あるにあらず、一切のもの可からざるなし、されど、一切のもの徳を建つるにあらず。

各人おのが益を求むることなく、人の益を求めよ。

すべて市場にて賣る物は、良心のために何をも問はずして食せよ。

そは地と之に滿つる物とは主の物なればなり。

もし不信者に招かれて往かんとせば、凡て汝らの前に置く物を、良心のために何をも問はずして食せよ。

人もし此は犧牲にせし肉なりと言はば、告げし者のため、また良心のために食すな。

良心とは汝の良心にあらず、かの人の良心を言ふなり。何ぞわが自由を他の人の良心によりて審かるる事をせん。

もし感謝して食する事をせば、何ぞわが感謝する所のものに就きて譏らるる事をせん。

さらば食ふにも飮むにも何事をなすにも、凡て神の榮光を顯すやうにせよ。

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、また、神の教會にも躓物となるな。

我も凡ての事を凡ての人の心に適ふやうに力め、人々の救はれんために、己の益を求めずして多くの人の益を求むるなり。

第11章

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我がキリストに效ふ者なる如く、なんぢら我に效ふ者となれ。

汝らは凡ての事につきて我を憶え、且わが傳へし所をそのまま守るに因りて、我なんぢらを譽む。

されど我なんぢらが之を知らんことを願ふ。凡ての男の頭はキリストなり、女の頭は男なり、キリストの頭は神なり。

すべて男は祈をなし、預言をなすとき、頭に物を被るは其の頭を辱しむるなり。

すべて女は祈をなし、預言をなすとき、頭に物を被らぬは其の頭を辱しむるなり。これ薙髮と異なる事なし。

女もし物を被らずば、髮をも剪るべし。されど髮を剪り或は薙ることを女の恥とせば、物を被るべし。

男は神の像、神の榮光なれば、頭に物を被るべきにあらず、されど女は男の光榮なり。

男は女より出でずして、女は男より出で、

男は女のために造られずして、女は男のために造られたればなり。

この故に女は御使たちの故によりて頭に權の徽を戴くべきなり。

されど主に在りては、女は男に由らざるなく、男は女に由らざるなし。

女の男より出でしごとく、男は女によりて出づ。而して萬物はみな神より出づるなり。

汝等みづから判斷せよ、女の物を被らずして神に祈るは宣しき事なるか。

なんぢら自然に知るにあらずや、男もし長き髮の毛あらば恥づべきことにして、

女もし長き髮の毛あらばその光榮なるを。それ女の髮の毛は被物として賜はりたるなり。

假令これを坑辯ふ者ありとも、斯くのごとき例は我らにも神の諸教會にもある事なし。

我これらの事を命じて汝らを譽めず。汝らの集ること益を受けずして損を招けばなり。

先づ汝らが教會に集るとき分爭ありと聞く、われ略これを信ず。

それは汝等のうちに是とせらるべき者の現れんために黨派も必ず起るべければなり。

なんぢら一處に集るとき、主の晩餐を食すること能はず。

食する時おのおの人に先だちて己の晩餐を食するにより、饑うる者あり、醉ひ飽ける者あればなり。

汝ら飮食すべき家なきか、神の教會を輕んじ、また乏しき者を辱しめんとするか、我なにを言ふべきか、汝らを譽むべきか、之に就きては譽めぬなり。

わが汝らに傳へしことは主より授けられたるなり。即ち主イエス付され給ふ夜、パンを取り、

祝して之を擘き、而して言ひ給ふ『これは汝等のための我が體なり。我が記念として之を行へ』

夕餐ののち酒杯をも前の如くして言ひたまふ『この酒杯は我が血によれる新しき契約なり。飮むごとに我が記念として之をおこなへ』

汝等このパンを食し、この酒杯を飮むごとに、主の死を示して其の來りたまふ時にまで及ぶなり。

されば宣しきに適はずして主のパンを食し、主の酒杯を飮む者は、主の體と血とを犯すなり。

人みづから省みて後、そのパンを食し、その酒杯を飮むべし。

御體を辨へずして飮食する者は、その飮食によりて自ら審判を招くべければなり。

この故に汝等のうちに弱きもの病めるもの多くあり、また眠に就きたる者も少からず。

我等もし自ら己を辨へなば審かるる事なからん。

されど審かるる事のあるは、我らを世の人とともに罪に定めじとて、主の懲しめ給ふなり。

この故に、わが兄弟よ、食せんとて集るときは互に待ち合せよ。

もし飢うる者あらば、汝らの集會の審判を招くこと無からん爲に、己が家にて食すべし。その他のことは我いたらん時これを定めん。

第12章

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兄弟よ、靈の賜物に就きては、我なんぢらが知らぬを好まず。

なんぢら異邦人なりしとき、誘はるるままに物を言はぬ偶像のもとに導き往かれしは、汝らの知る所なり。

然れば我なんぢらに示さん、神の御靈に感じて語る者は、誰も『イエスは詛はるべき者なり』と言はず、また聖靈に感ぜざれば、誰も『イエスは主なり』と言ふ能はず。

賜物は殊なれども、御靈は同じ。

務は殊なれども、主は同じ。

活動は殊なれども、凡ての人のうちに凡ての活動を爲したまふ神は同じ。

御靈の顯現をおのおのに賜ひたるは、益を得させんためなり。

或人は御靈によりて智慧の言を賜はり、或人は同じ御靈によりて知識の言、

或人は同じ御靈によりて信仰、ある人は一つ御靈によりて病を醫す賜物、

或人は異能ある業、ある人は預言、ある人は靈を辨へ、或人は異言を言ひ、或人は異言を釋く能力を賜はる。

凡て此等のことは同じ一つの御靈の活動にして、御靈その心に隨ひて各人に分け與へたまふなり。

體は一つにして肢は多し、體の肢は多くとも一つの體なるが如く、キリストも亦然り。

我らはユダヤ人・ギリシヤ人・奴隷・自主の別なく、一體とならん爲に、みな一つ御靈にてバプテスマを受けたり。而してみな一つ御靈を飮めり。

體は一肢より成らず、多くの肢より成るなり。

足もし『我は手にあらぬ故に體に屬せず』と云ふとも、之によりて體に屬せぬにあらず。

耳もし『それは眼にあらぬ故に體に屬せず』と云ふとも、之によりて體に屬せぬにあらず。

もし全身、眼ならば、聽くところ何れか。もし全身、聽く所ならば、臭ぐところ何れか。

げに神は御意のままに肢をおのおの體に置き給へり。

若しみな一肢ならば、體は何れか。

げに肢は多くあれど、體は一つなり。

眼は手に對ひて『われ汝を要せず』と言ひ、頭は足に對ひて『われ汝を要せず』と言ふこと能はず。

否、からだの中にて最も弱しと見ゆる肢は、反つて必要なり。

體のうちにて尊からずと思はるる所に、物を纏ひて殊に之を尊ぶ。斯く我らの美しからぬ所は、一層すぐれて美しくすれども、

美しき所には、物を纏ふの要なし。神は劣れる所に殊に尊榮を加へて、人の體を調和したまへり。

これ體のうちに分爭なく、肢々一致して互に相顧みんためなり。

もし一つの肢苦しまば、もろもろの肢ともに苦しみ、一つの肢尊ばれなば、もろもろの肢ともに喜ぶなり。

乃ち汝らはキリストの體にして各自その肢なり。

神は第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、その次に異能ある業、次に病を醫す賜物、補助をなす者、治むる者、異言などを教會に置きたまへり。

是みな使徒ならんや、みな預言者ならんや、みな教師ならんや、みな異能ある業を行ふ者ならんや。

みな病を醫す賜物を有てる者ならんや、みな異言を語る者ならんや、みな異言を釋く者ならんや。

なんぢら優れたる賜物を慕へ、而して我さらに善き道を示さん。

第13章

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たとひ我もろもろの國人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鈸の如し。

假令われ預言する能力あり、又すべての奧義と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、愛なくば數ふるに足らず。

たとひ我わが財産をことごとく施し、又わが體を燒かるる爲に付すとも、愛なくば我に益なし。

愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、

非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず、

不義を喜ばずして、眞理の喜ぶところを喜び、

凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。

愛は長久までも絶ゆることなし。然れど預言は廢れ、異言は止み、知識もまた廢らん。

それ我らの知るところ全からず、我らの預言も全からず。

全き者の來らん時は全からぬもの廢らん。

われ童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずる事も童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。

今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり。然れど、かの時には顏を對せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし。

げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり。

第14章

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愛を追ひ求めよ、また靈の賜物、ことに預言する能力を慕へ。

異言を語る者は人に語るにあらずして神に語るなり。そは靈にて奧義を語るとも、誰も悟る者なければなり。

されど預言する者は人に語りて其の徳を建て、勸をなし、慰安を與ふるなり。

異言を語る者は己の徳を建て、預言する者は教會の徳を建つ。

われ汝等がみな異言を語らんことを欲すれど、殊に欲するは預言せん事なり。異言を語る者、もし釋きて教會の徳を建つるにあらずば、預言する者のかた勝るなり。

然らば兄弟よ、我もし汝らに到りて異言をかたり、或は默示、あるいは知識、あるいは預言、あるいは教をもて語らずば、何の益かあらん。

生命なくして聲を出すもの、或は笛、あるいは立琴、その音もし差別なくば、爭で吹くところ彈くところの何たるを知らん。

ラッパ若し定りなき音を出さば、誰か戰鬪の備をなさん。

斯くのごとく汝らも舌をもて明かなる言を出さずば、いかで語るところの何たるを知らん、これ汝等ただ空氣に語るのみ。

世には國語の類おほかれど、一つとして意義あらぬはなし。

我もし國語の意義を知らずば、語る者に對して夷人となり、語る者も我に對して夷人とならん、

然らば汝らも靈の賜物を慕ふ者なれば、教會の徳を建つる目的にて賜物の豐ならん事を求めよ。

この故に異言を語る者は自ら釋き得んことをも祈るべし。

我もし異言をもて祈らば、我が靈は祈るなれど、我が心は果を結ばず。

然らば如何にすべきか、我は靈をもて祈り、また心をもて祈らん。我は靈をもて謳ひ、また心をもて謳はん。

汝もし然せずば、靈をもて祝するとき、凡人は汝の語ることを知らねば、その感謝に對し如何にしてアァメンと言はんや。

なんぢの感謝はよし、然れど、その人の徳を建つることなし。

我なんぢら衆の者よりも多く異言を語ることを神に感謝す。

然れど我は教會にて異言をもて一萬言を語るよりも、寧ろ人を教へんために我が心をもて五言を語らんことを欲するなり。

兄弟よ、智慧に於ては子供となるな、惡に於ては幼兒となり、智慧に於ては成人となれ。

律法に録して『主、宣はく、他し言の民により、他し國人の口唇をもて此の民に語らん、然れど尚かれらは我に聽かじ』とあり。

されば異言は、信者の爲ならで不信者のための徴なり。預言は、不信者の爲ならで信者のためなり。

もし全教會一處に集れる時、みな異言にて語らば、凡人または不信者いり來らんに、汝らを狂へる者と言はざらんや。

然れど若しみな預言せば、不信者または凡人の入りきたるとき、會衆のために自ら責められ、會衆のために是非せられ、

その心の秘密あらはるる故に、伏して神を拜し『神は實に汝らの中に在す』と言はん。

兄弟よ、さらば如何にすべきか、汝らの集る時はおのおの聖歌あり、教あり、默示あり、異言あり、釋く能力あり、みな徳を建てん爲にすべし。

もし異言を語る者あらば、二人、多くとも三人、順次に語りて一人これを釋くべし。

もし釋く者なき時は、教會にては默し、而して己に語り、また神に語るべし。

預言者は二人もしくは三人かたり、その他の者はこれを辨ふべし。

もし坐しをる、他のもの默示を蒙らば、先のもの默すべし。

汝らは皆すべての人に學ばせ勸を受けしめんために、一人一人預言することを得べければなり。

また預言者の靈は預言者に制せらる。

それ神は亂の神にあらず、平和の神なり。

聖徒の諸教會のするごとく、女は教會にて默すべし。彼らは語ることを許されず。律法に云へるごとく順ふべき者なり。

何事か學ばんとする事あらば、家にて己が夫に問ふべし、女の教會にて語るは恥づべき事なればなり。

神の言は汝等より出でしか、また汝等にのみ來りしか。

人もし自己を預言者とし、或は御靈に感じたる者と思はば、わが汝らに書きおくる言を主の命なりと知れ。

もし知らずば其の知らざるに任せよ。

されば我が兄弟よ、預言することを慕ひ、また異言を語ることを禁ずな。

凡ての事、宣しきに適ひ、かつ秩序を守りて行へ。

第15章

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兄弟よ、曩にわが傳へし福音を更に復なんぢらに示す。汝らは之を受け、之に頼りて立ちたり。

なんぢら徒らに信ぜずして、我が傳へしままを堅く守らば、この福音に由りて救はれん。

わが第一に汝らに傳へしは、我が受けし所にして、キリスト聖書に應じて我らの罪のために死に、

また葬られ、聖書に應じて三日めに甦へり、

ケパに現れ、後に十二弟子に現れ給ひし事なり。

次に五百人以上の兄弟に同時にあらはれ給へり。その中には既に眠りたる者もあれど、多くは今なほ世にあり。

次にヤコブに現れ、次にすべての使徒に現れ、

最終には月足らぬ者のごとき我にも現れ給へり。

我は神の教會を迫害したれば、使徒と稱へらるるに足らぬ者にて、使徒のうち最小き者なり。

然るに我が今の如くなるは、神の恩惠に由るなり。斯くてその賜はりし御惠は空しくならずして、凡ての使徒よりも我は多く働けり。これ我にあらず、我と偕にある神の恩惠なり。

されば我にもせよ、彼等にもせよ、宣傳ふる所はかくの如くにして、汝らは斯くのごとく信じたるなり。

キリストは死人の中より甦へり給へりと宣傳ふるに、汝等のうちに、死人の復活なしと云ふ者のあるは何ぞや。

もし死人の復活なくば、キリストもまた甦へり給はざりしならん。

もしキリスト甦へり給はざりしならば、我らの宣教も空しく、汝らの信仰もまた空しからん、

かつ我らは神の僞證人と認められん。我ら神はキリストを甦へらせ給へりと證したればなり。もし死人の甦へることなくば、神はキリストを甦へらせ給はざりしならん。

もし死人の甦へる事なくば、キリストも甦へり給はざりしならん。

若しキリスト甦へり給はざりしならば、汝らの信仰は空しく、汝等なほ罪に居らん。

然ればキリストに在りて眠りたる者も亡びしならん。

我等この世にあり、キリストに頼りて空しき望みを懷くに過ぎずば、我らは凡ての人の中にて最も憫むべき者なり。

然れど正しくキリストは死人の中より甦へり、眠りたる者の初穗となり給へり。

それ人によりて死の來りし如く、死人の復活もまた人に由りて來れり。

凡ての人、アダムに由りて死ぬるごとく、凡ての人、キリストに由りて生くべし。

而して各人その順序に隨ふ。まづ初穗なるキリスト、次はその來り給ふときキリストに屬する者なり。

次には終きたらん、その時キリストは、もろもろの權能・權威・權力を亡して國を父なる神に付し給ふべし。

彼は凡ての敵をその足の下に置き給ふまで、王たらざるを得ざるなり。

最後の敵なる死もまた亡されん。

『神は萬の物を彼の足の下に服はせ給ひ』たればなり。萬の物を彼に服はせたりと宣ふときは、萬の物を服はせ給ひし者のその中になきこと明かなり。

萬の物かれに服ふときは、子も亦みづから萬の物を己に服はせ給ひし者に服はん。これ神は萬の物に於て萬の事となり給はん爲なり。

もし復活なくば、死人の爲にバプテスマを受くるもの何をなすか、死人の甦へること全くなくば、死人のためにバプテスマを受くるは何の爲ぞ。

また我らが何時も危険を冒すは何の爲ぞ。

兄弟よ、われらの主イエス・キリストに在りて、汝等につき我が有てる誇によりて誓ひ、我は日々に死すと言ふ。

我がエペソにて獸と鬪ひしこと、若し人のごとき思にて爲ししならば、何の益あらんや。死人もし甦へる事なくば『我等いざ飮食せん、明日死ぬべければなり』

なんぢら欺かるな、惡しき交際は善き風儀を害ふなり。

なんぢら醒めて正しうせよ、罪を犯すな。汝等のうちに神を知らぬ者あり、我が斯く言ふは汝等を辱しめんとてなり。

されど人あるひは言はん、死人いかにして甦へるべきか、如何なる體をもて來るべきかと。

愚なる者よ、なんぢの播く所のもの先づ死なずば生きず。

又その播く所のものは後に成るべき體を播くにあらず、麥にても他の穀にても、ただ種粒のみ。

然るに神は御意に隨ひて之に體を予へ、おのおのの種にその體を予へたまふ。

凡ての肉、おなじ肉にあらず、人の肉あり、獸の肉あり、鳥の肉あり、魚の肉あり。

天上の體あり、地上の體あり、されど天上の物の光榮は地上の物と異なり。

日の光榮あり、月の光榮あり、星の光榮あり、此の星は彼の星と光榮を異にす。

死人の復活もまた斯くのごとし。朽つる物にて播かれ、朽ちぬものに甦へらせられ、

卑しき物にて播かれ、光榮あるものに甦へらせられ、弱きものにて播かれ、強きものに甦へらせられ、

血氣の體にて播かれ、靈の體に甦へらせられん。血氣の體ある如く、また靈の體あり。

録して、始の人アダムは、活ける者となれるとあるが如し。而して終のアダムは、生命を與ふる靈となれり。

靈のものは前にあらず、反つて血氣のもの前にありて靈のもの後にあり。

第一の人は地より出でて土に屬し、第二の人は天より出でたる者なり。

この土に屬する者に、すべて土に屬する者は似、この天に屬する者に、すべて天に屬する者は似るなり。

我ら土に屬する者の形を有てるごとく、天に屬する者の形をも有つべし。

兄弟よ、われ之を言はん、血肉は神の國を嗣ぐこと能はず、朽つるものは朽ちぬものを嗣ぐことなし。

視よ、われ汝らに奧義を告げん、我らは悉とく眠るにはあらず、

終のラッパの鳴らん時みな忽ち瞬間に化せん。ラッパ鳴りて死人は朽ちぬ者に甦へり、我らは化するなり。

そは此の朽つる者は朽ちぬものを著、この死ぬる者は死なぬものを著るべければなり。

此の朽つるものは朽ちぬものを著、この死ぬる者は死なぬものを著んとき『死は勝に呑まれたり』と録されたる言は成就すべし。

『死よ、なんぢの勝は何處にかある。死よ、なんぢの刺は何處にかある』

死の刺は罪なり、罪の力は律法なり。

されど感謝すべきかな、神は我らの主イエス・キリストによりて勝を與へたまふ。

然れば我が愛する兄弟よ、確くして搖くことなく、常に勵みて主の事を務めよ、汝等その勞の、主にありて空しからぬを知ればなり。

第16章

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聖徒たちの爲にする寄附の事に就きては、汝らも我がガラテヤの諸教會に命ぜしごとくせよ。

一週の首の日ごとに、各人その得る所にしたがひて己が家に貯へ置け、これ我が到らんとき始めて寄附を集むる事なからん爲なり。

われ到らば、汝らが選ぶところの人々に添書をあたへ、汝らの惠む物をエルサレムに携へ往かしめん。

もし我も往くべきならば、彼らは我と共に往くべし。

我マケドニヤを通らんとすれば、マケドニヤを過ぎて後に汝らの許にゆかん。

かくて汝らの中に留りゐて、或は冬を過すこともあらん、是わが何處に往くも汝らに送られん爲なり。

我は今なんぢらを途の次に見ることを欲せず、主ゆるし給はば、暫く汝らと偕に留らんことを望む。

われ五旬節まではエペソに留らんとす。

そは活動のために大なる門わが前にひらけ、また逆ふ者も多ければなり。

テモテもし到らば、愼みて汝等のうちに懼なく居らしめよ、彼は我と同じく主の業を務むる者なり。

されば誰も之を卑しむることなく、安らかに送りて我が許に來らしめよ、我かれが兄弟たちと共に來るを待てるなり。

兄弟アポロに就きては、我かれに兄弟たちと共に汝らに到らんことを懇ろに勸めたりしが、今は往くことを更に欲せず、されど好き機を得ば往くべし。

目を覺し、堅く信仰に立ち、雄々しく、かつ剛かれ。

一切のこと愛をもて行へ。

兄弟よ、ステパナの家はアカヤの初穗にして、彼らが身を委ねて聖徒に事へたることは、汝らの知る所なり。

われ汝らに勸む、斯くのごとき人々また凡て之とともに働きて勞する者に服せよ。

我ステパナとポルトナトとアカイコとの來るを喜ぶ。かれらは汝らの居らぬを補ひたればなり。

彼らは我が心と汝らの心とを安んじたり、斯くのどとき者を認めよ。

アジヤの諸教會なんぢらに安否を問ふ。アクラとプリスカ及びその家の教會、主に在りて懇ろに汝らに安否を問ふ。

すべての兄弟なんぢらに安否を問ふ。なんぢら潔き接吻をもて互に安否を問へ。

我パウロ自筆をもて汝らに安否を問ふ。

もし人、主を愛せずば詛はるべし、我らの主きたり給ふ。

願はくは主イエスの恩惠なんぢらと偕にあらんことを。

わが愛はキリスト・イエスに在りて汝等すべての者とともに在るなり。