<< 霊魂と身体と二様の復活、及び復活せし者の光栄の不同なる事。 >>
一、 滅されたる霊魂の復活は今も猶これあれども、身体の復活は彼の日にこそあるなれ。さりながら天に奠められたる星はみなみな一様にあらずして、光明を以ても大さを以てもたがひに異なるあり。かくの如く同一の神を以てする霊神的進歩を為すに於ても、信の量にしたがひ、一は他に比すれば更に富みてあらはるるなり。聖書にいへり、『方言を言ふ者は神の神を以て言ふ』と〔コリンフ前十四の二〕。されば彼は神と語りて、神に属するなり。然れども『預言する者は教会の徳を建つ』〔同上四〕、これ餘分の恩寵を有するなり。けだし前者はただ自ら己の徳を建つるのみなれども、後者は己をも人をも建つ、是れ即地にまかれたる麦粒の如く、一の中心より多くの同じからざる粒を出だすなり。且其穂も一は大にして、一は小なれども、みな一の納屋と一の穀倉に納めらるべくして、おのおの同じからずといへども、これによりて一の餅は製造せらるるなり。
二、 あるひは市に多くの人民あるがごとし、其中一は小なる児童にして、他は壮者たり、又は青年たらん、しかれども皆一の泉より水を飲み、一の餅を食ひて、一の空気をおのれに有するなり、あるひは燈火を想ふべし、一は二燭を有して他は七燭を有するならば、こは其光更に盛にして彼は別に照らん、かくの如く火と光の中に在る者等も暗中に在るあたはずといへども、彼等の間には大なる差異あり。もし誰か父として二人の子を有せんには、一は幼者にして、他は青年ならば、青年はこれを市又は郡につかはせども、児童をば何處にも自から伴はん、何となればいまだ何も為すあたはざればなり。神に光栄は帰す。アミン。