埃及マカリイ全書/第三十六講話

第三十六講話

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<< 霊魂たましひ身体からだよう復活ふくかつおよ復活ふくかつせしもの光栄こうえいどうなること。 >>

一、 ほろぼされたる霊魂たましひ復活ふくかついまなほこれあれども、身体からだ復活ふくかつにこそあるなれ。さりながらてんさだめられたるほしはみなみな一様いちようにあらずして、光明こうめいもつてもおほきさをもつてもたがひにことなるあり。かくのごと同一どういつしんもつてする霊神的れいしんてきしんすにおいても、しんりょうにしたがひ、いつすればさらみてあらはるるなり。聖書せいしょにいへり、『方言ほうげんものかみしんもつふ』と〔コリンフ前十四の二〕。さればかれかみかたりて、しんぞくするなり。しかれども『げんするもの教会きょうかいとくつ』〔同上四〕、これぶん恩寵おんちょうゆうするなり。けだし前者ぜんしゃはただみづかおのれとくつるのみなれども、後者こうしゃおのれをもひとをもつ、すなはちにまかれたる麦粒むぎつぶごとく、いつ中心ちゅうしんよりおほくのおなじからざるつぶだすなり。かつそのいつおほいにして、いつしょうなれども、みないつ納屋なやいつ穀倉こくぐらおさめらるべくして、おのおのおなじからずといへども、これによりていつぱん製造せいぞうせらるるなり。

二、 あるひはまちおほくの人民じんみんあるがごとし、其中そのうちいつしょうなるどうにして、壮者そうしゃたり、また青年せいねんたらん、しかれどもみないついづみよりみづみ、ひとつぱんくらひて、ひとつくうをおのれにゆうするなり、あるひは燈火ともしびおもふべし、いつは二しょくゆうしては七しょくゆうするならば、こはそのひかりさらさかんにしてかれべつらん、かくのごとひかりうちもの暗中あんちゅうるあたはずといへども、かれあひだにはだいなる差異さいあり。もしたれちちとして二人ふたりゆうせんには、いつ幼者ようしゃにして、青年せいねんならば、青年せいねんはこれをまちまたぐんにつかはせども、どうをば何處いづこにもみづからともなはん、なんとなればいまだなにすあたはざればなり。かみ光栄こうえいす。アミン。