イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書
清醒の事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教
九十一、 愉快と喜びとを満つる所の或る熱心なる希望をもてイイススを間断なく呼ぶは極致の注意によりて心の空気が喜ばしき安静に充たさるゝを生ぜしむべし。されば心の全く清められんが為に原因者となるべきはイイスス ハリストス神の子及びすべて善なる者の原因者たる造物主なり。けだし彼は自らいへらく『我は神、和平を造る』〔イサイヤ四十五の七〕。
九十二、 霊魂はイイススをもて恩を施され且楽ましめられつゝ或る喜びと愛とにより表信をもて恩恵に報ゆるあるべくして其の講和者に感謝すると共に最虔恭なる精神をもて呼びつゝあらん。けだし、主が悪鬼の妄想をいかに逐ふを己の内部に於て聡明に見んとすればなり。
九十三、 太闢はいへらく『我が智識の目は我が心中の敵を見、我が耳は起ちて我を攻むる悪者のことをきく』〔聖詠九十一の十二〕又我は神によりて我が中に成る所のものに於て『悪者の報を見たり』〔聖詠九十の八〕。心に何等の妄想もあらざる時は智識はもろ〳〵霊神的なる且愛神的なる極めて甘美なる直覚に進められつゝ其の天然の順序を守るなり。
九十四、 かくの如くなれば我等が既にいひし如く清醒とイイススの祈祷とは互に交々其の成分に入るべし、即ち極致の注意は不断の祈祷の成分に入るべくして祈祷は復た智識に於る極致の清醒と注意の成分に入るべし。
九十五、 身体の為めにも心霊の為にも善良なる教育者は即ち死を念ふ不断なる記憶是なり即ちすべて其の中間にある所のもの〈即ち現時と死時との中間にある所のもの〉を越えて常に死を看破する〈己の目前に見る〉と我が魂なき体の横るべき臥床を見る是なり云々。
九十六、 兄弟よ傷つけらるゝ能はざるものとなりて常に止まらんと欲する者は睡眠に耽るべからず。けだし左の二者の中其の一は必ず無るべからざればなり、即ち或は徳行より裸体となり斃れて死するか或は智識に於て常に武装して立たん〈警衛に〉、けだし敵も其の武備を具へて常に立たんとすればなり〈埋伏しつゝあるなり〉。
九十七、 智識に於て神出なる或る情況は我等が主イイスス ハリストスを間断なく記憶し且これを呼ぶによりて生ずべし、たゞ智識に於て始終主に祈願するの事と間断なき清醒の事及び一の切迫緊要なる事件の事を等閑にするなくんば可なり。真に同一様の方法をもて行はるゝ所の行を我等常に有せんを要す是れ即ち我等が主イイスス ハリストスを呼ぶことにして我等は心を燃して彼を呼ばん、願くは彼れ我等に共に交通して我等に其の聖名を玩味せしめんことを〈其名の心に沁入せんが為めに〉。けだし数々するは〈同じき事をしば〳〵反復するは〉徳行につきても邪悪につきても習慣の母にして習慣は其後最早天性の如くに主権を有すべければなり。かくのごとき情況に至れば智識は自ら既に己の敵を尋ぬること猶猟犬の兎を叢中に尋ぬるが如くなるべし、たゞ彼は貪食せんが為めに尋ぬ此れは打ち且逐はんが為めに尋ねんのみ。
九十八、 ゆゑに我等に悪念の増殖するあらん時は毎次我等が主イイスス ハリストスを呼んでこれを其の中間に投ずべし、さらば彼等の散ずること実験が吾等に教ふる如く烟の空中に散ずる如くなるを我等直ちに見るあらんとす。此の後智識がひとり留まる〈攪す所の思念なくして〉時に再び間断なき注意と呼祈とをなさん。我等はかくの如き誘惑をうくるや毎次かくの如くに行為せん。
九十九、 裸体にして出て戦ふ能はざるが如く或は衣服のまゝにて大海を游渡り又は呼吸せずに生活する能はざるが如くかくの如く謙遜とハリストスに間断なく祈願することなしに心中秘密の戦を始め巧みに敵を逐ひ散らすこと能はざるなり。
百、 事に最老練なる大なる太闢は主につげていへらく『我の力を汝に守る』〔聖詠五十八の十〕〈汝に趨付きて〉と、けだしすべての徳行の由て以て生ずべき所の心と思の静黙の力を我に守るは我等に誡命を與へたる主の助けにかゝるべくして我等間断なく主に呼ぶ時は夫の心の静黙を特に害せんとする不用なる遺忘を我等より逐去ること猶水の火に於るが如くなるべければなり。故に修道士は己の死〈及び滅び〉を等閑視して睡眠に耽るなかれ尚イイススの名をもて敵を打つべし、そも此の最も甘美なる名は一智者のいひし如く汝の呼吸に貼くべし、さらば其時汝は静黙の益を覚えん。
百一、 我等當らざる者といへども畏れ戦きてハリストス神我等が王の神妙至潔なる機密に與かるを賜はる時は清醒と智識の守りと厳重なる注意とを大にあらはさん、願くは此の神霊の火、即ち我等が主イイスス ハリストスの体は我等の罪と我等の――小となく大となく――汚穢を亡さん。けだし彼れの我等に入るや直ちに悪鬼の怨恨を心より逐ひ曾て犯したる罪を我等に赦すべくして我等が智識は其時悪念の騒がしき窘辱より免れ自由にして存せん。もし此の後心の門に立ちて己が智識を勉めて守るあらば再び聖機密をうくる時神の体はます〳〵我が智識を照らして星の如く光り輝くものとなさん。
百二、 遺忘は常に智識の守りを消すこと水の火を消すが如し。然れども間断なきイイススの祈祷と撓まざる清醒とは終に遺忘を心より蒸散せしむべし。祈祷の清醒に須つあるは猶小神燈の蝋燭の光りに須つが如し〈或は神燈の蝋燭の如く燃ゆる為めに風無きに於けるが如し〉。
百三、 貴重なる所の者を守らんことを劬労して心に掛くべし、我等の為めに真に貴重なるものはたゞ我等を感覚上となく思想上となくすべての悪より守る所のものなり。こは即ちイイスス ハリストスを呼ぶによりて智識を守ること是なり、即ち常に心の深きを察し思を間断なく静黙ならしめ且其の是なるが如くに見ゆる所の思念よりさへ静黙ならしめてすべてもろ〳〵の思念より虚しからんことを尽力し其の下底に盗の隠るゝあらしめざるを致すこと是なり。さりながらたとひ我等は忍耐して心を守りつゝ劬労するありといへども慰は近きにあり。
百四、 黒暗にして姦悪なる魔鬼の形状象様及び妄想を入らしめずして間断なく守らるゝ心は常に己れより光の如くなる思念を生ずるなり。けだし炭の火焔を生ずる如く聖なる洗礼によりて我等が心に住り給ふの神ももし我等の心の空気が怨恨の風より清まり智識の番兵にて守らるゝを見るあらば、豈我等の智識を直覚に燃着せしめざらんや。
百五、 我等が心の空間にイイスス ハリストスの名の常に旋転すること猶雨ならんとするに先だちて電光の空間に閃転するが如くなるべし。内部の戦に於て霊神上の実験有る者はこれを善く知るなり。此の心中の作戦は亦猶尋常の作戦とひとしかるべし。第一は注意なり、次は敵の思念の近づきしを認る時に心より詛の言を発し怒りてこれに投ずべし、それより第三は心をイイスス ハリストスを呼ぶに向はしめ彼れに対し祈祷して此の魔鬼の幻像の直ちに離散せんことを願ふべし、然らずんば智識は此の妄想の跡を追ふこと猶或る巧みなる戯術者〈てづまつかひ〉に眩惑せらるゝ小児の如くならん。
百六、 我等も己れを祈祷に労らして太闢の如く呼ぶを致さん、曰く主イイスス ハリストスや我等の喉を嗄らさしめよ〈嗄れて声を失す〉されど願くは慧々たる目は『我が主神を望むによりて』疲れざらんことを〔聖詠六十八の四〕。
百七、 常に祈祷して倦まざるべきことを我等に教へん為めに主のまうけ給へる不義なる裁判者の譬を常に記憶して〈而して譬の如く行為して〉利益と報酬とを得ん。
百八、 太陽を熟視する者は其の双瞳太だ晃かざること能はざるが如く心の空気を常に俯視する者も光らざること能はず。
百九、 食と飲となくんば現在生活するあたはざるが如く智の守りと心の潔きとなくんば、即ち所謂清醒なくんば無形にして神に悦ばるゝ所の者を心に與ふること能はず、将たたとひ誰か苦を畏るゝの畏惧により強て己をして〈実際上〉罪を犯さゞらしむるとも心中の罪より救はるゝ能はざるなり。
百十、 さりながら己を罪の実行より強ゐて禁ずる所の者も神と神使と人々の前に福なり、何となれば彼等は『力をもて天国を奪ふものなればなり』〔馬太十一の十二〕。
百十一、 是れぞ智識の為めに静黙より生ずる所の奇異の結果なる、最初に智識をたゞ思念にて叩く所の罪も思想にて接くるあるや其後五官に属する粗大の罪とならん、此等は皆我が内部の人に於て心中清醒の徳行により截断せらるべし、此の徳行は我等が主イイスス ハリストスの手号と代贖とにより彼等をして内部に入り出でて悪行とならしむるを許さゞるなり。
百十二、 外部五官に属する所の身体上功労の模範は旧約なり、されども新約に属する聖なる福音は省察或は心の清潔の模範なり。そも〳〵旧約は人を導きて完全に至らしめず内部の人を神に悦ばるゝの行に於て満足せしめず又保証せざりき、使徒いへらく『律法は一も完全なるなし』〔エウレイ七の十九〕たゞ粗大の罪を杜絶したるのみなりき、〈心の清潔を守るが為めにあしき念慮と望みとを心より断つはこれ福音の誡にして彼の例へば近者に目又は歯を奪ふを禁ずるよりはさらに高尚なり〉かゝれば身体上の義なることも身体上の功労の事もこれに順じて知るべし、例へば禁食及び節制の事、徹夜拝、不眠及び其他往々身体に関係して生ずる所のものと身体の欲に関係する部分を罪の発動より休せしむる所の者の如き是なり。これ皆旧約の事につきていはれたるが如く〈律法は善なりと〉固より善し、何となれば我等が外部の人を教ふる〈即ち保育〉と欲の行為より保護するとに資くればなり。されども此等の功労は心の罪より保護し又はこれを禁ずるものにあらず、即ち我等を猜みと怒り又は其他の罪より救ふの力あるにあらざるなり。
百十三、 されども心の清潔、即ち新約が模範たる所の智識の注意と保護とはもし我等に於て當然にこれを守るを得る時はあらゆる欲ともろ〳〵の悪とを心より絶ち其の根を心より抜きこれに代へて喜びと善き希望と痛悔と悲哀と涕泣と自ら己を識りて己の罪を認むると死の記憶と真の謙遜と神と人々に対する無量の愛と或る神出なる心中の悦楽とを入れんとす。
百十四、 地を行く所の者は此の空気を截らざること能はざるが如く人の心も魔鬼より断えず戦を挑まれざること能はず、将た誰か身体の苦行を厳に修むるありといへども魔鬼より来る所の隠れたる働きに属せざることあたはざるなり。
百十五、 もしたゞ外見上のみ善なる、且は常に神と体合するの修道士たらんを欲するにあらずして真に主の為めにかくの如きものたらんことを願はゞ省察の徳行を行ふに全力をあげて黽勉すべし、此の徳行は智識に注意してこれを守ると極めて甘美なる中心の静黙及び妄想を免れたる幸福なる性状を立つるとにあり、これ多くの人々に於て見ざる所の行なり。
百十六、 此の徳行は即思想の哲学と称さるゝなり。されば汝は大なる清醒と熱心とイイススの祈祷と謙遜と間断なきと感覚上及び思想上の口を禁ずると食と飲とを節するとすべて罪に属するものより遠ざかるとを以てこれを学ぶべく又思想の途すがら巧みに細心をもてこれを習はすべし、されば彼は神の助けによりて曾て想像せざりし所のものを汝に顕はして汝にこれを知らしめ汝を照明し汝の智慧を増すべくして夫の汝が遺忘と意思の混乱の淵に沈みて情欲と蒙昧なる行の暗中に彷徨するあるや汝の心に来る能はざりし所の者をも汝に教へんとす。
百十七、 山間の平地は麦を豊殖するが如く此の徳行は汝の心にもろ〳〵の善を豊産するなり、これを詳言すれば我等が主イイスス ハリストス、即ち彼れなくんば我等何も行ふ能はざる所の者は自づからこれを汝に與へん。されば汝は最初に此の徳行を階梯に於て発見すべく次は読まんとする所の書に於て発見すべく終りにはいよ〳〵上進してこれを天上のイェルサリム城にて発見せん、されば汝は能力の王なるイズライリのハリストスを其の同一体なる父及び崇拝せらるべき聖神と共に実に智識をもて観んとす。
百十八、 魔鬼は常に不実なる妄想をもて我等を罪に引入るゝなり。かくの如く彼は富みと利益の妄想により不幸なるイウダを煽動し彼をして万物の主及び神を売らしめたりき。魔鬼は此れに導びきつゝ夫の固より論ずるにも足らざる身の安楽の事と富と尊と栄の事の妄想をもて彼を囲みて其後彼れを縊れて死するに導き入れ永遠の死に服せしめたりき。狡猾なる魔鬼は其の妄想又は其の附着に於てあらはしたる所のものと全然反対なるものをもてイウダに報ゐたりき。
百十九、 視よ我等が救の敵は妄想と虚約とをもて我等をいかに擠陥するか。そも〳〵「サタナ」は自らも亦かくの如く神にひとしからんを妄想して天の高きより電の如くに隕ちたりき。かくの如く彼は其後アダムに神の事〈或る尊位の事〉の妄想を入れて彼を神より遠ざけ又此の詐偽悪猾なる敵はすべて罪を行ふ者をも常に此の如く誘惑するなり。
百二十、 我等が心は遺忘の故に漸く怠慢して省察とイイススの祈祷とより長く他に引誘し去らるゝや悪しき思念の毒により苦みに充たさるゝなり。されども属神の事を愛するに依り鞏固の熱心をもて我が思の製造所に於て〈心に於て〉前述の事〈即ち省察と祈祷〉を整然と行ひ始むる時は心は復び或る有福なる喜びをもて楽むの情により甘美を充たさるゝなり。其時に我等は中心の静黙に常に出入するの確たる志を定めんこれ他の故にあらず彼れによりて心中に感ぜらるゝ愉快なる滋味と喜悦との為めなり。
百二十一、 学問の学問、技芸の技芸は悪を為すの思念を治むるに通暁すること是なり。この思念に対する最良なる方法とこれが狡猾に勝つの最有望なるものとは其の附着の現はるゝを主によりて察見するにあり又其の思を常に潔く守ること身体の目を守るが如く鋭くこれを點撿して其のこれを傷ふべきものを近づかしめず微塵といへどもこれに入らしめざらんと百方尽力するにあり。
百廿二、 雪は火焔を発せず水は火を生ぜず荊棘は無花果を産せざるが如くかくの如く各人の心ももし其の内部にあるものを潔むるなく、清醒をイイススの祈祷と配合するなく、謙遜と心の静黙とを獲るなく、前進を急ぎて全くの熱心をもて進行するなくんば魔鬼の思と言と行とより免るゝを得ざるべし。己れに注意せざるの霊魂は善にして且無玷なる思念に対して必ず無結果たらんこと猶不生産なる驢馬に似たるあり、何となれば彼れに霊神上の智慧を会得するあらざればなり。真にイイススの名を呼んで欲念を止むるは心の平安を殖住せしむべき極て愉快なる行なり。
百廿三、 霊魂が身体と合同して器に入る時は彼等自慢の都と驕傲の塔と又これに居住するの不敬虔なる思念を建てん。然れども主は地獄の畏懼をもて彼等に擾乱を生ぜしめ彼等を分離せしめて主人たる霊魂に深く慮りて身体と疎遠なる且は反対なるものを言はしむるなり。此の畏懼と不和とによりて生ずるものは次の如し、曰く『肉の事を念ふは神にもとる、そは神の法に順はざればなり』〔ローマ八の七〕。
百廿四、 我等が日々に行ふ所の業事は時々これに注意を加へてこれを秤るべし、然して暮夜には必ず悔改をもて力に及ぶだけこれが重荷を弛うすべく、もし願はゞハリストスの助けにより己れに於て悪に克たんこと肝要なり。且我等はすべて己の五官に属する事と見ゆる事とを行ふは果して神に依るや、果して神の面前にあるや、果して独一の神の為めなるや否を點撿すべし、然らずんば無智の故に或る不良なる感覚をもて竊去らるゝを免れざらん。
百廿五、 もし我等は神の助をもて我等が清醒に由り何なりとも日々に得るあらば択ぶ所なしに人と交際を開くべからず、或る誘惑的の談話により損耗を被らざらんが為なり、且此の最愛すべく大に甘美なる徳行〈清醒の徳行〉の美にして且作善なるが為めにすべて虚幻なるものは殊に軽視すべし。
百廿六、 霊魂の三の力には我等其の天性に適順したる及び其のこれを造れる神の意思に符合したる正しき活動を與ふべし。即ち忿怒の力は我等外部の人に対し又蛇即ち「サタナ」に対して闘はしむべし。言ふあり『怒るも罪を犯すなかれ』〔聖詠四の五〕。これ即ち罪に対して怒るの謂にして自己に対し又悪魔に対して怒るも神に向つて罪を犯さゞらんやうにせよとなり。又希望の力は神と徳行とに向はしむべく而して思想の力は此等二者の上に立てゝ命令者とならしむべし是れ智慧と明断とをもて彼等を整理し彼等に瞭解せしめ且これを督責して王が僕の上に立ちて指揮する如く彼等を指揮せしめんが為めなり。然る時は我等に存する神に於るの霊智は彼等を治めん、〈即ち彼等の上に主たる時は〉たとひ諸慾は霊智に向つて背叛すといへども我等は霊智が彼等の統治者となりて止まらんを促して止まざるべし。けだし主の兄弟の言にいへらく『人もし言に於て〈即ち言に於て又霊智に於ての義なり〉愆なくばこれ全人たり而して全体に轡を置き得るなり』〔イアコフ三の二〕。実にいはんにすべての不法と罪悪とは此の三の力にて行為せらるべく、而してもろ〳〵の徳行と正義とは亦此の三の力にて成就せらるゝなり。
百廿七、 修道士たる者は或は人と世俗の事を談論し或は自ら心中に於て此事を言ひ或は其の身体は才智と共に或る五官に属するの事に徒らに占有せられ或は総て多忙の事に耽る時は智識は暗まりて無結果とならん。けだしかゝる場合に於ては直ちにこれに随て熱心も痛悔も神に対するの勇気も認識も〈神の秩序の認識と神の事の記憶なり、彼は神の事と秩序の事を忘るゝに至るなり〉失はんとすればなり。故に我等智識に注意する時は其丈智識は照明せらるべくこれに注意せざる時は亦其丈に暗くなるべし。