祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書 (4)

イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルあたふる書

清醒せいせいの事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教

百廿八、 智識が平安と静黙とにたわまず進向して熱心にこれを尋ぬる者はいたづらに労することをなさゞらんが為めにすべて五官に属するものをたやすく軽視せん。されどももし彼は何の偽智を以てか己の良心をあざむくあらば〈五官に属するものには一も恋々たらずといひて〉遺忘の不幸なる死にねんとす。神の太闢ダウィドはこれよりすくはれんことを祈りぬ、〈詩十二の四『我を死の寝りに寝ねざらしめ給へ』〉。而して使徒はいへらく『善を行ふことを知りて行はざるは罪なり』〔イアコフ四の十七〕。

百廿九、 されどもし直ちに奮起し熱心をもて智識〈清醒をつとむるの智識〉の不断なる実験を再び回復する時は智識は不注意よりして其の固有本来の秩序と清醒とに再び帰るあらんとす。

百三十、 磨車の驢は其のつながれつる範囲を脱するあたはず〈歩むも全く同一の処を歩むなり〉心も其の内部を善く整理せずんば完全に導く所の徳行〈清醒〉に前進せざるなり。此の徳行〈清醒の徳行〉ひか耀かがやく所のイイススを見るあたはざる者は内部の目の常に盲するなり。

百三十一、 善良なる駿馬は騎手を乗せて快馳す、されば智識ももろ〳〵の思念より免るゝをもて『朝に主の前に立ち』〔聖詠五の四〕主の光に於て愉快にたのしまん。彼は自ら奮熱して智識の実験的研鑽の力により進んで直覚と言ふべからざるの奥密と徳行との奇異なる力に入らん、然してつひに高尚神妙なる直覚の無量なる深きを己の心にうくるある時は心のめにれらるゝだけ彼れに諸神の神あらはれん聖詠八十三の八〕。此れをもて打たれたる智識は其時見らるゝと見るとの神を讃美するに於て及び彼れ此れの為めに其の想像の眼をかく神にむかはしむる所の者を救ふの神を讃美するに於て愛して為すあらんとす。

百三十二、 中心の静黙を聡明に持する者はおほいなる深きをん、而して静黙する所の智識の耳は神より奇異なるものをきかん。

百三十三、 旅行者は遠くして通過し易からざるの難き旅行を始めて帰路に迷はんを恐るゝや容易たやすく本路によりて帰るに助くべき所の枝折を途上に立つべし、然して清醒せいせいみちを進む所の人もまた自らおなじく恐れて〈途に迷ひあるいは後に却行せんを恐れて〉ことば〈諸神使よりきゝし所の〉立てん〈目標に〉

百三十四、 さりながら旅行者の為めに其のでし所のところに帰るは喜びの原因なれども清醒者の為めに後に帰るは聡明なる霊魂の滅亡にして神に悦ばるゝのおこないことばおもひとより退歩する兆候なり。されば彼は心霊上死すべき睡眠の時にあたおのが不注意の故によりていかなる深き黒暗と衰弱とに陥りしを自ら想起しとげの如くに己を提醒する〈睡眠より〉の思念を有すべし。

百三十五、 傷心の事と脱するの望みなきまぬかるべからざるの困窮に陥りしなば我等宜しく太闢ダウィドの為せる如く同じく為して我が心と我がいのを神の前に注ぎ我が哀みをあるがまゝに主に報ずべし〔聖詠百四十一の三〕。けだし我等はすべて我等に関するものをえいをもて建つるを能くする所の神に告白すべければなり、而してもし有益なる時は神は我等の艱難を容易たやすからしむべく〈忍耐しやすまぬかやすからしむべし〉我等を滅亡と破壊のかなしみより救ひ給はん。

百三十六、 人々に対し道理に依らずして動く所の怒りと神に依るにあらざるのかなしみと欝閉うつぺいとはれみなひとしく善良なるかつ聡明なる思念の為めに亡滅ぼうめつたるなり、されども主はわれが痛悔の為めにこれを離散せしめて喜びを殖住せん。

百三十七、 我等が意に反してあらはれ心に留在する所の思念は常にイイススの祈祷と清醒とによりて中心のおもひの深き処より消失せしむべし。

百三十八、 無言的思念の夥多かたなるによりて生ずる所の憂愁の軽減と喜悦とは我等たゞ真実と公平とをもて己を責むる時、あるいは又すべてを主につぐること人に告ぐる如くする時にこれを得ん。どうでも此の二〈の方法〉をもて我等はすべて〈擾乱する所の者〉より平安なるを得ん。

百三十九、 立法者モイセイは神父等の為めに智識の模型としてうけらるゝなり。彼は棘中に神を見て面のあたり頌揚せられ諸神の神により「ファラオン」に神の如く崇められ其後罰をもて埃及エジプトらし以色列イスラエルを導き出して律法をあたへたりき。これ皆心神に関係し転意をもて取らるべきものにして智識の働きと其のたくとをかたどるなり。

百四十、 されども立法者の兄弟なるアーロンは外部の人の模型となすべし。されば我等もいかりをもて〈外部の人〉を責めつゝ彼につぐることモイセイが罪を犯したるアーロンにつげしが如くせん、曰くイズライリは汝に如何なる不義をして汝は彼を主なる神全宰者より背く者とならしめたるかと〔出埃及記三十二の廿一〕。

百四十一、 他の善例の許多あまたある中に主がラザリを死より復活せしめつゝ示されしもの左の如し、即ち霊魂が婦女の如く孱弱せんじゃくなる欲に耽る時我等厳禁をもてこれをとどむべきことと又総て霊魂を自適自誇及び驕傲より救ふを能くすべきこくなる〈己れに対して〉品行〈自ら責むるをいふ〉を自ら立つるに尽力すべきこと是なり。

百四十二、 おほいなる船なくんば海の深潭しんたんを渡る能はざるが如くイイスス ハリストスを呼ぶ無くんば悪念の附着をあたはざるなり。

百四十三、 捍禦かんぎょは思念が遠く進行するのみちを常にぜつすべく呼祈イイスス ハリストスの名を呼ぶ〉は思念を心より駆逐すべし。もし或る五官に触るゝ物、たとへば我等を凌辱りょうじょくしたる人あるいは婦人の美又は金銀等の如きが我等の目前にあらはるゝにより心中に附着の形つくらるゝ時、或は此のすべてがたがいに我等の思念を見舞ふ時には我等の心が思念即ち懐恨かいこん或は淫慾或は利慾の念を遂げんとほつすることはおのづから明白にしてうたがひなかるべし。ゆゑにもし我等の智識が老練習熟して能く己を警戒し〈附着より〉悪者の誘惑する妄想と誑惑きょうわくとを日の如くあきらかに見るを得る時は直ちに捍禦かんぎょしてこれに抵抗するとイイスス ハリストスの祈祷とをもて容易たやすく魔鬼の火箭ひやを消滅すべくして妄想のあらはるゝや直ちにこれに尾して進向するを自ら己れに許さゞるべく又我等が思念に附着の幻像と同意することをも或はこれと好親談話することをも或は多端なるおもひ喧雑けんざつに乗じこれとあい合体がつたいして其後必然のいきおいにより悪行のきたらんこと夜の日にしたがふが如くなることをも許さゞるべし。

百四十四、 されどももし我等の智識が聡明なる清醒の事に未だ熟練するあらずんば其のあらはれたる附着の如何いかんを問はず直ちにへんの心をもてこれと連合して不適當のとひをうけ又は不適當のこたへあたへつゝ彼れと共に唔談を始むべし。其時は我等が思念は魔鬼の妄想と混合すべくして其混合によりて妄想は更にいよ〳〵蕃殖はんしょく増加すべしされば此の附着は其の誘はれてぬすられたる智識の為めに更に愛すべく更に美に且更に心を奪はるべきものゝ如くに見ゆるを致さん。事態此の如きに至らば我等の智識に於てあたかも左の事情に似たるもの成らん、即ちたとへば温柔なる羊仔を牧する所の或る原上に犬のあらはるゝありとせんに其の現はるゝや羊仔はこれにしば〳〵走り附くこと其の母に於けるが如くすべし而して其の近づくにより何の益をもうけずしてたゞ彼れより不潔と悪臭とを取るのみならん。実にこれと同様にてわれもろもろの思念もすべて我が智識に於ける魔鬼の妄想に愚にして走り附きて我がすでにいひし如くこれと混合せん而して彼れ此れ互に相商議すること恰も昔しアガメムノンメネライとがイリウポリ顚覆てんぷくせんことを商議したるが如くすべし、何となればもろもろの思念も魔鬼の誘惑の働きにより自分にかくの如く美に且愉快なりと見ゆる所のものを身体によりて実際に施さんに何を為して可なるべきかを共におなじく商議すればなり。かくて心霊の堕落はつひに内部に於て企てらるゝなり、其より後必然のいきおいにより彼処かしこに即ち心の内部に成熟せるものは最早もはや外部にも潰爛かいらんせん。

百四十五、 我等が智識は動き易く且は無悪なるものなり、もしの情欲に対して独裁君主の如くこれを間断なく抑留し且拘束すべき所の思念を己れに有するあらずんば易々やすやすとして妄想に投じ罪の思念をむさぼりて禁ず可らざらん。

百四十六、 直覚と認識とは常にもつとも完全なる生活の嚮道者きょうどうしゃとなり又原因者となるなりけだしこれをもて高きに取去られたる心は地上の逸楽とすべて五官をたのしましむる此世の滋味とに対することなほ無可有の物に対するが如く充分にこれを軽んずるによる。

百四十七、 ハリストス イイススによりて成る所の注意的生活は直覚と認識の父たるなり、且其の婦たる謙遜と配偶して神出の上昇ともつとも賢明なる思念の父母たること神の預言者イサイヤの言ふが如くならん曰く『主を恃む者は力を得ん翼を張りて』主に高飛せん〔イサイヤ四十の三、十一〕。

百四十八、 人々にはなはだ厳にしてかつはなはだ苦しく思はるゝものは心に於てもろ〳〵の思念より黙することなり。これ実に難くして且病ましきなり、けだし無形なるものを有形なる家に繋ぎかつとどむるの病ましきに至るまで苦しかるべきことは独りたゞ霊神上のたたかひの奥密にあづかり知らざるものゝみにあらず内部非物質的のたたかひに熟練したる者にも亦同じかるべし。然れども間断なき祈祷をもてイイススの懐に於て給養をうくる者は預言者のいふが如く『彼れに従ひて煩はされず且人の目を願はず』〔イェレミヤ十七の十五〕、イイススの愉快なると甘美なるとの故により其の敵即ち己の周囲に徘徊する所の不潔の鬼にぢず且心の門に於て彼等につげて〔聖詠百廿六の五イイススをもて彼等を後に逐攘おいはらはん。

百四十九、 霊魂は死後大気にし天上の門に高く飛揚して彼処にハリストスを自ら己れに有しつゝ自ら其敵にぢざらん、且其時にはなほ今日の如く侃々かんかんとして門に於て彼等にげん。たゞ其の逝世に至る迄霊魂は主イイスス ハリストス神の子を日夜呼んで倦まざるべし、さらば主は其のはらざる神たる許約の如くすみやかにこれに報ゆるを為さん、不義なる裁判官のたとえに於て主はいへらく『視よや汝につげんすみやかむくひさん』〔ルカ十八の八〕と、現生に於てもかくの如くなるべく又其の体より出でし後に於てもかくの如くなるべし。

百五十、 思想の海に浮びつゝイイススによりて侃々かんかんたるべし、けだし彼は自ら汝の中に於て、即ち汝の心に於て奥密に汝に左の如く呼ばん、我が童子たる小なる「イズライリ」よおそるゝこと勿れ、むしなる「イズライリ」よおそるゝこと勿れ、我れ汝を保護せんと、〔出埃及四十一の十四〕。けだし若し神が我等と共にするあらばいかなる悪者や我等に敵する。心の清き者に祝福し且律法を定め給へる神は我等と共にすべくいと甘美なるイイスス独一清潔なる者は神妙に清き心を感動してこれにやどらんことをほつし給はん。されど神のパウェルがいへる如く己の心を敬虔に練習するをやめざらん〔ティモフェイ前四の七〕。

百五十一、 己が心に於て不義を裁判し人の相貌を採らざる者、即ち狡猾なる悪鬼の形像を採らざる者且此の形像によりて罪を謀らずなほ己が心地に臨みて厳に裁判し且宣告して罪に當然を報ゆる者は太闢ダウィドの如く平和の多きをもてたのしまん〔聖詠三十六の十一〕。大なる且賢明なる神父等の其書に於て魔鬼を人と名づくるも其の怜悧なるを以てなり。されば主も福音経に於ていへらく悪人これをす即ち麦中ばくちゅうひえけりと〈これ即ち魔鬼を指すなり、けだし後文にいへらくく者は魔鬼なりと〉。けだし我等はかくの如くなる悪の行為者を直ちに捍禦かんぎょせざるによりそれが為めに思念の勝つ所となるなり。

百五十二、 もし智識の注意により生存するを始めて謙遜を儆醒けいせいと配し祈祷を捍禦かんぎょがつするあらば思想の途によりて善く進行せん、光のともしびと共にするが如くイイスス ハリストスの崇拝せらるべき聖なる名と共にして罪を棄て且潔むることをも己が心の家を飾り且よそほふことを為すあらん。されどももしたゞ自己の清醒又は注意にのみ依頼するならばすみやかに敵の侵襲にかゝり衝落つきおとされて倒れん。さらば其時此のもつとも狡猾なる姦悪者は全く我等に克つべくして我等はいよ〳〵ます〳〵悪なる思念に包まるゝこと網に包まるゝが如くなるべし、或は勝敵の劒即ちイイスス ハリストスの名を自ら己れに有せずして彼等が非常なる刺殺に容易たやすく罹るべし。けだしたゞ此の聖なる劒はすべての形像をむなしうしたるの心に断えず旋回して彼等を敗走せしめこれを斬りこれをき且これを滅すこと火の枯草をくが如くなるべければなり。

百五十三、 心を尽して多くのを産すべき間断なき清醒の行為は智識の中に形づくらるゝ想像の思念を直ちに看破するにあり。捍禦かんぎょの行為は何か五官を楽ましむるの物を思ふの想像によりて我が智識の空気に入らんと欲する思念を責證してはぢひらかしむるにあり。又これと同く抗敵者のもろ〳〵の計謀ともろ〳〵のことばともろ〳〵の妄想ともろ〳〵の偶像ともろ〳〵の悪の塔とを直ちに消滅せしむるは即ち主を呼ぶにあり。さらば我等はイイスス我等がおほいなる神のいかに有勢にして彼等を撃敗うちやぶると謙遜なる貧なる且まつたく不用なる我等をいかに保護するとを自ら智識に於て見るあらん。

百五十四、 我等が思念は五官を楽ましむる物と世に属する物の一妄想的形像のみにして何も他物あるにあらざることは多くの人此を知らず。されど我等清醒して祈祷に奮起する時は祈祷は我等の心をあしき思念のすべて物体的形像より免れしめてこれに敵のことば〈或は敵が謀る所の攻撃の間号あひことば或は企図〉を知らしめ祈祷と清醒のこと〳〵くの益を覚知せしむるなり。『汝たゞ目を注ぎて不虔の者のむくひ〈心の不虔なる者のむくひを心にて自ら〉見ん』〔聖詠九十の八〕とは是れ神の唱詩者太闢ダウィドの言ふ所なり。

百五十五、 出来るならば死を不断に記憶せん、けだし此の記憶により我等にすべてのしんきょとをだつすることゝ心を守ることゝ連綿たる祈祷と身体にへんせざることと罪を憎むことゝを生ずればなり、而してもし実にいはゞすべて霊活なる実験上の徳行は大概彼れより流れづればなり。故に願ふ出来るならば此事の我等が感動にえず存すること我等の呼吸の如くならんことを。

百五十六、 妄想より全く離れたる心は神妙不可思議なる思念の生じて其の内部に遊ぶこと静海に魚の遊び海豚いるかの躍るが如くならん。海は微風にて吹上ふきあげられ心の淵は聖神にて吹上ふきあげらるゝなり。『汝等なんぢら既に子たることを得しがゆえ神はそのの霊を汝曹なんぢらの心に送り「アバ」父と呼ばしむ』〔ガラティヤ四の六〕。

百五十七、 凡そ修道士たる者は先づ智識の清醒を立てずんば霊神上の行為に着手するに遅疑ちぎ躊躇ちゅうちょすべし、これ其の行為の美をいまだ知らざるによるか或は既にこれを知るも怠慢の故にこれを為すに薄弱なるに因るなり、されども此の躊躇は智識を守るの行為に入る時は必ず散ぜん、これ思想哲学と称し或は智の実験哲学と名づくるなり。此の行為に由りて彼は主のいふ所の途を得ん、曰く『我は途なり真実なり生命なり』〔イオアン十四の六〕。

百五十八、 彼は思念の淵とワビロンの小児の群とを見て再び躊躇せん、されども此の躊躇も心の基礎を不断にハリストスもといづけワビロンの小児を石にて撃ちてこれをほうする時はハリストスは必ずこれを散じ給はん。主のいへらく『蓋し我れなくんば何も行ふこと能はず』〔イオアン十五の五〕。

百五十九、 清醒を保つ者は実に眞の修道士なり、而して心に於て修道士たる者〈其心にたゞ己れと神とのみある者〉は眞の清醒者なり。

百六十、 人の生命は年月、週間、昼夜、時刻の代替と共に前進するなり。これと併せて我等は徳業をも前進せしめざるべからず〈完全に〉。徳業とは清醒と祈祷と中心の甘美と併て我等がるに至る迄守る所のくつとうなる静黙をふなり。

百六十一、 死期は我等の上にもつひに臨み来らん、我等これをのがるゝこと能はず、嗚呼あゝ世界と空気との王が其時に来りて我等が不法の微小なる且は無なるを見て我等を公明に責むる能はずんば可なり。然らずんばたとへ益無しといへども其時に痛哭つうこくせん。けだし主のいひし如く『其の主人の旨を知りて行はざる僕は打たるゝこと多からん』〔ルカ十二の四十二〕。

百六十二、 わざわいなるかな心をめつしたる者よ。彼等は主の巡見し給ふ時何を為さんとするか〔シラフ二の十四〕。されば兄弟よ益々ますます奮熱して心の業に着手せん。

百六十三、 多欲なる思念は単純にして無欲なる思念にしたがつて生ずること久しき実験と観察とにより我等がる所なり、前者は後者の為めに入口となり、無欲なる思念は多欲なる思念の為めに入口となるなり。

百六十四、 真実に人は甘んじて己を両断すべくもつとも賢明なる思念をもて己を裂くべし、実に人は自己の為めに和すべからざるの敵とならんこと當然なり。誰か己を極めて凌辱憂苦せしめたる人に対して如何なる心地を有するか、我等も至大第一の誡命を行はんとほつせば、即ちハリストスの生涯たり人体をれる神の生命たる所の有福なる謙遜を成さんと欲せば亦前者と同様なる或はそれよりもなほ悪しき心地を有すべし。故に使徒はいへらく『誰か我を死の体より救ふか』〔ローマ七の廿四〕『けだし神の法に従はず』〔ローマ八の七〕。又身体を克服してこれを神の旨の下にあらしむるは我等の務むべき行事の一たるをあらはしていへらく『我等もし己をさばきしならば罰をこうむることなかりしならん、されど今罰せらるゝは主の我等をらし給ふなり』〔コリンフ前書十一の三十一、三十二〕。

百六十五、 豊熟の始は花なり、而して智識の清醒の始は飲食を節するともろ〳〵の思念を棄て且絶つと中心の静黙となり。

百六十六、 我等ハリストス イイススにより力を得て堅く卓立し清醒に進行するを始むるや其時先づ我等が智識にあらはるゝものはあたかも或るともしびの如く智識の手にて我等をして我等を思想の路に導く所のものなり、次は光明なる月の如く心中の穹蒼きゅうそうに廻転する所のものなり、終りに太陽の如きもの、即ちイイススなり彼は恰も太陽の如く義をもててらして自ら己れをあらはし又其の光明ならざる所なき洞察の光をあらはすなり。

百六十七、 これぞイイススが其誡命を忍耐して守る所の智識に奥密に啓示し給ふものなる、曰く『なんぢかたくななる心に割礼を行へ』〔復傳律令十の十六〕。然り、勉励なる清醒は人に奇異なる真理を教ふるなり。故に主はいへらく『なんぢ我れに聴きてこれをさとれり、それ有るものはこれをあたへて余りあらしめ有る無きものは其の有る所をも奪はるゝなり』〔馬太十三の十三〕、使徒は又いふ『すべての事は神を愛する者に咸々ことごとく働きて益をなさしむ』〔ローマ八の廿八〕。してもろもろの徳行は我等に其の進歩を助くるあらざらんや。

百六十八、 舟は水なくんば前進せざるべし。智識の守りも清醒と謙遜とイイスス ハリストスに於る不断の祈祷なくんば少しくも進歩せざらん。

百六十九、 家屋のもといは石なり、然して此の徳行〈智識の守り〉もといたるもの又そのいただきたるものは我等が主イイスス ハリストスの崇拝せらるべき名なり。ふうの時にあたり船長を解放しかいとを海に投じて自らねかゝる所の愚なる舵人かぢとりすみやかたやすく破船に逢ふべし、されど附着の起るにあたり清醒とイイスス ハリストスの名を呼ぶことを等閑にする霊魂は魔鬼の為めに溺没せしめらるゝこと更にすみやかならん。