イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書
清醒の事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教
四十一、 雨は多量に地に降る程ます〳〵地を軟ぐるが如く我が大声に呼ぶ所のハリストスの聖なる名も其のしば〳〵呼ばるゝ程我等が心の田を喜ばしめ且楽ましめん。
四十二、 不鍛錬なる者は宜く知るべし体の肥大にして智の地に俯く所の我等にして夫の無形にして見えざる我が敵、即悪を欲して巧みに怒らしめ敏捷軽易にしてアダム以来今日に至る迄世々戦に老練したる者に勝を得んにはたゞ心の不断の清醒とイイスス ハリストス我等の神及び造物主を呼ぶの外他方あるなきことを。願くはイイスス ハリストスの祈祷は未熟者の為めに善を試み且これを知るの誘導とならんことを、さて練達者の為めには善に於る最良の手段と師は是れ即ち実行と実地に試むること平安となり〈偽らざる平安を心神に與ふる所のものはいかに苦しからんも幸なり〉。
四十三、 幼弱にして多くは無悪なる小児は他の何なりと幻術を行ふを見て面白きものと思ひ己の無悪の為め此の妖人に跟随ふが如く我等が霊魂も純朴なる且は善なるものたりつゝ〈けだし自己の至善なる主宰により此の如くに造られたりき〉想像に現出したる所の悪魔の附着を見て楽しき者となしこれに眩惑せられて其の悪なるものに趣くこと善なる者に向ふが如く、其の悪魔の附着をもて想像に入るゝ所のものは美人の容顔たると将た又他のハリストスの誡命にて全く禁ぜられしものたるとを問はず自己の思念をもてこれと融和するなり、其より霊魂は遂にこれを渇望するに至り其の現出したる所の美が勷込みし所のものを実地に導かんことを謀りて既に工夫を凝すものゝ如し、然して終に其の思念と結合して〈内部に於て同意し罪に傾きて〉霊魂は最早其の想像に画きし所のもの〈既に編成し且全備したる所のもの〉を身体に頼り実行に導びきて思には不法を充たし己れに罪を定むるに至るなり。
四十四、 悪者の狡計はかくの如くして彼はかくの如き箭をもて刺して其の毒を人々の霊魂に充たしむるなり。故に智識が戦にます〳〵経験を得るに先たちて思念をして我等の心に放入せしむること危険なくんばあらず、況して我等の霊魂が尚魔鬼の附着に同感しこれと同く楽み好んでこれに追跡するの始めに於てをや、されば苟しこれを識認するあるや直ちに其の侵入又は附着の時に於てこれを絶つべし。されば智識が此の奇異なる行為に長く留まりて教誨せらるゝ所ある時はすべてを探訪せざるなく作戦に習ふことを得ん、よりて確実にこれを弁識して預言者のいふ如く小狐〔雅歌二の十五〕を能く易すく捕ふるを得ん、其時は彼等を放ち入らしめ事情を識知すると共に証責することをも得るなり。
四十五、 一の管に依りて火と水とを一所に通過せしむる能はざるが如く悪者の附着の想像をもて先づ心の門を屡々叩くことあらずんば心に罪を入らしむること能はざるべし。
四十六、 第一は附着なり、第二は連合なり、即ち我等の思念と悪鬼の思念と融合するなり、第三は共謀なり、これ二つの思念が共に悪に対し同く相談して其の如何に為すべきを互に決するの時にあり、さて第四は物欲の行為なり即ち罪なり。故にもし智識が清醒して己れに注意するとこれに抗逆すると主イイススを呼ぶとによりて附着を其の入来の始めに逐ふある時は常に其れに附随ふものは最早一も出来らざるべし、けだし悪者は無形体の智なれば霊魂を誘惑するを得るもこれに思念を入るゝを以てするに外ならざればなり。されば太闢は附着の事をいへり、曰く『朝に地のすべての悪者を滅す』〔聖詠百の八〕。又大なるモイセイも共謀の事をいふあり曰く『彼等と交通せざるべし』〔出埃及記廿三の三十二〕。
四十七、 戦に於て智は智と結ばん、即ち悪魔の智は我の智と結ばん。故に毎時毎刻心の深きよりハリストスを呼ばんことを要す、願くばハリストスは仁慈者なるにより悪魔の智を焼かん願くは休徴と勝利の光栄とを我等に賜はらん。
四十八、 願くは鏡を手に持ちて外よりこれを照らすものは汝の為めに中心の静黙の標準とならんことを、其時は汝ぢ悪なるものも善なるものも想像によりて汝の心にいかに銘記せらるゝを見ん。
四十九、 無言的なると頌すべきとに論なくいかなる思念をも決して己の心に有せざらんやうに常に注意すべし、これかくの如くにして汝ぢ異人種即ち埃及の長子を探知するに便ならんが為めなり。
五十、 ハリストス神や汝に善く管理せられ人間の霊智と大なる謙遜とにて励まさるゝ清醒の徳はいくばく善にして且快なるや、清明にして且甘美なるや。全く善良明瞭にして且美麗なるや、けだし彼は其の枝を冥想の海と其の深きとに及ぼすべく其の芽を甘美なる神の奥密の河に達せしむべく、死を致すべき魔鬼の悪念と肉の狂暴なる智慧の斥鹵の為に無法をもて往昔より焼かるゝ智識を潤すべければなり〈灌ぎ且新にすべければなり〉。
五十一、 清醒はイアコフの梯子の如く其の頂上に神がましまして神使等これによりて昇降せんとす、彼は悉くの悪を我等より奪ひ多言と悪言と讒言とを絶つべし、又五官を楽ましむる邪悪の書券をすべて入らしめずしてこれが為めに暫時たりとも清醒の固有なる滋味の減少或は廃絶するを許さざるを致すなり。
五十二、 吾が兄弟よ是れ此の清醒を大なる熱心にて学ばん。されどもハリストス イイススに於るの清思純想をもてこれを観るに高飛して己の罪と己が以前の行とを視ることをも守らん、これ己の罪を記憶するによりて傷心悲嘆しつゝ我等が心中の戦に於て我等の神イイスス ハリストスの助けを得んが為なり。けだし我等は驕傲或は自負或は自愛心の為めにイイススの助を奪はるゝやこれと併せて心の清きをも奪はるべければなり。人は心の清きにより神を識るを得べし、蓋し許約に依るに〔馬太五の八〕前者は後者の源因なればなり〈心の清きは神を識るの源因なり〉。
五十三、 己の秘密なる行為の事と又此の行為を間断なく守るによりて生ずる所の他の幸福の事とを等閑視せざるの智識は身体の五官をして外より来る所の罪誘の助力者たらざらしむることをも得ん。彼は其の徳行即ち清醒に全く注意し善なる思念にて常に楽まんを欲して五官をして物体上又は虚幻なる思念の途により内に入りてこれを竊去らしめざるなり、且彼は五官によりいかなる誘惑の不意に起らんことを知り大に尽力して内よりこれを止めんとす。
五十四、 智識の注意を専ら守るべし、さらば誘惑に困められざらん。又該處より遠ざかりつゝ来る所のものを忍耐すべし。
五十五、 苦薬は食欲を失ひて食を厭ふを感ずる者の為めに益ある如く災患は悪性質なる者の為めに益あり。
五十六、 もし不幸にかゝるを欲せずんば悪を為すをも欲するなかれ、何となれば前者は後者に離れずして随ふべければなり。
五十七、 智識は左の三欲にて盲まされん、――好貨、自慢及び嗜甘是なり。
五十八、 認識と信仰とは我が天性の学友たり、我等は他の物によりて弱らず彼等によりて弱りぬ〈痩せたり〉。
五十九、 憤懣、忿怒、闘争及び殺人、此等によりて其他の欲の総目は人々に於て極めて強くならん。
六十、 真理を知らざる者は真実に信ずることも能はざるなり、何となれば知識は天然に信仰に先だてばなり。さて聖書に言ふ所のものはたゞ我等の知らんが為に言ふにあらずしてそを行はんが為めなり。
六十一、 されば我等は行ふより始めん。斯の如くならば漸々進歩して神を希望することも堅き信仰も内部の認識も誘惑より救はるゝことも恩寵の賜と中心の痛悔も富める涙も信ずる者に祈祷によりて與へらるゝを見ん、而してたゞに此れのみにあらず来る所の傷心事を忍耐することも近者に誠実より赦すことも霊神上の法を了會することも神の義を獲ることも聖神に感ずることも霊神上の宝を與へらるゝこともすべて神が此処にも来世にも信者に約し給へる所の事も與へらるべし。単にこれを言へば神の恩寵をもて信仰により人が〈自分の方より〉智と心とをもて深き謙遜と放心せざるの祈祷とを専ら守る時の如く霊魂の為めに神の像に依りて存するものとしてあらはるゝこと能はざるなり。
六十二、 真に大なる善を我等は実験によりてうけたりき、即ち誰か己の心を清うせんを願はゞ心中の敵に対して主イイススを不断に呼ぶを要する事是れなり。そも〳〵我が実験によりていふ所の言は聖書の証といかに符合するを見るべし。聖書にいへらく『「イズライリ」よ汝が主神の名を呼ぶの備をなせ』〔アモス四の十二〕。又使徒もいへり『断えず祈祷すべし』〔ソルン前五の十七〕。且我等の主も語ていへらく『我を離るゝ時は何も行ふこと能はず。人もし我れに居り我れ彼れに居る者は多くの実を結ぶべし。人もし我れに居らざれば離れたる枝の如く外に棄てられて枯るなり』〔イオアン十五の五、六〕。大なる善は祈祷なり。これ己れに諸善を兼有するものにして其の心を清うするの如何に依りて信者の為めに神は見らるゝなり。
六十三、 けだし謙遜の宝蔵は我等にある所のもろ〳〵の悪とすべて神の憎む所のものとを滅すの力を自ら己れに有し大なるものを生ずべくして神の愛し給ふものなるが故に容易く得らるゝものにあらざるなり。汝は一個の人に於て許多の徳行の或る特殊の行実を発見せんことけだし容易からん、されども彼れに於て謙遜の芳香を捜してこれを見着けんことは恐らくは能はざるべし。故に此の宝蔵を得んが為めには注意と尽力とを多く要するなり。聖書に魔鬼を不潔と名づくるも彼が此の謙遜の善なる宝蔵を最初より斥けて驕傲を愛したるによるなり。けだし全く非物質にして形体なく四肢の合成をなさゞる所の霊物はいかなる身体上の不潔を遂げ得て其が為めに汚者と名づけらるゝに至るべきにや。これ彼れの不潔と名づけられしは驕傲の為めにして潔白光明の神使より汚者の名を下されしものなること明なり。『すべて心に高ぶる者は神の前に不潔なり』〔箴言十六の五〕。聖書を按ずるに初先第一の罪は驕傲なり、〔シラフ十の十五〕。そもファラオンのいふ所を見よ、いはく『我れ汝の神を識らず又「イズライリ」を放ち去らしめず』と〔出埃及記五の二〕。
六十四、 我等自ら己の救の事を等閑に付せずんば謙遜の善徳を求め得べき所の智識の働は多くあるべし、例へば言と行と思とにて犯せる罪の記憶と其他思弁上にあらはるゝ許多の事は大に謙遜に助くるなり。又誰か近者の徳行を断えず心に往来せしめ己を他と比較して近者の他の天然の卓越を称揚する時はこれ亦真実の謙遜を印せしむるなり。かくの如く己の悪なることと己が兄弟の完全より幾ばく懸隔することとを己の智識に於て明に見ば人は自然に己を塵灰と為すべく人にあらずして或る犬なりとさへ思ふに至らん、何となれば地上に存するすべての有智なる造物より全く懸隔し其の悉くの者より乏しく且貧なればなり。
六十五、 ハリストスの口にして教会の柱なる我等が大神父ワシリイのいへるあり罪を犯すも他日再び同行為に陥らざらんと欲せば此れが為め其の日の終りに於て自己とすべて自己に属する所のものとを良心の裁判に付し我等何に於て失脚したるか又何に於て正しく行為したるかを見んこと最益ありと。約百も自己に関係し又其の諸児に関係してかくの如く行為したりき。此の日々の答責は我等を照明していづれの時にも當然に行為すべきことを教ふるなり。
六十六、 又他の神智を得たる人のいへらく『豊饒の始めは花なり、然して勤勉なる生活の始は節制なり』と。されば節制を自得せん、且や諸神父の教ふるが如く尺度と秤量とをもて毎日十二時間を智識の守りに於て経過せん。かく行為しつゝ我等はかくの如く自ら強むるによりて神の助けをもて己れに悪を消滅し且減少するを得べし。けだし徳行の生活は要用にしてこれが為め天国を與へらるべければなり。
六十七、 認識に至るの途は無欲と謙遜なり、これなくんば誰も主を見ざらん。
六十八、 己の内部に間断なく深く止まりて彼処に常に旋転するものは正しく推理するなり、たゞにこれのみならず彼は更に直覚に入り神学に通じ而して祈祷せん。これぞ即ち使徒がいふ所のものなる、曰く〔『〕神によりてあゆむべしさらば肉の慾を成すなからん』〔ガラティヤ五の十六〕。
六十九、 属神の途によりて行くを能くせざるものは欲念の為めに慮るあらずして全くたゞ身体の為めに占有せられ或は腹を悦ばして放蕩し或は自ら哀み自ら怒り且怨みてこれにより己の智識を昏ますべく或は分に過ぎたるの功労を始め思想を乱して意味なきものとなさん。
七十、 此世に属するもの、即妻、財産及び其他のものを棄てし者はたゞ外部の人を修道者となしたるのみにて内部の人は尚未だし。されども誰か欲念と此の後者即才智を棄てたる者は是れ眞の修道者なり。もし欲するあらば外部の人を修道者となさんことは容易なり。されども内部の人を修道者となさんことは小なる功労にあらず。
七十一、 誰か此の世に於て欲念より全く自由を得て潔白なる且非物体なる間断なき祈祷を賜はりしものやある、これぞ即ち内部の人の表徴なる。
七十二、 我等が心底には多くの欲の隠るゝあり、されども自らこれを証責するはたゞ其の欲の原因が目前に現はるゝ時にあるのみ。
七十三、 身体上の練習に全く占有せらるゝなかれ、身体の為めには力に応ずるの苦行を定めて総ての智識を内部に向はしめよ、曰く『身体の練習は汝等に益少なし、されども敬虔はすべてに益あり』〔ティモフェイ前書四の八〕。
七十四、 欲の休して働かざる時に〈たゞ或は欲の原因の絶たれたるにより或は魔鬼が狡猾にして退きたるにより欲の働かざる時に〉驕傲生ず。
七十五、 謙遜と不幸〈苦行者身体上の剥奪〉は人をすべての罪より解脱せしむるなり、彼は心の欲を絶ち、此は身の欲を絶つなり。故に主はいへらく『心の清き者は福なり彼は神を見んとすればなり』〔馬太五の八〕愛と節制をもて己を清むる時は神と神に存するの宝とを見ん、況していよ〳〵清めらるゝ時はいよ〳〵これを見ん。
七十六、 すべて徳行の事の説話を熟察する〈理会する〉は智識の守りなる〈與ふる〉こと往昔太闢の守望者〈サムイル後書十八―廿四〉が心の割礼を預示したる如くなるべし。
七十七、 物体上有害なるものを見て傷はるゝが如く思想に属するものに関してもかくの如くなるべし。
七十八、 植物の心を傷ひし者はそのすべてを疲らすが如く人心につきても亦同く然るを識るべし。時々刻々に注意すべし、何となれば掠奪者は欠伸せざればなり。
七十九、 主はすべての誡命の義務的なることと又義子となることとは主の真血により人類に賜はりしものなることとを示さんと欲していへらく『すべて汝等に命ぜられしものを行ひし時もいふべし無益の僕たり行ふべき所を行ひしのみ』と〔ルカ十七の十〕。故に天国は功の為めの報酬にあらずして忠義の僕に備へられたる主宰の賜なり。僕は自由を報酬の如くに促さゞるなり、然るに〈これをうくれば〉負債者として感謝すべく〈受けずんば〉矜恤としてこれを待たん。
八十、 聖書に拠るにハリストスは我等が罪の為めに死し而して善く彼れに事ふる所の僕に自由を賜ふなり、けだしいふあり、曰く『美なるかな善にして且忠なる僕よ汝ぢ小なるものに於て忠なり大なる者の上に立てんとす、汝が主の喜びにすゝむべし』〔馬太廿五の廿一〕。然れども忠僕とは惟知る〈僕の本分を〉にのみ依頼する者をいふあらずして誡命を與へたるハリストスに従順にして忠義を表はす者を謂ふなり。
八十一、 己の主人を尊敬する者は己れに命ぜられし所のものを自ら過ち或は違背して行ふある時はこれが為めに己れに何事の生ずるあらんも當然としてそれを忍耐せん。智識を得るを好む者となりつゝ併て労を好む者となれ、けだし一の裸体なる智識は人を燻黒〈すゝけらかす〉ならしむればなり。
八十二、 我等に期せずして起る所の誘惑は愛労者となるべきことを〈即ち誡命を行ふに〉親切に我等に教ふるなり。
八十三、 星に附属するものは其の周囲をめぐる所の光なり、然して敬虔にして神を畏るゝ者に附属するものは極貧と謙遜なり、何となればハリストスの門徒の判然明白なる表徴となるべきに定められたるは他にあらずして謙遜なる智慧と自卑なる形状となればなり。四の福音書は此事を大声に宣言す。さればかくの如くならざる者、即ち謙遜にして生活せざる者は彼の十字架に苦をうけ死に至る迄己を謙遜して神の福音の実験的立法者たる所の者〈福音経にしるされたる行為と生活とにて我等の為めに義務たる誡命を証示したる者〉に於るの分を奪はるゝなり。
八十四、 預言者いへらく『渇する者は来りて水に就け』〔イサイヤ五十五の一〕と、神に渇する者は来りて智と心の潔浄に就くべし。されどもこれを過ぎて高く飛揚するものは眼を転じて其の極貧の地に向はしむべし。謙遜なる者より高きはあらじ。光の無き処にはすべて黒暗々たるが如く謙遜無き時にも我等が神の為めに勉励する労苦は悉く虚にして無結果たらん。
八十五、 『凡て言の結局する所を聴くべし、曰く神を畏れて其の誡を守るべし』〔傳道書十二の十三〕即ち思想上に於ても感覚上に於ても守るべし。もし思想上に於て己をこれを守るに強ふる時は感覚上に於てもその労の為めに乏きを有すること少なからん。太闢いへらく『我れ汝の旨を行ふを望む汝の法は我が心にあり』〔聖詠三十九の九〕。
八十六、 もし人は神の旨と其の法とを腹中即ち心中に行ふあらずんば外部に於ても容易すくこれを行ふ能はざるべし。
八十七、 物体上の塩は餅とこと〴〵くの食物を賞翫すべからしめ肉の腐敗を防ぎて長くこれを保全するが如く思想上の滋味と奇異なる〈心中にある〉働きとを智識にて守るの事もそれに準じて知るべし。けだし彼は内部の人をも外部の人をも神妙に楽ましめ悪念の臭気を逐ひ我等を守りて善に恒固ならしむるなり。
八十八、 附着によりて夥多の思念を生ずべく又此の思念によりて五官を楽ましむるの悪行を生ずべし。イイススと共に前者を直ちに打消す者は後者をも遁れん、而して彼は極めて甘美なる識神の認識に富み在る所として神を見ざる無けん、且心の鏡を神に対立せしめて神に光照せらるゝこと恰も太陽に向つて立つる所の清浄なる(王皮)璃の如くならん。其時智識は終に其希望の最後の域に達して他の己れに於るもろ〳〵の観察より休するなり。
八十九、 けだしもろ〳〵の思念は想像によりて何か物体に属するものを心に入るゝ〈物体に属する者を智識に属する者に混ずる〉ものなるが故に神性の有福なる光の智識を照らし始まるは智識がすべての物より空くなりて全く無様なるものとなる〈何等の形状象様もあらはさゞるものとなる〉の時にあり。けだし此の光明はもろ〳〵の思念の衰弱したるを條件として最早潔浄なる智識に現はるゝなり。
九十、 儆醒して智識に注意する程いよ〳〵熱切なる希望をもてイイススに祈祷すべく而して復た智識を等閑に監督するだけイイススよります〳〵遠ざかるべし。前者は智識の空気を烈しく照らすが如く後者は儆醒してイイススを極めて愉快に呼ぶより離れしむべく常に智識を全く暗まさん。此事の我等いひしが如くなるべきは自然の理なり、然らずんば此事はあらざらん。これ汝ぢ実際に事を試むるの時経験によりて識らるゝなり。けだし徳行と又特にかくの如く光明赫奕として極て愉快なる行為は常に経験を以てせずしては学び知る能はざるなり。